ヴェルディ、代表、グラドル、漫画、アニメ、等
今週のモーニング(’09.7.2)とかアニメとか
2009年07月03日 (金) | 編集 |
mor090702

オフィシャル

ああそうか、「研究所」という手があったか。
いつか使うかも知れません、ブログ名変更の際に(笑)。他にもいくつかパターンが考えられるな、うん。
色彩的には、”青””赤”の発色をもう少し抑えないと、目がちかちかするだけで色気も糞もないというのが率直な感想。バドガールとか好きな人には、いいかも知れませんけど。は緑で、ややオバサンぽくというかデブっぽく見える傾向はあるんですけどね。「秩序」と「調和」の色なので。

新規アニメ早くもスタート。
6/26(金) 『うみものがたり』
 意外といいかも。方言がエロい。
7/1(水) 『青い花』
 良さそう。万城目ふみちゃんの”怒る”ところがいい。絵的にはほとんど出て来ないんですけど。女の子怒らすの大好き。(笑)
7/2(木) 『うみねこのなく頃に』
 その前のハルヒの途中から寝てしまって断片的。
 しかも真理亜ちゃんの泣き方が耳触りで目が覚めたという最悪の出会いで、おうおう、殴ったれ殴ったれと思いながら、そのまままた爆睡(笑)。後でもう一度確認します。
7/2(木) 『大正野球娘。』
 というわけで全寝。すまん。(笑)

エヴァンの再放送も何となく見てみましたが、”人間”パートの絵がやたら古く感じて、最初真面目に、ギャグ調のパロディ・アニメか何かだと思ってしまいました。”シャープ”とか”モダン”で売ってしまったものは、後で辛くなりますね。オリジナルガンダムなんて最初から野暮ったいので(笑)、逆に全然気になりませんが。
『カレカノ』(’98。エヴァンは’95)も確か去年あたりにまた見ましたが、こちらは全然古く感じませんでした。まあ元々断然こっちの方が好きですけど。
エヴァンはせめて毎週戦ってくれれば、つまりは毎週一匹怪獣を倒してくれれば、もう少し熱心に見ただろうと思います。何も無かった週は怒り心頭。・・・・戦闘シーンがウルトラマンぽいというのは、知らないけど当然さんざんガイシュツですよね?

と、いうようなおおむねネガティヴな印象を、今夜放送の劇場版は覆してくれるのか。


『蹴球魂+1』

「それだけじゃないですか!高過ぎます!」。自分の採点が高過ぎると文句をつける大黒凄っ。(笑)
サカダイ川原編集長インタビュー。
まあ真に「自己責任」で「自発的」にプレーしてるということですよね。批評家体質というか。廣山もそうでしょうし、山田直輝もそうだと思いますし、多分藤田(今のウチのね)もそう。”判断の積極的な”選手というのは、特に日本人だてらに。「承認」は他人任せではなくて、自分でする。それで”足りる”というか。
ヒデはそれが行き過ぎて、”独りよがり”の域まで行ってしまった選手?

『勝間和代の「誰でも出来る」日本支配計画』

勝間さんは本誌の写真だと肝っ玉母さんみたいですけど、生テレビで”生”で見ると、割りと可憐というか少女性を残しているというか、僕十分イケます。(笑)
・・・・探してみてもそうい写りの写真無いなあ。まだ立場的にビクビクしていたから、(そう見えたの)かも。正直もっと、ちゃんと喋って欲しかったですけどね。(公式ブログ)

『シマシマ』

うーん。いつまで続く”恋のさや当て”編。
それはそれでいいんだけど、「偶然(の目撃)」「行きがかり」任せだと、ほんと付き合ってられない。全然ドキドキなんてしない。純・婦女子用。
俺は必然にしか興味はねえよ。
リンダに喋って、ちょっと後悔というとこだけリアル。

『僕の小規模な生活』

触わんなって。
浮かんで来るのは、「ロマンポルノ」、または「ATG作品」とか、純・日本映画的な風景、空気感。

『誰も寝てはならぬ』

扉絵の(女の)”肩”の見せ方の時点で、何か不吉な予感はしていたよ、マキオ。
何とも言えず垣根が低そうで。単に。
まさかこの後突撃?
”山登り”というより”ドブさらい”でしょ。もしくは海底探査。>恋愛
視界は悪いは呼吸は不便だわ。ほんとに宝物かどうか、水中ではよく分からないし。(笑)
「先祖返り」って要素もあるか(笑)。こりゃ上手い。(?)

『かみにえともじ』

「ふおお・・・・・・!」てのが好きです。もとたにかわいいよもとたに。
「嘘、つかれてるのかな?」てのも。
そりゃお腹泣くよね。
ある額以上の食事って、限りなく”風俗”に近付きますよね。行為として。

『35歳のハローワーク』

図書館は確かに、作家さんたちに申し訳ない気はするんですが、「健康で文化的な最低限度の生活」を保証する類の”福祉施設”だと、そう考えるべきなんだと思います。
よし、一般書については、一定以上の収入のある人は、利用出来ないようにしよう!(笑)
駄目?


こんなにコメントどころが少ないなら、あれやれば良かった。
また来週。


『カノン』のカノン(結)
2009年07月02日 (木) | 編集 |
(はじめに)(その1)(その2)より。

カノン (文春文庫)カノン (文春文庫)
(1999/04)
篠田 節子
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早いでしょ今回は。単に引用部分が多いだけで、論旨は繰り返し(≒カノン)が多いのでね。(笑)


結末

自らの人生の空虚の自覚に打ちのめされて、仕事も妻子も打ち捨てて叔父の営む穂高の山小屋に引っ込んでしまったらしい正寛。訳も分からず残された妻は無理心中を図り辛くも助かるが、一人正寛の心境を知る瑞穂は責任を感じ、素人の身を顧みず正寛を探しに山へ登る。
途中雷雨に見舞われ逆に正寛に救われるも、結局二人共に立ち往生し、死の危険が近づく。そのさなかの瑞穂の絶叫。

p.390

「嘘をつくのよ」(中略)
「無理して登ってきた人生なら、死ぬまで登り続けなさい。自分の心に嘘をついて生きてきたっていうなら、死ぬまで嘘をつき通しなさい。演技だってなんだっていいのよ。美佐子さんにも子供にも、有能な夫、思いやりのあるお父さんでい続けなさい」



その時ついに落雷が至近距離に落ち、正寛をまともに捉える。虫の息でつぶやく正寛。

p.392

「死ねない・・・・・・子供がいるんだよ・・・・・・。こんなところで死ねないんだ。今頃わかるなんて、まったく」
声が震え、小さくなっていく。



瑞穂にも確実に危機は迫り、終わりを覚悟したその時。

p.393

突然、自分の体が無限の闇に吸いこまれ、ばらばらになっていくような感覚に襲われた。覚悟もあきらめもない。狂おしいばかりの虚無感に捕らえられ、瑞穂は上半身を起こし、獣のような叫び声をあげていた。(中略)
張りぼてだ、と思った。自分の生きている世界こそ、張りぼてだった。
自分の三十九年の生にどれだけの意味があったか。
家族、音楽、教え子たち、心を通わす多くのもの。それらにどれほどの実在感があったのか。心の共感と情熱を持っていたのか。自分の抱え込んだ感情自体が、自分の外の世界に作った張りぼてだった。それを抱えて、歩いてきた。
くすぶったまま、消える火。雨に打たれた汚らしい燃え殻。自分はまさにそれだと思った。


”心”と心の”底”の区別というのを、みどりのろうごく公式用語集に入れておきましょうか。(笑)

今思い出しましたが、そう言えばちょっと前に自分でこんなことも言ってましたし。

それを、御手洗の言いたいことを、心のではレオナも分かっているということを、このベット・ミドラーの曲を通じて、レオナは伝えているという、そういう場面ですね。

ただ、”心の底”は、「底」でしかないんですよね。それで生きられる人と、生きられない人が、少なくともいる。御手洗にはそれで十分でも、レオナには・・・・(御手洗の言う)「女」には・・・・。


別に布石だったわけではないですが。

これもネタバレを控えますが、とにかく2人は奇跡的にこの場から生還します。
その道々の瑞穂の感慨。

p.396

無事にここから下りたとき、残りの二、三十年は、自分はこの人とまったく違う方向に進んでいくだろうという、予感がした。
築き上げた二十年を受け入れ踏み留まる決意と、それを崩し始める決意。


勿論前者が正寛で、後者は瑞穂です。




まとめ

要するに正寛は少なくとも表面上はそれまでの外向き人生の軌道に復帰し、瑞穂は逆に自らの内心の真実に忠実に・・・・具体的にどうするかは秘しますが、まあだいたい分かるでしょう。
ちなみに一番上の瑞穂のせりふは、内容的には”赤”=此岸サイドのすすめですが、”青”=彼岸サイドの本来的価値の認識の上に立ったものなので、”紫”にしてみました。

正寛の”選択”を対置することによって、一応最低限のバランスは取っていますが、ストーリーの流れからも明らかなようにこの『カノン』という作品で篠田節子さんは、”二項対立”の片側、僕言うところの「内面」と「本質」と「理想」と「天空」etcの側を、はっきりと選び取っていると言えると思います。
・・・・言ってしまえば正寛には、そもそも選択肢がほぼ無かったわけですならね、才能(の種類)という点で。逆側の価値自体はうっすら分かっていたから、康臣と友人にもなれたわけでしょうけど。ある意味悲劇的な人です、食えもしないものの味を理解してしまう。

とにかくこれは、現代の普通のストーリーの基準からも、僕が読んだ篠田節子の他の作品の基準から見ても、異例なほど”強い”結論だと思います。言わばストレートに、「正義」が「勝って」しまっているわけで。
哲学的には「深層」に「真実」があるという、単純過ぎて危険な、あるいは古臭くて野暮ったい認識のスタイルであると、構造主義以前、サルトル実存主義的な流行らないスタンスだと、標準的には多分言われるものだと思います。

勿論そういうことは篠田さんも分かっているはずです。しかしそれでも訴えたい、「内面の真実」があった、芸術至上主義的な「衝動」があった。
ここらへんについて、この作品の文庫版の解説を書いた”ピアニスト、ドビュッシー研究家”の青柳いづみこさんは、こんなことを言っています。

篠田節子は、趣味でチェロを弾く。だから巧みな音楽小説を書く−−−−そう思われている。しかし、趣味で楽器を弾く作家は沢山いるし、クラシック音楽を題材にした小説も数多くある。その中で篠田節子の作品がどう違うのかというと、彼女はプロフェッショナルな音楽家の傷みを我がことのように知っているのである。まるで、長いステージ活動の過程で、演奏や音楽の”魔”をかいまみてしまった人のように。


こういうこと、ある種の真摯な”知ったかぶり”ということがありうるということを認めてもらわないと、それこそ僕のように、自分は何のプロフェッショナルでもないのに、様々なタイプの”天才”や”才能”や”技能”について語りたがるタイプの人は困ってしまうわけですけどね(笑)。見たんかい?いいえ、見てません。

でも多分”魔”とは見たり聴いたりするものではなくて、いるもの、構造としてあるものだと思います。だから訓練しても駄目な奴は駄目。しなくても分かっている人は分かっている。

事実は、おそらく逆であろう。(つまりチェロが弾ける”から”ではない)
”魔”は最初から彼女の中に棲みついていた。音楽がそれに出口を与えたのだ


プロフェッションやジャンルそのものは、「出口」の問題。だからアマチュアの批評にも意味があり得るのだとまあ、こういう話ですが。
・・・・”音楽”という枠で言えば、僕が主に聴くのはロックという、言語脳の影響の強い雑種の音楽です。しかしそれを通しても、(クラシックのような)より純粋で形式的な音楽に含まれている”真髄”を予感する瞬間はありますし、透かし見ることはある程度出来ると思っています。(逆に何の見透しも無い人がいくら”聴い”ても....)

と、いうことが言いたいわけではなく。本題。
 なぜ篠田節子は『カノン』で”カノン”を奏でたか。
 同一テーマ、同一メロディを執拗に繰り返したのか。同じ二項対立に踏みとどまり続けたのか。

それは、その二項対立の片側を選び取るという、強い結論を提示する為、その決意があった為。
そのともすれば浅薄にも見えかねない、危うさのある主張に説得力を、品格を持たす為。その為に、”逆”側も含めて徹底的に掘り下げて、それを並列提示する周到さが必要だった。そういうことだと思います。

ただ見落としてはいけないと思うのは、今回「敵」役を割り振られた”逆”側、”表層”の現実側について篠田さんが書いていることも、(一部を除いて)十分に本気で肯定的な意味を持っている/持たせているということです。一面以上の真実として書いているということです。それ以上に、”魔”のもたらす衝動が、圧倒的なだけで。
だからこそ、読んでいる最中、「これが最終的な立場なのか?」と度々僕は動揺(笑)し、相当読み進んだ後でもしつこく篠田さんの振る振り子に振り回され続けたということ。単に上手いというのもありますが。

実際篠田さんには、代名詞的な芸術・宗教・幻想系のもの以外にも、いかにも”女性作家”的な風俗/生活感系、ビジネスウーマン系のものなども多数あり、他ならぬ直木賞を受賞した”代表作”『女たちのジハード』

女たちのジハード (集英社文庫)女たちのジハード (集英社文庫)
(2000/01)
篠田 節子
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などもむしろそっち系の作品です。さすがにそれで直木賞をとってしまったことについては、本人も多少不本意というか、なんのこっちゃみたいな部分はあったみたいですけど(笑)。(Wiki)


いや、実際大したものだなと。
ついこの間まで島田荘司/御手洗潔の、思わせぶりで独りよがりな文章に悩まされていた(笑)者としては。なんて論理的で周到なんだ。
更に言えば、これは自分も含めてですが、ひとたび空の飛び方を覚えてしまうと、いい大人になっても飛びっぱなしで、滅多に地上に下りて来たがらない、困ったちゃんの”男のロマン”派としては。
だって気持ちいいんだもの、空飛ぶの。下りて何があるのよ。ねえ?キヨシ。

篠田さんとて”魔”を抱えた身ですから、粘り強く地上生活との付き合いを描いている様子は、決してそれ自体として本意には見えません。
ただ何か、ある意思を持ってそれをやっている迫力は、感じられます。当面は、いざ”魔”と正面から向き合った時の筆致の厚みや、外堀の埋め方の説得力などでしょうが。しかしそうした実利とはまた別に、一種の”ワーク”的な、あえて踏みとどまっているそういう妙な達観的姿勢も感じられます。
不思議な人です。前はそこらへんが何か、中途半端にも見えたりしていたんですが、侮っていたようです。

”市役所勤務を経て朝日カルチャースクールの小説執筆講座にて学び・・・・”という経歴からは、それこそいまどきオンナの自分探し的転身みたいな臭いも感じられるわけですが、どうも全部ひっくるめて人生設計なんではないかと、予定通りなのではないかと、そう思わせるようなしたたかさ骨太さが、作品からは感じられます。最初からいっさい、甘さが無い。足元しっかり、しかしいざ空を飛ばせたらそれも超一級。
かわいくない(笑)。でも素敵です。ようやくバイオグラフィの半分を制覇したところ。しばらくハマりそうです。

『カノン』はその割合初期(’96)の作品。
その後『ゴサイタン』(’96)で山本周五郎賞を、『ジハード』(’97)で直木賞を取る、言わば最初のピーク直前の。
好き嫌いで言えば同じ音楽小説系なら、『ハルモニア』(’98)のストレートな美しさの方が好きですね。
でも圧倒されたのはこっちの方。憎ったらしいというか。(笑)


『カノン』のカノン(その2)
2009年07月01日 (水) | 編集 |
(はじめに)(その1)より。

基本的には同じテーマを、”音楽””芸術”という中心的モチーフと絡めて、よりピンポイントに。


「音楽」と「創造性」

まず現在。熱心で模範的な、「小学校の音楽教師」としての瑞穂の音楽観。

p.8

「すてきなものをすてきと感じる素直な心のアンテナを持った子供に育ってほしい。それが音楽教育の役割」
各種の研究会でも、父母に対しても、瑞穂はそう訴え続けてきた。


大切なのは、子供の創造力をどのように伸ばすのかということ。音楽は喜びだ。高得点を取るためにしのぎを削るようなものではない。芸術の名のもとに地獄の淵を覗かせるものでもないし、健全な魂や生活と引き換えに得る病的な楽しみでもない。


こいつが主人公かよと、この時点では暗澹たる思いにかられましたが。(笑)
こんなあっさい話、付き合ってられん。

しかしかつての瑞穂、プロを目指していたチェロ奏者としての瑞穂が感じていたものは・・・・

p.30

しかしそれ以上に、この厳格な対位法に基づいて書かれた曲を、瑞穂は好きだった。作品の楽理上の解釈の難解さには辟易するが、それが言語に置き換えられることなく、いくつかの音の連なりとして耳と手に認知されるとき、自分の内側に壮大で完璧な、実体としての音楽が生成してくるのを感じる。
瑞穂の心を音楽に向かわせるものは、(中略)音楽それ自体に触れた瞬間の、噴き上げるばかりの歓喜であった。



ほとんど自閉症的な感情反応しか示さない康臣との恋の悩みも、音楽の絶対性は軽々と飛び越える。

p.46

康臣の意味不明な日本語によって感情が触れ合うことはもはやない。ただ二台の楽器が交錯する場面でのみ、激しい高揚感がある。恋の迷いを一瞬の内に突き抜け、深い歓喜に酔う。そのとき瑞穂は自分の遙か高みに、揺らぐことのない絶対の美が見えるような気がした。



後に唐突な肉体関係が結ばれ、にも関わらず全く康臣の態度が変わらずに最終的な絶望感を味わってからも、些かもその音楽的交感は妨げられないどころか、むしろ研ぎ澄まされて行く。


康臣の”テープ”の影響で現在の安定が壊され、かつての感性が甦って来ると、「音楽教育」についての瑞穂の考え方/感じ方も変わり始める。

p.238

スクリーンの上に繰り広げられる光景に抵抗を感じ、瑞穂は目を閉じた。子供の尻によって叩かれた鍵盤の不協和音が会場内に響き渡った瞬間、胸の痛みと吐き気で気が遠くなりそうになった。


いつものように参加した研修会での、”自由で創造的な音楽教育”のモデルケースを映したビデオを見て。

p.240

どの子も音楽が好き・・・・・・音楽は人の心を開いてくれる・・・・・・音楽は・・・・・・。
嘘だ。何もかも。
不意に、にっこり笑っていた顔の筋肉がひきつれてくるような感覚に見舞われた。精一杯テンションを高め、ことさら元気に子供や家族と接している自分の姿が、薄い皮膚を隔てて剥離していく。


嘘だ。何もかも。”剥離”していくもの、その名は「人格」?


『ナウシカ』をめぐって

こうした問題の直接的な例として、なぜかというか何というか、ピンポイントで映画『風の谷のナウシカ』とその音楽についての葛藤と反転が、描写されています。

p.302

短調のメロディーに甘い悲しみの感情が込み上げてくる。拙いなりに真剣な児童の演奏には、心を打たれる。
数年前、器楽クラブの子供たちにつきあって見に行った「ナウシカ」のいくつものシーンがよみがえる。美しい物語だった。あの世代の子供たちはとうに卒業させた。それでもいいものは残る。今、演奏している子供達全員にその感動が伝わっているのがわかる。


つまり教材として、ナウシカの楽曲をアレンジしたものを子供たちに演奏させているわけですが・・・・
もう302ページですが(笑)、正直この場面では、しつこく篠田さんに落胆というか、見識を疑いかけました。
ナウシカ?別に悪くはないけど、他ならぬ篠田節子があえて取り上げて讃えるような作品か?
少なくとも僕には要するに”どっちでもいい”類の作品であるし、僕の理解が間違っていなければ、篠田節子にとってもそうであるはず。違うのか。ふーん。ちぇっ。

ところがその直後、突如瑞穂の脳裏に流れ込んで来た(復元後の)”テープ”の康臣の「音楽」の幻が、事態を引っ繰り返します。

瑞穂のタクトが止まった。旋律が体を走った。恐怖ではない。圧倒的な感動に、全身が凍りついた。
少し前の情緒が、意図的に作り出したものだということがわかった。子供達と見たあの映画の感動は、決して自分の心の内から発生したものではなかった。感動しようと意図した結果に過ぎない。いい教師に、いい社会人に、いい母親になろうとした二十年が、そこにある。
人は愛そうと努力して愛することもできるし、感動しようとして感動することもできる。人格も感情も意志によって作り上げることができるし、心の深部に何かを封印し、墓の中まで持っていくこともできる。
しかしそうして作り出した情緒は、一時的な気分に過ぎない。気を抜けばたちまち虚無の海に沈む。


嫌なことを言うようですが・・・・。
「意図的に作り出した」「愛」や「感動」が、何かの弾みでつっかえ棒を失って「虚無の海」に沈むという現象は、他でもない僕がヴェルディ(や一部代表チーム)を対象として、毎年1,2回は実演して見せているその現象ですね(笑)。ああもう、知らん、と、ちゃぶ台返し。
僕はヴェルディを愛しているかって?うーん、”人格”的にはね。「いい教師」としての人格、「いい社会人」としての人格、「いい母親」としての人格、そして!「いいヴェルディファン」としての”人格”。ただそれは”本質”、「心の内」から発生しているものではない。基本的には。
それなりに本気ではあるんですけどね。少なくともそもそもが人格でしかない、”アト”さんにとっては特に。
ただ僕自身は・・・・。だいぶ浸食されてるような気も、一方でしますけど。(笑)
まあこれ以上、野暮は言いっこなしという感じで。これからもアトさんは、頑張るでしょう。

要は”本質”的な感動を得たいとなったら、途轍もなくハードルが上がって網の目が細かくなって、それを潜り抜けるのは別にヴェルディじゃなくても至難の技で、ハナから特定チームに定点なんてやり方自体が、そぐわないんですよね。あくまで広い意味での”付き合い”、社会的な行動でしかないということです。最初のアプローチからして、異なって来るということです。
ただ”社会”のほとんどの構成要素はそういうもので、それを抜かすとやること/やれることは、恐ろしく限られて来る。・・・・まあ別にいいんですけどね(笑)、限られても。ともかく社会は、本来的に”人格”のもの。カエサルのものはカエサルに。(これ好きだね)

”ナウシカ”という篠田さんの例示が持ち得る一般性にはいささか(かなり)不安がありますが、とにかく「芸術」(音楽)と「感動」と「人格」の関係について、余り見た記憶が無いような根本的な記述のなされている箇所だと思います。いいのかね、という気もしますが。名指しかよ。多分何かしら、臨界的なサンプルなんだろうなと思いますが。良心的な頑張ってる作品で、それゆえに逆に、”物足りなさ”が際立つという。
とりあえず僕が、篠田さんへの信頼を失わないですんだのは、確かです。(笑)

『カノン』のカノン(その1)
2009年07月01日 (水) | 編集 |
(はじめに)より。

ストーリー&瑞穂(ら)の認識の流れを、登場順にチャートっぽく。


人生と仕事、才能と知性 〜瑞穂

冒頭。現在。康臣との出会いから約二十年後。

p.14

自分の子供の他に、専科で担当する三百人からの小学生を相手にしているうちに、瑞穂のほっそりした両腕にはたくましく筋肉がつき、透き通るように白かった頬は陽に焼け、ささやくような細い声は、体育館全体に苦もなく響きわたる大きな地声に変わった。


瑞穂は自分を大地に根を張り、太い幹を立てて大きく分厚い葉を茂られせている一本の木のようなものだ、と思う。その大きな葉陰に歳老いた母親と喘息持ちの一人息子と、ときには夫まで、宿らせる。届かぬと知りつつ遥かな天空に手を伸ばしていた、憧れに満ちた若木の時代は、とうに終わっていた。


p.14−15

人生が、二十歳の頃に考えていたものとまったく異なるものであったことに、瑞穂はいまさらながら驚く。過ぎ去ったあの夏とその前後数ヵ月は、今、瑞穂にとって、これといって懐かしいものでもないかわりに、忘れたいと痛恨の思いも抱かせず、せいぜいが「そんなこともあったか」と苦笑してすませられるものでしかなくなっている。



p.24

難解な言葉を並べたエッセイとも、評論とも、自叙伝ともつかない康臣の文章に、学生時代の自分の目にまばゆいばかりに映じた彼の才気の正体を知らされる思いがする。


・・・・最近になって送られて来た、”中年”の康臣製作による同人誌の文章についてのコメント。

時間は飛んで学生時代の回想。
康臣とは何から何まで対照的な「成功者」正寛の、若き日の姿について。

p.72

本当の頭の良さというのは、このように難解な話を整理し、求められればごく普通の言葉に変換し語れることであるし、それが一般社会で認められ、受け入れられる知性であるということを今の瑞穂なら知っている。



現在に戻って康臣の死。その葬儀にて。康臣の弟との会話。

p.114

「兄が物事をつきつめて考えていたとは、僕は思いません。現実から逃げていただけです」
こちらだってわかっているんだからそれ以上言うなと、言うように、瑞穂は首を横に振った。
 



・・・・ここらへんまではほぼ一方的に常識・社会サイドに立った物言いばかりで、どうしても康臣に感情移入せざるを得ない(笑)僕としては、痛いというか何のつもりだ篠田さんというか。
過去作の傾向からこれで終わるはずはないと分かってはいても、かなり本気で嫌な感じでした。間違ってはいない、間違ってはいないけど....


しかし例の康臣の”テープ”の影響が、徐々に瑞穂たちの現在の「安定」をかき乱し始める。
それはまず本人も意識しない、外面の印象の変化から。

p.164

十数年の年月は、瑞穂の内面からも容貌からも、女らしいある種の危うさ鋭さを削り取っていった。気性のさっぱりした「いい人」と言われ、周りの人間は同性異性を問わず安心してつきあってくれる。
しかし今、時間とともに消滅していったはずのエロスが、急速に身体の中に戻ってきている。



康臣の意図からは離れたところで”逆回し”に録音されていたテープが正常に復され、そこに現れた音楽/演奏の究極とも感じられるクオリティに、瑞穂は心底からの感動を覚える。しかし・・・・

p.172

瑞穂は悄然として、回り続けるテープを見つめた。淋しかったのだ。(中略)
自分を見限り、着々と人生の階段を上って行くかつての友と、やはり全く違う方向に人生の拠点を築いたかつての恋人。恋人と呼べるかどうかはわからないが。
彼はあの頃の心のままに、仲間に出会いたかったのではないだろうか。


それはそれとして、まだ瑞穂は、自らの”成熟”や”完成”、康臣の”未熟”や”欠陥”性という構図は、維持しようとしている。同情からしか見ていないというか。

p.207

ひどく子供じみて、痛々しい姿だった。それなりに豊かな家庭とそれなりの才能を与えられ、恵まれた環境で育った男達。その彼らがなぜ大人になれず、大人になれない人々が逃げ込む場所は、なぜ「芸術」なのだろうかと哀しい気分になった。


康臣に例の自殺の方法を教え、かつその”遺作”のテープを逆回しにした張本人、基本独習の康臣の才能に圧倒され、ドロップアウトしたサラブレッド「奥山」が、その顛末を瑞穂に語り、最後には保っていた不敵なポーズを保ち切れずに泣き崩れるさまを見て。

一方で、こんな心境も芽生え始める。

p.209

生活者としての敗北と音楽的開花、その山の高さと谷の深さ。少し前なら哀れみの対象でしかなかった康臣、その彼の極めた音楽的頂点に、痛切な憧れを感じる。



『カノン』のカノン 〜はじめに
2009年07月01日 (水) | 編集 |
カノン (文春文庫)カノン (文春文庫)
(1999/04)
篠田 節子
商品詳細を見る


”カノン(canon)”とは

複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指す。
一般に輪唱と訳される。(厳密には違うらしい) ・・・・Wikiより。


一つのテーマからいくつもの音楽的実体を引き出す手法(の一つ) ・・・・作中p.45


と、いうような概念(特に前者)がこの作品の構成上の特徴のベースにあるということに気付いたのが、ようやく巻末解説を読んでいる最中だったというのは、いかにも迂闊でしたが。
そっかあ、輪唱かあ。静かな湖畔のグアッグアッグアッ。

なお、文学上の概念としても”カノン”というものはあるようですが、一切関係ありません。


篠田節子作品については、以前『ゴサインタン』を評した時(コメント欄)も、「善悪や価値についての構図が目まぐるしく転換して容易に”着地点”が見えない」という特徴を挙げました。
この作品もその極めつけの一つでありますが、その”極めつけ”性の内容としては、
1.「構図の転換」がかなり意識的でかつ作品の内容の中心をなしていて、ほとんど”叙述トリック”的に読者を翻弄する、ミスリードする。
2.しかしその構図そのものは単純明快かつ固定的で、ほとんど一つの「構図」の問題を、逃げも隠れもせずに執拗に追求している。

単純明快、なのに翻弄される、という話です。
つまりはある最初から出て来る一つのテーマ(↑)を託した構図が、手を変え品を変え、ある種整然と繰り返し登場してそのまま最後まで行ってしまう、そういう禁欲的なスタイルの作品。”剛直”というか。流れて来るメロディーは、たった一種類

ではどんなテーマを扱ったどのような構図かと言いますと。

例えば「内面」と「外面」、「本質」と「人格」。本来の自分と外向きの自分。
例えば「理想」と「現実」。例えば「天空」と「地上」。
例えば「個人」と「社会」。「子供(若者)」と「大人」。例えば「男」のロマンと「女」の・・・・

とにかくこうした普遍的ではあるけれど、一つ一つはありふれたやや面映ゆくもあるテーマを表した”二項対立”図式を、二項ほぼ代わる代わる、ほとんど二重人格的な公平性で力点を交替しながらそれぞれの正当性を検討して、しかし相対性にはとどまらず、明確に一つの強い結論を目指す。
またそのわざとらしいくらいの手続き主義的な過程の厳格さは、一見するとテーゼとアンチテーゼをそれぞれ定立する弁証法そのものなんですが、しかし特徴的なのは決してそれらは”アウフヘーベン”したりしないんですね、”ジンテーゼ”に至って「解決」とはならない。予定調和は存在しない。「成熟」という逃げはない。
あくまで一番最初の、最初からある”二項対立”のどちらかを選ぶことを課すという、厳しいというか息苦しいストーリー。行ったり来たり行ったり来たり。答えを出すまで出口なし。(笑)

これが珍しいなと思うのは、現代において”賢い””正しい”頭の使い方の重要な条件として、「出来あいの二項対立を真に受けない」「二項のどちらかを安易に選ばない」、そうではなくて問題の構図を自分なりに組み替えながら、間違いのもとである陳腐な対立図式に閉じ込められないように気をつけながら答えを探すという姿勢が、むしろ基本としてあると思うわけで、実際僕自身も日々そのように心がけている/習慣づいているわけですが(笑)、篠田さんは当然そんなことは百も承知で、しかしこの作品ではあえて、”選ぶ”厳しさにとどまっているように見えること。

なぜそんなことをするのかは、読み通してみると、だいたい分かったと思うんですがそれは最後に。


設定と登場人物

この作品は、「香西康臣」という、若くして(高校〜大学時代)眩いばかりの才能を示した、しかし極端に社交性や感情表現に欠ける天才的なヴァイオリン奏者が、演奏者として成功することもなく、生活に追われた落魄の末に悲劇的で奇怪な自殺を遂げ、その最後に残した演奏テープがそれぞれ中年期に至って安定した生活を送っていたかつての友人たちに巻き起こすトラブルと変化の顛末を綴った、一応”ホラー”と分類されるストーリーです。
まあはっきり言ってその”ホラー”的仕掛けの部分は読んでてどうでもいいし、はっきりした説明もつけられないまま最後まで行くんですが。

彼に巻き込まれる友人たちは主に3人。

小牧(旧姓・笹生)瑞穂 ・・・・大学時代の康臣の友人。自らプロを目指すチェロ奏者として康臣のヴァイオリンの才と共鳴し、またその恋人となることも望むが叶わず、現在はチェロの道も諦め、小学校の音楽教師としてそれなりに充実した生活を送っている。

小田嶋正寛 ・・・・高校以来の康臣の親友。一応ピアノも弾くが至って凡庸な腕で、しかし康臣と異なり実用的な知性や社交性を備え、国際弁護士として活躍。康臣とも切れ切れながら交際は続けていた。

岡宏子(ナスターシャ) ・・・・ナスターシャは通称。康臣と正寛の高校時代の友人で才色兼備の学園のマドンナ、2人共通の想い人でもあった。いっとき康臣と恋人関係にはあったが、卒業後は学生運動や社会奉仕活動にのめり込み、現在は行方不明。2人と何か命に関わる重大なトラブルがあったようだが....


小説としての主人公は瑞穂で、急死した康臣の形見として、彼女に遺族から演奏テープが渡されることから、物語は始まります。
そのテープは特殊な薬物を使って死の直前まで覚醒状態を保ちながら、康臣が最後の瞬間まで弾いていた彼のライフワーク的なバッハのあるカノンの演奏、を逆回しに録音したもの。それを再生すると康臣の幻影が現れて・・・・という、まあそんなストーリー。

以下それぞれの項目についての「構図」の変転、二「項」それぞれの追求のプロセスを、例によって引用方式で追っていきます。なるべく”解説”抜きで、分かるように。(笑)
具体的には上記例示した各図式の前者、言わば”彼岸”的サイドを青字で、”此岸”的サイドを赤字で色分けする形にします。


(その1)につづく。


’09.6月のブログ拍手
2009年06月30日 (火) | 編集 |
ちょっと忙しくて、昨日今日とまともに物書きする時間が取れないので、普段は月明けにやるこれを繰り上がりで。
あと唐突ですが、”ビデオキャプチャー”って、実際のところどれくらいの価格帯のなら、信用出来るギリギリの下限ですかね。いや、僕もそろそろ、動画くらい作ってみようかと。いくつか死蔵しておくのがもったいないVTRとかあるんで。以下本題。


1位 キリン杯ベルギー戦 (6/1) 26

2位 謎の消化試合豪州−日本戦 (6/18) 15

3位 福岡−東京V(’09) (6/28) 13

4位 C大阪−東京V(’09) (6/4) 12

5位 W杯最終予選ホームカタール戦メモ (6/11) 10
5位 東京V−湘南(’09) (6/25) 10

7位 富山−東京V(’09) (6/8) 

8位 W杯最終予選アウェーウズベキスタン戦メモ (6/7) 
8位 東京V−水戸(’09) (6/15) 

10位 仙台−東京V(’09) (6/21) 

11位 1989年前後の日本のロック10 (6/13) 
11位 『花咲ける青少年』いいよ (6/23) 

13位 安藤沙耶香さん(’09) (6/3) 
13位 御手洗潔と松崎レオナ(結) (6/6) 
13位 ”女”の地層 (6/9) 
13位 今週のモーニング(’09.6.11)と、”マクラ” (6/12) 


岡田ジャパンの乱高下とヴェルディの好成績に沸いた月?
まあとにかく試合数が多くて、書くのは疲れました。(笑)

トップの『ベルギー戦』の数値は何事かと思われたかも知れませんが、要は文中のフィンケ論レッズサポを誘導した結果です。見よこの底力(笑)。羨ましい限りで。
内容的には別に褒めたつもりもなかったんですが、そこで論理的に示した”可能性”を、その後見事に岡田ジャパンが裏切ってくれたような形で、でもポジティヴならポジティヴなりに、ネガティヴならネガティヴなりに共感は得られてる感じでちょっと不思議ですが、ともかく本体の方に、もう少し頑張ってもらわないと。

ヴェルディの方も今いち個人的には”好成績”に乗り切れていない感じで、最近2戦(湘南・福岡戦)などもむしろ淡々と書いたつもりですが、それでも2ケタ拍手がもらえるところに、切なくも高い期待感が窺えます。
数は少なくとも心は同じさ。(笑)

その他のエントリーは色分けがちょっと分かり難いかも知れませんが、は「作品」評、は・・・・”女”論?(笑)、広い意味の。
『日本のロック10』は多少ニッチ過ぎてどうかなとも思いましたが、一連のロック評論と変わらない反応があったということは、なんだかんだリスナー体験を共有出来ている人がちゃんと一定数いるということか。共有してるどうしでは、たまらない話題ですけどね。
『花咲ける青少年』も熱心に見てる人がそんなにいるとは思わずに、単に書きたいから書いたという感じでしたが、どうですかね、女性票でも入ったんですかね。
『マクラ』は・・・・ああ、のっちと小向のフライデーネタか。(笑)

赤に移って最近めっきり書く機会が減った所長さんエントリー(安藤さん)ですが、需要はあるんだと思いますが何せ新規発掘も新規活躍も思うように見当たらないので、どうにもネタ枯れ気味で。画像だけあっても余りにも知らないと、”ラブレター”の書きようがないし。
御手洗ネタはややグダグダ気味に終了しましたが、ただそれ関連で書いた『女の”地層”』については、後から思いついて書き足してるので、暇な人は確認してみて下さい。具体的には”B層”の最後と”C層”の部分、「化粧」と「腕力」という要素について新たに。


では来月も、企画だけは既にいくつか考えてはいるので、よろしくお付き合い下さい。


福岡−東京V(’09)
2009年06月28日 (日) | 編集 |
強いけど危ない。

J2第24節 東京V ○2−1● 福岡(レベルファイブ)

ちょいちょい楽勝も入れてかないと、消耗するというか運を無駄に使うというか。


やっぱりこう、ひとたび得点がイーブンになると、きっちり気分もイーブンになってしまう、まだその程度の自信。(笑)
この相手に先制したのなら、もう少し余裕持って勝ちたいですね。
優位な時間帯の過ごし方が、まだまだ雑かな。


先制するまでの試合の流れは、いかにも強いチームのもので、だからこそ上のような感想も出て来るわけですが。
前節の大敗から足元を見直して、それなりに抑えるところを抑えたきっちりした試合の入り方をして来た福岡に対して、暑さのせいかどうかはともかくどうも焦点がぼんやりしていた立ち上がりのヴェルディ。中盤で持ち切れず、その分漏れて来る敵の攻撃にも、対応が遅れ気味。

要は鬼キープありきのチームだからそうなるのも当然なんですが、それでも「何とかレアンドロと(か)河野に渡せば」というイメージはみんなが持っていて、それを支えに耐えている内に、まず河野が右サイドを突破してチャンスを作り、続いて左から流れて来たレアンドロを絡めて再び右サイドで回して回して、それで出来た隙から最後はレアンドロが完璧なミドルを突き刺して先制。
ある意味力づくではあるけれど、ストロングポイントをきっちり生かした、強いねという感じのそこまでの展開。それ以前にレアンドロがカリカリ来ていて変なイエロー(看板蹴り)をもらったりしていた、その暗雲を振り払うという意味でも、願ったりの先制点でありました。

その後も藤田の右サイドを中心に割りと簡単にチャンスを作って、いつでも追加点が入りそうな雰囲気もありましたが、結局淡白な感じで逃している内に、詳細はよく分かりませんが、ロングスローからのゴチャついた一発で追い付かれ、今日も最初のリードは守れず。崩されたものではないとは言え、それまでも大久保の高さに地味に手は焼いていただけに、それをブラインドに使われた失点にはそれなりの敗北感もあり、この時点では結構、先行きが覚束ない気分なところも。


展開はともかくとして今日の反省点というか現時点で足りないと感じるのは、まずは攻撃の細かいコンビネーション。
鬼キープはいい。でもそこからどう崩していくかということに関しては最低限のパターンすら出来ていなくて、偶然と(特にレアンドロの)閃き頼み。回しから崩し/仕掛けという時は、普通スピードアップして行くものですが、ほとんどそういうイメージは無くて、むしろスピードダウンしたりそれまでの展開と余り関係無い、新たな展開が始まったりするという意表の突き方で、実際のチャンスは作られている感じ(笑)。面白いけど、狙ってやってる部分が少な過ぎる。

その背景としての次の問題点としては、攻撃の展開や、あるいはキープとリリースのリズム感やタイミングに、まだチームとしての確立されたものが無いということ。
ゆっくり回しは出来る。大黒縦ポンや藤田のクロスのような、速い/シンプルな攻撃もある。でもこの2つがそれぞれに存在しているだけで繋がりや間が無いというか、上で言ったようにスピード”アップ”ではない、またはアップしたからと言ってそれが必ずしも有効ではないというか。

・・・・うーん、分かり難いか。
例えばゆっくりゆっくりやる。それはいいし、それが今のチームの基本なのは、もう共有されている。しかし例えばそれに焦れて相手が突っかかって来た時に、それこそ鹿島のようにギリギリまで引きつけてポンと大きな展開をする、あるいは逆をついてスピードアップする、そこまで明確な有効性が無くてもいいけど少なくともそれまで持っていた優位や安全性を手放さないような形で、テンポチェンジをするような、そういう深みが無い。次はこうかなという予測が共有されていないので、いきなりバラバラになって一転ピンチを招いたりする。”遅さ”と”速さ”の間に、連続性が無いというか、柔軟さが見かけ倒しというか。

基本的には、「攻撃パターン」の問題同様、”まだ”という話ではあります、現状。自然向上の余地だけとっても、十分に改善は期待出来るだろうと。ただこういうサッカーをするからには、避けて通れない技能なのは間違いないので、「課題」だとは言っておくべきかと。

今日の前半の藤田や前節後半の那須川の好クロスが上手く生かせないのも、一つはそういうシンプルな攻撃がチーム構成全体の中で何か”エキストラ”な感じで、え?そんなのもあるのとチームの方が驚いて、反応が遅れるというか本気で反応出来ないというか、そういうところはあるかなと。
ていうか最近妙に普通のクロスが上がるようになって、ある意味誤算(笑)。林が外れるようになってからというのが、どういう皮肉だという。


引き続きの課題としては、大黒という”切り札”の使い方も、パターンとして言えるのはこの日の序盤にも見せた”藤田のロングボール一本”だけで、左から右に配置転換されてしばらくその得意技のタイミングを計りかねていた感のあった藤田が、右でも出し方を分かり始めたようなのはそれ自体は好材料ですが。見事な適応力というか。
でももう少し普通に、大黒がスルーで抜け出して決めるような形が欲しい。何回も何回も動き直したり、いつ来るか分からないこぼれを超人的予測でかっさらって無理やり決めるとかではなくて。大黒がなかなかマルチゴールが出来ないのは、基本的にはそういう理由だと思いますが。楽なゴールが無い。

まあなんか、大黒自身が苦労を買ってしてるというか(笑)、楽するなんて考えてもいないテンションなんで、何となくベタなショートスルーとか出し難い雰囲気ではありますけどね。ある意味究極に、”安易な”得点パターンですからね。(笑)
真面目に、動き過ぎるのでタイミングが分からんというところは、あるかも知れません。長いのなら、ある程度それが限られるのでまだ出し易いという。あとは出し手の問題。一番能力の高いレアンドロは、自分のタイミングでしか出さないし。逆に受け手は選ばない(平本でも余裕)んだけど、その場合大黒である意味が余り無いというか、大黒はそれを待たずに(待てずに)たいていはその時別なプレーをしている。(笑)
河村が一番合ってた気がしますが、今はちょっと居場所を失っているし。現メンバーなら、河野が良さそうですけどね。

そう、河野ですが、ちょっと、イラついているようですね。調子自体は悪くなくて、戻りの守備とかも最近真面目にやってるのは見ての通りですが、なかなか弾ける瞬間が無くて、キープキープで我慢のプレーが続いている。レアンドロにはマイペースでも、河野には少し違うようですね。
徐々に”弾け”系のプレーも出せるようにはなっているんですが、やはり少し、負担がかかっているのか。神経すり減らし気味というか。累積で休養が入るのが、いい整理の機会にでもなってくれるといいんですが。


河村がベンチを外れたのは意外でしたが、代わりに入ったのが林や永里ではなくて菅原だったのは、連戦での服部のスタミナ切れを心配してのことでしょうね。レアンドロのカードという問題があったので、結果的に交代相手は違いましたが、このタイミングであえて”守備的”なベンチメンバーにする理由は考えられませんし。
まあなんか心情を顧慮して、段階的に外して行ったような感じもしないではありませんが。それで得た枠の使用の流動性を使って、次こそもっと攻撃的なベンチメンバーを用意するか・・・・と思いましたが、次は一気に3人(河野、富澤、那須川)欠けるスクランブルなので、ちょっとそれどころじゃないか。

どうすんでしょうね、今後。正直その”枠”以前に、途中出場の滝澤に交代で攻撃を活性化させるイメージはほとんど湧かないので、控えFW1人の構成では、必ず手不足で後悔する試合が出て来る気はしますが。
そもそものレア・河野一気投入の時点で、ある程度腹くくって現スタメンと心中する意気込みでは、あるんだと思うんですが。

どうしても守備的な選手も2人置きたいなら、滝澤役も飯尾に兼ねさせるか。どう考えても、いつまでも林外しておくのはもったいないし。
まあ細かい話ですけどね。基本形が固まって来たからこそというか。


とにかく次は、「レアンドロ一人」でどこまで出来るかの、早速の試金石の試合。
河野の代役は滝澤でしょうが、頭から行くなら是非”右”の滝澤も試してみて欲しいんですけど、まあやらないでしょうね。だいぶ信頼性は出て来たとはいえ、右のレアンドロ不安だなあ、まだ。視野が変わって、また糸の切れた凧にならないか。せっかく左で上手く行ってるので、動かしたくない。(2点目の”右”からのカウンターは見事でしたけどね。でも流れの中で変えるのとはまた)

なんにせよ、憧れの”3連勝”を、今度こそ。