ヴェルディ、代表、漫画、アニメ、女子バレー 他
僕の好きな女流プロ雀士たち Part2
2020年06月17日 (水) | 編集 |
"Part1"相当回はこちら2年半前ですね。
その時紹介したのは、高宮まりプロ、岡田紗佳プロ、東城りおプロ、松岡千晶プロ、菅原千瑛(ひろえ)プロ、小笠原奈央プロ、二階堂瑠美プロ、和久津晶(あきら)プロ、いずれも当時の知識の限定性から、全て「日本プロ麻雀連盟」という最大団体の所属プロたちでした。・・・今読むと修正したい箇所も少なからずありますが(笑)、切りが無いので我慢。
その後更に更に女流対局は見まくっているので、他団体含めての追加リストを新たに作成したく。
"癒し"という意味では最大の趣味になりつつあるので、死ぬまで見続けたら・・・Part30とかまで行くかも。(笑)

では以下団体別に。(競技麻雀Wiki)



[最高位戦日本プロ麻雀協会] より (Wiki)

実力派系

茅森早香プロ

茅森早香茅森早香2

早くから頭角を現してもう古株の部類に入りますが、最近一番好きかも。改めてというか。
後述する二階堂亜樹と並んで「天才」と呼ばれることの多い人ですが、どのように天才かというと・・・落合博満かな。いや何となく。(笑)
緩められる限界ぎりぎりまでゆったりと構えて、三次元的な幅のあるボール(局面)の捉え方で無理なくしかし確実に、全方向長短自在に打ち返す。一見どこにも力が入っていないようだけど、"曲げる"時は結構強引に人為的に、状況を"曲げる"事も出来る。
その怠惰ぎりぎり(笑)に淡々と奔放な"俺流"パーソナリティも、「天才」感「落合」感を醸し出しています。女流雀士多しと言えども、不機嫌な時に"不機嫌です"という顔でコメント対応するのは、この人と岡田紗佳くらいじゃないですかね(笑)。質問が気に食わないと、普通に「で?」とか言いかねない勢いです。(中田ヒデ)
ルックス的にも間違いなく美人(むしろ正統派の)なんですが、特に若い頃は自分が美人であることやそもそも女であることを気にしているのかいないのかという感じで、それで少し僕の"アンテナ"に引っかかるのが遅れました(笑)。女子力的なものが低いという言い方も出来る可能性がありますが、むしろ「美人」であること「天才」であることに、いい意味で(笑)あぐらをかいているズボラな感じが、逆に魅力的。放送で「天才」と紹介されても、最早めんどくさそうにはい天才ですと平気で紹介を受けます。(笑)
実際には言うほど勝ちまくっているわけでもないと思うんですが、勝つ時の天才ぶり、あれよあれよとこちらの思考が追い付かないような目まぐるしい手牌の回転の果てに、あっさりと実は最短距離で"正解"にたどり着くような感じは、やはりそう言いたくなる人の気持ちは分かります。
ファンです。付き合いたくは全くないですけど(笑)。死ぬまで理解出来なさそう。

瑞原明奈プロ

瑞原明奈

Mリーグで初めて知りました。爽やかかつ可憐な、ボーイッシュかつ女性的という感じの人。
現在"トッププロ"の一つの目安であるMリーグに選ばれているくらいですから雀力は高いんでしょうが、まだ2,3試合しか見てないのでそっちの方はよく分かりません。女流どうしで一回見ると、より特徴は分かると思うんですが。(Mリーグは混成)

陰性美女系

中野ありさプロ

中野ありさ1中野ありさ2

ド新人ながらメジャーな放送対局、去年の夕刊フジ杯を勝ち切った時の、つぶらな瞳のお人形さん的なルックスを、極度の緊張に歪めて苦悶しながら打つ様に多くの男子が色々と(?)鷲掴みにされたろうプチアイドル雀士。(笑)
意外なハスキーボイスもチャームポイントですが、普段の彼女は特に陰も無い、普通のイマドキのコのようですね。

足木優プロ

足木優1

写真はにっこり笑ってますが、この若干古めというか昭和感(?)のある美貌自体が、覇と個性を競い合う競技プロの世界に入ると自然に哀愁を醸し出して、そこが好きです。(笑)
勝ってても負けてても。

陽性美女系

与那城葵プロ

与那城葵

実は性格には少しネガティブなところがあってそこも可愛いんですが、割りとがっちりした感じの体格とくっきりはっきりした顔と、素直で嫌みの無い性格が陽性の存在感をいつも感じさせる人。

塚田美紀プロ

塚田美紀

小柄という以上に"子供"感のある体型で、麻雀の技術的にもちょいちょい稚拙さをまだ感じさせますが、余り気にせず何かと(笑)ぐいぐい来る感じが笑えるコ。
多分自分の事を、相当"可愛い"と思っているはず。
いや、いいんじゃないですかね、別に。(笑)



[日本プロ麻雀協会] より (Wiki)

実力派系

水口美香プロ

水口美香1

真っ黒髪の似合う地味目のルックスで雀風も"守備型"と言われることが多いですが、ずっと見ていると秘めた負けん気(ルックス面も含めて)とそれゆえに時々変に"行き"過ぎてしまうことのある打ち筋に、段々愛を感じて来るするめ女子。(おい)
攻撃時の鳴き仕掛けの多用が目立つ特徴ではあるんですが、やはり受けた時の我慢強さ、特に一回失敗した後のリカバリーのしぶとさが、一番のリスペクトポイントですかね。

佐月麻理子プロ

佐月麻理子

美人なのかそうでないのか割りと微妙な造型(失礼)だと思いますし。元ヤンorロック系っぽい押し出しなのに喋るとふわふわ不思議ちゃん系というキャラ付けも結構戸惑いますが(笑)、打ってる時のそんなに"上手い"感じではないけれど潔い進退でなんだかんだと好成績を挙げて来る姿は、素直に好感が持てて、応援したくなります。そういう時は"微妙"(だから失礼)な造型も、「野生動物」的なかわいらしさ美しさに。(笑)

キャバ嬢系

都美(とみ)プロ

都美1

元々美人は美人なんでしょうけど"素材"感より"デコレート"感が強くて、かつ(美人に生んでくれたことを)「両親に感謝する」とまで言い切られると[某確か"てんパイクイーン"]、「そこまでかあ?」というお節介な感想をついつい抱いてしまいますが。(笑)
逆にでも"人間の愛を無心に確信している猫(犬)"のようなほっこりする無心な可愛らしさもあって、なんだかんだ好きです。まあ美人ですし。(多分)

夏月美勇

夏月美勇

足木さんと同カテゴリーのトラディショナル系。ただしケバめ寄り。
でも性格すっごく良さそうなんですよね。なぜか対局中の姿に"母性"を感じたり。(笑)

個性派系

たじまなみプロ

たじまなみ

Abemaプレミアムで見られる女流プロアイドルグループ"More"センター争奪麻雀バトル(2016)とやらでしか見たことのない人ですが、なかなか印象は強烈でした。
非常に純度・完成度の高い"二次元"系のルックスと、ネット麻雀育ちというのがうなずけるドライ&独特の押し引きの打ち筋で、しかも結果優勝してしまったので。一方で好んで麻雀番組のADもこなすという、意外に地道な麻雀愛。(笑)
いいキャラだと思うんですけどね、他の番組で見ないですね。

秋瀬ちさとプロ

秋瀬ちさと

写真じゃ伝わらないだろうなあと思うんですけど、実は岡田紗佳に負けないくらいのナイスバディを隠しているのではないかと思っている人(笑)。身長もありますしね、ガイジン体型というか。
自発的に水着姿を披露する女流プロも少なくない中で、本業はOLだという秋瀬さんはそこらへんに制約があるのか、なかなかそういう画像が出て来ません。残念です。(笑)
放送対局自体には結構登場する、まあまあ実力派の部類かと。



[日本プロ麻雀連盟] より (追加分) (Wiki)

大久保朋美プロ、古川彩乃プロ。

大久保朋美古川彩乃

愛嬌のあるセクシー系二人。
溌剌糸とお姉さん系?(笑)



[実況・解説枠]

"プレーヤー"としてよりも裏方、"トーク"に魅力のある選手たち。ルックスより知性というか。(笑)


日向藍子プロ (最高位戦日本プロ麻雀協会)

日向藍子日向藍子2

いい表情するでしょ?(笑)。ほんと馬鹿みたいにいいコです。
かなり長いこと素朴で真面目なその分少し退屈なコという印象しか無かったんですが、AbemaのRTD Girl's Fight(の1)で実況をやっているのを聴いて、印象が一変しました。何て機転の利く、内面そしてそこからの言葉の豊かなコなんだろうと。相手の振りに対して、ナチュラルに期待を上回る返しがどんどん飛び出すんですよね。必ずしも"噛み合って"るわけではなくて、所謂"上手い"ことを言っているわけではないんですけど、人並み外れた獰猛な性善説で(笑)、予想外の溌剌とした返しが返って来るので聴いててわくわくします。(笑)
普通に如才ない返しも出来るので、麻雀実況の枠を越えて今すぐでも色々な番組のMCやアシスタントが出来そうに思います。
所謂"知的"とは少し違いますが、言語能力は本当に高いと思います。そして本当に、ご両親に愛されて育ったんだろうなという感じの性善性。(笑)
個人的に"女"として見られるかというと、少し難しいですけどね(笑)。「とてつもなく懐っこい犬」みたいな感じ。(笑)
雀力も懐の深い受けからの思い切りのいい攻撃でじりじりと成績を上げて、いつの間にやらMリーガーに。正直スタイル的にはただの"カウンターサッカー"みたいには見えるというか、攻撃の方にさほどの個性は無い気がしますけど、ともかく戦えてるのは凄いですね。凄い成長というか。

松嶋桃プロ (日本プロ麻雀協会)

松嶋桃

京大法学部卒という半端ない学歴で、プレーヤーとしても見たことはありますが特にこれといった印象は無し。ルックスも美人と言えば美人なんでしょうけど引っかかるものは無かったんですが、実況は良いですね。真面目モードの時は、多少クドいですが初心者視聴者に丁寧なポイントを押さえまくった質問を解説者に投げかけて優秀、でも面白いのはそれと変わらない口調でおじさん解説者を転がしにかかる時(笑)。代表的には上の土田浩翔プロとかですけど。終始とにかくアナウンサー口調(笑)を崩さないまま、甘えたりあやしたりシビアに突っ込んだり自由自在で、ああこの人ほんとに頭いいんだなとそこで初めて思いました。
・・・ちなみに元々麻雀実況は専門性が極端に高いので、"プロ"の肩書を持つ人が起用されることが多いんですが(無名でも)、Abemaは更にそこに女性プロを積極的に投入して、格段に番組の聴き易さやメジャー感を上げることに成功していると思います。(Mリーグ等)

二階堂亜樹プロ (日本プロ麻雀連盟)

二階堂亜樹

こちらは「解説」の方。
上で言ったようにプレーヤーとしても"天才""美人""パイオニア"として不動の地位を築いている人なんですが、個人的にあんまり打ち方は好きではないんですよね。茅森プロとよく似た柔軟な麻雀の捕まえ方をしつつも(だからこの二人が"天才"と)、その後が違うというか若干理が勝ち過ぎていて味が薄い。本人も自嘲的にそのことに触れることがよくありますが。
ところが解説で喋っているのを聴くと、現実の打ち筋が与える印象より遥かに繊細な感性と広がりのある思考を亜樹さんが持っていることが分かるので、尚更惜しいというか「二階堂亜樹」の麻雀は本当にあれでいいのかという疑問を、改めて感じさせられたりします。
まあもう20年選手ですから、変えられるものならとっくに変えてるでしょうけどね。何か理由があって、今のスタイルになっている・ならざるを得ないんでしょうけど。
とにかく、「解説」は魅力的です。プレーよりも(笑)。個人的には。対局者の名前に"二階堂亜樹"の名前があってもそうなのかと思うだけですが、"解説"者のところにあるとわくわくします。(笑)


今回は以上です。
何が"以上"だという感じですけど。(笑)
念の為に言っておくと、基本ルックスチョイスで雀力はその後の話です("実況・解説"枠はまた別ですが)。その基準では入って来なかった名手たちのファンの方、ごめんなさい。(笑)


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テーマ:麻雀
ジャンル:ギャンブル
アメリカドラマの右傾化&とある極右ブログ ~"右"と"左"についての個人史的考察:大学卒業後編
2019年09月25日 (水) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])(大学生編[2])(大学生編[3])


大学を卒業してからの話。
「社会人編」・・・と言いたいところですけど、別に職業上の経験とかでは全然なくて(笑)、専ら学生時代より自由になったお金と時代的なテクノロジーの進化の恩恵を受けた、スカパーやインターネットでの"経験"の話なのでちょっと掲げ難い。(笑)
まあ余り本を読んだり友達と学問・思想の話をしたりする機会は無くなって、影響ソースが変わった(通俗化した?)という意味では、「社会人」ぽいかも。


大学卒業後編

1.アメリカドラマの右傾化

1997 スターゲイトSG-1
1999 ザ・ホワイトハウス
1999 LAW & ORDER:性犯罪特捜班
2000 CSI:科学捜査班
・・・2001.9.11 アメリカ同時多発テロ事件
2002 CSI:マイアミ
2003 NCIS ネイビー犯罪捜査班
2004 ボストン・リーガル
2005 クリミナル・マインド

とある時期のアメリカの有名ドラマたち。
ランダムなようですが、いずれも何らか僕が"政治"的なヒリヒリ感を感じる(た)作品群です。

(1) 『CSI:マイアミ』(2002)

「小学生編」『太陽にほえろ!』の項で、「犯罪を犯す側にも事情がある」という同情心やその"事情"つまり「社会の矛盾や不公平」への問題意識が太陽にほえろやそれを代表とするある時代までの警察・犯罪ドラマの基本的な視点であり、それは洋の東西を問わないということを言いました。
しかしいつからか、その前提・お約束は微妙に崩れ始めます。特に"西"の洋、アメリカにおいて。
それを最初に強く感じたのが、『CSI:マイアミ』だったような気がします。

大ヒットした『CSI:科学捜査班』(2000)のスピンオフで、舞台を砂漠のギャンブルタウンラスベガスからビーチリゾートタウンマイアミに移して、より陽性の"アクション"ドラマ的な面を強調したこちらもヒット作。
1993年の伝説的な刑事ドラマ『NYPDブルー』の名物人情刑事"ケリー"役で有名になったデヴィッド・カルーソを主人公"ホレイショ"として起用し、ケリーの役柄のイメージも引き継いだ強きをくじき弱きを助ける男気刑事として好調にスタートしたように思いましたが、どうも途中から僕はその"正義感"の独善性粗雑性、悪は悪であって自分は正義だ、"成敗"してやる的な見得の横行にうんざりし始めて、見なくなりました。

ケリーホレイショ

・・・ケリーからホレイショへ。まあ元々個人としての悪評はあった人で、単に"独善性"の方向が変わっただけという話もありますがそれはともかく。

勿論悪いのは所詮演者でしかないデヴィッド・カルーソ個人ではなくて、ドラマ自体が余りにも"警察"視点に寄り過ぎている、警察官的正義感をストレートに表現し過ぎていることにあると思うわけですが、ただなまじ"NYPDブルーのケリー"のイメージがあるだけに"似て非なる"感に憎悪に近い感情を持ってしまいました(笑)。ドラマとしても、本家『CSI』がチームの基本的には理系オタクたちをメインにしたある種"非マッチョ"な雰囲気に特徴があっただけに、差別化するにしても程があるだろうという感じでした。

その是非はともかくとして、60年代のコロンボ以来連綿と続いて来たアメリカの警察ドラマの伝統の中で、かなり違和感のある"強い正義"を表現していた作品だったと思います。もう「社会の鏡」はやめる宣言というか。
たまたま警察関係者が内部に多く入っていた作品だったという話も、どこかでは聞きましたが。

(3) 『NCIS ネイビー犯罪捜査班』(2003)

海軍案件専用という特別な捜査機関を舞台にした今も続く人気シリーズで、舞台から自然ではあるんですがしばしば軍ないし海軍への敬意・忠誠・愛情が積極的に表現され、また主人公リロイ・ギブスの相当にパワハラ的な部下マネジメントを基本的には肯定的に描き続ける、マッチョな作品。
この作品も特に先行作品と比べるとその性格が分かり易いと思って、まずこの作品のメイン製作者ドナルド・ベリサリオには既に1995年に"海軍"法務部を舞台にした『犯罪捜査官ネイビーファイル』という作品があるわけですが、見かけは大部分普通の"刑事ドラマ"であるNCISに対して登場人物のほとんどが制服の軍人であるネイビーファイルでは、「軍隊的価値観」はあくまで「軍隊」内部のものであるということが割りと明確に表現されていましたし、また軍人であると同時に弁護士である主人公たちは「法の支配」に当然忠実で、横紙破りは日常の極端に言うと私刑(リンチ)主義的なNCISとは大きな違いがありました。
更に言うとNCISで"リロイ・ギブス"を演じるマーク・ハーモンには1991年に『リーズナブル・ダウト 静かなる検事記録』という出演作品がありますが、こちらでも役柄自体は実は基本的に同じで、ただ違うのはまだリベラル的な価値観が社会の主流を占める中で、ある種"負け"前提の孤独な美学としてそれが表現されていたこと。それが『NCIS』になると"職務"上の特殊な立場に守られつつも、ドラマ自体が全体として彼を支持する形で構成されているわけです。

遂にマーク・ハーモンの"時代"が来た!というか(笑)。まあ臭味は別にして、魅力的な人・役であるのは間違いないと僕も思いますけど。
ベリサリオも非常に優れたドラマ作家なのは間違いなくて、ただ『ネイビーファイル』では嵌めていたを、『NCIS』では外してしまった。それをドラマの評価としてどう考えるか、というのもありますがそれ以上に、ある意味これ(『NCIS』)が"本音"というか、本当は表現したいとNCIS以前の時代にも心の底で思っていたことなんだろうなという感はありますね。そういうプリミティブなものが表現される時代になったというか。

(3) 『ボストン・リーガル』(2004)と"ドナルド・トランプ"

こちらは右傾化ドラマというよりも、"右傾化"ということを研究・描写したドラマかな?
『アリーmyラブ』『ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル』などのヒット作で知られるアメリカドラマ屈指の人気製作者&脚本家のデビッド・E・ケリーが、映画スタージェームズ・スペイダー

ジェームズ・スペイダー ボストン・リーガル

の主役起用という話題と共に、ウィリアム・シャトナー演じる"デニー・クレイン"という

デニー・クレイン

ドラマ史上屈指の強烈なキャラクターを放し飼い的に暴れ回らせた怪作。

このデニー・クレインがどういう人物かというと、元凄腕の今も名声はあるが一部認知症が始まっているらしい老弁護士で、スペイダー演じるアラン・ショアの巧みな"介護"を受けつつまだ弁護士としても時折活躍はするんですが、元々のパーソナリティと認知症含む老人的な横着さで、セクハラはやりまくりポリティカルにコレクトではない発言を日常でも法廷でもしまくり、とにかく暴れ回ります。ただ別に悪意があるわけでもあえて時流に反抗してスタンドプレー的にそういうことをしているわけではなくて(一部怪しい?)、基本的にはただただ素朴に素直に、欲望に忠実にあるいは長年の慣習に従っているだけで、何が"悪い"のかもいちいち説明してもらわないとたいていは分からない。・・・まあ"説明"してもらわないと何が悪いのか分からないというのは、広い意味のポリティカル・コレクトネスと高齢者の間では起きがちな齟齬ではあるんですけど、それが非常に極端で笑えるというか、しばしばむしろ微笑ましいというか、そういう存在。また同時に元は凄腕の弁護士だけに、にわかに反論の難しいような妙に説得的な自己弁護なども時にして、視聴者を困惑させます。

それに対するアランの立場は複雑で、事務所の為にクレインの名前を利用したいという大前提がありつつも、やはりこの"歩く不適切"のしかし愛すべき点を認め、また時にその身も蓋も無い剥き出しの本音の中に「真実」性を認めるからこそ友人であり続け庇護もし続けるわけですが、最終的にはとはいえやっぱりマズいんですよとやんわりとクレインを"説得"する方向で大部分のエピソードはしめくくられていたように思います。
それがデイブ・ケリー自身の立場でもあるんたろうと思いますが、そこら辺は割りとケースバイケースで、思想の自転車操業でやっていた印象のドラマ。

当時は面喰いつつ大笑いしつつ、結局なんなんだろうこれはと思いながら見ていた作品ですが、後にああ!と思ったのがドナルド・トランプの登場で、要するにデニー・クレインじゃないかこれは、直接参考にしたかどうかはともかく('00年最初の大統領選挙出馬、'04『アプレンティス』)、リベラリズムやポリティカル・コレクトネスをめぐる2004年当時の状況から、いずれクレインのようなパーソナリティが広くリアリティを持つ時代が来るということを、ケリーが予感していたのは間違いないだろうと思います。
今見ても、いやむしろ今見ると更に面白い作品だろうと思うので、改めてお勧めしておきます。(笑)




・・・余談(ではないかも知れない)ですが、その"デニー・クレイン"を演じたウィリアム・シャトナーというのは初代スタートレックの"カーク船長"役

ウィリアム・シャトナー

の人で、そして『スタートレック』シリーズ及びアメリカの"SFドラマ"というのは、アメリカにおける価値多様性/寛容性の一つの橋頭保みたいなところがあった。

Taku:やっぱり人間の可能性を信じているっていうのが僕がジーン・ロッデンベリーを尊敬しているところですね。『TOS』が放送されていた時期って、なんか変なこと言ったら、すぐに「お前は赤だ」って共産主義者のレッテルを貼られる時代じゃないですか。でも舞台を未来にしたら、現実ではタブーな話も入れ込める。それが『TOS』のコンセプトだったと本人も言ってて。
("Fuze"海外ドラマ特集#4 より)

"TOS"。カーク船長の出て来るオリジナル・スタートレックのこと。
つまりその"カーク船長"にこういう真逆の役をやらせるというのは、時代の変化を表す意図的な皮肉だったのかな?という話。

(4) テクノロジーと犯罪捜査

これは割りと結果論的な話ではあるんですが。
"科学捜査"というものが確立し(『CSI:科学捜査班』('00))、一方でインターネットを筆頭とする個々人が手に出来るテクノロジーの質と量が格段に向上すると、「警察・犯罪ドラマ」における"捜査側と犯人の知恵比べ"の比重・描写が、平均して恒常的に、大きくなるようになりました。そこでは"社会的弱者である犯人への同情"のような牧歌的なものの入る余地は相対的に小さくなり、それよりはまず欺かれないことが優先(笑)であり、またしばしばドラマ上個人で政府機関を翻弄するような大きな力を持つ犯人は怪物的"邪悪な天才"的に設定されることが多くなり、捜査側と犯人側の関係はますますドライになって行きます。
今も続く人気シリーズ『クリミナル・マインド』などは、所謂"科学捜査"ものとは少し違いますが、FBIの天才たちと主に連続殺人犯たちとの知恵比べが毎度展開され、さながら"異常性格者たちの見本市"の様相を呈していて、もう『太陽にほえろ!』とは全く違う世界です。(笑)

これらは直接的に何かの"ポリシー"から出ているものではないと思われますが、世相の変化の一つの反映であり、また程度はともかく「犯罪」(者)観自体の変化の影響の元にもなっているのではないかと、個人的には思っています。

(5)その他

『スターゲイトSG-1』(1997)

「地球の諸文明の起源や神話における宇宙人の関与」を扱った大ヒットSFシリーズですが、"ドラマ"としての焦点はほとんど対等な二人の主人公、"オニール大佐"の軍人的実力行使主義&伝統的男性社会主義と考古学者・言語学者の"ダニエル・ジャクソン"の多文化主義寛容主義の二つの価値観の対立が、最初から最後まで緊張感を保ち続けていたことにあったと思います。
別な言い方をすると、上のスタートレックの例にもあるように、この"SF"ドラマも本質的には後者の価値観で作られてはいるわけですが、その中で前者を最後まで否定しなかった、単なる"悪役"や"克服すべき誤り"として位置付けなかったのが、大きな特徴というか時代の変化を感じたというか。
ちなみにオニール役のリチャード・ディーン・アンダーソンが、それ以前の当たり役『冒険野郎マクガイバー』の"マクガイバー"では、徹底的な暴力嫌いの、むしろリベラルな理想主義の権化みたいな役柄を演じていたのも、面白いコントラストだと思います。

『ザ・ホワイトハウス』(1999)

NHKでもやっていた、アメリカのとある"民主党"政権の奮闘を描いた傑作ドラマ。その"大統領"役
ジェド・バートレット

マーティン・シーンが、しばしば現実の民主党の代弁者やトランプ批判の急先鋒の役割をその後果たしていることからも分かるように、イデオロギー的にならないように気を付けながらも、かなり直接的にリベラルの理想を表現していた作品だったと思います。
ただ全体としては&結論的には、そういうものがいかに実現困難かアメリカの現実の中でマイナーな位置にあるかを表現していたドラマでもあって、ドラマとして見事であればある程、ある種壮麗な"敗北"の予感というものが印象に残る作品だったと思います。

『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』(1999)

こちらも今も続く長寿作(シーズン20まで放送中)。アメリカの犯罪ドラマの典型の一つである『LAW & ORDER』のスピンオフで、アメリカに実在するらしい性犯罪専門の捜査班の活躍を描いた作品。
それ自体に政治的意図はないだろうと思いますが、何せ「性犯罪」というものがデフォルトで陰惨というか押しなべて被害者たちが気の毒過ぎるので、それを専門に扱うこのドラマの中では「犯人への純度の高い憎しみ・嫌悪感」というものが自然際立つことになり、それはそれまでのアメリカの犯罪ドラマの伝統の中でも少し浮いて感じられるように思いました。上で言った"犯罪の知能犯化"というのと、ある意味似た話ですが。
そういう暗い作品がここまでの長寿シリーズになったのは意外だったんですが、逆にその"犯人の事情汲み取り"型の枠に収まらない「正義」の手応えが、良い意味での差別化になったのかなと思わなくはないです。
・・・ただし現在も続いてるこの作品の近年の位置づけとしては、むしろ「伝統的」なアメリカの犯罪ドラマ技法の最後の希望というか"良心"として機能しているように見えるのが、面白いところです。"犯人の事情"への汲み取りに重点が無いだけで、「とにかく短絡せずにあらゆる人の事情をよく聞きましょう」という根本の姿勢は、"伝統的"なんですよね。そういう意味でも、元々別に政治性は無かったんだろうと思いますが。


以上が僕が"スカパー"時代に入って爆発的に数の増えたアメドラ視聴生活の中で、感じていたアメリカ社会の保守化・右傾化・非寛容化のサインです。
改めて"年表"として整理してみると、2001年の同時多発テロとそれに続く愛国者法の施行などによる社会の変化で潮目が変わった感は強いわけですが、ただドラマの中でそのことが直接言及されるようになるまでには少しタイムラグがありましたし、それ以前から実は"予兆"があったというのが今回の発見でもあるので、そういう一連の流れとして、全体を把握しておきたいかなと。
"影響"としてはどうなんですかね、所詮外国の話だという前提はありつつ、『スターゲイト』や『ボストン・リーガル』で"いち"人物として相対的に右翼的な人物が魅力的説得的に描かれると少しそっちに引っ張られ、一方で『CSI:マイアミ』のように全体が保守化したり犯罪者を単純に断罪的に描くドラマが増えて来ると、それへの違和感危機感から逆側に寄ったりという、そういう感じですかね。


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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [3] ~"学生"的正義感の右と左?
2019年09月03日 (火) | 編集 |
大学生編の残り。

(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])(大学生編[2])


大学生編目次

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教等への興味 
"市民運動家"との出会い 反左


5.右寄り神秘主義への興味

大本教と復古神道

ここまでのところで何度か「本屋でのタイトル買い」の話が出て来ましたが(笑)、普通の真面目な少年(?)だったある時期までの僕にとって、本というのは「大きな本屋の立派な書棚で定価で買う物」であってそれによってある程度"ちゃんとした"本だけが自ずと選別されて来るところがあったわけですが、とはいえ貧乏大学生のこと、いつからか"古本屋"で買うという知恵を身に付けます。
・・・大した知恵ではないですけど(笑)、でも気付くまでは意外とすっぽり盲点でした。
それによって本の購入価格は一桁下がり、外れて結構、多少下らなそうないかがわしそうな本も含めてかなり雑食的な読み方に変化して行って、入って来る知識のタイプも良くも悪くも広がって来ます。
まあ大げさに言うと、"インターネットに繋がった"くらいの感覚です、当時的には。

その中にあったのが、例えばこういう本。

出口王仁三郎の霊界からの警告出口王仁三郎の大降臨

武田崇元
『出口王仁三郎の霊界からの警告 - 発禁予言書に示された破局と再生の大真相』(光文社・カッパホームス、1983年)
『出口王仁三郎の大降臨- 霊界の復権と人類の大峠』(光文社・カッパホームス、1986年)

戦前戦中に一世を風靡した神道系新興宗教大本教とその2代目教祖出口王仁三郎については、名前だけは知っていたんですかね。"霊界からの警告"や"大降臨"と銘打ってはいますが、これらの本は所謂「霊言」本ではなくて、大本教の歴史とその意義や持っていたかもしれない可能性を、若干の神秘的エピソードと共に紹介した学術的とまでは言えないけれどそこそこ真面目な本。
その中で大本教自体と共に僕が興味を惹かれたのが、大本教(というか出口王仁三郎個人)もそのソースの一つとしてるらしい、古神道」(復古神道)というものの存在。
一言で言えば江戸時代後期に専ら学者主導で立ち上げられた("古"の名とは裏腹の)"新"神道・神道ルネッサンスであり、神降ろし等の秘教的体系を前面に出した裏神道であり、しかし"裏"と言いつつ近代日本における国家主義と神道の結びつきの端緒の一つとなって戦前戦中の国家神道は勿論、遠く現代のネトウヨや"安倍首相のお友達"系宗教勢力にまで直接間接に影響を及ぼしていると見ることも可能な、宗教思想・運動です。

主題となっている大本教自体はむしろ国家神道体制に"潰された"側の、神道タームを用いつつも見ようによっては左翼的コスモポリタン的でもある宗教で、本の構成も戦前の日本の"失敗"に焦点を当てたものなんですが、それはそれとして"復古神道"という近代的かつ秘教的な神道の存在とそれが持ったらしいそれなりに現実的な影響力の示唆は、それまで「神道」や日本神話などを真面目な思考の対象にした経験が無かっただけに、単純にインパクトがありましたし、「ひょっとして自分は(知的に)大きな落とし物をして来たのではないか」的な妙な"焦り"の感情を掻き立てられた部分もありました。・・・"全く知らない"というのは危険なんですよね。色々と。
勿論そこには、神秘主義全般のロマン的な魅力や、神道タームや日本神話の神々の名の"活躍"を見る時に否定し難く刺激される、日本人としての自意識や自己愛の高揚のようなものも、伴っていたと思います。

雑誌『月刊アーガマ』

"復古神道"によって何か変な物が開きかけて(笑)しばらくして、こちらは正規の(?)本屋の店頭で手に取ったのが、「アーガマ」という雑誌。ガンダムともアニメとも全く関係はありません(笑)、そうではなくてそもそもの"アーガマ"、つまり「阿含」宗の出版局が発行していた商業誌です。
いよいよヤバいところに行ったと思うかもしれないですが(笑)、そうではないんです。確かに密教系新興教団阿含宗の発行している右寄りで神秘主義寄りな思想誌、ではあるんですけど、別に阿含宗の宣伝誌ではなくて、仏教は勿論扱いますが同じように神道もイスラムも扱いますし、執筆陣も神秘思想や右翼思想プロパーの人は勿論いますが、一般に知られた"表"の論者・学者も普通にいる。

・・・例を挙げると栗本慎一郎、橋爪大三郎、伊藤俊治、秋山さと子、山下悦子、大塚英志、中沢新一、芹沢俊介、竹田青嗣と、このまま『現代思想』誌のある号を構成していてもおかしくない顔ぶれが揃っています。
鎌田東二とかは、"表"でありつつ"プロパー"な存在ですかね。
あと突然石原慎太郎が降臨したりするのはやはりならではではあって(笑)、確かこの人と栗本慎一郎の対談という妙なものが載っていた号が、僕がアーガマを手に取ったきっかけだったと思います。

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ついでに目次も載せておいたので、それを見れば誌面のだいたいの感じは掴めるのではないかと。
「神秘思想」とは言っても、例えば『ムー』読者が好んで読むようなタイプのものとは思えないですし、やはり"裏『現代思想』"みたいな位置づけが、一番相応しいような気がします。実際「あれ?お前も読んでたの?」みたいなことが、思想友達との間であったこともありますし。
読んでいて阿含宗を意識したりすることも全くと言っていい程無くて、逆に阿含宗信者はどう考えていたんだろうと、聞きたいくらいでしたが。経費はお布施なんでしょうし(笑)。不思議な雑誌でした。

で、この雑誌を読むことが僕にどういう影響を与えたか、ですが。
一方では確かに、芽生えた右寄り神秘主義への関心を強化した固定したという面はあるわけですが、と同時にそうした関心を孤立したトンデモ本とかではなく、それなりの形式の整った論文群によって構成された誌面という形で視野化することによって、増して上記のような執筆者群によって"表"の思想との接続性も自然に確保することによって、ある種の沈静化というか現実への着地を可能にした、そういう面も大きいと思います。
怪しい論文はちゃんと怪しかったですから(笑)、両方ではあるんですけど。制限付き認定というかブレーキ付きアクセルというか。"こういう言論空間があり得る"ということを、ともかくも知ったという感じ。

まあ面白い雑誌だったのは確か。面白過ぎて、毎月隅々まで読もうとすると他の読書に差し支えるので、読むのをやめたくらい(笑)。さすがにこういうのばっかりじゃまずいだろうとは、思ったので。(笑)
今何が残っているかというと実はあんまり何も残ってないんですけどね。"右"自体がありきたりなものになってしまったのもあって。案外仏教やイスラムについての地味な連載の方が、記憶に残っていたりします。


こうした飽くまで例えばなんですが、二つの読書体験の例が示すものは何かというと、行きがかりはどうあれ、結局当時の僕の中にこうしたタイプの知識や思想への、潜在的な飢えがあったということですよね。
埋められるのを待っている"欠落"が。"死角"の予感が。

という流れで、次項のある"欠落"と"死角"の話に。



6."市民運動家"との出会い

"ある市民運動家"ではなくて、"市民運動家"的なタイプの人との、今思えば初めての出会いの話。
と言っても物理的な"出会い"はそれよりも更に2,3年前で、要は大学の後輩だったんですけど。
ちなみに女子です(笑)。付き合ってはいませんでしたけど、仲は良くてちょいちょい一緒に出掛けていた、そういう間柄。

そのコがある日突然、本当に突然でそれまで政治の話なんて一言も二人でしたことは無かったんですけど、「ジュウグンイアンフ」がどうこうということを言い出したんですね。単語自体初耳で、ぽかーんとしてしまいましたが。とにかく戦時中日本軍がこんな酷い事をして、その被害者を支援する活動を今しているとかしていないとか(いや、してたと思いますけど(笑))、そういう話を滔々とし出した。僕にどうしろという話ではなかったので、はあとか腑抜けた相槌を僕は繰り返していただけでしたが。
その後もいくつか"戦時中の日本(軍)"ネタを彼女は披露していたように記憶していますが、ほとんど覚えていません。松代大本営がどうとかそこに見学に行くとか何とか、多分言っていたと思います。

で、その場はそれ以上の話にはならずに、また別の日。
とあるバーで、二人でカクテルを傾けながら。(いや、マジで(笑))

その時彼女が振って来たネタは、一つ目は"小沢一郎"
時期的にはどうでしたかね、『日本改造計画』('93)が世間で話題になる前だったか後だったか、世事に疎かったので覚えてませんが、とにかく彼女が言うには小沢一郎という悪い政治家がいて、あれやこれやで日本を戦争に導こうとしていると、許せないと、どう思いますかとその時は一応僕の反応を求めるような態勢だったと思います。酒も入ってましたし。(笑)
そう言われても僕は小沢一郎の発言を特に見たことは無かったですし、さりとて彼女の言い分を鵜呑みにするわけにも行かないので、素朴な疑問だったか論争のテクニックだったかよく覚えてませんが、とにかくそもそもその小沢一郎とやらのモチベーションはどうなっているのかということを逆に彼女に聞いたんですね。どうして戦争がしたいのか、あるいは戦争をするとどんな得があるのか、もしあなたの言う通りだったとしたらと。
それに対して、今度は彼女がぽかーんとする番でした。答えは何も無し。そんなことは考えたことも無かったと。小沢一郎に"モチベーション"なんて人並みのものがあるとは。ただただ悪い事を考えている悪い政治家で、そこに理由を考えるという発想は持ったことが無かったと、具体的に言いはしなかったかもしれませんが要するにそういう反応でした。

何だかなあと思いつつ、でもバツの悪そうな顔をしている可愛い後輩(笑)をそれ以上は責めずに(そもそも興味無えしそんな話題)またグラスを重ねて(笑)いると、しばらくして再度彼女が話を振って来ました。
今度のテーマは何かというと、"満州事変"
これも具体的な話は全然覚えていないんですけど、一応"小沢一郎"よりは一般的な歴史知識の話なのでそれなりに対応していましたが、とにかくやっぱり、基本的にはいかに日本軍が悪いかという話ではありました(笑)。ただその中で彼女の語る因果関係背後関係に、何か奇妙な欠落が感じられたので、念の為という感じで「それはだから石原莞爾が・・・」と満州事変の高名な、一般には首謀者の一人とされる人物(石原莞爾Wiki)の名を挙げたところ、再び彼女の反応はぽかーんでした。賛成でも反対でも意見でもなくて、まさかと思って聞いてみると単に名前を知らないとのこと。

「は?」と今度は僕も軽くキレ気味になりました。自分からわざわざ満州事変について議論を吹っかけて来る人が、石原莞爾の評価はともかくとして名前自体を知らないというのはどういうこと?何の冗談?と。
でも本当に知らないようだったので仕方なくいちから説明すると、なるほどそんな重要人物だったんですか、それは知らないのはマズいですね怒って当然ですすいませんでした勉強しますと素直に謝られたので、そこはやっぱり可愛い後輩なので(笑)それ以上は追及せずに、またグラスを傾けましたとさという馬鹿みたいな実話です。


で、結局彼女は何なのかという話ですけど。
まず一応言っておくと、彼女は某国内トップクラスの私立大学に現役合格した、一般的には十分に"頭のいい"カテゴリーに属している女性で、また見ての通り社会問題にも関心のある真面目な学生であるわけですね。
それがどうしてこういう奇妙な欠落のある、空転した思考・知のありようを見せるのかというと・・・。

直接的には恐らく、この時期なにがしかの"刷り込み"を、彼女は受けた状態だったんだろうと思います。善悪・結論の固定した、一連の"ストーリー"的な知識の。
そこにおいては"悪役"と決まっているキャラクター(小沢一郎)の動機を考える必要は無いし、史実にはあってもシナリオには無い重要な人物(石原莞爾)の存在も、知らないでいられる。
"誰か"なのか"何か"(団体)なのか、具体的な主体は分からないですけどね。恐らくは「従軍慰安婦」問題についての"運動"の周辺に、出発点なり中心があるんだろうと思いますが。
それら自体を肯定も否定も当面僕はしませんが、問題は彼女が正常な思考や学習のプロセス外でそうした"ストーリー"に身を委ねていただろうことで、そうでなければあんな空転や欠落は生まれないはず。
他の話題については全然そんなコじゃないですし、また僕に指摘されればその時には気付くことの出来る知性は持っているわけですし。

これらは一般的な"洗脳"の描写と言えないことは無いわけですが、では彼女が一方的な"被害者"なのかいちから深い洗脳を受けたのかというと多分そんなことは全然無くて、結局は"ストーリー"によって強調された、彼女自身の"思想"だったんだろうと、リアルタイムの印象としても感じていました。
彼女やそして勿論僕も受けた、生まれ育った「戦後」(民主主義)的な教育や思想や常識に、安住し切ることによる油断、そこからこぼれ落ちたもの見えなくされたもの、例えば「戦前戦中」や「軍事」的な事柄に対する全般的な侮り、当事者の"動機"について考えることも基本的な"事実"の確認をすることも易々とスキップすることを自分に許してしまう、他の事についてなら当然なされる知的配慮が気楽に飛ばされてしまう。そういうある種の知的な"死角"の存在。

彼女のことはともかくとして本筋に戻って、そうした彼女の振る舞いに接することが僕にどういう影響を与えたかですが。
言い方難しいですが、"戦後民主主義"的な常識・正義感を、戦後50年前後経った時点においてストレートに延長して正義を組み立てることの危うさの体感、かな?そして更には、そうしたものへ"信頼"に基づいているのだろう、彼女も参加していたらしい市民的な「運動」の独特のいかがわしさの目撃というか。
一例でしかないと言えば一例でしかないんですけど、殊更そういうものに関心のあるわけではなかった僕には十分に強い影響と言えて、その後より世間的に目に触れる機会の多くなる、日本における様々な「市民運動」的なもの全般に対する、これはこれで一つの「偏見」と言えなくはないんですけど(笑)避け難く懐疑的な態度・心情を構成したと、そういうことはあると思います。


最後に5,6合わせた今回全体のまとめとしては。
一言で言えば、極右やリベラル嫌いの心情・動機には、実は僕自身も理解・共感出来るところは少なからずあるという事です。あった。気持ち自体は分かるところも多い。神秘(道)主義や陰謀論的なものまで含めて、広い意味で極右的なものに惹かれた時期は、少なくとも大学生時代にはあった。
逆に「極左」に惹かれたことは基本的に無いので、そういう意味で言うなら僕は"右"寄りなのかも知れません。ただ"極"まで行かない範囲だと結構左寄りだと思うので、そこらへんは難しい。
まあ"難しい"とは言っても、そもそも"判定"する必要自体、別に無いと思いますけど(笑)、「右」か「左」かなんてことを。

ともかく大事なのはこれは単に僕個人の遍歴の問題ではなくて、戦後的な教育や思想自体が持っている偏りや欠落、それらがかなりの部分構造的に引き起こした反応ではないかと、そういうこと。僕という、フラットとは言いませんけど基本的にはノンポリないち学生に。だからある程度普遍的に同じ構造が、今日の問題にも当てはまる部分は少なくないように見えると。

"穴"はある。後はそれにどう反応するか。
僕は僕なりに、彼女は彼女なりに反応していた。それだけと言えばそれだけなのかも知れません。


以上で大学生編は、終わりです。
次は卒業後


テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
"戦後民主主義"との距離感 (栗本慎一郎と呉智英) ~"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [2]
2019年07月12日 (金) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])

大学生編目次

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左


3.栗本慎一郎と"現代思想"

(1)栗本慎一郎と『鉄の処女』

栗本慎一郎。元明大教授、国会議員、経済企画政務次官。
本人は"経済人類学"(者)という名乗りを最も好み、また大学で主に受け持っていた講座は"法社会学"らしかったりしますが、結局は「哲学者」と紹介しておくのが、一番実態に合ったラベリングになるだろうと思います。'80年代初頭の日本における所謂「現代思想」ニューアカ」ブームを代表する一人。(栗本慎一郎Wiki)

経済・歴史から生物学・オカルトまで、多岐に渡り言及した著作があり、僕も余裕で二桁冊数読んでると思いますが、一番印象に残っていて今でもたまに開くのは、結局一番最初に読んだこの本だったりします。



『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』(光文社カッパサイエンス、1985年)。
タイトル通り、当時の主に日本の思想状況の概説・評論書ですが、僕が手に取ったきっかけは例によって(?)偶然に近くて、「鉄の処女」つまり"Iron Maiden"(イギリスのヘヴィ・メタルバンド) のファンだったからです。(笑)
メイデンの曲以外で、「鉄の処女」なんて日本語を見たのは初めてで、妙に嬉しかったです。(笑)
そこで取り上げられている思想家たちをその時点では僕はほとんど知らなかったですが、それでも書いてあることはあらかた理解・想像出来て、そういう意味では僕の"潜在需要"に結構ぴったりはまっていた本だったんだろうなと思います。(勿論その後この本を手掛かりに、あれこれ読んではみました)

数ある概説的な本の中でこの本の大きな特徴を挙げてみると、思想家・学者の思考対象領域を大きく二つ、秩序的理性的な"Aゾーン"非秩序的非理性的な"Bゾーン"に分け、

AゾーンとBゾーン

各思想家がそのどちらをどの程度重視しているかの割合を数値化した「思想の品質表示」一覧として示す

思想の成分表示

という、自ら"暴挙"と称する思い切った単純化を行ったこと。
ま、具体的には、見てもらうのが一番ですね。むしろ何にも言わずにこの二つの図表だけを置いておいても、良かったかも知れない(笑)。勿論個々の"数値""評価"に対する説明も、本文ではありますが。
ちなみに興味があるだろうと思うので僕自身の思想の"Aゾーン"と"Bゾーン"の割合を自己評価してみると、だいたい「3対7」くらいかなと。「4対6」の吉本隆明と「2対8」の栗本慎一郎の間。自己評価する資格が僕にあるかは謎ですが、それぞれを読んだ時に感じる"違和感"を手掛かりに、ある意味客観評価してみるとそんな感じ。

なお表では「3対7」の席には"ハイデッガー"が座っていますが本文では特に触れられていないので、これは同じドイツ現象学系の哲学者でこちらは本文でも触れられている"フッサール"の誤記である可能性があるかと思います(または単にフッサールとハイデッガーを同割合と評価しているか)。いや、僕ハイデッガーは余り好きじゃないんですけどフッサールは好きなので、"同居"相手としては出来ればそっちの方が嬉しいなという、そういう動機の話ですが(笑)。ハイデッガーは、なんか色々濃そうでヤなんだよなあ。(笑)

とにかく、そういう本です。


(2)「理性主義」としてのマルクス主義

その中から今回の記事("右"と"左"の個人史)に直接関連しそうな内容を探すと、まずはここらへん。

p.157

弁証法は、表層あるいは体系内の思考の試みである。(中略)
ヘーゲルの弟子、マルクスの雑駁な議論をさらに単純化したマルクス主義者たちは、歴史の流れを、体系内部の意図的な努力(イコール理性)でコントロールできるという、楽天的な物語を作り出した。

「社会主義」(共産主義)が人間の理性の能力への非常に"素朴"な信頼に基づいた思想であるという認識は、既に"小学生編"の「計画経済」の項で述べました。・・・当時の自分の"素朴"さの回顧・反省と共に。
「計画」すれば、何でも出来る。だから全て「計画」して「計画」通りにやるべきだ。

その後も例えば"プロレタリア独裁"という発想を聞いた時に、いや、元は"プロレタリア"だったとしてもいったん上に立っちゃえば結局ただの"権力者"じゃね?"政治家""官僚"じゃね?どんだけ性善説なの?人間・大衆に希望を持ってるの?と、ほぼ単に語感からの連想ですが、子供ながらの疑問を社会/共産主義に対して重ねていたりはしたわけですが、この本でそれらの背景にある「哲学」としてのマルクス主義と、その元となったヘーゲル哲学自体が理性主義である、理性("表層あるいは体系内の思考")で世界は完全に理解出来て、歴史も理性的必然的に推移する(体系内部の意図的な努力でコントロールできる)という思想であることを教えられて、なるほどと。
実務者が考え無しだから素朴だったのではなくて、元々の構想からして素朴だったのかと、納得したというか位置づけが"確定"出来たというか。

マルクス主義は理性主義、それを中心or源とする"左翼"の基本も理性主義、そう性格を確定することは後々も自分の思考の経済にとって大いに役立ちました。それでたいていある思想がある人がなぜそのようであるかの"理由"が理解できるし、"限界"も予測出来るので。
ちなみに栗本慎一郎自身も、マルクス経済学(宇野派)から出発した人ですね。その経験・反省の元に、こういうことを言っている。


(3)「戦後民主主義」と左右知識人

(2)は言ってみれば「その当時の自分」にとってのみ、特に重要だった気付きで、内容的には初歩的と言えば初歩的なんですけど。
こちらは今日の状況に至るまで、普遍的に重要性があるように思える話。

p.132

ことに渡部昇一、竹村健一、小室直樹、谷澤永一らの人々は、戦後民主主義が生み出したパターン的な思考、硬直した思考へのはっきりしたアンチテーゼとして存在しているのは事実だ。そのことだけとれば、吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男らと同じである。


渡部昇一、竹村健一、小室直樹、谷澤永一。
未だに存在感があるのは"ネトウヨの教祖"の一人、渡部昇一くらいではないかと思いますが、とにかく(吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男らによる)"現代思想"や"ニューアカ"ブームので、主に"ビジネスマンに人気のあった"(らしい)思想家たち。現実主義的実用主義的で、それゆえに保守的体制寄り"右"寄りでもある。
"らしい"というのは当時的にも僕には単純にピンと来ない名前だったからですが、今回の後半で紹介する呉智英も似たような問題提起を行っているので、恐らくは結構重要で大きめな思想状況的"盲点"に位置していた人たち。それ(問題提起)が見過ごされたことによって、今日の"総右傾化"的状況が引き起こされた。
(ちなみのちなみですが、上記のような"ビジネスマン向け"思想家たちの「読者」のなれの果ての代表として、幸福の科学の大川隆法主宰などを、今ならば個人的には挙げたいです。そこからの"極右"への流れも含めて)

ここで何が言われているかというと、まずは"知的"と自負する階層からは通俗的だと馬鹿にされがちなこういう思想家たちも、「戦後民主主義が生み出したパターン的な思考、硬直した思考へのアンチテーゼ」という"知的"な機能、目的意識をはっきり持っている"立派"な思想・知性であること、そのことを偏見なく認めるべきであること。そしてまたそうした"機能"や"目的意識"は、「吉本隆明、蓮實重彦、山口昌男」らバリバリの"現代思想"家たちも("左寄り"という)方向は違えど共有しているということ。

さらっと書きましたが後半部分が実は凄く重要で、つまり今日主に右サイドからの総攻撃を受けている所謂「戦後民主主義」的なもの、西欧型の民主主義や西欧近代思想直輸入型の常識や"正論"の、批判者として「現代思想」もあったということ。今日の状況だと、まとめて「左翼」「リベサヨ」などとして、マルクス主義者やら"進歩的文化人"全般(例えばこの本で批判的に取り上げられているのは、立花隆小沢遼子)やら、極左やら社会党やらPTAやらと一緒に片付けられてしまいそうな勢いではありますが。
問題なのはいち「現代思想」ブームの取捨では勿論無くて、それらを尖鋭的な代表とする、(民主主義や社会主義もその一部とする)西欧近代の"成果"を受け止めつつその難点や形骸化を知的に乗り越えようとする、つい最近までほとんど当たり前だったアプローチの総体。

それに対して渡部昇一らのアプローチはより"否定"的かつ"先祖返り"的で、(戦後)民主主義なんてほんまは要らんかったんやまとめて綺麗事やおとぎ話や、男は黙って腕力と伝統と"男の本音"に物を言わせとりゃあええんや(なぜ関西弁?)と言いたがっているようには見えますが、それもまた一つの"アプローチ"であり、(当時は)少数派であることを前提としたポーズでありスタイルであり逆張りであり、本質的にはまだ知的なものではあったはずです。実際には両者の間にはそこまで深刻な知的断絶は無く、極端に言えば業界内でのキャラ付けの問題でしかないところも。

p.135

新宿ゴールデン街の元左翼どもが、左翼のポーズで友だちを得るのが好きなのに対し、渡部たちは右翼のポーズで友だちを得るのが好きだ、というだけなのである。


言いたいのはつまり、日本では「戦後民主主義」のような形で直輸入的に確かにいささか矮小な形で受容された西洋近代思想の難点や堕落、それら自体は左寄りの知性にとっても右寄りの知性にとっても「共通敵」としてあったということです。・・・前回の"ポリティカル・コレクトネス"のところでも、「言葉を狩られて嫌なのは右だろうが左だろうが同じだろう」ということを言いましたが、つまりはそういうレベルの話。
要は右か左かよりも、知的か知的でないか、言葉の使用に意識的かそうでないかという、そちらの方の違い。

それがどうして今日のような真っ二つに分かれるような状況になったかですが・・・。
これ以上書くと次の「呉智英」のパートで書くことが無くなりそうなので(笑)、いったん締めます。
まとめてとして栗本慎一郎は、「現代思想」の中でもひときわ強くマルクス主義の限界と否定を主張して、"ここから左"には決して行かないというライン・目安を僕に一つ与えてくれた人ですが("右"的影響)、一方で今日総体として「左翼的」とみなされることの多い「現代思想」の世界に僕を導き入れた人ではあるので("左"的影響)、影響の性格付けとしては、『左であり右』(冒頭)としておきます。

まあ「現代思想」が「左」なのかについては、少なからぬ疑問はあるんですけど、今はそれには触れずに世評のままに任せておきます。



4.呉智英と「封建主義」
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"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [番外] ~渋谷陽一の「思想」
2019年05月21日 (火) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])


最初にお断り
なるべく"本流"に繋がるよう努力はしましたが、少なからずこじつけ臭くて結局はただの「渋谷陽一論」でしかないようにも思うので、「番外編」とさせていただきました。
無くてもこの先の話は通じるはずなので、興味がある人以外は読まなくても(笑)いいです。


大学生編目次

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左



[番外] 渋谷陽一の音楽批評

"BURRN!"が出たからにはロッキングオンも!と繋げたいところですが(笑)、実際には僕はいきなり渋谷陽一の"著書"(評論集)を読んでしまったので、雑誌ロッキングオンを読むようになったのはその後というか、その流れというか。ついで(笑)というか。
きっかけは覚えてないですねえ。何らかロックへの興味だとは思うんですけど。ネットの無い時代、昔はほんと行き当たりばったりで店頭で本を"買って"、学生の時は金が足りなくてしかたなかったですね。



それぞれ初版1980年、'82年、'84年。
どれかが古本屋でたまたまあった、という可能性もあるかな?(きっかけ)
ちなみにメタル以外の(普通の?)ロックを聴くガイドに最初にしたのは、別の人です。

本題に入って。
渋谷陽一。雑誌『ロッキング・オン』『CUT』の、創刊編集長。1951年生まれ。(Wiki)
渋谷陽一1渋谷陽一2

前回で既に"上野千鶴子"という本格的な"学者""思想家"の名前が出てはいるんですが、しかしより直接的に僕に「思想」的な「覚醒」、刺激をもたらしたのは、こちらの一介の(?)ロック評論家、本人に言わせると"本業はあくまで編集者"な人の方だと思います。
まあ上野千鶴子の"女性学"は、結局思想・哲学というよりも「個別科学」として読まれてしまったということではあるかと思いますね。そのスケールのインパクトだったというか。

さりとて渋谷陽一がそこまで大した哲学者であったとか包括的な思想内容を持っていたというわけではないわけですが、要はタイミングとポジションの問題でしょうね。ある種の「洗礼者ヨハネ」のような役割を、僕に対して果たしたという感じ。(ただし"救い主イエス"には未だに出会っていない(笑))
でも実際なかなかだと思いますよこの人は、読み返しても。自分の頭と体を使った「意識的思考」の、本当に出来る人。もっとつまらない哲学者や無内容なプロ評論家は、腐る程いると思います。有名な中でもね。


1.渋谷陽一の"左"的影響 ~「対象化」論

(1)「批評」と「対象化」

その渋谷陽一が展開する、直接的にはロック/音楽批評の中で、口癖のように出て来ていたワードが、「対象化」というもの。渋谷陽一の「批評」の内容はほぼこれ、あるいはこれの必要性を訴えることに尽きると言ってもいいかもしれない、中心的な概念です。
対象化。文字通りには、何かを「対象」として捉えること、あるいは捉えられるようにすること。特に特殊な概念ではないので耳慣れている人もいない人もいるでしょうが、とりあえず具体的な使い方を見て行きましょうか。
典型的には、所謂"プログレッシブ・ロック"をめぐるこういう記述。

プログレッシブ・ロックとは、ロックがロックそのものを対象化し始めた最初の動きと言える。(中略)
それまでのロックは、一種の初期衝動のみによって突き進んでいた。走り出したいという欲求があれば、すぐに走り出し、そこには対象化の努力も何もなかったのである。

(『ロックミュージック進化論』 p.113)

ロックとはもともと現実との違和を徹底的に増幅し、そのひずみを音にして来た音楽である。その違和を対象化し、原因を露にしていくのがプログレッシブ・ロックであった。

(同上 p.125)

衝動の"対象"化、違和の"対象"化。
簡単に言えば、感覚に名前を与える行為で、そこから例えば"原因を露に"することも可能になる。

今のはどちらかというと内面的事柄に特化した説明ですが、より外面的な事象だと、こんな感じ。

("アメリカ市場"という舞台において)
アメリカのバンドにとってアメリカ自身はあえて批評したり、対象化したりする必要のないものであった。(中略)
イギリスのバンドは自分たちのイギリス的な部分を対象化し、インターナショナルなスタイルを獲得しようとするのである。

(同上 p.145)

ここでは他人の目に映る"自分自身"を自分に対して客体化するみたいな意味ですかね。そもそも"イギリス的"という言い方自体に、「対象化」のプロセスが入っていますが。
客体化して「対象」として扱う。扱えるようにする。内側にぼんやりあったものを外側に引っ張り出すという意味で、"外化"などという言い方をすることもありますね。対象化・客体化・外化、全てほぼ同じ意味。

"客観"化・・・だと"主観"として意識されていたものを客観として意識し直すみたいなニュアンスが強いので、少し使いづらいかなと(使えなくはない)。むしろどういうものとも意識"されていなかった"ものをされている状態にするのが、対象化や客体化。批評の種類(客観か主観か)の問題ではなくて、批評の"無い"状態からある状態にする行為。その最初の一歩というか。

とにかくこの「対象化」というプロセスが渋谷陽一の批評の中心であり、中身であると、そう言っていいと思います。(少なくともこの時期の)
それ以上のことは、その「対象化」の具体的中身からの論理的延長。

(2)「対象化」と相対性

で、ここからが少し分かり難くて、この稿を「番外」と位置付けざるを得なかった由縁ですが。(笑)
こうした渋谷陽一の音楽をめぐる論が、僕に何をもたらしたかというと。
一言で言えば、かつて日本SFがもたらした"懐疑"(相対性)の、「その先」かなと。
世間や慣習や伝統が押し付けて来る意味や価値を、疑って相対化して差し戻す受動的なプロセスにとどまらず、逆に自分から意味や価値を能動的に見出して確定して行く、あえて言えば"押し付け"返す(笑)反撃のプロセスというか。"対象化"作業によって。

つまり"懐疑"というのは、知的にはある種の密かな優越感を持たせたりはするんですけど、一方で"信じる"力を失う分、心理的に"弱"くもさせるわけです。それだけで終わると。
その"後"の、それ(慣習的な価値と意味)に代わるものを作る作業が必要で、その手本が例えば渋谷陽一の言う「対象化」というプロセスであったわけですね。
実際渋谷陽一は、ある種の"サバイバル"戦術として、「対象化」プロセスを位置付けていたりもします。

ジム・モリソンやジャニス(ジョプリン)が死んでしまったのは、彼等が自らの内なるロックを対象化し得なかったためだ。ある意味で生き延びるしたたかさを持ち得なかったために死んでしまったといえる。
ただロックなるものが本当に言葉として対象化され、語られるには少々時間がかかったのである。社会とのかかわりの中で戦略戦術が考えだされるまでには時間が必要だった。

(同上 p.73)

自分がやっているものは関わっているものは、あるいは自分が自分の中に感じているものは要するに何なのか。それを理解・確定する(対象化する)ことによって、それを抱えながらあるいは利用しながら、社会(世界)の中でどう生き延びて行くかのプランが立てられるようになると、そういうことですね。

・・・そう、「批評」的態度というものを学ぶと同時に、「戦略」的思考というものに触れたのも、多分渋谷陽一が初めてだったですね僕は。「性格が悪くなった」と、ごく端的に母親に言われた記憶がありますが(笑)、この時期。

そういう意味でも明らかに影響は大きいんですけど、ただその"影響"の中身を論理的に確定する(それこそ"対象化"する(笑))のは、なかなか難しいんですよね。
それは渋谷陽一のそもそもの記述が断片的なもの(音楽雑誌の投稿原稿)であるというのもありますが、それ以上にその影響が論理的に一つ一つ"教えられた"というよりも、渋谷陽一の(主には"対象化"という)言葉遣いをきっかけとして、僕の中に潜在していた諸々の思考や感情が一気に寄り集まって形を得たという、そういうタイプのものだからです。
何か全く新しいことを知ったというよりも、既に持っていたものの使い方の、手頃な例を示してもらったというか。
・・・そういう意味では別に渋谷陽一でなくても良かったんでしょうが、でもまあ"渋谷陽一"で良かったかなと思っています、結果的には(笑)。十分というか。(笑)

で、"中身"はともかくとして、問題は"影響"の「方向性」なわけですが、この論のテーマとしては。
上で"日本SF的相対主義の「次」"だという言い方をしましたが、「次」である、受動的相対化から、能動的意味確定・発見の作業に移ったという意味ではある意味変貌・転向のプロセスとも言えるわけですが、しかし僕の中の"風景"としては、この2つはどうも同カテゴリーというか、延長線上に位置しているんですよね。
あくまで結果的感覚的なものでしかないんですが、しかしそれはそれとして選びようのない一つの(心理的)"事実"として、それを前提に渋谷陽一的「対象化」を位置付けてみると。

「対象化」によって「相対化」による"心理的弱化"という問題を一部補強出来たことによって、相対主義路線での生存可能性がより高まった、つまり路線堅持と、そういう"効果"(笑)かなと。
実際のところは当の渋谷陽一の論全体が、圧倒的に「相対性」を前提として出来上がっているので、そもそもの「対象化」概念の生息環境自体がそうだったということはあります。そういう意味では、自然な位置づけ。
とにかく結果として"風景"が変わらず意識される"路線"も堅持されているので、これに関しては一応「左」的影響と、そういうことにしておきたいと思います。



2.渋谷陽一の"右"的影響 ~認識と「身体」性
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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [1] ~ポリティカル・コレクトネスとフェミニズム
2019年05月07日 (火) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)


"ポリティカル・コレクトネスとフェミニズム"
何て煽情的なサブタイトル。炎上狙いか?(笑)
まあ残念ながら(?)、そういう内容ではないと思います。"期待"にはそぐえないかと。(笑)


大学生編

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
渋谷陽一の音楽批評 双方
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左


1.PMRCとポリティカル・コレクトネス

(1)ポリティカル・コレクトネスとPMRC

ポリティカル・コレクトネス

性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用することを指す。(Wiki)

日本において「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が普通に聞かれるようになった・・・"普通"というのはつまり、インターネットは普通(笑)にやるけれど特別政治や社会問題に関心があるわけではなく、立ち寄り先は専らニュースサイトやツイッターや趣味関連のブログ程度という僕のような人の目にも触れるようになったという意味ですが、それを"普通"と言っていいならそれはいつ頃のことでしょうかね。
"大統領候補"ドナルド・トランプの言動が話題になるようになったのは2015~16年頃でしょうが、さすがにそれでは最近過ぎるか。Wikiに載っている目立つ用例として、「スチュワーデス→キャビンアテンダント」が1996年、「看護婦→看護師」が2002年ですから、そこらへんでは既に"実態"としては認知されていたはずですが、言葉としてはどうだったか。
・・・「トルコ風呂→ソープランド」(1984)は、それはまた別枠な気がするぞ?Wiki編者(笑)。ところで「ジンギスカン」はいつまで使われ続けるのか。「セクシー女優」という言い換えには、何の意味があるのか。
とりあえずじゃあ"実態"(「キャビンアテンダント」)と"ブーム"(トランプ)の中を取って、2000年代末くらいと想定しておきましょうか。

発祥の地アメリカでは1980年代ということになっていますが、実は僕個人としては、それとほとんど時差なくこの言葉に触れている、意識する経験をしているんですよね。
それは別に僕が事情通だったからでも意識が高かったからでもなく、ヘヴィ・メタルファンだったからです(笑)。この"ポリティカル・コレクトネス"的潮流の中で生まれた「PMRC」というポピュラーミュージックの歌詞表現に関する検閲組織(1985年設立)が、ヘヴィ・メタルの人気バンド"ジューダス・プリースト"や"トゥイステッド・シスター"を標的にし(「最も不愉快な15曲のリスト」)、それを問題視したヘヴィ・メタル専門誌"BURRN!"



が外部ライターに依頼した比較的本格的な特集記事を何度か載せていたからです。その中で"ポリティカル・コレクトネス(PC)"という言葉も、背景の話として出て来ていた。・・・"PC"という略語は割りと使われていましたかね。"ポリコレ"は記憶に無い。

1985年というと僕はまだ高校生ですし(つまり"BURRN!"は小遣いでは買えない)、アメリカと日本の時間差を考えると1986~88年頃の話ですかね。PMRCをディスったジューダス・プリーストの曲"Parental Guidance"('86)をアルバムで聴いた時はまだポカーンとしていた記憶がありますから(笑)、'87年以降が有力。
とにかくまあだから、約20年後に再び身の周りでこの言葉が比較的頻繁に聴かれるようになった時は、「あ、懐かしい、あったねそんなの」というのがまずもっての感想でした(笑)。「まだそんな話してるの?」とまでは思いませんが、"言葉"として現役である(むしろホット(笑))ことには少し驚きました。


(2)"ポリコレ"は「右」なのか「左」なのか

当然「左」なわけでしょうけどね、現在の文脈では。理論的にも多分どちらかと言えばそう。

ただ当時大学生の僕がジューダスらに加えられていたこうした圧力をどういうイメージで見ていたかというと、むしろ「右」サイドのイメージでしたね。だからPMRCの旗振り役として主に名前の挙がっていた"ティッパー・ゴア"というおばさん(失礼。でもほんとにそういう、少女漫画に出て来る三角眼鏡でガリガリのキンキンうるさいおばさん教師のイメージ)が、後に"民主党"の副大統領アル・ゴアの夫人であると知った時は、え?共和党じゃなかったの?と結構びっくりしました(笑)。悪いことをするのは、うるさいことを言うのは、全部共和党かと思ってた。
(実際のティッパー・ゴア

Tipper Gore

"三角眼鏡のキンキンおばさん"というより、"肝っ玉母さん"とかに近いイメージかな?(笑)
尚更「右」的でもあるかも)


より正確には、「左」と「右」、ではなくて、「リベラル≒価値寛容」「全体主義・国家主義≒画一的正義の押し付け」という対立のイメージでしょうけどね。日本において「リベラル」という言葉・概念が「左」と結び付けられるようになるのは、かなり最近。あえて右左で言うなら、「中道左派」と「極右」の対立というイメージ?それこそ『太陽にほえろ!』(前回)は思想的にはリベラルですけど、社会における"位置"的にはどう見ても真ん中へんですから。

こうしたイメージの元には、PMRCが単なる民間団体というよりワシントンの有力政治家夫人たちによるほぼ「政府」側の活動として存在していたというのは、当然大きいと思います。最初から"権力"を持っていた。またゴア夫人の夫は民主党ですけど、次に名前の挙がるベイカー夫人の夫(ジェイムズ・ベイカー)はバリバリの共和党。やはり直接の"党派"というよりも「体制側」であることに特徴のある運動だったのは、間違いないと思います。
とにかくだから、当時の僕としては"リベラル"な立場として"ポリコレ"と敵対していた認識だったので、後に「リベラル」と「ポリコレ」がセットで槍玉に上がる形で再登場して来た時には、え?え?え?何のこと?俺はティッパーおばさん側なの?と、かなり当惑させられました。

まあこういうある種ナチュラルな"リベラル"の社会的位置づけが途中から激変して戸惑うという経験は、僕前後の世代のある程度以上"知的"と自負する層の人の多くが、経験していることだと思いますが。
真ん中ないしニュートラルだと思っていたら、「左」にされた。単なる"良心"、人類普遍の理想だと思っていたら特定の「思想」にされたというか。
そうなったことについては、(理論的に)正当な部分と不当ないし過剰な部分と、両方があると思いますが、まあそれは結論的な話になるのでまた後で。


(3)「ポリティカル・コレクトネス」と「言葉狩り」

当時の話に戻って。

PMRC/ティッパー・ゴアによる"検閲"的運動が、かなり具体的な政治権力として、また戦後日本が正に手本とした"リベラル"の本家、"自由の国"アメリカ発の動きとして登場したことにはそれ相当のインパクトはあったわけですが(アメリカの根っこの部分の保守性や宗教的原理主義の存在に気付くのはもっと後)、ただ「戦い」の性格としては、「敵」としてのポリティカル・コレクトネスの本質性については、一方で実は"既視感"のある部分もあったりしました。

これ知ってる。要するに「言葉狩り」だよね?

"言葉狩り"

特定の言葉の使用を禁じる社会的規制を否定的に表現した言葉。
1993年に起きた筒井康隆の作品「無人警察」における一連の事件の中で扱われ世間に浸透した。(Wiki)

あからさまに不十分な記述として運営に叱られていますが(笑)、結構これでイメージは伝わると思います、特に「筒井康隆」の名前が出て来たあたりで。
ただし'"1993年"というのは随分と新しい話で、つまりこの『無人警察』



における"てんかん"描写をめぐるある種のバッシング、筒井康隆の立場からすれば「言葉狩り」によって"断筆宣言"という決定的な事態に至った(筒井康隆Wiki)、それをもって「言葉狩り」という"言葉"が認知浸透を見たという編者の記述ですが、ではそれ以前はどうだったかというと少なくとも僕が筒井康隆を読み始めた小学校時代(遅くとも'80年代)には、既に随所で筒井康隆は各種メディア・勢力による自分の作品への表現規制の文句を直接間接に書いていたはずですし、「言葉狩り」という言葉自体も筒井康隆本人(の発案)によるかどうかは定かではないですが目にしていた記憶があります。・・・実際その"集大成"(笑)というか"堪忍袋の緒が切れ"た事態として、「断筆宣言」もあったわけでしょうし。いきなりぶち切れたわけではない。(笑)

"時期"の問題として更に付言するならば、これは今回気付いたことですがとりあえずこの"1993年"の時点では、こうした問題は「言葉狩り」の問題として扱われていたことがこの件で分かりますね。まだ"ポリティカル・コレクトネス"ではない。
ならば1996年の"キャビンアテンダント"も、そうかな?2002年の"看護師"だとどうだろう。"ブロードバンド元年"が2001年だそうですから(ADSLWiki)、そろそろアメリカの状況(言葉)がダイレクトに入って来てもおかしくない頃かも。まあいいや。

一応言っておくと、「言葉狩り」というのは"狩られる"側の言い方で、「ポリティカル・コレクトネス」というのは"狩る"側ないし中立の概念なので、最初から非対称と言えば非対称なんですけどね。
ただそれはそれとしてこの二つの言葉がほぼ同じような意味同じような事態について言っている、あるいは違う時代背景における連続的な問題意識を扱っているのは明らかだと思います。

そこから何が言えるかというと、一つは勿論、今日言うところの「ポリティカル・コレクトネス」、言葉の"正しさ"という問題は、別にアメリカ発の問題ではなくて日本にも昔から存在していた問題であるということ。
そしてそこから更に踏み込むと、「ポリティカル・コレクトネス」(を目指す事)は必ずしも今日のように"左"と結び付けられる問題ではなくて、今"右"側という自意識を多く持つ人たちが抵抗しているように、昔の日本の知識人、総じて現在の観点からは"左翼的"とされるだろう知識人たちも、同じように抵抗していたということ。(その代表として筒井康隆が相応しいのかにはいささか疑問もあるんですけど、ややこしくなるので今回は割愛。)
右翼にとっても左翼にとっても、「ポリティカル・コレクトネス」は敵であると。(笑)
まあ「言論統制」されて喜ぶ"知識人""知性"というのはちょっとどうかしてますから、当たり前と言えば当たり前なんですけどね。(笑)

とにかくだから恐らく「ポリティカル・コレクトネス」や「言葉狩り」の問題を解く、説明するには、"左""右"とは別の視点が必要となるはず。"左右"の違い自体はあると思いますが、ただそれは左だから賛成するとか右だから反対するとか、そういう単純な話ではない。・・・これ以上書き出すと本論の目的からずれてしまうので、そこらへんについては余裕があれば、最後にでも論じてみようかなと思いますが。


2.上野千鶴子とフェミニズム
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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
"右"と"左"についての個人史的考察 : 小学生編
2019年05月01日 (水) | 編集 |
(はじめに)より。


小学校時代

「計画経済」と「国連軍」 (と、イスラエルのキブツ) 
『太陽にほえろ!』('72~)と『大草原の小さな家』('75~) 
日本SF(星新一、筒井康隆、半村良ら) 
本宮ひろ志『硬派銀次郎』('76~) 
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』('78)への反発 反右


1.「計画経済」と「国連軍」(と、キブツ) ~原始的理性主義・素朴理想主義

今も大して無いですし、増して子供の頃に政治や経済や社会に対する関心は無きに等しかったと思いますが、その中で記憶にある最も古い、関連項目としてはこんなものがありました。
小学校の・・・4年生くらいですかね、学校で歴史の授業が始まる少し前に親が買い与えてくれた、和歌森太郎監修『学習漫画日本の歴史』。(1967年、集英社)



その現代史のパートでソビエト連邦(当時)についての紹介があって、社会主義国ソ連では、「計画経済」というものが行われていて、"三ヶ年計画"や"五ヶ年計画"が次々に施行されて経済が運営されていると。
その成否についての記述はあったのかも知れませんがとりあえず僕は覚えていません(笑)、僕が覚えているのは「計画経済」という響きそのもの、経済を「計画」的に行うなんてなんて素晴らしいんだ、さぞかし上手く行くのに違いない日本もやればいいのにという、とてもとても素朴な感想でした(笑)。(戦後日本の"傾斜生産方式"云々についての記述は、あったのか無かったのか、どのみち覚えてはいませんが)

この時点で僕に何らか予備知識なり何かからの思想的影響があったという記憶は全く無くて、これは本当に純粋に、「物事は"計画的"に行えば上手く行くものだ」という、"理"性的なもの、理性の能力への素朴で無邪気な信頼を僕が抱いていたということを表しているんだと思います。そしてこれは後年の知識ですが、所謂"マルクス主義"的なものへの支持の中心にあったのも、実はこういう正に"子供"じみた信頼・楽観なのだと、僕は思うわけですが。社会(経済)は完全に計画可能であり、そしてその"計画"は概ね善意に基づいて実行されると期待し得るいうことへの。

今"善意"ということを言いましたが、恐らくは同時期か少し前の、別のイメージ。
どこで知ったのか分からないんですけど、世界には「国連軍」というものがあって、どこかに悪いことをする国があったらその「国連軍」が出動して、みんなで協力してその国を懲らしめるらしいということを聞いて、「それは素晴らしい、みんなで協力するなら無敵だね、悪い奴なんてひとひねりだね」とほとんど何の疑いも無く、"国連軍"の絶対的善意と絶対的戦闘力に安心感信頼感を抱いた、そんな記憶があります。
案外素直いいコでしたね(笑)。僕が特別にそうなのか、それとも同時代の(日本の)子供はだいたいこんなもんだったのか、特にこういう話を友達としたことも無いので分かりませんが。

さて"社会"的なトピックスの中でこの時期もう一つ特別な印象に残っているものとして、これは完全に授業でやったんでしょうが、「イスラエルのキブツ」というものがあります。

キブツ (ブリタニカ国際大百科事典)

・イスラエル独特の集団農業共同体
・構成員間の完全な平等,相互責任,個人所有の否定,生産・消費の共同性の原則に基づいて組織
・衣食住など生活に必要なものはすべてキブツが提供,夫婦の家,子供の家,青年の家などが別々にあり,両親と子供は寝食をともにせず,育児や教育も集団で行われる

色々書いてありますが、小学生の僕の印象に残ったのは3つ目の項目のみ、「両親と子供は寝食をともにせず,育児や教育も集団で行われる」の部分。
それに対する僕の反応は・・・「いいな」というものでした。
子供が「親」や「家庭」に縛られないなんて、なんて素晴らしいんだと。素直に。(笑)
"集団"自体がいいとは思いませんでしたが、それに伴うだろう「計画」性の方にも惹かれましたかね。「計画経済」の理想視と、同じ回路で。

ただし、志向としての共通性はあっても、これに関しては若干の偏りや"曇り"が自分で感じられて、「計画経済」や「国連軍」に対する憧憬ほど、純粋で素朴な反応ではなかったと思います。
つまり個人としての(小学生の)僕が「家族」や「親」に余りポジティブな感情を抱いていなかった、そのことが反映されての"偏り"のある反応だろうなと。
だから「計画経済」や「国連軍」に対する子供時代の自分の反応が『思想』だとは特に思わないけれど、「キブツ」に対するそれには幾分かの『思想』性を感じるという。"左傾"化というか(笑)。伝統的共同体(この場合は家族)を忌避する傾向。


2. 『太陽にほえろ!』と『大草原の小さな家』  ~"弱者"への視線と社会的公正性の希求

(1)は一応"理論"的な話ですが、次はもっと感情的に、幼少期の僕の人格・思想に影響を与えたと考えられるTVドラマの話。

『太陽にほえろ!』・・・放送開始は1972年ですが、僕がはっきり覚えているのは"ロッキー"の登場前後からなので、多分1977年以降
『大草原の小さな家』・・・日本では1975年からNHKで放送。

国民的人気ドラマとして、今でも知られる名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』。若い人もゆうたろうによる"ポス"石原裕次郎の物真似や、芸人が好んで引用する"ジーパン"松田優作の殉職シーンなどで、見たことは無くても何となくは知っているはず。先頃亡くなった天才俳優"ショーケン"萩原健一さんも、"マカロニ"役でオリジナルメンバーでしたね。
番組の表の看板は、それこそ松田優作や萩原健一などの若くかっこいい刑事たちの活躍する、やたら"走る"シーンが多いことで知られる(笑)"アクション"を強調した青春ドラマ的性格にあったわけですが、しかし『太陽にほえろ!』がここまで国民的ドラマとなった、別な言い方をすれば老若男女に広く見られる、我が家でもそうてしたが家族団欒のお供的役割を果たすことになった理由は、その生真面目で丹念な"ヒューマニズム"性格の濃いドラマ性にあったと思います。若手刑事たちは毎度イキってぴょんぴょん跳ねるんですけど(笑)、視聴者が見ていた/支持していたのはむしろそれをたしなめるベテラン・中堅刑事たちの慎重な事件・犯人の取り扱いの方だったのではないかと。それは子供の視聴者も含めて。

その『太陽にほえろ!』的ヒューマニズムの軸となっていたのは、一言で言えば"犯罪を犯す側にも事情がある"ということかと。そういう状況へ追い詰められた、あるいは単純に愚かで軽挙な犯人への憐み・同情心、結果としての犯罪という一つの事実よりも、事件の構造や背景を理解する努力、多くは社会の矛盾や不公平への問題意識への視線も含んだそういう"慎重"な態度、"公平"であろうとする努力、それがドラマとしての『太陽にほえろ!』やそこで描かれる"七曲署捜査一課"の刑事たちの行動を貫く基本的な姿勢であったと思います。(勿論違うタイプの事件・エピソードも時にはあります)

ただこれは別に『太陽にほえろ!』のみの特徴ではなくて、米英含めた洋の東西を問わない「警察ドラマ」の王道的パターンであって、それは簡単に言えば、"犯人側の事情"を描かないとドラマとしての必要な葛藤を作り上げるのが困難だからだと思いますが。悪い奴がいた、やっつけろ!捕まえた、わーい!ばっかりでは、継続的にまともなドラマは作れない(笑)。桃太郎にすら、鬼側の事情はありますからね。(笑)
その中で『太陽にほえろ!』が際立つのは、肩肘張らないエンターテインメントドラマという枠の中で、子供も含めた視聴者が自然に納得するような形でそれを行ったこと、同じことですが端的にエピソード・脚本の出来が圧倒的に良かったこと、あるいは上でも言った「若手」と「ベテラン・中堅」の対比が分かり易い構造として非常に有効だったこと、そういうことが挙げられるかなと。
そして結果として"国民的人気ドラマ"であって誰もが見たという、影響力。"時代精神"とまでいうと、少し大げさかもしれませんが。

更にそして・・・山さんかなと。僕が付け加えたいのは。露口茂さん演じる、"山村精一"刑事。

山村精一

彼の特権的な人格的説得力。
同じヒューマニズムでも、例えば"ゴリ"さんだと少々暑苦しくて馬鹿っぽくも見えるし、"長"(ちょう)さんだといくら何でもおじいちゃん過ぎるし(笑)、"殿下"は殿下だしとそれぞれ一つのパーソナリティ傾向、"価値観"でしかないように見えてしまうところがあると思いますが、それが山さんになると、彼の飄々とユーモラスに知的ででも底無しに優しくて、かつそれらが刑事としての圧倒的な現実的"有能"さに裏打ちされている人格的「完成」感は、そのまま彼の体現する『太陽にほえろ!』ヒューマニズムの"正解"感に繋がっていたと思います。山さんが言うんならそうなんだろうなと。難しい所のある問題だけど、とりあえずそこらへんで納得しておこうという。

構造としての『太陽にほえろ!』ヒューマニズムは、山さんという"個人"をとどめとして完成する。それを言葉少なながら常にバックアップする、"ボス"石原裕次郎との「二頭体制」の厚みも頼もしかったですね。
これ以上は単なる『太陽にほえろ!』論になってしまうのでやめますが、とにかくある世代からある世代の日本人にとって、『太陽にほえろ!』が示していた価値観物の見方人間観は、個人差はあれど確実に一つの国民的"基調"として機能していた部分があったと思います。
勿論子供時代の僕も、それを信じていた・・・という程積極的自覚的なものでは多分なかったですが、少なくとも社会的目標としておおまか目指すべき方向性としては、疑う必要を特に感じてはいませんでした。山さんみたいな大人ばかりでないということはそれこそ『太陽にほえろ!』を見ていれば分かるわけですが(笑)、しかし出来ることならば、誰もが山さんのような想像力や優しさを持って(犯罪者も含む)他者に接するべきであるし、大人たるもの出来ればみんな山さん(笑)になるべきだと。

・・・その"当たり前"を後にひっくり返す言説を目にして僕は驚くことになるわけですけど、それはまた後の話。


似たタイプの影響力を持っていたものとしては、米ドラマ『大草原の小さな家』があったと思います。
むしろ『大草原』が代表するアメリカン・ヒューマニズムを手本として『太陽』等戦後の日本のドラマは作られたと言った方がいいのかも知れませんが、大人になってから全話見直した時に、具体的には一つのエピソードも自分が覚えていなかったことが分かってしまった(笑)ので、細かい語りは控えようと思います。見た時に湧き上がる"感情"自体には、確かに覚えはあるんですけどね。子供時代にどの時期の何回目の放送の『大草原』を見たのか、どうにも確定出来ない。

ともかく『大草原』で描かれた、"犯人"ではないですが(笑)"反抗児"ローラ

ローラ・インガルス

の、大人社会の無慈悲や矛盾や不公平に対する怒りや抗議への共感やある種の「正当」性の感覚、そしてその無鉄砲を時にたしなめつつも受け止めるべきは受け止めて、大人の知恵で共に戦ってくれるチャールズパパ

チャールズ・インガルス

圧倒的な包容力と信頼感の記憶は、時期は不確かなれども『太陽にほえろ!』と同様の"原風景"として、確かに自分の中に見出すことが出来ます。

日本に山さんがいれば、アメリカにはチャールズパパがいる(笑)。大人がみんな二人のようであれば、子供はどんなに安心して育つことが出来るでしょう!
比べるとチャールズパパの方は、時代背景もあって結構パターナル(父権的)ですけどね今の観点で見ると。
ともかく山さんやチャールズパパが体現するような思いやりと汲み取りを基本とするヒューマニズムが、時代を代表するストーリーのど真ん中にあって、堂々とモデルであった時代が確かにあったということです。
まあ別に『はぐれ刑事』でも『相棒』でも、人気ドラマの基本はそんなに変わってないんだろうと思うんですけどね、上でも言ったように。ただ影響力というか社会の中での位置は、だいぶ変わった気がします。アメリカなんかの場合は、「警察ドラマ」の作り方自体がある時期以降変わってしまっていますが、その話はまた後で。

いやあ、難しいですよ、山さんやチャールズパパを疑うのは。(笑)
そういう人(子供)もいたんでしょうけどね。友達にはなれなかったでしょうね(笑)。もしくは際立って不幸な子供か。


3.日本SFの影響 ~懐疑主義、(文化)相対主義の目覚め
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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
"右"と"左"についての個人史的考察 ~僕は"右"なのか"左"なのか(はじめに)
2019年05月01日 (水) | 編集 |
令和一発目!

いやあ、新元号に、噂されていた「安」がつかなくて、正直ほっとしました。今後何十年かもやもやしながら元号を使うことになるところでしたから・・・と、いきなり"政治的"発言(笑)をかましつつ。

その"安"倍政権周りを中心に、ここ日本でも平成の特に後半はおよそ政治的に鈍感・無関心な人たちも含めて、様々に意識をかき乱していた「右」(翼)と「左」(翼)という問題について、僕自身の個人史的"心当たり"を手掛かりに少し整理してみたいなという、そういう企画です。
定義は特にしません。以下の実例で語りたいという意味と、そして結局は要するに"感性"的問題であるという、予定的な結論という理由で。

ちなみに少し前にtwitterで流れて来た政党座標テストというものをやってみたら、こうでした。

政党

「左派」と「右派」は、こんな感じかなあ。真ん中というよりも、両方あって打ち消し合ってる感じ。
「自由」と「共同体」は、もっと「自由」寄りかと思いましたが。僕が嫌いなのは、「右」というより「共同体」
安倍政権でも本当に嫌なのは、「防衛」(軍事・外交)とか憲法9条とかではなくて、「家族」主義や「道徳」の押し付けの方(内政)。(経済はそもそもよく分からん)


さて今回は「実例」主義ということで、先に"メニュー"を挙げておく形にしてみたいと思います。
僕の「思想」形成、特に"右"や"左"に関連しそうな内容に関する、思想的な経験の一覧。
思い出せる限り。

1.幼少期~小学校時代

「計画経済」と「国連軍」 (と、イスラエルのキブツ) 
『太陽にほえろ!』('72~)と『大草原の小さな家』('75~) 
日本SF(星新一、筒井康隆、半村良ら) 
本宮ひろ志『硬派銀次郎』('76~) 
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』('78)への反発 反右

2.大学時代

PMRC('85設立)とポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
渋谷陽一の音楽批評 双方
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左

3.大学卒業以後

とあるセレッソ系ブログ やや右
米ドラマ『ボストン・リーガル』('04~) 極右
とある徳島系ブログ 極右
西部邁と「保守」 やや右

・・・これくらいかな。おおよそ"経験"順。「左」とか「右」とかいうのは、経験の方向性。
大学の後半から「右」ばっかりですけど(笑)、それは右に染まったのではなくて"右"的なものも受け入れて、思想的に完成というか中庸化して行ったプロセスと、そういうことにして下さい。(笑)
「中学」「高校」が丸々抜けてますが、この時期は何というか、意図的に外界からの影響を遮断して、意識して本を読まないようにしていた謎の時代なので。(笑)
ネットも無い時代、そうなると本当に空白になるというか、純粋培養・独自思考が進む。(良くも悪くも)
"とある"ブログ二つは、本文を書く時には実名を挙げる予定。


「小学生」につづく。


テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済
イスラム教について
2016年02月15日 (月) | 編集 |
ふと思ったこと。
特に独創的ではないかも知れませんが。
でもなんか一つ、自分的に"風景"が見えた気がしたので。


戦後民主主義教育を受けた"無宗教"な日本人を勝手に代表して言うと、「宗教」としてのイスラム教の総体としての印象は、比較的新しい(新しく広まりつつもある)宗教として、熱心ではあるし、熱狂的でもあるし、行動として厳格な信者の比率が多いのは確かだと思うんですが、一方でそれはある意味"行動"としてであり、行動の不寛容性として"宗教"的ではあるけれど、折々に伝え聞く教義そのものは、何と言うか非常に実際的というか、現世的というか、直接的というか、さほど"深遠"であったり"難解"であったり、"形而上"的な印象は受けないわけです。
ただそれらの戒めや命令の、"根拠"づけとしての神/アラーの持ち出し方、"あの世"の生活の説明の仕方に、非常に厳格性強制性があって、それをもって「宗教」となっているという感じ。

主張の内容というよりは主張の構成の仕方に、"宗教"性の本質があると。
ただ「目的」としては、それ以前の例えば儒仏道やユダヤ&キリスト教に比べて、それほど「宗教」的ではない、つまり"宇宙の真理"を掴むことや、道徳・倫理の究極的基盤や無謬性を目指すことなどは、それほど目的とされていない。していないわけではないんでしょうけど、「本気」度が低いというか。
それよりはそのそれなりに一貫した思想体系を梃子に、社会を作ること国家を作ること、民族の興隆を図ることの方が、(無意識下の)目的。
勿論先輩宗教/古代思想も、結果的に社会・国家・民族等々に大いに関わってはいるわけですが、それはあくまで結果論というか広がり方受け入れられ方の一側面でしかないのに対して、イスラムの場合はその密着度が非常に高いということ。目的手段性というか。


それがいけないと言っているのではなくて(民族主義を問題にしたいのではなくて)、何が言いたいのかというと、イスラム教が(他の大宗教との比較において)優れて"行動""実際"的、"社会"的宗教だということ。ここまではいいですね?

イスラム教のそういう性格から僕が連想するものとしては、例えば儒教における「陽明学」

陽明学は”物を格(ただ)す心”の学問ともいわれており、
・心即理
・致良知
・知行合一
を説き、朱子学の主知主義に対して実践を重視しました。
(「朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!」)

や、あるいは仏教における、日蓮宗を筆頭とする法華経系の宗派、

日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
(日蓮宗Wiki)

があります。
念仏系も"庶民の生活に密着"はしていますが、ただあの盲目性にはキリスト教の"愛"にも似た逆説的な哲学性・現世超越性があって、影響力はともかくとして必ずしも「社会」的とは性格付けし難い部分も強く感じます。"行動"ではあるけれど、その行く先が"逃避"的というか。(笑)
とにかくその本義はともかくとして、しばしば革命・改革運動の基盤理論とされた陽明学や、単に(鎮護仏教的に)体制に取りこまれたのではなく自ら積極的に「国家」を問題にした(戦中戦後の右翼思想の一つの中心も形成した)日蓮系の仏教教派の優れて"社会"的な性格には、イスラム教と比較し得るものがあると思います。

ただ大きな違いもあって、それは例えば陽明学は、儒教の改革運動であり、特に朱子学とは激しく対立しましたが、しかしそれはあくまで「内部」の問題であるという限定はあって、つまり「儒教」そのもの、あるいは遡って「孔子」まで否定するというところまでは、行かないわけです。
内心個々にどう思っていたかは分かりませんし、あるいは古過ぎるのであえて問題にしなかったのかも知れませんが(笑)、ともかく少なくとも"争い"としては、「儒教」の枠内で、儒教という枠を尊重する形で、収まっているわけです。
一方の法華も、なるほど日蓮は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と四方八方仏教各派に喧嘩を売りましたが(笑)、しかし「仏教」そのものや釈迦までは、否定しなかったわけです。「仏教」という枠は担保したまま、革命運動をしたというか。

対してイスラムは、勿論ハナから独立した宗教であって陽明学や日蓮宗のような"一派"ではないと言えばそうなんですが、そうは言っても周知の通り、所謂"旧約聖書"をユダヤ教と共有しており、またイエスもキリスト教が言うほどではないにしても偉大な先達的預言者の一人として認めているわけで、例えばそれこそ「儒教」と「仏教」のようには、完全に別の、独立した宗教でないのは確か。
だからもしユダヤ教が世界宗教化したり、あるいは儒教や仏教のように該当地域の普遍的な尊敬を集めていたり、ないしは「バイブル教」とでも言うべき一つの大きな流れや枠組みを想定した場合には、その"一派"として「イスラム教」があったとしてもおかしくなかったはずです。
・・・「イスラム派」なり浄土(経)宗ならぬ「コーラン宗」、または"日蓮"に倣って「ムハンマド宗」とか。"大ユダヤ教"なり"バイブル教"の一派としての。

実際教えの規模というか、狙いの根本性としても、そのくらいのものだと言えば最初からそうなのだと思います。陽明学や日蓮宗が、"そもそも"については孔子や釈迦が説いたことを前提として、自らは実践編応用編を担ったように、イスラム教も"天地創造についてはバイブルにお任せ"した上で、日々の生活規範社会規範を主に説いたように。
というかムハンマド自身は、少なくとも最初はそのくらいのつもりだったかもというか、その可能性が高いというか。それが色々な行きがかりで、キリスト教も含めた先輩"バイブル"宗教と決定的に決裂対立して、独立した「宗教」の地位を期せずして得てしまったというか、放り出されて独力でやって行かざるを得なくなってしまったというか。・・・"本山に破門された"とは言いませんが。(笑)

もっとざっくり言えば、イスラム教は陽明学や日蓮宗に"似てる"と言うよりも、ある一つの大きな思想の流れが、一定の期間と広がりを経た後に当然起きる"現代化""現世化"(または"現地"化)の、それぞれある種自然な形態であって、そういう意味では特段儒だから仏だからユダヤだからという、そういうことでもないと言えばそうなのかも。
・・・その文脈だと、キリスト教における所謂"プロテスタント"も、同列に並べられるかも知れませんが。

とにかく言いたいのは。
陽明学が"儒教"の枠内に、日蓮宗が"仏教"の枠内に収まっていたように、もしイスラムが"大ユダヤ(仮)"なり"バイブル"教の「枠内」の改革運動として収まってくれていたら、人類は随分、あったよりは平和な歴史を持っていたかもな、現代社会の悩みは大幅に減っていたかもなあと、そういうことです。(笑)
その喧嘩、もう少し何とかならんかったのかと。("儒教"や"仏教"のような)"ルール"ある喧嘩の枠内でも、言いたいことは言えたのではないかと。
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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
芸能人ペニオク詐欺関係まとめ(わらい)
2012年12月19日 (水) | 編集 |
記事が出た(見た)順に。


落札装い、ブログ書き込み 女性タレント (日刊)

入札のたびに手数料がかかるペニーオークションサイト「ワールドオークション」手数料詐欺事件で、有名女性タレント(35)が落札していない商品を落札したかのようにブログに書き込んでいたことが12日、京都府警の捜査関係者への取材でわかった。
捜査関係者によると、タレントは2010年のブログに、新品の空気清浄機を落札していないのに「1080円で落札した」と書き込み、ワールドオークションを利用したと宣伝していた。

発端
そしてまずはその「有名女性タレント(35)」とはいったい誰かということに興味が向くわけですが、その前に。

府警によると、ペニーオークションは入札のたびに少額の手数料がかかる。ワールドオークションのサイトは自動的に、会員の入札額を上回る入札ができるシステムが組み込まれ、会員はほとんど落札できない仕組みだった。

つまり頑張れば/運が良ければ市価より大幅に安く(例えば”1080円”)新品の売れ筋商品が手に入る可能性があると思うから会員はいちいち手数料を払って(実際はプリペイド購入のコイン)入札するのに、事実上運営側のサクラ or botしか落札出来ない仕組みになってたという”詐欺”
そこに更に、「ほら頑張れば私でも落札出来ますよ」「こんな有名人が参加しているんだから安心ですよ」という誤情報を流すのに報酬貰って加担していたという、罪・共犯ということですね。


話戻して。

「1080円で落札したの(^O^)/」――ペニオク詐欺で波紋 ほしのあきさん30万円で“ステマ”請け負う (ねとらぼ)

ほしのさんはブログで、空気清浄機の写真とともに「お友達から教えてもらったワールドオークションってサイトでお買いものしてみたょ♪」「1080円で落札したの(^O^)/」などと書き、「よかったら見てみてね♪」と、今回摘発されたサイトに読者を誘導していた。(中略)
今回のエントリはほしのさんが独自に掲載したもので、事務所側も内容については把握していなかった
(中略)
なお、記事の内容については言われたとおり書いただけで、サイトの中身については知らず、ワールドオークション側の人に会ったこともなかった。ステマについては認めつつも、詐欺と知っていてサイトへ誘導したわけではない、というスタンスだ。

「有名女性タレント(35)」の正体は、ほしのあきだったでござるという話。
三浦皇成ーーーーっ!(涙)
次の問題は、その「教え」た「お友達」とは誰がですが、それは次の記事で。


松金ようこ依頼でほしの、熊田がブログ掲載!…ペニオク詐欺事件 (報知)
嘘ブログ斡旋の松金ようこ府警に事情説明 (日刊)

タレントほしのあき(35)が13日、約2年前に自分のブログにペニーオークションで落札していない商品を落札したとうその記述をした件についてブログで謝罪した。タレント熊田曜子(30)も同時期に、うその落札をブログに掲載していたことを認めた。2人ともタレント松金ようこ(30)から依頼されたと説明している。(中略)
松金はこの日、ワールドオークション関係者を詐欺の疑いで逮捕した京都府警に事情を説明したという。所属事務所の担当者は「現在は警察との話し合い中だと聞いています。出てくる結果によっては、松金との契約を解除する可能性もあります」と話した。

松金ようこ(洋子)という名前だけで既に泣けるので、あんまり真面目に責めたりはしたくないんですが。(笑)

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タイトルが。(笑)
まあ生活大変なんだろうなという。僕も使ってあげなかったし。(笑)
一線を退いて、遣り手婆で生計を?という。(笑)
熊田曜子はまあ、何か存在自体がステマっぽい(?)ので、今更という感じ。


詐欺オク…防止策ない アメブロ運営会社 (日刊)

芸能人が、落札していない商品を落札したかのようにブログに書き込んだ件について、アメーバブログを運営するサイバーエージェントは13日、今年2月に健全化の対策をとっていたと説明した。
同社の関係者は(1)広告や商品紹介の案件は基本的に同社を通す(2)芸能事務所及び芸能人本人に、広告依頼主との関係性の明示を要請し、賛同した場合のみ掲載、という2点の内規を設けたという。
ただ、芸能人ブログも一般のブログ同様、投稿や削除は本人の自主性に任せており、友人や知人から直接依頼があった場合などについては、防止策がない“グレーゾーン”があることも認めた。

言い訳臭いですが、まあでも実際そうだろうなという。
むしろアメブロが獲得している”芸能人御用達”、それこそ”存在自体がステマ”(まあ”ステ”てない場合も多々ありますが)的な「悪評」が、この場合には”罪”を軽減することにもなるかなと。(笑)
読んでる方もそもそも分かってるだろう?という。


「ペニオク」虚偽紹介の芸能人20人以上 報酬見返りに (朝日新聞)

捜査関係者によると、ほしのさん以外にも、人気お笑いコンビの男性や、グラビアアイドル、俳優ら20人以上が、摘発されていないものを含む複数のペニーオークションのサイトで、低価格で商品を落札したとの書き込みをしていたのが確認された。多くは「低価格で落札できた。そのサイトはこちら」とサイトのリンク先を紹介していたとされる。

拡大。
まあ沢山あるんですよね、このテのサイトは。
一時ほんとに流行って、僕も無料の範囲でなら、結構遊んだことはあるんですが、その当時は特に芸能人が宣伝してるなんてことはなかったと思います。
そして早く食い付いた層が概ねからくりが分かって離れて行った後に、よりネットにライトな層を引っ張り込む為に芸能人を使うようになったと、そんな感じではないかと思います。
僕もこのニュースを初めて聞いた時は、まだそんなのやってる人いたの?と、それがまず一番の驚きでしたから。


永井大「深く反省」ペニオク紹介で謝罪 物品は返却 (報知)

インターネットのペニーオークションの手数料詐欺事件で、俳優の永井大(34)が14日、自身のブログで同オークションを利用し物品を受け取ったことを認めた。
永井は「何も考えず安易に物品を受け取ってしまった事、それをブログに掲載したことによりブログ読者の方々に多大なご迷惑をおかけする事になってしまった事を深く反省しております」と謝罪した。


永井大も謝罪「ペニーオークション」騒動で (サンスポ)

所属事務所によると、永井は10年末、飲み会の席で知人から同サイトの話を聞き、知人の携帯電話で登録してiPadを855円で落札実際に料金を支払った。その後、ブログに、自分で登録して落札したかのように掲載したという。

その”拡大”した中でよく分からないのが、このケース。
何がいけないの?これ。
つまり勘違いしてはいけない(?)のは、別に”ペニーオークション”自体が違法なわけではないんですよね。
謳われているシステムの実行・運営について、特定サイトでインチキがあったというだけで。
知人のIDだろうと落札出来たというならそのサイトは健全だったということですし、確かに”自分が登録”したと書いたこと自体は嘘ですけど、”永井大”の名前を使っていない分、むしろ「モニター」としては確度の高い情報ではないかというくらいで。(笑)
スネーク乙という。
まあ飛ばっちりが来る前に、理屈は通らなくてもとにかく先に謝っとけという、日本的な危機管理なのかなという。


1回の商品紹介で350万円? おいしい商売、タレントブログ商法 (J-CAST)

問題の背景として、ファンとの交流や情報発信を目的にした芸能人ブログが、いつのまにか広告媒体に変容してしまったことが指摘されている。タレントの「ブログ広告料金ランキング表」まで存在するというのだ。

ランキング上位はママタレが独占

1位は「今年出産した元グラビアアイドル」のY・Oと、「アイドルグループ出身のママタレ」のN・Tで定価350万円、2位は「モデル出身のタレントで2児の母」のA・H、「モデル出身のセレブタレント」のU・Kらで定価300万円――。
タレントやモデルのブログ広告の価値をランキング付けしたリスト表を報じたのは、2012年12月18日発売の写真週刊誌「フラッシュ」だ。同誌によると、この資料は広告代理店が作成したもので、今年上半期段階での順位という。
ここでの広告とは、普通の記事を装ったステルスマーケティング(ステマ)という種類の「一見、広告とは分かりにくい広告」を指す。大幅な値引きもあるとはいえ、タレントが「某社のダイエットグッズや美容品を愛用している」といったステマ記事を書くだけで、楽に稼げる実においしい商売なのだ。

結構取るのねえ。
それでも(依頼側は)ペイしてるということですが。

謝罪タレントのほぼ全員がアメーバブログ

またステマとは微妙に異なるものの、アメーバブログを運営するサイバーエージェント社によって、タレントブログ上での商品紹介はすでにオモテのビジネスとして確立されている。「Ameba芸能人・有名人ブログ記事マッチ」で、売り込みのキャッチコピーは「認知拡大、ユーザー誘引、ブランドロイヤリティの向上効果は、1つのメディアに匹敵するほど」となっている。
「芸能人・有名人ブログ記事マッチ」はアメーバブログの人気芸能人ブロガーに商品を提供してブログで紹介してもらう仕組み。掲載料はタレントによって異なるものの1記事で40万円~400万円となっている。

なるほどね。
むしろ”オモテのビジネス”として確立しているからこそ、それと誤認される可能性もある今回のようなケースは、タチが悪いと判断される可能性はあるか。
逆に”紹介”する側も、いつもサンプル品やら身内料金やらで美味しく頂いている”役得”と同種のものとして、「落札」商品をもらったりそれを宣伝してしまったと、そういう可能性もある。

いずれにしても、実際にどこまで大した事件なのか、どこまで”被害”があるのかは、謎なところもありますが。
たまたまサイト自体が詐欺で刑事で取り上げられてしまった、それとの関連で大きな問題になってしまっただけで。


こんなところで。
個人的に心当たりも少しあったので、燃えてしまいました。(笑)
なおこの件で名前が挙がった有名どころの中で、ピース綾部について取り上げていないのは、かばいたいからではなくてむしろ例えネガティヴな記事でも取り上げたくないくらい、元々嫌いだからです。(笑)
なんだかんだ女子人気は高いらしいんですが、それもステマだと信じています。(笑)