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BBC『自由意志 思考を決定するもの』より (2)「責任」能力と「自由」の意味
2020年06月03日 (水) | 編集 |
全文書き起こし(1)より。

少し間が空きましたが、後編。


3.自由意志と「責任」

結局意志をコントロール出来ないなら、自分の責任は取れないのですから。
(中略)
外的な制約や内的な制約が、脳の活動に関わっていることを見ました。それで自由な選択が出来なくなっているのです。
(中略)
罰を与えるために、人々は自由意志の存在を正当化するわけです。しかし私はそれには反対です。不運な人をひどい扱いしている、それは彼らが不運だからだということになってしまうわけです。

前回述べたような「決定論」的世界観に従うならば、誰がいつどんな犯罪を犯すかはビッグバンの時点で決まっている避けられない運命であるし、そうではなくても誰かの「意識的選択」が既に無意識レベルで決定されている事を実行しているだけであるならば(リベット実験)、無意識そのものをどうこうすることはその人には出来ない(それを無意識という)のであるから、誰かの違法行為に責任を問うたり"罰"を与える事に正当性は無いのではないかという主張。

一応筋は通っているようですが、少なからず身も蓋も無い話な気も。これで「納得」してくれる人はそうそういないだろう(笑)というか。
多分まあこれは、「自由意志はあるのか無いのか」という、宇宙的根本的問いから来る話というよりも、日常的観察から出発しての「意志はどの程度自由なのか」というそういう日頃の問題意識を、"宇宙"を仄めかして若干ブラフ的に(笑)も言ってみたというそういう話ではないのかと。
別な言い方をするとここで問題にされているのは、「無意識はどのように意識を縛っているのか」という方の"自由意志"問題で、ビッグバンと決定論(運命)の問題では直接的にはないということ。物理学ではなくて心理学・生理学・社会学等のレベルの方の問題というか。前回「無意識」の自由意志問題と「運命」の自由意志問題は、一応分けて論じるべきだと言っていた事の、一例というか。

ここで具体的に挙げられているものとしては、「経済的要因(100ポンドが生死を分けるレベルの貧困)」「バックグラウンドとか環境・育ち」「権威による命令下であるかどうか」「知識や教育のチャンス剥奪による脳の発達不足」など。
要はお馴染み(という言い方はあれかも知れませんが)の「犯行に至る事情」の問題を、その"背景"が形成する無意識/脳の「意識」的選択への縛りを、リベット実験的な自由意志(の不在)問題として強化した主張というか。"事情"を考えているのは同じですが、それの個人の「選択」への影響を、より決定論的に捉え直す。

道徳責任というのには、段階があると思うんです。どうしてそう考えるかというと、その抑制にも段階があるからですね。どれくらいの抑制が出来るかということと道徳的責任というものは、比例していくと思うんです。
これはとても面白いんですよね。オランダの刑法のシステムですけれども、5つの段階があるとしています。黒か白かではないんですね。どんなレベルにいるかで、罰も変わって来るというんです。

「抑制」というまとめ方は、流れからするとオランダのまとめに従ったという事ですかね。前段までの内容から推測すると、恐らくは「抑制の利きやすい脳/衝動的になり易い脳」の(区別)ような生理学的知見があって、そうした脳の形成に"生育環境"や"教育機会"(の有無)が大きく関わっていると、大方そんなようなタイプの話だろうと思いますが。
いずれにしても、道徳的「責任」能力を"5段階"に分ける

オランダ刑法

というオランダのやり方は、確かに"面白い"と思います。普通に笑ってしまいました(笑)。なんちゅう理屈っぽい。オランダ人らしい(笑)。しかもそれが実際の刑法システムとして、採用されているらしいところが凄いなと。5段階(笑)、細かい。実験室か。

イギリスの刑事システムは黒か白かですよね。心神耗弱ということが認められますけれども、かなりハードルが高いです。そして年齢で制限があります。制約はありますけれども、こちらになるかこちらになるか、ぱっと変わってしまうわけですよね。これはおかしな考え方だと思います。

と、筆者(話者?)は言うわけですけど。実はそんなに本質的な違いは無いようにも、僕は思いますが。
確かに"心神耗弱"(喪失)かそうでないかという"二択"が目立つ形になってはいますが、そもそもイギリスに限らずほとんどの国の現代の刑法システムは、"犯意"に応じて罪の重さに段階を設けているわけですよね。
代表的には例えば、同じ最終的に誰かの死の原因を作ってしまったとしても、計画的な殺人(謀殺)→殺意はあったが事前に計画はしていなかった殺人(故殺)→暴行or傷害致死等→過失致死→事故みたいな段階分け(参考:"殺人罪"Wiki)。勿論先の方からつまり殺"意"の明確な順に、刑罰も重いわけですね。

だから殺人ないし誰かの死亡という結果に至る「選択」についての、意志性・意識性、意志の自由性とそれに基づく道徳的責任に関しては、少なからぬ幅があってかつその幅を区別することに意味があるという考え自体は、少なくとも法制度としてはほぼ確立しているし、またその背景にあるそれぞれの社会の通念的にも、意識されていることは余り無いでしょうが概ね受け入れられているはずと言っていいと思います。(オランダに限らず)
意識はされていないので死刑なり特定の煽情的な事件をめぐって、前提を共有しない不毛な"激論"が繰り広げられているのを見る事はままありますし、勿論犯意なんて関係ない結果死んだんだから全部死刑だ目には目をだという主張をする人も一定数はいます。
ただまあ、様々な理由で概ね現代の人類社会は、そういう"幅"で意志能力を捉えるという前提で成り立っているとは言えると思います。

近年とみに評判が悪い気がする、上でも出て来た"心神耗弱/喪失"を理由とする責任能力の一部ないし全面的免除というシステムなども、こういった基本的な"幅"の(極端ではあるけれど)"一端"として位置付けておけば、そこまで感情的な議論になることも無いはずとは思いますが。純粋に偶発的な不幸な事故も保険金殺人も、全部同じ罰でいいというなら、心神喪失だろうと何だろうと関係なく、フルマークの責任能力を認めればいいわけですけど。そんな人はそうそういないのではないかと、"厳罰"好きなタイプの人でも。

・・・と、いうような話は「相対性理論」や「量子力学」や「リベット実験」を持ち出さないと言えないのかというとそんなことは別に無い(笑)と思うので、全体としては少し違和感というか、少なくともたった25分のドキュメンタリーに無理してねじ込む話ではないように思いますが、言いたいことは分かる気がするというか確かにオランダの例は面白かった(笑)というか。

罰を与えるために、人々は自由意志の存在を正当化するわけです。

繰り返しになりますが、結局このいら付きでしょうね。自由意志があるからあるとしているのではなくて、罰を与えたい欲求の"都合"で、無理にでも責任能力を認定しているだろうという。



4.自由意志の「可能」性

(1)「自由」な思考

「自由意志」の存在について、純科学的にはかなり悲観的なヴィジョンを提出しているこの論考(ドキュメンタリー番組)ですが、それに対する"救済"的な箇所二つ。

我々は人間ですから、とっても賢いんです。ですからそうしたこと[注:自由意志]を考えることは出来ます。
我々の意思決定の多くは、この想像のヴァーチャル・リアリティの中で行われているんです。一日の半分は、色々なことを想像して過ごします。(中略)我々の想像のヴァーチャル・リアリティの中で、自由意志は動いているわけです。
リベット実験のようにそれほど選択するということではなく、大きな影響を持つ決定を行っているわけです。

想像するのは自由である。
そして想像の中だけでなされた「決定」に従って行動することが人にはままあるから、その時その人は「自由」意志を持っていると言える。

自由意志というのは知的な決定をする能力というのであれば、それには問題はありません。そうだとすれば、多くの自由意志があると言えるでしょう。

同様に、身体反応の反映や曖昧な無意識的思考ではなし得ない、高度に知的で抽象的な思考をしている時は、その人は自由意志を持ってる。

・・・のだそうですが。
そうなのか?そういう話なのか?それだけの話なのか?

例えばそれが心理・生理学的なレベルの"反・自由意志"論、パブロフの条件付け理論あたりに始まる人間は単なる刺激に対する反応マシーンであってそこに"心"も"人格"も"意識"も増して"自由意志"なんて結構なものは存在しないのだという現代の標準的な"科学"主義的人間観(相当大雑把ですが)に対してなら、こうした議論は反論になる可能性がありますし実際それに類することは方々で行われていると思います。
ただそれが"ビッグバンから始まる決定論的な因果の連なり"や、"過去も現在も未来も既に実現している確定したものだ"というブロック宇宙論的時空観のような"物理学"的な反・自由意志論を相手にした時に、上の程度の話で証明事足れりとしていいのかには大いに疑問があります。もし"決まっている"のならば、それは我々が頭の中で考えることまで含めて、どんなにそれが純知的な内容だろうと決まっているのではないか、なぜならそれが「運命」というものだからだという。

ここでもやはり、僕が最初から問題にしている"二種類"の自由意志論を区別しないで論じる弊害が出ている気はするわけですが。
つまり上で"救"われている「自由意志」は、あくまで心理・生理的レベルで攻撃を受けているマイナーな方の自由意志でしかないという。

・・・まあ多分、ここらへんが関係しているんだと思いますけどね。

決定論者の根本的な過ちは、因果関係特に脳の因果関係が十分だと考えている事なんです。脳の因果関係が基準で制限されるものだとしたら、この因果関係は十分なものではなく、足りるかどうかという問題だと思います。

こうした音のパターンが、脳の活動のパターンを決めます。そして指でトントンとするわけですけども、みんな同じリズムではありません。そして指でトントンとタップしない人もいます。ですからこのエネルギーのパターンが、予想が出来るとは限らないんです。エネルギーのパターンは、必ずしも物理の法則に従いません。

ビッグバンから始まる因果の連なりは確かに届いているのかもしれないが、それは言わば「入力」としてであってそこから何が「出力」されるかは人間の脳や行動の複雑性からするとかなりランダムがあるという。増してその「入力」の直接的影響から離れたところで勝手に行われる「想像」や「知的決定」については、ほとんど"自由"と言ってもいいのであると。

「運命」「運命」と、あんまり僕は言い過ぎたのかもしれません。ビッグバンは「帰結」するだけで、「結果」を先回りして決定するというものではないのかもしれない。("決定論"でも)
ただしそれでも「ブロック宇宙」論の方は、容易に突破出来ない"敵"として、依然存在しているように見えますけどね。(笑)


(2)自由であっても。そうでなくても。

確かに危険はありますよね、人間の存在は無意味に感じてしまう、私たちがどういう人生を選ぼうと、結局同じだと思ってしまうわけです、自分たちの道を決めることが出来ないわけですから。ただ実際私たちは未来を見ることは出来ませんよね、ですから私たちが自由意志を持っているという幻想を持つことが出来る、それで十分なんです、現実的な意味では。私たちは自分で選んでいるわけですからね。
将来がそうなってみて、後ろを振り返ってああこうなることは決まっていたんだと思うことがあっても、自由意志で選択しているのだという気持ちが駄目になることは無いわけですよ。自由意志というのは、私自身にとって今の現実であればいいのです。

基本的に「自由意志」はあるのか無いのか、あるとすればどの程度どのようにあるのかをめぐってこの論考は繰り広げられているわけですが。
しかしその全てをある意味すっ飛ばした、無くてもいいのだ、あるいはあっても無くても結局同じなのだという、予め用意された"超・結論"的な箇所。全体の総括とかではなくて、"Part1"の最後の方に、さらっとちゃっかり入ってますが。

幻想を持てれば十分だ。気持ちが駄目になることは無い。
何を言ってるのかと思うかもしれませんが、僕はこれ結構分かる気がします。
何かを"する"ことが、それについて望み通りの"結果"を出すことが人生の目的だ生きる事だと思っている人にとっては、結果が既に決まっている世界で生きることは無意味だという事になるかもしれません。
・・・ただしそういう人にとっては、望み通りの結果が"出ない"ことも失敗であり無意味な人生なんでしょうから、最初から7割5分くらい外れの確率があるわけで、大変な人生ですよね。
どういう計算かって?"決まっている"確率が決まっている決まっていないの二つに一つで5割、残り5割の"決まってない"確率を引き当てたとしても、その世界で思い通りの結果が出ない確率がまた出る出ないの二つに一つでここでも5割。5割+5割の5割で2.5割で合わせて7.5割。雑な計算。(笑)

まあそれは半分冗談にしても、実際には人生とは生きるということは、何かをすることそのものではなくて、何かをしたりしなかったり別の事をしたり、それについて当初の予定通りの結果が出たり出なかったりする、その過程で自分が考えたり感じたりあれこれするその(内的)"経験"の方ではないかと思うんですがどうでしょう、思いませんか?(笑)
思わないならしょうがない(おい)んですけど、とにかくそういう前提に立つと実際に必要となるのは瞬間瞬間の個々の選択について感じられるミクロな「自由」の感覚であって、マクロはある意味どうでもいいんですよ。特定の結果が必要なのではなくて、何らかの過程で何らかの経験が出来ればいいわけですから。ミクロな自由感が"無い"のはまずいですけどね、一挙一動常に誰かの指示を意識させられていたり、逆にゾンビにでもされて意識が無かったりすると。プロセスへの参加感が無いと、ろくな感興もわきませんから、それだと正に"虚しい"人生になってしまいます。とにかく「選ぶ」瞬間("今の現実")に自由の感覚が伴っていれば、それで足りる。十分に意義のある人生と言える。

そんなようなことを、この人は言っているんだと思います。この人の言う、自由意志の"現実的"意味とは、そういうこと。

勿論道徳的な危険はありますよね、マクロの決定論の認識には。本人が無気力になるくらいならまだしも、どうせ決まっているんだから、何やっても誰殺してもいいという事にもなりかねない。だから社会通念としてそう簡単に決定論が受け入れられることは、無いとは思いますが。
一方で頭の隅に決定論の可能性を置いておけば、各々が目の前の結果にそれほど執着しなくなって、もっと平和な世界になるかもしれない(笑)。仏教的悟りや老荘的境地を地で行く社会というか。・・・でもユダヤ・キリスト教も"運命論"だよな、でも全く平和になる気配が無いけど、どうしたことか。

真面目な話に戻して、例え最悪ミクロの自由、自由意志の"幻想"があればいいと割り切っていたとしても、マクロの不自由・決定論の可能性を意識するのは愉快なことではないですよね。それを意識していない時にしか、ミクロの自由も楽しめないでしょう。やはり出来る事ならば、未来は決まっていない方がいいと、僕も思います。・・・多分。(笑)
多分というのはつまり、人類が「自由意志」を駆使してこれから紡ぎ出しそうな未来に希望が持てなければ、危うさの方を遥かに強く感じてしまうなら、いっそ未来は決まっていた方が、安心ないしは少なくとも諦めは付きやすいかも知れないという事で(笑)。そっちは良く転がればラッキーくらいに諦めておいて、改めて個人としてはミクロな自由に専念するという。(笑)


まとめ、というわけでもないですが、この項の二つの話とこれまでの話を合わせると、例えばこういうヴィジョンが見えて来たり。
概ね決定論的に振る舞おうとするらしいビッグバン由来の「入力」から距離を取ったところで展開される、"想像"や"抽象的思考"の領域にのみ人間の自由の余地は現状見込めて、逆にそこにこそ「人生」の実(じつ)もあるという。
"具体"的な「行為」「行動」の世界、つまりは(宇宙とよりダイレクトに繋がっている)身体によって担われる人生の方は、その分ビッグバンの悪戯の操り人形性が強いので、"自由意志"という観点からは余り価値が高くないというが分の悪い投資というか。"虚"(きょ)の人生というか。
・・・優れてオタク好みのヴィジョンではあるかも知れません(笑)。見方によっては宗教者的とも。
つまり「本体」はヴァーチャル。(時代はパーシャル)

まあさっきの話からすると"操"られていても自由の幻想があればいいんだということではあるんですが、それはそれとして、なるべくなら"操"られていないことを見込みながら生きてはいたいもので。その為の"領域"の限定。
その"領域"が、「人間」という現象の総体の何%くらいを占めているのか、それは分からないですけどね。何%の自由があるのか。あるいは今後それは、拡張し得るのか。


以上でだいたい、この短い中に奇妙に意欲的な内容の込められたBBCのドキュメンタリー番組の解説は、出来たように思います。
結局そもそもの「リベット実験」というものをどう評価したらいいのかどの程度の話なのかというのが実はよく分かっていなかったりするので、それについてはまあその内読んでみて改めてと、思ってはいますが。


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BBC『自由意志 思考を決定するもの』より (1)二つの"自由意志"問題
2020年05月01日 (金) | 編集 |
元ネタ原文書き起こしはこちら
未読の方は、読みながらどうぞ。まあ僕のまとめを見て訳が分からなかったら原文に当たるとかでも(笑)、いいかも知れません。


(人間にとって)「自由意志」(はあるのか無いのか)について包括的に取り上げた番組ですが、僕が見るにこの番組は2種類の当面異なる「自由意志」の問題を、ある意味ごちゃまぜに取り上げているところがあると思います。
何かと言えば、『「無意識」と「意識」(自由意志)』というどちらかというと(精神分析以降の)近代的な問題と、『「運命」と「自由意志」』というより古典的な、古代中世以来様々な人類の思想(各宗教やギリシャ悲劇やスコラ哲学等)が取り上げて来た問題の二つです。

後で述べるようにこの二つは最終的に合流するとは言えると思うんですが、当面整理の為にまずは分けて考えておきたいと思います。


1.「無意識」と「意識」

(リベット実験)

実験については本



も出ています(折り悪しくコロナで図書館が閉まってるので再開次第借りて読もうかと)し様々な解釈も既にあるようですが、とりあえずはBBCのまとめに従って、コメントして行きます。


[実験内容]

回っている点を好きな時にクリックすればいいのです。(中略)そしてこの選択をする時に脳の活動が高まります。
それでボタンをクリックすると思ってしまいますけども、実際にはその前に準備電位と呼ばれる段階がありました。1秒早く、クリックをするという決定をしているのです。

簡単に言うと、最終決定のその瞬間、言い換えれば"意識的選択"のその瞬間にピンポイントで脳の活動が高まるのではなく、その1秒前からなだらかに脳の活動が高まる(グラフ)ことが分かったという実験。つまりその決定をすることを、1秒前から脳は"知っている"。我々の意識的な決定は、常に1秒ずつの予定調和であるという話。

ちなみにこの説明とグラフだけだと、脳が知っていたのは決定の"タイミング"であって、決定"内容"については何とも言えないようにも読める気がしますが、まあこの実験は正に(クリックの)"タイミング"を測る実験であってまたタイミングが分かればプログラム上(円周上を回る)点がどこにあるか(つまり含めての決定"内容"全体)も決まって来るわけですから、ここでは区別の必要は無いのかなととりあえずは納得しておきます。

でも点がランダムで動くプログラムだと、"タイミング"だけではやはり足りない気がするけどなとまだぶつぶつ。


["心"と"体"]

自由意志というのは、心が体をコントロールしていると思うわけです。つまり心が自分の好きな決定をして、命令を体に送っているとみなされるわけですけども、リベット実験を考えると、この意識した意思というのは、その前の脳の活動によって決まっているということが分かるわけです。心と体の因果関係という考え方に、異議を唱えるんです。

少し分かり難いところがあるかな?
"心が体をコントロール"しているというのは、"意識"が"行動"をとでも置き換えれば、要するに「自由意志」(の活動)についての典型的なイメージを言っているということは分かると思います。
問題はそこで「脳」という言葉が何を意味しているかですが、「脳」というのも「手」や「足」ほど分かり易くはないですが、要するに「体」(の一部)なわけです。その事は「身」「心」問題、心はどこにあるかあるいは体と別に"心"があるのかという問題の時に、「体」側の代表として「心」という概念を否定する方向で"脳"が登場する状況を考えれば、より分かり易いと思います。
ともかくそういう「体」の一部・代表としての脳において意識("心"観念の代表)よりに"決定"がなされているらしいこの実験結果が、「心」が「体」に因果する、コントロールしているという我々の"希望"にダメージを与えるという、そういう話。


[無選択の「選択」]

リベット実験を慎重に見ると、運動が無くても何かが起こると人が予想すれば、準備電位が見られるんです。何かが起こるという予想や期待に基づいてです。

原文では同じ流れながら何か突然入って来たようにも感じた一文でしたが。
恐らくこれは、単に時間的に意識的「選択」に脳の「準備」が"先行"するのではなく、「選択」はなくても「準備」は起きる、つまり我々の行為・行動の本体は当面"準備"と副次的に位置付けられた無意識の脳の活動の方にあるのであって、実体的に見える"意識的選択"の方こそがむしろおまけ的なもの副次的なものだと、そういう事を言っている"補強"箇所なんだろうと思います。
・・・やや先取り的に言うと、ではそんな不要不急(笑)の"意識"的選択とは何なのかという話になると思いますが、それは脳≒無意識が意識というお客様(?)に提供しているパフォーマンスである、サービスである、何かをやっているという幻想的満足を与える為の、あるいは起きている事態を分かり易く認識する為の"象徴"的現象であると、上の前提からは説明出来るかも知れません。勿論前提が正しければの話ですが。

"「期待・予想」と「準備電位」"という現象自体については、何か別の観点からの検討、例えば「行為」と「イメージ」の関係とかあるいはあくまで「準備」は準備であるという視点からの論などもあり得るような気はするんですが、ややこしくなるのでここでは触れません。


[意識の非在]

実験は終わりました。私はもう心がコントロールしていません。意識下の意識によって導かれています。
お腹がすきました。我々の決定は、以前の脳の活動の決定によると言えるでしょう。

実験終了後リラックスして街を歩く"被験者"の日常の姿をバックにしてのくだり。
ついさっきまで"心のコントロール"について緊張した議論をしていた割には、やけにあっさりと「もう心がコントロールしていません」と言い切っていて、なんだあ?という感じに一瞬なりますが。
あえてまとめるとすれば、人工的な実験状況下で最も意識的に(回っている点をクリックするという)ミッションを遂行している時ですら無意識の支配が優位であったのだから、何も意識的なミッションの無い日常状況下では当たり前のように無意識、"以前の脳の活動の決定"---例えば"空腹"の信号---の影響が支配的であると、そういう事でしょうか。


[無意識と理性?]

無意識というのは、知性が無いということではありません。無意識が理性に合った反応を示すんです。

ここは分かり難いですよね。あたかも理性≒意識の決定に合わせて、無意識がその充足を"準備"するかのような言い方。今までの話と逆ではないかという。

["サブリミナル"広告]

時に我々は無意識の理性にとても影響を受けるんです。広告をする企業はそれを利用しています。心理実験を行って、無意識のサブリミナルな影響を人々に及ぼそうとしています。

そのすぐ次に出て来るのがこれ。これ自体は、もうお馴染みの話だと思いますが。
前後しますが前段に出ている具体的状況。

お腹がすいてとても疲れています。意識下の声に聞きます。疲れてお腹がすいていると言います。そして昼食に豆を食べたいと言います。

「お腹がすいてとても疲れてい」るというのは、既に意識化もされている事実。ただその事実を前提に、何を食べるのかの選択肢の部分に、例えば"サブリミナル広告"の影響の結果としての、無意識レベルで既に行われている"決定"の支配が存在しているという、そういう事でしょうか。

分かる事は分かるんですけど、あえて「無意識が理性に合った反応を示す」という紛らわしい言い方が挿入されている意味がよく分からない。いきなりサブリミナル広告の話では駄目なのか。
何か意味はあるんだろうとは思うんですけど、ちょっと分かりません。
・・・ひょっとして"理性に合った反応"の"理性"は既に「無意識の理性」なのかな。そんなこと無いと思うんだけどな。(笑)


[嘘?]

じゃあ豆はやめましょう。それとも意識下が騙されたと思うから、それをやめたんでしょうか。それは問題かもしれません。しかしこれは意識した意思決定でも起こるんです。人々は嘘をつきます。

ここはもっと本格的に分からない。
"意識した意思決定"で"起こ"っているのは何なのか。それと「嘘」はどう関係しているのか。
まず「問題」なのは、無意識の決定と想定される選択に意識が逆らおうとした、しかしその選択すらも無意識下の思考が真因なのではないかという、疑いのループですね。それはまあ分かる。
次の「これ」は何を指しているのか。(サブリミナル広告等に)"騙される"ことを指しているのか、それともループの形成のことか。

最後に「嘘」ですが、これを最初僕は自分(ないし本人)が"意識した意思決定"として嘘をついている時に、その人の無意識と意識の内部的関係が何らかサブリミナルな影響下での意思決定の状況と似て来る的な話なのかなと思ったんですが、それが具体的にどういうことなのかがさっぱり思い付かなかったのでそこで行き詰まり。
もっと単純な解釈としては、「嘘」によって自分が他人をor他人が自分を騙している時に、その「嘘」が「サブリミナル広告」と同じ働きをしていると、その状況自体は要は置き換えればいいので簡単に想像は出来ますが、簡単過ぎて逆に置き換える意味が分からない。"嘘"のつき手が企業だろうと個人だろうと、騙される方としては同じことですから(笑)。わざわざ付言する程の話かなという。
強いて言えば「サブリミナル広告」の"嘘"が無意識に働きかけるのに対して、「個人の嘘」は通常意識をターゲットにするという違いはあると思いますが、だから何なのかというのが結局分かりません。

・・・どなたかすっきりした読解が出来る方がいれば、お知恵を貸して下さい。(笑)

もやもやしますが当面解決出来ないので、とりあえず次に行きます。
"(自由意志と「想像」)"パートは[熟考編]として後編に回して・・・



2.「運命」と「自由意志」
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BBCワールドニュース『自由意志 思考を決定するもの』(書き起こし)
2020年04月22日 (水) | 編集 |
BBCの30分もののドキュメンタリー、「自由意志 思考を決定するもの」(Free Will: Who Is Really in Charge of Our Minds?)が色々と面白かったので、例によって要約・引用・コメントを施すつもりだったんですが、元々それほど言葉数の多いプログラムではないのでやっている内に要約する方がかえってややこしくなる気がして来て、むしろ同時通訳全文書き起こしをして僕自身がよく分からない部分も含めてまず皆さんと共有した方が良さそうだなと、そういうことになりました。
権利的な問題は・・・まああるでしょうけどね。(あるよな)
感想・解説・コメントは、後日改めて。
通訳の単純な言い淀み以外は忠実に書き起こしていますが、"小見出し"は僕がつけたものです。画像は最低限、無いと訳が分からなそうなものだけつけておきました。

では。とりあえず各々ご自由に読んで下さい。(笑)



"Part1"

(オープニング)
私はここにいることを選んでいます、私の選択です。
少なくとも自分ではそう思っています。
この動画を自分で選んで見ていると皆さんは思っているでしょう。
メディアや広告などに操られてしまうんです。
自由意志の定義はどうなるんでしょうか。それで自由の度合いが決まります。
選択は我々(は?を?)定義します。しかし現実はそれほど単純ではないかもしれません。ほらね。

(リベット実験)
'80年代初めにベンジャミン・リベット氏は、脳の意思決定のメカニズムを理解する為の実験を行いました。
回っている点を好きな時にクリックすればいいのです。その時に私の脳の活動がモニターされています。そしてこの選択をする時に脳の活動が高まります。
それでボタンをクリックすると思ってしまいますけども、実際にはその前に準備電位と呼ばれる段階がありました。1秒早く、クリックをするという決定をしているのです。

リベット実験

それが何百回と繰り返されました。その実験には、どんな意味があるんでしょうか。

自由意志というのは、心が体をコントロールしていると思うわけです。つまり心が自分の好きな決定をして、命令を体に送っているとみなされるわけですけども、リベット実験を考えると、この意識した意思というのは、その前の脳の活動によって決まっているということが分かるわけです。心と体の因果関係という考え方に、異議を唱えるんです。
リベット実験を慎重に見ると、運動が無くても何かが起こると人が予想すれば、準備電位が見られるんです。何かが起こるという予想や期待に基づいてです。

実験は終わりました。私はもう心がコントロールしていません。意識下の意識によって導かれています。
お腹がすきました。我々の決定は、以前の脳の活動の決定によると言えるでしょう。
ジョン・デラン・ヘイズ氏の実験によると、MRIスキャナーの神経画像によって、どのような決定をするかが事前に分かるというのです。

では無意識の脳の活動が既に決定をしているのであれば、自由意志の意味はあるのでしょうか。
無意識というのは、知性が無いということではありません。無意識が理性に合った反応を示すんです。
私は妊娠8カ月、歩いています。そしてお腹がすいてとても疲れています。意識下の声に聞きます。疲れてお腹がすいていると言います。そして昼食に豆を食べたいと言います。
時に我々は無意識の理性にとても影響を受けるんです。広告をする企業はそれを利用しています。心理実験を行って、無意識のサブリミナルな影響を人々に及ぼそうとしています。準備刺激の例は沢山あります。
どのような豆を選んだとしても、本当に自由意志で選んだのかと考えてしまいます。
じゃあ豆はやめましょう。それとも意識下が騙されたと思うから、それをやめたんでしょうか。それは問題かもしれません。しかしこれは意識した意思決定でも起こるんです。人々は嘘をつきます。このそうさ(捜査?操作?)を広げると、我々は自分たちをコントロールしているのかという問題があるんです。

(自由意志と「想像」)
ではそこからどうやって離れたらいいんでしょうか離れることは出来るんでしょうか。
イエス、ノーですね。それは出来ないんです。
我々は人間ですから、とっても賢いんです。ですからそうしたことを考えることは出来ます。
我々の意思決定の多くは、この想像のヴァーチャル・リアリティの中で行われているんです。一日の半分は、色々なことを想像して過ごします。そしてそれほど大きな結果が無いものもあります、例えば何を食べるかとか。でも非常に大きな影響を及ぼし得る決定もあります、誰と結婚するかどの国に住むか。我々の想像のヴァーチャル・リアリティの中で、自由意志は動いているわけです。
リベット実験のようにそれほど選択するということではなく、大きな影響を持つ決定を行っているわけです。

お腹はすいていますけども、ただ無意識な豆に対する偏見は捨てて決めたいと思います。自由意志というのは知的な決定をする能力というのであれば、それには問題はありません。そうだとすれば、多くの自由意志があると言えるでしょう。動物にもあります。トラも色々な選択肢を考えます。ですから一時的な熟考というのはありますね。しかし人間の場合にはもっとレベルの高い、第二次の熟考能力があるんです、例えば将来の自分について考えるということです。

ここで奇妙なことがあります。
私はボタンをリベット実験でクリックしている方が、どの豆を買おうか考えるよりも自由に感じました。これは人生に大きな影響を及ぼす決定ではありませんが、私の選択には多くの制約があります。ある基準の中で、自由に振る舞うわけです。自然や社会が制約を設けています。そしてその中で、新しい言語を学ぶ、ジムに行く、よりよい人になるという決定をするわけです。

[視聴者代表的な人との会話]
電話で話した時には自由意志があるかどうかわからないと言っていますけども、今は無いと思われるんですね。
そうです、私は追加的な科学的証拠を待っているんです。今のところ分かっていることに基づくと、自由意志を信じるのは難しいんです。でも分野が何であれ、神経科学、神経生物学、物理学かもしれませんが、新しい実験が行われるかもしれません。

(物理学と"決定論")
なぜ彼女は物理学と言ったのでしょうか。
物理の法則は、その前に起こったことによって決まるということを教えてくれます。ビッグバンまで遡って、一つの出来事が一つに繋がります。因果関係です。
このシナリオの中では、私には選択肢が二つあります。ビッグバンのドミノを倒し始めると、一連の出来事が起こります、そして私はBではなくAを選択します。これが決定論です。全ての人生の決定は、運命づけられているという考え方です。

決定論

我々の脳は、原子から出来ているわけです。他には何もありません。ですから脳も、物理の法則に従うわけです。
決定論的な世界では、一つが一つを招くわけですから、自由な選択を行っていると考えても、物理の法則が作用しているに過ぎないのです。ただ脳はとても複雑なので、事前に誰が何をするか自分が何をするか予想がつかないんです。ですから自由意志の幻想が生まれるわけです。

女性の名を挙げてと言ったら分からないかもしれません、じゃあ女性の政治家を挙げてと言ったら、ヒラリー・クリントンと言うかもしれません。そして第三の基準を加えます。ヨーロッパの女性政治家を挙げてと言ったら、テリー・ザ・メイ、マーガレット・サッチャー、アンゲラ・メルケルと言うかもしれません。
決定論者の根本的な過ちは、因果関係特に脳の因果関係が十分だと考えている事なんです。脳の因果関係が基準で制限されるものだとしたら、この因果関係は十分なものではなく、足りるかどうかという問題だと思います。なぜまずアンゲラ・メルケルと言ってマーガレット・サッチャーは後に来たのか、それはたまたまだと思います。ですから完全に無作為ではないんですね。ヨーロッパの女性政治家と言ったら、カエルとか民主主義とか真実とは言いませんでしたよね?ですから完全に無作為ではありませんが、制約した中での無作為になるわけです。

では、「乱流」(turbulence)も加えましょう。そうするとビッグバンのドミノを倒す時に、選択AかBを選ぶ事になります。

乱流


ただそこにも基準があります。ブロックは皆同じ大きさで、アヒルであってはなりません。それでもその無作為に乱流を加えると、非常に複雑ではありますが、やはり決定論の法則に従っていると言えるかもしれません。エネルギーのパターンです、リズムです。

タップして下さい。ずっとタップを続けて?リズムを打ち切りますけどもタップを続けて下さい。

エネルギーパターン


こうした音のパターンが、脳の活動のパターンを決めます。そして指でトントンとするわけですけども、みんな同じリズムではありません。そして指でトントンとタップしない人もいます。ですからこのエネルギーのパターンが、予想が出来るとは限らないんです。エネルギーのパターンは、必ずしも物理の法則に従いません。

ではドミノに戻りましょう。
では(聞き取れず)にズームインしましょう、脳の中でこれが起こっています。ドミノのパターンは、選択AかBになります。これは乱流次第です。しかし脳の中では、パターンは固定していません。選択Aが道義的に問題があると思えば私はパターンを変え、Bしか選べないようにします。私の抽象的な道義心、それ自体が情報のパターンですけども、それが私の決定を形作るのです。
進化が新たな物理的なシステムを作り出しました。それが命です。そしてそれがエネルギーのパターンがエネルギーのパターンを引き起こして、それが続きます。そして我々の意識も情報のパターンです、それが脳の中で実現するのです。そしてその世界の中であるのです。

(相対性理論とブロック宇宙論)
将来が既に存在するとしたら、どうでしょうか。
私たちの自由な選択が自由な選択でなかったらどうでしょうか。
ブロック宇宙論というのは、アインシュタインが特殊相対性理論を考え付いた直後に生まれたものなんです。この時空は結びついているというものなんですね。三次元の空間と一次元の時間というのは別々なものではなく、四次元の時空だと考えるのです。
ですからブロック宇宙論は、空間は二次元、そして第三次元が時間だと考えるわけです。
パンになぞらえて下さい。時間の軸は、このパンの長さです。そしてそれぞれのスライスが空間です。
ブロック宇宙論は、将来がもう決まっているので全ての時間が共存します。ただパンの違う一切れなんです。普遍的な現在というのは無いんです。

ブロック時空パン

このシナリオでは、どのドミノのシミュレーションを選んでも関係無いのです。全てが既に存在しているのです。結局結果はいつも決まっているのです。

この100年色々な実験をしました。アインシュタインの相対性理論が発表されてからですが、みな同じ結果となりました。将来はもう決められているのです。私たちはまだ未来を経験していませんけれども、ただそれは私たちが自由意志を持っていないという事なんです。

("自由意志"の現実的意味)
それは問題ではありませんか?どんな決断をしても将来は決まっているというのなら、マイナスの影響がありませんか?
まあ確かに危険はありますよね、人間の存在は無意味に感じてしまう、私たちがどういう人生を選ぼうと、結局同じだと思ってしまうわけです、自分たちの道を決めることが出来ないわけですから。ただ実際私たちは未来を見ることは出来ませんよね、ですから私たちが自由意志を持っているという幻想を持つことが出来る、それで十分なんです、現実的な意味では。私たちは自分で選んでいるわけですからね。
将来がそうなってみて、後ろを振り返ってああこうなることは決まっていたんだと思うことがあっても、自由意志で選択しているのだという気持ちが駄目になることは無いわけですよ。自由意志というのは、私自身にとって今の現実であればいいのです。



"Part2"
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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
ヒストリーチャンネル 『伝説の企業家~アメリカをつくった男たち~』
2013年11月10日 (日) | 編集 |
見たのは先月6日の無料開放デーの一挙放送だったんですが、何となく書きそびれていたもの。
かなり面白かったです。


伝説の企業家~アメリカをつくった男たち~ (公式)

アメリカは発見されたのではない。造られたのだ。
ロックフェラー、ヴァンダービルト、カーネギー、フォード、モルガン。彼らがアメリカを造った。
産業化時代、彼らは近代的国家という大胆なビジョンを描き、石油、鉄道、鉄鋼、船舶、自動車、エネルギー、金融などの巨大な産業を築き上げた。貧しさの中から立ち上がった彼らは、企業を起こし、経済政策を設け、主要な出来事に影響を与え続けた。

#1 新たな戦い  ヴァンダービルト・鉄道
#2 石油産業の台頭  ロックフェラー・石油
#3 鉄鋼業の飛躍  カーネギー・鉄鋼
#4 産業史に残る大惨事  カーネギー
#5 金融界のエース  モルガン
#6 電流戦争  エジソン(&モルガン)とニコラ・テスラ
#7 政府の買収  モルガン、ロックフェラー、カーネギー
#8 自動車産業の隆盛  フォード



一見すると所謂"立志伝"で、実際そういう内容ではあるんですが、演出としては『プロジェクトX』とも『その時歴史が動いた』ともかなり違って(笑)、むしろマフィアの大ボスたちの一代記とかにでもありそうなダークなトーン。
それは一つには、彼ら大(産業)資本家たちの成功の陰で、どれほどの数の労働者や庶民が搾取・虐待されて来たのかという、ある意味では型通りの"告発"の意味合いがあるわけですが、同時にそうして成功した彼らが自分たちの財産・利益を永久的に維持・継続・肥大化させる為に、いかに結託して"マフィア"を形成するようになったのかという、そういう暗喩が込められているのだろうと思います。

"マフィア"でもあり、また同時に、演出がもう一つ連想させる

企業家

"西部劇"的でもあり。
つまり西部劇でよく見られる、開拓時代の西部の一つの町一つの地方で、力のある一族が超法規的に全てを牛耳るああした光景が、実はその本質をさほど変えないまま巨大化したのが、"アメリカ"であるという。
今現在誰が牛耳ってるかというような問題とはまた別に、そういうあり方のある意味での"正当性"・・・・というか"正統性"を認める部分が"アメリカ"の無意識にはあって、今日の金融界などに見られるように、隙あらばそういう動きは顔を出して来る、"王座"争いが常に起きている、そんなサジェスチョンでもあるのかなという。アメリカニズムとは、"自由競争"なんて綺麗事ではなくて、もっと端的に"ウィナーテイクスオール"のことである、的な。


とここまでは普通の(?)感想ですが、もう一つ見てる内にじわじわ感じて来たのは、これアレなんじゃないのということ。
・・・・いや、アレと言われても分かんないでしょうが(笑)、つまりこのヒストリーチャンネルの過去の同様に印象的なシリーズとして、何と現在シーズン5まだ作られているらしい(よくそんなにネタあるなあ)、『古代の宇宙人』という人気シリーズがあるということを、前に紹介しましたよね。
それは要するに、今日"都市伝説"ものとして、ここ日本でもある意味市民権を得た感のある"既成事実としての宇宙人と地球人の交流"というテーマを、あらゆる角度から慎重に巧妙にかつ豊かに取り上げているシリーズなわけですが。

で、その(笑)ソフトには"都市伝説"、より露骨にハードには「陰謀説・陰謀論」の世界で、"宇宙人説"と並ぶ大物として存在しているものとして、(多くはユダヤ系の)「ごく少数の大金持ちによる世界支配」というものがあるわけです。いわくイギリスのロスチャイルドをおおもととして、アメリカではロックフェラーが仕切ってるうんぬんかんぬん、いわくフリーメイソンから流れるうんぬんかんぬん、いわく300人委員会がうんぬん、ビルダーバーグ会議がかんぬんと、まあ僕も全貌を把握しているわけでは全然無いですが(笑)、とにかく色々とあるわけです。
またそれらが多くは、そのまま"宇宙人"と連結していたりするんですけどそれはともかく。

で、今回のこの番組の面白いところは、直接そうした"壮大"な陰謀論に触れたりとかは全くしていないんですが、少なくともアメリカにおいて、そうしたタイプの構想が生まれて来るその源となり得るだろう事実を、過不足なく切り取って提示しているように見えるところがあることですね。
実際に比較を絶する少数の超大金持ちというものがアメリカには存在していて、歴史的に育っていて、それらが一般大衆・・・・ではなくて(これだと"陰謀論")、時の政治権力との対抗上、具体的には反トラストの動きへの防衛策として、結託せざるを得ない歴史的状況があって、かつその戦いに勝利して権益の永久化にほぼ成功している、その様子を説得的に描写している。

性格付けとしては、『古代の宇宙人』シリーズが、相当に(宇宙人説に)肯定的であるのに対して、こちらは限定的肯定ではあるけれど、その"限定"はむしろ「陰謀(説)」が一つの全体として存在していることを否定している、頭を冷やすことを視聴者に要求している、そのように言えると思います。
隠された金持ち連合は実在している、しかしそれは純粋に成り上がりたちの自己防衛であって、フリーメイソントも増して宇宙人とも、何ら関係は無い、そんな"根拠"を考える必要性は無いという、そういう立場。
かなり、説得されましたね。見てる範囲では。限定的肯定による否定という、エレガンス。または巧妙さ。これ自体が、隠蔽の陰謀であるならば。(笑)

別にヒストリーチャンネルという、"人"が存在しているわけではないですが、一方で『古代の宇宙人』シリーズが存在している以上、もう一方の"陰謀"論についても、意識していないわけはないと思います。単なる社会経済的視点からは、作られない/作れないだろうと感じる作品というか。
それゆえの高度なバランス感覚というか知的緊張感というか、そこらへんが非常に面白かったです。


個別に他に面白かったのは、最後にフォードが出て来ますが、彼も勿論、成功したアメリカ的超大金持ち・産業資本家ではあるんですが、ただ"世代"的にはロックフェラー・カーネギー・モルガンらとは一回り違って、彼らに象徴されるエスタブリッシュメントに対抗する形で出て来た、新時代の、"大衆"の時代の資本家という面があるとされていること。・・・・まあ当然、"大衆車フォード"ということではあるわけですが。
例のフォード的"オートメーション"生産も、労働の非人間化というよりは大衆化促進のツール、大衆が力を持つための武器として、位置づけられている。

逆にその時代までは描かれていませんが、そのフォードが後に高名なナチスの擁護者、支援者と成り果てるのも、要は前の世代と同じで基本的には単純に自分の権益の防衛の為という意味合いが、大きいんだろうなと、このシリーズの成り立ち的には想像できます。"思想"的観念的問題というよりもね。
共産主義よりはナチスの方が、遥かにましという、資本主義的利益の防衛の為には。まあ当時のアメリカで、広く見られた考えでもありますが。最終的に金持ちが重視することは何か、という。そんなに複雑な問題ではないというか。

カーネギーというと"カーネギーホール"の良い(?)印象が強いと思いますが、カーネギーは"カルテル"のメンバーの中では当初からかなり世評を気にする軟弱というか偽善的なところがあって、成功してからはかなり早くから世間の方を向いている面があったと。後にモルガンに自己の帝国を丸ごと買収された後は、むしろほっとして生き生きとして、その金で"慈善活動"にいそしんだと、そんな様子も描かれています。

また上の一件でも分かるように、カルテルの中でも最終的に主役となったのは銀行家のモルガンで、彼の資金力と金融活動こそがアメリカ政府までも屈服させ依存させ、それによってカルテルの永存を保証し、あるいは今日の"金融の時代"を招来したと、そんな様子も読み取れます。
ロックフェラーは、ある意味では石油を掘り当てただけの単純な田舎者で、特段に優れた構想力があったわけでもないがそれゆえに強情でもあり、カーネギーのよう弱気を見せることは無かった。ただ時代のリードという点ではモルガンに譲ったし、後の"財団"の慈善活動も言ってみればカーネギーの真似でしかないと、そんな感じ。


まあ、機会があったら、どうぞ。


『滅びし古代文明の正体』より
2013年03月09日 (土) | 編集 |
以前発作的騒いでいた(笑)ヒストリーチャンネルの『滅びし古代文明の正体』が再放送してくれので、録画して再見しました。
全体としては、文明論というより災害論、どのような自然災害がどのような規模で襲い、人類の文明を滅ぼしてしまう現実的可能性があるのか、その”滅ぼした”例として、近年次々に発見されている「四大文明」を更に年代的に遡る高度な古代文明の(遺跡の)数々が取り上げられているという、そういう構成。・・・・つまり現に(つい最近まで)痕跡も残さず滅びているのだから、我々の現代文明であっても数万年後にそのような存在になってしまう可能性はあるよというそういう話。

ただ”歴史”興味の立場からは話が逆で、(そのように)巨大な自然災害が跡形もなく発達した文明を滅ぼしてしまう可能性があるのだから、現代の我々にも全く知られていない/なかったような古いor謎の文明がまだまだ存在していた可能性も現実的なものとしてあるよ、ひいては「人類史」のアウトラインを引く作業自体が、未だどの程度の確度で達成されているのか、実は見当もつかない部分があるよという、そういう話になります。
アンチ”四大文明”史観というか(笑)。メソポタミア史観というか。

ともかくこのプログラムの特に前編で取り上げられている(後編は災害と気候変動研究に充てられている)”プレ四大文明”の話(事例)が単純に面白い&初耳だったので、番組に従って年代順にまとめてみました。


トルコのギョベクリテペの遺跡(紀元前9000年/約1万1000年前

・その地域には住まない種類を含む、動物のレリーフを施した石が無数に出土。
・直径9m~30mの楕円形の巨大建造物が20以上。
・建物の内部には石灰岩を四角く削ったT字型の巨大な支柱が何本も存在。
・柱に使われた石は一つあたり15トンから、最大60トンまで。
・都市の性格は不明。聖地か?
・2000年近く存続。
・紀元前7000年頃、意図的に埋められ捨てられた。
・氷河期の終わりの気候変動期に相当。
・同時期に北アメリカに大型の隕石が衝突。
・ノアの箱舟と関係?(アララト山から数百キロに立地)


シリアのテルカラメル遺跡(~紀元前8000年/少なくとも1万年前

・テルハモウカル(↓)の西数百キロ。
・直径4m高さ6mの石の塔の土台5基が出土。
・ギョベクリテペ(↑)と同一の文化圏と推測。
・施設の目的・性格は不明。
南のメソポタミアの攻撃により滅亡?


ブルガリアのヴァルナ遺跡(紀元前4500年頃/6500年前

・墓地
・金を中心に銅・宝石などの、豪華で精巧な副葬品が、1万5000点以上出土。
・それらが特に一定の墓に集中していた為、大きな身分の差の存在する組織化された社会だったと推測。
・従来の研究では、紀元前1000年頃に至っても見られなかった特徴。
・交易都市として栄え(メソポタミアの1500年前)、フランス・スペイン地域と銅製の武器を取引。
・紀元前4100年頃、気候変動(気温上昇)と共に消滅。


シリアのテルハモウカル遺跡(紀元前4000年頃/6000年以上前

・商業が栄え、役所もある町。
・労働が分担され、司法機関も行政機関も整備。
・広さ約1平方キロ。
・城門つきの巨大な城壁に囲まれる。
・紀元前3500年頃、度重なる外敵の襲来により衰退、消滅?
南のウルク(メソポタミア)が勝利


・・・・(参考)メソポタミア文明(約5500年前


オマーンの「ムバール」(紀元前3000年/約5000年前

・砂漠のキャラバンの拠点都市兼要塞
・8本の物見塔を備えた高さ9mの城壁に囲まれている。
・”高い柱を持つ都”byコーラン
・地下水脈の浸食により、町全体が陥没したと推測


・・・・(参考)クレタ島のミノア文明(紀元前2500~1600年/4500年前

・・・・(参考)古代エジプト文明(紀元前2000年/約4000年前


Wikiによるとそもそも「(世界)四大文明」という言い方自体が、アジアローカルのマイナーな概念だとなっていますが、アメリカ製作のこの番組中でも、呼称自体は”定説”の代名詞として、普通に使われていました。
いずれにしても問題の中心は、”メソポタミア最古/起源説”の方だと思いますけどね。
あるいはそれを中心とする、(ある程度の)一系列的な人類発展史観というか。単独起源説というか。

その問題意識からここで挙げられている事例を見ると、地理的に近接したシリアの二文明(都市)が、かなり直接的に”後発の”メソポタミア文明に滅亡させられたと推測されていることから、何やら「歴史は勝者(メソポタミア)が作る」というセオリーの、最たるものまたは最古の例でも見るような心持ちがしますが。(笑)

まあとにかく、衛星写真等の新技術の援護を受けて、続々発見されているこれらの古代文明の存在が指し示すことは、要するによく分からない(笑)ということですね。もはや。”四大文明”亡き後。
パンドラの箱が開いてしまったというか、この先どこでどれだけ(更に)古い文明が見つかったとしても、驚くには値しないというか。

そこでもう一回、”高度な人類文明を完全に破壊し得る自然災害の脅威”という話に戻って来て、つまりこれほど起源が混沌としているのはそれだけ”滅亡””消滅”がありふれているからで、だから「人類文明」は繰り返し勃興し繰り返し消滅したと考える方が自然なので、「起源」という言い方自体にどれほど意味があるのか、かなりあやしいところがあるということ。

そもそも「新しい」とか「古い」とかいう尺度が通用するのは、対象となる事象がある程度一つの流れの中でそれなりの関連性を持って存在している時に限られるわけで。それぞれが独立して興亡した文明を比べた時に、二万年前が二千年前より古いと、言えるのか言う意味があるのか。
そういう意味では、やっぱりメソポタミアが最古なのかも知れない。その子孫たる(であるならば)我々にとっては。


まあサッカーの”歴史”でもたまにありますよね、ベルリンの奇跡の時の何々という選手のこういう技術は、今の選手のそれよりも上だった的な言い方が。(笑)
それはそうなのかも知れない事実なのかも知れない、でも現在の選手や指導者がそれを目撃・記憶したり体感・伝達したり出来ない限り、今のサッカーはその”系統”上には無い、それは実は我々の”歴史”ではないと、そう言ってもいい可能性がある。敬意は敬意として。民族の誇りは誇りとして。

勿論”科学”的超時代的に、肉体的な共通性や共通基盤、場合によっては「進化」を指摘することも可能かも知れないですけど、それはまた別の話。
実際どれくらいの世代まで、今やっている「日本人選手の進歩」という類の論を、続けることが出来るんだろうなあと、たまに思うことはあります。日本リーグ後期あたりを起点とする。メディア化という点では、”ベルリン”よりはかなり有利ではあるでしょうけど。

ま、それは余談。(笑)


聖なる夜に? ~「神の遺伝子」
2012年12月25日 (火) | 編集 |
ヒストリーチャンネル『天文学と宗教』(前編) より。

”神”についての天文学、脳科学、分子生物学など、様々な分野からの最新アプローチを総覧した番組の中の一節。
・・・・ちょっとタイトルが良くないと思いますね。てっきり”ニュートンもケプラーも本来は錬金術師だった”とかいう、意外ではあるけど今では半ば常識化したタイプの話かと思って、危うくスルーするところでした。(笑)
とはいえこの箇所以外は、そんなに面白いとは思わなかったですけど。知ってる、またはまあそうだろうなという類の話が主。

とりあえずまずは、放送から抜粋。
地の文がナレーション、「」内が発見者ヘイマー博士の言葉。

有名な分子生物学者のディーン・ヘイマーは、神の遺伝子と呼ばれるものを発見した。
神への信仰、もしくは神そのものが、私たちのDNAに組み込まれているというのだ。
(中略)
「ある人が信じる宗教がカトリックなのかプロテスタントなのかは、100%環境に左右されます。
しかし宗教に惹かれる傾向は、環境にはあまり左右されず、遺伝的に決まります。」
(中略)

前段を聴いた時は、すわ「人類を創成した宇宙人」による、自分たちを”神”とあがめるようにとのDNAへの刷り込みか?とか思わなくはなかったですが、そういうことでもないらしく。(笑)
元々は宗教に限らず様々な”気質””性格”に影響する遺伝子の網羅的研究の中から、偶然に発見されたもののよう。具体的には、「自己超越」(自分自身よりも大きな世界を見ようとする傾向)という性格傾向についての研究から。
つまりはあくまで性格/傾向であって、特定の”神”(概念)や”信仰”に結びつくものではない。残念でした宇宙人さん。(笑)

・・・・ま、分かんないですけどね。より深謀遠慮なのかも知れない。そうして「枠組み」さえ用意しておけば、それに合わせて「はいどうもアタシらが神ですよ」と登場すれば、より(見かけの上での)自発的な反応として、強力な信仰を誘導できるかも知れないし。インディオたちの「白い人」(スペイン人)じゃないですが。
それはともかく。

ヘイマーはあらゆる宗教の信者と、無信仰者も含む2000人分のDNAを分析した。
(中略)
何度かテストを繰り返して、ヘイマーたちは、宗教的世界への強い意識と関連すると思われる、ある遺伝子を特定した。
「関係しているのはVMAT2(小胞モノアミントランスポッター)という遺伝子です。分かり易いように、神の遺伝子と名付けました。神のような概念を信じる能力、受け入れる能力に関係する遺伝子だと思われます。」
(中略)
「面白いことに、宗教的な世界に惹かれる傾向は、完全に独立した気質です。例えば不安などの他の気質とは、明らかに違います。」
(中略)
神の遺伝子の働きは麻薬に似ていて、気分や知覚を調節する脳内の神経伝達物質モノアミンをコントロールする。細胞間を移動するモノアミンの量を調節して、感情的な反応に影響を及ぼすのだ。
「神の遺伝子は、全ての人に存在します。髪の毛の色を決める遺伝子を、みんなが持っているのと同じです。」(中略)
その人の持つVMAT2遺伝子の型が強い程、神の存在をより強く感じる傾向があるという。


あくまで(積極的)「能力」であってかつ「独立」した因子であるということ。
つまり何かの欠落や劣勢などによって引き起こされる、病的なものではないということ。”馬鹿だから宗教に引っかかる”、わけではないという。必ずしも。
分かり易く言うと例えば一方で非常に懐疑主義的相対主義的な哲学的立場を取る人が、同時に(”独立”した因子として)神への真剣なこだわりを持ち続けていても不思議ではないし、あるいはノーベル賞級の優秀な科学者が、強い信仰を併せ持っていてもこれも不思議ではないみたいな話?
実際、こうした実例は切りなくありそうですけど。
より身も蓋もなく言うと、理性で性欲を滅ぼせないように、宗教衝動も滅ぼせない、それらは別々の起源(と根拠)を持つ、機能だから。

「馬鹿」と「宗教」ということで僕の立場から言うとすれば(笑)、むしろ自前の宗教衝動(遺伝子)の弱い人が、「能力」の低い人が、よせばいいのに社会的観念的モチベーションで宗教に興味を持つと、既成の組織宗教の既成性組織性に引きずられる、正に”引っかかり”型の不毛な信仰に陥ると、そんな感じがしますが。
内なる衝動に従って好きでやってる場合、それを”引っかかる”とは言わない。・・・・まあ、「性欲」という例だと、例え本心の願いからや(ヤ)っていても、”引っかかる”という言い方は割りとしますが。(笑)

とにかく「信じる」のも「受け入れる」のも能力の一種であって、当然得意不得意/個人差が大いにあるという話。
そしてそれは「考える/疑う」能力と、必ずしも矛盾するものではないという。あらゆる能力がそうであるように、両方高ければそれに越したことはないというか。

ヘイマーたちは調査の過程で、別の現象にも気付いた。神の遺伝子が及ぼす影響は、幻覚剤によって高められ、また再現することも可能なのだ。
(中略)
「宗教体験がドラッグに似ているというのではなく、どちらも脳の同じ経路に作用するという意味です。」
「強力な神の遺伝子を持つということは、生涯に渡ってごくごくわずかな幻覚剤を摂取し続けるようなもの。それによって少しだけ、宗教に惹かれ易くなるのです。」

生涯に渡ってごくごくわずかな幻覚剤を摂取し続ける。
・・・・俺のことか?(笑)。誰がシラフでラリパッパだこら。
まあ脳内麻薬自体は、常に/適宜、誰の脳の中でも出ているわけですけどね。欠乏するとそれはそれで、むしろ精神病なわけで。
”惹かれ易くなる”というのはつまり、”心当たりがある”ということですねこの場合。まあ「理解」というのは、たいていそういうものですけど。そしてまた理解出来そうだから、惹かれるという。グルグル回ってますが。(笑)

「同じ経路に左右する」という表現・感覚・留保はとても大事で、これは哲学者がよく、あらゆる現象を(結果としての)意識機能のレベルに落とし込んで話をするみたいなことと通じていますね。とりあえず”そうなってる”という話です。それがどういう意味なのかあるいは全体の中でどのような働きをしているのかとかは、その後の話。そこらへんの遠近感の分からない出来の悪い科学者は、すぐ「解明した」とか言っちゃうわけですが。
「解明」や「証明」が「解明」や「証明」たり得るのは、それがそのように機能する枠組が用意されてのこと。ま、これは余談ですが。

実際何と言うか、非常に両義的な研究ですよね。
神の「在」側へも「不在」側へも、どちらへも引っ張り込み得る。
”根拠”にも見えるけど”引きずり下ろし”にも見えるという。最終的には”DNA”とは何かということにも、大きく左右されますし。(宇宙人が作ったんだとすると・・・・(笑))

ともかく、面白い研究ではあります。


本としてはこれ。未翻訳なのか。

The God Gene: How Faith Is Hardwired into Our GenesThe God Gene: How Faith Is Hardwired into Our Genes
(2005/09/13)
Dean H. Hamer
商品詳細を見る
『神の遺伝子:どのように信仰が私達の遺伝子に組み込まれたのか』

参考URL http://lang-8.com/224300/journals/828770


・・・・しかしこれに限らず近年の遺伝/DNAの研究結果を見ていて思うのは、割りとこう単純に、ある機能/形質/表現形に対して、ある「遺伝子」がストレートに1対1で対応していることが多いなという。
一方で脳については、そうした1対1対応的な”局在説”的なものは、どちらかというと古い考えだとされることが多いので、そこらへんのギャップというか時代感(笑)みたいなものが、ちょっと混乱させられるというか。むしろDNAの方が脳よりも、”表層的”にすら見えるという。そんな馬鹿なということではあるんですが。
まあ実際感じとしては、脳よりDNAの方が遥かに先に、解明(笑)が済んじゃいそうな、そんな勢いですけどね。

これも余談ですが。


なんだこりゃ・・・・
2011年04月20日 (水) | 編集 |



目が覚める前の方がかわいいと思います。生きたぬいぐるみ。(笑)

基本的にあんまり情緒の安定したコには見えませんね。ちょっと気が弱いというか。
後々結構大変そう。引っ掻き猫になるかも。(笑)

cat scratch fever.
つぶやき『セックスアピールの科学』
2010年01月03日 (日) | 編集 |

テストステロン(性ホルモン)がリードするのはベッド・インまで。

ベッド・インしてからの集中興奮をリードするのは、ドーパミン

 ・・・・ディスカバリーチャンネル『セックスアピールの科学』より。


"セクシー"な男(女)が、セックスが上手いとは限らないという話?(笑)
後で色々書き足すかも知れないですが、とりあえずメモ。
2時間もの。前半は知っている話ばかりだったけど、後半は結構面白かった。

やや低い次元の話をすると、要は「興奮」が不十分だと「集中」も出来ないんですよね。
それはつまり、普段は必要あって分かれている体や心(特に後者)の様々な"部分"が、興奮によって解け合って束の間"一つ"のプロセスとして機能する、そういう「集中」ということ。
あらゆる行為でも運動でもそうですが、そうやって無意識に体が動く、行為が出来る状態を作らないと、いちいち変に考えてどうも上手くいかない。

広い意味の"リラックス"ではあるんだけど、でもそれは"高揚"とセットのタイプのリラックスで。
むしろサッカー選手のよく言う、「いい緊張感」の方に近いんだろうと思いますけどね。


言いたかったのは、あくまで冒頭の"スイッチ"の切り替えの話、テストステロンからドーパミンへの、「リレー」の話。それへの感銘。心当たり。(笑)
おーい、俺のドーパミンのスイッチどこ行った。メガネメガネ。

しかしこうもはっきりドーパミンの効用について語られてしまうと、やっぱりコーク(コカイン)キメてやるアレは最高なのかという、そういうイケない系の話にもなりそうですが。
どうなんでしょうね。とりあえずは、コークの作用のそもそもの"本体"は元々自前で持ってるからと、そこらへんの(新)常識でも強調して終わりにしますか。

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ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで」メモ
2009年01月06日 (火) | 編集 |
番組公式

メモってどうなるものでもないような気はしますが、いずれ自分が書くつもりでいることに使えそうな気もするので。
 >吉本隆明Wiki
 >番組の元になった講演会そのもののレポ(「しーなねこの記録」)

大きなテーマ、キーコンセプトは、吉本さんが主著の一つ『言語にとって美とはなにか』

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
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吉本 隆明
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で提示した、「自己表出」「指示表出」という、言語の二重性・二面性。

「自己表出」とは
 ・現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に「幻想」の可能性
  として想定できるにいたったもの ・・・・たまって、出たもの。(僕解説)
 ・対象にたいする意識の自動的水準の表出(以上「しみんとくらし」より)
 ・言葉の〈表現〉としての作用を概念化したもの(石村実氏
「指示表出」とは
 ・対象にたいする指示(「しみんとくらし」)
 ・言葉が〈意味〉をなして何かを指す(表す)作用を概念化したもの(石村実氏)
 ・説明的、対他人の日常的言語(僕)

なかなかずばりという解説が無くて、比較的ネットで分かり易いところを探してみたらここらへん。
要は”表現”と”説明”、”独り言”と”伝達”、”個人”と”対他者”くらいの把握でいいかと。
注意すべきはこの論・分類が、通常言語は後者の説明的伝達的機能から考えられているが、それは二次的なもので、出発点としては、根底的には前者があるという、そういう文脈で提示されたものだということです。
だからあまり、説明を読んで理解しようとしないで下さい(笑)。自己表出という概念に、少なくとも心当たりのある人にとってしか、意味の無い、理解しようのない話です。自分の胸に、訊いてみな。(笑)

以下具体的に講演内容から、関連して面白かった、興味を持ったところ。


文学/芸術と言語(自己表出)

・文学/芸術は本来自己表出的なもの。
・説明(指示表出)による理解ではなくて、送り手の自己表出(的水準)と受け手の自己表出(的水準)の、出会い
・俳句・短歌等、”簡素化”志向の日本文学は特にそうだが、一方で西洋にはバルザックやドストエフスキーのように、「展開」や「起伏」に富んだ、つまり指示表出の面でも充実した、それでいてしっかりと自己表出を成功させている文学が多く見られる。
・日本でこれを成功させているのは横光利一くらいか。(という論をかつて私は述べた)
・簡略化すれば”純文学”が自己表出、”大衆文学”が指示表出。
・....ではあるのだが。
・上で述べたような長大な展開部、指示表出を用いて読者を引っ張るタイプの文学であっても、目的は結局、そもそもの自己表出の部分に読者を導くこと、そこで読者と出会うこと。
・なのであり、”横光利一”以降の現代の大衆文学について、吉本さんがどういう評価をしているのか知りたいな。
・というのは僕が普段大衆文学を評価する上で、エンターテイメントな仕掛けは仕掛けとして、でも結局何よりもまず「自己表出」であるかどうか、絶対的な主観性の爆発・凝縮があるかどうかというのを最終的な基準にしているからですけどね。例えば類似ジャンルで比較すれば、島田荘司は”表現”だと思うけど、京極夏彦は”説明”のレベルにとどまっていると感じる。
・アニメも同じですね(笑)。例えば『ソウルイーター』は指示表出的には凡庸なところが多いけど、自己表出的な瞬発力には魅了される。....概ねストーリーよりキャラ、みたいな傾向にはどうしてもなります。
・本来純度の高い”表現”そのものである音楽を、”説明”に従属させる「メッセージソング」は糞だという話でもあります。何が和製R&Bだ馬鹿。ちなみに吉本さんは、清志郎/RC好きで有名でしたね。(笑)


他人の思考(という指示表出)

・こういう、言わば言語・思考活動の個人性の価値を主張するところに特徴のある吉本さんですが。
・しかし戦前/戦中は天皇教に心酔する学生で、それが破れた戦後の再出発においても、世界理解の方法として、まず(アダム・スミスからマルクスに至る)「古典経済学」という、具体的な思想体系、つまりは”他人の指示表出”に積極的に範を求めている。
・ここらへんがほぼ我流一本、哲学者だろうと宗教家だろうと、女だろうと(笑)、誰か他人に心酔したり同一化したり、範を求めたりという習慣の一切無い僕には、不思議と言えば不思議なところ。結論は似てるのに。
・別にしないようにしてるんじゃなくて、出来ないんですけどね、やろうとしても。滾々と湧き出る自分の自己表出が、他人の自己表出とその結果である指示表出を、受け入れる隙を与えないというか。
・ただし天皇教自体については、最近は凄く、理解出来るような気がして来ています。
・あれはつまり、どんなに時の政府や軍部に歪められていたとしても、結局のところ古来の普遍的な、「自然(神)崇拝」の元締めであり生きた集大成であり、本来的には非個人的なものなんですよね。そうした力、そうした言わば”チャンネル”としての利用価値・生命力は、ほぼ常に変わらず持っている。
・....と、いうことを、「猫」という”チャンネル”を通じて日々自然(神)崇拝の真髄が実感出来てきつつある最近の僕は、理解出来るような気がする。昭和天皇は、やっぱり好きだし。自然神は、最高です(笑)。幸福そのものです。
・話戻してだから吉本さんが、そういう他人の思考と取り組む時、指示表出を通じて自己表出に至るという経緯を実際に踏んでいるのか、それとも自己表出の強固性を前提として、仮に/方法的に、ある指示表出に身を委ねているのか、そこらへんの内面がどうなっているのかなあというのが。
・僕も多くの思想家や哲学者、宗教家を尊敬していますし参考にしていますが、最初から対等、一対一なんですよね。彼の自己表出と僕の自己表出、それが出会うか出会わないか。言い換えれば「心当たり」があるかどうか。教わろうとか、誰かが答えを知っているなどということは、ハナから一切想定しない。心がけてるのではなくて、出来ないんですよ、体質的に。繰り返しますが。
・まあプラトンも、アウグスティヌスも、それぞれに「理解」とは要するに「心当たり」のことだ、とは言ってますけど。頑張って”教え”ても、無から有は生まれない。誠心誠意説明しても、分かる準備の出来てない人には通じない。吉本さんの芸術観自体も、最終的にはそこを指し示しているわけで。
・これはまた、僕が論理ではなく比喩を重視した記述スタイルを好む影の理由でもありますが。(笑)
・説明するのではなく、読者の中の「心当たり」を目覚めさせるのが目的。
・対他人的には、多分もう少し僕は”勉強”もした方がいいんでしょうけど、なんか結局、回り道のような。ちゃんとやってれば、いずれ同じところに出るさと。やあ、また会いましたねえ、吉本さん。過程での指示表出的齟齬にこだわるのは、効率が悪い。

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「直観」と「言語」と「論理」
2008年07月15日 (火) | 編集 |
「脳と直観」に続くその先。「直観」と「言語」と「論理」
脳内の意識外の”思考”が、「直観」という形でいかに意識にもたらされるかが前回で、今回はもたらされた直観が、いかに意識の中で思考を形成するか。
ちなみに間に挟まっているのは、キー概念である「直観」について、特に掘り下げて考えてみた過程の追究。・・・・とはいえ実は直観については、抜け落ちていることがそれでもいくつもあるんですが、今話すとかえって分かり難くなると思うので割愛。

参考でしかないですが、手がかりとしてそう゜さんとの問答の中での、関連箇所を再び引く形で。
引用元(1)(2)(3)(4)


「直観」と「言語」

そしてそれ(直観)を更に断片化して、「言語化」するわけです。大変です。(笑)


脳/無意識という自然を、直観という形で人間化・個人化するプロセスについて語った、その後の話。

まずこの二つは択一の関係にはなくて、「直観」(ないしはその素)は常にある、でその内の何割かが時と場合と必要性と技術的可能性に応じて「論理」化されると、こういう風に考えた方がいいと思います。
じゃないと言葉/論理を習得していない幼児や動物は、生活上に必要な最低限の認識が得られなくて困ってしまいますから。(笑)


言葉遣いとしては「直観」と「論理」ですが、実際にはこれは直観と「論理を含む言語的認識全体」の話ですね。

だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている、または直観という”氷山”の”一角”として論理が存在していると、そういうイメージの方がふさわしいかと。


これはかなり言語行為の中でも抽象性の高い「論理」についての話ですが、続きの話なのでここに。


「言語」(化)と「論理」(的思考)

僕なんか”考える”ことなんて滅多にありませんけどね。
だって面倒くさいもん。(笑)
正味やってるのは「直観」の「言語化」だけです。
それと「思考」はほんとは少し違う。


繰り返しますが、これが出発点。

対極、ではないんだと思うんですけどね。
処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。


直接には「直観」と「論理」の方の話なんですが、オリジナル(の直観)に近い方と遠い方との、広義の思考・認識行為の中での形式性の度合いの問題として、ここに。


「直観」と「論理」(的思考)

「論理」をこねるのは、遊び半分か喧嘩の時ですね。いわゆる「理論武装」というやつ。
世の中の”筋が通った話”なんて、筋が通ってる分だけ全部嘘です。(笑)


(注)つまり言外に「直観」しか信じてないということを言っている。

オリジナル(の言語化)とその発展・展開ということでしょう?
展開部分はある程度形式が決まっているので、あまりそこに囚われるとオリジナルがどっか行ってしまって、だから”ノイズ”だと。


”オリジナル”≒「直観」、”展開部分”≒「論理」。

何にも考えていない(言語化すべきチョッカンがない)人でもその形式をなぞることによって、考えているフリをすることは出来る。


考えていない=直観が無い。しかし直観が無くても論理は紡げる。(厳密には違うんですけど)


・・・・と、ここまで書いたことを承けて更に色々書いていたんですが、煮詰まって知恵熱が出て来たので中断(笑)。今日はここまで。そうですかそうですか、そっちへ行っちゃいけませんか。
いや、ありません?風邪とかとは別に、心身のバランスが崩れている時に出て来る疲労性の発熱。ドカンと上がって、サッと引くんですけど。むしろメンタルヘルスのパラメーターとして、僕は重宝してますが。

まあマラソン大会とか嫌な行事の時に、子供の頃出していた熱と似たようなものか。(笑)
既にほぼ引いてますのでご心配なく。