東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
ヒストリーチャンネル 『伝説の企業家~アメリカをつくった男たち~』
2013年11月10日 (日) | 編集 |
見たのは先月6日の無料開放デーの一挙放送だったんですが、何となく書きそびれていたもの。
かなり面白かったです。


伝説の企業家~アメリカをつくった男たち~ (公式)

アメリカは発見されたのではない。造られたのだ。
ロックフェラー、ヴァンダービルト、カーネギー、フォード、モルガン。彼らがアメリカを造った。
産業化時代、彼らは近代的国家という大胆なビジョンを描き、石油、鉄道、鉄鋼、船舶、自動車、エネルギー、金融などの巨大な産業を築き上げた。貧しさの中から立ち上がった彼らは、企業を起こし、経済政策を設け、主要な出来事に影響を与え続けた。

#1 新たな戦い  ヴァンダービルト・鉄道
#2 石油産業の台頭  ロックフェラー・石油
#3 鉄鋼業の飛躍  カーネギー・鉄鋼
#4 産業史に残る大惨事  カーネギー
#5 金融界のエース  モルガン
#6 電流戦争  エジソン(&モルガン)とニコラ・テスラ
#7 政府の買収  モルガン、ロックフェラー、カーネギー
#8 自動車産業の隆盛  フォード



一見すると所謂"立志伝"で、実際そういう内容ではあるんですが、演出としては『プロジェクトX』とも『その時歴史が動いた』ともかなり違って(笑)、むしろマフィアの大ボスたちの一代記とかにでもありそうなダークなトーン。
それは一つには、彼ら大(産業)資本家たちの成功の陰で、どれほどの数の労働者や庶民が搾取・虐待されて来たのかという、ある意味では型通りの"告発"の意味合いがあるわけですが、同時にそうして成功した彼らが自分たちの財産・利益を永久的に維持・継続・肥大化させる為に、いかに結託して"マフィア"を形成するようになったのかという、そういう暗喩が込められているのだろうと思います。

"マフィア"でもあり、また同時に、演出がもう一つ連想させる

企業家

"西部劇"的でもあり。
つまり西部劇でよく見られる、開拓時代の西部の一つの町一つの地方で、力のある一族が超法規的に全てを牛耳るああした光景が、実はその本質をさほど変えないまま巨大化したのが、"アメリカ"であるという。
今現在誰が牛耳ってるかというような問題とはまた別に、そういうあり方のある意味での"正当性"・・・・というか"正統性"を認める部分が"アメリカ"の無意識にはあって、今日の金融界などに見られるように、隙あらばそういう動きは顔を出して来る、"王座"争いが常に起きている、そんなサジェスチョンでもあるのかなという。アメリカニズムとは、"自由競争"なんて綺麗事ではなくて、もっと端的に"ウィナーテイクスオール"のことである、的な。


とここまでは普通の(?)感想ですが、もう一つ見てる内にじわじわ感じて来たのは、これアレなんじゃないのということ。
・・・・いや、アレと言われても分かんないでしょうが(笑)、つまりこのヒストリーチャンネルの過去の同様に印象的なシリーズとして、何と現在シーズン5まだ作られているらしい(よくそんなにネタあるなあ)、『古代の宇宙人』という人気シリーズがあるということを、前に紹介しましたよね。
それは要するに、今日"都市伝説"ものとして、ここ日本でもある意味市民権を得た感のある"既成事実としての宇宙人と地球人の交流"というテーマを、あらゆる角度から慎重に巧妙にかつ豊かに取り上げているシリーズなわけですが。

で、その(笑)ソフトには"都市伝説"、より露骨にハードには「陰謀説・陰謀論」の世界で、"宇宙人説"と並ぶ大物として存在しているものとして、(多くはユダヤ系の)「ごく少数の大金持ちによる世界支配」というものがあるわけです。いわくイギリスのロスチャイルドをおおもととして、アメリカではロックフェラーが仕切ってるうんぬんかんぬん、いわくフリーメイソンから流れるうんぬんかんぬん、いわく300人委員会がうんぬん、ビルダーバーグ会議がかんぬんと、まあ僕も全貌を把握しているわけでは全然無いですが(笑)、とにかく色々とあるわけです。
またそれらが多くは、そのまま"宇宙人"と連結していたりするんですけどそれはともかく。

で、今回のこの番組の面白いところは、直接そうした"壮大"な陰謀論に触れたりとかは全くしていないんですが、少なくともアメリカにおいて、そうしたタイプの構想が生まれて来るその源となり得るだろう事実を、過不足なく切り取って提示しているように見えるところがあることですね。
実際に比較を絶する少数の超大金持ちというものがアメリカには存在していて、歴史的に育っていて、それらが一般大衆・・・・ではなくて(これだと"陰謀論")、時の政治権力との対抗上、具体的には反トラストの動きへの防衛策として、結託せざるを得ない歴史的状況があって、かつその戦いに勝利して権益の永久化にほぼ成功している、その様子を説得的に描写している。

性格付けとしては、『古代の宇宙人』シリーズが、相当に(宇宙人説に)肯定的であるのに対して、こちらは限定的肯定ではあるけれど、その"限定"はむしろ「陰謀(説)」が一つの全体として存在していることを否定している、頭を冷やすことを視聴者に要求している、そのように言えると思います。
隠された金持ち連合は実在している、しかしそれは純粋に成り上がりたちの自己防衛であって、フリーメイソントも増して宇宙人とも、何ら関係は無い、そんな"根拠"を考える必要性は無いという、そういう立場。
かなり、説得されましたね。見てる範囲では。限定的肯定による否定という、エレガンス。または巧妙さ。これ自体が、隠蔽の陰謀であるならば。(笑)

別にヒストリーチャンネルという、"人"が存在しているわけではないですが、一方で『古代の宇宙人』シリーズが存在している以上、もう一方の"陰謀"論についても、意識していないわけはないと思います。単なる社会経済的視点からは、作られない/作れないだろうと感じる作品というか。
それゆえの高度なバランス感覚というか知的緊張感というか、そこらへんが非常に面白かったです。


個別に他に面白かったのは、最後にフォードが出て来ますが、彼も勿論、成功したアメリカ的超大金持ち・産業資本家ではあるんですが、ただ"世代"的にはロックフェラー・カーネギー・モルガンらとは一回り違って、彼らに象徴されるエスタブリッシュメントに対抗する形で出て来た、新時代の、"大衆"の時代の資本家という面があるとされていること。・・・・まあ当然、"大衆車フォード"ということではあるわけですが。
例のフォード的"オートメーション"生産も、労働の非人間化というよりは大衆化促進のツール、大衆が力を持つための武器として、位置づけられている。

逆にその時代までは描かれていませんが、そのフォードが後に高名なナチスの擁護者、支援者と成り果てるのも、要は前の世代と同じで基本的には単純に自分の権益の防衛の為という意味合いが、大きいんだろうなと、このシリーズの成り立ち的には想像できます。"思想"的観念的問題というよりもね。
共産主義よりはナチスの方が、遥かにましという、資本主義的利益の防衛の為には。まあ当時のアメリカで、広く見られた考えでもありますが。最終的に金持ちが重視することは何か、という。そんなに複雑な問題ではないというか。

カーネギーというと"カーネギーホール"の良い(?)印象が強いと思いますが、カーネギーは"カルテル"のメンバーの中では当初からかなり世評を気にする軟弱というか偽善的なところがあって、成功してからはかなり早くから世間の方を向いている面があったと。後にモルガンに自己の帝国を丸ごと買収された後は、むしろほっとして生き生きとして、その金で"慈善活動"にいそしんだと、そんな様子も描かれています。

また上の一件でも分かるように、カルテルの中でも最終的に主役となったのは銀行家のモルガンで、彼の資金力と金融活動こそがアメリカ政府までも屈服させ依存させ、それによってカルテルの永存を保証し、あるいは今日の"金融の時代"を招来したと、そんな様子も読み取れます。
ロックフェラーは、ある意味では石油を掘り当てただけの単純な田舎者で、特段に優れた構想力があったわけでもないがそれゆえに強情でもあり、カーネギーのよう弱気を見せることは無かった。ただ時代のリードという点ではモルガンに譲ったし、後の"財団"の慈善活動も言ってみればカーネギーの真似でしかないと、そんな感じ。


まあ、機会があったら、どうぞ。


スポンサーサイト
『滅びし古代文明の正体』より
2013年03月09日 (土) | 編集 |
以前発作的騒いでいた(笑)ヒストリーチャンネルの『滅びし古代文明の正体』が再放送してくれので、録画して再見しました。
全体としては、文明論というより災害論、どのような自然災害がどのような規模で襲い、人類の文明を滅ぼしてしまう現実的可能性があるのか、その”滅ぼした”例として、近年次々に発見されている「四大文明」を更に年代的に遡る高度な古代文明の(遺跡の)数々が取り上げられているという、そういう構成。・・・・つまり現に(つい最近まで)痕跡も残さず滅びているのだから、我々の現代文明であっても数万年後にそのような存在になってしまう可能性はあるよというそういう話。

ただ”歴史”興味の立場からは話が逆で、(そのように)巨大な自然災害が跡形もなく発達した文明を滅ぼしてしまう可能性があるのだから、現代の我々にも全く知られていない/なかったような古いor謎の文明がまだまだ存在していた可能性も現実的なものとしてあるよ、ひいては「人類史」のアウトラインを引く作業自体が、未だどの程度の確度で達成されているのか、実は見当もつかない部分があるよという、そういう話になります。
アンチ”四大文明”史観というか(笑)。メソポタミア史観というか。

ともかくこのプログラムの特に前編で取り上げられている(後編は災害と気候変動研究に充てられている)”プレ四大文明”の話(事例)が単純に面白い&初耳だったので、番組に従って年代順にまとめてみました。


トルコのギョベクリテペの遺跡(紀元前9000年/約1万1000年前

・その地域には住まない種類を含む、動物のレリーフを施した石が無数に出土。
・直径9m~30mの楕円形の巨大建造物が20以上。
・建物の内部には石灰岩を四角く削ったT字型の巨大な支柱が何本も存在。
・柱に使われた石は一つあたり15トンから、最大60トンまで。
・都市の性格は不明。聖地か?
・2000年近く存続。
・紀元前7000年頃、意図的に埋められ捨てられた。
・氷河期の終わりの気候変動期に相当。
・同時期に北アメリカに大型の隕石が衝突。
・ノアの箱舟と関係?(アララト山から数百キロに立地)


シリアのテルカラメル遺跡(~紀元前8000年/少なくとも1万年前

・テルハモウカル(↓)の西数百キロ。
・直径4m高さ6mの石の塔の土台5基が出土。
・ギョベクリテペ(↑)と同一の文化圏と推測。
・施設の目的・性格は不明。
南のメソポタミアの攻撃により滅亡?


ブルガリアのヴァルナ遺跡(紀元前4500年頃/6500年前

・墓地
・金を中心に銅・宝石などの、豪華で精巧な副葬品が、1万5000点以上出土。
・それらが特に一定の墓に集中していた為、大きな身分の差の存在する組織化された社会だったと推測。
・従来の研究では、紀元前1000年頃に至っても見られなかった特徴。
・交易都市として栄え(メソポタミアの1500年前)、フランス・スペイン地域と銅製の武器を取引。
・紀元前4100年頃、気候変動(気温上昇)と共に消滅。


シリアのテルハモウカル遺跡(紀元前4000年頃/6000年以上前

・商業が栄え、役所もある町。
・労働が分担され、司法機関も行政機関も整備。
・広さ約1平方キロ。
・城門つきの巨大な城壁に囲まれる。
・紀元前3500年頃、度重なる外敵の襲来により衰退、消滅?
南のウルク(メソポタミア)が勝利


・・・・(参考)メソポタミア文明(約5500年前


オマーンの「ムバール」(紀元前3000年/約5000年前

・砂漠のキャラバンの拠点都市兼要塞
・8本の物見塔を備えた高さ9mの城壁に囲まれている。
・”高い柱を持つ都”byコーラン
・地下水脈の浸食により、町全体が陥没したと推測


・・・・(参考)クレタ島のミノア文明(紀元前2500~1600年/4500年前

・・・・(参考)古代エジプト文明(紀元前2000年/約4000年前


Wikiによるとそもそも「(世界)四大文明」という言い方自体が、アジアローカルのマイナーな概念だとなっていますが、アメリカ製作のこの番組中でも、呼称自体は”定説”の代名詞として、普通に使われていました。
いずれにしても問題の中心は、”メソポタミア最古/起源説”の方だと思いますけどね。
あるいはそれを中心とする、(ある程度の)一系列的な人類発展史観というか。単独起源説というか。

その問題意識からここで挙げられている事例を見ると、地理的に近接したシリアの二文明(都市)が、かなり直接的に”後発の”メソポタミア文明に滅亡させられたと推測されていることから、何やら「歴史は勝者(メソポタミア)が作る」というセオリーの、最たるものまたは最古の例でも見るような心持ちがしますが。(笑)

まあとにかく、衛星写真等の新技術の援護を受けて、続々発見されているこれらの古代文明の存在が指し示すことは、要するによく分からない(笑)ということですね。もはや。”四大文明”亡き後。
パンドラの箱が開いてしまったというか、この先どこでどれだけ(更に)古い文明が見つかったとしても、驚くには値しないというか。

そこでもう一回、”高度な人類文明を完全に破壊し得る自然災害の脅威”という話に戻って来て、つまりこれほど起源が混沌としているのはそれだけ”滅亡””消滅”がありふれているからで、だから「人類文明」は繰り返し勃興し繰り返し消滅したと考える方が自然なので、「起源」という言い方自体にどれほど意味があるのか、かなりあやしいところがあるということ。

そもそも「新しい」とか「古い」とかいう尺度が通用するのは、対象となる事象がある程度一つの流れの中でそれなりの関連性を持って存在している時に限られるわけで。それぞれが独立して興亡した文明を比べた時に、二万年前が二千年前より古いと、言えるのか言う意味があるのか。
そういう意味では、やっぱりメソポタミアが最古なのかも知れない。その子孫たる(であるならば)我々にとっては。


まあサッカーの”歴史”でもたまにありますよね、ベルリンの奇跡の時の何々という選手のこういう技術は、今の選手のそれよりも上だった的な言い方が。(笑)
それはそうなのかも知れない事実なのかも知れない、でも現在の選手や指導者がそれを目撃・記憶したり体感・伝達したり出来ない限り、今のサッカーはその”系統”上には無い、それは実は我々の”歴史”ではないと、そう言ってもいい可能性がある。敬意は敬意として。民族の誇りは誇りとして。

勿論”科学”的超時代的に、肉体的な共通性や共通基盤、場合によっては「進化」を指摘することも可能かも知れないですけど、それはまた別の話。
実際どれくらいの世代まで、今やっている「日本人選手の進歩」という類の論を、続けることが出来るんだろうなあと、たまに思うことはあります。日本リーグ後期あたりを起点とする。メディア化という点では、”ベルリン”よりはかなり有利ではあるでしょうけど。

ま、それは余談。(笑)


聖なる夜に? ~「神の遺伝子」
2012年12月25日 (火) | 編集 |
ヒストリーチャンネル『天文学と宗教』(前編) より。

”神”についての天文学、脳科学、分子生物学など、様々な分野からの最新アプローチを総覧した番組の中の一節。
・・・・ちょっとタイトルが良くないと思いますね。てっきり”ニュートンもケプラーも本来は錬金術師だった”とかいう、意外ではあるけど今では半ば常識化したタイプの話かと思って、危うくスルーするところでした。(笑)
とはいえこの箇所以外は、そんなに面白いとは思わなかったですけど。知ってる、またはまあそうだろうなという類の話が主。

とりあえずまずは、放送から抜粋。
地の文がナレーション、「」内が発見者ヘイマー博士の言葉。

有名な分子生物学者のディーン・ヘイマーは、神の遺伝子と呼ばれるものを発見した。
神への信仰、もしくは神そのものが、私たちのDNAに組み込まれているというのだ。
(中略)
「ある人が信じる宗教がカトリックなのかプロテスタントなのかは、100%環境に左右されます。
しかし宗教に惹かれる傾向は、環境にはあまり左右されず、遺伝的に決まります。」
(中略)

前段を聴いた時は、すわ「人類を創成した宇宙人」による、自分たちを”神”とあがめるようにとのDNAへの刷り込みか?とか思わなくはなかったですが、そういうことでもないらしく。(笑)
元々は宗教に限らず様々な”気質””性格”に影響する遺伝子の網羅的研究の中から、偶然に発見されたもののよう。具体的には、「自己超越」(自分自身よりも大きな世界を見ようとする傾向)という性格傾向についての研究から。
つまりはあくまで性格/傾向であって、特定の”神”(概念)や”信仰”に結びつくものではない。残念でした宇宙人さん。(笑)

・・・・ま、分かんないですけどね。より深謀遠慮なのかも知れない。そうして「枠組み」さえ用意しておけば、それに合わせて「はいどうもアタシらが神ですよ」と登場すれば、より(見かけの上での)自発的な反応として、強力な信仰を誘導できるかも知れないし。インディオたちの「白い人」(スペイン人)じゃないですが。
それはともかく。

ヘイマーはあらゆる宗教の信者と、無信仰者も含む2000人分のDNAを分析した。
(中略)
何度かテストを繰り返して、ヘイマーたちは、宗教的世界への強い意識と関連すると思われる、ある遺伝子を特定した。
「関係しているのはVMAT2(小胞モノアミントランスポッター)という遺伝子です。分かり易いように、神の遺伝子と名付けました。神のような概念を信じる能力、受け入れる能力に関係する遺伝子だと思われます。」
(中略)
「面白いことに、宗教的な世界に惹かれる傾向は、完全に独立した気質です。例えば不安などの他の気質とは、明らかに違います。」
(中略)
神の遺伝子の働きは麻薬に似ていて、気分や知覚を調節する脳内の神経伝達物質モノアミンをコントロールする。細胞間を移動するモノアミンの量を調節して、感情的な反応に影響を及ぼすのだ。
「神の遺伝子は、全ての人に存在します。髪の毛の色を決める遺伝子を、みんなが持っているのと同じです。」(中略)
その人の持つVMAT2遺伝子の型が強い程、神の存在をより強く感じる傾向があるという。


あくまで(積極的)「能力」であってかつ「独立」した因子であるということ。
つまり何かの欠落や劣勢などによって引き起こされる、病的なものではないということ。”馬鹿だから宗教に引っかかる”、わけではないという。必ずしも。
分かり易く言うと例えば一方で非常に懐疑主義的相対主義的な哲学的立場を取る人が、同時に(”独立”した因子として)神への真剣なこだわりを持ち続けていても不思議ではないし、あるいはノーベル賞級の優秀な科学者が、強い信仰を併せ持っていてもこれも不思議ではないみたいな話?
実際、こうした実例は切りなくありそうですけど。
より身も蓋もなく言うと、理性で性欲を滅ぼせないように、宗教衝動も滅ぼせない、それらは別々の起源(と根拠)を持つ、機能だから。

「馬鹿」と「宗教」ということで僕の立場から言うとすれば(笑)、むしろ自前の宗教衝動(遺伝子)の弱い人が、「能力」の低い人が、よせばいいのに社会的観念的モチベーションで宗教に興味を持つと、既成の組織宗教の既成性組織性に引きずられる、正に”引っかかり”型の不毛な信仰に陥ると、そんな感じがしますが。
内なる衝動に従って好きでやってる場合、それを”引っかかる”とは言わない。・・・・まあ、「性欲」という例だと、例え本心の願いからや(ヤ)っていても、”引っかかる”という言い方は割りとしますが。(笑)

とにかく「信じる」のも「受け入れる」のも能力の一種であって、当然得意不得意/個人差が大いにあるという話。
そしてそれは「考える/疑う」能力と、必ずしも矛盾するものではないという。あらゆる能力がそうであるように、両方高ければそれに越したことはないというか。

ヘイマーたちは調査の過程で、別の現象にも気付いた。神の遺伝子が及ぼす影響は、幻覚剤によって高められ、また再現することも可能なのだ。
(中略)
「宗教体験がドラッグに似ているというのではなく、どちらも脳の同じ経路に作用するという意味です。」
「強力な神の遺伝子を持つということは、生涯に渡ってごくごくわずかな幻覚剤を摂取し続けるようなもの。それによって少しだけ、宗教に惹かれ易くなるのです。」

生涯に渡ってごくごくわずかな幻覚剤を摂取し続ける。
・・・・俺のことか?(笑)。誰がシラフでラリパッパだこら。
まあ脳内麻薬自体は、常に/適宜、誰の脳の中でも出ているわけですけどね。欠乏するとそれはそれで、むしろ精神病なわけで。
”惹かれ易くなる”というのはつまり、”心当たりがある”ということですねこの場合。まあ「理解」というのは、たいていそういうものですけど。そしてまた理解出来そうだから、惹かれるという。グルグル回ってますが。(笑)

「同じ経路に左右する」という表現・感覚・留保はとても大事で、これは哲学者がよく、あらゆる現象を(結果としての)意識機能のレベルに落とし込んで話をするみたいなことと通じていますね。とりあえず”そうなってる”という話です。それがどういう意味なのかあるいは全体の中でどのような働きをしているのかとかは、その後の話。そこらへんの遠近感の分からない出来の悪い科学者は、すぐ「解明した」とか言っちゃうわけですが。
「解明」や「証明」が「解明」や「証明」たり得るのは、それがそのように機能する枠組が用意されてのこと。ま、これは余談ですが。

実際何と言うか、非常に両義的な研究ですよね。
神の「在」側へも「不在」側へも、どちらへも引っ張り込み得る。
”根拠”にも見えるけど”引きずり下ろし”にも見えるという。最終的には”DNA”とは何かということにも、大きく左右されますし。(宇宙人が作ったんだとすると・・・・(笑))

ともかく、面白い研究ではあります。


本としてはこれ。未翻訳なのか。

The God Gene: How Faith Is Hardwired into Our GenesThe God Gene: How Faith Is Hardwired into Our Genes
(2005/09/13)
Dean H. Hamer
商品詳細を見る
『神の遺伝子:どのように信仰が私達の遺伝子に組み込まれたのか』

参考URL http://lang-8.com/224300/journals/828770


・・・・しかしこれに限らず近年の遺伝/DNAの研究結果を見ていて思うのは、割りとこう単純に、ある機能/形質/表現形に対して、ある「遺伝子」がストレートに1対1で対応していることが多いなという。
一方で脳については、そうした1対1対応的な”局在説”的なものは、どちらかというと古い考えだとされることが多いので、そこらへんのギャップというか時代感(笑)みたいなものが、ちょっと混乱させられるというか。むしろDNAの方が脳よりも、”表層的”にすら見えるという。そんな馬鹿なということではあるんですが。
まあ実際感じとしては、脳よりDNAの方が遥かに先に、解明(笑)が済んじゃいそうな、そんな勢いですけどね。

これも余談ですが。


なんだこりゃ・・・・
2011年04月20日 (水) | 編集 |



目が覚める前の方がかわいいと思います。生きたぬいぐるみ。(笑)

基本的にあんまり情緒の安定したコには見えませんね。ちょっと気が弱いというか。
後々結構大変そう。引っ掻き猫になるかも。(笑)

cat scratch fever.
つぶやき『セックスアピールの科学』
2010年01月03日 (日) | 編集 |

テストステロン(性ホルモン)がリードするのはベッド・インまで。

ベッド・インしてからの集中興奮をリードするのは、ドーパミン

 ・・・・ディスカバリーチャンネル『セックスアピールの科学』より。


"セクシー"な男(女)が、セックスが上手いとは限らないという話?(笑)
後で色々書き足すかも知れないですが、とりあえずメモ。
2時間もの。前半は知っている話ばかりだったけど、後半は結構面白かった。

やや低い次元の話をすると、要は「興奮」が不十分だと「集中」も出来ないんですよね。
それはつまり、普段は必要あって分かれている体や心(特に後者)の様々な"部分"が、興奮によって解け合って束の間"一つ"のプロセスとして機能する、そういう「集中」ということ。
あらゆる行為でも運動でもそうですが、そうやって無意識に体が動く、行為が出来る状態を作らないと、いちいち変に考えてどうも上手くいかない。

広い意味の"リラックス"ではあるんだけど、でもそれは"高揚"とセットのタイプのリラックスで。
むしろサッカー選手のよく言う、「いい緊張感」の方に近いんだろうと思いますけどね。


言いたかったのは、あくまで冒頭の"スイッチ"の切り替えの話、テストステロンからドーパミンへの、「リレー」の話。それへの感銘。心当たり。(笑)
おーい、俺のドーパミンのスイッチどこ行った。メガネメガネ。

しかしこうもはっきりドーパミンの効用について語られてしまうと、やっぱりコーク(コカイン)キメてやるアレは最高なのかという、そういうイケない系の話にもなりそうですが。
どうなんでしょうね。とりあえずは、コークの作用のそもそもの"本体"は元々自前で持ってるからと、そこらへんの(新)常識でも強調して終わりにしますか。

[続きを読む...]
ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで」メモ
2009年01月06日 (火) | 編集 |
番組公式

メモってどうなるものでもないような気はしますが、いずれ自分が書くつもりでいることに使えそうな気もするので。
 >吉本隆明Wiki
 >番組の元になった講演会そのもののレポ(「しーなねこの記録」)

大きなテーマ、キーコンセプトは、吉本さんが主著の一つ『言語にとって美とはなにか』

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
(2001/09)
吉本 隆明
商品詳細を見る
定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)
(2001/10)
吉本 隆明
商品詳細を見る

で提示した、「自己表出」「指示表出」という、言語の二重性・二面性。

「自己表出」とは
 ・現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に「幻想」の可能性
  として想定できるにいたったもの ・・・・たまって、出たもの。(僕解説)
 ・対象にたいする意識の自動的水準の表出(以上「しみんとくらし」より)
 ・言葉の〈表現〉としての作用を概念化したもの(石村実氏
「指示表出」とは
 ・対象にたいする指示(「しみんとくらし」)
 ・言葉が〈意味〉をなして何かを指す(表す)作用を概念化したもの(石村実氏)
 ・説明的、対他人の日常的言語(僕)

なかなかずばりという解説が無くて、比較的ネットで分かり易いところを探してみたらここらへん。
要は”表現”と”説明”、”独り言”と”伝達”、”個人”と”対他者”くらいの把握でいいかと。
注意すべきはこの論・分類が、通常言語は後者の説明的伝達的機能から考えられているが、それは二次的なもので、出発点としては、根底的には前者があるという、そういう文脈で提示されたものだということです。
だからあまり、説明を読んで理解しようとしないで下さい(笑)。自己表出という概念に、少なくとも心当たりのある人にとってしか、意味の無い、理解しようのない話です。自分の胸に、訊いてみな。(笑)

以下具体的に講演内容から、関連して面白かった、興味を持ったところ。


文学/芸術と言語(自己表出)

・文学/芸術は本来自己表出的なもの。
・説明(指示表出)による理解ではなくて、送り手の自己表出(的水準)と受け手の自己表出(的水準)の、出会い
・俳句・短歌等、”簡素化”志向の日本文学は特にそうだが、一方で西洋にはバルザックやドストエフスキーのように、「展開」や「起伏」に富んだ、つまり指示表出の面でも充実した、それでいてしっかりと自己表出を成功させている文学が多く見られる。
・日本でこれを成功させているのは横光利一くらいか。(という論をかつて私は述べた)
・簡略化すれば”純文学”が自己表出、”大衆文学”が指示表出。
・....ではあるのだが。
・上で述べたような長大な展開部、指示表出を用いて読者を引っ張るタイプの文学であっても、目的は結局、そもそもの自己表出の部分に読者を導くこと、そこで読者と出会うこと。
・なのであり、”横光利一”以降の現代の大衆文学について、吉本さんがどういう評価をしているのか知りたいな。
・というのは僕が普段大衆文学を評価する上で、エンターテイメントな仕掛けは仕掛けとして、でも結局何よりもまず「自己表出」であるかどうか、絶対的な主観性の爆発・凝縮があるかどうかというのを最終的な基準にしているからですけどね。例えば類似ジャンルで比較すれば、島田荘司は”表現”だと思うけど、京極夏彦は”説明”のレベルにとどまっていると感じる。
・アニメも同じですね(笑)。例えば『ソウルイーター』は指示表出的には凡庸なところが多いけど、自己表出的な瞬発力には魅了される。....概ねストーリーよりキャラ、みたいな傾向にはどうしてもなります。
・本来純度の高い”表現”そのものである音楽を、”説明”に従属させる「メッセージソング」は糞だという話でもあります。何が和製R&Bだ馬鹿。ちなみに吉本さんは、清志郎/RC好きで有名でしたね。(笑)


他人の思考(という指示表出)

・こういう、言わば言語・思考活動の個人性の価値を主張するところに特徴のある吉本さんですが。
・しかし戦前/戦中は天皇教に心酔する学生で、それが破れた戦後の再出発においても、世界理解の方法として、まず(アダム・スミスからマルクスに至る)「古典経済学」という、具体的な思想体系、つまりは”他人の指示表出”に積極的に範を求めている。
・ここらへんがほぼ我流一本、哲学者だろうと宗教家だろうと、女だろうと(笑)、誰か他人に心酔したり同一化したり、範を求めたりという習慣の一切無い僕には、不思議と言えば不思議なところ。結論は似てるのに。
・別にしないようにしてるんじゃなくて、出来ないんですけどね、やろうとしても。滾々と湧き出る自分の自己表出が、他人の自己表出とその結果である指示表出を、受け入れる隙を与えないというか。
・ただし天皇教自体については、最近は凄く、理解出来るような気がして来ています。
・あれはつまり、どんなに時の政府や軍部に歪められていたとしても、結局のところ古来の普遍的な、「自然(神)崇拝」の元締めであり生きた集大成であり、本来的には非個人的なものなんですよね。そうした力、そうした言わば”チャンネル”としての利用価値・生命力は、ほぼ常に変わらず持っている。
・....と、いうことを、「猫」という”チャンネル”を通じて日々自然(神)崇拝の真髄が実感出来てきつつある最近の僕は、理解出来るような気がする。昭和天皇は、やっぱり好きだし。自然神は、最高です(笑)。幸福そのものです。
・話戻してだから吉本さんが、そういう他人の思考と取り組む時、指示表出を通じて自己表出に至るという経緯を実際に踏んでいるのか、それとも自己表出の強固性を前提として、仮に/方法的に、ある指示表出に身を委ねているのか、そこらへんの内面がどうなっているのかなあというのが。
・僕も多くの思想家や哲学者、宗教家を尊敬していますし参考にしていますが、最初から対等、一対一なんですよね。彼の自己表出と僕の自己表出、それが出会うか出会わないか。言い換えれば「心当たり」があるかどうか。教わろうとか、誰かが答えを知っているなどということは、ハナから一切想定しない。心がけてるのではなくて、出来ないんですよ、体質的に。繰り返しますが。
・まあプラトンも、アウグスティヌスも、それぞれに「理解」とは要するに「心当たり」のことだ、とは言ってますけど。頑張って”教え”ても、無から有は生まれない。誠心誠意説明しても、分かる準備の出来てない人には通じない。吉本さんの芸術観自体も、最終的にはそこを指し示しているわけで。
・これはまた、僕が論理ではなく比喩を重視した記述スタイルを好む影の理由でもありますが。(笑)
・説明するのではなく、読者の中の「心当たり」を目覚めさせるのが目的。
・対他人的には、多分もう少し僕は”勉強”もした方がいいんでしょうけど、なんか結局、回り道のような。ちゃんとやってれば、いずれ同じところに出るさと。やあ、また会いましたねえ、吉本さん。過程での指示表出的齟齬にこだわるのは、効率が悪い。

[続きを読む...]
「直観」と「言語」と「論理」
2008年07月15日 (火) | 編集 |
「脳と直観」に続くその先。「直観」と「言語」と「論理」
脳内の意識外の”思考”が、「直観」という形でいかに意識にもたらされるかが前回で、今回はもたらされた直観が、いかに意識の中で思考を形成するか。
ちなみに間に挟まっているのは、キー概念である「直観」について、特に掘り下げて考えてみた過程の追究。・・・・とはいえ実は直観については、抜け落ちていることがそれでもいくつもあるんですが、今話すとかえって分かり難くなると思うので割愛。

参考でしかないですが、手がかりとしてそう゜さんとの問答の中での、関連箇所を再び引く形で。
引用元(1)(2)(3)(4)


「直観」と「言語」

そしてそれ(直観)を更に断片化して、「言語化」するわけです。大変です。(笑)


脳/無意識という自然を、直観という形で人間化・個人化するプロセスについて語った、その後の話。

まずこの二つは択一の関係にはなくて、「直観」(ないしはその素)は常にある、でその内の何割かが時と場合と必要性と技術的可能性に応じて「論理」化されると、こういう風に考えた方がいいと思います。
じゃないと言葉/論理を習得していない幼児や動物は、生活上に必要な最低限の認識が得られなくて困ってしまいますから。(笑)


言葉遣いとしては「直観」と「論理」ですが、実際にはこれは直観と「論理を含む言語的認識全体」の話ですね。

だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている、または直観という”氷山”の”一角”として論理が存在していると、そういうイメージの方がふさわしいかと。


これはかなり言語行為の中でも抽象性の高い「論理」についての話ですが、続きの話なのでここに。


「言語」(化)と「論理」(的思考)

僕なんか”考える”ことなんて滅多にありませんけどね。
だって面倒くさいもん。(笑)
正味やってるのは「直観」の「言語化」だけです。
それと「思考」はほんとは少し違う。


繰り返しますが、これが出発点。

対極、ではないんだと思うんですけどね。
処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。


直接には「直観」と「論理」の方の話なんですが、オリジナル(の直観)に近い方と遠い方との、広義の思考・認識行為の中での形式性の度合いの問題として、ここに。


「直観」と「論理」(的思考)

「論理」をこねるのは、遊び半分か喧嘩の時ですね。いわゆる「理論武装」というやつ。
世の中の”筋が通った話”なんて、筋が通ってる分だけ全部嘘です。(笑)


(注)つまり言外に「直観」しか信じてないということを言っている。

オリジナル(の言語化)とその発展・展開ということでしょう?
展開部分はある程度形式が決まっているので、あまりそこに囚われるとオリジナルがどっか行ってしまって、だから”ノイズ”だと。


”オリジナル”≒「直観」、”展開部分”≒「論理」。

何にも考えていない(言語化すべきチョッカンがない)人でもその形式をなぞることによって、考えているフリをすることは出来る。


考えていない=直観が無い。しかし直観が無くても論理は紡げる。(厳密には違うんですけど)


・・・・と、ここまで書いたことを承けて更に色々書いていたんですが、煮詰まって知恵熱が出て来たので中断(笑)。今日はここまで。そうですかそうですか、そっちへ行っちゃいけませんか。
いや、ありません?風邪とかとは別に、心身のバランスが崩れている時に出て来る疲労性の発熱。ドカンと上がって、サッと引くんですけど。むしろメンタルヘルスのパラメーターとして、僕は重宝してますが。

まあマラソン大会とか嫌な行事の時に、子供の頃出していた熱と似たようなものか。(笑)
既にほぼ引いてますのでご心配なく。


「直観」についての覚書
2008年07月09日 (水) | 編集 |
(承前)

”再確認”作業が意外と面倒、かつ面白かったので、本論の前に予備的なものを。
要は去年イブニング&門辺美沙読者「そう゜」さんと、コメント欄で延々やっていた問答です。
全編読みたい人は(その方が分かりやすいと言えば分かりやすいはず)、臨時に独立カテゴリー化しておいたので、どうぞ。

それはそれとして以下では、主に僕の発言の中から、重要かつ今回の話に直接繋がり(繋げられ)そうな箇所を抜粋。


今号のイブニング(’07.6.12) より

>僕なんか”考える”ことなんて滅多にありませんけどね。
>だって面倒くさいもん。(笑)
>正味やってるのは「直観」の「言語化」だけです。
>それと「思考」はほんとは少し違う。


直観と言語と思考。これが全ての始まり。
この時点では実は、直接的には一種の謙遜/卑下であったというか、言わば「直観的思考」と「論理的思考」のタイプもしくは階層の、片方に偏った人だという、そういうことを言っていただけだったんですけどね。

>・・・・ただ「直感」(インスピレーション)との区別の必要はあって、別に天から降りて来る偶さかの素敵なアイデアではなくて、日常的な精神機能の一つ。”インテューション”。

昨日ゲレーロさんに説明したようなこと。「直観」とは、または「直観」と「直感」の区別。

>>「直観」と「直感」
>言い換えれば前者は論理でこそないですが、広義の「思考」の一種・手段です。
>後者は感覚。


これも同様。

>要はオリジナル(の言語化)とその発展・展開ということでしょう?
>展開部分はある程度形式が決まっているので、あまりそこに囚われるとオリジナルが
>どっか行ってしまって、だから”ノイズ”だと。


で、それはそれとして、これはそう゜さんのメイン/オリジナルの関心ですが、その直観がいかに曇るか、その後の特に言語的思考によってかき乱されるか、誤るか、迷うか。

>あらゆる思考、あらゆる瞬間にそれぞれに直観(非”感”)は働きますし、働いているということ
>において貴賎(正誤)はないとも言えると思います。


二つのことが言われていて、
1.”日常的機能”である直観は、思考を含む人間の生活のあらゆる瞬間に働き、関与している。
2.直観は誤らない、またはそれぞれの直観の間に本質的優劣は無い。

1.について言えば、例えば昨日取り上げたチェスマスターの天才的な一手も、僕らが日々の作業を破綻無く執り行う機能の延長線上にあると、僕は考えています。
2はちょっと”神秘主義的”に響くかもしれませんが・・・・

>究極的には「直観」というのは一種の自然物で、それ自体として間違ったりはしない。間違う
>のはそれの言語的把握、意識の側の作業の方だと、僕は了解していますが。


そういうことです。
そもそも”間違い”とか”誤り”というのはそれ自体が概念、言語的なものですからね。
自然界に”間違い”はありません。原因と結果があるだけです。(それも広義には概念ですけど)
そしてその自然界と人間界を媒介するのが、言わば直観と呼ばれているシステムかなと。
昨日の話では直接的には、”脳”という「自然」と”意識”という「人間」性の媒介。
[続きを読む...]
脳と直観 ~ナショジオ『華麗なる天才たちの頭脳』より
2008年07月08日 (火) | 編集 |
今月のスカパー無料開放デーの収穫。今ならニコ動にも上がっています
「第1話:作られた天才」「第2話:偶発的な天才」「第3話:生まれながらの天才」の3部構成ですが(番組公式)、特に興味を引かれたのが第1話の史上初のチェスの女性”グランドマスター”の脳の研究の話。
と言って別に”女性”であるとか(男性脳と女性脳)”作られた”天才であるとか、番組の本題とは直接関係無くて、ただひたすら彼女の(チェスをする上での)思考の実態とその解明された生理学的機構のディテールの話が、非常にインスパイアされるものだったということです。

以下なるべく長くならないように。(笑)


前提1:究極的には全て直観である。

これは実際に、彼女やそれ以外のチェスマスターたちの証言で、彼らは無限に近いチェスの”手”の可能性の中から「正着」を導き出す作業を、論理的に順序だって”考え”るのではなく、直観で(瞬時に)導き出しているということ。これはレベルが高ければ高いほどそう。
よく知りませんが、どうもチェスは日本の将棋に比べて、競技形態として「早指し」の重要性が高いようなので、特にそういう面が強調されるのかもしれません。

また番組では、「各界のマスタークラス」の一例として、これまた毛色の変わったところで(笑)消防士の”思考”を取り上げていて興味深かったですが、そこで語られていたのは一つは

 直観で瞬時に適切な消火法を導き出さないと、間に合わない。

と、これはまあ当然ですが、面白かったのは次の

 理屈で”考え”た消火法では、その方法の適切度という意味でも、直観より遥かに落ちる

という話。・・・・聞いてるかい?日本のFWたち?(笑)

前提2:”紡錘状顔領域”

これは文字通りに、人が他者の”顔”の認知を行う時に働く、脳内の”紡錘状”の”領域”のこと。

これまでの研究で分かっているのは、この領域が顔の認知を、よく科学捜査系のドラマで出て来る(笑)警察のコンピュータの顔認知ソフトがやるように、いくつかの特徴点を元にデータベースを機械的網羅的に全検索して、一致するものを導き出すという地道な作業とほぼ同じことを、実際にやっているということ。(時間的には約0.1秒)
なるほど脳はコンピータ。それはともかく。ここまで前フリ。

検証:チェスマスターの脳の働きと、”紡錘状顔領域”

さて本題ですが、問題の女性チェスマスターにMRIに入ってもらい、映像上のチェス盤でチェスをやっ(たつもりになっ)てもらい、その時の脳の働き(活性化部位)をモニターしてみたところ・・・・。
何とその”紡錘状顔領域”が(顔の認知の時と同様に)、非常に活発に活動していることが分かったんですね。それがどういうことかと言いますと。

詳細は省きますが番組の説明はこう。
ゲームの時は”直観”の赴くままに突っ走る彼女ですが、幼少時からの父親の英才教育(と本人の自発的努力)で、10万というオーダーの過去の棋譜(って言うのかな?)がしっかり記憶されていて、基盤となっている。
そしてその「データベース」から、目の前の局面に対応・合致する戦略戦術の「検索」作業を、彼女の”紡錘状顔領域”は行っていて、その間約0.4秒(かな、違うかも)。・・・・ともかく人の顔の認知と大差ないスピード。

ただしこの過程を、彼女は「意識」はしない。自分でうーんうーんと過去の棋譜を想起して、照らし合わせたりはしない。それで戦略や正着を考えたりはしない。それでは遅過ぎるし、無理だし、多分決められない。
で、「直観」なわけですね。あたかも陽の目を見ない脳の地道な作業(笑)の成果を、ひょいと横取りするように答えだけを一発で拾い上げて提示する。


・・・・ここまで書いて思い出しましたが、これひょっとしてあれか。
いやちょっと前にナガラ見していたNHK『爆問学問』で、とある日本人の情報科学の先生が、「最近の研究によると、人間の『直観』は、予め脳が用意した限られた中から選んでいることが分かって来た」(だから別に「神秘的」なものでも単なる「恣意」でもない)ということを言っていまして、これが実はここ数年の僕の、それこそ直観(笑)と非常に合致していて、結構興奮したんですね。
で、もっとよく知りたいと思ったんですがその先生も伝聞的に引いて言っていただけで自分の研究じゃないので、グーグル程度では手がかり不足で結局分からなくて悶々としていたんです。

これか。これだな?多分。少なくとも関連した研究でしょう。いやあ、すっきりした。


話戻して結局直観とは何か、または脳と直観はどういう関係にあるかですが。
彼女の例から見える構図としては、

 「脳が”考えた”こと」を「直観」が表現する。or「脳が考えた」結果が、「直観」として表現される。

これは言い方/見方を変えると

 「脳≒無意識の作業の結果」が、「直観」として意識にもたらされる/「直観」として意識化される。

ということになるかと。
直観がひと足飛びに”答え”だけをもたらす神秘的なものに感じられるのは、その前の思考・演算過程の方は意識されないから。


更にこの構造の範囲で、「直観とは何か」を定義してみると、要するにそれは、「情報の(一)形式である」ということになるかと思います。
意識されない脳の膨大な思考・演算過程を集約する、あるいは脳の”思考”の「結果」を集約して意識に伝える情報(伝達)の形式。

この「形式」という意味をよりはっきりさせるように試みてみると、例えばコンピータ/プログラミング言語、例えば(高等)数学の数式、それらはれっきとした「言語」であり、一定の意味内容と利用可能性を確かに持った、「情報」の形式なわけです。
しかし、それらを理解・利用するには特殊な訓練と知識が必要で、大多数の人にとっては、そのままでは事実上意味不明で利用価値が無いか、あるいは面倒でかさばるだけで、実用性の低い「情報」の形式なわけです。

だからそれを一般的な認識・理解、利用の可能な形式の情報に変換する必要があるわけで、また脳が一種のコンピュータであることを考えれば、上の比喩は比喩であって比喩でないわけですが、つまり

 そうして変換された、利用可能な情報の形式が「直観」である。

か、あるいは

 意識に利用可能な形式に、情報を変換する機能が「直観」である。

か。

この二つは論理的には別のことなのですが、僕にも現状どちらとも言えないというのと、「直観」という言葉の(僕が認識している)受容されている用法の範囲に、それぞれそれなりに収まるように思えるので、今はこのままにしておきます。


(補)思考と直観

ここまでは基本的に、思考と直観を対立的に位置付けながら書いて来たわけです。しかし実際のプロセスとしては、この二つは切り離せるものではないんですよね。
つまり「直観」で正着を選ぶチェスマスターが、思考放棄してぼんやり神のお告げを待っているのかと言うと勿論そんなことはなくて(笑)、意識的にやろうとしている行為は、必死に正着を探す思考の努力そのものであり、しかしただその内容が明示的にはならず、答え・結論だけの「直観」としてのみ、示されるということで。

あるいは同じことですが逆方向から言うと、直観もしくは当面証明/説明する気も当てもない、直観的思考を懸命に働かせている時、その影で僕の与り知らない何かの「作業」「過程」が、猛烈な勢いで回転・進行しているのを、確かに感じます。・・・・まあこれは個人差があるまたは(そういう内観の)経験の無い人には、分かりづらい話でしょうが。
その時翻って直観が何をしているかと言うと、そうした見えない「作業」を集約しているか、または方向付けている、そういう感じ。作業が迷走しないように駆り立てつつ、かつ現場に直接口を出して混乱させないように(笑)。上の者は上の者としての職務に専念する。

ちなみになぜあれこれ下手に考えるより直観に従うのが正解の近道(消防士の例)かというと、要はそういう意味での”考え”は、既に脳≒無意識というスペシャリストのスーパーコンヒュータがやり尽くしてくれているので、後はそれに従うかそれが提供してくれている選択肢を選ぶなり運用するなりすればいいので、そこに更に素人考えで(笑)半端な計算理性を介入させるのは、時間の無駄という以上に害悪、逆戻り/劣化だからですね。


・・・・と、ここまでが番組の内容(とその元になった研究)から直接的に書けること。
ただこれだけでは多分抜け落ちて納得できない部分が残るだろうと思います。
僕なりに整理すると、それは
 ・直観と意識の関係
 ・直観と言語の関係
 ・いわゆる「論理的思考」の立場は?
というあたり。

実はこれについては過去に散発的にかつ長々とさる箇所で書いているので(心当たりのある人もいるでしょう(笑))、それを再確認する形で、次に少しまとめて書いてみようと思います。


サウジの政治制度
2007年09月22日 (土) | 編集 |
BS1”世界のドキュメンタリー”再放送より。
サウジアラビア 石油王国の素顔
サウジ王家とアメリカ外交 前編 ルーズベルトとの約束
サウジ王家とアメリカ外交 後編 問われる同盟関係
の3回シリーズ。

いやあ、正直ごめんというか、偏見に満ちていたことを認めざるを得ないというか。
高を括っていたというか。
勿論前提として単純に知らなかったのであって、”誤解”ですらないんですけどね。

ついでににも関わらず僕が”偏見”・・・・どうせ石油成金のバカ国家で、大富豪の「荘園」や「私設軍隊」が肥大したようなものだろう、ずさんで独占的なファミリー企業の狂宴なんだろう、イスラム教自体もダシに使われてるだけなんだろう
・・・・を持つに至った重要な原因として、十年一日のサッカーサウジアラビア代表の緩い運営ぶりの印象があるのは言うまでもないんですが。

でもぶっちゃけほとんどの人はこんなもんですよね?(笑)
以下かいつまんで僕が意外に思った、あるいは感心した部分を書いてみます。



1.建国自体は石油とは関係ない。

細かいことは省きますがまずアラブ人国家、それも近代的で国際社会に堂々と仲間入り出来るようなそれを建設しようとする理想・目標が先にあって、石油が見つかったのは紆余曲折の建国後、それもほぼ偶然である。

2.イスラム教と諮問評議会(マジュリス・アル=シューラー)

勿論厳格なイスラム国家(ワッハーブ派)ではあるんですが、建国の過程で既に「イフワーン」という純粋主義派、よりイスラム的国家を建設しようとする勢力を排除して来たということもあり、少なくともサウド家の意識は中庸の方にあるように見えます。
つまり1.の「近代的」であるという国家目標と「イスラム」との整合性が、常に意識されている。

面白いのは諮問評議会(マジュリス・アル=シューラー)の存在で、議会制度のないサウジにおいて、この基本的には聖職者の長老会議的な国王の助言機関がしばしば国王の諮問を受けて政策決定を左右するんですが、それが何と言うか”共犯関係”的なものに見えるんですね。
つまり国王が現世的必要からある政策や処置(経済政策から敵対者の物理的排除まで)をとろうとする。しかしそれがイスラムの教えや慣習に抵触しそうに思える時に、判断を評議会に与ける。

それに対して評議会は宗教的権威と共に見解を出して来るわけですが、建国以来のポイントポイントで、実にこうバランスが良いというか”現実的”というか、基本的結果的には国王の判断を支持することが多いわけですが、それが僕のような西側の人間から見ても妥当というか合理的というか、あるいは西側寄りというか、そういうものを出して来るんですね。
これを国王が直接やってしまうと反発が大きくなるのを、一回宗教の枠を通すことによって混乱を最小限に抑えることに成功している。実に上手く出来てるなという感じ。

3.リーダー選び

まずサウド王家は長子相続ではありません。当然ながら多妻制の子沢山の(笑)王子たちから、その都度相応しいと思われる人物が選ばれます。
時に選択を誤ったこともありましたが、今のところ極めて公正で実力本位の、単なる勢力争いの臭いのほとんどしない選出過程が保たれているように見えます。たいていは閣僚なりなんなりとして実務を積んで、実力が証明されている/根回しが済んでいるのも分かり易いです。

まあモンゴルなども含めて、遊牧民系はおおむね歴史的にこんな感じですけどね。壮絶な実力主義。比べて我々定住農耕民(笑)は、地縁血縁コネしがらみでいつもグチャグチャグチャグチャしてますが。砂漠は清潔だ!(by アラビアのロレンス)
・・・・それにしてもアメリカや日本の「選挙」、民主主義よりも、よっぽどここらへんはすっきりしているように見えます。派閥談合もなし。(笑)

あれですね、じゃあつまり代表に関わっているのは王族の中の出来の悪い方の人たちという、そういうことですかね?(笑)

おまけ 公開処刑制度の実際

ある意味悪名高いこれですが。確かに刑罰は厳しく殺人強姦麻薬売買などは即死刑、実際に公開処刑も行なわれます。
ただこれには面白い(?)抜け道があって、例えば殺人被害者の遺族に対して、公開処刑の過程でしつこいくらい何度も「この者を許すか?」という問いかけがなされるらしいです。それでどこかの時点で遺族が「許す」と言えば、実際にその被告は放免されるのだそう。
「許す」率については語られてませんでしたが、でも逆に衆人環視で許”さない”のも辛い気がします。法廷ではなくてずばり刑場ですからね。即死ぬわけですから人1人。


・・・・以上は全て僕が見た上の3本のドキュメンタリー番組の内容(の記憶)なので、間違いや違う意見があったらご勘弁を。(例えばこのブログとかも詳しいです)
実はとても大事な”評議会”の名前が既に自信ないんですよね。リアルタイムでは名前が覚えられなくて、検索でこれのことだろうと特定してみたんですが何か違うような気もする。とにかくそういう(↑)機関があるのは確かなんですが。
もし間違っていて今のフリで分かる人がいたら、タレコミお願いします。