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久しぶりのオシム
2009年12月06日 (日) | 編集 |
大した内容じゃないんですけど、何となくね。(笑)
ケンタロウ氏のことは、フル出場したらしい、甲府の最終戦を確認してから、改めて。


元日本代表監督オシム氏「夢を見すぎることはよくない」 ワールドカップ抽選会を受けて (スポナビ)

夢を見すぎることはよくない。夢がすべて現実となったら危険を伴うからだ。


ここらへんの言い方が面白いですね。決まり文句という以上の意味で、「哲学」的というか。

この(夢を見すぎることはよくないという)発言は、"現実を見ろ""現実的になれ"というような意味で広くは受け取られるでしょうし(見出しもそのニュアンス)、

デンマークやカメルーンと対戦する上で夢を見る必要はあるのか。


という続け方も、概ねその解釈で問題ないとは思うんですが、それ自体は別に誰でも言えるわけで。
オシムの面白いところ、ならではのところ、「哲学的」な雰囲気というのは、その後に紛れ込んでいる「夢がすべて現実となったら危険を伴う」の方にあるかなと。

・・・・そう、あくまで"紛れ込んでいる"のであって、ある意味これは、今回の日本代表への提言/贈る言葉という直接の趣旨には、関係無いというか別に要らないというか。(笑)
ではなぜ言うか、口に出るかと言えば、それは"夢"について、"夢"について語るという行為において、どうしても言っておきたい、言わずにはいられない本質的な事柄だからでしょうね、オシムにとって。

そんなに意識して"紛れ込ませている"わけでは、ないと思いますが。別にサブリミナルとかでは。(笑)
ただ「言葉」を発するという行為における、オシムの責任感と美意識にとって、"余談"とはいえ言わずにすますのは気持ちの悪い、事柄なんでしょう。(少なくともその瞬間に)

「夢がすべて現実となったら危険を伴う」
"夢がかなわない"ことを嘆くのでも、"夢を見て現実を見ない"ことについて苦言を呈するのでもなく。
あえて言えば、"夢がかなう"ことの危険性について。
"夢を見る"という、行為自身の中に潜む、危険というか。

ボスニアなり旧ユーゴ連邦なり、バルカンにおける「悪夢」が、権力者たちや各民族の無意識そのものの中に眠っていた「夢」が、"実現"した一つの結果であるから・・・・という説明は、分かり易いかも知れないけれど、具体的過ぎてちょっと嫌かな。オシムも嫌でしょう。(笑)
"具体的過ぎる"ものというのは、要するにこれも、やや不用意な「夢」の「実現」したものですね。
本当はまだ夢のままでいるべきだった、実現される準備の整っていないものが、うっかり現実に形を持ってしまったもの。
まあでも、うっすら発言の背景にはあるかな、その悪夢のイメージは。
"あれ"を見て気付いた、わけではなくて、ああやっぱりやっちゃった、という感じでしょうけど。

きちんと「夢」を見ることと、その「夢」を適切なやり方でかなえることと。
それが出来ないのならば、いっそ見ない方が、あるいは眠ったままでいる方が、マシかも知れない。
一方で「見」られた「夢」は、かなってしまうという恐ろしい性質も持っているので、その危険性について。


ちょっと抽象的過ぎますか。
その後の"Jリーグ"についての

日本代表を強くするのはJリーグの存在だ。外国人枠が限られているJリーグでは、当然のように日本人が多くプレーしている。つまり国内リーグの発展が代表強化につながるのだ。


という発言などから、より直接的にサッカー的に言い換えれば、"現実に根差した夢を見よ"ということかな。夢の見方を、というか。

"夢"で"現実"を置き換えるのではなくて、大部分は要は偶然としがらみで構成されている当面の「現実」、その可能態や可能性のあらん限りを汲み取って、"あり得るベストの現実"としての、"夢"を見る。
それが完全に実現することは、それこそ偶然としがらみが許さないのでいずれ夢想ではあるわけですけど、しかし無根拠ではない。またそうした"夢"なら、実現する価値があるし、運が良ければ十分に実現する可能性もあるわけで。

「実現する価値」というのはつまり、その"夢"が実現した結果、"現実"がより良くなるような夢ということか。
"偶然としがらみ"で構成されたこの乱雑な現実、しかしそれと同レベルの"偶然としがらみ"でしか進行しない、質の悪い思考や想像が織りなした「夢」など、原理的に何のクオリティの向上も期待できないわけで。実現しても、ある不幸を別の不幸で置き換えるだけというか。
当面誰も邪魔しない「夢」くらい、きちんと精密に繊細に見ようよという。僕がフィクションに変に厳しい・うるさいのも、そういう理由があるのかも知れない(笑)。余りにも未整理な「夢」や、現実の追従でしかない「夢」を見せられると、イラッとする。

・・・・そう言えば"うっかり得た超能力"により、現実がむしろますます悲惨になるというストーリーは、日本のアニメなどにも沢山ありますよね。
プリミティヴに言えばまあそういうことです、「夢」の「危険」。


例によっていつの間にか段々自分の話になりかけてますが、オシム。
真意はともかくとして、こういう余談だらけという余談が本編というか、あえて言えば"質問に対する答え"ばかりでは必ずしもない、そもそも目の前の相手に話してるのか?みたいなフワフワした喋り方はオシムの特徴で、なんか独り書きの文章みたいな語りというか、ブログ書いてるみたいというか。(笑)
要は"答える""対応する"ことよりも、"言うべきだと考えていることを言う"ことが、遥かに優先するからでしょうね。

・・・・の、割りには、メディア観みたいなものは今いち古いというか型通りというか、日本の実情を把握しているようにはあんまり見えないのは現職時代と僕の印象は変わらなくて、

日本サッカーの中で欠けているもの、それは真実だ。特にサポーターは真実の情報が不足しているように思える。
そこでメディアの役割が問われる。中村俊輔の報道ばかりしてはダメだ。目立たない選手だが良い選手はたくさんいる。何が重要かを見極め、適切な報道をすること、賛辞ばかりではなく批評はしっかりすること、このことが日本サッカーの発展につながることを忘れてはいけない。


とのことですが、端的な「事実」は別にして、こと「批評」的なことに関して日本の"サポーター"が、既成・公式的な報道に今更多くを負っているとは、とても言えないと思いますが。余計な心配というか。燃料投下されれば、せっかくなのでとりあえず燃え上がって見せたりはしますが。(笑)
むしろ"監督"や"協会"や、そっちサイドの方にとっての、「問題」かと。いちいち見出しレベルの報道に振り回されるのは。取り越し苦労で変な動き(発言)をしたり。それで自分を追い詰めたり。
まあ今年のフィンケとかは、ちょっと余りにもかわいそうですけどね。来日一年目でもあるし。無理はないというのもあるし。

それはそれとしてオシムはどうも、難しいところがあるんですよね、位置づけが。
もう"上がっちゃった"人なのか、まだ現実の批評性を求める位置の人なのか。
ペレやクライフの言うことのように聞いてれば(聞き流してれば(笑))いいのか、「普遍」の観点だけでいいのか。
それともある種の"ジャーナリスト"なのか、現役の評論家なのか。

トルシエとかはそこらへん、はっきり優秀だと思いますけどね。
立場を弁えて引きつつも、「あ、見てやがる」というドキッとさせる瞬間が、随所にある。
元々そういうタイプなんだろうとも、思いますが。


"哲学者"としてのオシムは、好きですよ。
端で聞いてる人が、成立してるのかしてないのか心配になるような会話を、ゆっくりしてみたい。(笑)
黙ってるな。・・・・あ、終わったのか!!いつ?!みたいな。(笑)
何語でだかはよく分からないけど。(笑)

と、いう"夢"。
別に実現しなくていいけど。(笑)
おあとよろしい?


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トルシエのポリバレンスとオシムのポリバレンス
2008年10月14日 (火) | 編集 |
結構前に考えていたことですけど、タイミングが無くて。
ちょうど(といっても自分がですが(笑))トルシエを再びクローズアップしたところで、今書いちゃいます。
基本四方山話です。特に目的はありません。


”ポリバレンス”(ポリバレント)

『ポリバレント(ぽりばれんと)』

サッカー用語で1人の選手が複数のポジションや役割をこなすこと。


・・・・と、Yahoo!辞書でも新語・業界用語扱いで、実際オシムが口にして初めて耳に入って来た英語ですが。

まあそれ以前にも『ユーティリティ』なんて言葉は、それこそプロ野球の時代(時代?)からありましたし、古典的役割分担サッカーといわゆる(オランダ)” トータル・フットボール”というコントラストの中で、だいたいの概念としてはそれなりにお馴染みのものだったとは思います。

この段階であえて『ポリバレント』の意味を絞り込んだ形で把握することを試みてみると、例えば『ユーティリティ』の場合は「ユーティリティ・プレイヤー」という言い方にもあるように、どちらかというと”特定の選手のタイプ”というニュアンスが強いと思います。
それに対して『ポリバレント』は、元々のタイプは問わずに、とにかく試合の中で「1人の選手が複数のポジションや役割をこなすこと」という、(結果的な)”機能”という意味が強い。そういう違いがあると思います。

この二つは必ずしも一つの状況で矛盾しているわけではないですが、ただポリパレント”機能”の為にわざわざユーティリティな”タイプ”の選手を用意する必然性は無くて、それは「上手い選手を走らせる(か走れる選手に上手いプレーを要求するか)というようなオシムのコンセプトとして、ある時期問題化されましたね。単に器用で便利な選手を集めるということではない、ということで。


オシムのポリバレンス

ちょっと出典が見当たらない(探すのがめんどくさい(笑))ので読者の皆さんの記憶と好意に頼ることになりますが、日頃の言動からオシムのポリバレンスの意味をまとめてみると、基本的にはこういうことになると思います。

 「DFゾーンではDFのように守り、MFゾーンではMFのように繋ぎ、FWゾーンではFWのように攻める」

” MF”が”繋ぎ”というのは今イチ言語的にしっくり来ませんが(笑)、「DFのように守」るという部分を割りと強調したかったので、こういう表現に。「DFゾーンではDFのように、MFゾーンではMFのように、FWゾーンではFWのようにプレーする」の方が、通りとしては無難かも。

とにかくそういうことですね。ある意味では「役割分担」イメージも生きていて、その想定される”機能”の方に、人間が合わせるわけですね。
勿論こうした分担や分断を貫通する、(オシム)トータルフットボールならではのプレー原理もあるわけですが、その”ゾーン”に、場面に来た時には割りと厳しく、正面切ったプレー資質は問われる。鈴木啓太もちゃんと正確にシュートを打たなくてはいけないですし(しつこい?)、遠藤もポストプレーをしなくてはいけないですし、そして確かアジア杯あたりで一番オシムが嘆いていたのが、日本人が「DFゾーンでDFのように守る」ことの難しさだったと思います。

全員の技術が問われる、と、同時に、全員の基本的な身体能力も問われる、その部分が日本人には、ややつらいところ。走る/運動量の問題は、これらに比べるとある意味マイナーと言うか、頑張ればいいだけという面が。
ここらへんは、世界の中でも身体能力はむしろデフォルトで優位なオランダ(orドイツも含むゲルマン)発祥のサッカーらしいというか、同様に1対1の国らしいというか。


トルシエのポリバレンス

これに対してオシム以前に、日本に不思議なポジション概念というかマルチポジション・サッカー(参考)を持ち込んだ(Variety Footballによると元はやはりというか当然というか、トータルFだったらしいですが)トルシエのそれは、また少し色合いが違います。

中田浩二がCBをやり、明神・望月や名波/俊輔/小野がWB(ではないですが)をやり、FWにまずタスク遂行能力が求められる(これはそれ以前からですが)そのサッカー、DFの1対1を極限的に軽視し、サイドもトップも含めてとにかく徹底的にボールを回して崩して攻撃することにほぼ特化したそのスタイルは、最近では「全員中盤サッカー」というような言い方で、割りと簡単に表現されるようになりましたが。(当時はみんな面喰らっていて、あんまりそんな余裕が無かった記憶があります)

これを上のオシムの例になぞらえて言うと、

 「MFのように守り、MFのように繋ぎ、MFのように攻めるサッカー」

ということになりますか。


オシムの”選手”とトルシエの”選手”

こうした似てるところもあるけれど違うところも多い、二つのポリバレンス、二つのマルチポジション/タスクサッカーにおいては、必要とされる選手像、資質にも、やはり違いがあります。

オシムの場合は、これはむしろオランダのそれをイメージした方が分かり易いですが、全員に走力があり、全員に強さ(高さ)があり、その上で必要な攻撃場面で必要なプレーをする技術を備えているという、ほとんど”超人”(鍛錬も相当にしたらしいですが)たちが、その超人性を利して従来の職人的役割分担を無視して代わる代わる必要な役割をこなす、その融通性が可能にした”トータル”で”流動的な”(”ローテーション”)サッカーだったわけです。
・・・・ちなみにオシム(とその主に率いたチームの選手)はスラヴですが、バスケットなどを見ても分かるように、一般にスラヴなんてのはある意味ゲルマン以上の、ゲルマン+柔らかさみたいな、日本人から見たらそれこそ超人みたいな連中です。(笑)

それに対してトルシエの、少なくとも日本代表を率いた時の(他は見てませんから)トルシエの場合はどうかというと、器用で献身的で球回しは上手いけど、身体能力や攻守共に1対1は頼りない日本人の中でも、特にそれっぽい(笑)選手たちを寄せ集めて組み合わせて切り貼りして、サッカーに必要な(トータルな?)プレー/機能性を、何とか全てこなさせようという、そういうサッカーです。
オシム/オランダトータルが”超人”なら、こちらは”器用貧乏”。言ってて少し、情けないですが。(笑)

どちらもパラメーターがフラットなのは同じなんですよね。だから”マルチ”なわけで。
ただし”超人”のパラメーターが全項目最高値に近いのに対して、”器用貧乏”のそれは円グラフの真ん中へんにギュッと寄っている(笑)。その違い。
・・・・逆に身体能力的に問題無いはずのアフリカ各国を率いた時のトルシエはどうだったのか少し興味がありますが、どうも見る感じ日本にいた時のトルシエはあれは好きでやっていたようにしか見えないので(笑)、そんなに変わらないというか、むしろ日本代表が天職だったような気も。後に普通に引いて守ろうとか強い選手(戸田やヒデ)を入れてからのトルシエは、どうもぎくしゃくした感じでパッとしなかったですし。


オシムの工夫?

これは参考までにですけど。

岡田監督が”俺流”の道に踏み出した初戦のコートジボアール戦のエントリーで、僕はこんなことを書いています。

オシムと岡田を比較すると、やはり自力でチームを”動かす”腕力ということでは否定し難い差があって、だから岡田監督の場合は流動性の確保を、より選手自身の資質に直接期待することになる(*だから元々マルチな能力のある選手を使う)


”腕力”に自信のあるオシムは結構独特な選手のチョイスをしていて、それはつまり「ダイナミックだけど柔らかさやボールテクニックに欠ける選手」(巻・山岸・羽生・啓太ら)と、逆に「柔らかさやボールテクニックはあるけれどダイナミズムに欠ける選手」(俊輔・遠藤・憲剛ら)の、両極端をわざわざピックアップして重用して、複雑に組み合わせてチームを構成していた。


岡田については今回は問わないとしてオシムですが、上で言ったように、「オシム」の「日本代表」には、「超人」サッカーを「器用貧乏」たちにやらせるという、基本的に無茶ぶりな部分があったと、僕の論の運びではそうなります。
まあその無理が飛躍を呼ぶ、あるいは着ている内に服が体に合って来るということもありますから、是非は一概に言えませんが。トルシエにはトルシエの無茶がありましたし、結局俊輔などには個人守備の負担が、最終的に大きくかかってしまった (というか使い切れなかった)わけですし。

ともかくジェフでの経験も踏まえて日本代表の監督に就任したオシムは、そこらへんについて独特の工夫をしているように見えるところがあります。それがつまり引用部分の、両極端をわざわざピックアップして重用して、複雑に組み合わせてチームを構成」するという手法。

これはどういうことかと言うとですね、ただ真ん中へんに寄せててもラチが開かないから、多少バランスが悪くてもまずとにかく特定のパラメーターを最高値に近く上げてしまおう(近い選手を使おう)と。
そしてその飛び石の最高値に近いパラメーターを上手く繋ぎ合わせて、チームトータルでどうにかフルパラメーターの超人サッカーを実現しようということ。そういう”マジック”。

あるいはそれこそ「上手い選手を走らせる」というような話で、突出したパラメーターを持つ選手を、使いながら鍛えながら、他のパラメーター・・・・というか実質的な機能性を、そちらの高い方に何とか合わせて行ってフルパラメーター性を実現しようと、そういうことかも知れませんが。
そういう意味でも、とことんセレクター型の監督ではないですよね。”現状”を前提として、その調和的組み合わせでチームを作る。

う、なぜかファルカンを思い出してしまいましたが(笑)。歴代監督との比較を考える内に。
あの人も現状の能力やバランスではなく、最高値や素質を基に抜擢しまくりの意外だらけの選手選択をして(岩本テル、今藤、遠藤昌、佐藤慶明(!)など)、熟成期間の問題もあって、どちらかというと穴やバランスの悪さの方がやや目立ってしまった人ですが。(参考)
基本的に、「あるかも知れない未来像に賭けた監督」という意味では、同タイプだと思いますね。本場基準、理想レベルからの逆算というか。それに比べればトルシエは、けったいなようで(笑)基本的には、日本人が「出来る」ことの延長でチームを作った。


だから何だ、というのはとりあえずはないです。見え隠れしてるとは思いますが。(笑)
これ以上は現在進行中の代表チームを論じる中で、また。
まあ、だいたい分かるかな(笑)。それをより、具体的にということで。


オシムと「日本化」と日本人監督
2008年06月18日 (水) | 編集 |
ウチの不良外人どもの話題はともかくとして。(笑)
”Jリーグの審判”という話は、今ブラジル人たちの間でブームなんでしょう、炎上なんでしょう。
次にクルのは口裂け女か、マクドナルドのミミズバーガーか。
真面目に代理人がまとめて洗脳でもしてるんじゃないの?


代表サッカー関係は今色々と脳内で接続が進んでいて、面白いところなんですが、どこから話していいのかという感じ。まずはなるべく無難そうなところから。

反町と城福

スタート時の混乱に眩惑されて書きそびれましたが、トゥーロン開幕時、その前のアンゴラ戦までのインスピレーションで僕が用意していた「構図」は、反町と城福の2人を対比的にオシム・フォロアーとして位置付ける、具体的には

 オシムの”頭の固い長男”反町と、”勘のいい次男”城福

といったものでした。・・・・何となく、分かりません?(笑)

その(オシムとの)共通性や類似性の具体的なところは今回面倒なので書きませんが(いずれ発展的な形で)、城福については「ムービング・フットボール」というかけ声や他でもないヴェルディ戦での羽生のゴールを、オシムが「あれがワタシのやりたいサッカーだ」ど絶賛したという新聞報道などから、既にある程度の一般的な認知はあるでしょう。
反町についても、アンゴラ戦以降のサッカーに対して、そういう方向での再評価(例)というのは、さほどレアでもない見解として進んでいるようです。(そう言えばオシムも

まあ”頭の固い”と”勘のいい”云々はオレ感ですけど。
でも長男と次男と言うのは、だいたいそういうものですよね!(そこが問題ではない)


オシム・インパクトの2面性

岡田ジャパン発足以来、主に同時に掲げられた『接近・展開・連続』スローガンの示すところについての本人の意図を越えた可能性を探るという形で、概ね僕は擁護的に、岡田監督を語って来ました。別な言い方をすると、オシムの価値を抑制的に論じて来た。
まあ弱い方の味方をするというのは、僕の論者としての一種の本能ですけどね。それは「判官贔屓」ということではなくて、「論の死角を潰す」という本能なんですが。論全体の形・バランスを綺麗に、完全なものにしたいんですね。誰が”勝っ”てもそれはあんまりどうでもいいんですけど。

ともかく僕も含めて、オシムとオシムが焦点化した「日本化」という問題をめぐって色々言われて来た中で、恐らく最も一般的で反論の難しい”批判”的抑制的な論点としては、「オシムが(信奉者の言うように)偉大であればあるほど、尚更そんな特殊な替えの利かない人の仕事をモデルに、日本サッカーの大計を考えるわけにはいかない」というものだろうと思います。
一般性の無いものを”基準”には出来ないという、ある意味当然の主張。オシムがいないと出来なくなってしまうのでは意味が無いという。

しかしイコンとしてのオシムにはもう一つの性格もあって、それは(サッカー的僻地の日本に)「世界の常識を体現・紹介している」人であるというもの。
”常識”とか”スタンダード”とかいうのは、案外ローカルだったり(それが通用しているエリアへの)コンプレックスからの過剰反応だったりもするので鵜呑みには出来ませんが、まあそうなんでしょう、かなりの部分。

とにかく前段の『特殊』な人”オシム”の他に、『一般』性普遍性の人としての”オシム”も、いるわけです。

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”前監督”オシム
2008年06月04日 (水) | 編集 |
オシム前監督「ベンチで死にたくない」…アドバイザー就任会見(報知)

サッカー日本代表のイビチャ・オシム前監督(67)が4日、日本サッカー協会のアドバイザーに就任した。
(中略)
スーツ姿のオシム氏は、つえを使わずに歩くなど順調な回復ぶりを見せた。日本代表監督復帰の意思を問われて「もちろんベンチに座りたい気持ちはあるが、ベンチで死にたくない気持ちもある」と独特な表現でかわした。


髪をイガグリっぽく(?)切ったこともあって、術後(回復後)のオシムはどうも”ヤンチャぼうず”みたいに見えて、妙にかわいいと思うことがありますが。(笑)
サッカーやりたくて仕方ないんだろうなあ!というのと。
何とかしてあげたいなあ。

漏れ聞こえてくるピクシー名古屋や、各チームの教え子たちへののめり気味のアドバイスや叱咤ぶりなどにも妙な解放感があって、むしろこっちが本来なのかなあという。


また、アドバイザー就任について「日本協会が信頼してくれることがうれしい。予想していなかった病気で(代表監督の)仕事を続けられなくなった。その分、別の形で貢献したい」と話した。
アドバイザーとして〈1〉指導者の養成〈2〉ユース世代の育成〈3〉海外の情報を収集して日本協会に還元すること―を務める。生活の本拠は欧州に置き、日本と往来しながら日本のサッカー全般に対してアドバイスする。当面は7日に開幕する欧州選手権を視察する。契約期間はことし12月末まで。延長するかは健康状態などを考慮して決める。


”アドバイザー”とやらがどの程度の実質のある仕事なのかはよく分かりませんが、ただ依然として&リアルタイムで岡田ジャパンの背後・周辺に”前監督”オシムの影が散らつき続けていることについては、正直”現監督”としては迷惑というか、迷惑だと思う権利を岡田監督は持っていると思いますけどね。
・・・・まあ、思ってるでしょうね(笑)。邪魔なんだよしじいと、機嫌が悪い時には。

弟子筋のコーチが昇格したとかならともかく。
ただでさえ政治性の強い代表監督の仕事に、もう一種類の余計な敵が。
「オシムが悪い」わけじゃないのは分かっているとしても。存在自体が、邪魔と言えば邪魔。オシム自身、極力試合内容への直接的コメントは避けてはいるようですけど。


しかしあれですよねえ。”〈1〉指導者の養成〈2〉ユース世代の育成”という職務内容と、”契約期間はことし12月末まで。延長するかは健康状態などを考慮して決める。”という契約形態は、かなり意味不明に不整合ですよね。
”生活の本拠”の欧州と日本を往来するというのも、健康・効果両面でちょっと疑問。クラマーとかは若かったので、結構殺人的なスケジュールで行き来してたみたいですけど。

まあ多分かけ声倒れになるだろうとは思いますけど、やはり指導者やユース世代全体の育成なんて、なまなかに出来ることではないし、オシムだからその資格・能力があるとも言い切れないですし。たまに口出されてもねという話に、いずれなりそうでそれは嫌だな。
クライフじゃないですけど、どこかのクラブを通じた”サッカー”の流れ/文化として、オシムの魂が表現・継承されるというのが一番いいですかね。その一つが名古屋なら、それはそれで。


やっぱりもう一度、どこかの監督として見たいですけどね。今ならもっと理解出来ると思いますし。


それぞれの日本化(2)
2008年03月07日 (金) | 編集 |
承前
相変わらず搦め手。外堀というか。反対語は「大手」らしいです。知らなかった。
本丸はいずこに。殿はどこじゃ。


オシムの「日本化」 (在任’06.7月~’07.11月)

色々再論ぽくなるので、思い切って焦点を絞って。

オシムの”功績”

「日本化」ということにおける。大きく言えば2点だと思います。


1.「日本化」という言語化を行ったこと

”細かい技術””敏捷性””勤勉さ”といった日本人の(国際基準での)特徴そのものは特に新味のある視点では無かったですし、そうしたものを軸にしたスタイル作りの試み・動きは、それまでも陰に陽に日本サッカーぐるみで様々に行われてきたわけですが、それを(翻訳ですが)『日本化』というキャッチーな言葉で、しかも”あの”オシムが改めて言ってくれた/肯定してくれた意義は小さくなかったと思います。
”あの”というのはオシムの持っている国際的な権威・説得力と、「外国人」であることの清潔感(低レベルのナショナリズムの回避)と。

当分の間、この言葉、このテーマを軸に、強化についての前向きでオープンな議論・試みがつつがなく行われることを可能にしてくれるでしょう。(僕の論考もその一つ?(笑))

2.”緩”や”広”というニュアンスを、「日本化」の可能的要素として付け加えたこと

岡田監督の「接近」(及び大木甲府)なども正にそうですが、上記のような現在日本人選手の特徴として考えられているものを活かしたスタイルとなると、どうしてもせせこましく狭い(笑)、”急”や”狭”というニュアンスのものに傾きます。僕が今まで思い付くままに挙げた西村ユース、小野ツーロン(参考)、1ボランチトルシエ、’04天皇杯ヴェルディ、松本/岸野鳥栖といったチーム(前段)も、基本的に全てそういう類と言っていいでしょう。

それをオシムは、代表監督としての仕事の中で、トータル・フットボール伝来の(か何かどうかほんとは知りませんが(笑))考え抜かれたポジショニングとそれを実行するランニングの徹底化によって、日本人選手によるものとしてはまず間違い無く歴代最高レベルの、広く大きくゆったりとしたフィールドの使い方を可能にした、実演して見せたわけです。

その際に上記”特徴”がどれほど積極的に活かされていたのか、あるいはオシム以外の誰があんなものを「手法」として実行・継承出来るのかというような疑問はありますが、つまるところサッカーをするのは”特徴”ではなくて選手なので(笑)、とにかく日本人があれを出来たということが与えてくれたインスピレーションは大きかったです。一度出来たことならまた出来ることは十分に期待出来るわけですし。何とかあれ”も”、活かすことが出来ないものか。


・・・・ちなみにさっき読んで来た『Number』最新699号の西部さんの記事によると、これは監督ではなく遠藤の言ですが、岡田ジャパンでは”狭”くした後の”広”さの効果が強調されていて、しかしその切り替えが上手く行かないというのが目下の悩みなのだそう。

でも僕が思うのはその前に”狭”さの意味や価値の追究がなおざりにされていないか、敵が少しでもヌルければ、「接近」一本で最後まで行ってしまう威力や勢いが無ければ(参考)、そんなもんわざわざ掲げる意味が無いだろうということ。「展開」に色目使ってる場合かと。
やはりどうも、ピントがボケてるというか、言葉が上滑りしている気がしてなりません。結果的自然的成就しか期待できない。

なお更に西部さんによれば、オシムの”本領”は広げた後の最後の仕上げの”狭”い部分だというのですが、そうなんでしょうか。見たことが無い(見られなかった)ので分かりません。
多分その際も”広”げる為に使った理詰めのポジショニングを、より狭いところでより細かくやるということなんじゃないのかと想像するんですけどね。・・・・つまり、僕の考える「接近」は、最終的に『理』をある意味手離して”どさくさ”状態を作って、それでもってガイジンさんたちの(笑)ペースを壊す、暗黙のヒエラルキーを無化する(後段)ということが含まれているので、そういう意味で違うんじゃないのかなと。

やっぱりね、分からないんですよ、オシムも。途中だったので。
つまり岡田に駄目出しする時に簡単にオシムと比べちゃう人が多いですが、オシムの基本能力自体は疑わないとしても、言うほどオシムが上手く行っていたのか、特に「日本化」という意味で、それは何とも言えないところがある。
見栄えに差があるのは確かですけど、逆に理念の曖昧さを能力で誤魔化していただけかもしれない。存在していた現象を、意味付ける為の最終データが与えられていないので、正直確かめようがない。それこそそれ(現象)が「過程」の一端だったのか、「結果」だったのか。

岡田の”駄目”はあくまで岡田自身の”駄目”として言挙げすべき。それも出来れば”腕の良し悪し”という、身も蓋もない次元ではなく。

そこらへん西部さんは、かなり根気強く検証していく気みたいなので、僕も注目しています。
僕の場合はあくまで”日本”文脈の主観主義、一種の現象学ですけど、西部さんのは外からの、一般/ワールドサッカー文脈の客観主義的な説明・類型なので、対比的に見てみると面白いと思います。

・・・・僕が見るに西部さんはわざとそういう書き方をしているというか、もっと個人的には感じている見えているディテールがあるのを、あえて形式的に(今回で言えば「裏道」と「幹線道路」論)書いているというそんな感じがしますね。
ていうかそれ以前に本当は岡田ジャパンなんか興味が無いというか嫌いなのを(笑)、ぐっとこらえて受けて立って、汲み取れるものは全部汲み取って近付けるところまで近付いて、しかるのちバッサリやるならやるからその日を待ってろよみたいな(笑)意地の張り方がまた。

ここらへんはこの人が、そこらの”海外サッカー通”なだけの論者とは一味違った、優れたところ。態度決定を感情のままではなく、意志的にしている。ちゃんと先の一手を考えているというか。常に複層的に意図をもっている。
しかし見てみたかったですね、オシムの「本領」。そんなものが更にあるならば。


予定がガタガタですが、中途半端に長くなってしまったので今日はこれで終わり。
西部さんのせいだな。(笑)
もう少しオシムを軸とした話をしたいと思っています。


オシム化と日本化
2008年03月04日 (火) | 編集 |
一部で話題になったようなことを軽く意識しつつ。
「日本化」についての僕のパースペクティヴ。
”正しい”とか”正しくない”とかじゃなくて、一つの一貫したものを示してみるのが目的です。


”代表監督”オシムへの期待

岡田ジャパンについて余りにハイペースで書いてしまったので、読者の便宜の為に「フル代表」カテゴリーを「岡田」「オシム」「ジーコ」と改組する作業の成り行きで、いくつか昔のエントリーをチラ見しました。
その中で、別に忘れていたわけではないてすが改めて、就任時のオシムにどんな期待・どんな感情を抱いていたかを思い出しました。具体的にはオシム初戦についての『代表時計・・・・異常なし?!』エントリーと、その前提である『代表時計、動き出す?』エントリー。

フル代表については何も心配していません。別にオシムがスーパーな仕事が出来なくても、普通に邪魔せず常識を踏まえてやってくれれば、少なくともトルシエ・ジャパンの水準を維持・継続することなど現在の日本人選手のレベルからすれば全く難しい事業ではないと思っています。


勿論あそこから更なるレベル・アップ、脱皮も必要にはなるでしょうが、それとて今すぐ何かバクチや革命をどうこうするというよりは、まず出来ると分かっていることを様々な文脈やメンバーでやってみるということが、具体的には当分の間要求される作業でしょう。


・・・・『代表時計、動き出す?』より


ていうか実はもう「日本人らしいサッカー」って出来上がってるんじゃないかとも思うんですけどね。必死こいて作り上げるまでもなく。みんなの心の中に。(笑)
それは”ジーコの4年間”という否定的定義によってとも言えるし、猛スピードで続いていた作業が小休止して、一種の「醸成」「寝かす」期間を確保することが出来たとも言えるし。”オシム”ですら最初から相対化して見る余裕が今や日本人にはある。

後はその時その場で必要に応じた創意工夫があるだけ。基本的には元気にやってくれればそれでいい。(笑)


・・・・『代表時計・・・・異常なし?!』より


改めてまとめてみると、
・オシムには”スーパーな”仕事や”独創的な”仕事というよりも、ジーコが踏み外してしまった軌道の修正作業を何よりも求めていた。
・言い換えると「日本化」はオシム以前に、かなりの部分達成済みだと認識していた。
と、いうことになりますか。

これは基本的に、別にアンケートをとったわけでもない(笑)僕の意見なわけですが、そもそもオシム就任前後の経緯を思い出してみると、こうした要素があったかと。
1.”スーパーな”監督オシムへの、「丸投げ」的な期待。(≒川淵が自らの保身の為に利用しようとした一部の国民感情)
2.「走るサッカー」という言い方に代表される、オシム・スタイルへの一面的な理解
3.オシム自身による『日本化』発言

1はまあ、意外と効力がマイナーというか、割りとすぐに消えた空気だったと思います。
正直オシムの仕事に対する、”あえて”というニュアンスすら感じない手厳しい、上から見るような日本のサッカー・ファンの少なからぬ部分による論調には、僕は少々驚きました。いやあそんな度胸は俺はねえな。まあありがたがってても始まらないのは確かなんですが。

2は結構重要かなと思います。
というのは、つまり就任の時点でオシムに求められていた期待が、「トータル・フットボール」がなんちゃらという広がりのあるものでも、増してや例の「アジア杯仕様」に代表される優雅だったりエレガントだったりする何かではなく、ひたすら走って働いて、ジーコ時代に取り落としてしまったものを取り戻し、日本人”本来の”勤労の美徳(笑)に立ち返るという、そこらへんに集中していたということを意味するからです。
・・・・まあそれには「ジェフ市原(千葉)」のパブリック・イメージも大きかったでしょうね。もしオシムがジェフではなくサンフレッチェの監督だったら(笑)、事情も違ったのではないかと。

それをある意味後押ししたのが、オシム自身による3。
こういう理想のサッカーor自分のサッカーをやるとかではなくて、何よりも『日本化』をするよと、日本人による日本代表の、最適化に貢献しますよと、そうオシムは一番に言った(という風に伝わった)わけです。だからこっちもそうなんだろうなと、心構えを。・・・・つまりオシムに特別な何かを”教わる”のではなくて、『日本化』という基本的に日本人に所有権がある作業に、オシムの実務手腕を利用・使用するという、そういうニュアンス、位置付けが暗黙の内に優位になった。


「日本化」と「オシム化」

ただこれは必ずしも誤解ではなくて、実際オシムもそういうつもりだったところはあると思います。
後で述べるように僕は実はジーコもジーコなりに「日本化」を考えていたと思っていますが、どのみちまだ発達段階のこの日本という国で代表チームを作るのに、何らか「日本化」的作業が必要なのは当たり前なので、本来なら言わずもがなのことという面もあると思います。

それをあえて、タイミング的には前任者への批判と受け取られても仕方の無いような形でオシムが『日本化』を口にしたのは、その必要があったから、前任者ジーコの(つもりはどうあれ)仕事の内容が、オシムの考える正しい日本化の道からあまりに外れていたから、そっちじゃないよこっちだよと、有言実行する必要があったということだと思います。

その点において、つまり非/反ジーコ化=日本化であり、それがオシムの優先課題であるという点で、オシムとその就任を歓迎した日本のサッカーファンの大部分の認識は一致していたと思います。

・・・・ただそれによって、スタート時点におけるオシムの位置付け、オシムに対する期待と要求が、単純化してしまったということはあるかなと。言ってみれば十分な独創性もあるこの世界有数の監督に対して、役不足な役を割り振ることになったと、そういう面はあるかなと思います。

上の『代表時計・・・・異常なし?!』の中で、僕はこんなことを書いていますが、

結局”ジーコ後”ということが大きいわけですね。
最低限ひととおりのことが出来ていたトルシエの時は、それを前提にもっと出来るだろうもっと上手く出来るだろう、もっと凄いものを見せてくれとそういう方向に僕らの”不満”は働いていたわけですが、ジーコの場合は技の選択以前にまず体が満足に動くかどうか、今日はどこの関節がイカれてるんだろうとそっちの心配をしなくてはならなかったので。

五体満足の有り難味を知ってしまったので、当座それ以上のことを求める気になれない。


ある意味これの逆ですね。
つまりもしトルシエの後にオシムが就任していたなら、「基本路線はそのままに、より上/違う何か」という期待がオシムにはかけられたはず。その場合はオシムの独創性も特異性も、もっとずっと前向きな可能性として歓迎されたはずなので。(あるいは仕事の意義の位置付けがより正確になった。)

とにかくそのような、ある種限定的な期待感と共にスタートしたオシムジャパンですが、いざ仕事を始めたオシムが思った以上に分かり難い、かつ途中からは必ずしもジェフや”反・ジーコ”というイメージだけでは把握しづらい方向に日本代表を導いて行くにつれて、意外な程のスピードでオシムと日本のサッカーファンの蜜月関係は崩れて。
あるいは無遠慮で短絡的な批判が飛び交い、あるいは白けた雰囲気・オシムへの距離感が生まれ(ウチの読者からはこれが結構濃厚に感じられます・笑)、相対的にそんなに悪い仕事をやってるとは言えないはずなのに、歴代代表監督と比べても「熱心な支持者とそれ以外」みたいなあまり幸せでない風景が醸成されていた、そんな風に僕には見えました。

僕自身、基本的な期待が限定的であったのは、冒頭示した通りです。
ただその為にオシムである必要は別に無いよなというハマりの悪さは最初から認識していて、だから早速オシムが妙なこと(笑)を始めてからも、割りと早目に”オシム鑑賞”に焦点を切り替えられたというか、「日本化」と「オシム化」を同時処理しながら見ることが出来たと思うんですが。

・・・・そう、だから要するに両方起きてたわけですよね、一遍に。(日本化の)”軌道修正””平準化”という単純作業と、”オシム・サッカー”という独創と。それが分かり難かった。(トルシエの後だったら分かり易かった?)
つまりオシムの「日本化」は「オシム化」ではあったが、それは別に裏切りでも私物化でもないし、一方で「日本化」はオシムの専売特許ではない。またはオシムのサッカーの内容は、「日本化」というテーマにとって必ずしも特権的なものでも不可欠なものでもない。それが「オシム化」vs「日本化」という対立図式における、僕の立場ですが。


僕の考える「日本化」の中身やその達成度合いについては、次で
結局まただらだら続きそうですが、Jも始まってないしいいですよね?(笑)


オシム・想
2007年11月18日 (日) | 編集 |
一期一会だよな、というのがオシムの件に思ったこと。

ったく、聞いてないよ爺さん。まだまだ書きたいことが沢山あったのに。チームの進行状況を見ながら、徐々に書いて行く予定だったのに。
実際準備や構想やちょっとだけ書いてしまってあるエントリーが、現時点でも3,4本はあるんですよねえ。どうしてくれるんだ。

冗談はともかく(笑)。いや、別に冗談ではないんですが。
実際、チームも、監督も、ついでに漫画・アニメ等の「作品」も、いつまでも同じもの同じ人が存在しているわけではなくて、いつ突然(い)なくなるか分からないし旬もタイミングも2度とめぐって来るか分からないしで。だから感じた時思い付いた時にすかさず書いておくべきなんで、例えその時点では自信がなくてもよく分からないところがあっても。ついでに多少めんどくさくても。(笑)
これでも随分インスピレーションに任せて、危なっかしいことや恥ずかしいこともエイと書いている方だとは思いますけどね。まだ足りないか。

と同時に、似たようなことですけど、別にその為にやっているわけではないでしょうけど(笑)、それぞれに心血注いで我々に(or僕に)思索の対象を提供してくれる人たちに対する礼儀として、こちらも出来る限りの観察と思考をぶつけるべきだし、書くならごまかさずにちゃんと書くべきだしという。
オシムについて後悔はあるか?うーん、少しある。愧じるところがあるか?うーん、それも少し。

なんか危うい人ではありましたけどね。下手に叩くと折れそうな。肉体的にも、精神的にも。別に叩いたから折れたわけでは全然無いでしょうが。(笑)
ネガティヴなこと書いた後、「ごめんね」と言いたくなるようなところは常に少しあった。
そういう意味では頼りないと言えば頼りないんですが。
だからってこんなことになるとは。


とにかくもっと見てみたかったですね。見ていたかった。
継続的に日本サッカー(の進歩)を見続けて来た僕らにとっても、レベル的内容的に、ちょうどいい教材だったようにも思いますし。
そういう意味で、その時々ロクに真面目に探してない、川淵の”代表監督一本釣り”も、あれで案外勘がいいというか、引きが強いとは言えるかもしれない。オフト→加茂→トルシエ→オシムと、ちょうどいいハードルの上がり方。ファルカン→ジーコの”裏ライン”(笑)も、コントラストとしては十分に面白かった。結果として知見は広がった。

さすがに次は難しそうですけど。全然違うタイプはマズいし、かといって「似た人」というのも難しいというか、それ以前にどうならば「似てる」と言えるのか。『人もボールも動く』なんて、定義が広過ぎて大して役に立たないだろうし。ていうかオシムって結構特殊だし。
とにかく「失敗」して終わったわけではないだけに、面影を追うとフラストレーションが溜まるのは間違いの無いところですが。別に引き継ぐのが目的ではないですしね(笑)。僕はと言えは、新しい監督がそれなりの人ならば、淡々とまた解釈作業に熱中するでしょう。(淡々と熱中?)

せめてもう一度元気になって、プレッシャーの無い立場で本来の切れ味の(笑)「格言」をまた聞かせて欲しいものです。


AA杯エジプト代表戦
2007年10月18日 (木) | 編集 |
よう分からんな。強いのか弱いのか。どのように強いのかどのように弱いのか。

アジア/アフリカチャレンジ杯 日本代表 ○4-1● エジプト代表(長居)

U-22戦(の録画)をまだ見てないので、スポナビの上画面を手で隠しながら、必死にデータURL↑を入手。(笑)


エジプトはそれなりのレベルのよく訓練されたちゃんとサッカーをやって来るチームで、ただモチベーション、コンディション含めて、全てが余りにも程々なので、ありていに言って”手頃なスパーリングパートナー”みたいな感はなきにしもあらず。
AA杯と言えば伝統的に「W杯予選の壮行試合」なわけで、そういう意味では相応しいのかもしれないですけど、それにしてはちょっと間が空き過ぎてますね。(笑)

ともかく元々オシムジャパン自体がケツの軽いチームなのと合わせて、別に低レベルなわけでもないですが今時国際試合では珍しいくらい”オープン”な試合に。エジプトの決定機のいくつかが決まっていれば、もっと更に華やかなスコアにもなっていたでしょう。(笑)

・・・・ちょっとこの近年ほぼ安定して”アラブ系最強国”であるチームを見てて思ってしまったのは、西アジアの我らがお仲間たちが揃って(イラクは別か)十年一日の引きこもり盗っ人サッカーをやっていなかった場合、こんな風に存外に与し易い相手なのかなと。
あるいは似たようなレベルのヨーロッパの中堅国(それこそこの前のオーストリアとか)とやった時に比べて、何かこの本質的な怖さ不足はなんなんだろうという。

まあひどく感覚的な話ですけど。でもシュートの外し方の気前の良さというか、持っている技術の試合への反映度の効率の悪さとか。サッカーに対する”執念”の違いかなという。


オシムジャパンの方はどうかというと・・・・うむ。前の試合の感想として、「オシムのチーム作りはほぼ完了しているのではないか」という意味のことを書きましたが、どちらかというとその直観を裏打ちするような試合に思いました。
このスコアですからこの試合についてはそれはポジティヴなものにとれるんでしょうけどね。随所にダイレクトパスとタイミングの良い追い越しプレーをからめた、融通無碍のアタッキングサッカー。少なくともオープンな試合なら、これくらいのことが出来ますよという。

ディテールで言うと、やはり、俊輔がいないことによって(笑)、スピード感はだいぶ増しますね。
まあそもそもなんで入れてたのかよく分からないというか、ブータラマスコミに文句言ってた割りには、行動としてはやけに積極的に俊輔ありきのチーム作りにここしばらく励んでいたように見えますが。どのくらいのスパンを視野に入れていた実験なのかあれは。
結果的に言うと俊輔に注目が集中する隙に(笑)、立ち上げ当初はどちらか言えばこちらも足を引っ張っていた感のあった遠藤が、すっかりひと皮半(?)くらい剥けて、「申し子」的働きをするように成長しましたけどね。恐るべき深謀遠慮?!

とにかく「完成」感、ある種落ち着いている印象の強いチームに思います。後はパーツとしての選手の付け替えと、時々刻々の状況への対処があるだけという。
もう年明け2月にはW杯予選が始まるわけで、そういう意味ではちょうどいいという話ですけど、ただ別に逆算してきっちりやっているとか、タイムリミットで”断念”したり”妥協”したりてまとめにかかったとか、そういう感じも殊更しないんですよね。やろうと思っていたことをやったら、だいたいこんな進行状況になったという。

勿論日本人選手の能力的に”断念”している部分は少なからずあるでしょうが、それはまあ、分かっていたはずのことで。意図的変化があったとすればやはり俊輔モードというか、中盤ポゼッション的なニュアンスのものに移行したあの時期で、それはジーコも含めたある意味での従来的な日本サッカー(の一面)へ擦り寄ったみたいなところもあって、だから未だに初期型のジェフベースのイケイケのラインに未練を示す人もいるようですが。(僕も少し)
まあ実際には気候次第という面も大きいのかもしれませんけどね。今後の具体的なアジア予選の戦いを考えても。なんかグルグル回ってるな。(笑)

後は、そう、”オシムのサッカー”を理解・実行出来る(一応ね)選手の数が徐々に増えて、その中でのクラッキ系の割合が増えるにつれて、ニュアンスが変わって来たとか。
[続きを読む...]
高部務 『オシム主義』 より (2)
2007年10月16日 (火) | 編集 |
(1)

戦術/戦略(と自主性)

オシム
「戦術は自分たちで決めるものではなく、相手に対して作るもの」(p.122)

「大事なのは、向こうがどういう戦術でくるのか、それにどう対処できるか」(p.208)



酩酊さんの指摘(コメント欄)を読むまでは特に意識したことはなかったんですが、なるほど確かにオシムは作戦家らしいですね。で、その部分をオシムの全体像ないしは基本的な把握という作業の中で、どう位置付けるかなんですが・・・・。


オシム
「軍隊ではないので命令は出さない。相手の出方でわれわれの対応も変わる」
(p.124)


ここは一つには、選手がその場で自主的に対応するのが理想というような話でしょうが。
ただ事前の作戦や試合中の交代策みたいなものは、明らかに監督の”命令”でするものなわけで。何か少し違うことを言っている気がします。


オシム
「個人個人が考えながら連携で動く組織プレイをしろ」(p.29)


それは・・・・かなり飛躍するようですが・・・・パターンではやらない、オートマティズムではないということ。動きや組織の原理・原則はある、試合に臨む戦略もしっかり立てる。しかしその中間の個々の局面の進行は、あくまで状況や相手との対応関係によって時々刻々選手が決めるということですね、全てまとめると。
”300%ジーコ論”なんてことを言っていましたが、つまりジーコの場合は原理・原則自体が個々人で、戦略も無いも同然だったと。ただ自主性・個人本位という点では共通している。

・・・・分かり難いですね。分かってます(笑)。ただスペース的に今日は限界、いずれまた書きますが今回は結論だけで勘弁。


その他

オシム
「集中力の欠如だが、どうしていいかわからない
「そういうミスをした代償は大きい。ただ、私はそれを直せる監督を見たことがない。私よりいい監督を何人も見てきたけれど、選手は同じミスを犯している。」(p.110)


集中不足によるミスの話ですが、ぶっちゃけますね。(笑)
でも別に笑い事でも逃げ口上でもなくて、確かに一つの究極を見た人の偽りのない真情、慨嘆という感じで、こういうのは好きです。


オシム(代表監督就任後)
「他国にないものを日本人は持っている。敏捷性、アグレッシブさ、個人の技術、そのあたりをうまく噛み合わせることが、これからの日本のサッカーには重要だ」(p.202)


「日本化」の基礎ターム。確認。これ自体は妥当な把握だと思います。
ただ冒頭基本編で述べたように、まずオシムがやりたいこと≒「オシム化」が先にあって、それと日本の固有性を出来レース的にすり合せているという感覚が僕は強いですね。”我田引水”というほど作為的なものだとは思いませんが。
結果がオーライになる可能性は十分にあると思いますが、事態の説明としてはしっくり来ない、あるいはオシムが見落としている日本の固有性みたいなものもあると思っています。(んー、これも後でね)


高部務 『オシム主義』 より (1)
2007年10月16日 (火) | 編集 |
オシム主義―妥協を許さぬ“走るサッカー”の軌跡とオシムジャパンの挑戦 オシム主義―妥協を許さぬ“走るサッカー”の軌跡とオシムジャパンの挑戦
高部 務 (2006/09)
日本文芸社

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たまたま図書館にあったので借りてみました。
本としての評判はあまり良くないようで(笑)、実際僕も無闇な礼賛調と、他人の褌(サポーターのノート)を丸々借りて、自分が全く経験していないオシムのジェフ時代を再現するという企画の大胆さ(?)にはびっくりしましたが、収録されている証言自体は色々と示唆的で興味深かったので、僕自身の過去の考察とも照らし合わせてオシム像構築作業の一助にしてみようと。


基本

ミリノビッチ(当時ジェフ。オシム来日以前の発言)
「(オシムにとって)サッカーはボールを持っていかに速く走れるかだ。走力のない選手はサッカー選手として認めない。」(p.24)


基本、ですが。ただここで注目すべきはこれがジェフ以前の時代のオシムについてのミリノビッチの発言だということで、つまりジェフだから日本代表だからそうさせているわけではない、元々オシムのサッカー自体がそうなんだということ。
・・・・いや、ぶっちゃけジェフの”蟻んこ軍団”性(失礼・笑)の印象が余りに強いので、同じことを例えばユーゴの技巧派巨人たちがやるということがどうも上手く想像出来ずにいたもので。(笑)


オシム
「日本人は『頑張って戦う』ことを強調するが、単にそれだけなら別のスポーツをやればいい。(中略)試合の中でそのゲームを決定づけられる選手が必要なんだ。」(p.128)


一方での技術、スペシャリティの重視。
まあ内容としては当たり前ですが、”日本人”云々の言い回しが面白かったので。(笑)


崩し/パス/シュート

岡田監督(当時横浜Fマリノス)
「ジェフは走力を武器に、全員が攻め上がる戦術を採っている。(中略)ミドルゾーンから自分たちのアタックゾーンまで、何人もの選手にパス回しで持ち上げられる。そのとき、踏みとどまったところで、ポンとシュートを決めてくるのがジェフの戦術だ。」(p.45)


’03年初対戦時の岡ちゃんの一種直感的な把握ですが、「踏みとどまったところで」という表現が面白いと思います。前段の”パス回し”の、ある意味の「停止」のような印象の言葉。
回して(走って)崩して、完璧に崩すことを目指しながら、その方策が完遂なり行き詰まりなりで尽きたところで、仕方なく(笑)、最後の一手としての”シュート”。
かの憲剛のミドルシュートへの叱責も、要は「まだ崩せた」じゃないかというそういうことかと。


オシム
「(前略)チーム全体のコンビネーションでゴール近くまで持っていき、一番間近にシュートを打つチャンスのある選手が打つ。」(p.76)


オシム&高部
前線でしっかりボールをキープすること。簡単にボールをつなぐこと。ディフェンスはしっかり防ぐこと。」オシムサッカーの基本三原則を口にして送り出した後半のピッチ。
(p.111)


”前線”ということはつまり”中盤”ではないということ。ボールキープは重視するが、それはなるべく敵ゴール近く。前の項の岡ちゃんの「持ち上げ」るという表現もそれっぽいか。
なるべく高い位置で押し込む「攻撃的」サッカーというのは、教科書的にはトータルフットボール直系のサッキ・ミランのゾーン・プレスでキーワード的に使われた概念ですね。
現在のいわゆるアジア杯仕様だと、どうしても「中盤ポゼッション」のイメージが強いですけど。狙いor妥協なのか、諸事情(例)による不徹底/押し込み不足の結果なのか。

”一番間近に~”というのは正にトータルフットボール的な言い方。
前項の話と併せると、寄ってたかって回して崩して、いよいよ後はシュートしかないという時にたまたまそこにいた選手が打つという。
・・・・何となく椅子取りゲームを連想してしまいますが(笑)。あ、音楽終わった。シュート!


オシム(inレアルマドリー戦)
「トップクラスの選手たちは、シンプルにプレイすることを第一にしている。それが一番美しいものだ。観客はドリブルを期待していたかもしれないけど、それはサッカーではない」(p.114~115)


あくまでパス(とラン)であると。ドリブルではない。バクチではなく、完璧に崩すということでもありますか。

(2)へつづく。