ふかばさんが『アウトプットに悩む暇があったら書け』でまとめた&問いかけた、"ワタシがサッカーブログ(またはサッカーについての文章)を書く理由"問題。
アウトプットに悩む暇があったら書け https://t.co/64cV4LyC3N
— ふかば (@VCB_25) February 24, 2023
中二病です
まあ何か特にトータルに考えがあるというよりも、ツイッターでタグで回って来た企画に乗った的な、「僕の場合はこうです」というだけの軽い回答です。
以下『アウトプットに悩む暇があったら書け』の文中の問いかけから、箇条書き/列挙的に。
">"がついている部分が、ふかばさんの元の文章です。
ヴェルディ系ブログ/アウトプット
>僕が応援する東京ヴェルディは幸せなことに試合の感想を書く人に枚挙の暇がない。
>それはかつてamebaがスポンサーをしていたことにより、amebaブログで書く人が多数いたことに起因するかもしれないが。
やっぱ盛んなんですかねヴェルディ系は。そんな気はしてなくてもなかったですが。
いっとき一気に盛り上がったnote系ラインアップから、あ.さんやHaruさんが休眠状態に入っても、そんなに大きな穴が空いた感じにはならなかったですから、そうかも知れないですね。
amebaブログの"ヴェルディ"フォーマット/テンプレート(例)に関して言えば、確かにハードルが一気に下がった、ブログを書く"雰囲気"が醸成されたというのはありましたね。現在では"アメブロ"と言えば芸能人ブログが真っ先に連想されるように、正直落ち着いて文章を書くようなフォーマットにはとても見えなかったので僕自身は参加する気がしなかったですが(と前にどこかでも書いた気がする)、その分所謂「掲示板」に書き込む延長的な書き方も出来て、"テキストサイト"の延長上にある旧世代"ブログ"のエリート主義的な文化に風穴を開けた的な性格は、やや大げさに言えばあるかも知れないです。
"ネットの文章"の歴史観で言えば、ブログ&掲示板の時代とSNSの時代の中間に挟まった、過渡的でマイナーなカルチャーではあったように思いますが。(勿論現在もそれなりの存在感で存在はしています)
サッカー関係のブログ/アウトプットの執筆動機
こちらが本題。
変に編集するのも良くないと思うので、基本的にふかばさんの文章中への登場順に。
1.文章表現自体への欲求
>>私の場合は、誰かに伝えたいと感じるくらいの興奮を、やっぱり「自分の言葉」で表現したい。
>>ああいいな、この人がここまで言うなら観てみたいな。そう思ってもらえるくらいには、その
>>表現方法を磨きたい。(みぎ)
>こういう気持ちは正直ほとんどない。(ふかば)
文章表現自体への欲求、あるいは質の高い文章を書くこと自体への、ある種の"美的"欲求?
ふかばさんは"ない"のか。「文章を書くこと」自体は明らかにお好きなように見えますが(笑)、それは専ら"内容"の"表現""伝達"という目的&機能性ありきという性格が強くて、芸術的/パフォーマンス的動機は薄いと。
僕はどうだろう。最初に"ホームページ"を立ち上げてそこにある程度まとまった量の文章を書こうとした約20年前(SNSとかも無い時代なので、それ以前にはそれこそ学校の作文の課題(笑)くらいでしか一定量以上の文章を書いた経験は無い)、あるいは現在に至る日々の記事一つ一つを書く際の動機として、文章(技巧)自体に関心があったか/あるかというと、それはまあ、"ほとんどない"かな、僕も。非定量性満開(笑)の自分の記事をいかに"ブログ文学"と自嘲はしてみても(笑)、やはり「文学」そのものとはだいぶ違う。
ただ伝えたいことを伝える為の習慣的な技術的努力が結果的にある種の得意の技巧やそれを伴った文体を生み出すことはあるし、生み出されたそれらのブラッシュアップや発展が、"内容の伝達"とはまた別の目標として意識されたり潜在していたりすることは、あるように思います。(1番にはなりませんが)
まあみぎさんも別に文学をやりたいと言っている訳ではないでしょうが(笑)、自分の言葉や文章表現そのものに対する"愛"は、上のように宣言する程度には、豊富な方なのかも知れませんね。少なくともふかばさんが違和を感じる程度には。僕はまあ、間くらいですかね、安易な結論ですが。ふかばさんの場合一方で"二次創作"もやられるそうですから、自分の中での比較として、サッカー関係の文章には余りそういう趣味性を付与していないと、そういう区分けもあるのかなと思ったりしますが。(全くの想像です)
2.自分なりの視点・意見の表明の必要性
>>『思い返してみれば、ブログをはじめとしたアウトプットの全ては、「黙ってられない」が元手だ
>>った。あの選手のあのプレー、もっと評価されるべき! このチームのこのやり方、もっと知られて
>>欲しい!伝えたくって仕方ないという衝動こそが、唯一にして最高のガソリンだった。』(市)
>こういう気持ちはちょっとあったかもしれない。(ふかば)
ある種基本中の基本の話で、そりゃこれはあるだろうというか"無い"という事態/書き手を想定する方が難しいというか。
"文章"を書く/書かない以前に、"意見"を持つというのはそういうことだろうとも思いますし。あえて"意見"を持ったり増してそれを表明しようとする時、全ての人はその瞬間それをユニークであるかもしくは何かに対する有効で必要な反論/指摘だと思っている。実際にそう機能するかは別にして。(笑)
話戻してそうした"基本中の基本"が、間違いを恐れたり他者の動向を窺ったりを繰り返す内に、いつしか見失われてしまうというのが、そもそものみぎさん(&市さん)の問題意識な訳でしょうね。
ふかばさんは・・・"ちょっと"なのか(笑)。冷たいな(笑)。それは熱量が低いという意味なのか、動機としての比重が小さいという意味なのか。
3.特定の"書かれるべき"文章の「欠落」の認識
>僕が何を思って書いているか、と言えば編成関係の記事を書いているときには「自分で読みたいものがない」だろうか。
"2"と似た話ではあるんですけど。
比較すると、"2"は「人と違う意見を言う」で、"3"は「人が書いていないことを書く」。
"2"はどちらかというと既存の議論の枠組みやアングルに則りながら、その"中"で違う意見を言ったり意見を戦わせたりする行為。"3"は枠組みやアングル自体を新たに用意したり提案したりする行為。勿論"3"でもその枠組みやアングルにおける自分の"意見"を述べてはいる筈ですし、そもそも「こういう議論が必要ではないですか?」ということ自体が、立派な"意見"ではある訳ですけど。ただ直接的な他者との"戦い"や腕比べの要素は、比較すると少ない。勝ち負けというより存在自体が価値。
・・・ふかばさんが2で"ちょっと"と言っているのは(笑)、3的書き方/動機で書くことが多いという意味なんですかね、ひょっとして。
僕自身はどうかというと、ヴェルディなり代表なりの試合について毎試合かそれに近いペースで書いていた頃は、自然直近の"議論"への参加頻度も高くなりますし、僕なりに"2"的なこともやっていたように思います。それが段々減って行って最近では最早総括記事しか書かないような(笑)そんな状態になると、より慎重に視点を探して"3"的に書くという性格は強くなりますね。
ただ後述するように僕はそもそもが「素人」ということを重要なアイデンティティとして実は書き始めた人なので、最初から"外部"者的視点で玄人や詳しい人が書かないようなこと、理由はともかく書いていないことを中心に書いていたし、そういう意識は強めでした。それで差別化を狙うというのも(特に後年では)無くはないんですが、シンプルになんか誰も書いてくれてないんだけど、これってどういうこと?こんなことに疑問を持つのはおかしいの?と、"素人の素朴な疑問"をぶつけてみて反応を窺うという、そうしたことを繰り返して来て、未だに基本的には同じことをやっているつもりのそういう半生です。(笑)
とにかくそういう意味では、そもそもが"3"性の強い人ではあったと思います。
4.感想の記録
>試合関係の記事を書く時は「とにかく誰かの感想を観る前の自分の感想を書き残しておきたい」が一番近いかもしれない。
ここはある意味ふかばさんの文章の中の最も中心的な主張部分に見えますし、それもあって長くなりそうなので後回しで。
5.他者への影響
>また、他者に影響を与えることの責任を自分で感じてしまうこともあるだろうし。
他者/読者への影響をどう考えているのか、あるいは他者を説得する"為に"影響を与える"為に"、書くのか。
これも広い意味では誰でもイエスでしょうけど。人に読んでもらう為に、それなりの苦労をして書く訳ですから。(笑)
ただふかばさん自身は、次の6で引用しているように、読者の想定はしていないとおっしゃっています。また"4"→別枠次項では、"言葉が現実を捻じ曲げる"ことを問題視し、自分を含めた誰かの言葉が誰かの認識や感想に影響を与えることを、どちらかというと否定的に述べている面が強いに思います。
だから"影響"の為に書いてはいないというのが、とりあえずのふかばさんの結論ということになりそう。まあそれについては必要があれば、ふかばさん自身が改めて書かれたらいいと思うので、僕が言うことはこれ以上無いですが。
で、当の僕はどうなのかというと。
勿論人に読まれる前提で書く以上、何らか"影響"を与えようとは思ってますし、自分なりに正しいと思うことを書く以上、出来ればポジティブな反応を目指しているのも言うまでもないです。ただでは「説得」しようと思って書いているかというと、もっと言えば中立以上の好意度の読者を説得出来ると思って書いているかというと・・・。それはちょっと、そうでもないかなという。普通は。だとすれば、こんな(主観的直観的)スタイルにはなってない(笑)。・・・"普通は"というのは、たまには書くからですけどね、「説得」や少なくとも直接的(論理的や実証的)な反論の隙を極力潰すような、"外向きの"書き方の文章も。どれとは言いませんが(恥ずかしいので(笑))。ただ普段は別に、隙も弱点も偏りも、あることは承知でほとんど気にせず書いちゃってますね。
とにかく目標は説得ではない。勿論論破でもない(笑)。"ポジティブ"とは言いましたが、では同意・賛成を求めているかというと、それもそうでもない。手応えのある賛成意見をもらえたら勿論嬉しいですけど、無慈悲に必要な反論をしてくれた人のことも、同じように大好きになります(笑)。要はちゃんと"読んで"くれた感があるか無いかですかね、賛否という大別よりも。まあ読んでくれてないからこそ妙に感情的な反論/否定的な反応をして来るというケースは勿論多いので、そんなに賛否と僕のポジネガが食い違う訳ではないんですが。
説得でも賛成でもない。ではなんだ。共感か?問題意識への共感という意味でなら、それは結構そうかも。ただその場合も僕の検討の結論に対する賛否/反応には、さほど興味はない。検討自体を共にしてくれれば、それで良い。結論に共感してもらう必要は無いというか。
(最終的な)共感ですらないとすれば、なんだ。インスパイア?これはだいぶ、核心に近そう。先程の"問題意識への共感"もそうですけど、とにかく僕は、問題の所在自体を、(未知の)思考の経路の可能性自体を、示したい、理解してもらいたい、そういう思いが強いようですね。そうして"インスパイア"した相手がその人なりに思考をめぐらせた挙句、僕とは全く違った結論に辿り着いたり僕の思考内容のナンセンスを指摘・主張して来たりしても(笑)、それ自体は一向に構わない。その人に新たな思考を惹起できたこと自体が喜びであるし誇りであるし、実際問題目的でもある。勿論"楽しみ"でもある。
説得はほんと興味無いなあ。その点"インスパイア"でも、まだ強過ぎるかも知れない。そんなに真面目に受け取ってもらう必要は、実は必ずしもない(勿論受け取ってくれれば嬉しいですが)。単に、引っかかる、気になる、その場ではスルーしても意識や記憶のどこかに僕の言葉や文章が場所を得て、そのまま捨てられることもあるだろけれど機会を得て検討の対象になることもある、それくらいの期待感かも知れない。・・・なんか悟り澄ましている(笑)ようですけど、何のことは無い、僕自身が他人の言葉をこれくらいの感じで薄く受け取る人なので、それを引っくり返した他人への期待もその程度だという、そういうことなんだろうと思います(笑)。聞いてはいるんですけどね、ただし半分だけというか(笑)。天才の言うことも凡才の言うことも、平均して"話半分"で聴くというか。半分しか聴かないけど半分は必ず聴く。正直者の言うことも嘘つきの言うことも。(なお猫の言うことだけは全部聴く)
結論は何だろう。文章で他者に影響を与えることには大いに意欲的だけど、どう影響を与えるかは余り気にしていないという話か。みんなも気にせず書いちゃって?という。
安心して下さい!聴いてますよ。(ただし半分だけ)
6.需要/読者への対応
>ことここにいたり。僕が一切需要の話をしていないことにお気づきだろう。
>そう、誰かのためになんて僕はアウトプットしていない。
需要の意識、あるいは読者の想定は、割と僕はやるんですよね。PVを増やすとか、そういう話ではないんですが。(笑)
多々疑問はありつつもとりあえずは"サッカー系ブロガー"ではある(そうでしかない)僕ですが、ご存知の通り他にもいつもうるさい海外ドラマや最近ではMリーグ/見る雀、漫画やらアニメやら女子バレーやら、定期的に文章化するものだけ挙げてもそれなりの数の趣味を持っている(?)訳ですが。ただその中でも、実はサッカーは断トツに近く出発点が低くて、自分は分からない/知らない、何なら向いてないと思う時すらよくある意識で接していて、それはJリーグとほぼ共に30年弱を過ごしてもほとんど変わっていない。それ自体なぜなのかという疑問もありますがそれは置いておいて、とにかく扱い分野の中では例外的と言ってもいいくらいに"素人""外野"という自認で、僕はサッカーについては書いているんですね。
その至らない部分についてはその都度勉強させていただくということでいいんですが、その一方の不満として、"詳しい"っぽい人たちの書くサッカーについての文章が、どうにもなかなか僕の関心や疑問や、僕なりに中心的な問題の一つではないかと思うことに、賛とか否以前に触れてくれない。そういうことがあります。僕が書き始めた20年前もそうでしたし、選択肢が爆増した今でもほとんど変わらずそう。それで仕方なく、正に上でふかばさんが言ったように「自分で読みたいものがない」から自分で書き始めてみると、反応自体はそれなりにある。少なくとも自分の関心や疑問の持ち方に、一定の意味はあるらしいと繰り返し確認出来る程度には。でも他の人は書かない(笑)。じゃあもういいやと、ある意味では向上心を切り捨てて(笑)、正統派への道は放棄して「素人」代表として書こうと、それで存在価値は確保出来るようだからと、そう割り切っての20年。
だからまあ、"需要"というか、意識していた読者は僕と同様にサッカーに詳しくない層で、そうした層が持つだろう詳しい人には今更かもしれない疑問をあえてしつこく衝いてみる、勿論なるべく難しいサッカー用語は使わずにという、そういうスタイルをメインにはして来ました。・・・意外とそれで喜ぶのは"詳しい"人の方だったりもするんですけど(笑)、まあ"対象"層は身の程を知って、慎み深く黙って読んでいるのかも知れませんが。
まあ20年それやるというのも、余り品が無い気もしないではないんですけどね。"政権取る気のない万年野党"みたいなもので(笑)。いやあ、取る気無いですよね、実際。責任持つ気が無い。"参考意見"以上のものを書く気が無いというか。まあ政党と違って別に反対票で与党の邪魔したりするわけではないので、いいだろうとは思ってるんですが。
でもそれで議席を失ったら、大人しく引退する覚悟はとっくにあるんですけどね。なかなかどうして、無くならないというか、増えも減りもほとんどしない、我が党の議席。"選挙"の度に、それなりにピリピリはしてるんですけど(笑)。まだ票を入れてくれる有権者はいるんだろうかと。
・・・この項下らねえな。(笑)
まあただの"万年野党"というよりも、"ワンイッシュー政党"みたいなところはあるかも知れません。環境保護しか言わないとか。NHKをぶっ壊すしか言わないとか。(笑)
「反対」するのが仕事というのとは、少し違う感じが。(まだ続くのか?この話)
「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論 (林舞輝 2019.08.19)[無料]
ジダン監督がたどり着いたのは、選手の顔ぶれ次第で変幻自在のスタイル。 (木村 浩嗣 2020.10.10)
その後折に触れて考えたり関連した文章を目にしたりしつつ、去年の年末のweb footballistaまとめ読みで最近の情勢に関する記事もいくつか読めたので、一回確認・まとめてみたいと思います。最初の一つを除いて全て有料記事なので、例によって引用は最低限に努めますが。
以下掲載順に。
「エコロジカル・トレーニング」ムバッペたちを磨き上げた新理論 (林舞輝 2019.08.19)[無料]
まずおさらいから。
エコロジカル・トレーニングの提唱者であり、現在シェフィールド・ハラム大学で教鞭を執るキース・デイビッズ教授は、運動学習の研究を進めるうちに2000年に入る直前の頃、この「エコロジカル・アプローチ」または「エコロジカル・トレーニング」と呼ばれる、スポーツにおける新しいトレーニング理論を提唱し始めた。
この時点ではエコロジカル"トレーニング"の印象しか無くて、2年後に見たら"アプローチ"一色になってたのであれと思ったんですが、言葉としては最初から出てはいたんですね。その中心的な考えは「エコロジー」、つまり生態学(生物学の一部門。生物の個体、集団の生活、他の生物や環境との相互関係を研究する分野)である。生態学的な面から練習を積み重ねる、つまりチームを一つの生態系、選手を生物としての一つの個体と捉え、生態学での知識やアプローチによってトレーニングを構築しようという理論だ。この理論で最も重要視されるのは、「環境での関わり合い」であり、「相互関係」である。したがって、すべての練習は選手同士の関係性を深めることに重きが置かれ、選手が自分の能力と個性を環境の中で最大限に生かし、また他の選手と互いに生かし生かされるような、ある意味「相互依存」のような関係の構築を促すことが、このトレーニングの最大の目的である。
どちらでもいいようなものではあるんですけど、"アプローチ"の方が理論的な背景というか広がりを感じさせるのと、"相互関係を重視するトレーニング"という切り取り方だけだと何やらジーコ式の同じメンバーで長くやらせれば自然にチームになる(戦術or監督の指示なんていらない)的な「方法論」の連想が強めになって、それが欧州の"新理論"?という戸惑いが実際輸入された当時はフットボール論壇界隈でも少なからず見られていたような記憶。
必ずしもそうではないということがこの後語られますが、いみじくも紹介者の林氏自身がこういう書き方をして(しまって)いるように、やはり「監督発のトップダウン的全体的秩序」に対するアンチとしての、「選手/スモールグループ発のボトムアップ的秩序」としての"エコロジカル"というコントラストは、かなり強かったですね。(今もそうでない訳ではないんでしょうけど)エコロジカル・トレーニングが従来のトレーニング理論、例えば「戦術的ピリオダイゼーション」や「構造化トレーニング」と比べて革命的なところは、ゲームモデルのゲの字も出てこないことだ。
とりあえずこれが、2018年W杯覇者フランス代表を例にとった、林氏の考えていたエコロジカル・トレーニングの"成果"の好例。スティーブン・エンゾンジがエンゴロ・カンテに代わって入った時、エンゾンジがカンテの役割の代わりを果たすのではなく、エンゾンジがいるバージョンのダイナミクス、チームの生態系が自然とできていった。これは、まさにエコロジカル・トレーニングが理想とするようなチームができ上がっていく過程である。
ジダン監督がたどり着いたのは、選手の顔ぶれ次第で変幻自在のスタイル。懸念だった得点力はSBの“FW化”で分担 (木村 浩嗣 2020.10.10)
[4-3-3]、[4-4-2]、[3-5-2]といったシステムを使い分けただけではなく、同じ並びでも中身はMF5人だったり、純粋なウインガー2枚だったり、ウインガー1枚+ MF4枚だったりと、選手の顔ぶれを変えることでチームの機能を変化させ、同時に酷使による体力の消耗を避けた。[無料部分]
エコロジカル・トレーニングを意図して大々的にやっているということではなくて、そうしたアプローチが必要である可能性をトップレベルも含む多くのサッカー人たちに感じさせる存在としての、(ジダン)マドリー。つまり、ジダンの戦術は個人化された采配とセットの言わば“顔の見える戦術”だったわけだ。
・・・ここまでが以前(2020年)読んだもの。
次からが今回(2022年)。
レオナルド・ジャルディンのモナコを躍進させた新理論、 エコロジカル・アプローチを解き明かす (浅野賀一 2022.03.02)
[無料部分]
人間の運動学習はある種の制約に対する適応、つまりは相転移現象であると考える学説が登場しました。例えば水を温めたら水蒸気になるように、一気に性質・位相・様相が変わる境界線がある。運動学習はこのようなドラスティックな相転移現象で、何らかのコントロール可能なパラメーター(例えばスキップ動作であればテンポなど)をいじると突如としてある運動ができるようになったり、またできなくなったりする。
「制約」(主導型アプローチ)というキーワードが重要なものとして、新たに登場しています。それをもとに作られた具体的なメソッドが、制約主導型アプローチとなります
ここで言われているのは、
1.エコロジカルなアプローチの成果の現れはしばしば不連続("突如として")なものであって、ジーコ的な単純に時間が解決する式の漸進的なものではない。
ということ。そして
2.その為に必要となるのが選手たちに課される適度的確な「制約」であって、指導側の仕事は単に放置して好きにやらせることではない。
ということ。
2年前の"情報"と比べると、だいぶ"着地"出来そうな感じは見えて来ましたね。(笑)
つづき。
サッカーのトレーニングにおける制約操作の代表例では、3~4号球を使ってボールコントロールができるように練習して、その後5号球でトレーニングすると簡単に感じるというものがあります。
これはどちらかというと、"個人"の育成のイメージの強い例示ですけど。トレーニングを経て学習して、パスやポジショニングなどある種の運動パターンが固まってきたらまた制約を操作して、再び新たな状況を経験させる。最終的に目指すのはいかなる状況でも目的に向かって解決策を出せる技術やサッカーIQを育むことですね。
あくまで「制約」の説明としての、シンプルな例というか。
[有料部分]
登場時点では(今もしばしば)「ゲームモデル」的"統一"サッカー、"選手の交換可能"サッカーとは対立するアプローチ(“顔の見える戦術”)と思われたエコロジカルですが、そのエコロジカルなトレーニングの必須要素であるらしい「制約」のむしろ代表例として「ゲームモデル」を位置づけることによって、両者の融和を図った(訳ではないのかも知れませんが(笑))説明。ゲームモデル自体エコロジカル・アプローチと親和性が高く、チームに意味のある自己組織化(中枢からの指令なしに個人の自律した行動で秩序や組織を作り出す現象)を促すために必要な制約の一種です。ゲームモデルを何も定めず勝手に自己組織化させた場合、まったく機能的でない自己組織化が生じる、ないしはゲームモデルが複雑過ぎて何の自己組織化も生まれないかのどちらかで終わってしまうかもしれません
そうは言っても「ゲームモデルを確立しよう」という方向性の目指すものと「個々の選手の個性と相互依存的関係を重視する」方向性が目指すものが同じとはやはり思えませんが。そもそもレアルの"ゲームモデルに囚われない"強さにこそ、考えさせるインパクトがあった訳ですし。
なるほどとは思いましたが若干言いくるめられてる感も(笑)。別に嘘ではないんでしょうけど。
後段の「制約」と「自己組織化」の関係は、結論としては常識的ですけど提唱者が改めてこういう整理をしてくれていることには意味があるかなと。"ジーコ"的問題の位置づけ含めて。
一方で本質的にはやはり「アート」であって「サイエンス」ではないというこの言明は、提唱者が自分の理論の位置付けを誤魔化そうとしている訳ではないうことを表す、ある種爽やかな態度かなと。どのぐらいのレベルのどういった制約を設けるかを判断するのは、とても時間のかかるアート的な行為で、それがサイエンスになることは複雑性の高い集団競技では当面ない、と。
逆にそうした"アート"が、"サイエンス"を尽くしたトップレベルに加わる"もうひと味"、超上級者用の特殊レイヤーであることを越えて"次の主流"になり得るのかには疑問を感じる部分が大きかったんですが、ポルトガルを筆頭とするヨーロッパでは相当以上に既に主流化しているという話でへえと。ちなみにポルトガルではサッカー、ハンドボール、バスケットボールなど球技のコーチングライセンスの基礎教養部分は統一されています。基礎的な部分は同じものを学び、その後それぞれの種目へ特化していくカリキュラムです。その基礎部分の多くはエコロジカル・アプローチです
イタリア新世代監督が提唱する「ファンクショナルプレー」という未来 (片野道郎 2022.05.06)
(ペルージャU-19監督のアレッサンドロ・フォルミサーノ)
どんなサッカーをするかを決めるのは私ではなくてチームです。彼らが毎日一緒にプレーする中で自然と方向性が発露してくる。自己組織化のプロセスが進んでくる。それがさらに進むように環境を整えるのが私の仕事です。
・・・以上無料部分より。監督としての私に『私のサッカー』はありませんが『私のメソッド』はある。それはシステム論的、全体論的アプローチです。人間の学習プロセスを尊重し、エコロジカルなやり方でチームと私との間に相互作用を作り出し、成長と進化を促していく
続いて有料部分から。
ポジショナル・プレーの「位置」「数」「質」の所謂3つの"優位性"に加えて「社会情緒的」(socio-affective)と仮に訳されている第4の優位性についての議論が比較的一般に現在あり、そしてフォルミサーノの場合は更にそれ(のフォルミサーノ流の言い方である「関係的」「機能的」優位性)こそが達成すべき目標であり、"3つの優位"はむしろその為の手段、下位的概念として位置付けられているという話。無料部分と併せると極端な相互関係至上主義というか、方向付けすら監督はやらないという立場。彼[フォルミサーノ]はその相互作用のあり方を決定づける要因として、プレー選択の当事者であるプレーヤー間の関係性、そしてピッチ上のダイナミズムの中でそれぞれが動的に担う機能性に注目し、それがもたらすアドバンテージを「関係的優位性」「機能的優位性」と名付けて、「3つの優位性」の上位に置く。そしてチームとしてのゲームモデルやプレー原則もまた、それを最大限に発揮させるために構築されるべきだとしている
感覚的感情的("affective"情緒的から来るんでしょう)とまで言い切られると、かなり本田-香川的というか日本人的な何かをイメージしますが。それが"目標"であるという。「ピッチ上で味方のプレーヤーが、この状況ではどんな選択をするか、それはなぜか、何を狙っているのかを感覚的、感情的なレベルで理解していれば、それに対する反応も適切かつ速くなる。そういう関係性はピッチ上に明らかな優位性をもたらします。それが関係的優位です」
関係的優位がアドバンテージになること自体は誰も否定しないと思いますが、それ自体をチーム作りの目標だとされると、やはりどうも不安(定)な気持ちにはなります(笑)。ある種"習性"的に。
隠れたエコロジカル実践者、アレグリ・ユベントスに内在する“文化的危機” (片野道郎 2022.06.13)
特定のゲームモデルは設定しない、あらかじめ決められた戦術メカニズムを設定せず、基本的な枠組みを決めたらそこから先は選手間の意思疎通と連係による解決に委ねて、監督は異なる人選や配置を試しながらチーム全体がバランス良く機能するよう調整していく、システムもメンバーもチームの振る舞いも試合ごとに、そして試合の中で柔軟に変えていく、トップレベルの選手が揃ったユベントスのようなチームでは、監督の存在感は薄ければ薄いほどいい
アレグリの直接的なコメントとかではなく、片野氏自身の観察と取材メモからのまとめらしいですが。「いつも同じ選手をピッチに送って相互の連係を高め、スペクタクルなサッカーを見せ大勝することに興味は持っていない。すべての戦力を使いながら安定した結果を出し続けることを重視している。だから試合ごとにメンバーを数人入れ替える」
[以上無料部分より]
"連係"を最重視するけれどメンバー固定はしないという手法。選手互換のゲームモデル式と違うのは勿論ですが、特定選手のクオリティにこだわるジーコ式(固定)とも違う・・・と言うべきか、単に"特定選手"自体が複数チーム分いるのが前提の現代的なビッグクラブゆえの手法と考えるべきなのか。
そのアレグリがかつて成功したユベントスで近年苦戦しているという問題について。有料部分。
これに関して筆者が以前から常々気になっているのは、アレグリが「ラジョナメント」という言葉を使う時、そこには彼自身が「この状況はこう解釈すべき」という明確な回答を持っていること、そしてそれが「最小限の労力で最大限の結果を得る」という、イタリアの伝統的なサッカー観に根ざしたものだというところだ。
前出フォルサミーノとの違い。もしそうだとすれば、アレグリのメソッドは、システムやプレー選択という点では「エコロジカル」(選手オリエンテッド)であっても、チームとしての基本的な振る舞いやその土台となる哲学という点ではかなり「パーソナル」(監督オリエンテッド)なものだということになる。
選手同士の関係性自体が示す方向を監督が後追い的に拾い上げるフォルサミーノに対して、理想像や方向性自体は監督の胸の内にあり、その実現のプロセスの部分はエコロジカルに、選手どうしの関係性による自己組織化に委ねるのがアレグリ流と。(そのアレグリの理想像が古くなっていて若い選手がついて来なくなっているのが問題だという論)
交錯するレアル・マドリーとバルセロナ。明暗分かれたクラシコが示した皮肉な現実 (きのけい 2022.10.19)
時代は下って現在はアンチェロッティに率られているレアルマドリー。レアル・マドリーはチームとして常に正しい「静的配置」をとり続けることはできないが、リアルタイムで相手をよく見て、後出しジャンケン的に「動的構造」を引き起こすことに長けており
[無料部分]
この文章には直接的に"エコロジカル"という言葉は出て来ませんが、"エコロジカル"的な発達を遂げたチームの挙動の特徴/典型として、短いながら印象的な描写に思えたので引いておきます。
予め原則として定められた静的配置をまず取ろうとするゲームモデル派(バルセロナ)に対して、自ら再現的な動きは余り見せないが、そうして発生した状況に対する集団反応的な動きに関しては、ある種の規則性秩序性をその都度適切に実現するレアル。
"ゴールを奪うという目的"自体はどのチームも同じ筈ですが、プレー原則/ゲームモデル派のチームの場合はどうしてもそれらの実行自体が「目的」となりがちであり、そもそものシンプルな目的に直接"対峙"しているエコロジカルなチームの機能性や即応性に後れを取ることがままある。プレー原則の存在が他チームと比べて希薄だと感じさせるレアル・マドリーが、このように「動的構造」とミクロな「個人戦術」を高いレベルで体現できているのは、プレー原則よりも重要な上位のレイヤー、目的意識や目的地がはっきりしているからかもしれない。
ビニシウス、ロドリゴ、ベンゼマがサイドを切り裂く。中央をこじ開ける。クロースの大きなサイドチェンジに呼応して走り出すカルバハルが右ポケットを突く。相手のラインが下がり過ぎれば、バルベルデがマイナスからミドルシュートを突き刺す――。 「プレー原則」による制約が小さく、自由を与えられているようにも見えるレアル・マドリーだが、ゴールを奪うという目的が強烈に意識づけられ、そのための崩しの目的地が複数あるため撤退する相手に対しても多彩なゴールパターンを有している。
と同時に同じことですが、プレー原則的な手がかりの稀薄なエコロジカルなチームがなぜ無秩序に陥らないかと言えば、ゴールを奪うというシンプルな目標を共有しているからで、そこからの逆算で秩序化も組織化もある程度自動的に起きる・・・という何か当たり前の説明を今更させる、"天然"エコロジカルなレアルマドリード。
そうですね、類型としては"原理主義的"エコロジカルのフォルサミーノ、"部分的/便宜的"エコロジカルのアレグリ、"天然"エコロジカルのジダン/アンチェロッティマドリー(笑)みたいな感じに、ここではなりますか。
今後のこうしたアプローチに興味を持つチームにとっては、恐らくはフォルサミーノとアレグリの中間くらいが多くの場合目標となるんだろうなと。アレグリの"便宜"的なスタンスは一見実用的なようですけど、逆に"思想"的な喚起力が弱くて、あえて"エコロジカル"を持ち出す動機自体が弱くなりそうというか、結局従来的なトップダウンサッカーに落ち着いてしまいそうな感じが。やはり「目的」「目標」の部分にエコロジカル性を関与させないと、それこそレアルマドリーが与えたような"違和"性を与えられないのではないかなと。レアル自体が結果的に取っている"方法"はフォルサミーノ的と言って言えなくはないようにも思いますが、ただそれはレアルの伝統と文字通りに世界最高の選手をかき集める編成あってのもので、普通のチームがフォルサミーノ式を意識的に採用するのはかなり覚悟が要りそうに思います。やはり最低限の方向性(ゲームモデルまではいかない)は指導側監督側が設定して、その実現に相応しいと思われる「制約」を選ぶことで自己組織化を促すというくらいのバランスが、現実的には見えます。(つまらない結論ですが(笑))
(おまけ)日本サッカーとエコロジカル
こんな2か月も間空く予定じゃなかったんですけど光陰矢の如しで。
後半の戦いぶりに見た“5レーン対策”攻略の糸口とは?オマーン対日本分析 (らいかーると 2021.11.18)
左サイドの内側レーンで田中が三笘のサポートをするとして、南野は中央レーンと右の内側レーンを共有しているようだった。日本の選手の特徴として、2つのレーンを共有しているくらいの自由度がある方が良さが出る選手が多い。その一例が南野で、右の内側レーンから開放された後はらしさを発揮できそうな雰囲気に満ちあふれていた。なお、その後に登場する古橋亨梧によって大迫も中央から開放されて元気になったことも見逃せない点だった。
[4-3-3]で5レーンに選手を当てはめていくよりも、2から3のレーンを選手で共有するくらいの方が日本の選手にとっては持ち味を発揮しやすいと感じさせられる後半戦だった。5レーンへの対策が進んでくる中で、隣り合うポジションは同じ列にいてはいけないルールを逸脱することで、相手が守備の基準点を見失ってしまうことが多くなってる。
日本のスターティングの4-3-3の5レーン配置に対してオマーンが余裕を持って対応して来て活路が見出し難かった前半から、三苫投入で4-2-3-1にシフト後の変化の話。フォーメーションそのものではなくて、特に左FWで先発の南野と左インサイドの田中碧が大外と左内側を交互に使っていた前半に対して、トップ下に移動した南野が(伊東と?)中央と右内側を「共有」するようになったその変化が大きかったという話。
"5レーン"を前提としてそこからどのように変化をつけるか使い方を工夫するかということ自体は各国各チーム/クラブが日々やっていることでしょうが、その工夫の活路の方向が"共有""曖昧化"の方に特にあるように見えるのが日本的特徴なのかもというらいかーるとさん。
問題はこれが"工夫"のバリエーションの一つなのか、"否定"に近いタイプのものなのか。らいかーるとさんご自身は何か色々予感しながら、あえて触れずに終えてる感じに見えますがそれはともかく。(笑)
思い出すのは例えば前回取り上げた、こういう話。
岩瀬「ただ日本人は、この線の内側なのか、外側なのかをすごく真面目に守る選手が多い印象なので、ピッチの白線に基づいた5レーンのように動かないレーンを基準にプレーすることは簡単である一方、柔軟に対応できないデメリットもあるかもしれません。状況によっては、レーンにとらわれすぎて、バランス良く立っているけど、人とボールが前に進まないことも起こり得ます」
守らせると守るだけになっちゃうけど好きにやらせると無秩序になる、これが両極端なので"中間""中庸"のポジショナルプレーの日本での実行に難しさがあるのかもしれないというのが前回の話。
では森保ジャパンの(らいかーるとさん観察による)バリエーション/運用をどう見るかですが、当面5レーンを"前提"にした変化なのは確かだし前提にあるゆえの変化の効力でもあったとは思います。ただもしこれを"スタイル"として継続しようとした時に、もう1,2歩ですぐ日本的無秩序に、"ザッケローニのゾーンをご破算にする本田・香川チーム"的な状態がすぐにも出現しそうな怖さが僕にはあります。それくらい、自分(日本人)で自分(日本人)を信用できないというか。(笑)
確かにあれから代替わりして、世界/欧州マナーへの馴染は確実に進んでるとは思いますが、個人差はかなりあるでしょうし日本人"だけ"で集まった時に起こる現象についてはまだまだ全然油断が出来ない。監督自身が日本人だというのもありますしね。せめてオシムくらいに(好意的ではあっても)客観的な立場の人が仕切っていれば、"遊び"を安定化させることも出来るかも知れないですけど。
だから今の所は、ポジショナルプレーの日本的運用とか"日本化"(笑)なんてことはそう簡単に怖くて言えない、あくまで"合わせる""学ぶ"方が当分メインになるべきだとは思いますが。らいかーるとさんの観察・言語化も、要は"レーン"という観点で言ってみたらどうなるか程度の話だと当面は理解していますが。
まあ"前半真面目にやって後半不真面目にやってみる"程度の使い分けなら、単純ですが単純な分安全で一定の効果はあるかも知れないですね、この試合のように。その場合でもやっぱり、"真面目"部分の効果をもっと上げる、構造を頑強にする努力は続けないと、恒常的効果は望めない、上のレベルで通用しない、下手するとあっという間に"不真面目"に呑み込まれる危険は感じる訳ですが。
とりあえずそこらへんにでも注目して、27日の中国代表戦を見てみようかなと、これは今思い付いた締め。(笑)
「笑いは求めていない」「話さなくてもいい」――Jリーグのメディアトレーナーが語る、アスリートの情報発信論 (玉利剛一 2021.10.07)
――東京五輪では、そうした発言内容が話題になった選手がいた一方で、喜友名諒選手(空手)のインタビューに代表される “沈黙”も言葉以上に伝わってくるものがありました。
「サッカーで言えば、久保竜彦さんのような“話さないこと”が自身のブランディングに繋がっている例もありますよね。メディアトレーニングをしていると、『僕は面白いことを言えないので、メディア対応が嫌いです』と言う選手が時どきいるのですが、アスリートに笑いは求めていない。ファンが面白いと思うことは笑いではなく、興味があることです。それを素直に話せばいいと伝えています」
今回唯一の無料記事。でもいい記事だと思います。
メディア対応についての"公式"のアドバイザーに対するインタビューですが、分かってる人だなあという感じ。
そうなんですよね、芸人や学者/作家(等言語の専門家)じゃないんだから、"面白いこと"を言う必要は無いんですよねスポーツ選手は。
面白いのは貴重なのは、スポーツ選手としての彼自身彼がしていること出来ることそのものなので、能弁だろうと訥弁だろうとプレーヤーがプレーヤーとしての自分自身に"正直"に言語化の努力をしてくれれば、そこに必ず何らかの面白さは発生するんですよね。逆に上手いこと巧みなことを言おうとすると、全然面白くないかあるいは"芸人"等と同じ土俵に立った別の次元の言語的面白さの勝負になってしまう。結果面白いか面白くないかはともかく、それはまた別の話。・・・まあたいていは三流の芸人がそこに立っていることになるわけですけど。
更に言うならば、そもそも言語的"面白さ"の重要な本質の一部として"正直さ""素直さ"はあるんだなとここ数年の経験として感じさせてくれたのが、別競技の話ですが女性プロ麻雀"プレーヤー"の高宮まり・茅森早香の両選手。


今でこそお二人は高宮さんは常に変わらぬ篤実で丁寧な受け答えで、茅森さんは飲み屋の女将的(実際にそうらしい(笑))な客あしらいの良さで、試合後コメントの外れの無さでは"女流"の愛嬌を差し引いてもMリーグで屈指だと僕は思うわけですが、MONDTVの老舗タイトル戦女流モンド杯でテレビ対局デビューした当初の二人は全く違ったんですよね。(茅森さんは'04年22歳、高宮さんは'13年25歳の時に共に初出場初優勝)
高宮さんは何を聞かれてもほとんどまともに言葉が出て来ず年齢を考えてもぶっちゃけ普通に地頭レベルで問題があるのではないかとしばらく疑ってしまっていたレベルのコメント下手でしたし、茅森さんに至っては、"塩対応"なんて表現では収まらないくらい、個別の質問の"内容"にではな質問"された"こと自体に怒ってるような、この人今テレビに出てること(しかも自発的に)分かってるのかなと不思議になる異常な愛想の無さ(笑)で、大概の変わり者は好きな僕ですら若干反感を持たざるを得ないような(だってインタビュアーが気の毒過ぎるんだもの(笑))コメント対応を毎回繰り広げていました。
それがまさかねえ。今日のような鉄板コメンテーターになるとは。
後に/時間が経つにつれて分かって来たのは、二人がそれぞれに、人並み外れて"正直"な人だということで。正直ゆえに、答えられなかった、言葉が出て来なかった。それが真相かと。
高宮さんは、これは今でもそうだと思いますが聞かれたことに常にある意味必要以上に、120%正確に答えようとする、そういう人なんですよね。そういう言葉のプロでも実は難しいことを、言語能力が特に高い訳でも職業的熟練がある訳でもない人が、メディア慣れもまだしていなかった時期にそれでもやろうとして、簡単に言えば実力が追い付かなかった言葉が用意できなかった、それによってただ"黙り込む"という反応になってしまっていた、そういうことだと思います。てきとうにそれらしいことを言ってその場をやり過ごすということが、技術的にもそうですけどそれ以上に性格的に、出来なかったんですね。
繰り返しになりますがメディア慣れした今でもそれはそうです。必ずしも"気の利いた"ことを言う人ではないですが、出来る限り正確に答えようとする突っ込み気味の姿勢自体は健在で、結果平凡なワードを用いていてもそこに必ず高宮さんなりの誠意や真実が感じられます。(だから"面白い")
茅森さんの方は、高宮さんにはない"狷介""偏屈"なところは確かにあって、それが塩対応の理由の一部にはなっていたと思いますが、ただそれは気取ってるというよりもやはり正直さ、競技者としての純粋性という形のもので、簡単に言うと自分がそれなりに命を懸けて行った選択/プレーを、そもそも他人に"説明"するという頭が最初の時点では抜けていたんだと思います。増して疑問を呈されたり他の可能性を示されてそれについて何かコメントするという行為の、意味が分からなかったのではないかと(笑)。それをあなたが考えるのは勝手だけど、どうして私が何か言わないといけないのかと。
極端なようですけど、本来プレーとそれに対する批評・コメントは、別の事なのでね。勿論別の技能でもあるし。だから名選手が名監督でなかったりもする訳で(笑)。そうは言ってもメディア社会の現代においては何かとセットにされがちではあるんですが、人一倍正直で北海道出身の素朴剛毅な(?)若き茅森さんには、本来の形通り、別ものであったのだろうと。(もう一つはこれは今でもそうですが茅森さんは特に手牌の方針決定に関して非常に即断的排他的な判断をする傾向のある人なので、それ以外の可能性との比較に余り意味を見出せなかったのではないかなと。そういうことを論じるのが、試合後"コメント"の主体な訳ですが)
ただ茅森さんは高宮さんに比べても所謂"頭のいい"人なので、やがて"見られる"自分"論じられる"自分というメタ的領域の存在を認知して、それ用の人格も形成していくようになります。そこらへんは"正直"一本でじりじりと適応成熟の道を歩んで来た高宮さんとは、違うところ。
中身は特に変わってなくて、あくまで新たに作った外交用の人格だと思いますけど。
一方で別の要素としては、若い時は「偏屈」として出ていた剛毅な気性が、やがて(元々そうだったのかも知れませんが)男っぽいサバサバとした、寛大で鷹揚な性格としても表現されるようになって、外交用人格のサービス精神とも矛盾が無くなって来ます。そうした要素の助けもあって、嘘はつかない白々しいことは言わないけれどサービス精神もある"客"あしらいの上手な、インタビュー対応の名手としての茅森さんが形成されたんだろうなとそういう感じです。
ほんといいんですよね、二人のコメントは。それぞれ。訥弁寄りの高宮さんと能弁寄りの茅森さんという違いはありますが、どちらもその場凌ぎのどうでもいいような言葉は決して発しない、必ず何らか"本心"に基づく"情報"がある。だから退屈しない。
そして究極、競技者にとっての"言葉"なんてのはそれさえあればいいんだと思います。競技者は競技者であること自体が価値であり特別性であるのであって、それを修飾する言葉の技巧でそうなる訳ではない。競技者としての自分、競技者として感じたこと感じていることと正面から向き合って言葉にする努力をしてくれれば、結果能弁だろうと訥弁だろうと何なら沈黙であろうとそれがその競技者にとってその時の正しい言葉であり表現であり、我々にとっても"面白い"コメントになるんだと思います。
正直素直率直、それさえあればとりあえず用は足りる筈。結果出て来る言葉に多少偏りがあっても説明不足だったとしてもそれはそれで構わないし、分からなければ"分からない"でも別にいい。"分からない"というのも立派な「情報」なので。分かる振りやその場凌ぎが一番情報として意味が無い。
・・・コメント/言葉自体が仕事であるならば、また別の要求もある訳でしょうけど少なくとも現役の競技者としてはね。
というようなことを取り分け感じさせてくれる、2人の元"コメント下手"女流プロ雀士の8年~10数年にわたる"成長"の軌跡よという話でした。(そっちがメイン?)
別に実際に10数年見続けて来た訳ではなくて、競技の特徴的に繰り返される再放送でそれぞれの時代を比較検討出来た、そのおかげということですけどね。
風間八宏はセレッソ大阪のアカデミーで何を変えるのか (竹中玲央奈 2021.11.16)
こちらはこちらで、「言葉」の問題。
極論、下手でもできるものを作るのではなくて、うまい人しかできないものを作らないとダメだということです
"『止める』『蹴る』『運ぶ』『外す』『受ける』"も"目を揃える"も、風間氏の指導内容や概念自体に価値が無いとは思いませんが、しかしこの言い方はどうだろうと思います。
上の"競技者"の言葉と違って指導者の言葉が可能な限りの一般性を目指す以上、やはり「下手でもできるものを作」った上で、「うまい人」なら尚更効果が上がるという構造を目指すのが、そういう"順番"で語るのが、やはり穏当なのではないか。いかに"極論"と前置きしたとしても、"うまい人しかできないもの"を作らないと「ダメ」というのは、やはり言い過ぎな気がします。その言い方が排除してしまうものが多過ぎるというか、"『止める』『蹴る』・・・"にとっても不幸というか。
そんな言い方さえしなければ受け入れられるかもしれないサッカーの重要な側面を、無駄に位置づけを難しくしてしまうというか。
さぞかし指導者内の"派閥"的なものと日々戦っているのかも知れませんが、それはそれで何とか心の内に収めてもらって、"分断"で票を集める的なアプローチはやめてもらいたいと、まあそんなこともないのかも知れませんが。
とにかく気になりました。どんないいことも、言い方で台無しに出来るので。
やはりもっと一般性をという注文は、日々受けてはいるようですね(笑)身内からも。ご本人もそれを受け止める気が無い訳ではない。川崎の時も筑波の時も名古屋の時もそうですが、練習の中で私がデモンストレーションをして『相手を外せばいいんだよ』『そこに出すんだよ』と言って指導している場面でも『何が見えているのかはわからない』とコーチに言われることがありました。『それをわかるようにしてもらわないと困ります』とも言われていて。接した選手であっても、私が何を見ていたのかわからない人も多かったと思います。そこから……ではないですが、自分が見ているものや感じているものを表現しなければいけないなと。
高度なレベルを目指しているから分かり難いというある程度致し方ない部分と、位置づけ/対象化が不十分だから(無駄に)分かり難い通じ難くなっている部分が、やはりあるようには見えますね。少なくともこのインタビュー記事を読む限りでは。
「日本」と「欧州」の差は埋まったのか?フットボリスタがJリーグを特集した理由 (ジェイ 2021.09.26)
――chapter2は育成についてですが、北さん(注・J特集号のマネージングディレクター)は実際にヴィッセル神戸のアカデミーを取材されて、バルサ化の状況をどう感じましたか?
北「ただの標語としてのバルサ化ではなく、思っていた以上に取り組んでいるなという印象でした。(中略)
サッカースタイルもそうなのですが、それ以上に、サッカーの言語やプレーの定義などを明確にしようという試みが面白いなと思いました。
浅野「神戸がやっているのは林舞輝さんの本にもあったパコ・セイルーロの構造化トレーニングに近くて、戦術的ピリオダイゼーションとは対を成すものですよね。簡単に言うと、世界でもバルセロナしかやっていない選手から逆算したトレーニングですが、それをものすごく本格的にやっている。
へえと思ったので紹介しますが、僕自身は何の責任も負えない記事。(笑)
トップチームの"バルサ化"の現状に肯定的な評価をする人は、僕の立ち回り先にはおよそ見当たらない今日この頃ではありますが。
下部組織ではそれなりのことが行われているらしい。浅野編集長がそんな出鱈目なことを言うとも思えないですから。(笑)
これから時間差でその成果が表れて来る、のか。
あるいはもう表れてはいるんだけど、現監督の(よく言えば)現実主義的なアプローチがそれを見え難くしているだけなのか。
今年も潮音はお世話になる事ですし、まあ期待しておきます。(若干棒読み気味)
それにしても、少し意外な記事でした。(笑)
てっきりもうそういうのは無かったことになってるのかと。
聞いてみないと分からないものですね。
まあ大きなクラブ程トップとそれ以外は別物になりがちという例なのかもしれない。
以上。
そうした"成果"の一部を過去「無料記事編」「有料記事編」の2回に分けて放出しましたが、数か月ぶりにまた契約したのでその中から引っ掛かりのあった記事を。
なお前回悩んでいた"有料記事の引用"をどうするか問題ですが、この間(かん)の別の契約期間中にツイッターの方でいくつかやった"引用"に対して、footballistaの公式がその都度リツイートしてくれた(例)ことから判断すると、余程長々とやらない限りはむしろ歓迎してくれそうな感じなので、今回もさじ加減に注意しながら有料部分についても、適宜使って行こうかなと。
と言いつつ最初は2年以上前の使い残しの無料記事から。
対談後編:結城康平×らいかーると「ポジショナルプレーVS和式」論争 (足立真俊 2019.08.13)
結城「ポジショナルプレーの考え方は、それほど属人的ではありません。同時に、厳しく選手を戦術で縛りつけるわけでもない。そういったバランスこそが、ヨーロッパで成功を収めている要因だと考えています。スペイン人指導者の言葉を借りれば、ヨーロッパは日本と比べて個人主義的なので『我が強い選手たちを、自分たちが操られていると感じない状態』でチームの戦術の中で動かすために『ポジショナルプレーという基準』が求められてきたという考え方も存在するようです。
属人ではないけど縛り・操作でもない。"個人"でも。"組織"でも。
2年前の記事ですが、これはポジショナルプレーの結果的な本質として、結構あるよなと僕も思います。・・・"結果的"というのは、別にその為に作られたものではないだろうということですが。ただ結城さんの言うようにそれが"普及"に大きな役割を果たしているなら、無視は出来ない"結果"論。
僕自身の問題意識で言えば、これは何度か書いていますがオシムの代表を見た時に、独特の違和感というかはてこれは「組織なのか個人なのか」、代表で言えばトルシエや加茂・岡田のようなそれ以前の"組織"的サッカーと同じタイプの把握をしていいものなのかどうかという疑問を感じたのが、時期的には最初。特にオシムの"アジア杯"仕様、俊輔・遠藤・憲剛のファンタジスタ3人を同時に"使う"前提で組まれたようなチームを見た時に、これジーコの発想とそこまで対立的ではないよな通じる"個人"ベース性があるよなと、個人/組織の対立図式の前提性が揺らぐのは感じましたね。だからポジショナルプレーが出て来た時に、すぐ同じ匂いを感じる事は出来た。"新しさ"の性格というか。
話戻して結城さんはその後「より協調的・集団主義的な性質を持った日本人とポジショナルプレーの相性は悪くないのかもしれません」と続けるんですが、これについてはそうかな?という部分が僕はあります。その後の日本における普及の状態を見ても。
つまり日本人は個人のひらめきというか、よくある言い方で言えば"アイデア出して行こう"でプレーするのは、得意と言えば得意。少なくとも慣れてはいる("悪癖"になってるというか(笑))。一方でこれもよく言われるように、こうやれと細かく指示されたことは真面目に忠実にこなす。ではその中間は?バランスは?
これはちょっと前提自体が限りなく仮定で僕自身も何とも言えない所があるんですけど、仮に永井ヴェルディも勿論含む"日本人によるポジショナルプレー"、日本におけるポジショナルプレーの受容・理解に現在遅滞が見られる苦戦が続いているという状況があるとするなら、その原因の一つとしてポジショナルプレーの中庸性どっちつかず性があるという可能性はあるかなと。理論的には、結城さんの言うようにそれが"ヨーロッパ人選手的な我"(の強さ)をあくまで前提とした「バランス」であるなら、そこの"変数"が変わることによって必要な"計算"や"式"も変わって来る可能性は当然ある。現象としても、ヴェルディの発揮すべき個人能力も戦術遂行の為の真面目さも両方備えているように見える選手たちが、変に戸惑っている、自由と規律の間で宙ぶらりんになっているように見えることがままあるという、そういう心当たりは無くはない。
ただ現協会首脳部を筆頭にまだそこまで日本全体としての取り組みが進んでいるとは言えない状況ではあるでしょうし、ポジショナルプレー的発想の存在が当たり前の世代の選手たちへの単純な代替わりを見てみないと、向いてる/向いてないみたいなことは最終的に言えないとも思います。そもそも"進んでない"と言えるのかどうかも、正直何とも言えない。J2レベルでも導入を進めているチームは少なからずありますし、意外と優秀なのかも知れない。代表チームがあれなので、どうしても"国"全体の印象は悪くなりがちですが。
・・・というようなことを読んだ当時考えていた訳ですが("2年前"ではないと思いますが)、それと関連しそうな今年の記事。
岩瀬「ただ日本人は、この線の内側なのか、外側なのかをすごく真面目に守る選手が多い印象なので、ピッチの白線に基づいた5レーンのように動かないレーンを基準にプレーすることは簡単である一方、柔軟に対応できないデメリットもあるかもしれません。状況によっては、レーンにとらわれすぎて、バランス良く立っているけど、人とボールが前に進まないことも起こり得ます」
浅野「それこそポジショナルプレーも、より個人主義的な欧州だからこそ生まれた側面がありますからね」
(「岩瀬健と考えるポジショナルプレー(前編)」 [2021.09.30])
浅野編集長のは、ストレートに結城さんのコメントが念頭にあるのかな?やっぱり。(知りませんが笑)
やはり何か、こういう問題はある気がしますね。決まり事に従ったらいいのかいけないのか、割と"二択"的に迷ってしまう日本人的問題。
次にではその岩瀬健氏×浅野編集長対談記事から。(有料)
日本サッカーに根づく「中重心」とは何か。 岩瀬健と考えるポジショナルプレー(前編) (フットボリスタ・ラボ 2021.09.30)
岩瀬「僕が最初にポジショナルプレーに触れたのは1998年、選手の時にピム・ファーベックというオランダ人監督がやってきて、攻守において自分たちのポジショニングを示していました。今振り返ってみると、まさにポジショナルプレーのような考え方でした。
1998年か。
李国秀のヴェルディ総監督就任が1999年。
何となくオリジンというか、時代の風景が見えて来るような気はします。"草創期"の風景。
ピム・ファーベックは1998途中~1999年の大宮アルディージャの監督。(Wiki)
岩瀬健氏はちょうど同じ時期に浦和から大宮に移籍して来た当時MF。(Wiki)
岩瀬「ここ10年間は異常なスピードでポジショナルプレー的な考え方が入ってきていると感じます」
その後引退して指導者になった岩瀬氏(今季は大宮の監督を春先に解任)ですが、(1998年)当時からそうしたことを意識して来た氏の体感は、信用出来そうな気がします。やはり今急激に"ポジショナルプレー的な考え方"が浸透している最中なのか。
話変わって。
岩瀬「これは僕の個人的な意見ですけど、中が最優先、中が閉じていたら外に振るというものが日本サッカーに根づいてきたベーシックな形だと考えています。僕はそれを『中重心』と呼んでいて、中重心の時はそういう攻撃の作り方をします。それは相手が均等に散らばっている前提で、中を狙えば相手は閉じるから外が空くという理屈ですけど
岩瀬「『中を使わないと外がフリーにならない』というふうに考えるのは、指導者でも選手でもよくあります。
外を開ける為に一回中に集めるという"手続き"自体は万国共通ですけど、それはそれとしてやはりしばしば盲目性が際立つ、真ん中に殺到しがちという日本的"悪癖"の、"プレーモデル"性。
やはり個々の戦術という次元を越えた半(くらいだと思いますが)意識的な"共有"が、実際存在しているのか。
僕の立場から一つ言うと、"根づ"くとは言っても例えば~1998年フランスW杯の加茂/岡田ジャパンの時点では、むしろ日本人の中央攻撃やパスサッカーなど世界に通用しない、だから徹底サイドだショートカウンターだという前提で、"国の"サッカーは構成されていたわけですよ。(中田ヒデの異能一発スルーパスは、例外的クオリティで許されてましたが)
更に遡れば讀賣クラブの"中央突破"が「革新」だったのは、要するに出来ないのが"普通"だったからな筈な訳で。
その後トルシエ以降、徐々に自信をつけ始めていつしかお家芸化して行く訳ですが、いずれにしろそんなに起源の古い"ベース"ではないのではないかという疑問はあります。ただその割に根深い印象は確かにあるので、国内レベルの何か古い伝統と近年の国際的な"自信"が、妙な結合をして出来上がったものなのかも知れませんね。現協会だった乗っかってるだけで、別に彼らの誰かがある時点で広めたものではないように思いますから。
クラマーだって杉山から釜本のセンタリングアタックですしねえ。あったとすればどういう伝統なんでしょうね。さすがに古過ぎて僕も何かを見て言ってるわけではないですが。
指導現場で続く、理論を感覚へ落とし込む試行錯誤。岩瀬健と考えるポジショナルプレー(後編) (フットボリスタ・ラボ 2021.10.02)
浅野「日本サッカー全体の課題としては、ダブルボランチが両方とも高めの位置に行ってしまい、カウンターを受けた時にCB2人しかいないというポジションバランスの悪さが目立つ時がありますよね。狭い局面に人数をかけているから独特な崩しができているメリットはありますけど、カウンターを受けた時の立ち位置に関しても5レーンで整理できたりするのではないでしょうか?」
(中略)
岩瀬「ポジションバランスが悪い中、中央から突破される。このような状況のカウンターに対してどう守るかのアイディアを持っている指導者は、たくさんいると思います。(中略)おそらく10年後とか、15年後ぐらいになれば、数的不利へのカウンター対応が上手い選手はたくさん出てくるはずです。理由は、そういうカウンター対応の考え方を指導者が理解しているからですね。
後編。
引用しといて最初気付かなかったんですが、何か面白い事が話し合われてますね。
つまり"ポジションバランスの悪さ"という特徴をポジショナルプレー(5レーン理論)で矯正するのではなくて、特徴はそのままに(バランスは悪いまま)その弊害をポジショナルプレーで緩和・対応する可能性が、話し合われているよう。
和洋折衷というかポジショナルプレーの日本化というか(笑)。浅野さんはどちらかというと"矯正"の可能性について問うて、それに対して岩瀬さんが"対応"の可能性で答えている感じ?
岩瀬「現状は理論としてはあるけど、感覚に落とし込めていない。しかし、サッカーのロジックについては溢れていますし、カウンターの攻撃や守備に対して、攻めながら守るやり方をチームやグループで共有していたり、CBとGKの個人練習で数的不利の守り方をトレーニングしている指導者はたくさんいますから、あとは時間の問題だと思います」
タイトルにあるように大テーマは理論の感覚化で。それについて編集部は割とストレートに"学習""浸透"的に設定したつもりが、知ってか知らずか岩瀬氏が独自に"日本化"的に答えている。そういう形でしか"感覚"化が難しいと考えているのか。ポジショナルプレー的な洋式"ロジック"についても、大いに利用はするんだけどそれはしかし一回取り出して文脈を組み直す(日本化する?)形で利用しようとしている。
それら学習と組み直し、全部ひっくるめて(前編で言っているように)普及自体は急速に進んでいるので、いずれ成果は現われて来るから待ってて下さいと。
まあ15年待つのはややしんどい気はしますけど(笑)。もう少し早く、お願いしたい。いずれ宿題は他にも切りなく出て来るでしょうし。
岩瀬「ポジショナルプレーでハーフスペースや5レーンを質的な優位と数的な優位を効率良く最大化させると考えた時に、監督のアイディアと選手の心地よさが、マッチしない時もあると思います。その時に、目的だけを明確にして手段は選手に委ねることが、最適な状況に繋がることもありますよね」
"監督のアイディアと選手の心地よさがマッチしない時もある"こと自体は、どの地域どのレベルでも起こり得る問題。
ただ本家ヨーロッパでは"心地よさ"についての選手の我の強さが自ずと作り出していた両者のある種のバランスが、日本では選手が従順過ぎることによって同じように取れないことがままある(という岩瀬氏の前出の観察)。そこで意識的に選手に委ねる部分を増やすことによって、ヨーロッパで機能していたようなバランスを"再現"しようと試みたりもする的な話。それが日本の場合の"最適"化というか。
まあ"目的だけを明確にして手段は選手に委ねるというのは、実はポジショナルプレーの方法そのものでもあって'(それが"選手を戦術で縛りつけるわけでもない"[結城]ということ)、だからその"委ねる"部分を強調した教え方をするというのは原理的にもありはありなんですが、日本の"学習"段階を考えると若干危険な匂いもしなくはない(笑)。緩め過ぎて元も子も無くなりそうな不安が。具体的には結局、今後の進捗具合、あるいは「岩瀬監督」の作るチームを実際に見て是非や匙加減を考えたいという結論にはなりそうですが。(正直今までちゃんとは見てなかった笑)
ネタ自体はあといくつかありましたが、内容的にまとまりがいいようなので今回はここまでで。
まとめるとポジショナルプレーには組織と個人("監督"と"選手")の等価的中庸的なバランスという特徴が一つあって、(組織プレーの厳格性ではなくて)その中庸性自体が日本人の学習の阻害要因になる/なっている可能性があると。例えば日本人指導者の中でもポジショナルプレー歴の長い部類の指導者である岩瀬健氏は、それを鑑みて日本人用のニュアンスの調整や文脈の組み換えを日々努力模索していると、将来的なその成果の現れに自信を持っていると、そういう話でした。
僕がブログで書いた(ている)ことについて、理解の参考になりそうな他の人の言葉をたまたままとめて見つけたので、今日はその紹介をしてみます。
元記事
「ジュニアサッカーを応援しよう!」倉本×坪井対談('19.3.8) 感想('19.3.13)
ただ僕の関心は少し別なところにあって、日本人選手が観客にも分かるような変な判断をするのは、それが高度に戦術的なプレーの場合ならばそうしたプレーについての知識や経験・訓練の不足という話になるのかも知れませんが、それこそ倉本氏が上で挙げたような基本的なプレーについての場合は、むしろ"本能"が機能していない、発露が妨げられている、そっちの方が理由なのではないかと、僕は思っているところがあります。
スペースがあって人がいてボールがあって、その場にいる人間の走力等が直観的に計算出来れば、特別なプレー経験が無い人でも容易に出来るような危険の予測成功の目算を、知識や被指導経験があることによって逆に出来なくなっている、そういう状況なのではないかと。
なぜなのか、どういうことなのかというと、要は"知識が足りない"派の人の言うこととは逆で、むしろ日本人(選手)にとってサッカーが「知識」であり過ぎる、その圧迫感やそれへの劣等感が強過ぎる、(未だ)「外来」文化であり過ぎる、それが選手たちの、"本能"とも言うべき当然の自主的判断の発露を妨げ、指導者の指導のバランスや優先順位を歪ませている、そう思えるところが僕にはあるわけです。
常に「手本」を探す、「模範解答」を求める、「素晴らしい」「完璧」なサッカー・プレイではないといけないように思う。それが目が見えれば(笑)誰でも出来るはずの当然の状況判断や危険予測や利害計算を妨げる、当然すべき注意をすっ飛ばして妙に理想的な状態だけを念頭に置いた指導を行わせる。
通じるのかな?と当時書いていて少し心配していた(笑)箇所ですが、例えば西部謙二さんは、"鹿島の強さ"に触れたfootballistaのインタビュー(『鹿島アントラーズ常勝の必然。』'17.11.24)で、こんなことを言っています。
日本人には言われたことや決まり事をしっかりやる良さがある半面、今現在の状況を判断するセンサーが働かなくなりやすい傾向があると思います。
鹿島やブラジルのサッカーは良くも悪くもシンプルなので、ピッチ上でプレーしている選手は戦術遂行についてはそんなに考えずに済む。呼吸するようにプレーできるので、試合中は相手を見てサッカーができます。
ただ、(飛び抜けたクラブ規模を持つわけではない)鹿島にこれだけ勝たれてしまうJリーグの他クラブにも問題を感じますけどね。鹿島ならほとんどやらない判断ミスがけっこうあります。
高度な戦術を理解できる反面、基本中の基本が抜けてしまうというのは意外と起こることです。試合の流れを読み間違えない、試合巧者の鹿島がそれで優位性を持っている現状には少し複雑な思いもあります。そうした試合を読む力は、ある意味誰でも身につけられるものだからです。本来、そこはあまり差別化できない部分だと思うんですよね。
僕の文章の"赤"が西部さんの言葉の"赤"に、"青"が"青"に、"緑"が"緑"に、"紫"が"紫"に、"太字"が"太字"にだいたい対応していると読んでもらえれば、言いたいことは分かると思います。
「問題を感じます」「複雑な思い」「本来、そこはあまり差別化できない」といった西部さんの言い方は、恐らく僕と共通するいら立ちや問題意識を表しているのだろうと思います。
こういうのはヨーロッパからいくら"最新の知見"を輸入しても解決しない、下手すると悪化するようなタイプの問題だと思います。知識の個別の"内容"が問題なのではなくて、"受容"の仕方の問題なので。新しいも古いも無いし。
どうも海外に"行った"選手の帰って来てのプレーを見ても、余り変わっていないというか単にそのリーグの「基本」「常識」を身に付けているだけのように思うので、根の深い問題だなあと。
日本では試合をやっていて点差がわからないという選手が普通にいますよ。今、スコアがどうなっているのか把握していないでプレーしているわけです。
マジですか。(笑)
でも否定出来ないです。ありそうです。(笑)
元記事
・・・は特に無いです。僕がいつも書いているようなこと。
関連したつぶやかれた一連のツイートからの抜粋ですが、一応テーマを二つに分けて。
"人格の剛性"
>>RT
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
これ、人のパーソナリティの問題になってくるんだけど、人を集めて集団をまとめ組織をつくるって時に、ある程度「人格の剛性」ってのが必要になるんだよね
常に柔軟に考えようとする、柔軟に考える事に凝り固まって、フラフラとあっちいったりこっちいったりで柔軟に考えられなくなる、みたいな
臨機応変に対応するには、人格に一定の剛性が必要であるのと同じ様に、戦術には気持ちが必要になる。
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
まずは気持ちという剛性がなければ、戦術という柔軟性は身につかない。
「剛性」とは。
簡単に言えば、むしろある程度の「剛(かた)さ」が前提にあるから、"柔軟"になれるという話。曲げやねじりの力に対する、寸法変化(変形)のしづらさの度合いのこと。(Wiki)
柔軟な集団(チーム)を作りたければ、先に剛さが確立されていないといけない。
・・・そういえば上の「鹿島」も、シンプルで不動だから柔軟に戦えるチームの例でしたね。
"戦術"と"気持ち"
戦術と気持ちは順番でしかない。
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
頭で分かっていても感情面でやりたくない事に対して「やれ」というのは非効率でしかないんだね。
だから、まずこれをチームビルディングで整理する。自分達のしたい事(したい努力)とゲームの基準を一致する様にする。
好きな事をやると強くなる
という環境にする
その為には自分達がやりたい事、好きな事という「人格面から発生する感情・主観」という気持ちが不可欠なんだ
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
ゲームに対して抱く気持ちがあって、それに呼応する様に戦術が決まってくる
「気持ち」という主観的な基準こそが努力の方向性を決める。それを客観基準と一致させるのがチームビルディング
【まとめ】
— トニーのおっさん (@tonynoossan) 2019年5月23日
「気持ち」は人間の感情面から発生する主観的基準です。
「戦術」はゲームの勝敗という客観的基準に合わせた戦い方です。
チームビルディングとは主観的基準を客観的基準に合致させる作業を指します。
「好きな事をしてたら上手くなった」
という状況を作るのが目標です。
何らかのの意味でやりたいことしか上手く行かないし、知っているだけで得意(つまりやりたい)でないことをやっても強くならないという、どちらかというと「監督」について僕が日頃言っている事を、主に「チーム」について論じている箇所、ですかね。
チームに対して僕がそう思わないわけではないんですけど、ただこれをいきなり言うとどうも"甘やかし"になり勝ちなので(笑)、チームにはギリギリまで努力を要求しつつ、ただより「個人」でありかつ影響力の誤魔化しの利かない監督についてはむしろ早めの見切りを要求する傾向が、僕にはありますか。
このツイート全体については、要は「柔軟性」や「選択肢」の話をしてりゃあ済むと思うなよ?、必ずしもそういうことの優先順位が高くない場面は多いし、そもそもそれ"以前"に必要な、前提となる(あえて言えば柔軟でも客観的でもない)ことが色々とあるんだよという、そういうつまり僕がここ数年馬鹿の一つ覚えのように言っている話。
・・・を、普段特に「日本代表」「日本サッカー」について、鋭い意見だけど今一つ合いそうで合わないなあと、流れて来るツイートを見ながら思うことが多かった人が言っている(ように見える)ので、面白いなと。
そういう話です。(笑)
選手の「新しい環境に順応する力」はどのようにして磨かれるのか。
— ジュニサカ【ジュニアサッカーを応援しよう!】 (@jr_soccer_) 2019年3月8日
坪井健太郎氏と倉本和昌氏は、「どこでも通用する戦術」を教える必要性を説きます。#ジュニサカ #少年サッカー #ジュニアサッカーhttps://t.co/4Fp2znMxnY
面白かったので、細々感想を。
"評論"ではないです。僕がよく「本」についてやるようなのを、web対談に対してしてみたということ。
イニエスタの"変化"
やっぱりそうですよね、僕もそんなに神戸の試合見てないですけど。坪井 イニエスタってちょっとプレーが変わったと思うんだけど、どう? 日本に来てから。全試合見ているわけではないからわからないけど、むずかしいプレーを“あえて”選択するようになったと思う。多分バルサにいる時はシンプルに味方に預けておきながら、自分が動いてというイメージ。でもヴィッセルだと、自分がやらなきゃいけない。自分で状況を崩さなきゃいけないことが多いから、ちょっとむずかしいプレーを選択しているな、と。(p.1)
来日初戦を見た時は、上手いけど正直大勢に影響無さそうだなという印象でした。そこだけクオリティが上がっても、低いよりは高い方がいいけどそれはそれだけのことというか。バルサの時のように"11人の内の1人"という使い方だと周りのレベルとの整合性が取れないので、もっとベタベタに"トップ下"として使うか、"2トップの一角"として9.5番的に使うか、でもそれだと「イニエスタ」じゃなくてただの上手い選手だよな、なんか寂しいよなと悩んでましたが。
結果としてイニエスタ自身が仕事の範囲を広げたこととリージョ監督のもと神戸のプレーがより整備されて来たことで、最近では随分そこら辺が改善されて来たというか、イニエスタが比較的"イニエスタ"のまま、"大勢に影響"を与えられるようになって来たようですね。
という"イニエスタが凄い"という話なんですけど。坪井 うん。それはでかいと思う。俺がやるしかない。自分でやるしかない。それを変えられるのは本当にすごい。何もなかったかのようにさらっと変えてしまう。適応力の塊なんだよね。(p.1)
ただ別にイニエスタじゃなくても、昔から特にブラジル人助っ人たちが、Jリーグにやって来て意外な変貌を遂げる、9番のつもりで獲った選手がいつの間にか器用に10番をこなしていたり、中盤の守備の要として獲った選手が結局一番上手いのでゲームメーカーとして機能していたりというのは、割りとあることでしたよね。それを見るたびに、彼我の"絶対能力"の違いに暗澹たる思いにかられたものでしたが(笑)。ポジション適性なんて、その"次"の話だなと。
イニエスタの場合はむしろ、バルサという特別特殊な環境で出番の無かった能力が必要に応じて出て来ただけという感じで、そんなに驚きは僕は無いかも知れません。ただそれが(僕が当初想定した)"コンバート"というようなあからさまな形でなく、チーム自体の質的変化と上手く協調しているようなのは、興味深いですが。
「普遍的な戦術」と「プレーモデル」
ふむ。言わんとすることは分かるんですけどね。坪井 今、チーム戦術も一般的な戦術とプレーモデルに近い特質性の高いものをきちんと分けて整理しなくてはいけないと思っていて。
要はプレーモデルというものをざっくりどういうものなのか説明すると、とあるチームAでは機能するけど、違うチームBに対しては、同じプレーモデルは機能しない。だけど、普遍的な戦術というのは、どのチームでも機能するもの。この普遍的な戦術というものを育成年代できちんと教えないと、チームAで通用するものだけを持って、次のチームに行ったときに活きないんです。(p.2)
では具体的にこの二つをどう区別したらいいのか、逆にいきなり「普遍的な戦術を教えよ」と言われたとしたら、何を教えたらいいのか。そんなものがあるのか。悩ましい感じがするんですが。
例えば、僕がサッカーについて考える時にいつも引き合いに出すお馴染みの顔ぶれですが(笑)、李国秀やイビチャ・オシムは、言わば「普遍的な戦術」を、ヴェルディやジェフや代表の選手に教えようと学んで欲しいと、特に努力していた監督(指導者)だと思います。ただ結果としてこの二人のチームが実行しているサッカーが全く違うことから分かるように、結局はある特定の"サッカー"像、あえて言えば"プレーモデル"を前提としてしか、「普遍的な戦術」も決まらないのではないか、少なくとも"教える"ことは出来ないのではないか、そういうことはどうしても思いますね。二人の"普遍"のどちらかが間違っているとか、あるいは共通性が全然無いとか、そんなことは思いませんが。
そうであるならばもしそういう特定のサッカー像・プレーモデルを極力排して教えるとすれば、結局は対人動作などのミクロな局面にどうしても限られることになる、それが「それは技術っていう解釈になっているのでは。(中略)戦術っていう解釈じゃないんだよねきっと」とここで言われているような指導の状況にも繋がっているのかも知れない。
・・・というのは原理的な話ですが、実際は多分、「プレーモデル」というタームの近年の具体的な勃興があって、それとの対比で、それへのリアクションとしてこういう議論が出て来ているのだろうと。だから現場レベルではそこまで悩ましいことでもない可能性があるかなと。ある程度やるべきことは決まっているというか。
と、思いながら読んでいたら。
うん。だからそうなんだろうと思うんですよね。坪井 今危惧しているのは、日本ではプレーモデルなど特質性の高い話がトレンドになっていて、それを鵜呑みにして小学校3、4年生に対して同じプレーモデルだけやっていたら、その指導を受けていた選手は将来困ることになる。
スペインがまさにそう。今僕のチームの高校生年代の選手たちが、小学生年代の頃にプレーモデル、特質性の話がすごく流行ったんですよ。で、その子たちが10年間指導を受けてきたのは、そのプレーモデルの話ばかりなんですよ。(p.2)
恐らく直接問題になったのはある特定のないし限られたプレーモデルによるプレーが過度に一般化したことで、それによる具体的な偏りに対する問題意識から、"普遍的な戦術"という視点が出て来た。最初からこの二つが別に考えられていたり、一切のプレーモデルに基づかない中立的な戦術が存在するというよりも。
一方で「プレーモデル」自体の問題ということも考えてみると、例えば我がヴェルディの渡辺皓太選手が、試合によって監督によって、機能性の大小が極端に分かれたりする現象(参考)。一定以上の完成度のあるいは自分に合ったプレーモデルで行われた試合に対しては爆発的な適応性を見せるけれど、そうでない時はまた極端な消え方をする。これなどは選手個人のタイプと共に、"プレーモデル"という高度に具体的特定的な水準に依拠し過ぎる育成の問題の存在を、想像させるものではあると思います。
まあ結局のところ坪井氏が"見た"ものを見ていない僕にははっきりとは分からないものなんですけどね、日本における「プレーモデル」概念の新しさ、使われるようになっての日の浅さという問題含めて。
"普遍的な戦術"の例。坪井 カタルーニャのサッカー理論だと攻撃は『深さ』と『幅』と『マークを外す動き』。守備では『マーキング』と『カバーリング』と『ペルムータ(入替・交換)』。これはどこに行っても使える個人戦術なんですよ。(p.2)
なるほど。確かに普遍的な要素であるように見えますが、特に攻撃の方は、一定の具体的な攻撃の仕方を想定したスキルのようにも見えなくはない、かな。まあ分からないです。「普遍」と言いつつ実際には、ある程度プレーする舞台が限られて想定されているのかも知れないですし。
余談ですが最初ここを読んでん?と思ったのは、これが"カタルーニャ"の話であること。なぜなら僕らが「プレーモデルありきのスキルの問題」と言われてまず思い浮かべるのは、恐らくその"カタルーニャ"のバルサのプレースタイル、下部組織からトップまで徹底的に同じプレーモデルでするというそれで、それによって例えばブスケツのようなバルサでは欠かせないけれど他クラブから大金で誘われたりはしない(と言われる)タイプの選手が量産されたりするという、そういうイメージだろうから。あんたらが言うのそれ?みたいな。(笑)
まああくまで一例ですし、だからこそ(カタルーニャでは)問題意識が高いということなのかもしれませんが。
日本人の"国民性"問題
ありますよねこういうのは、大きな分かれ目として。"行く"のが前提なのか"行かない"のが前提なのか。同じ状況で。サッカーだけでなく、"対人"関係全般であると思います。(笑)倉本 それは国民性もあるかもよ。止まれって言わないと止まらないもんね。スペイン人は。日本人は行けって言わないと行かない。(p.3)
行く人(国民)はとにかく行く(笑)のでそれは別に目算があるからではないし、行かない人(国民)が行かないのも、必ずしも目算が無いからではない。
同じ状況、あるいはグレーゾーン。行くべきなのか行べきでないのか、明白でない状況。想定練習のしづらい状況。そこで「行く」国民には、「行く」前提の指導をしないといけないし、「行かない」国民には、行かない前提の指導をしないといけない。坪井 相手のプレーがグレーゾーンのときに『待つ』という言葉が頭の中に残ってしまっていて、相手がドリブルしてきたときに、自チームの2トップが相手を簡単に前進させてしまったのを見たときに、日本人はまず(プレスに)行かせることを覚えさせなきゃ行けないなと思った。(p.3)
例えば去年までのロティーナヴェルディで、"行かない"戦術を取った時に過度に行かなくなる、行くべき状況に見えるのに行かない現象がしばしば起きたのも、そこらへんの匙加減の難しさに、ロティーナが苦労した結果なのかも知れませんね。
木之下 『行かせる』という言葉もむずかしいですよね。僕は「ボールに近い人が守備を決めるから、まず行け」と子どもたちにも指導者にも伝えています。そうすると行くんです。あまり細かいことは決めなくとも前の選手が行けば、後ろの選手は「この人が行ったら、周りの人はこれぐらい行かなきゃあいつだけだと間に合わない」と自然と身につくようにしていく。(p.3)
指導のごく具体的なノウハウの話。面白いですね。倉本 (前略)鬼ごっこでは、絶対捕まえようとするでしょう? 「そこにたまたまボールがあるだけだから相手を捕まえに行け」と言ったら、小学校4年生以下の子どもだったらだいたい今までよりも近い距離感でボールを取りに行く。プレッシャーの距離は絶対変わります。(p.3)
これは子供の話ですけど、例えば日本代表を率いることになった外国人監督とかでも、結局はこのレベルの問題に、向き合わざるを得なくなることがあるのではないかと思いますし、その時に"分かるだろう"とか"日本人はおかしい"で済ませては、いけないんだろうと思います。"鬼ごっこ"がもし必要なら、代表監督だって自分なりの"鬼ごっこ"を考える必要が、あるだろうと思います。そこまで含めての"能力"というか。
「結果」(を出す)というのは、そういうことだろうと。
日本人選手の"切り替え"に連続性が無いという話。予測が足りなくて立ち往生しがち、一歩遅れがちという。倉本 (前略)「あ、もしかしたら取られそうかも。あ、取られた→切り替え」ってなるけど、そういうことをあまり気にしていなくて「あ、取られた。まさか…!あー。→切り替え」という感じになっていると思う。
逆をいえば「あ、取りそう」も同じ。「取りそう」でゴーするのと「取った」でゴーするのとではカウンターのスピードは変わります。その雲行き探るのが苦手なんだと思う。(p.3)
このページの冒頭で「国民性」という言葉を使った倉本氏には、ここでの"苦手"という言い切りにも特性論的なニュアンスを割りと強めに感じるんですが、それについてはどうだろうという疑問が、僕はあります。
"雲行きを探る"とのことですが(これ自体はバクスターの言葉)、あれ?"空気を読む"のは日本人のオハコじゃなかったの?「国民性」じゃなかったの?という。(笑)
それ自体は半分冗談ですが、しかし日本人が特に、本来的に苦手だという前提は、持っているならば少し乱暴な想定ではないかなと。現状"下手"なのは、事実なのかも知れませんが。
と、思っていたら。
スペイン人も"事実"としては苦手で、"探れない""読めな"くて、そしてそれを前提に、スペインでは指導の方が対応しているという話。坪井 スペイン人もそう考えると、止まるのかなってちょっと思った。ようはボールを取られて「おーい!」のような。それはスペインの場合、指導者は「見てないで続けろ」と言うわけじゃん。(p.3)
この調子で世界各国の事例を集めれば、日本人やスペイン人の"本来"が見えて「国民性」問題を論じることが出来るのかも知れませんが(笑)、とりあえずそこは離れたい。
むしろ「日本」「スペイン」という国名から検討する必要があるかも知れないなと思うのは、日本は今でも、スペインも比較的最近まで、"サッカー先進国"ではなかったという問題、その反映としての"雲行きを探る"能力の全般的な低さという可能性。
例えばイタリア人なりブラジル人なら、そこら辺の能力がより染み付いていて、特に教える必要が無かったりするのかも知れない。これも結局は、事例(研究)の問題にはなりますが。
・・・次のp.4では、ここらへんの話が更に全面的に展開されています。
思いの外内容が薄かった(単純に量的に)ので、"あとがき"も併せて。
それでもだいぶ薄め。(笑)
外れるのはカズ、三浦カズ
p.365
「でもフランス大会は、力がなかったかもしれないけれど、僕はスタメンじゃなくても、チームが勝つためには必要だったんじゃないかな、とは思います。ただしそれはあくまで監督が決めることですけどね。」
フランスでの"カズ外し"については、多分書いたことがあったと思いますが、せっかくなのでカズ自身の言葉に合わせて改めて。
僕は「入れておいた方が良かった」派です。
でもそれは「城中心で行く」という岡田監督の方針が間違っていたということではなく、むしろ"中心"で行く城のプレッシャーを軽減してあげる為にも、カズは入れておいた方が良かったということです。単純に"余計な波風を立てない"という意味でも。戦力的には、他に誰を入れても大差無かったはずなので。
"戦力"としてのカズは、この本でも告白しているように実際調子は良くなかったようですし、「中田ヒデのパスの受け手」という意味でも、そもそも余り適しているとは言えるタイプではなかったでしょう。だから"方針"は間違っていない。基本的には。
ただ既にジョホールバルでは「最初にゴン・カズのベテランをプレス要員として使い倒しておいて、その後相手が疲れたところに城・呂比須・岡野の"本物"の攻撃の駒を投入する」という用兵を成功させていたわけで、なぜそれじゃ駄目だったのかなと、聞いてみたいところではあります。予選で何の実績も無い平野(本大会でも結局)を入れてまで、わざわざカズを外して波風を立てる必要は、やはり無かった気がします。
要はまだ若かった岡田監督が、後に発揮される"老獪なマネジメント"の部分よりも、平野・伊東テルという若手を入れての"理論的な最大値"の方に走ってしまった、更に言うと「物事をはっきりくっきりさせたい」という若い衝動(笑)に溺れてしまったと、そういうことだと思いますけどね。
それで笑って許すには、カズや北澤の"傷"は余りに深いとしても。
名波のジュビロ
p.373
「一番楽しかったのは1998年。あまり守備をやらなくても、ポンポンとパスが回って来て、ゴール前には遊びが鏤(ちりば)められていた。ドゥンガと思い切り喧嘩をしながらも、阿吽のボール回しが出来ていました。」
1998年?いつだっけと改めてググる。
ジュビロ磐田#1990年代
ジュビロ磐田の年度別成績一覧
監督は'96年で辞めたオフトの後を承けた'97スコラーリ・・・の、更に後を承けたバウミール。
そしてドゥンガのいた最終年。
何となく思い出して来た。そういう監督や選手における"ビッグネーム"の比重が小さくなり、日本人中心のジュビロが本当に自信をつけてこなれて来た感じの年、だったかな。入団以来"浮いていた"ドゥンガが、逆に"消えた"印象のシーズンというか。
確かにあそこらへんで一回ジュビロは、"完成"していたような記憶は無くは無いです。
その後"爛熟"の桑原期と、「リベロ福西」の印象が強烈な"混乱"のハジェヴスキー期を経て、鈴木政一監督の手によって2001年"N-BOX"期に至るわけですが、この本では終始名波自身はさほど乗り気でなかった、難しいし、自分のコンディション的にもしんどいし、上でも語っているようにどちらかというともっと"自然"なサッカーがしたかったと、そういうことが書かれています。
それでもやはりハマった時には独特の高揚感はあって、目標としていたレアルと対戦予定のその年の世界クラブ選手権が中止になった時には、チーム全体が本気で落ち込んだ様子が描かれています。
"やる"気だったんですねえ。やらせてあげたかった。
反町ジャパン
p.383
「イビツァ・オシム監督が率いるフル代表と起ち上げが一緒だった。最初の中国遠征に出かける前にオシムさんに言われたよ。『毎試合どのポジションでもいいから、おまえが一番良いと思う選手を一人(フル代表に)連れてこい』」。(中略)
最初の遠征から帰って来た時は、青山直晃を推薦した。その後は本田圭佑を送り込んだ時もあるし、長友がいいから一度呼んでみてくださいと話したこともある。」
なるほどねえ、そんな関係性が。
オシムジャパンの一番最初の招集に青山直が含まれていたのは結構印象に残っていて、よく知らねえなあ、こんな選手までオシム見てるんだというのと、あとこれは後知恵ですが青山はスピードを中心とした守備力という点では日本のCB史上でも屈指だと僕は評価していますが、一方で足元はそんなに器用な選手ではないので、オシムジャパンの第一GKが結局山岸範宏だったことと併せて"いざとなったら守備陣にはやはり守備力優先の人選をするオシム"という僕の「オシム観」の材料にしていたんですが、そうかあれは反町監督の推薦だったのか。(笑)
ちなみに反町監督自身も北京五輪参加にあたっては、直前のトゥーロン国際で僕が見るにほぼ完璧な守備を見せていた青山を結局外して"攻撃的"なチーム編成をして、だから負けたとは言いませんが一つのチーム方針の分かれ目を画したというかこれも僕に言わせれば"タガを外してしまった"というそういう印象です。
まあビエルサの評価対象も森重の方だったようですけど。(笑)
なおトゥーロンについてはあれ以外書かれていなかったので、僕の"伝説の'08トゥーロン"説の証明はお預け。(笑)
p.389
北京五輪を終えた反町は、もうサッカーを辞めようと沈み込んでいた。
そんなに落ち込んでいたのか。自業自得とはいえ。(こら)
"負けて"落ち込んだというよりも、既に大会中から精神状態がまともでなかったように、僕には見えましたけどね。
監督があんなに緊張していては、勝てませんて。
p.389-390
「たまたまスポーツ紙でホッフェンハイムの記事を見つけて、練習を見学に行った」
(中略)
湘南から松本山雅。日本のホッフェンハイムを夢に描き、若手を育てて代表に送り込もうという意欲は変わらない。
なるほどねえ、それで松本山雅にも、あんな長逗留しているのか。
ただ北京では醜態をさらしてしまったとは言え、恐らく国際的な水準での"駆け引き"の出来る数少ない日本人監督なので、やはりもっと国際的なコンペティションに参加するレベルのチーム、代表でもクラブでもいいですけどとにかくそういうところで指揮を執って欲しいというのが一つ。
もう一つは、基本的にモウリーニョ同様(笑)攻撃を創造する才能は欠如しているので、ある程度選手のクオリティが保証されるクラブ/チームでやって欲しいなというのと。そこでもって、北京のように出来もしない"攻撃的"な戦いを挑むのではなく、思う存分持ち前のプラグマティックな戦略の才を発揮して欲しいなと。
まあ「松本山雅」は凄かったですけどね。呆れるほど徹底した、効率的なチーム作り。
「ハリル」に至る前に「反町」を挟んでおけばもっとスムーズに行ったのではないか、というか普通に反町の方がハリルより結果が出るのではないかと、そう思ってさえいるところが僕にはありますが。
その為にも北京での戦いはありゃなんだふざけんな(以下略)
「あとがき」より
p.407
ところが日本では、契約した[代表]監督が実際に指揮を執り始めてから少しずつ航路図が明らかになっていく。現場の指導者は、そこからJFAの指針を読み取ろうとするのだ。
"育成改革"を達成したドイツとの比較という話ですが。
"現場の指導者"がどのレベルを指しているのかは確かとは分かりませんが、見えて来るのは"JFAの通達"とかではなく、我々と同じくテレビ中継でも見ながら「日本サッカーの方向性」を推し測ろうとするしている各地の指導者の姿。
恐らくは、"記者"としての経験から言ってるんでしょうけど。
それはちょっと、よろしくないというかいかにも混乱の元だなと。まあブンデスリーガ各チームの採用フォーメーションにまで口出しする(4-4-2にまとめろ)というドイツの徹底ぶりはいかにも特異ではありますが、"後進国"としては多分、そちらの方が正しい。
まあ"雑音"の多いフル代表は一つ別にして、育成年代においてはともかくも"方針"はまとめられているのではないかと何となく思っていたんですが、それはほんと上澄みのレベルなんですかねこういうのを見ると。実際に"仕上がった"選手たちを見ると、"弊害"も含めて(笑)結構洗脳・調教は徹底しているようにも見えるんですけど。指導者・選手双方に対する。
p.409
残念ながら、いつか日本がワールドカップを掲げる日を思い描くほど楽観的にはなれない。(中略)
だから贅沢は言わない。国際常識に照らして、良い意味で奇抜なチームが、日本の特性を十分に活かして世界を驚かす。せめてそんな光景が見たい。
流れ的に割りと突然飛び込んで来たなという印象の、"結論"。
"勝つ"ことは基本的に無いという前提。思い切りましたね。(笑)
ただまあ、ある意味正直な、少なくともある世代までの人の実感だろうと思います。
僕自身もこの前、
"キャッチアップ"、出来るならいいですけど、出来ないとしたらどうするんですかという。諦めるんですか
ということを書きました。
・・・うーんそうですね、例えばこの"キャッチアップ"ないしはストレートな"グローバルスタンダード化"を、「経済成長」と置き換えてみたらどうでしょうか。
「経済成長」は、出来るかもしれないし目標として持つのも努力するのも否定はしませんけど、"出来ない"という可能性も十分にあるわけです。今後の世界経済の趨勢として。
ならば"出来ない"という可能性を前提とした制度設計はしておくべきであるし、あるいは"経済成長をしない社会"で「幸せ」になる為の工夫と準備も、一種の「自衛」としてやっておくべきだろうと。
そういう努力の方向性を、少なくとも同時に持っておくべきだと。(これ自体はよくある議論ですね)
それがつまり、"諦めるんですか?"という問いかけ、"前向きな後ろ向き"の主張ということですね。
その為に、"奇抜"という言い方は少しあれ(笑)な気はしますが、「普遍化」とは別の「個別化」の回路は持っておくべきだろうと。どのみち「普遍化」だけでやっている国なんて、あるわけないですし。
実際のところストレートな"キャッチアップ"型の議論というのは、実現可能性の方は問題にしていないと思いますね。あくまで"べき"論であって、出来なかったらただ"駄目だ"というだけの話だと思います。日本サッカーはクソだ、以上!そういう範囲での、(日本サッカーへの)「関心」というか。
そういう人がいてもいいとは思いますけど、"住人"としてはそれでは済まない面も大きいので、通りすがりの気まぐれな「革命家」の議論をそうそう律義に真に受けるわけにもいかない。
とは言え僕自身も元々は・・・という話は、また今度改めてしたいと思いますが。(笑)
加部さんの"結論"に乗るとすれば、そういう話です。
まあいずれ状況を見ての程度問題、その時どちらがどれくらい優先するのかという話ではあると思いますが。
それを言ってもね。(笑)
以上です。
'60~'80年代はまだ読んでいませんが、果たして僕が書くことがあるかどうか。
多分書かないので、興味がある人は自分で読んでみることを、改めておすすめしておきます。(笑)

加部究『日本サッカー「戦記」』 2018.2..9
加部究さんの日本サッカーの歴史本読んでて驚いたのが、2006年北京五輪本番前に参加したトゥーロン国際で、各国の監督がMVPを投票するのに、当時チリを率いていたビエルサが書いた選手が森重だったこと。
— ぶんた (@s_bunta) 2018年4月11日
これを読んですぐ探してAmazonで買った本。
やけに高い(ていうか定価)と思ったら2月に出たばっかりの本だったんですね、知ってたら実店舗で買ったのに。(笑)
本自体は60年代から始まっていますが、とりあえず僕も体験している90年代から読み始めました。
一応いつもの通り面白かったところを抜粋はしてみますが、普通にそれぞれが買って読んだ方がいいと思います。日本サッカーに興味がある人なら、全く損は無い本だと思います。"戦術"・・・とかはまあともかくとして。
"ドーハの悲劇"
p.238
イラクがカウンターに出る。CKを取った。しかし何も問題はないはずだった。主審も近づいて来て、『これで終わる』と[ラモスに]囁いたのだ。
そんな"コミュニケーション"が。(笑)
これってOKなんですかね、意外と普通なんですかね。(笑)
この本では繰り返し、ドーハでイラク代表に対して不利なジャッジングがなされたことが書かれていますが、まだ僕もナイーブだったので(笑)特に覚えていません。
あの"ショートコーナー"に関しては後に蹴った方だか決めた方だったかが来日して、「残り時間を知らなかったからやっただけで、知っていたらやらなかった」と証言して我々の衝撃を新たにしてくれましたね。(笑)
電光掲示板の(不備の)馬鹿野郎。
「讀賣」と「日産」 ~なぜ讀賣は日産に勝てなくなったか
p.240-241
「僕がいなくなってからですよ」
ひとつのヒントを提示してくれたのが小見幸隆である。
「確かに・・・・・・、汚いヤツがいなくなった」
(中略)
とりわけ小見は、日産の攻撃を操る木村和司に絶対の自信を持っていた。
"潰し役"小見幸隆の不在、引退。('85)
対して日産はというと。
p.242
「オスカーは、いわゆる1-0の美学を持っていました。(中略)押し込まれてもGK松永(成立)さんを中心に踏ん張り、逆に攻撃にはあまり人数をかけなくなりました。」
元ブラジル代表キャプテンのオスカーが加入して('87)、リアリズム、勝者のメンタリティを植え付けた。
それまでの"加茂日産"は、木村・水沼・金田らの大学出のスター選手たちが奔放に個人技を発揮して、それを「親分」加茂監督が見守るだけの、基本的にはそういうチームだったと別の本で読んだ記憶があります。
実に対照的な変化、大きな分かれ目。
もう少し"サッカー"的な面。
p.241
「ジョージ(与那城)が引退したことで、読売のパスの出し手がラモス(瑠偉)一枚に減った。」
「ジョージは(中略)長短のパスが自在で、自分でドリブル突破もできる。(中略)
でもラモスは、5~10mのパスは抜群でも、30mのパスはない。気持ちよく持たせておいても、最後はワンツーに絶対に飛び込まず、3人目の飛び込みをケアしておけば良かった」
証言者は清水秀彦。なるほどねえ。
なぜラモス中心でメロメロだったJ初年度のヴェルディが、ビスマルクの加入で2ndステージで復活したのかが、非常によく分かる記述ですね。
単純にパスの出所が増えたのに加えて、細かいだけのラモスに対してシンプルで剛直なプレーも出来るビスマルクが、言わば「ジョージ与那城の穴」を埋めたということ。
現象としては理解していましたが、ジョージさんがそういうタイプの選手だとは知らなかったので、改めて大納得しました。
上の"リアリズム"の話と合わせると、要は日本リーグ末期~J草創期のヴェルディ(讀賣クラブ)が、いかに「自分たちのサッカー」に陥っていたのかがよく分かります。
なぜ僕があのチームを嫌いだったのか、更に言うとラモスのプレーを余り評価出来なかったのか。
はっきり言えば、ラモスに任せるとそうなっちゃうと思います。いい選手ではあるけれど、功罪常に相半ば、それが「ヴェルディにおけるラモス瑠偉」と、「日本代表における本田圭佑」ということで。構造的にはよく似ていますね。
ちなみに代表でのラモスは、オフトはぎりぎりまでラモスの比重を相対化しようと努力して成功(最後の最後は結構丸投げしましたが(笑))し、加茂監督はお情け的な起用ではありましたが試しにラモスのチームを作ってみて、てんで駄目ですぐにやめてましたね。
更に言えば、ザッケローニとの間で主導権に混乱をもたらした本田と、(最終年の)ネルシーニョの指揮権に口出しして方針を曖昧にして、結局は追い出した(と僕は認識しています)ラモスと。その後ハリルホジッチには本田の方が追いやられ、レオンに対してはラモスが先手を打って逃走と、そういうコントラスト。(笑)
いや、面白かった。(笑)
ジェフと城彰二
p.247
ジェフの対応は、あまりに素っ気なかった。
「ジェフは獲る気など、さらさらないという姿勢だった。予算も決まっているし、他に行った方がいいんじゃない?とまで言われました」
高校ナンバーワンストライカーで、ルーキー年に結果的にデビューから4試合連続ゴールの活躍を見せた城彰二のジェフ(市原)入団の経緯。
あれはあくまで「あえて弱小チームで出場機会を」という城自身の意思による選択で、他チームが1500万を提示して来たのを蹴って500万のジェフを選んだという、あっぱれな話。
結果的には大成功でしたね。リアルタイムで僕自身も、何でジェフになんか(ごめん(笑))行ったんだろうという思いと、それにしてもハマった選択だよなという思いを同時に抱いていた記憶がありますが。
p.259
当時サテライトの監督を務めていた岡田武史が週末以外は泊まり込み、食事や休養などピッチ外の部分にも目を光らせた。
ああ、ここで既に岡田さんとの接点が。
それもあって、「カズを外してまで城」という、あの"決断"があったんでしょうね。
悲運の怪物岩本輝雄
p.264
「ジーコからは2度もオファーをもらいました」(岩本)
p.265
「左SBの都並(敏史)さんが故障をした。そこで同時日本代表のハンス・オフト監督が僕の試合を見に来て『どうだ』と声をかけられたんです。」
まだベルマーレ(フジタ)がJリーグにも上がっていなかった時代の話。
オフトに声をかけられたというのは、実際に江尻篤彦のようなほとんど守備の出来ない選手を"都並の代わり"として選んでいたオフトの志向からすると、ある程度は分かる話。あのチームに岩本テルが入るというのは、なかなかの違和感ですけど。(笑)
ジーコというのは初耳でした。確かに"ブラジル伝統の超攻撃的左SB"という類型はあるわけですが、しかし草創期鹿島(住友金属)のチームカラーからすると、マジかよというところもあります。"ジーコジャパン"ならともかく。(笑)
ちなみに子供の頃に讀賣クラブとの接点もあって、だから後に李国秀のチームにもちょっとだけ(笑)呼ばれたのかあと。
p.274
「ブラジルというと、ボールを使うイメージかもしれないですが、物凄くフィジカルをやる。昼間1000m走や10分間走が3~4本入り、その後に1時間半ゲームというか」(岩本)
こちらはファルカンジャパン裏話。
ファルカンジャパンが"個人の育成"(&伸びしろ)を極端に重視していたのは周知のことだと思いますが、それがフィジカル面にまでここまで及んでいたというのは、驚きというか再認識というか。(お試し起用の)自分の立場分かってたのかなファルカン。分かっていたとすれば、逆に凄いいい人だなという。(笑)
p.278
しかし解任されたファルカン以上に深い傷を負ったのは、左サイドを担った若い2人のタレントだったかもしれない。
岩本テルを"抜擢"するのは素材的に当然だと思いますが、いきなり10番背負わせてゲームメーカーを、それもサイドバックとして招集しておきながらなし崩し的にというのは、余りに配慮が無かったと思います。"素直な期待"と言えば素直な期待なんですけど。
そしてオフトが見出してFWからコンバートしたばかりの、同じく左サイドバックの"エンマサ"こと遠藤昌浩(雅大)。オフトとファルカンに評価されただけあって、素材的には後のトゥーリオあたりとも比べたいくらいの超弩級のものではなかったかと、僕は思っています。大きくて柔らかくて、左足の技術があって、かつその大きな体を素軽く使える運動能力。後の理屈っぽい解説(笑)を聴いても、頭も悪くなかっただろうと思いますし。結果左ではまだ使い物にならなくて、その後はCBやもう一度FWとして使われたりもしていましたが、気持ちは分かるけれど「まずクラブでやれ!」という感じでした。
勿体ない素材でした。本人は責められないです。岩本テルはまあ、多分あんなもんだったと思いますけど。どう使っても。子供過ぎてね。
ベンゲルグランパス
p.280
早速今時[靖]は、名古屋にヴェンゲルの招聘を提案した。だが返答は「他に候補がいるから」と素っ気なかった。
実は名古屋は既にフース・ヒディンクとコンタクトを取り、本人の来日も決まり十分な手応えを得ていた。
ぎょええ。すげえ時代だ。(笑)
多分名古屋フロントは、あんまりその価値を分かっていなかったろうと思いますが。(笑)
ちなみに結局ヒディンクはオランダ代表の方に取られてしまって、仕方なくベンゲルに。(笑)
p.282
「ミーティングの際に『みんなに謝れ!』と[ベンゲルは]怒鳴りつけました。ピクシーは小さな声で汚い言葉を吐きながら、渋々謝りましたよ」(森山)
カードをもらいまくるピクシーへのベンゲルの癇癪。
shit!fuck!sorry!と応えるピクシー。(笑)
p.285
「自分でも、やばい、と思ったんですが、もう間髪を入れずに交代でした。戻ってきたら物凄い形相で言われました。『I kill you』って」
こちらは小倉の軽いプレーに対するベンゲルの容赦ない一言。(笑)
昔から案外"面白い"人だったんですね、ベンゲルって。
加茂周という人
p.305
「戦術は大会に入る前に必死に考える。始まったらもう最後まで戦い方を変えません。」
「人の持つ運というのは大切にしなければならないと思います。だからチーム作りの過程で選手を勧誘する時も、(中略)高校や大学で日本一を経験してきている選手を考えてきた。」
加茂周談。
この人について僕が特異に印象に残っているのは、その独特の"不動さ"というか"取り付く島の無さ"というか、そういう部分。
サイド攻撃とショートカウンターで当時の日本代表の構成力不足を補った、そこまではいいんですけど一方で「中央突破」の捨て方が余りに徹底していて、少しでも中央で"細工"をしようとする前園はもとより藤田俊哉の創造性も早期にあっさり捨ててしまったし、"ポストプレー"すら「取られると危険だ」とやらせなかった。では「引かれた時はどうするんですか」という問いには"高木琢也の頭"(に放り込み)という身も蓋も無い答えで、実際実戦でもそうした。単に"頑固"という以上の極端なのれんに腕押し感で、なんなんだろうと感心と違和感を同時に感じていました。
あるいはある時の解説で実況に「ゾーンプレスの完成には何が必要ですか」と問われた答えが、「世界で最高の11人を揃えること」。ボケ混じりかと思ったら完全なマジレスで、アナウンサーもしばし言葉の接ぎ穂に困っていました。(笑)
そりゃそうだろうけども・・・。(笑)
ある意味トルシエ以上にハリルホジッチに似ていたのは、この人かも知れませんね。(笑)
で、今回の二つの記述に感じたのは、ある種"運命論"に近い、独特の"割り切り"方。"工夫"とか"抵抗"とか、そういうのをまとめて気休めと切り捨てて、何か"幹"だけでやっていたような人だったんだろうなという。
あーあー、川の流れのように。(?)
"キャプテン"柱谷哲二
p.353
誰かが全員の意思統一をさせなければいけないんです。(中略)
取り敢えずリーダーが[例えば]引いて守らせる。それからワンプレー、ツープレー終わった後に、監督が引かないでプレスをかけろと言うなら、それでいいんですよ。とにかく間違ってもいいから同じ方向を向かせる。それが大切です。
柱谷哲二が考える、"キャプテンの仕事"。
大いに納得。
「誰か」がということ、監督の意向と違っていても「いい」、「間違っていても」いいという割り切り、これがある種神髄かなと。
関連して僕がずーっと日本のスポーツ界でサッカーに限らず腹に据えかねているのが、"キャプテン"に指名された選手が余りにも簡単に「自分は(声で)引っ張るタイプではないから」と言ってしまうこと。いや、引っ張れよ。声出せよ。その為のキャプテンだろうが。"プレーで引っ張る"タイプがいてもいいけど、それはあくまで例外だろ。当たり前のように言うな。
こういう発言が出る背景には、"どう(orどっちに)引っ張っていいのか分からない"という不安というか日本人らしい生真面目さ(笑)があるんだろうと思いますが、「別に間違っててもいい、とにかくその場をまとめればいいんだ」というこの柱谷"キャプテン"の金言は、役に立つかなと。
p.356
僕がトルシエを一番評価するのは、そこです。眠っていたものを呼び起こす能力。小突いてでも叩いてでも走らせるみたいな。
その"キャプテン"柱谷が評価するトルシエのポイント。
"モチベーター"としてのトルシエ。意外というか、納得というか。
まあ上と合わせると、キャプテンだけではなく"監督"についても、要は方向性なんてどっちでもいいから、とにかく「まとめ」て「頑張らせ」るのが、一番の仕事だと、そういうことかも知れませんね。
その為に(その)「戦術」が役に立つなら使えばいいし、立たないなら使うべきでない。
(別にそう言っているわけではありませんが。(笑))
次回は「2000年代」の予定です。
冒頭に紹介した"北京五輪直前トゥーロン"の話もそちらで。(笑)
J初年度"オリジナル10"の風景
1993年。本格的にサッカーを"見る"経験としてはほぼJリーグが初めてだった('86W杯や天皇杯決勝等一部特別な試合を除く)僕の、出発点的風景。
その時各チーム(の攻撃)がどうしていたか、またはどのように僕に見えていたか。
トップ下or特定のゲームメーカーに頼っていたチーム
ジェフ市原(リトバルスキー) 監督永井良和
ヴェルディ川崎(ビスマルク[ラモス]) 監督松木安太郎
横浜フリューゲルス(エドゥー) 監督加茂周
名古屋グランパスエイト(ジョルジーニョ) 監督平木隆三
ガンバ大阪([磯貝]) 監督釜本邦茂
頼ってはいなかったけれどそれらしい選手はいたチーム
鹿島アントラーズ(ジーコ) 監督宮本征勝
横浜マリノス(木村和司) 監督清水秀彦
ゲームメーカーではなくセンターフォワードとウィング主体のチーム
清水エスパルス 監督エメルソン・レオン
浦和レッズ(?) 監督森孝慈
特定のゲームメーカー(選手)に頼らない組織攻撃のチーム
サンフレッチェ広島 監督スチュワート・バクスター
実情はまた別にして、上7つについては基本的には( )内に挙げたような"ゲームメーカー"、通常はトップ下に位置するそういう選手たちのパスワーク(特にスルーパス)が、各チームの攻撃を構成していると、そういうイメージで見ていたわけです。ていうかそれしか知らなかった(笑)。"サッカーと言えばマラドーナ"。
そこに加えてエメルソン・レオン監督率いる清水エスパルスは、背の高いセンターフォワード(トニーニョ、エドゥー)の両脇にドリブラー/ウィンガーが配置された3トップの形を取っていて、両ウィングの上げるクロスにセンターフォワードが合わせる、または後方から縦一本でセンターフォワードの頭に合わせる、これはこれで分かり易い一つの類型で、大きく言うとこの二つがサッカーの攻撃方法なのだろうと、そういう認識。
浦和の3-4-3は本来はまた違う(バルサ由来の)"思想"で形成されていたわけですが、当時はそんなことは分からないですしどのみち大して機能していなかったので(笑)、形だけから概ね清水の仲間なんだろうと、ぞんざいに理解していました。
唯一分からなかったのがバクスターの広島で、
Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、(中略)DFラインを高く保ち(中略)中盤がコンパクトに(中略)攻守に整った組織的サッカー
(サンフレッチェ広島Wiki)
と今ではお馴染みの用語が散りばめられるようなスタイルを標榜していたわけですが、当時4-4-2と言えば"ダイヤモンド"であってダブルボランチのボックス型とかどう機能するのか全然イメージ出来なかったですし、当然"トップ下"はおらず二列目には盧廷潤のような非パサータイプの選手が配され、一応元日本代表のテクニシャン風間八宏(笑)がボランチにはいるわけですが、"中盤の底からゲームメイクする"なんて発想もほとんど無かったので、いったいどうやってるのかポカーンという感じでした。(笑)
長身FW高木琢也が前線にいるとは言え、清水ほど単純な放り込みをしているのではないらしいことは、さすがに分かりましたし。ここらへんから、"誰かが"やるという以外のサッカーの(攻撃の)仕方があるらしいということを、分からないながらも考え始めたわけですね。
ネットも無かったのでそんなに他人の意見を聴く機会は無かったですが、それでもだいたい当時の日本のサッカーファンなんて、この程度のものだったと思います。
鹿島のジーコとマリノスの木村和司は、基本的には年齢的な理由で、フルには出られなかったのだとは思いますが、多分それだけではないんですよね。
鹿島のカウンターサッカーがどういうメカニズムで行われていたのか当時の僕にはよく分からなかったですが、仮にジーコが出た時でもどちらかというとストライカーというか後に言う9.5番的な位置づけで出ていたように見えて、所謂"トップ下のゲームメイカー"ではなかったように思いますがどうだったんでしょう。
木村和司の方は"出た"時にはそういうプレーをしていたわけですが、ただチーム組織としてそれに頼っていたわけではない、いなくてもそれなりにやれて木村和司が出た時にはその基礎構造がむしろそれを"支える"ように機能しているように感じて、なんか違うな、大人だなと。かっこいいなと、漠然と思っていました。(笑)
広島だと余りに理解の外ですけどこの2チームはちょうどよく"上級者"で、"チーム"について、僕に色々と考えさせてくれました。後はレオンのサッカーも単純なようで機能美があるなあと、興味を持っていました。特にエドゥーがセンターに入った時は、エドゥー自身が割りと技巧派だというのもあって、面白かったですね。
こんな感じがまあ、とにかくスタートライン。
Jリーグの"名"チームたち(一部"迷")
その後特に、攻撃の構成のされ方に関して、僕が興味を惹かれた印象に残った、Jリーグのチームたち。
新たな「類型」形成の試みというか下準備というか。
1990年代
1994ニカノールコーチ時代のベルマーレ平塚 (監督古前田充)
右名良橋左岩本テルの超攻撃的サイドバックの攻め上がりを特徴とする4-3-1-2で、しばしば両方同時に上がってしまうところを3ボランチのアンカーが下りて来て疑似3バックにして対応。粗いっちゃあ粗いんだけどみんな伸び伸びやっていて、さほど厚くない選手層である意味"効率よく"Jリーグを掻き回していました。
深くはないけど即効性。こういうのはまあ、センスですね。オジーとかとも似た。
1994-1996オフトジュビロ(第一次)
既に何度も書いている、厳格なポジショニング指示による"パスが回る"為の基本構造構築の地道なプロセス。成果が出て来て選手に自信が芽生えたところで、"厳格さ"への鬱憤爆発で追い出されたような印象(笑)。ちなみにドゥンガの得意技ロングパスは、チーム戦術には特に融合されずに単発に終始していたと思います。
1995第一次オジェックレッズ
ウーベ・バインのスルーパスからの福田正博の抜け出し。潔い一芸サッカーでしたが、初めてレッズに"形"らしきものが生まれた瞬間だったと思います。それまでがあんまりだっただけに(笑)、印象的なチーム。
1995ベンゲルグランパス
出ましたヨーロッパの風。「4枚CB的なDFライン」、(その代わりとしての)「岡山・平野両ウィングの"MF"での機能性」、「"セントラルMF"2枚による渋ゲームメイク」、「"10番"ストイコビッチのFW起用」(+小倉とのムービングストライカー2枚コンビ)。まとめておしゃれフラット4-4-2。
"ポジション"と"役割"の概念を根こそぎ革新してしまったというか、つまりは「全体の動き」からそれは決まるんだという、当たり前の話ではあるんですがそれこそがこの時点で、日本で理解されていなかったこと。
1996"三羽烏"フリューゲルス
サンパイオ・ジーニョ・エバイール。3列目2列目1列目、それぞれに配置されたブラジル代表クラスの選手たちによって形成された、分かり易い秩序というか分かり易いチーム作りというか。これはこれでありというか、一つの究極というか。監督?誰だっけ、ああオタシリオ。覚えてない。(笑)
1998レシャックフリューゲルス
右永井秀樹左三浦淳宏の両ウィングが暴れまくる3-4-3クライフバルサ流ドリームサッカー。のはずなんですけど・・・。酷かったですね、野放図で。"暴れ"っぷりが、自由というより下品に見えました(全体としてですけど)。これ以後しばらく、僕は"3トップ"やウィングプレーを、一切信用しなくなります。(笑)
大きく言えば、個人プレーをかな。"自由"なだけでは、天国には行けないんだと。
1998"中田"ベルマーレ (監督植木繁晴)
中田が長いスルーパスを通しまくるだけのサッカーですけど。ヴェルディは一切防げなくてひたすら殴られ続けて(笑)、忘れられないですよこのチームは。これくらい出来る選手だけが海外に行くものだと、ある時期までは思ってました。今はもう、比べると謎移籍だらけ。それでまた通用したりするから、時代は変わった。
2000年代
2001-2002N-BOXジュビロ (監督鈴木政一)
凄い、単独のWikiがある(笑)。対戦時に"N-BOX"であることを意識していたかというと別にしてなかったと思いますが、とにかく"どこにでも人がいるなあ"という印象でした。"振った"はずなのに振れてない、"止めた"はずなのに止まってない、その脇からまた人が出て来る。どうなってるんだろうという(白痴的感想)。
2002エンゲルス京都
天皇杯優勝チーム。右朴智星左松井大輔が抉りまくる3-4-3ウィングサッカーで、レシャックのチームとは違って随分きっちり機能していたように見えましたが、理由は分かりません。後の浦和でのエンゲルスを見ても。ただまあ、機能することもあるんだと、機能するとこうなるんだという、モデルチームではありました。
2002-2003清水ベガルタ
特に画期的なことはやってないと思いますけど、身の丈プレッシングサッカーと「岩本テル」「財前」の"ロマン"要素の使いこなし・融合の仕方が見事だったと思います。マリノス時代も含めて、人の気持ちの分かるいい監督だと思いますよ清水秀彦さんは。"粋人"というか。一部で評判の悪い解説も、僕は好きです。
2002-2004西野ガンバ"マグロン"時代
問題作その1。ただのマグロン放り込みサッカーかと思いきや、放り込んだ後の多人数殺到による"数的優位"をてこにした、西野流「攻撃」サッカー、あえて言えば"ポゼッション"サッカーのつもりでもあったと思います。効率は恐ろしく悪くて、パスサッカーの伝統の無いチームが"攻撃的"にやろうとすると大変だなあと、上から目線で見てました。(笑)
2004-2011西野ガンバ"パスサッカー"時代
問題作その2。ところがその後はご存知の通り、西野ガンバは"パスサッカー"の王道を歩む、担っていくことになるわけですが、なぜどのように出来るようになったのかが、外から見てるとよく分かりません。ガンバユースの新たな"伝統"がベースになったのは確かだとしても、他での仕事では一切パスサッカーの資質を見せない西野監督で、あそこまでのものが出来たのはなぜなのか。西野監督自身の貢献はどこにあるのか。今も謎。
2003-2004岡田マリノス
"攻撃"っていうかね。個人能力・人材の活かし方と、それに対する規律の与え方、それらを最終的に"チーム力"として結実させる力、やっぱり凄いと思いますよ。本人談によると、この時期はかなり細かくプレーの指示を出していて、それに飽きてスタイルを変えようとして、後に失敗したらしいですが。
2003松永ヴァンフォーレ
前任大木監督の"走れ走れ""ポゼッション"を引き継ぎながらも、それをヴェルディ時代の上司李国秀譲りの(?)端正なボックス4-4-2に成形し直し、かつ走りのピンポイント的な効率(特にサイトバックの攻め上がり)を目覚ましく向上させて見せたこのチームは大好きでした。小倉隆史の9.5番的な使い方も上手でしたね。
2006ギドレッズ
圧倒的な陣容もさることながら、それぞれの選手たちの3-4-3の配置へのハマりの絶妙さで、特別なことをしなくても無理なくいつでも、どんな形かで点が取れる感じがたまらなかったですね。"リトリート"の印象が強いと思いますが、'04年の就任以来ギドが志向していたのは実はプレス&ショートカウンターで、このチームも基本はそうだと思います。ただ強過ぎるのと攻撃的GK都築の離脱で、徐々に後ろに落ち着いた感じ。
2006-2007あたりの鳥栖(訂正)
2006年は松本育夫監督(岸野コーチ)、2007年は岸野監督(松本育夫GM)と主導権が分かり難いですが、一つの同じ流れのチームと見ていいでしょう。驚異的な運動量と追い越しプレー、かつ走り込むコースの的確さで、かなりヴェルディもアップアップさせられた記憶があります。そこに選手個々の技能も、上手くミックスされていました。「人もボールも動くサッカー:神風版」という感じ。純粋に褒めてます。(笑)
2007大木ヴァンフォーレ(クローズ)
基本的なスタイルは'02年の最初の就任時に確立していたと思いますが、やはりここは悪名高い(笑)"クローズ"時代を。まああんまり興味無いんですけどね僕この人。"走り"なのか"ポゼッション"なのか、そこらへんが曖昧に折衷されている感じで。代表の岡田監督は、走りで粉砕する意図が明確だったと思いますけど。
2008城福F東初年度
何となくそういう"日本的"こだわりポゼッションの流れで見られがちな城福監督だと思いますけど。本質的には四角四面の合理主義者というか、むしろ"中心"の無い人というか。初年度F東では、4-3-2-1クリスマスツリーから、1を2が、2を3が、更に4の両脇がと、順々に無理なく追い越して行く流麗な"ムービング"フットボールがよく仕込まれていて、対戦時ヴェルディは判断スピードで完全に上回られて往生しました。
2008ストイコビッチグランパス初年度
後には"劣化版ギドレッズ"みたいな現実的なチームでリーグ優勝にこぎ付けますが、監督デビューのこの年は、確かにベンゲル(名古屋時代の監督)に影響を受けたんだなと感じさせる端正で機能性の高い4-4-2パスサッカーを披露して、"ベンゲルに振られた"傷を抱える(?)その筋のファンからは早くも代表監督待望論などが持ち上がっていた記憶があります。いや、なんか一瞬ですけど、外人さんて違うなあと僕も感心しました。
2008シャムスカトリニータ
3-5-2メインの役割分担サッカーで守備の堅実さと攻撃における個人技能の活かし方のスムーズさで、あれよあれよと"地方クラブ"をナビスコ優勝まで導いてしまいました。何をやってるという感じでもないんですけど、随分サッカーを簡単にやる人だなあという印象。若き"達人"というか。(笑)
2009フィンケレッズ
マニアックな学者肌のパスサッカーの人だと思いますが、山田直輝・原口元気・高橋峻希・永田拓也といったユースから上がって来たばかりの選手たちの"筋目"の良さにも助けられて、およそクラブ文化に無かった繊細なパスサッカーを一年目にしてはかなりのレベルで実現していたと思います。最後は"文化"に屈した形でしたが、当時の育成との相性の良さを誰かが断固として守り貫かせていたらと、少し夢想します。
2010年代
2014鈴木淳監督のジェフ
およそパスサッカー向きとは言えない当時の人材を使って短期間で一から忍耐強く重厚なパスサッカーを構築して見せた仕事ぶりは、ひょっとすると"李""オフト"のそれに並び立つものではないかとも思いますが、何でそんなことをやっていたのかフロントの指示や支援はあったのか、また出来たと思ったら間もなく解任されて遺産もすぐに捨てられてしまったので歴史的意義も不明と、色々と謎と疑問に満ちたチームでした。(笑)
2014曺貴裁監督の湘南
現任監督は扱わない方針ですけど、何せチョウさんは長いので、昔話くらいはいいでしょう(笑)。"1点に抑えた"ことが自慢になるくらいJ2で圧倒的爆発的な強さを誇った2014年の湘南でしたが、オシム式ムービングとクロップ的切り返しの合成、かな?超簡単に言うと。チョウ。「ノータイム・フットボール」、とか。
この人も何というか、"簡単"にやるのが上手な人だと思いますね。サッカーを「簡単」に見せる人というか。
2015J3優勝時のレノファ山口 (監督上野展裕)
このチームも好きでね。一気呵成の攻め達磨ではあるんですけど、人数のかけ方が凄く効率的というか整理されている感じで、運動量は必要だし後ろが薄くなる瞬間はあるんですけど、"無理"してる感じがしないんですよね。財政的理由でJ2では散々な目に遭ってますけど、出来ればもっと高いレベル十分な人材で試して欲しいサッカー。出身選手たちが一人一人賢く見えるのも、"プログラム"の優秀さを感じさせます。
・・・他にオリヴェイラ、ペトロヴィッチ、風間八宏など気になる監督もいますが、"見て"感じたことよりも"読んで"感じたことが上回ってしまっているケースなので、責任が持てないのでパスしておきます。
ご笑読(笑)下さい。
少し前になりますが、footballistaの浅野賀一編集長と川端暁彦氏のこの対談は、凄く面白かったです。
遠藤保仁やピルロの時代は終焉?「ボランチ=司令塔」はどこへ行く(footballista)
表題にある"ボランチ論"ということにとどまらず、所謂"ポジショナル・プレー"を筆頭とする「現代サッカー」の様々な問題を、日本の現状や歴史と上手く接合・着地させた議論になっていると思います。
僕自身も割りとそういう目的意識で(サッカーについて)物を書くことの多い人なので、刺激される部分が大きかったです。
だから書こうと思えばこれを肴に何本でも書けそうではあるんですが、今回はとりあえず一つのテーマに絞って、書いてみることにします。
該当箇所としては、ここらへん。
浅野「貴族と労働者もそうなんですが、もっと言えば労働者もAIによって働く場所を奪われているというか……今の欧州トップレベルのサッカーは職人の巧みな技や経験からくる判断よりも、プログラミングされたコードで動くサッカーみたいな感じです。ただし、一つひとつの駒はスーパーな特長、絶対的な武器を持っている」
川端「そうですね。貴族が倒されて労働者の時代が来たわけではなく、『中産階級の勃興』が起きているんですよね。ちゃんと教育を受けて頭脳労働できるんだけれど、同時にハードワーカーにもなれる。求められているのは、頭が良くて、なおかつ24時間戦える猛烈系というか(笑)」
浅野「単純なブルーカラーではなく、ブラックなホワイトカラーというか(笑)、ハードワークできる頭脳労働者ですね。だから本当の司令塔はプログラミングのコードを書く監督なんです。最近はその傾向が加速した気がします。
「貴族」と「労働者」というのは、"貴族"系ボランチと"労働者"系ボランチ。ビルロとガットゥーゾ。
ただその分類・択一すらも"古い"というのが、ここで言われていること。
「中産階級」という比喩は上手過ぎて笑いましたが(笑)、それはともかく。
"プログラミング"とか言われると、いかにも「最先端」≒「ペップ」、もう駄目、ギブアップという感じに人によってはなるかも知れませんが、まあ少し待って下さい。
上でも言われているように"加速"しているのは確かなんでしょうが、逆に言えばあくまで"加"速なわけで、それ以前にも無かった話ではないわけです。
それは「欧州」だけではなくて、ここ「日本」でも。
"ゲームメイク"をめぐる伝統的ジレンマ
要は"誰がゲームを作るのか"という問題ですが。
伝統的にはやはりそれは特定の技能系プレーヤーとその周辺に発生する自然的コンビネーションがほとんどを担い、そこに過度の集中の弊害が出て来るようなら補助的な構造を監督が準備し、あるいは最初から構造にはめ込むような形でゲームメイカーを配するように、チームを作ったりする。
定期的に「ゲームメイカーは不要」と唱える監督は出て来ますが、実際にはそうしたチームは十中八九攻め手の欠如に悩み、改めて"ゲームメイカー"を招来するかあるいはゲームメイカー以上の依存度で前線FWの個人能力に依存するか、たいていはそういう結末。
という"限界"を突破するかに見えるのがつまり、昨今脚光を浴びている「ポジショナル」なチーム作りなわけでしょうが、とにかくこんな感じで、「ゲームメイカー」(選手)がゲームを作るのか「監督」がゲームを作るのかという二項自体は、例えばJリーグを主体にサッカーを見ている人たちの間でも、普通に共有されて来たものだと思います。
僕自身、「ゲームメーカーを置かないのなら監督が"ゲームメイク"するしかないわけですが」的な書き方は、具体的には思い出せませんが(探すのめんどくさい(笑))何度かこれまでにもした記憶があります。
・・・と、ごちゃごちゃぼんやり書いててもしょうがない気がするので、思い切って図式化してみましょう。それぞれの監督(チーム)における、ゲームメイクについての"選手"要素と"監督"要素の。
具体的には僕がある程度責任を持って書ける、"ヴェルディ"と"日本代表"という、二つのサンプルを使って。
異論反論は受け付けます、というか多分異論反論だらけだと思いますけど(笑)、とりあえずまとめて提示することに意義があるかなと。
(1)ヴェルディの例
上から下に、「構造」性が高まって行きます。
1.ほぼ100%選手にお任せ ・・・松木安太郎('93,'01)
'93年就任時には"オランダ"、'01年就任時には"スペイン"を口にして何やらやろうとしたことはあったんでしょうけど、結局はそうなってたと思います。具体的な依存対象としては、ラモスとか前園とか。
2."選手の組み合わせ"自体が"チーム" ・・・オズワルド・アルディレス('03,'04。天皇杯優勝チームは除く)
"1"に比べると機能性、監督の"貢献度"自体は相当高いですけど、要は選手への"依存"の仕方が複雑高度になっただけとも言えると思います(笑)。好きな監督ですけどね。
3.一応"形"が先行はしているけれどそこに選手を配置するところで仕事は終了 ・・・バドン('05)
3-4-3。という以上の、"中身"は無い感じでした。
4.特定選手の能力を前提とはしているがそこへの寄せ方は論理的。 ・・・エメルソン・レオン('96)
ご存知"マグロンシステム"ですけど、そういうものとして一級品でした。
5.選手の"動き"の具体的なレベルまでコントロールの意識されたチーム作り ・・・松田岳夫('09)
万事機能的でしたが、特に「井上平に点を取らせる」チームに仕上げたのには感動しました。この時以外、井上平は"点の取れる"選手にはなれなかったですからね、他チームでの時含めて。
まあ"ペップのスターリング"含めて、「ストライカー」を作れる監督は概ね成功している監督だと思います。
6."戦術"ありきのチーム作り(の成功) ・・・オズワルド・アルディレス('04年天皇杯優勝チーム)
"3バック"も"ハイプレス"も、事実上初めてこのチームがヴェルディでの成功例だと思います。それまでのアルディレスの(選手本位の)やり方の真逆を成功させたという意味でも、鮮烈でした。つまりはここで初めて、「選手」と「監督」の比重が逆転する。
7.フィールド全面に渡る整然とした選手の配置と動きの構築 ・・・ネルシーニョ('95)
選手の互換性と、特にサイドの選手を使った攻撃パターンの人為性という点で、"6"よりも構造性の次元が上かなと。
8."動き"自体ではなくて動きが生まれる"構造"そのものの構築 ・・・李国秀(総監督。'99,'00)
指示でも誘導でもなく、構造自体が選手の動きを決定し、それが同時に"ゲームメイク"にもなるという理想(像)。ゲームメイカータイプの選手自体は重用していたので、"7"との順位は逆の可能性もあるかも。
一応"5"に置いておきましたが、松田監督が何をしていたのかは、実は僕はよく分からないんですよね、期間が短かったのもあって。ちょっと"整理"と"工夫"が上手かっただけにも見えるし、もっと深い構造を作っていたようにも見える。その"中"を取ったというか。(笑)
"定義"はいかにも直感的ですけど、概ね"4"くらいから、「監督かゲームメイクをしている」と、言い得る要素が出て来るのかなと。
ただ"ポジショナル"云々と比較可能なのは、7,8のみでしょうね。
大雑把な指標としては、「選手の技能・アイデア頼み」→「監督の具体的な指示や誘導に従う」→「構造や一般原則が選手を動かす」という順番で、構造の深さというか"ポジショナル"的現代性が深まるのかなと。
ただし一般的に"監督のゲームメイク"として期待されているのは、むしろ二番目のイメージが中心ではないかとも思います。それで事足りるというか(笑)。余りにも攻撃"パターン"でしかないと、すぐ手詰まりにはなりますが。
・・・せっかくなので、その他の監督についてもざっと分類してみましょうか。
1.松木型 加藤久、エスピノーザ、'06ラモス
2.原オジー型 ロリ、高橋真、冨樫
3.バドン型 ニカノール、小見、三浦泰
4.レオン型 '991st"林システム"の時の李国秀、"07(フッキ・システム)ラモス、高木琢
5.松田岳型 川勝('10-'12)
6.オジー型改 柱谷哲(?)
そもそもが上の監督たち用の類型なので、少々強引ですが。
ロリはエジムンドを擁していい仕事をしたと思いますけど、やはり"依存"の色合いが強くて「レオン型」までは行けないなと。三浦泰は難しくて、見方によれば"6"かも知れない。高木監督は主に"レアンドロ"システムの時の評価。哲さんは"組織的"にやろうとはしてたんでしょうけど、結果ほとんど出来てなくて"1"の可能性すらあると思います。
ちなみにロティーナは現在進行中なので、ノーコメントとさせていただきます。
ただ少なくとも調子の悪い時には、「単なる"バドン"なのではないか」という疑いを抱かせられたということは、書き留めておきたいと思います(笑)。"ゲームメイク"、まで行けるんでしょうか今季は。
次、代表です。