初代から今回取り上げる全盛期のスレイマン一世までの、系譜だけ再掲しておきますか。
オスマン(1世)-オルハン-ムラト1世-バヤズィト1世-メフメト1世-ムラト2世
-メフメト2世-バヤズィト2世-セリム1世-スレイマン1世
コンスタンティノープルの征服
メフメット二世の即位後も、政治の実権を握っていたのはいまだにトルコ系の有力者、特に父ムラトの時代から大宰相の地位にあったチャンダルの当主ハリルであった。(p.91)
前編で触れたネトフリ『オスマン帝国 皇帝たちの夜明け』によると、ムラト(二世)とハリルは主従と言っても同盟関係に近くて、メフメット二世にとっては第二の父親のような存在、結局コンスタンティノープル攻略をコケの一念で成功させるまでは皇帝側(メフメット二世)絶対優位という関係は確立出来なかったという感じですね。"コンスタンティノープル"前、"コンスタンティノープル"後というかなりはっきりした区分け。
こうして準備を重ねたスルタンは、あくまでも攻撃に反対するチャンダルル・ハリルとその一党を、オスマン朝国家が持つ、イスラムの信仰のために戦うガーズィーとしての伝統を盾に押し切って、一四五三年早々に、コンスタンティノープル攻撃を正式に決定した。(p.93)
ここでガーズィーが出て来るのか。
イスラム聖戦士集団ガーズィー(前編参照)とオスマン家は、その勃興の最初期からの結びつきではある訳ですが、それはそれこそ便宜的"同盟"的関係であるのが第一で、オスマンの"イスラム"がそこまでシリアスであるという印象はこの本の範囲ではないですね。
だから若き名ばかり皇帝メフメット二世が親父たち世代へ対抗する為に宗教的求心性を利用した、あるいは煽った、そんな情景は想像される訳ではありますが。「若者世代の右傾化」と、当時の良識派が嘆いたかどうかは知りませんが。(笑)
コスモポリタン君主
メフメットは、即位以前からアラビア語、ペルシャ語とイスラム諸学だけではなく、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語も修得し、ことにギリシアの文献を広く学んでいたことが知られている。(中略)そうした知識に裏づけられ、スルタンは自らをアレクサンドロス大王の衣鉢を継ぐ者とも意識していた。実際、彼は東西の融合を果たすべく、ローマ征服を目指してイタリア半島(オトラント)に橋頭堡を築くことにもなるのである。
またスルタンは、イタリアから芸術家を招聘、保護して、コスモポリタンな文化の育成に努めてもいる。(p.95)
そんな一見"愛国"君主メフメット二世ですが、本来はこういう人だったと。
まあそもそもが"辺境"国家であるオスマンが"コスモポリタニズム"を標榜する事それ自体に、愛国主義の性格はあるとは思いますが。"中心"国家が"外"に開くのとは意味が違って、結局は征服による融合ですからね、正に"アレクサンドロス"がそうであったように。
それこそチンギス・ハンのモンゴルにも、"アレクサンドロス"の例に倣うという意識はあったようですし。そういうある種の"パターン"。みんな大好きアレクサンドロス。
世界帝国の編成
イスタンブルには徐々に多くの異教徒が移り住み、征服後二五年で一〇万人に回復したと言われるこの町の住民の、およそ四割が異教徒ということになった。イスタンブルは、当初から国際都市だったのである。(p.97-98)
イスタンブルは勿論、征服したコンスタンティノープルをオスマンが改名した名前。語源はギリシャ語だとか。
四割異教徒か。
約70年後の世界を描いたドラマ(『オスマン帝国外伝』)の描写だと、それよりはだいぶイスラム純度は高い印象ですけどね。"外国商人"が儲け過ぎるという苦情は出てても"住民"の話という印象は無かった気がします。人口構成が変わったのか、あるいはオスマンの統治の継続安定に従って、ある種の"市民権"としてのイスラム信仰が代替わりや改宗で行き渡ったのか。(ドラマの描写を信じるならばですけど)
新航路の模索
このように、オスマン帝国の存在は、基本的には東地中海世界に新たな秩序をもたらし、盛んな交易活動を保障するものではあったが、同時にヨーロッパ諸国にとっては、中継貿易が滞 りなく円滑に行なわれるための不安定要因でもあった。
そもそもオスマン帝国は、軍事・行政・経済の重心をアナトリア[半島]とバルカン[半島]東部においた内陸国家であった。それは東地中海を制圧しはしたが、食糧の補給を、地中海周辺からの海上輸送に頼っていたわけではなかった。またその首都イスタンブルは、紅海からも、ペルシア湾からも遠くへだたっていた。こうしたオスマン帝国による東地中海の制覇は、ヨーロッパ諸国に、より安定した香辛料の供 給ルートを模索させることになる。(p.113)
オスマンに邪魔されたこそのアジア直通ルートの開拓、大航海時代という。
確かに「内陸国家」感はドラマを見ていても感じなくはなかった気がします。海軍が外注(海賊)なのは勿論ですし、「世界帝国」「世界帝国」と連呼しながら何か閉じている印象。"陸"の中でも(両)"半島"が中心で、草原的な広い光景も見当たらない。狭めの土地の連なりというか。
メンタル的にも、これはドラマ自体の描写の限界や現代"トルコ"の方の問題なのかも知れませんが、帝国外の地域や人々の描き方が類型的というか雑というか(笑)。自己中心に過ぎるというか。
一六世紀初頭の危機
(バヤズィト二世の)長兄のアフメットは父にも愛された有能な行政官だったが、軍事的には無能でイェニチェリたちに嫌われていた。(p.119)
スレイマンの父親のセリム1世の兄貴の話。
やはり"軍事集団"という出発点からの流れが脈々と生きている感じと、ドラマでも散々駄々こねて暴れていたイェニチェリの支持が、既に後継決定に大きな要素となっている様子。
スレイマン一世の登場
八年間の短い治世でセリムが病死すると、一五二〇年、すでに二○代半ばに達していた息子スレイマン(一四九五?~一五六六)が後を継いだ。四六年におよぶその治世を通じて、オスマン帝国を文字通りの世界帝国として歴史に輝かせ、ヨーロッパ人にさえ「壮麗者」と呼ばれたスレイマン一世の登場であった。
彼は皇太子としてのほぼ全期間を、エーゲ海沿岸地方の総督として過ごし、そこで、いわば治世の実地を学んでいた。トルコ語で「立法者」(Kánini)と呼ばれることに象徴されるように、 スレイマンは単なる征服者ではなく、帝国の集権化を図り、統治の合理化を果たすべく多くの法典を発布するスルタンである。彼の時代にオスマン帝国は、時代と地域の実情に適合した合理的な法と、それを運用する官僚機構とを整えた中央集権的国家になってゆく。(p.121)
ドラマではほとんど描かれなかった"実績"部分なので、確認的に。(笑)
ローマ教皇とオスマン帝国
一五五五年に教皇位に就いたパウルス四世(一四七六~一五五九)は、すぐにオスマン海軍によるイタリア攻撃にさらされたが、彼にとってより重大だったのは、それよりむしろ、アウクスブルクにおいてカール五世がプロテスタント諸侯と帝国都市とに譲歩し、ルター派を公認してしまったことだっ た。(中略)
一五五六年末に枢機卿をヴェネツィアへ送り、反スペイン同盟を模索させた。そしてそのヴェネツィアは―――常識とは裏腹に――プレヴェザ(一五三八年)、レパント(一五七一年) 両海戦の前後を例外に、 スレイマン時代のオスマン帝国とは友好的関係を保つことに腐心していたのだった。イスタンブルに駐在するヴェネツィア大使こそが、常にヨーロッパに関する機密情報をオスマン側に伝える役割を果たしていたのである。(p.146-47)
神聖ローマ皇帝カール五世。説明がややこしいですけど、大雑把に言うと(滅亡した)西ローマの後継を自称するドイツ広域国家"神聖ローマ帝国"の君主。"カルロス一世"としてスペイン国王も兼務し(そっちが本拠)、フランス国王と当時のキリスト教世界を二分する勢力の片方。(Wiki)
上で言ったように、『オスマン帝国外伝』の外国/ヨーロッパ人描写は熱意があるとは言えないもので、見ていて明確に印象に残っている人も少ないだろうと思いますが、一応他ならぬ"教皇"周りの動きと、あと確かにちょいちょいちょろちょろしていた(笑)ヴェネチア大使の動きが書いてある箇所なので引用しておきます。
なおイタリアの都市国家ヴェネチアとオスマンの関係性について前提的なことを言っておくと、基本的に(東)地中海の貿易・支配権を争う長きに渡るライバルで、ヴェネチア単独でオスマンと戦端を開いた事さえあります。メフメト二世がコンスタンティノープルを攻撃した時も、要請に応えて援軍を送った国はヴェネチアだけだったという。(ただしその時は間に合わなかった)
イブラヒム・パシャの処刑
スレイマンの治世の前半を支えてきた寵臣イブラヒム・パシャが一五三六年に処刑されたことが、ヨーロッパの芸術家、職人の保護者としてのオスマン宮廷の性格を転換させた。(中略)
彼は、ヨーロッパの工芸品に対して、ほとんど湯水のように金をつぎ込んでもいた。メフメット二世以来の、芸術家のパトロンとしてのオスマン宮廷の役割は、イブラヒム・パシャによって、ほとんど地中海全域を覆うコスモポリタンな文化の演出者の地位にまで高められようとしていたのである。(中略)
イブラヒムの財産はスルタンに没収され、そして彼の後釜にすわった大宰相たちは、いずれも財政の引き締めを打ち出した。その結果、ヴェネツィアなどへの工芸品の発注も激減することになった。(p.150-151)
この本は特に主題的にイブラヒム・パシャを取り上げてはいないんですが、その中で強調していたのはここ。ドラマの中ではそこまでの印象は無かった(むしろ軍事面の活躍シーンが多かった)ので、そうだったのかと。
ドラマでは単なるイブラヒムの個人的趣味ヨーロッパかぶれとして、イスラム主義者からの攻撃の的になっていた部分ですよね。こんな文化的文明的意味/目的があったのかという。
イスラム化への傾斜
老境にさしかかると、スルタン自身もイスラム神秘主義に傾倒していったと言われている。そうした君主の変貌は、かってメフメット二世やイブラヒム・パシャによって推進されていた、東西の融合によるコスモポリタンな文化の創造という壮大な実験を、色あせた絵空事にしてしまったであろう。そしてイブラヒム・ パシャの処刑後、彼が持ち帰らせたブロンズ像を破壊した人々がいたように、宗教の違いを重視し、イスラムを強調したい人々もまたその数を増していたと思われる。(p.159)
イブラヒム・パシャ処刑後のスレイマン。(処刑当時は42歳。死去時71歳)
イブラヒムの在世中&死後の彼がギリシャから持ち帰って鑑賞していたブロンズ像に対するイスタンブル市民の風当たりの強さについては、ドラマのそのシーンを見ていた当時はごく一般的なイスラム純粋主義的感情だとしか思っていなかったんですが、その後この本などで知ったオスマン帝国の"コスモポリタニズム"や"宗教的寛容"、及びその最盛期の君主であるスレイマンが持っていたはずの国際的視野や当然その支持の下に行われた(ドラマでもちらっとそんな描写はありました)ろうイブラヒムの"文化事業"の性格を考えると、若干の違和感を覚えなくもないですね。あからさま過ぎないかというか随分気軽に国策に楯突くんだなというか。
上の"イスタンブル市民のイスラム教徒率"の問題と合わせて、ドラマの描写が単純化され過ぎているのか、それとも"最盛期"スレイマンの在位時のそれほど遅くない時点で、既にイスラム純粋主義内向き化は始まっていたのか。スレイマン自身の実際のパーソナリティ(の変化)含めて。
まあここらへんは、別にもっと学術的な本でも見てみないと分からないのかもしれませんが。
スレイマン一世死後(の衰退)
たしかにオスマン帝国には莫大な富が存在していた。
だがオスマン帝国の富は、まず第一に宮廷とその周囲に偏在していた。そして第二にその宮廷人や軍人、宗教知識人たちも、いつスルタンによってその富を没収されるかわからない状況に置かれていた。もともと彼らの富は、スルタンの恩寵とし て与えられたものだったからである。第三に、無事にその富を守りおおせても、それは分割相続の定めによってしだいに細分化される運命にあった。
そして第四に、富貴の人々はその富をもっぱら都市の不動産へ投資した。オスマン帝国の経済政策は、帝国内での安定供給をあえて言えば消費者の保護を基本に据え、そのため商工業はギルドによって規制され保護されていた。したがって、せっかくの富の集積も、それらが新たな産業の育成へ向けられることはなかったのである。(p.170-171)
経済面の理由。オスマンの富・経済が西欧近代的な無限ともいえる"発展""拡張"の方向に行かなかった理由。
重要というか面白いなと思ったのは第四ですね。先ほどの「内陸国家」という話とも重なりますが、"三大陸にまたがる大帝国"オスマンの、意外で独特な内部完結性。
恐らくはある種の「イスラム・ユートピア」国家だったのではないかなと、"富"が「拡張」や「投機・投資」による無限化ではなく、"消費者保護"帝国臣民の安心安全の方により振り向けられていたというここの説明を見る限り。構造的には中世ヨーロッパにも「キリスト教ユートピア」的な性格はなくはなかったんでしょうが、いかんせん貧しかった(笑)。みんなで貧乏。
無限発展的経済という意味での"近代"は無かったけど、ある種の"民主主義"はあった?
まあ現代のアラブの産油国とかを考えると、"豊か"だからといって余り理想化するのは危険そうではありますが。"隣の民主主義"を知らない分、皇族絶対支配のストレス自体は現代程は無さそうですけど。食えれば満足、自由とかはそれほどでも?
教会組織を持たないオスマン帝国では、宗教はきわめて緩やかに人々の間に行き渡っていた。「正統的」教義から見ればほとんど異端と見えるような儀礼や習慣までが、疑われることもなくイスラムの信仰として人々に受け容れられていた。さまざまな形でさまざまなレヴェルに、イスラムは「正しい信仰」としてしみわたっていたのである。
宗教を桎梏(しっこく)とみなすような考え方は、そこでは生まれにくかったであろう。中世において偉大な思想家や哲学者を輩出したイスラム世界が、「近代的思惟」の面で目に立つ貢献をしていない理由の一半は、そのあたりにあるのではないかと思われる。(p.204-205)
今度は精神面。十分に知的な文化・文明だったのに、(西欧)近代的"自我"や"個人"の意識が発展しなかった理由。
教会組織の直接的監視・干渉やそれを一因とする教義の厳格化が行われなかったゆえに、それとの格闘としての"プロテスタント"や"ルネッサンス"(自由な精神の「回復」)も起きなかった的な話。なるほど。
結局だから、自己完結的な(僕の言い方ですが)「イスラム・ユートピア」がある種完成してしまったゆえに、そこで終わった、それ以上変わるモチベーションが得られなかったと、そういう話になりますか。"不幸"だったから"進歩"した西欧と、"幸福"だったから衰退したオスマン。
まああんまり勝ったから偉いとか自己完結的な幸福が駄目だと決めつけてしまうと、「近代主義」を礼賛しているだけで逆に最近・今後の人類の問題に対する視野という点で実りの少ない話になってしまうと思いますが。"あの当時"の問題の整理としては、こういう話のようです。
以上でだいたい、ドラマとの関連を中心に僕が興味を惹かれた部分については書けました。
入門書としてはかなり絶妙な感じのする本なので、お薦めしておきます。
この本自体も読み易くて楽しい本でしたが、それ以上に何か、久しぶりの「読書」に脳が喜んで喜んで。(笑)
13世紀後半から近代にかけて、コンスタンティノープル/イスタンブールを中心にアジア・ヨーロッパ・北アフリカにまたがる大帝国を築き上げたオスマン朝(帝国)を、古代以来のトルコ系民族(匈奴・突厥・セルジュク朝等)の興亡から遡って書いた本。
現在チャンネル銀河&Huluで放送/配信中の、いよいよ最終第4シーズン最終盤を迎えようとしている世界的人気ドラマ『オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム』(2011~)の副読本として読んだわけですが、そういうタイプの初心者に見事に打ってつけの、コンパクトかつ総合的で、ドラマを見ていて感じた疑問にもいちいちピンポイントで答えてくれるお役立ち本でした。・・・あとがきを読むと著者はトルコの近現代の方の専門家であってオスマンの専門家ではないとのことなので、その"門外漢"の距離感が逆にちょうど良かったのかなという印象。
その中から特に面白かった部分&ドラマとの"答え合わせ"に役立つ部分を、抜粋。
まずは(前編)として、オスマン朝の誕生から世界"帝国"になる直前までの時代を。
オスマン朝の起源
"アナトリア"(Wikiより)一一世紀末からアナトリアを荒らし回ったテュルクメン兵士は、「ガーズィー」と呼ばれていた。ガーズィーとは、イスラムの信仰のために戦う戦士のことである。
一三世紀の末に、イスラム側とビザンツ側との勢力争いの境界線は、西北アナトリアにあった。しかもビザンツ権力は衰微して辺境を統率する力を失い、またイスラム側にも、これを統一的に支配する権力は生まれていなかった。こうしてアナトリア西北部は、一種の権力の真空地帯、あるいは無法地帯となったと思われる。(p.61)
・アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域。現在はトルコ共和国のアジア部分。"小アジア"とも言う。
・北は黒海、西はエーゲ海、南西は地中海に面す。東と南東は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。


・左はアナトリアの位置、右はオスマン朝成立間もなくの政治的な位置についての地図(p.68-69)。
"テュルクメン"・・・部族組織を維持したまま改宗してイスラム世界に進出して来たトルコ系遊牧集団。(p.44)
冒頭で述べた古代/東北アジア以来のトルコ系諸民族の歴史及びその中でのオスマン家の位置については割愛。というか後者については未だ正確なところは余り分かっていないということで、ここの記述も著者の想像・推測が多分に入っているよう。そうした混沌の中で、イスラム側にもビザンツ側にも、戦闘(あるいは掠奪)を生業とする集団が土着化していたと考えられる。おそらく彼らは「侠気」のような独特のモラル、あるいは価値観を持っていたと思われる。(中略)その中でイスラム側の人々が、「ガーズィー」と呼ばれていたのである。(p.61)
(中略)
[始祖]オスマンは、ガーズィーたちを食客として養っていたのである。そして彼がビザンツ側の領土を占領すると、ガーズィーたちに「村を与え、土地を与え、財物を与え」ていたことが、やはりその年代記には記されている。
(中略)
遊牧首長だったオスマンは、いつのまにかガーズィーたちを養い、彼らの戦力を用いてビザンツ側に攻撃を仕掛けることを日常とする集団の首領となっていったと、考えることができるのではないだろうか。(p.62)
ちなみにWikiだとこう。
正確な起源はともかくとして、とにかく「軍事的な集団」として歴史に現れたのは確かなよう。専門的戦闘集団というか。・・・著者の記述だと、特殊な"侠(おとこ)気"モラルで結びついた武闘派集団というか。(笑)13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。
まあ中国の王朝とかも、そんな感じの集団が興した例は結構ありますね。漢とか明とか。
後にヨーロッパ/キリスト教世界を震え上がらす不敗のオスマン軍や、あるいはドラマ『オスマン帝国外伝』での常備軍"イェニチェリ"(後述)のいつも爆発寸前ちょいちょい勝手に暴れ出す姿などと、イメージ的には合致する"武闘派"起源ではありますが。
さらに重要なことは、オスマンの下で働く部下、寄騎(よりき)、さらに盟友が、決してイスラム教徒に限られていたわけではなかったことである。(p.64)
出自や宗派より男気。一緒に戦えばみな「兄弟」。(きょうでえと読みたい)「民族」や「宗教」もそうした[侠気]「価値観」の一つに過ぎなかったから、イスラム教徒とキリスト教徒とが手を組むことも、そこでは日常茶飯事だった。(p.61)
初期オスマン朝の支配体制
先に始祖からドラマの時代の皇帝でもある、最盛期スレイマン一世までの歴代首長/皇帝の系譜を挙げておきますか。(詳しくはこちらまたはこちら)
オスマン(1世)-オルハン-ムラト1世-バヤズィト1世-メフメト1世-ムラト2世
-メフメト2世-バヤズィト2世-セリム1世-スレイマン1世
メフメト2世は東ローマの首都コンスタンティノープルを陥落させて、名実ともに世界"帝国"としてのオスマンを確立させた人物。(扱うのは次回)
では本題。
[初代]オスマン、[二代]オルハンの支配体制は素朴なものであった。そこでは行政と軍事が未分化なまま、テュルクメン部族やキリスト教徒の---あるいは改宗した---有力者たちに担われていた。「国家」の方針はこれらリーダーたちの合議によって定められ、オスマンもオルハンも、その第一人者、あるいは調停者にすぎなかったと考えられる。(p.71)
出た「御前会議」。あの意味があるのか無いのかよく分からない。(ドラマ目線)スルタンの国事が煩雑になるにしたがい、イスラム国家に広く行われていた宰相(ヴエジール)の制度がオスマンでも採用された。当初はスルタンの代理として政務に当たる職であった宰相には、のちに職務内容別に複数の有力者が任命され、[三代]ムラト一世の時代には、彼らによる御前会議が政策の最高決定機関となっていった。(p.72)
ドラマではさっぱりよく分からないですけど、一応それぞれの宰相には専門性があるようですね。
念の為"スルタン"とは、
・イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。
・オスマン朝でスルターンの称号を最初に名乗ったのは2代オルハン(Wiki)
"イスラム"国家としてのオスマン
やや前後しますが。
ある時点で意識的に「イスラム」であることを選び取ったことから、オスマン政権のアイデンティティ、普遍性や永続性の基礎が、一つ与えられた。トルコ族自体が、イスラム化以後の歴史も浅く、シャーマニズム的要素を色濃く残していた上に、オスマン朝はビザンツのお膝元であるアナトリアで、[キリスト教も含む]土着の要素と混淆しながら誕生・発展したため、(中略)非常に異教的色彩が強かったと言われている。
であるにもかかわらず、オスマン朝は、正統派イスラムを受容し、それに従い、それを広げることを国家の存在理由として立っていた。(p.71)
後のスレイマン一世時代のドラマの「大宰相」職には、単に"偉い""宰相たちを束ねる""皇帝の代理人"という純権力的意味しか見出せませんが、元はこういうものだったらしい。また、イスラム法の施行が「イスラム国家」としては必須であった。(中略)イスラム法に精通した学者、知識人(すなわちウレマー)(中略)が登用され、司法官として重要な役割を果たすことになった。彼らの中には、さらに行政官として、場合によっては軍事権も掌握する大宰相(サドラザム)として活躍する者も現れた。(p.72)
イェニチェリの登場
義理と人情とイスラム護持の大義名分でオスマン家と結びついている基本的には自生的集団であるガーズィーや、各部族の私兵というか家の子郎党に頼らない、国家独自の軍隊の整備の必要性。ムラト一世の時代には、軍隊もしだいに整備されていった。元来オスマン軍は、最初期からのガーズィー集団を除くと、部族単位に組織され、族長に指揮されるテュルクメン騎兵が主力であった。彼らの武器は弓矢と槍であり、報償は略奪品であった。(中略)
常に戦利品を求める彼らの志向が、ビザンツをはじめとするバルカン諸国と政治的な交渉も行い、国内に確かな支配体制を敷こうとするスルタンの思惑と両立しにくいことであった。こうして、セルジュク朝の場合と同様、オスマン朝も「脱テュルクメン化」あるいは「脱ガーズィー化」を図ることになる。(p.73)
アクンジュ。不正規兵。ガーズィーたちは辺境に送られ、尖兵(アクンジュ)としての役割を与えられた。その役割は、不正規兵として敵地への襲撃を敢行して掠奪を行ない、正規軍の侵入を容易にすることだった。(p.73)
ドラマの字幕では「非正規騎兵」などとも訳されるドラマ屈指のよく分からない概念・兵制の起源は、こういうことだったのか。
前提的にはオスマン朝の支配・統制下に置かれながらも、正規軍には出来ないような汚い仕事や危険な仕事を辺境や敵との隣接地域で行って、正規軍の行動を準備する。
恐らくは普段は特段の命令が無くても割りと勝手に活動をしていて、その自由や野生自体を愛する気風が育っていて、だからドラマナンバー1の伊達男"マルコチョール"も、皇帝(スレイマン)の信頼厚い近侍という身分を振り捨てても隙あらば辺境に戻ろうとしていた。
このように、オスマン軍の主力からガーズィーたちをはずすなら、当然それにかわるものが必要になるだろう。
常備軍団としてスルタンの統制下におかれた徴募兵の軍が、まず歩兵、騎兵いずれにおいても編制された。
だが、より強大、かつ絶対的な忠誠心を持つものとして、やがてイェニチェリが登場することになる。人員は、デヴシルメと呼ばれるキリスト教徒子弟の強制徴発によって供給さ れた。こうしたキリスト教徒の強制的な徴用は、すでにアナトリアのトルコ化、イスラム化の過程でも見られていたが、ムラト一世はこれを、オスマン軍の中核を形成するための制度に練り上げようと したのだった。(p.74)
"イェニチェリ"彼らは君主の「奴隷」であったが、その言葉が実際に意味するところは、君主との間に擬似的血縁関係を結んだ者、すなわちほとんど「養子」であり、し たがって彼らは国家の支配階層に属し、給与を支払われた。(p.74)
・14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団
・当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラーム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる
・長官であるイェニチェリ・アアス以下部隊ごとに分かれて強い規律を持ち、16世紀までのオスマン帝国の軍事的拡大に大いに貢献した。同じ頃にヨーロッパで銃が普及し始めるといち早くこれを取り入れ、組織的に運用した(Wiki)
このイェニチェリとそれ以外の常備軍・正規兵との違いがなかなか分かり難いところですが、簡単に言えば前者は"奴隷"で"歩兵"、後者は"自由民"で"歩兵・騎兵混合"という感じですかね。
ただ"奴隷"と言ってもその地位は高く、例えばメフメト二世のコンスタンティノープル攻略を描いたネットフリックスの半ドキュメンタリードラマ『オスマン帝国 皇帝たちの夜明け』(2020)によると、当時のオスマン軍の例えば攻城戦のセオリーでは、まず新顔捕虜や犯罪者などの最底辺のそれこそ"奴隷"軍が、第一陣の切り込み隊として"死に"に行かせられる。次に彼らが切り開いた血路を「正規軍」が広げに行く。その後の真打ち、切り札として最後に投入されるのがイェニチェリというそういう三段構えが取られていたということ。
先に死ぬのは自由民の方(笑)。恐らく装備にも育成にも金がかかってるんでしょうが、イェニチェリには。
そして何より重要なのは、"奴隷"でありかつ皇帝の"養子"でもあるという特殊身分からの絶対的な忠誠心で、こうした性格の軍団の力を背景に、皇帝家の国家内における絶対的地位が確立され、またこうした彼らの優劣入り混じった特殊な自負心・自意識が、後にはしばしば暴走して帝国の悩みの種ともなったわけですね。
バヤズィト一世の治世
そのイェニチェリを整備した三代ムラト一世の次代。
軍だけでなく、官僚についても"奴隷"身分の皇帝直属の人材が主役なった。彼は、デヴシルメによってバルカン方面から徴集された男童を、兵士(イ ェニチェリ)として使うだけでなく、官僚としても登用することを始めて、オスマン朝のその後の発展に、確かな道筋をつけることになる。
スルタン個人に忠誠を誓う官僚と強力な常備軍とに支えられた絶対君主となることで、バヤズィトはオスマン朝のさらなる発展をめざしたのである。(p.79)
ドラマでは各"宰相"たち含めてお馴染みの風景ですけど、ある時期まではそうではなかったわけですね。
オスマン朝の"普遍"性"寛容"性
そのバヤズィト一世や前代ムラト一世の、オスマンがアナトリアを飛び出してヨーロッパ/ビザンツ/バルカン半島方面に勢力を広げて行った時代の風景。
"オスマン"(人)概念の緩さ。バルカンの諸王(あるいは諸侯)は、国内の権力闘争を勝ち抜くために、あるときはオスマン軍に敵対し、またあるときにはそれに味方をしたのであった。そしてオスマン側は、こうした人々を平然と受け容れていた。そうした態度は、千数百年の昔、匈奴が漢人を利用して以来、遊牧国家がとり続けてきた態度と共通していた。種々の部族の連合体を、支配部族の名である匈奴の名で呼んだように、オスマン朝も、種々の言語を母語とし、種々の宗教を信じる人々を糾合した国家の名として、建設者オスマンの名が冠されていたのである。(p.78-79)
宗教的寛容さ。イェルサレム巡礼を果たしたキリスト教徒はメッカへ行って来たイスラム教徒と同じ「ハジェ」としてイスラム教徒からも敬意を表された(p.83)
またはアブラハムの一神教としてのキリスト教への同族意識。
こうした"潜在"力を窺わせながら、次はいよいよ軍事的政治的に、文字通りの「世界帝国」に成長するオスマンの姿を見て行きます。
まあ目も元気になったことですし(笑)。今後は増えるかも。
まずは日本における中国歴史小説の第一人者、宮城谷昌光さんの近著から。
p.39
うーん、ポジショナルプレー。(笑)「敵を虚にする」
というのが、孫武の兵法の真髄である。たとえば楚軍が十万の兵力でも、それを五つに分ければ二万ずつになってしまう。たとえ呉軍が三万の兵力ても、そのままの兵力で二万と戦えば、最初から優勢なのである。そういう状況をつくるのが兵法であるといえる。
"孫武"というのは勿論、所謂"孫子の兵法"の中の人。
宮城谷さんは基本的に道学の人ですけど、意外とここらへん細かくて、別の本ではその孫武(子)の兵法を別のもう少し後(戦国時代の秦)の中国の政治家の発想と比べて、"古い"と批判的に取り上げたりしています。
p.61
今度は"質的優位"の話。(笑)両者の気魄の差は歴然たるもので、いわば質が量を凌駕した。
いや、満更冗談ではなくて、誰だか忘れましたがこの場面では、越の猪突型の将軍がポジショナルな配置を無視して不利な所へ突っ込んで行ってしまったんだけど、対人の質的優位で戦術バランス自体を変えてしまったという、そういう場面でした。
p.9
何となくペップをイメージしますが。かつて越王は理に適(あ)わぬとおもわれる兵術を大胆に敢行して、われらを翻弄した。徹底して理を求めると、ほかの者には不合理に映るのではあるまいか。
クライフだと、本当に不合理なのではという疑いが。(笑)
まあ新しい論理一般が与える印象の話ではあります。
ペップに"不合理"を求めるとすれば、理を「徹底」する際の勢い、"情熱"の部分でしょうね。度外れた率直さというか。
p.294
真の計算。僕が"監督"たちに求めているもの。(笑)利益計算は天の気配をうかがい、先を読んで立てるものであるが、かならず計算違いが生じる、ということを想定しておくのが、真の計算である。
"計算違い"まで、計算しておく。
それは結局、チームと自分の能力の限界を、希望的にでなく、見定めておくということだろうと思いますが。
「マネージする」「責任を持つ」というのは、そういうことだろうと。"予定"ではなく、結末の"予想"。
p.20
冷えた知性とそうでない知性。面白い言い方ですね。この叱咄(しっとつ)には諧謔(かいぎゃく)が含まれている。劉秀の知性が冷えたものではない証左といってよい。懐が深い、といいかえてもよいだろう。
笑いのある知性とそうでない知性と、言い換えてもいいか。
まあひとからげにして申し訳ないですが、伝統的に「頭のいい女性」「女の頭の良さ」が嫌われて来たのは、そこに笑いが欠けていたからだと思います。冷え一方だったから。
だいぶ変わって来てはいると思いますけどね。"ちゃんと"笑える女芸人が爆発的に増えているのが、一つの証左(笑)というか。
一昔前までは酷かったですから。それこそ"オセロ"あたりの世代までは。(松嶋ソロは面白いですけど)
"劉秀"というのは後漢の創始者、光武帝のことです。
・・・まあ何というか、「教訓」性が湿度無く理知的に、しかしあくまで文系的に展開されているのが、宮城谷中国小説の特徴ですかね。
その他"教訓"系。
p.189
俺のことか?智さんはけっこう突っ込みは入れてくるけど、いつも最後までは戦わない。急所をにょろっと避けていく。それでみんなから好かれているのだと思う。そのかわり、女心を鷲掴みにすることも、できないんじゃないか、とわたしは勝手に憶測している。
悪かったな!(笑)
いやほんと、"好かれて"るだけじゃあ、駄目なのよね。(笑)
横浜・黄金町の"ちょんの間"と呼ばれる簡易風俗街についてのルポ的小説。
p.30
ですね。「敵を選ぶときには注意が必要だ。いつしか自分も似てくるからである」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
戦うということは、同じ土俵に乗るということですから。
結果多かれ少なかれ、相手の"流儀"に合わせることに。
似たくなければ、乗らないのが一番。憎むなら、愛せる相手を!(かっこいい?)
他にもいくつか書き留めてあったんですけど、時間が経ち過ぎて自分でも引用の意味が行方不明になってました。
今回はとりあえず、視力回復記念の在庫放出ということで。(笑)
『イギリス史』川北稔編
一冊目。
カナダ、スペインに続いてのイギリスでしたが、一番面白かったのは"古代"のケルト人とゲルマン人とバイキングと定住バイキングの"フランス人"が入れ替わり立ち代わりブリテン島の主導権を争っていた頃(笑)。あとローマ人か。(意外と影薄い)
・・・しかもその誰も、別に"原住民"ではないという、混沌。(笑)
中世に入ると、単なる王侯貴族の内輪もめ。誰が誰だか。
で、話はいきなり飛んで、18世紀以降の近代&産業革命・資本主義の時代に。
p.232
「財政革命」がイギリスでのみ成功した理由は、(中略)納税者の階層の利害を反映しえた議会による保障があったことがあげられている。
"財政革命"については後述。次の本で。
「民主主義」というと今日ではとかく"意思決定の遅滞・不能"性が語られることが多いですが、民主主義のトップランナーイギリスの場合、むしろ議会の"代表"性に国民(納税者)が納得出来たから、大きな政策転換を有機的に行えたという、そういう話。
まあ本来はそうでしょうね。「民意」の反映というのは、つまり"自発性"ということなので。
ただ"代表"者と"有権者"の関係がおかしくなると・・・という。延々クレーム対応に追われるだけになる。
p.251
産業革命のためには、むしろ道路や港湾、運河のような交通手段などの社会資本の整備が重要であった。(中略)
工業化が国家目標となった後発国では国家が自ら整備したものである。しかし、イギリスでは一円の民衆の保護者という意識の強い地主ジェントルマンが、社会的威光のために、それを実行したといえる。
ほお。面白い。
"ジェントルマン"とは何かというと、簡単に言うと「社会的責務意識の強い金持ち」ですね。その"階層"と、そして"文化"。
元は上にあるような要は大土地所有者ですが、後に金融関係者などに"金持ち"の中身が移っても、「文化」そのものは受け継がれます。特に"地主"時代には地域への貢献意識が強いわけですが、そこらへんを日本の感覚で言うと・・・「徳の高い庄屋さん」+「武士道」みたいな感じでしょうか。まあそもそも"庄屋さん"自体、一種の武士道の体現者だろうと思いますけど。
この項自体が言っているのは、イギリスにおける近代の"インフラ投資"は、専ら私人の地域貢献によってなされたということ。+利害意識。
その結果の産業革命が「成功」するということをイギリスが示したから、日本も含む後発国は、「国家」主導でより効率的徹底的にやろうとしたという話。広い意味での"開発独裁"?
道路は、十八世紀初めから有料道路として整備され、運河は一七六〇年代から急速に発達し、「運河マニア時代」を現出した。
だから最初は道路は「有料道路」で、そして運河は大々的な投機の対象になった。
p.358
すでに満州事変に際して、イギリスは主要列強のなかで日本にもっとも宥和的な姿勢を示していたが、再軍備の断行やラインラント進駐というナチス・ドイツによるヴェルサイユ体制への挑戦にたいしても、エチオピアにおけるイタリアの行動にたいしても、イギリスは同じような姿勢をとった。
日英同盟があったから優しかったのではなくて(笑)、基本的に全方位事なかれだったという話。
チャーチルが出て来るまでは。
p.364
四一年十二月、イギリス帝国内のマレー半島とハワイの真珠湾にたいする日本軍の奇襲攻撃によって、それまでヨーロッパとアジアでそれぞれ展開していた戦争が結びつき、戦争が真の意味での世界大戦の様相を呈するとともに、アメリカが参戦したとき、チャーチルは「これで結局われわれの勝利が決まった」と、安堵の念をもらした。
日本がアメリカを引っ張り込まなければ、真面目にナチス・ドイツ勝ったかもしれませんよね、少なくともヨーロッパでは。
日本の"余計なお世話"が、イギリスにとっては"大きな親切"だった(笑)。迷惑有難。
p.364
ファシズムに反対し、民主主義を守る戦争への参加は、イギリス国内での社会改革を要求する声と結びついた。(中略)民主主義のための戦争はそれを戦う国の内部での困窮の克服につながるべきあるとの主張がさまざまなかたちでなされた。
これは大変面白い話。
簡単に言えば、対ファシズム戦争による"民主主義"意識の昂揚が、"民主主義的"社会、つまり所謂「福祉国家」政策を一気に進めたという話。金は無かったんですよ、戦時中は勿論、戦後も。"意識"でやった。
一方で現代のアメリカは、"対テロ戦争"によって国内が"非民主化"したわけで、それとのコントラスト。多少アメリカに、酷な比較かも知れませんが。
p.367
かつては中流階級以上の家庭の印であった家事奉公人がこの戦争によってほぼなくなった点も注目に値する。
一方でこんな"悲劇"も。ああ、メイドさんが!(そういうことではない)
民主主義反対。
アイルランド
サッチャーを経てトニー・ブレア労働党政権の始まりまで一通り解説した後で、別にアイルランドだけを解説した章がつけられています。いわゆるUKの北アイルランドだけではなくて、アイルランド島全体の歴史。知らないことばっかりでした。
p.415
しかし、現在の北アイルランドには、一方で自らをイギリス人と認識し、北アイルランドをイギリス(連合王国)の不可分の一部とする、ユニオニストと称する人びともいる。
"北アイルランドの独立したい人たち"対"イギリス"というのはむしろ"後"の話で、本体は北アイルランド内部の争い。それがカタルーニャ等、各国の分離独立運動とは少し違うところ。
言い換えると北アイルランド紛争のとりわけ陰惨な感じは、その「内戦」性に起因するのかなという。
加えて言うと、"カトリック"対"プロテスタント"という「宗教戦争」性、それにそれぞれの背後勢力としてのアイルランド本国(北部六州以外の二十六州)とUKの「代理戦争」という側面も重なっています。
戦争を煮詰まらせる要素大集合という感じで、ほんと悲惨です。
ちなみに「北アイルランド」そのものは、そもそもプロテスタントが圧倒的に優位な地域がそれを大きな理由としてUKに残留したものなので、そこにおける"プロテスタント"対"カトリック"というのは、対等な争いというよりは"支配勢力"対"被支配勢力"の争いというのが、本来の性格です。
語弊があるかも知れませんが、南アのアパルトヘイトに近い印象。分離されているのは、「人種」ではなくて「宗教」ですが。
p.416
アイルランドにキリスト教がもたらされるのは、五世紀のことである。今もアイルランドの守護聖人として敬われている聖パトリックらの修道士たちによる精力的な布教活動により、アイルランドは、殉教者の記録がないほど順調にキリスト教化された。(中略)
七世紀ごろまでは(中略)西ヨーロッパのキリスト教の一大拠点でもあった。
へええ。ケルト(ドルイド教)と、特に喧嘩はしなかった模様。
多分伝わった"キリスト教"自体がそんなに"ローマ"的教条的ではなくて、なので後にローマが支配力を強めると、丸ごと「異端」的な扱いになってしまいます。
でもなんか今でも残ってますよね、キリストとケルトの、密やかな結合みたいな感じは。イギリスの、特にスコットランドを描いた"田舎"のドラマを見ると。ウェールズのドラマも、なんか変だったなあ。(笑)
『株式会社の終焉』水野和夫
二冊目。
結構話題なった本、かな?
昔堺屋太一が、「近代/成長経済の時代が終わってこれからはゼロ成長の「中世」が来る」ということを書いていたのを読んだ記憶があるんですが(子供の頃なので覚えてない)、主張的には一緒だと思います。
違いは経済学のディテールが細かいのと、堺屋太一が"終わった"と思った後に「電子空間」というフロンティアが発見されて成長経済は延命したわけですが、そのことも踏まえた内容になっていること。
好きなタイプの思想ですけど、本当かどうかは僕には分かりません。経済センスゼロです。(笑)
p.102-103
もはや税収だけでは賄いきれない戦費調達をいかにスムーズにするかが、戦争を勝利に導く決め手となりました。そこで、「名誉革命後の一六九二年に、議会が恒久的な税金を新設して、それを利払いの担保としたことによって国債が誕生した」(富田俊基「2006」p.56)のです。
イギリスは世界に先駆けて王国の借金ではなく、国民の借金、すわち「国債」を発明した。(中略)「王位と債務の継承が不確実な国王の借金の時代が終わり、永続的な機関である議会が借金を保証することによって、国民の借金としての国債の時代が始まった」
上で出て来た「財政革命」ですね。"国債"の発明によって、"財政政策"の幅が格段にかつ安定的に広がった。良くも悪くも。(笑)
税金を作って更にそれを担保にするって、どんな自作自演だよという感じがしますが。
ただ上の本で書かれていることからすると、当時の納税者はそれを支持したわけでしょうね。
この時の戦争相手はフランスですが、その後あらゆる戦争にこの手法は活用されます。
p.122
法律家は次の観点で株式会社に批判的でした。(中略)エドワード・クック卿(1552-1634)にみられるように、「会社には魂がないため、反逆罪で捕まえることもできないし、法の保護を剥奪することも破門することもできない」というのです。
「法人」というのも一種の発明ですよね。トリックというか。(笑)
"実体が無いので責任を追及出来ない"という「非人間性」は、"王"ではなく"議会"が借金を保証するようになったという話とも、似ている気がします。
それ以前にも「国」や「家」の為に個人が特定不能な形で善悪それぞれの行為をする(問題となるのはたいてい"悪い"ことですが)ということは行われていたわけですが、それを経済的なシステムとしてより積極的に、ある意味無限に行うよう、会社特に株式会社という発明が促したという。
p.190
当時は印刷業界が最大の産業でしたが、貨幣経済となって300年以上も経つと、ラテン語を読める上流階級の書庫が満杯になりました。(中略)
そこで印刷会社や出版社は、俗語で宗教改革を迫るプロテスタント側につきました。印刷会社はルターが翻訳した聖書を売りまくりました。
へえ。
・グーテンベルクが発明した活版印刷術の、当時の最初&最大の使い道は聖書の印刷である。
・ルターの宗教改革が成功したのは、かなりの部分、活版印刷術のおかげである。
ということ自体は、割りと知られた話だと思います。
ただここまで積極的な、「印刷業界」の関与があったというのは、初耳でした。ほとんど"陰謀"。(笑)
肝心の「株式会社の終焉」の話が出て来ませんけど、基本ちょっと僕の手に余るので。
簡単に言えば、上でも書いたように"成長"の余地が無くなるので利益極大化を目的とする組織が成り立たなくなる・必要無くなるという話です。"グローバリゼーション"はむしろ最後の詰めで、つまりアマゾンなりグーグルなり、誰かが「世界征服」したらそれで終わるわけです。誰が勝っても、別にパイ自体が広がるわけではない。誰が勝とうが庶民には関係無いというか。(笑)
以上です。
アメリカアメリカのご時世ではありますが、なんだかんだやっぱり「近代」は、「資本主義」は、イギリスなんだなあという感想。
アメリカはその規模が大きいだけ。ほとんどは過去(のイギリス)に例のあるもの。
『カナダ史』木村和男編
p.5
一八六七年のロシアからのアラスカ購入も、カナダを南北から挟み込んで併合に追い込むことが重要な動機になっていた。
今日経済的な密着性は高いものの、その独立不羈のリベラリズムでアメリカとは一線を画した存在感を確立している感のあるカナダですが、建国以来西へ南(テキサス、メキシコ)へ領土を拡張し続けて来たアメリカは、隙あらば北/カナダをも呑み込んでしまおうという意思は当然持っていたし、ある時期までは具体的努力も続けていたという話。
言われてみればいかにもありそうな話ではあるんですが、あんまりそういう領土的緊張感があの二国にある印象は日本人は持っていないですよね。ただ"アラスカ"には確かに違和感を感じるので、そういうことならばむしろ納得。
p.318-319
(一九六〇年の「カナダ権利章典」制定後)各州は人権規約、連邦政府は人権法を定め、それに基づいてそれぞれ人権委員会を設置した。
基本的人権や自由が憲法で保障されるには、一九八二年まで待たなければならなかった。
歴史を見ると、カナダも言うほどアメリカに比べていつも人権意識が高かったわけではないんですが、これはそういう高い低いというより、「連邦制」「地方自治」がいかに「全国」や「憲法」を遅らせるかという、そういう例。"1982年まで憲法で基本的人権が保障されていなかった"とかいうとどんな発展途上国かという感じですが(笑)、それまでは州ごとの規定でやってたということですね。
日本でも"淫行処罰規定"のような地方ばらばらの人権・人身保護タームもあるにはあるわけですが、やっぱりどうも全国一律じゃないと、不安なところはありますね慣れてないのもあって。今の状況でそこらへんが緩むと、酷いことをする自治体とかボロボロ出て来そうですし。"生活保護"とかはまあ、「運用」のレベルなんでしょうけど。
『スペインの歴史を知るための50章』立石博高・内村俊太編
p.64
北東部でも地中海に面した領域、かつてはタラコネンシス属州としてローマ化が著しい地域(現在のカタルーニャ自治州に相当)の状況も、固有の地政学的諸条件に規定されている。
(中略)
政治・外交関係においても文化面においても、とりわけ南仏地域との親縁性が強いままであり続けた。
カナダの次はスペイン。言われているのは8,9世紀、今しも"レコンキスタ"が始まらんとしている中世初頭の話。
最近もスペインからの独立問題で大騒ぎになったカタルーニャですが、"カタラン"のエキゾチックな響きもあって、割りとローカルで純民族主義的な内向きの運動の印象が日本人には強いと思います。
でもこの本で見るとカタルーニャの独自性というのは単にマドリードを中心とする中央政府(旧カスティーリャ王国)への"対抗"意識ということではなくて、そもそもの非イベリア性というか、"ヨーロッパ"との親近性が起源のようで、へえという感じ。かのペップグアルディオラがカタルーニャ独立を熱心に支持しているのも、"民族主義"というよりはそういうコスモポリタニズム的なニュアンスもあっての"非スペイン"ということなのかなと思ったりもしますが、具体的にはちょっと知りません。調べてみようかな。
ただ現在の状況でカタルーニャがスペインからの独立性を強めると、制度的にはEUから距離が出来て"非ヨーロッパ"化する気もしますけどね、そういうつもりかどうかはともかく。
『サッカーという名の戦争』平田竹男
平田竹男氏。元日本サッカー協会専務理事。
主な仕事はマッチメイク等の対外交渉で、これもまあ「国際関係」の本と言えばそう。(笑)
p.17
もし、当初の予定通り03年に最終予選が行われていたら、闘莉王は日本代表の一員としてプレーすることはできなかった。結果的に、SARSによる延期はアテネ五輪代表にひとつの福音をもたらすことになった。(中略)
平山相太、今野泰幸、徳永悠平などU-20代表組の加入も、SARSによって間に合った。
2002~2003年にかけての中国でのSARS流行でアテネ最終予選が2004年初頭に延びたことによる"影響"という話。
そうだったかな。全然覚えてないです。面目ない。
単に「無能な山本監督が"闘莉王の帰化"と"平山の飛び級"という大補強でようやくチームを形にした」事例としてしか。(笑)
じゃああれは実現しない可能性があったのか。
正直あの二人の"新加入主力選手"抜きで、あのチームがチームの態をなせたとは思えないですよね、じゃあ普通に予選敗退があり得たのか。
まあ負けた方が"警告"になって良かったかもしれないという、かなり色々と混乱したチームでしたけどねあのチームは。"谷間"とは思いませんが。
p.178
だが実は、日本も中東の人々から同じように見られている。
ラモスを帰化させ、呂比須を帰化させ、三都主を帰化させ、闘莉王を帰化させ・・・・・・。中東の人たちが、日本の帰化選手を見つめるときの厳しい視線を知ってほしい。
これはちょっと、虚を衝かれました。
たまにアジア外の国が日本とやって、"違う顔"の選手がいることに驚きを示していたことは覚えていますが、アジア内・中東の連中が日本の帰化選手のことをそんな風に(卑怯だ反則だと)思っていたとは。
根本的には日本人の方が、さんざん中東の「身体能力」「個人能力」を羨ましく思っていた、そういう歴史があるわけですけどね。うちにも一人くらい、そういう選手がいてもいいだろうと、そういう感覚。(笑)
まあ帰化は帰化なんですけど、言われてみれば。"助っ人"というか。
・・・ここからは「映画鑑賞」日記。(笑)
『将軍SHOGUN』
まり子「(日本には)プライバシーがないので自分で作らないと。(中略)
自分の周りに壁を築くのです。」
按針「壁とは?」
まり子「本心は壁に隠れています。しきたりの壁。
言葉もそうです。あいまいな表現で、答えをはぐらかせる。」
日本でも放送されて話題になった、1980年のアメリカのドラマ『将軍 SHOGUN』から。
島田陽子演じる英語に堪能な日本女性まり子と、リチャード・チェンバレン演じる"三浦按針"をモデルとしたイギリス人航海士の会話。
恐らくは原作小説由来の、「日本人の対人関係」についての独自説。
"部屋に鍵がかからない代わりに自分に鍵をかける"的な(笑)。なんか言われるとそんなこともありそうな気はします。あくまで気がするだけですけど。(笑)
『紳士協定』
ライター「すぐ調査部の資料をくれ。・・・起こった事件とか数字のだ」
社長「待ってくれ。資料を並べるだけの能なしなら社に18人もいる。わざわざ君に来てもらう事はなかった」
社長「頭を使いアングルを決め、劇的に書き是が非でも読ませるのだ」
ライター「月をつかめだな」
社長「ありきたりの過激論ではない暗示に富んだ物にしろ」
グレゴリー・ペック主演、エリア・カザン監督による、1947年の名作映画。(Wiki)
雑誌社社長の注文に応えて「反ユダヤ主義」をテーマにした連載記事の執筆にかかろうとしたペック演じる外部ライターと、社長の会話。
何が言いたいかというと、ここで語られているような「記事」が、"良心的"な"本物"の記事だという共通理解というか「正義」が割りと最近まであった気がしますが、最近はどちらかというと逆だよねと言うこと。
「資料を並べ」ない、(変に)「暗示に富んだ」ものを書くライターの方が、「能なし」呼ばわれされる。(笑)
"ロッキングオン的印象批評"への冷笑とかもそうですけど。
ある程度はまあ、"サイクル"だとは思います。保守とリベラルみたいなもので。
あるいは"その"スタイル(観)に慣れ切ったライターが増え過ぎたことに対する、当然の反動というか。
ただ時代の要請というか、"実証性"ということについての基本的な要求水準が、決定的に上がったというところも確かにあるようには思いますね。
とはいえ「ソースを示せ」馬鹿にうんざりしている人も少なからずいるでしょうし、僕が書くような横着なものにも意外としぶとく(笑)需要があるようにも見えますし、どうなることやらという。(笑)
ではまた来年。ネタが溜まったら。
いや、ほんとに忘れてるんですけど(笑)。メモだけしたまま。
というわけで特に繋がりは無いですが、溜めててもしょうがないので。
ジュリアン・コープ『ジャップ・ロック・サンプラー 戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか』
本自体は以前紹介しました。イギリスの気持ち伝説的なロック・ミュージシャンジュリアン・コープによる、日本のロックのかなり独創的な研究書。(の、紹介しそびれた部分)p.64-65
シュトックハウゼンは鈴木に、新しいテクノロジーと、それに魅力を感じる自分がいるせいで、「とても人工的なやり方」でサウンドづくりをせざるを得ないのだ、と告白した。(中略)
「わたしにはあなたが、これこれは人工的でこれこれは自然だと称する理由がわからない・・・・・・人工的と言えるのは、あなたが自分の内なる確信に逆らったときだけです。あなたの今のやり方は、そのままで完全に自然ですよ」
シュトックハウゼンというのは高名な現代音楽家で(Wiki)、"鈴木"というのは恐らくは最も海外で有名な日本の禅僧・仏教学者であろう、「鈴木大拙」のことです。
その二人の間でどういうやり取りがなされているかというと、ついつい好奇心に負けて新しい"テクノロジー"を使いがちなシュトックハウゼンが、それは「人工的」で不自然な、根拠の薄い行為なのではないかと悩んでいると告白したのに対して、心からやりたくてやってるならそれは全て「自然」なことだよと鈴木大拙が慰めた、お墨付きを与えたと、そういう話。
僕が解説するとしたら、
1.表現者は常に自分なりの"自然"を求めていて、その"自然"が既存の形式に上手く収まらない時に、必要に駆られて逸脱や"実験"が始まるのであって、変格や目新しさ自体が目的なわけではない。
2.欲望や感情は勿論のこと、観念や思考さえも基本的には一種の"自然"現象として自分の中に「発生」するのであり、内容の是非はどうあれ"それ"に従うのは、少なくとも自然から離れた行為ではない。
・・・といったところでしょうか。前者はシュトックハウゼンの動機と不安の理由を、後者は鈴木大拙の「回答」の背景を、説明しているつもりです。
まあ1.はだいぶ建前的ではあって、多くの、あるいは"凡百の"表現者は、実際には名声を求めて"新奇性"や"革新性"、少なくとも流行遅れではないことのアピールに必死であるわけでしょうが、シュトックハウゼンにとっては(現代)音楽はそういうものではないらしい。
2.は分かり難いかも知れませんが、"確信"や内的思考の、一種の「異物」性ですね。外来性というか。意識にとっての。"自分が"考えたわけでは本当はなくて、ただそうあるようにそこにあるだけだから、「人工」の余地は少なくとも無いという。
"思って"もいないことを言ったりやったり、人の目や耳や流行に配慮して原アイデアから離れ過ぎたアレンジを施してしまうと、それは「人工的」で「不自然」なものになり果てる。あなたはそうではないと、鈴木大拙は言っている。(はずです)
阿基米得『謎のカタカムナ文明 ~秘教科学の最終黙示』
上と直接の関係は無いかもしれませんが、こちらも「内的思考」、前意識的思考と、意識や人格との、容易に捉え難い関係性の話。p.26-27
だがいくら五感を超えた超感覚があっても、それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。
このことは、いわゆる超能力者とよばれる人々を観察すれば充分に明らかなことである。彼らの大部分はペテン師であるが、残りは確かにわれわれにはない超常的な能力をもっているようではある。だが、彼らに共通して見受けられることは、彼らの語る内容には恣意的な解釈と自己顕示欲がどうしようもないほど入り混じっているということである。
・・・と、その前に、何じゃこの本はという話ですが。(笑)
カタカムナ文明という、固有の科学体系や言語体系を持っていた一部では有名な超文明の紹介を中心に、オカルト・陰謀論系の様々なトピックをまとめて解説&ぶった切った感じの本です。
力説している部分と批評している部分と半々で、上は専ら"批評"している部分。
言っているのはどういうことかというと、例えどんなアイデアだろうと天啓だろうと、どんな素晴らしい"霊感"が来ようと、結局はそういう前言語的な情報を言語的意識的に処理する能力の問題は避けられなくて、馬鹿は馬鹿だし下司は下司、仮にインチキではなくてもその部分がお粗末だったり無頓着だったりすると、(社会的に)価値あるもの認められるものは生み出せないと、そういう話です。
猫に小判、豚に真珠、"恣意的な解釈と自己顕示欲"に"超感覚"。
・・・サッカーでもありますね、何でこんな奴にこんな才能が宿ってしまったんだ、せっかくの才能だけど多分この選手はそれを一生活かせないぞと、そんな悲しい気持ちにさせられることが。(笑)
シュトックハウゼンの話と共通しているのは、アイデアや内的衝動そのものよりも、それの取り扱い方、自分自身のそれとの"対峙"の仕方、そちらの方に事態の本質があることが、往々にしてあるという構図です。
まあアイデアや衝動の"無い"人というのは、実際いないわけですしね。後は拾い上げるかどうか、どう拾い上げるか。
中島厚志『大過剰』
話だいぶ変わって。(笑)p.95
EU離脱を選択したイギリスでは、大学教育を受けている人々の割合が国民では23%なのに対して移民では45%に達しており、ドイツやフランスといったEU当初加盟8ケ国からの移民の36%はもとより、中東欧出身者が中心となるEU移民の43%よりもさらに高くなっている。
23%とは低いですね。
ちなみに日本はというと、男女共に50%越えです。(参考)
教育内容を考えると、どちらかというと日本が無駄に高い(笑)という面の方が大きいんだろうと思いますが、いずれにしても移民の方が"倍"の進学率というのは、おそらくはかなり"従来"国民の神経に障る、危機感を煽る数字ではあるでしょうね。僕でも多分、気になる。
"EU離脱"選択時の各種報道では、まだ"単純労働の職場を奪われた"的なイメージでの、反移民感情だったように記憶していますが。
・・・以上評論部門。ここからは小説部門。
吉川永青『戯史三國志 我が糸は誰を操る』
「良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気」。いいスね(笑)。いい表現。p.109
曹操も劉備の変化を感じ取ったらしい。
全身から、良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気を発散している。
"男の子"魂メラメラ。
吉川永青『戯史三國志』シリーズとは、魏パート陳宮、呉パート程普、蜀パート廖淳という、何とも渋いというか地味(笑)な武将を主人公に三国それぞれの視点からの三国志を描いた作品で、読む前は正直舐めてましたが、「まだこんな書き方があったか」と結果かなり驚かされた新鮮な"三国志"でした。
人物造型や拾い上げがいちいち意外でしたし、どちらかというと知将を中心に、かなり"戦術"のディテールが細かいのが特徴的。
といって所謂ゲーム的あるいは理系的な作品ではないんですけど。むしろ"真っ当"という印象。今まで書かれなかったことの方が問題かも知れないという。
陳宮がいい奴で曹豹が使える奴ですからね。驚いた。(笑)
吉川永青『戯史三國志 我が槍は覇道の翼』
前に水滸伝を読んだ時に、(後に)梁山泊に集まるような食いつめ者や流れ者が、何かと言うと「牛肉」を食いまくるので、いったいどうなってるんだ中国ではそんなに牛肉って気安く食べられるものなのかと少し不思議だったんですが、なるほどそういうことか。「牛肉」は牛肉でも要はそこらへんをうろちょろしている水牛、少なくとも食用の"肉牛"ではない野良(笑)の食材を、てきとうに潰して庶民は食ってたのか。むしろ「豚肉」や「鶏肉」の方が、食用に育てられた高級食材である率が高いと。p.12
黄巾党とはいえ、将となれば飯も違う。上等な豚肉や鶏肉を食うこともできるのに、程普は下等な水牛の肉を好んだ。硬く筋張った牛肉を嚙み締めるごとに気が引き締まり、戦場に赴く緊張が胃袋から総身に染み渡る気がするからだ。
Wikiを見ると水牛はそもそもアジア原産で、実際ありふれた"潰し"の利く動物だったみたいですね、なるほど。疑問が解けました。(笑)
篠田節子『インドクリスタル』
何度か書いていると思いますが僕の最も敬愛する女性作家である篠田節子さんによる、現代インドを舞台にした、ハイテク用高純度クリスタルの原石をめぐる日本のメーカー・商社や現地の諸勢力の苛烈かつ複雑怪奇な争奪戦を描いた作品。p.142上
なぜかって?日本人に社員は扱えても使用人は扱えないんだよ。戦後六十年の平等主義が骨の髄まで染みこんでいるからな
今日の地球上で恐らく最も理解の難しい「国」であるインドの、"色々な面"ではなく"全体像"を、「小説」という形式を生かしてともかくも一回描き切ることにチャレンジした力作と、とりあえずはそう評しておきます。
どんな底なし沼にもとりあえず"溺れ"ない算段を見つけて見せる、相変わらず驚異的な耐久力の知性と感性の持ち主で、今回は特に脱帽でした。
上は何というか、この作品に嫌ってほど出て来る、日本人の常識が"インド"に通用しない例の、比較的分かり易い一つ。
日本人は「社員」を"奴隷"のようには扱えても(社会風刺)、「使用人」を威厳を持って扱うことは苦手だという。そういう経験、ないし"教養"が無いから。
まあ一般に"平等"観というのは、当事者間で共有されないと余り機能しないんですよね。良かれと思っても戸惑われるだけというか。
M奴隷の人はノーマルの人が相手では満足出来ない的な。(?)
他にも色々あったんですけど、PCが壊れた時にどっか行ってしまいました。
それに懲りて今更ながらwebストレージというものを導入してみたんですが、使い方があってるのかまだ自信が無い。
いちいち預けるのかと思ったら、勝手に同期してくれるのか。
最近多いパターンですが、ニュースザップで紹介されていたのを半ば反射的に図書館の待機リストに入れて、回って来たので何となく読んでみた本。
基本的には日本のテレビ業界の黎明期を描いた本ですが、後半のBSとCSに関する部分が先日書いたばかりの『HBOの過去・現在・未来』の内容と微妙にリンクしたりもしていました。
ちなみにタイトルの"欲望のメディア"というのはズバリテレビのことで、"欲望を刺激する低俗番組を垂れ流す"的な、ややネガティヴでかつ紋切り型でもある猪瀬氏自身のテレビ観を表しているようです。割りとベタなんですよね、そこらへんが。後でも出て来ますが。だから所謂"表現規制"に関わった?
ただしそれはこの本の内容には実質ほとんど関係が無いので、構わず書いて行きます。
テレビ事業草創期よもやま話
p.54-55
昭和3年(1928年)のこと。早稲田大学理工学部教授川原田政太郎は、テレビの開発を、劇場で観る前提で進めていった男である。実際、その成果はある時期、高柳より華々しかった。人びとは、新しいメディアを劇場で観るものと信じはじめたのだった。
(中略)
スクリーンは「五尺四方」というから、縦横一メートル五十センチとなかなかの迫力だった。ブラウン管ではなく一種のプロジェクターで、スクリーンに投影する方法である。
"高柳"というのは高柳健次郎氏のこと。「ブラウン管」派の研究者ですね。後でも出て来ます。
"劇場"で"スクリーン"で見るということになったら随分テレビのカルチャーも違ったものになりそうですが、とにかくその語間も無くアメリカの方でブラウン管の技術革新があって、結局今日の「お茶の間」への道を、テレビは歩むことになるわけです。
ちなみにこの本によると、日本におけるテレビの研究は、ラジオとほとんど同時に始まっていたそうです。必ずしもラジオ→テレビという、技術的順番ではなかった。
p.78
昭和12(1937)年、NHKが初めて試作した"中継車"の話。指揮を執っているのは上の"高柳"博士です。青緑色の車体の胴体部分には、「テレビジョン」の黄色い大きな文字がくっきり浮かび上がっていた。車といえば黒が常識の時代、四台のバスは東京に着くと警視庁から、派手すぎるので塗りかえよ、と命じられる運命にある。
ここはむしろ、当時の"自動車"カルチャーと警察の権力の風景として、面白かった箇所。(笑)
p.99
"ニューメディア"テレビジョンをプロパガンダに積極的に活用しようとしていたナチス・ドイツが、試行錯誤の末にたどり着いた"最適"バランス。娯楽の優位。ナチス・ドイツのテレビ放送プログラムを調査したエドウィン・ライスは、つぎの数字をあげている。毎日六時間におよぶ主要なプログラムのうち、直接プロパガンダ二十三・七パーセント、娯楽プロパガンダ六十一・四パーセント、いずれとも定まらない放送十四・九パーセント。
(中略)
テレビのもつ散漫さ、である。人びとの顔を無遠慮につるりと撫でるが、内面まで達しない。ヒトラーの昂った声は、テレビよりラジオ向きなのだ。あるいは映画向き。
だからテレビは低俗なんだ、と猪瀬氏は言いたがってるわけですけど、僕はむしろ、「映像」と「音声」の違いの話として、捉えたいですね。そういう話としてなら、分かるというか。つまり確かに"ラジオ"は、"テレビ"とは違う独特の刺さり方をする。"内面"に達する。そういう感覚は、ある。
でも映画がテレビとそんなに違うかというと、それは疑問ですね。歴史的にも、テレビが一般化する以前はテレビの役割をも、映画が務めていたわけですし。
なんか猪瀬氏は、映画が好きらしいです。やけにハリウッドを、尊敬している。正直単なる世代的問題に見えますが。"分析"以前というか。
p.133
"菊田"というのは菊田一夫、元祖『君の名は』(ラジオドラマ)の原作者兼主題歌作詞者。菊田の回想をつづけよう。
「(中略)NHKの放送番組は終戦直後からいままでずっと、そのほとんどすべては、日本人の自由にはならない(中略)、アメちゃん番組だったのです」
GHQ管理下でのNHK"ラジオ"の実態についての証言。
「アメちゃん番組」という表現が面白くて。(笑)
p.205-206
これは割りと日本の特徴的なところで、ヨーロッパなんかはほとんど公共放送中心ですね。だからコンテンツ産業が発展しなくて、その空白にアメリカの映画と日本のアニメが入り放題みたいな、そういう面もあったようです。日本では、(中略)公共放送と民間テレビは、ほぼ同時期にスタートしたのだ。しかも実際には、日本テレビのほうが免許を得たのは早かった。NHKは民間テレビに引きずられるようにして開始を急がされたのである。
ちなみに「日本テレビ」というのは今見ると凄く偉そうな名前に見えますが(笑)、この当時は本当に民間の資本と技術を結集した唯一無二の"テレビジョン"プロジェクトで、だから上で「民間テレビ」と言っているのはそのまま日本テレビのことです。
その後しばらくしてTBSが出来て、次だいぶ空いてフジとテレ朝(の前身)が出来ると、そういう経緯。
p.275
"木村政彦"でピンと来る人は来るでしょう、この"小生"とはかの力道山のことです。(笑)「取組みの話ですが、リーグ戦でもタッグチーム試合でもどうにでもできますが、山口(利夫)氏が来ていろいろ話をしたことも想像できます。しかし、小生は彼たちが客に満足できる試合をやれないと思います。木村(政彦)なら名前もあるし山口よりは早いが、あんまり小さいので段が違いすぎると思います。(中略)一番大切な取組みのことですから、将来に影響することはできないと思います。」
日本での旗揚げを目前に控え、顔繋ぎも兼ねてアメリカ転戦中の力道山が、日本で段取りに走り回っている興行主がよこした経過報告に、クレームをつけた手紙。文体が・・・なんか意外な感じで面白いですね。(笑)
"山口利夫"というのは柔道家あがりの、日本で力道山より少し先にプロレス(まがい。力道山に言わせると)団体を立ち上げた人。それと既に柔道家として高名だった木村政彦が、力道山一座に合流して色々と勝手に仕切りたがっている、それに力道山が釘を刺している図です。
p.277
昭和29(1954)年、あくる二月旗揚げ公演のシャープ兄弟の初来日を控えて、でもさっぱり盛り上がらない前景気に業を煮やした力道山が、辛うじてプロレスの知識のあった毎日新聞の記者に書かせた記事。伊集院記者の署名入りの記事が載ったのは、一月二十九日付のスポーツ欄である。「血みどろで、打つ、ける---スリル満点 プロレスリング」
(中略)
ルールの説明が中心で、啓蒙的色彩が強い。
"血みどろ"はともかく、"打つ""ける"って、"レスリング"はどこへ行ったという感じですが。(笑)
まあ結果的に力道山の得意技は"空手チョップ"だったわけで、問題無いのかも知れませんが(笑)。とにかくこれが、この当時のプロレスの認知度。
p.334
大宅壮一の、"一億総白痴化"論。大宅壮一の"一億総白痴化論"で、テレビは初めて中身を問われた。その結果が、免許の制約条件に具現化されたのである。
「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。」
(『週刊東京』1957年2月2日号)
この論が与えた影響を猪瀬氏はかなり高く評価しているんですが、ただこれは基本的に猪瀬氏自身の持論でもあるようなので、多少割り引いて考えた方がいいかも知れません。
"免許の制約条件"とは何を言っているかというと、この後放送免許を取得したフジテレビ('57.6月)とテレビ朝日(同7月)に、それぞれ「民族の平和的発展に貢献」「教育局」という放送"内容"についての指定が条件として課されたことです。直接の影響とするには大宅の論からの期間が短過ぎる気もしますが、何らかそういうテレビの放送内容に対する厳しめの時代の空気が存在したことは、確かなようですね。
p.401
これは日本のテレビ事業について、上記高柳博士の主導するNHKが国産規格・ハードによる立ち上げを、正力松太郎の主導する日本テレビがアメリカ規格・ハードの輸入によるより手っ取り早い立ち上げを主張し、結果的に正力側が勝ったことを指しています。そしてアメリカと規格の互換性が高かったゆえに、逆に日本製テレビが後にアメリカ市場を席巻することも出来たと。高柳が正力に敗れなければ、日本は独自のシステムでテレビ放送を始めていただろうから、日本のテレビ受像機との間に互換性がなく、アメリカ市場を席巻する機会は遠のいたと思う。
まあそれだけが理由ということでもないでしょうけど、"歴史の皮肉"を感じさせる事案ではあるかもしれない。
CATV、BS、CS
前にニュースザップで紹介されていた本。2015年1月刊。
図書館で予約して半年以上待ってやっと順番が回って来ましたが、後ろが詰まってるので(笑)全587ページ急いで読みました。急いでレビュー。
"エクサ"とはコンピューターの演算性能を表す単位("フロップス")で、お馴染みの「キロ(バイト)」「メガ」「ギガ」、その上の「テラ」「ペタ」、その更に上に来る単位。(以下"ゼタ""ヨナ"と続く)
現存する世界中のスーパーコンピューターは、「ペタ」の単位で性能を競っているんですが、間もなく、上のWikiによれば来年2018年にも、「エクサ」のスケールのものが登場すると予想されているそうです。
著者は基本放射線科医ですが、色々あってその次世代スパコンの、民間での有力な開発プロジェクトの指揮を執っている人。(齋藤元章Wiki)
その著者による、"エクサスケール"コンピューティングの実現により何が出来るのか、何が起きるのか、どういう世界が出現する可能性があるのか、それを書いた本。
結論だけ言うと、
1.エネルギーがフリー(無料)、無尽蔵になり、エネルギー問題が解決する。
2.次いで衣食住もフリーになり、貨幣経済が終わる。
3.ほぼほぼ「不老不死」が実現する。
と、真に結構というか、夢のような話。昨今語られることの多い、"人工知能"や"ロボット"の発達によるディストピアとは真逆というか。まあ技術的前提自体は、基本同じなんですけど。
とにかく上の大胆な結論がいきなり冒頭(序章)で語られて、以下順にそれぞれの項目についての説明が展開されて行く、そういう構成の本です。
で、読んでみての感想としては、満更法螺話でも疑似科学の類でもないようだけど、さすがにそんなに美味しい話は転がっていないらしいなというものです。(笑)
言い方を変えると、"スパコンがエクサスケール化する"ことが、即ち著者が語るような"社会"を招来する・・・わけではないということ。期待したのに!!(笑)
勿論科学的技術的可能性としてはそれなりのものがあるようですし、著者は著者なりの論理性でそうした(人間)社会の"必然性"を語っているわけですけど。
ただ特に"2"については、読んでいると「コンピューターの性能」以外の部分でどんどん前提が増えて行くというか、まず著者自身の独自の、はっきり言えばいささか幼稚というか素朴でユートピア的性善説的な"社会思想"があって、あるいは"社会思想家"としての著者がいて、「コンピューター」そのものはそれに援用・引用されているに過ぎないという性格が強い、そもそも途中から滅多にコンピューターの話が出て来なくなってたまに出て来てそういえばその話だったなと思い出すみたいな、そんな感じです。(笑)
"1"についてもエネルギーの「生産力」についての技術的予測は、若干楽観的ながらもかなり魅力的、希望に満ちたものに感じられました。ただそれが社会的に「フリー」になるかどうかは、"2"と同様技術タームだけではどうにもならない社会的要因が多くて、うーんというかそれはそれだなという感じ。
"3"については既に著者以外の多くの人も語っていることですし、"エネルギー"や"経済"ほど社会的に複雑なジャンルでもない(反対する人が少ない)ので、まあいずれそうなるのかなという感想ではあります。「不老」についての独自の見解、「体」ではなくて「脳」「精神」を老化させない為の著者の着目点・症例紹介は、かなり興味深かったです。
トータルで言うと、「コンピューター」の話と「社会思想」の話が、いささか無理やりに接合されている印象のある本で、"エクサスケール・コンピューティング"についてだけだったら、分量は半分もあれば十分じゃないかと、大部の本を読まされた恨みを含めれば、そういう感想です。(笑)
ちなみに後で"抜粋"版も出ているようで、さもあらんという感じです。(笑)
まあ面白かったですよ。少なくとも文系の僕には、刺激的な知見が多かったです。
・・・逆に"文系"部分については、苦笑いを禁じ得ないところが多かったわけですがそれはそれで。
ちなみに著者の"思想"的背景として、レイ・カーツワイルというコンピューター科学者、未来予測家の存在があるんですが、一応この本は別の内容(彼の予測"以前")について語られている本なので、今回僕からは特にコメントしません。
代わりに・・・というわけではないですが、今ちょっと言った"文系"的目線から、面白かったことを少し。
コンピューターの性能が良くなると、要するに何が変わるのか
これがピンと来ないから、かの蓮舫氏なども、「1番じゃないと駄目なんですか?」「2番じゃいけないんですか?」とのたまってしまうわけだろうと思いますが。(笑)
いや、でも実際分かんないですよね、正直に言えば、蓮舫氏に限らず。
そりゃ遅いよりは速い方がいいだろうとは思いますけど。どれほどの違いなのか。
あっちにかまけている間に知らない内に溜まってたのを、なるべく気楽なネタの順に放出。頭使いたくない!(笑)
まずは小説系まとめて。
毎度お馴染み宮城谷昌光さん。「人が臥起をくりかえすように、心も臥(ね)ているときと起きているときがあり、臥(ね)ているときには、なにをいってもむだかもしれません。
今日は、公の心が起きていたのです」
(p.98)
心が寝ている時と起きている時か・・・。上手いことを言うな。
この人の言うことはいつもほぼほぼ説教なんですけど(笑)、言い方がエレガントなので素直に聴けるというか、むしろ耳に心地良いというか。
そおっと知らない内に、心を起こしてくれるというか。
そうですね、寝ている時に、あるいは寝ている相手に、何を言っても無駄かも知れませんね。起きる時を気長に待つか、気長に起こすか。
・・・読んだのは少し前なのでうろ覚えですが、状況としては多分、名軍師張良が漢の高祖劉邦に、"部下の進言を聴くこと"について何か話している的な場面だろうと思います。
ご高説、その通りですね。人は憎まれているうちはまだよい。が、怨まれるようになってはならない。
(p.176)
"憎む"と"怨む"との間には、一つ"スイッチ"の切り替えがありますよね。
"憎む"ならまだ「動機」の範疇ですけど、"怨む"となるともう、「行動原理」として固定されてしまう。
双方の正当性が、最早問われなくなるというか。
こちらも常連の、山本兼一さん。ただし故人。「たしかに理詰めで合戦はできぬ。しかし、まずは理を立てねばならぬ。
理の無い戦いを、無理というぞ」
(p.195)
当たり前のことを言っているようですけど、これもまあ、"言い方"の問題。
「歴史もの」の魔力というか。・・・『真田丸』、面白かったですか?(笑)。(例によって見てない)
でもまあ、この"理を立てる"ことと一方で最終的に"理詰めで戦いはできない"ことと、この双方をきちんと押さえれば、サッカーのチーム作りについての理念なんて問題も、それで"足りて"しまうような気はしますが。
それがなかなか難しいんでしょうね。
ただそれにしても、"どちらか"しか言わない言説(&監督)が多くて閉口しますが。
・・・立花宗茂とその妻の女傑誾千代(ぎんちよ)についての、美しい物語。
"大河"にはちょっと、マイナーか。(笑)
こちらは初登場、今野敏さん。なんか似たような名前のアニメ監督がいた気がしますが・・・ああ、あれは"今敏"さんか。(笑)「教えすぎなのですよ」
「教えすぎ・・・・・・?」
「もう一度言います。師の責任というのは、本物を見せてやること。それだけです。あとは弟子の問題です。」
(p.234)
ミステリー作家として有名らしい(Wiki)んですが、これは準時代小説というか、明治初期の沖縄空手の話。
あとは弟子の問題。とりあえずはまあ、文脈によるという感じではありますが。
ただ一つの理想的な師弟関係ではあるよなとは、文脈抜きにしても感じはします。
で、これはどういう小説かというと、沖縄で黙々と伝統空手を学んでいた青年が、いつしか知らず実力を蓄えて、時代の要請で沖縄空手の"近代化"や本土への普及に苦心する話。モデルは実在の人物です。
なかなか面白かったです。後の極真の隆盛によってすっかり悪役というか時代の遺物扱いされるようになってしまった"伝統"空手の、極真とは全く違う角度からの、伝統空手なりの「時代」との格闘の話。
特に新鮮だったのは、極真から"ダンス"と馬鹿にされもした「当てない」空手、その極真の"実戦"主義とは対極にある、当てないどころか本来組手すらしない「型」に専心するタイプの伝統空手の、伝統空手なりの"本物"性の主張が、結構説得力を持って描かれていたこと。「型」が"ダンス"なら、「組手」は"スポーツ"なんですよね、伝統側から見ると。実際「組手」をメインとする武道というのは大きくは講道館柔道が始めたもので、最初から一種の"スポーツ"的楽しさ、それによる普及を意図していたところがある。それを更に真似したのが「組手」派の空手で、その究極が極真と、ざっくり位置付ければそういう話のよう。
で、上では"対極"と言いましたが「型」の空手が「実戦」で弱いかというとそんなことはなくて、型を極めずに目先の技を追って半端に組手ばかりやっている流派、空手家が、型だけやり込んでいる空手家に全く敵わない的な描写も、この小説には出て来る。(小説ですけど(笑))
その真偽を僕が見極めることは出来ませんが、でもサッカーでもあるでしょ?「紅白戦」メインの練習をしている一見"実戦"的なチームが、「戦術練習」メインのチームに歯が立たない的なケースが。「組手」の"実戦"性というのは、場合によってはそういうものであるということ。
とにかくそういう話なので、「本物」の型を「見せて」やるのが師の一番の仕事だという上の話も、それなりの説得力は持って来るわけですね。正確には少し違う、もうちょっと入り組んだ話なんですけど、それはまあ、読んでみて下さい。(笑)
高橋義夫さん。この人も目についたものは、片っ端から読んでるな。時代小説の名手の一人。その月に箱館を訪れた英仏軍館の館長が、榎本に面会を求めて来たので、榎本と永井玄蕃が運上所で会うと、艦長がフランス、イギリスの在箱領事を立ち会わせた上で、一通の文書を読み上げた。横浜在留の両国公使の署名があり、エゾ地を「デ・ファクト」の政府、つまり榎本軍が実効支配している新政府として国際的に承認したことを語っていた。
榎本はこの島は天朝の統治するところで、われわれが新政府と呼ばれるのは心外だと断り、新政府への歎願書を届けることを二人に依頼した。
(p.198)
"榎本"は勿論、榎本武揚ですね。主人公ではないんですけど。
英仏が榎本軍の蝦夷地の"実効支配"を認めようとしていたという話は面白いですね。またそれを、榎本が断ったというのも。・・・だから後に、反乱軍なのに明治政府に叙爵されたのかな?
それが当時の国際常識なのか、それとも英仏による日本分断の陰謀なのか。(笑)
まあこれは、ただのトリビアの類。どのみち榎本軍に、何か"先"があったようには見えないですし。
榎本武揚という人も、優秀なんだかぼんくらなんだか、よく分からない人という印象。
それから非"小説"系。
以前紹介した本です。ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した("聖職叙任権闘争")。
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制を義務化したのである。
(p.137)
これもトリビア系ですが。ほへえ。
何が言われてるかというと、政治的問題で聖職者を世襲にしたくないカトリックが、物理的にそれを不可能にしようと聖職者に"独身"を義務化し、それが回り回って(そこらへんがこの本の主題ですが)「禁欲の美徳」として西欧キリスト教社会を支配したという、そういう話。
まあそれだけでもないんでしょうけど。にしてもひでえ話だな。(笑)
とりあえず"上"にいる人たちが「道徳」を強いて来る時は、ろくな動機は無いですよ。これはもう、目をつぶって石を投げても当たる類。(笑)
古今東西・・・というか、東で投げた石が西で当たっても、大過無いというか。
ああごめんごめん、でもこの前そっちが投げた石がこっちで当たってたから、おあいこね、構わないよね?(笑)
一番メジャーなのは、こういうパターンか。
これも以前紹介した、金光・大本・日蓮宗・浄土真宗の代表者が戦前戦中の宗教状況を振り返って対談している本。この発言は・・・確か金光教の人のだったはず。田舎の福知山藩でも、徳川の寛政の改革が失敗に終わりますと、たいへんなあおりを食って、逆に藩政を緊縮一本にしぼっていく。(中略)朽木倫綱という当時の城主みずからが、藩の領民に、自筆の訓辞を出して、節約しなければいかんとか、親には孝行しなければいかんとか、親切にせよとか、いろいろな細かい訓辞をしております。
これはだいたい政治家が自分の政治の悪い面を棚に上げて、領民にそういう道徳的なものを強いるということは、たいへん矛盾しています。(中略)これはいまも昔もあまり変わらないと思います。
(p.94)
まあ直接宗教の話とかとは関係無いですけど、マイナーかつ具体的な例で面白いかなと。"関係無い"だけに、真実味があるというか。
制度の不備を個人の頑張りに責任転嫁する。ダメ、ゼッタイ!
ついでにそこで出ていた話。
これは大本教の人が言っていたはず。子供時代の王仁三郎が秀才で、"飛び級"したという話の中で。当時の小学校は、満六歳から満十四歳の八ヵ年で、これを上下二等各四年に分かち、各自八級から一級に至る制度をとっていました。また当時の小学校は実力編入制を採用していました。
(p.145)
例えばWikiの"飛び級"の項を見ると日本の話として、
1947年の学制改革以前は、ある程度制度的にも飛び級が可能であった。(中略)
6年制の尋常小学校5年修了で旧制中学校に入学出来る仕組(いわゆる五修)があった。
などと書かれてますね、確かに。
1947年ということは、ほんとに戦後になって、学制は悪い意味でも、固定されたんですね。
"アメリカ"と言えば"飛び級上等"の印象は強いですが、GHQの方針は違ったよう。
まあ、トリビア。豆知識というか。(笑)
詳しくは最近ますますご活躍の("引退"という話はどこへ?)池上さんにでも、聞いてみましょう。(笑)
だいたいこれで、分量的には十分かな。
"重い"のはいくつか手つかずで残してますが。
いやあ、これくらいだと楽だなあ、読書日記は。
年明けたら、また神道も頑張ります。(笑)
・・・タイトル調子に乗ってる?(笑)
でも前回のが『柳生一族の陰謀』
の文字りだったことは、世代的にそろそろ気付いた人は少なくなってるかも知れない。(笑)
"その4"は何にしようかなあ。(他のこと考えろ)
まあでも今回はほんと、"逆襲"の話。
では行きます。
長征
ある日のこと。p.197
「商氏の穏(おん)族長が面謁に参りました。敵中三百里を横断して馳せ参じたとのことですが、如何いたしましょうか。」
例の"陰謀"の首魁、"静"族長から、更に代は替わっています。
・・・余談ですが、"静"かに陰謀をめぐらせた「静」族長に続く、平素"温"容を専らとする「穏」族長ということは、少なくともこの部分は純粋に創作だということでしょうね。(笑)p.198
「何という無益を為(し)てくれたのですか!」
平素の温容をかなぐり捨てて叫んだ。
(中略)
「この居座りで私どもは壊滅的な打撃を被りました。(中略)なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」
話戻してさて、何が起こったのか。
穏族長は何に怒っているのか。
その少し前。市井の風景。
簡単に言うと、連合域外で複数の敵の不穏な気配があった。それに対して堯帝は反応したのだけれど、それがまるで待ちかねていたかのような徹底的で大規模で即座の反応で、余りにも完全な配備だった為に戦端は開かれることなく敵は沈黙したのだけど、連合の大軍はそれを威圧するように警戒を解かず、長期の滞陣を今も続けているというそういう状況。p.190-191
家族は戦(おのの)く心で夫や息子を送り出し、村や嶽都の商氏物産交換所へ走った。
戦乱の予兆は非常の食の備蓄に気付かせたが、それは穀物であって塩ではない。自分が、いまのいままでただの「調味料」を貯め込んでいたことを、人々は漸く覚ったのである。
(中略)
馬車の列は鞭声(べんせい)を撥(ぱち)とも立てることなく粛々と順番を待ち夜陰の渡河の如く進んだ暁に商氏の店で泣いているのか笑っているのか判然(はっきり)せぬ店員に持参の塩袋を渡し、(中略)穀物と換えて貰い、(中略)市場を出かける。
その状況下で起きたのが、一種の"取り付け騒ぎ"。
つまりいつ終わるか知れない戦時の非常用の備蓄として、連合諸民は一斉に、それまでせっせと貯め込んでいた塩を持って商氏の各店舗に穀物を筆頭とする必需品を"買い"に走った、または"預かり手形"としての「商氏の塩」を持って"預けて"あった(はずの)穀物を「引き出し」に走った。それに応える為に商氏の各店舗はおおわらわになっていると、そういうこと。
"陰謀"発露の瞬間。p.199
「<連合>全土の吾が本・支店は丸裸です。帝都・嶽都の大倉庫も空。解池の大倉庫も空、穀物・被服・諸道具・器物、ほとんどすべての物が失くなってしまいました」
「そして塩が残った」
「塩だけ有っても何にもなりません!」
叫んだ途端に穏は慌てて口元を押さえた。
それに伴うやり取りとしては、上で穏族長は「なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」と訴えたわけですが、それに対する堯帝の答え。
・・・簡単に言うと、"塩"を貨幣とした特殊な交換(商売)をしていた、それによって独占的な利益を上げていた商氏の店だけが、この"取り付け騒ぎ"の被害を受けたということ。p.198
「穏君、物事は正確に言わねば誤解を招く。『甚振られ』『壊滅状態』なのは君ら商氏の大商店だけではないのかね」
堯の指摘に穏は押し黙った。
計画
この堯帝による"嫌がらせ"、"商氏いじめ"の出陣には、どのような背景があったのか。
ある日堯帝は、ふと気が付いた。
p.208-209
歴代の帝以下、<連合>諸氏族が全員(そっくり)騙されていたとしたら。
事の始めから商氏の側に騙す意思があったとしたら。
嫌がらせではあるが、その嫌がらせの性格と結果がどのようなものになるかは、商氏次第。p.208-209
そこから独りで理を立てること二月。
遂に、虚実交換の因は商氏の錯誤した誠実に因るか、狡猾な不実に因るか、その二つに一つしか無いと分かった。
この長征は、その卜占であった。
・・・商氏が元々持っていた、「意思」次第というか。
後で述べられるように、この"取引"では構造的に虚物としての塩に対して実物としての穀物等が足りていないはずなわけです。だから商氏が善意であるならば、その"構造"に気付かずに言わば必要の無い実物を用意して足りてしまうか、あるいは足りない原因が分からずに茫然としているはず。p.209
錯誤した誠実ならば彼は十分な実物の用意を有つか、事態不明のままのほほんとしているのでここに来る必要が無い。
狡猾な不実によるものならば彼は実物を有たず、虚実の交換を再開させるため堯の元に来ざるを得ない。
果たして、商氏は来た。悪意の獣であることを彼は証した。
しかし商氏が悪意であって、虚実のアンバランスを百も承知でその取引システムを確立運営していたならば、当然実物は足りないし、その実物の足りない状況を誤魔化す為の唯一の手段であり前提である、虚実の交換プロセスの至急の再開を目指して堯帝の元に戦時状況の終止を働きかけに来るはず、という話。
余計なことかもしれませんが一応言っておくと、堯帝に"底意"があったのは確かですが、しかし何か社会のルールや法を勝手に変えたわけではないし(日本のかつての"バブル潰し"のように?)、外敵に動きがあり何らか軍事的対処が必要であったのも事実で、かつ軍事行動として至って有効だったのも事実なわけですね。
ただ平時には分かり難い"構造"を、若干誇張した"戦時"を演出することで露わにしたと、本来壊れているものをより迅速な自壊に導いたと、そういう話。
まあ、悪辣でないことはないですかね(笑)。法的にセーフではあっても。
商氏がはっきりと"陰謀"をめぐらしていなかったとしたら、後々問題にはなったかもしれない。それが免罪符というか。
とにかく陰謀はあり、それを商氏自ら証明・自白せざるを得ない状況を、堯帝は作り出した。
ははあ。これにて一件落着。p.209
「百年の欺罔(きもう)は、今日、只今、ここで截(せつ)断する」
地を這うような低声で宣言した。
・・・というほど、ことは単純ではない。
"事件"としては、後は処理と処分の問題には、確かになったわけですが。