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齋藤元章 『エクサスケールの衝撃』 :次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の扉を開く
2017年04月17日 (月) | 編集 |



前にニュースザップで紹介されていた本。2015年1月刊。
図書館で予約して半年以上待ってやっと順番が回って来ましたが、後ろが詰まってるので(笑)全587ページ急いで読みました。急いでレビュー。

"エクサ"とはコンピューターの演算性能を表す単位("フロップス")で、お馴染みの「キロ(バイト)」「メガ」「ギガ」、その上の「テラ」「ペタ」、その更に上に来る単位。(以下"ゼタ""ヨナ"と続く)
現存する世界中のスーパーコンピューターは、「ペタ」の単位で性能を競っているんですが、間もなく、上のWikiによれば来年2018年にも、「エクサ」のスケールのものが登場すると予想されているそうです。

著者は基本放射線科医ですが、色々あってその次世代スパコンの、民間での有力な開発プロジェクトの指揮を執っている人。(齋藤元章Wiki)

その著者による、"エクサスケール"コンピューティングの実現により何が出来るのか、何が起きるのか、どういう世界が出現する可能性があるのか、それを書いた本。


結論だけ言うと、

1.エネルギーがフリー(無料)、無尽蔵になり、エネルギー問題が解決する。
2.次いで衣食住もフリーになり、貨幣経済が終わる。
3.ほぼほぼ「不老不死」が実現する。


と、真に結構というか、のような話。昨今語られることの多い、"人工知能"や"ロボット"の発達によるディストピアとは真逆というか。まあ技術的前提自体は、基本同じなんですけど。

とにかく上の大胆な結論がいきなり冒頭(序章)で語られて、以下順にそれぞれの項目についての説明が展開されて行く、そういう構成の本です。


で、読んでみての感想としては、満更法螺話でも疑似科学の類でもないようだけど、さすがにそんなに美味しい話は転がっていないらしいなというものです。(笑)
言い方を変えると、"スパコンがエクサスケール化する"ことが、即ち著者が語るような"社会"を招来する・・・わけではないということ。期待したのに!!(笑)

勿論科学的技術的可能性としてはそれなりのものがあるようですし、著者は著者なりの論理性でそうした(人間)社会の"必然性"を語っているわけですけど。
ただ特に"2"については、読んでいると「コンピューターの性能」以外の部分でどんどん前提が増えて行くというか、まず著者自身の独自の、はっきり言えばいささか幼稚というか素朴でユートピア的性善説的な"社会思想"があって、あるいは"社会思想家"としての著者がいて、「コンピューター」そのものはそれに援用・引用されているに過ぎないという性格が強い、そもそも途中から滅多にコンピューターの話が出て来なくなってたまに出て来てそういえばその話だったなと思い出すみたいな、そんな感じです。(笑)

"1"についてもエネルギーの「生産力」についての技術的予測は、若干楽観的ながらもかなり魅力的、希望に満ちたものに感じられました。ただそれが社会的に「フリー」になるかどうかは、"2"と同様技術タームだけではどうにもならない社会的要因が多くて、うーんというかそれはそれだなという感じ。
"3"については既に著者以外の多くの人も語っていることですし、"エネルギー"や"経済"ほど社会的に複雑なジャンルでもない(反対する人が少ない)ので、まあいずれそうなるのかなという感想ではあります。「不老」についての独自の見解、「体」ではなくて「脳」「精神」を老化させない為の著者の着目点・症例紹介は、かなり興味深かったです。

トータルで言うと、「コンピューター」の話と「社会思想」の話が、いささか無理やりに接合されている印象のある本で、"エクサスケール・コンピューティング"についてだけだったら、分量は半分もあれば十分じゃないかと、大部の本を読まされた恨みを含めれば、そういう感想です。(笑)
ちなみに後で"抜粋"版も出ているようで、さもあらんという感じです。(笑)



まあ面白かったですよ。少なくとも文系の僕には、刺激的な知見が多かったです。
・・・逆に"文系"部分については、苦笑いを禁じ得ないところが多かったわけですがそれはそれで。
ちなみに著者の"思想"的背景として、レイ・カーツワイルというコンピューター科学者、未来予測家の存在があるんですが、一応この本は別の内容(彼の予測"以前")について語られている本なので、今回僕からは特にコメントしません。

代わりに・・・というわけではないですが、今ちょっと言った"文系"的目線から、面白かったことを少し。


コンピューターの性能が良くなると、要するに何が変わるのか

これがピンと来ないから、かの蓮舫氏なども、「1番じゃないと駄目なんですか?」「2番じゃいけないんですか?」のたまってしまうわけだろうと思いますが。(笑)
いや、でも実際分かんないですよね、正直に言えば、蓮舫氏に限らず。
そりゃ遅いよりは速い方がいいだろうとは思いますけど。どれほどの違いなのか。
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テーマ:コンピュータ関連
ジャンル:コンピュータ
読書日記(’16.12.21) ~年末在庫一挙放出
2016年12月21日 (水) | 編集 |
久しぶりに「国家神道」とは関係の無い、ただの"読書日記"
あっちにかまけている間に知らない内に溜まってたのを、なるべく気楽なネタの順に放出。頭使いたくない!(笑)


まずは小説系まとめて。


「人が臥起をくりかえすように、心も臥(ね)ているときと起きているときがあり、臥(ね)ているときには、なにをいってもむだかもしれません。
今日は、公の心が起きていたのです」
(p.98)

毎度お馴染み宮城谷昌光さん。
心が寝ている時と起きている時か・・・。上手いことを言うな。
この人の言うことはいつもほぼほぼ説教なんですけど(笑)、言い方がエレガントなので素直に聴けるというか、むしろ耳に心地良いというか。
そおっと知らない内に、心を起こしてくれるというか。
そうですね、寝ている時に、あるいは寝ている相手に、何を言っても無駄かも知れませんね。起きる時を気長に待つか、気長に起こすか。
・・・読んだのは少し前なのでうろ覚えですが、状況としては多分、名軍師張良が漢の高祖劉邦に、"部下の進言を聴くこと"について何か話している的な場面だろうと思います。

人は憎まれているうちはまだよい。が、怨まれるようになってはならない。
(p.176)

ご高説、その通りですね。
"憎む"と"怨む"との間には、一つ"スイッチ"の切り替えがありますよね。
"憎む"ならまだ「動機」の範疇ですけど、"怨む"となるともう、「行動原理」として固定されてしまう。
双方の正当性が、最早問われなくなるというか。



「たしかに理詰めで合戦はできぬ。しかし、まずは理を立てねばならぬ。
理の無い戦いを、無理というぞ」
(p.195)

こちらも常連の、山本兼一さん。ただし故人。
当たり前のことを言っているようですけど、これもまあ、"言い方"の問題。
「歴史もの」の魔力というか。・・・『真田丸』、面白かったですか?(笑)。(例によって見てない)
でもまあ、この"理を立てる"ことと一方で最終的に"理詰めで戦いはできない"ことと、この双方をきちんと押さえれば、サッカーのチーム作りについての理念なんて問題も、それで"足りて"しまうような気はしますが。
それがなかなか難しいんでしょうね。
ただそれにしても、"どちらか"しか言わない言説(&監督)が多くて閉口しますが。
・・・立花宗茂とその妻の女傑誾千代(ぎんちよ)についての、美しい物語。
"大河"にはちょっと、マイナーか。(笑)



「教えすぎなのですよ」
「教えすぎ・・・・・・?」
「もう一度言います。師の責任というのは、本物を見せてやること。それだけです。あとは弟子の問題です。」
(p.234)

こちらは初登場、今野敏さん。なんか似たような名前のアニメ監督がいた気がしますが・・・ああ、あれは"今敏"さんか。(笑)
ミステリー作家として有名らしい(Wiki)んですが、これは準時代小説というか、明治初期の沖縄空手の話。
あとは弟子の問題。とりあえずはまあ、文脈によるという感じではありますが。
ただ一つの理想的な師弟関係ではあるよなとは、文脈抜きにしても感じはします。

で、これはどういう小説かというと、沖縄で黙々と伝統空手を学んでいた青年が、いつしか知らず実力を蓄えて、時代の要請で沖縄空手の"近代化"や本土への普及に苦心する話。モデルは実在の人物です。
なかなか面白かったです。後の極真の隆盛によってすっかり悪役というか時代の遺物扱いされるようになってしまった"伝統"空手の、極真とは全く違う角度からの、伝統空手なりの「時代」との格闘の話。
特に新鮮だったのは、極真から"ダンス"と馬鹿にされもした「当てない」空手、その極真の"実戦"主義とは対極にある、当てないどころか本来組手すらしない「型」に専心するタイプの伝統空手の、伝統空手なりの"本物"性の主張が、結構説得力を持って描かれていたこと。「型」が"ダンス"なら、「組手」"スポーツ"なんですよね、伝統側から見ると。実際「組手」をメインとする武道というのは大きくは講道館柔道が始めたもので、最初から一種の"スポーツ"的楽しさ、それによる普及を意図していたところがある。それを更に真似したのが「組手」派の空手で、その究極が極真と、ざっくり位置付ければそういう話のよう。
で、上では"対極"と言いましたが「型」の空手が「実戦」で弱いかというとそんなことはなくて、型を極めずに目先の技を追って半端に組手ばかりやっている流派、空手家が、型だけやり込んでいる空手家に全く敵わない的な描写も、この小説には出て来る。(小説ですけど(笑))
その真偽を僕が見極めることは出来ませんが、でもサッカーでもあるでしょ?「紅白戦」メインの練習をしている一見"実戦"的なチームが、「戦術練習」メインのチームに歯が立たない的なケースが。「組手」の"実戦"性というのは、場合によってはそういうものであるということ。

とにかくそういう話なので、「本物」の型を「見せて」やるのが師の一番の仕事だという上の話も、それなりの説得力は持って来るわけですね。正確には少し違う、もうちょっと入り組んだ話なんですけど、それはまあ、読んでみて下さい。(笑)



 その月に箱館を訪れた英仏軍館の館長が、榎本に面会を求めて来たので、榎本と永井玄蕃が運上所で会うと、艦長がフランス、イギリスの在箱領事を立ち会わせた上で、一通の文書を読み上げた。横浜在留の両国公使の署名があり、エゾ地を「デ・ファクト」の政府、つまり榎本軍が実効支配している新政府として国際的に承認したことを語っていた。
 榎本はこの島は天朝の統治するところで、われわれが新政府と呼ばれるのは心外だと断り、新政府への歎願書を届けることを二人に依頼した。
(p.198)

高橋義夫さん。この人も目についたものは、片っ端から読んでるな。時代小説の名手の一人。
"榎本"は勿論、榎本武揚ですね。主人公ではないんですけど。
英仏が榎本軍の蝦夷地の"実効支配"を認めようとしていたという話は面白いですね。またそれを、榎本が断ったというのも。・・・だから後に、反乱軍なのに明治政府に叙爵されたのかな?
それが当時の国際常識なのか、それとも英仏による日本分断の陰謀なのか。(笑)
まあこれは、ただのトリビアの類。どのみち榎本軍に、何か"先"があったようには見えないですし。
榎本武揚という人も、優秀なんだかぼんくらなんだか、よく分からない人という印象。


それから非"小説"系。


ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した("聖職叙任権闘争")。
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制を義務化したのである。
(p.137)

以前紹介した本です。
これもトリビア系ですが。ほへえ。
何が言われてるかというと、政治的問題で聖職者を世襲にしたくないカトリックが、物理的にそれを不可能にしようと聖職者に"独身"を義務化し、それが回り回って(そこらへんがこの本の主題ですが)「禁欲の美徳」として西欧キリスト教社会を支配したという、そういう話。
まあそれだけでもないんでしょうけど。にしてもひでえ話だな。(笑)
とりあえず"上"にいる人たちが「道徳」を強いて来る時は、ろくな動機は無いですよ。これはもう、目をつぶって石を投げても当たる類。(笑)
古今東西・・・というか、東で投げた石が西で当たっても、大過無いというか。
ああごめんごめん、でもこの前そっちが投げた石がこっちで当たってたから、おあいこね、構わないよね?(笑)

一番メジャーなのは、こういうパターンか。


田舎の福知山藩でも、徳川の寛政の改革が失敗に終わりますと、たいへんなあおりを食って、逆に藩政を緊縮一本にしぼっていく。(中略)朽木倫綱という当時の城主みずからが、藩の領民に、自筆の訓辞を出して、節約しなければいかんとか、親には孝行しなければいかんとか、親切にせよとか、いろいろな細かい訓辞をしております。
 これはだいたい政治家が自分の政治の悪い面を棚に上げて、領民にそういう道徳的なものを強いるということは、たいへん矛盾しています。(中略)これはいまも昔もあまり変わらないと思います。
(p.94)

これも以前紹介した、金光・大本・日蓮宗・浄土真宗の代表者が戦前戦中の宗教状況を振り返って対談している本。この発言は・・・確か金光教の人のだったはず。
まあ直接宗教の話とかとは関係無いですけど、マイナーかつ具体的な例で面白いかなと。"関係無い"だけに、真実味があるというか。
制度の不備を個人の頑張りに責任転嫁する。ダメ、ゼッタイ

ついでにそこで出ていた話。

当時の小学校は、満六歳から満十四歳の八ヵ年で、これを上下二等各四年に分かち、各自八級から一級に至る制度をとっていました。また当時の小学校は実力編入制を採用していました。
(p.145)

これは大本教の人が言っていたはず。子供時代の王仁三郎が秀才で、"飛び級"したという話の中で。
例えばWikiの"飛び級"の項を見ると日本の話として、
 1947年の学制改革以前は、ある程度制度的にも飛び級が可能であった。(中略)
 6年制の尋常小学校5年修了で旧制中学校に入学出来る仕組(いわゆる五修)があった。

などと書かれてますね、確かに。
1947年ということは、ほんとに戦後になって、学制は悪い意味でも、固定されたんですね。
"アメリカ"と言えば"飛び級上等"の印象は強いですが、GHQの方針は違ったよう。
まあ、トリビア豆知識というか。(笑)
詳しくは最近ますますご活躍の("引退"という話はどこへ?)池上さんにでも、聞いてみましょう。(笑)


だいたいこれで、分量的には十分かな。
"重い"のはいくつか手つかずで残してますが。
いやあ、これくらいだと楽だなあ、読書日記は。
年明けたら、また神道も頑張ります。(笑)


テーマ:読んだ本
ジャンル:本・雑誌
中村隆資『堯帝春秋』その3 ~帝国の逆襲
2016年04月21日 (木) | 編集 |
その2より。





・・・タイトル調子に乗ってる?(笑)

でも前回のが『柳生一族の陰謀』



の文字りだったことは、世代的にそろそろ気付いた人は少なくなってるかも知れない。(笑)
"その4"は何にしようかなあ。(他のこと考えろ)

まあでも今回はほんと、"逆襲"の話。
では行きます。



長征

p.197
「商氏の穏(おん)族長が面謁に参りました。敵中三百里を横断して馳せ参じたとのことですが、如何いたしましょうか。」

ある日のこと。
例の"陰謀"の首魁、"静"族長から、更に代は替わっています。

p.198
「何という無益を為(し)てくれたのですか!」
平素の温容をかなぐり捨てて叫んだ。
(中略)
「この居座りで私どもは壊滅的な打撃を被りました。(中略)なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」

・・・余談ですが、"静"かに陰謀をめぐらせた「静」族長に続く、平素"温"容を専らとする「穏」族長ということは、少なくともこの部分は純粋に創作だということでしょうね。(笑)

話戻してさて、何が起こったのか。
穏族長は何に怒っているのか。
その少し前。市井の風景。

p.190-191
家族は戦(おのの)く心で夫や息子を送り出し、村や嶽都の商氏物産交換所へ走った。
戦乱の予兆は非常の食の備蓄に気付かせたが、それは穀物であってではない。自分が、いまのいままでただの「調味料」を貯め込んでいたことを、人々は漸く覚ったのである。
(中略)
馬車の列は鞭声(べんせい)を撥(ぱち)とも立てることなく粛々と順番を待ち夜陰の渡河の如く進んだ暁に商氏の店で泣いているのか笑っているのか判然(はっきり)せぬ店員に持参の塩袋を渡し、(中略)穀物と換えて貰い、(中略)市場を出かける。

簡単に言うと、連合域外で複数の敵の不穏な気配があった。それに対して堯帝は反応したのだけれど、それがまるで待ちかねていたかのような徹底的で大規模で即座の反応で、余りにも完全な配備だった為に戦端は開かれることなく敵は沈黙したのだけど、連合の大軍はそれを威圧するように警戒を解かず、長期の滞陣を今も続けているというそういう状況。
その状況下で起きたのが、一種の"取り付け騒ぎ"
つまりいつ終わるか知れない戦時の非常用の備蓄として、連合諸民は一斉に、それまでせっせと貯め込んでいた塩を持って商氏の各店舗に穀物を筆頭とする必需品を"買い"に走った、または"預かり手形"としての「商氏の塩」を持って"預けて"あった(はずの)穀物を「引き出し」に走った。それに応える為に商氏の各店舗はおおわらわになっていると、そういうこと。

p.199
「<連合>全土の吾が本・支店は丸裸です。帝都・嶽都の大倉庫も空。解池の大倉庫も空、穀物・被服・諸道具・器物、ほとんどすべての物が失くなってしまいました」
「そして塩が残った
「塩だけ有っても何にもなりません!」
叫んだ途端に穏は慌てて口元を押さえた。

"陰謀"発露の瞬間。

それに伴うやり取りとしては、上で穏族長は「なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」と訴えたわけですが、それに対する堯帝の答え。

p.198
「穏君、物事は正確に言わねば誤解を招く。『甚振られ』『壊滅状態』なのは君ら商氏の大商店だけではないのかね」
堯の指摘に穏は押し黙った

・・・簡単に言うと、"塩"を貨幣とした特殊な交換(商売)をしていた、それによって独占的な利益を上げていた商氏の店だけが、この"取り付け騒ぎ"の被害を受けたということ。


計画

この堯帝による"嫌がらせ"、"商氏いじめ"の出陣には、どのような背景があったのか。
ある日堯帝は、ふと気が付いた。

p.208-209
歴代の帝以下、<連合>諸氏族が全員(そっくり)騙されていたとしたら。
事の始めから商氏の側に騙す意思があったとしたら。

p.208-209
そこから独りで理を立てること二月。
遂に、虚実交換の因は商氏の錯誤した誠実に因るか、狡猾な不実に因るか、その二つに一つしか無いと分かった。
この長征は、その卜占であった。

嫌がらせではあるが、その嫌がらせの性格と結果がどのようなものになるかは、商氏次第。
・・・商氏が元々持っていた、「意思」次第というか。

p.209
錯誤した誠実ならば彼は十分な実物の用意を有つか、事態不明のままのほほんとしているのでここに来る必要が無い。
狡猾な不実によるものならば彼は実物を有たず、虚実の交換を再開させるため堯の元に来ざるを得ない。
果たして、商氏は来た悪意の獣であることを彼は証した

後で述べられるように、この"取引"では構造的に虚物としての塩に対して実物としての穀物等が足りていないはずなわけです。だから商氏が善意であるならば、その"構造"に気付かずに言わば必要の無い実物を用意して足りてしまうか、あるいは足りない原因が分からずに茫然としているはず。
しかし商氏が悪意であって、虚実のアンバランスを百も承知でその取引システムを確立運営していたならば、当然実物は足りないし、その実物の足りない状況を誤魔化す為の唯一の手段であり前提である、虚実の交換プロセスの至急の再開を目指して堯帝の元に戦時状況の終止を働きかけに来るはず、という話。

余計なことかもしれませんが一応言っておくと、堯帝に"底意"があったのは確かですが、しかし何か社会のルールや法を勝手に変えたわけではないし(日本のかつての"バブル潰し"のように?)、外敵に動きがあり何らか軍事的対処が必要であったのも事実で、かつ軍事行動として至って有効だったのも事実なわけですね。
ただ平時には分かり難い"構造"を、若干誇張した"戦時"を演出することで露わにしたと、本来壊れているものをより迅速な自壊に導いたと、そういう話。
まあ、悪辣でないことはないですかね(笑)。法的にセーフではあっても。
商氏がはっきりと"陰謀"をめぐらしていなかったとしたら、後々問題にはなったかもしれない。それが免罪符というか。

とにかく陰謀はあり、それを商氏自ら証明・自白せざるを得ない状況を、堯帝は作り出した。

p.209
「百年の欺罔(きもう)は、今日、只今、ここで截(せつ)断する」
地を這うような低声で宣言した。

ははあ。これにて一件落着。
・・・というほど、ことは単純ではない。
"事件"としては、後は処理と処分の問題には、確かになったわけですが。


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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
中村隆資『堯帝春秋』その2 ~"商"一族の陰謀
2016年04月16日 (土) | 編集 |
その1より。
地震で一瞬だいぶ気勢が削がれましたが、別に僕が自粛してても何の役にも立たないので(笑)、やりかけたことは粛々と。
・・・僕だって明日死ぬかもしれないですし。(こら)






改めて読み直してみて、到底予定の二回では終わらない(三回でもどうかな)ことに気付いてげーっとなったというか、作者の熱量ないしルサンチマンに圧倒されそうになったというか若干引いたというか。
ともかく続けます。(笑)

p.174-175
公私混同。しかも実物である塩を汎用の代替物として使う目的で盗もうとしたものと看える。
由々しき大事であった。
塩の汎用化が、ついに、無垢の公人の気を侵すまでになっている。
(中略)
公人の意識せざる私人化。

前回最後の、「公」人による公"塩"横領事件。
最初の「国家」であり、理想的な「公」の働き場であった、<連合>の歴史上初の。
その特徴は実物、つまり"使用"価値としての「塩」を欲してではなく、"交換"価値としての「塩」を欲しての行動であったこと。
つまり彼は生活には全く困っていなく、既定の公的扶余システムによって、"使用"価値は満たされていた。
ではなぜそのようなことが起きたのか。
事件の背景にあったのは、"汎用"的な交換財としての「塩」の普遍化、つまり「貨幣」及び「貨幣経済」の<連合>世界への浸食という事態。根本的には、農業共同体の連合である。
それがいかなるプロセスで起きたのか。
以下。


塩"商"人「商」氏の歴史

p.210
それは商氏三千年の野望の物語であった。

三千年は長いのでかいつまむと。(笑)
"解池"というたまたま天然のの産出する地域を縄張りとしていた「商」一族は、生活の主な手段が狩猟採集であった時代においては、その塩を他部族との交換に当てて"副収入"として、比較的余裕のある暮らしをしていた。
しかし気候の変化により時代が農耕メインの時代に移ると、塩が産出するような特殊な、つまり農耕に不向きな地域に住んでいた商族は途端に困窮し、副収入であった塩の交易を唯一の手段として、他部族から食料を手に入れるしかなくなった。
そして彼らは「商」人となった。

それは常に他部族の顔色を窺い、しばしば長距離の移動と行く先々での駆け引きに明け暮れる、過酷で不安定な生き方であった。

p.212
商人は常に物資の運用を為し情報を知らせる有物の智者の用を為して農耕氏族に利得をもたらす者でなければならず、これを恒常的に強いられる者は機を見るに敏、眼から鼻へ抜ける犀利と有能をその気性として帯びるようになる。
(中略)商人の眼から見ると農耕氏族の村人は同じ人とも思えぬほど暢気で愚鈍であり、存在に安住しているようであった。
それは商人にすれば軽侮に値する無能であり、その反面、羨望に堪えぬ富裕でもあった。


時は流れ。

p.213
そしてほぼ百五十世代、三千年に近い年月が経過した頃、黄河中流域の農耕氏族が奇妙なことを始めた。軒轅氏の黄族長が姫(き)姓の同族に呼びかけ、対遊牧民族防衛と共同治水のための組織を作った。<連合>の始まりである。

前回説明した、"黄帝"による建国というか、無私の公人「帝」をかしらにいただく、連邦体制の樹立。

<連合>はよく機能し、治安は安定し生産力と人口は目覚ましく増大した。

p.215
商族はその運に乗った。

農耕氏族でない商族は、当然発足には関与せず、当初は従来通り取引相手として、また連合域内の流通の担い手及びアドバイザーとして、あるいは連合の外敵である遊牧民族との仲介役として、その"貿易"の利をも独占しつつ大いに儲けた。

そして・・・

p.216
この上客の随伴者としてこれからも商売を続けていくか、それともこの際、<連合>に加入し、同じ仲間として内に入って商売するか。時の族長・儲(ちょ)は一族の主だった者と鳩首会談し、次なる結論に達した。

<連合>に加入する。(中略)
<連合>の未来を買う。
その内側に入って吾が信用を更に高め、商業によって<連合>の発展を輔(たす)ける。而して<連合>の富を吾れが掌握する。


こうして「商」族は、(元)農耕氏族<連合>の内部に、入り込むことになる。
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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
中村隆資『堯帝春秋』その1 ~"皇帝"の「公」と「用」
2016年04月07日 (木) | 編集 |




定期的に来る、"中国歴史もの読みたい"病への処方として(笑)、てきとうにまだ読んでない人の中から手に取った一冊でしたが、とんだ奇書でした。
いい意味で。(笑)
世の中にはまだまだ変な人変な才能が隠れているものだと、嬉しくもなり、自分の平凡さを反省させられたり。(笑) 中村隆資Wiki

小説です。一応。
一応というのはですね。
以前中国の殷王朝を題材とした宮城谷昌光さんの『天空の舟』




について、「東アジア人(漢字文化圏人)の精神の始原を"幻想"させる作品」紹介しましたが、その殷の前の夏(か)・・・の更に前の神話的時代、所謂「三皇五帝」の一人"堯(ぎょう)帝"(または"堯""舜""禹"三代の聖帝の最初)の時代を舞台にしたこの作品も、幻想性は更に更に高まって何か元になる史実伝説があるのかどうかすら不明ですが、基本的には同様の、「始原を幻想」させる作品の好例として、とりあえずは読むことが出来ます。・・・少なくとも途中までは、そう読んでました。

で、後半はそれを越えたとんでも展開をして"奇書"であることを僕に認識させるに至るんですが(笑)、それについては次回に書きます。前半だけでも十分に読み応えがあって、かつ既にけったいな人だなあという感慨は与えられていたので。(笑)
特徴としては、その異常な明晰さというか、明快さというか。見ようによっては学術的でもあって、これ小説なのかなあという疑問も感じながら読んではいたんですが、ただ決して"研究"の"解説"などではなく、飽くまで"衝動"に近い強い本人の内部論理、思弁、そういったものの展開なんだろうと思います。
"アマチュア"精神に基づいたしかし"異様に厳密・精密"な記述というのは、「奇書」と呼ばれるものの代表的な形だと、以前もどこかで言ったと思いますが。この組み合わせはほんとに変なものが出来るんですよね、読んでて落ち着かない気分になる(笑)。アマチュアが大らかに書くのは当たり前だし、プロが厳格に書くのも当たり前ですけど、それらを半分ずつ組み合わせると、どうもおかしなことになる。(笑)

比較すると、『天空の舟』を一番中道的な(中国)"始原幻想"小説とした場合、それを学問寄りに展開したのがこの『堯帝春秋』、逆にファンタジー寄りに展開したのが、酒見賢一『陋巷に在り』



ということになりますかね、僕の中の地図としては。


そろそろ本題に入りましょう。
今日、つまり本の"前半"のテーマは、「公」と「用」「公」(おおやけ)とその「用」(はたらき)、または「用」(はたらき)としての「公」(おおやけ)
公共秩序ということ、国家権力ということ、王・皇帝ということ、それらの本質と形成と根拠ということ。
具体的には古代中国において、地域共同体が連合して原初的な国家を形成して、そこに皇帝とその手足となる公人≒公務員という身分が発生した、その時に起きていたことという話です。

恐らく多分に独断的ないし仮想的なんでしょうが、妙に説得的・・・少なくとも魅力的な説明ではあると思います。
特に"思考の整理"という意味で。
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読書日記(’16.1.4) ~冲方丁『光圀伝』他
2016年01月04日 (月) | 編集 |
去年の残り的な。
一回取り上げた本の、それ以外の部分。





読了。
"格さん"はちらっとだけですけど、"助さん"に当たるらしい人は、結構活躍していました。(笑)

p.311
蔵書の一覧作りに、光圀は安らぎを感じていた。様々に生きた人々の記録を扱うことで、現在の己の困惑が少しずつ収まってゆく。
(中略)
一覧の穴を埋めてゆくうち、おびただしい数の生の記録には、確かにがあるのだと実感するようにもなっていた。人の心を平穏にさせる力、自分の人生を客観的にとらえる視点をもたらす力だ。

「歴史」というものの、根本的な力というか。
時に"孤立"しているとも感じられる自分の生が、何かすぽんすぽんと、あるべきところにハマっていく快感というか。(笑)
"教訓"とまで言ってしまうと、積極的過ぎるというか作為的過ぎる感じになりますが。
おっさん度が増すというか。(笑)

"歴史"の力、歴史の"罠"。(笑)
とにかくこういう感慨も込めて、かの水戸光圀公は所謂『大日本史』を編纂したということ。
そもそも「国史」を編纂するという習慣自体が(記紀以来)日本には無くて、言わば朝廷や幕府の代わりに水戸家がやったのだという指摘は、なるほどと思いました。
何でかな?とは思ってたんですよね、確かに。
なお実際は一方でそういう"私的"な国史編纂の試みというのはこの前後に一つの文化的ブームでもあって、例えば朱子学の林家などとも競い合う形で、光圀はこの事業を行っていたということ。

p.523
こうした法整備において、論拠を明らかにすることができるというのは、ある種の特殊技術である。
法の研究も、その制定も、まだまだ組織化されておらず、多くは恣意的にならざるを得ず、その全責任を誰が背負うのかといったことがたびたび問題になった。

大名、御三家の当主という立場にありながら、若くしてたいていの学者以上の並み外れた教養を身に付けていた光圀は、しばしばこの「論拠」を与える存在として幕閣や武士社会に頼られて、それもあって(天下の)"副将軍"的扱いを受けるようになったという、そういう話。

余談ですが最近、なぜ世の政治家たちがしばしば宗教家や霊能者・占い師などの怪しげな人種に頼るのかという理由が分かって来たような気がして、つまり彼らには"自信"が無いんですよね。"根拠"が。論拠が。政策を決定する上で、法律を提案する上で。我々が思ってる以上に。
宗教家には教義に基づいた信念がある、官僚には前例に基づいた知識がある。では政治家には?何も無い。多くはただの人。
"法律を作る"というのは、場合によってはかなりクリエイティブな作業で、ほとんど「世界」を作る、無から秩序を作るというような性格を持つもので、それに耐えるような拠り所を、普通政治家は持っていない。
宗教家には曲がりなりにも世界観があるし、官僚ならその"クリエイティビティ"の危うさを避ける為に、前例に逃げ込むことも出来る。でも政治家は。
だから多分、真面目な政治家程、やる気のある人程、不安に駆られて根拠を求めて、怪しげな権威に近づくと、そういうことはあるのかなあと。その意味で、"政教分離"は、言う程簡単ではないというか。
神のお告げに任せられたら、楽でいいなという。(笑)





しつこく、道徳について。(笑)

p.137
ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)
何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した。("聖職叙任権闘争")
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制義務化したのである。

何のことかよく分からないでしょうが、純潔を重んじるキリスト教の性道徳が形成された過程についての説明です。
・・・つまり、聖職者の地位を(その土地の世俗権力の影響下の)世襲制にしない為に、聖職者に跡継ぎが出来ないようにする、その為に独身制を義務化する、その理由付けとして純潔が神聖化されて行ったという、そういうこと。
まあ勿論それだけではないんでしょうけどね。(笑)
なかなか意外な背景でした。

p.75
このような道徳の前提条件はすべて、(中略)むしろ、一般的な感じ方、考え方である。しかし、それらは人間の精神と心に深く根を下ろしているものである。(中略)
 私たち誰もが、良い社会とはどのようなものなのかという理念をもっている。各個人が敵意や嫉妬心を抱くことことなく、知性や愛情で処遇されるような社会。誰もが他者の必要とするものを理解して、知恵と知性でそれに応えるような社会。

「一般的」であり「根を下ろして」いる。それが肝。
前回述べたように、今日道徳には理論的根拠が欠けていて、ここの後段で述べられているような「良い社会」についての理念というのは、あくまで一般的な感じ方として共有されているに過ぎないわけです。だから「"人権"には根拠が無い」などと言い出す人も出て来るわけですけど。
しかしむしろその"一般"性こそが、"根"であるという話。
ちょっと分かり難いか。

つまりですね、この世界一政治的に呑気な国日本でも、近年は"左右"の対立がかなり定式化されて、こうしたリベラルな理想も「左」として、「右」から攻撃されることが増えて来たわけです。
ただね、この種の理想というのはことここに及んでは必ずしも政治的なものではない、理論的なものではない、つまり別に"マルクス主義"へのシンパシーから、現代の我々は(あえて言えば)"リベラル"な理想を、社会目標を抱いているわけではないので。そういう"経験"も無い。
むしろ「マルクスなんて大嫌い」「リベラル」というあり方が一般的なのであって、それは理論的にはある意味意味不明で、最終的な社会像としては"考え無し"な部分もあって、そこを「政治的」な敵には衝かれるわけですけど。
ただだからこそ、普遍的でもあるんですよね。
政治的方法論的な択一の問題としてではなくて、例え元はマルクスを筆頭とする欧米の政治思想家たちがそれぞれの文脈で言い出したことであったとしても、その内容や結論の妥当性・究極性自体を人類は、大衆は直観して、様々な時々の政治闘争の空中戦とほぼ無関係なレベルで、共有して定着して行ったと、そういうことだと思います。また欧米においてもそうであるということを、ここでアルベローニは言っているわけですね。

言葉というのは予め根拠があって主張されて、その論理的整合性によって認められるということもあるけれど、一方で言葉にされたその言葉が、結果として何かを「言い当てて」、その言い当ての的確性や力強さそのものが事実としての"根拠"になって定着して行くと、むしろそちらの方が割合としては多いような気がします。
言葉に限らずですが、何かが「流行る」というのはそういうことではないかと。
だからつまり、「人権」やそうしたリベラルな理想というものは、最早政治闘争とは別の次元で定着している普遍的な目標であり、人類が全体として認めて選び取ったものであり、「道徳」そのものであると、そういう話です。
いち政治思想ではない。元はそうであったとしても。

それをどう、社会システムとして全体的にマネージして行くかという技術的問題は今後もあり続けて行くだろうけれど、「目標」としては、方向としては、もうそれしか無いんですよね。
知ってしまったからには戻れないというか。気が付いてしまったからには。
偏りとしての"左"を攻撃するついでに、それまで押し流す権利は"右"には無いということですね。
例え"右"そのものに、今日主張すべき何らかの政治的妥当性があったとしても。

その部分の折り合いというのが、今後しばらく、多くの社会で問題になって行くだろうなと、そういう感じ。
勿論日本でもね。
左右共に、余り雑駁な議論をして"世界遺産"を破壊してしまわないように、気を付けなければならない。
戦争は外でやれというか。(笑)
左は遺産を盾にしないように、右は中の人のついでに遺産そのものを攻撃対象にしないように。


今日は以上です。


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F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』(つづき)
2015年12月26日 (土) | 編集 |
というわけで(?)つづきです。
今回は少し長くなりましたが、これで終わりです。






第6章 ニヒリズムの効用

p.73-74
しかし、そのような"土台"がもはや存在しないということは、私たちが信じるものをもたないということではなく、私たちが価値観や高貴と思えるような目標をもっていないということでもない。私たちが道徳を失ったということでもない。

"土台"が存在しないというのはつまり、前回期せずして(笑)僕も言ったようなことです。

  「宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を
  奪われた状態」

言ってみれば知的な側面からの、強制力を持った道徳の排除ということですが。
根拠の明示出来ないものに、公的な力を与えないという。

ただそれでも

p.74-75
私たちも、良いこと、より良いことを信じ、夢見、願っている。
(中略)
私たちの司法組織は無数の権利を認め、擁護しているし、つねにその裾野を広げようとしている。

少なくとも西側社会を実際に動かす動因として、ある種の"道徳的"な(あえて言いますが)バイアスが強く存在しているのは確か。理論的根拠が希薄であるにも関わらず。
・・・今「権利」と言い、「西側」と言いましたが、ここに"自由"という概念を絡めて行くとまた論じ方は変わって行くんですけど、ややこしくなるので今は止めます。


ニヒリズムのあとに登場する新たな価値観

p.76
実際、まったく虚無的な文化というものはかつて存在したことがない。(中略)
ニヒリズムは少数者、概して、批判的少数者、あるいは革新的少数者の贅沢なのである。

p.77
今日、ニヒリズム的文化はまったくニヒリズム的でなく、自分が深淵に立っているなどとはつゆほども感じていない人々からなる社会に、居心地よさそうに存在している。

切羽詰まっていないから、追い詰められていないから、ニヒリズムなどを言い立てられるのだという。
絶望していないからこそ。
かつて西部邁が、浅田彰とその友人たちを、"えせニーチェ主義者"と切り捨てていたのを、思い出したりしましたが。(笑)
坊ちゃんたちのお遊びだろう?と。

また仮に知的エリートによる言説上の問題に限ったとしても、

p.76
そして、この場合でも、否定のあとには価値をもつものへと続く肯定的プロセスが存在しているのである。

p.77
ロシアのニヒリストたちは平等主義的革命を夢見ていた。マルクス主義者たちは(中略)すぐに新しい社会主義的人間が生まれると考えていた(中略)
ハイデッガーは、一九二九年から三〇年にかけての講義のなかで、哲学的省察を生むことになる根本的な精神状態を模索し、それを"深い倦怠"のなかに見出したのである。しかし、それから数年後、ドイツが危険な陶酔の時代を迎えると、「ドイツの文学の自己肯定」という論文で、彼の言葉は熱狂的になり、予言者的になるのである。

結局主張している当人でさえも、実際には"ニヒリズム"などというものに耐えることは出来ないのだ、必ず希望と理想を求めるのだという、そういう話。
・・・前回第4章で言った、悪に耐えられる人などいないという話と、似ているかもしれません。
元々強く"求め"るタイプだからこそ、一回は失望して、"ニヒル"になるのだと、そういう可能性もありますが。
それにしてもハイデッガーってみっともない。何人かいる"ナチスに同調した"と後に批判されたドイツ圏の思想家の中でも、際立って見苦しいという印象。基本の性根が、甘く出来てる感じ。

そして勿論、事実としても、ニヒリズムが完遂された社会など存在したことが無いし、学者たち(マルサスやマルクスやジョージ・オーウェル)の虚無的な予想が当たったことも無いと、著者は言います。

p.79
もし仮に、まったくの利害関係やまったくの競争しかなかったなら、社会組織はばらばらに分裂したかもしれないし、資本主義も自己崩壊していただろう。しかし、そうはならなかった。そのわけは、ある程度まで混乱に陥ると、再編成する力が出現したからである。

p.80
そして、一九八四年(*)のヨーロッパには、過去数十年にも勝る民主主義と個人主義が存在した。

で、結局章題の「ニヒリズムの効用」とは何かというと、それが流行することがむしろ、我々がいかに根本の部分で道徳的であるかニヒリスティックではないかを再確認する手段となり、また一方で我々の道徳を洗練させて社会をリニューアルして固める為のいい機会となっていると、そういう話。

ふむ。どうですかね。
ちょっと楽観的に過ぎる感もありますが。
"人間はニヒリズムには耐えられない"という意味で"道徳的"であるというのは、消極的ながらその通りだと思いますし、価値観が稀薄化する一方で長期的には人類社会が高度に道徳的な方向に向かっている、それもまあ、事実だとは思います。(少なくとも今までは)
ただ(道徳についての)理論的難点はそのままですし、だからこそでもありますが要は"本能による揺り戻し"に期待するという折衷的な態度は、何らか最終的なものと言えるのか。
・・・例えばそれこそ日本型の"社会主義"、資本主義や自由の自主規制的な不徹底みたいなものは、この著者はどう考えるのかなとか。ポジティブに評価するのだろうか。
つまりあれは、西洋型の弱肉強食(日本からすれば)というニヒリズムに対する、日本人の本能による「道徳的配慮」であると言えると思うので。



第7章 過去にどんな意味があるのか

p.92
イエス・キリストは、過去との関係を保つことにつねに努めていた。彼はなにも失われることを望んでいない。彼の伝えたいことは明白である。律法を廃するためではなく、それを完成させるために彼はやってきたのだ。

えらいところから入って来ましたが。(笑)
まあ、確かにそんなようなことを言ってはいました。あるいは"キリスト教"をユダヤ教から"独立"させてあまつさえ対立させるように仕向けたのは、弟子たちの勇み足(または陰謀(笑))だという主張も、まま聞くものではあります。
ユダヤとキリストとイスラムが、無事"一つの宗教"に収まっててくれたら、どんなに世界は平和か!(笑)

p.92
ところが、新たな愛、新たな信仰、新たなイデオロギーが、完全に過去との関係を絶つとき、新たな人間はもはや、義務も責務ももっていない。(中略)
そして、限界に対する完全な拒否に向かって、抑えがたい征服の欲求に向かって、不寛容と狂信に向かっていく。

結局ね、"過去との関係を絶つ"という形で新しい何かが主張される時、そこに隠れている動機は、そうして"切り取った"「正しさ」を「独占」したい「私有」したいということなわけですよね。・・・あらゆる"革命"を望む気持ちの中に、特有の卑しさがあるというか。
そして勿論、正しさを私有したと確信した人間は、"正しくない"他者に対してどんなことでもするわけです、出来るわけです。
それを防ぐのが、つまりは"過去"とのつながり。章題に従えば、"意味"
・・・何か今回持ち上げるようですが(笑)、西部邁が自らの立場を「保守」と位置付けるのも、こういう意味の、"新しさ"や"革命"に対する構造的根本的な不信によるわけですね。新し過ぎる福音は、全て間違っていると。構造的に。道徳的に。
勿論そんな態度はダルいですから、好き好んで西部邁も取っているわけではないわけで。意図して、努力して、自制している。「自覚的な」保守とは、そういうものですね。「保守」思想を「革命」的に熱狂的に標榜している類の連中は、また違いますが。

p.93
絶対であってほしいと願うあらゆる再出発や、絶対的で無条件に純粋であってほしいと願うどんな法則にも、道徳性はまったくないことを私は断言する。
道徳性は、ただ、このような過去の放棄や、棄教や、単純化が容認されない場合にのみ生じるのである。

"絶対"の批判を"断言"するということに、微妙な齟齬感を感じなくはないですが(笑)、それだけつまり、著者が熱を入れて語っているということ。
道徳を強く激しく求める人間の営みこそが、最も確実に効率的に道徳を破壊するというパラドックス、飽きもせず繰り返される"パターン"の虚しさ、繰り返す人間たちの哀しさ、それを眺めているしかなかった今までの悔しさ、そうしたものが込められているのを感じますが。
これに気付かない限り、"誰か"が持ち出す"新しい"道徳(運動)は必ず失敗するし、ひいては「道徳」そのものが信用を失い続ける。


第9章 なんのために進化するのか

p.108-109
道徳の領域には、したがって、二つのタイプの力が存在する。まず第一のものは、現行の社会をそのまま維持していく力である。(中略)
個々人はいずれも、自らの社会と結びついており、組織を構成する細胞のように、その社会に有利になるように行動する義務感を抱いている。彼の行動は、主観的には利他主義であるが、実際には、つねに集団のエゴイズムの内部に包含されていて、そこから抜け出ることはできない。

p.109
第二のタイプの道徳がある。生の飛躍が、既存の種や社会を乗り越えて新たなものをつくりだすように、開かれた道徳は社会の利害関係の境界を乗り越える。そのとき、この道徳は、個人のなかに形をとって現われる。
(中略)
ソクラテスの場合がそうであったし、イエス・キリストの場合も同様であった。彼らの開かれた魂は、普遍的理念に向けて、生命を超越して存在している。

またこれは少し別の話、ではありますが。今までとは。
"あるべき道徳"論の。
でも実は一番シンプルな話でもあって、"道徳"を"集団的暴力"に飲み込ませない為の、基本的な心掛け。
常に「個人」であること、「個人」としての自分の内心を問い続けること。・・・まあ前回の「"役割"に甘んじない」という話とは、重なるところが多いかもしれません。
集団的道徳不在の現代において"道徳的"な人というのは多かれ少なかれこういう人であろうと思いますが、同時にだからこそ"集団"的な"閉じた"道徳への忌避感は強くなって、結果道徳への"攻撃"もやまないという。
道徳心が強いからこそ"非道徳"に見える人というのは、実はとても多い気がします。特に現代では。

一方で前章で言ったように、「過去」「伝統」との繋がりという意味での"集団"性も必要なものなのでややこしいんですが、言葉としては「集合」性という言葉もあって、そういう区別でも設ければ、多少は理解し易くなるかなと。
目の前の"集団"の意識ではなくて、その背後(の更に背後)にある"集合"の無意識の方に、を降ろす。
故きを温ねて新しきを知って、それでも足りない部分について発明する、"飛躍"する。くらいのバランス。
まあ単純に「集団」の動きは常に遅いので、探求の成果はまず「個人」の中に現れるわけですね。歩調を集団の方に最初から合わせていると、イノベート出来ない。


第15章 献身することの意味

p.168
男性も女性も私たち人間は、誰もが他の人に、あるいは他のなんらかのものに尽くしたいという、やみがたい欲求を抱いているということである。私たちは、自分自身を愛や関心や配慮、留意の対象とすることができないということでもある。

p.169
単純かつ明瞭な事実は、私たち人間がどうしようもなく道徳的な存在だということである。
 このことは、私たち人間が善良であることを意味するのではなく、ひたすら自分自身のためだけにする行為は道徳的価値をもたないし、私たちの心の奥底には満たされない思いが残るということなのである。
 またについても、私たちは、なにか他のものを口実にして正当化しなければならない。

ナチス党員には"千年王国"という口実があり、、共産主義者には"プロレタリア革命"が、セルビア人には"大セルビア"があったと、そう著者は続けます。

まあ一応の、まとめ的な章。
人間が「欲求」として、「衝動」としての道徳を内側に持っている、欲求や衝動の「抑制」という消極的な意味ではなくという主張については、一つ個人的に印象的な記憶があります。
大学生の時に通学電車の網棚で拾ったゲンダイに載っていた(笑)ある本の書評で、その後探してもこれかなというのが見つからないんですが。
それはある時期(以降)アメリカを席巻した"ダイエット"ブーム('81オリビア・ニュートン・ジョン『フィジカル』、'82ジェーン・フォンダ『ワーク・アウト』)についての研究書で、その著者が主張するにはそれは"ミーイズム"的な思潮の全面化によって公共道徳を失ったアメリカ人が、行き場を失った「道徳衝動」自分の体に振り向けた結果であると、そういう話でした。
なんか分かる気がした、というのと、道徳自体が「衝動」であるという指摘にどきっとしたというのと。
まあダイエットなり嫌煙運動なりに、その実効性とは別に深層のモラリズム、自己(ないし他者)処罰的な要素があるというのは、明らかなことだと思いますし。"PTA"的なものや"言葉狩り"の類が、要するに内なる道徳的な強迫観念が"叩き易い"ところを見つけて食らいついているものだというのもまた明らか。"道徳的"ではない自分からの、逃避というか。
だからこそ著者も、「善良であることを意味するのではなく」と言っているわけですね。単なる欲求の満足でしかない、部分があると。


こんなところですかね。
"全体"としては、分かったような分からないようなところもありますが、「道徳」についての考察集としては、かなり行き届いたものだと思います。
僕はまあ、要は自分が道徳的に生きられればそれでいいので。人類にはあんまり期待していないというか。(笑)
そういう意味では僕も、「私有」とは違うつもりだけど、"正しい"側にいたいと、それだけなのかも知れない。
いい人が増えればいいなとは思ってますけど、でもあえて"増やそう"とすると失敗するのも、目に見えてるし。過去の人類史から。"道徳"の闇は深い。

著者の名誉(?)の為に言っておくと、実は僕は、著者の非常に重要な、中心と言ってもいいかもしれない論点を、あえて割愛しています。
それは進化論的、生命論的に、「道徳」衝動の必然性を理論づけたものなんですが・・・。
ちょっと手に余るので。この小さくて結構おしゃれな(笑)本からも、はみ出して見えるし。
興味がある人は、読んでみて下さい。


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F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』
2015年12月17日 (木) | 編集 |





この(↑)本で日本でも有名になったらしい人(コトバンク)の、かなり哲学的なタイプの本。
「道徳哲学」というか。
タイトルからすると、科学主義的な"全ては人間の思い込み"的な本か、逆に"心がけ次第だ"という説教臭い本のどっちかという感じですが、どっちでもないです。
「道徳哲学」とは言いましたが、"道徳的"な哲学ではなくて、"道徳を哲学する"という感じ。
肯定でもあるし、否定でもあるし。


第3章 「役割を演じる」ことの害悪 より

『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編で言っていた"「専門化」と「モラル」"問題が、つまりはこれ(この章)です。
逆にあちらを引くならば、"兵士"という役割演技の元、上官の命令一下個人としてはとても出来ないような残虐行為を平気で行ってしまう、そのような状態を一つは言っているわけですが。

p.37
私たちは、職業的な役割体系の上に身を置いているわけだが、その理由は、それがもっとも簡単であるからである。

宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を奪われた状態で、道徳的判断や責任の回避や留保、あるいは代用の為に職業倫理や時に職能そのものに頼るという行動に無縁でいられる人は、恐らく現代社会ではいないでしょう。
その方が、"賢く"も見えますしね。道徳を正面から問うより。
一種の知的な「市民権」の証明というか。

p41
私たち各人は、数々の役割を演じ、さまざまな方法で習得したいくつもの社会的仮面をまとい、さまざまな自我を生みだしながら、別の役割を演じている自我が行っていることについて無知であるように見える。しかし、これらの分離されたそれぞれの自我のあいだでの接触あるいは一致なしに、道徳が存在しうるだろうか。

"無知"というか、"無視"でしょうね、実際には。
勿論分離がこじれて"無知"になっちゃってる人も、中にはいますが。知的能力的に矛盾した複数の状態を一遍に視野に入れることに耐えられないか、あるいは「役割」への没入の結果得られた「力」「権力」への執着後戻りの出来ないレベルに達して正気を失ってしまった人か。
ほとんどの人は、内心では分かっている。「接触」や「一致」の欠落が問題であることに気付いている。そのことに、"良心の呵責"を感じている。・・・感じている"瞬間"がある。(ただしすぐに忘れる)

p.42
二十世紀のすべての過誤、さらにおそらくは歴史のすべての過誤を許したのは、この役割道徳、細分化された道徳、私的、公的、政治的な領域間の分離、家族とイデオロギー間の分離、分裂した自我だったのである。

うーむ。"原因"論としては分かる気がするけど、ちょっと疑問もある。
つまり我々の自我や道徳感覚が分裂している、そのことに社会の高度化巨大化による役割分化が大きく関わっている、それ自体は確かなことだと思います。・・・加えて言うならば、そのことを「正当化」する諸"理論"の洗練も。著者が(後に)挙げる、ナチズムやマルクス主義を筆頭とする。
ただその「二十世紀」のそれが、"統一"されたものの"分裂"なのか、かつて存在した天国状態からの"堕落"なのかというと、それは一概にはどうなのかなと。
むしろ自然状態では一種生態学的に各生活環境に対して緩やかに"分離"していたものが、人間の社会や思想の「進歩」によってそれ以上のもの、それ以上の正当性を持った「統一」を志向し始め、「一致」が観念され、それによって現代的な問題としての"分裂"が意識されることになったのではないかと。
我らの可愛い飼い猫たちは(笑)、飼い主の前でと巡回中に出会った哀れな獲物たちの前では違う"自我"を示すでしょうが、それはただそうなのであってあるべき「統一」が「分裂」したものでも増して"堕落"したものでもないわけでね。
だから特に「歴史のすべて」とまで言ってしまうと、それは遡っての断罪に過ぎるというか、人間に期待し過ぎというか。
"これから"の問題としては、分かりますけど。

一方で、動物ならぬ人間の子供を見てると、積極的に統一はされないまでも、"分裂"はしていない、つまり「大人」の"使い分け"が理解出来なくてしばしば戸惑うわけで、そういう意味での原初的統一状態というものは、無いわけではないんでしょうね。またそれに類するある種の「田舎の素朴な人々」という類型も、満更嘘ということでもない。
ただじゃあ、彼らが積極的に「道徳」的なのかというと、いざ何か選択を迫られた時に意志的に道徳的に振る舞えるのか、その為の基準を持っているのかというと、それもまた期待し過ぎだろうという。
併せて言うと、つまりは「統一」や「一致」を意識出来るような知性を獲得したり、あるいはそういう段階の社会・文化に属している人々が、にも関わらず怠惰や妥協や権力欲やその他様々な理由によってそれを無視するような行動を取る、更にはそのことへの内心の良心の呵責から、それを正当化する詭弁を編み出してより徹底的に逆方向に行って被害を極大化する、それが問題・事態の本態であると、そうまとめていいような気がしますが。

p.43
分離された自我は無責任の根源である。私たちは、道徳が"統一された自我"を要求することを知らなければならない。それゆえに、自我の統一を否定したり、それをおとしめるようなすべての理論を、道徳の見地から警戒する必要がある。

事態としては、まあその通り。
"自我"と言ってしまうと人によっては少し遠く感じるところがあるかも知れませんが、"セクショナリズム"「無責任の根源」であるというのは、分かり易過ぎるほど分かり易い話でしょう。前掲『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編では、「良心の分散化」などという言い方もされていました。
結局まあ、ある種の"覚醒"以来、「どの」道徳を取るかという選択を人類は争って来たわけですよね。ユダヤ・キリスト教から、マルクス主義まで。その他諸々。
その闘争自体は今も続いているわけですが、どうやら"どれ"を取っても駄目らしい、結局同じような惨状を招く、失敗を繰り返すらしいという認識から、一方では道徳的判断自体の拒否・廃棄を標榜する思潮がうっすら広まってはいるわけですが、一方では数々の失敗を繰り返して来たからこそ、道徳の「構造」を可視化する材料も揃っては来ていて、それに基づいて再度、今だからこそ「道徳」をきちんと人類文化の中に位置づけし直そうという思想的営為も可能ではあって、それをこの人もやっているということですね。
ただの「復権」ではない、ということです。既存の道徳体系の、"選択"の問題ではないというか。
他方、"統一の否定"というのは、ある意味では正当なリアクション、"ある"大文字の道徳に大きな力を与えない為の安全策でもあるわけですけど、しかし「理論」的には間違っていると、この人は言います。


第4章 悪人とは

p.52-53
政治闘争の場でもずっとそうだった。なぜなら、誰もが、自分たちの敵対者を不快で悪意を抱く者であり、残酷で、非情な存在とみなしているからである。
(中略)
政治闘争はすべて、背徳であるという非難の下に行われた。道徳という観念そのものを軽蔑し、それを愚弄したマルクス主義者やナチスさえもが、敵対者(資本家とユダヤ人)が寛容、同情、兄弟愛、弱者や無防備な者たちへの援助といった価値観を侵犯していると糾弾したのである。

これは本当にそうでねえ。傍から見ると、お笑い草だったりはしますが。
半ばプロパガンダではあるでしょうが、半ばは常に本気でもある。
相手を道徳的に劣位であるとみなした時ほど、人は徹底的に残酷になれると、これもよく言われることですが。・・・というより残酷になる為には、前提として相手を(無意識にでも)道徳的に断罪するプロセスが必要なんですよね、実際には。
章タイトルは「悪人とは」ですが、つまり結論的に言うと、"悪人"はいないんです。
みな"善"なんです。主観的には。
「自らが悪であるということに耐えられる程、人間は強くない」と、ヤン・ウェンリー

ヤン・ウェンリー

言ってました。(笑)
だから結局、「道徳」という問題から逃れることは、出来ないんですよね。人は。
ならば立ち向かおうと、立ち向かう為の思考を続けようと(それがこれだと)、著者は言うわけです。


以下更に縷々続きますが、今日はこれくらいで。
こういうシリアスな題材は、本当はむしろ一気に書いてしまった方が読む方も書く方も疲れなかったりするんですが(笑)、まあオフシーズンでネタ枯れ気味でもありますので、今回は小出しで失礼を。
よろしくお付き合い下さい。


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読書日記(’15.12.10) ~冲方丁、田中芳樹、山本兼一
2015年12月10日 (木) | 編集 |
雑然と。



パロットは、なぜ自分がこんなにも穏やかなのかを理解した。
今いる部屋に対し、不安がないのだ。言い換えれば、部屋をくまなく認識していた。不安をもたらす死角がどこにもない。皮膚に触れる空気を知り、空気が触れる全ての物体を感じ取ることができた。
(p.37-38)

危うく焼き殺されかけた主人公(女)パロットが、サイボーグ手術によって命を救われ、昏睡から覚醒した時の描写。
「穏やか」というからてっきり"トラウマ"とか"メンタル"とかいう話かと思ったら、純粋に「知覚」の話で意表を突かれました。(笑)
・・・まあ、最終的には"メンタル"に繋がる話ではあるんですけど。
人間の"不安感"のおおもとに、視覚野における「死角」の存在が大きく関わっているのではないかという話は、フランス哲学のどこやらかで小耳に挟んだことはあります。
まあそこまで哲学的に遡らなくても、ある分野における自分の認識に、とりあえず"死角"がほぼ存在していない感触があれば、例え全能ではなくても、あるいは状況の不利が小さくなくても、意外と人間は落ち着いていられるものだという、そういうことは言えると思いますね。
ここの醍醐味は勿論、むしろ"哲学"的なレベルの話。サイボーグ手術なり何なりで、人間の知覚能力が大幅に向上すれば、人間の「精神」は変わるのではないかという、SF的な問題意識というか。

「僕らは昏睡中の君の識閾野に接触した。具体的な記憶ではなく、君の潜在意識に。そして全ての技術とプランをぶつけ、コンピュータ上で議論させたんだ。
よく植物状態の患者に安楽死を与えるかどうかの判断基準に使われるものだよ。」
(p.62)

頭の中で複数の"自分""議論"するというシチュエーションは、特に多重人格についての証言ではよく語られる風景で。・・・時に"セックス"すらするらしいですけど、"人格"どうしが。頭の中で
もう一つ、昏睡状態の人の少なからぬ割合が、喋ったり動いたり表現したりは出来なくても、知覚や思考自体は普通の人と同様に出来ていたという話も、これも割りとよく聞く証言で。
これらを併せて、"潜在意識"の「思考」(や「議論」)の実在が技術的に検出可能なものとして認められて行けば、昏睡患者の延命措置の可否を「本人」に決めさせるという医療行為は、実際に実現の可能性が十分にあると僕は思います。
実現されるべきというか。

「マリッジブルーって知ってるか、ウフコック」
「なんだ、それ」
「一度決めたことについて、後からぐだぐだぬかすことさ。個人的な感情がどうとか、自分は大丈夫なのかとか、何が必然で何が偶然なのかとか、そういったことをだらだら考えるんだ」
(p.307)

いや、特に意味は無いですけど、なんかおかしかったので。(笑)
"ウフコック"というのはネズミをベースに作られた、人工の知性体です。
人工知能・・・ではなくて、ネズミの頭脳を人間的に大発展させたもの、なのかな?さらっとしか読んでないので自信無いですが。
とにかくそういう人工の、しかし高度な知性体が、「マリッジブルー」"学習"する様子がおかしかった(笑)。その身も蓋も無い定義も含めて。(笑)



この男は、これが尋常ならざる事態であることをとっくに悟っている。だから自然と真相には触れず、真相が落とす影絵をなぞるような問い方をした。
(中略)
だがこのときも光圀はただ、さらさらと本心とはかけ離れたことを口にした。むしろ共感を与えてもらったことで、ますます真相を語る必要はなくなったと感じた。
(p.12-13)

先ほどのSF『マルドゥック・スクランブル』の同作者(冲方丁)による、今度は時代もの。まだ読み始めたところですが。かの『天地明察』とそういえば同時代の話か。好きなのかな?
察しているどうしの、"察する"能力の高いどうしの、対話の風景。恋人どうしの?(笑)
「この男」というのは、主人公水戸光圀の家臣の一人ですね。
「影絵」という表現がいいなと思います。「影」、でも同じことだとは思いますけど。
"像"や"光"を正確に捉えていれば、その"影"だけでも対話は可能。むしろそれ(をなぞること)によって、より正確に明確に、"像"を浮かび上がらせるような面も。



「兄弟たち、昔からいうだろう。『教わった言葉は話せない、銭があれどもみずからの主張は買いがたい』とな。」
(p.278)

そうなんだ。
これは『三国志』における張飛や、『水滸伝』における黒旋風の李逵のような脳筋ズッコケ系のキャラのせりふなんですが。
そういうキャラですらこんなせりふを口にするんだというのと、そもそもそういうキャラに言わせられるくらいに、こういう言葉が一般に定着してるんだというのと。
中国は「教養」の国であるので"教わ"ることは前提として大量にあるわけですが、一方で「詩」の国でもあるので、自ら言葉を紡ぎ出すこと、あるいは"言葉"そのものへの意識というのは、日本に比べても相当に高い部分がありますよね。
日本の言語文化も、十分に豊かで繊細ではあるんですけど、残念ながらそれに対する意識や批評精神、それによって何かを定式化したり定着させたりという習慣が、どうも決定的に足りないような気がします。
日本語は素晴らしい。しかし日本人は今いち。
とりあえず上(↑)の作者(原作)による『銀河英雄伝説』



でも、基礎"教養"として共有しましょう。(笑)
言葉を"しっかり"使うということの、お手本に溢れた作品です。
・・・ガンダムでもいいんですけど、ちょっと派閥争いが色々と生臭いので。(笑)



琵琶湖では、船の転覆事故が多かった。
急がば廻れ、という諺は、じつは琵琶湖の水難事故の多さを警告したものである。
(p.400)

そうなんだ。(笑)
ただのトリビア。(笑)
2014年に亡くなった山本兼一氏の、最後の単行本作品より。
江戸時代の発明家の一代記ですが、要所要所に、間近に迫った死を意識していたせいでしょうか、ある種の"宗教"心というかそういう世界への関心のようなものが漏れ出ている感じで、興味深かったです。
ちなみに一般には『利休にたずねよ』の直木賞受賞&映画化



で名前が通っている人かと思いますが、あれは愛読者である僕からすると不思議なくらいに、むしろ断トツでつまらない&下らない、少なくとも持ち味の発揮されていない作品に思えるので、もしあれだけで見切った人がいたとすれば短気を起こさないで下さいと、それだけはお願いしておきたいです。
・・・いや、どうもかなり評判悪いみたいなんでね(笑)、映画が。
映画はともかく、"直木賞"ってそういう不思議なところがありますよね。"直木賞作家"はたいてい面白いけど、直木賞の"受賞作品"が面白いとは必ずしも限らない、色々な作家を見ての経験から言うと。

まあ同じ映画化&受賞(松本清張賞)作品でも、『火天の城』



の方は、問題無くお勧めです。


今回は小説づくしでした。


テーマ:本読みの記録
ジャンル:本・雑誌
『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編
2015年11月20日 (金) | 編集 |
本編


正確には、"第5章 集団の悪について"より



予め言っておくと、この章自体の必然性必要性は、僕自身はあまり感じないんですよね。
それまでの主に("社会"を背景としつつも)「個人」についてのユニークで野心的な分析に比べると、"人間が集団として行動した時に犯す特有の悪"という問題は、非常に重大で普遍的ではあっても、それゆえに多くの分析論述が既になされている分野なので、逆に下手に手を出すとせっかくの「個人」についての分析の価値を、曖昧化させてしまう恐れがあると思います。
ただその例として使われた「軍隊」についての筆者の論が、いささか意外な展開をして面白かったので、"(邪)悪"論というより"軍隊"論として、紹介しておきます。

直接的には筆者自身が職業的に関わったベトナム戦争時の米軍、特に所謂「ソンミ村虐殺事件」についての調査経験が、背景・中心となっています。
・・・その"ソンミ村"に代表されるベトナム戦争時の米軍の蛮行については、こちらのエントリーも参考にどうぞ。


集団行動・専門化・ナルシシズム

集団の行動は、個人の行動にくらべて、想像以上に原始的かつ未成熟なレベルにある。
(中略)
この原因のひとつとしてあげられるのが、「専門化」という問題である。
(p262-263)

そうなんですよね。所謂「集団行動」とか「群衆心理」については、"悪"というよりも"未熟"という印象が凄く強いんですよね。
つまり「個人」のレベルでなら、およそ広義の近代社会に住んでいる人間なら、例え見栄や偽善が動機だとしても一応は抑制されるような行動や反応が、ほとんどそのまんま出てしまっているという感じ。
そういう意味では、そんなに"深い"悪だとは思わない。前の記事で分析された「邪悪」と比べた場合。
・・・だから何か適切な一言や対処で、彼らを「個人」に戻すことが出来れば、"我に返って"その行動を思いとどまらせることも、それ自体はそんなに難しいことではない。戻すことが出来ればですけど。

専門化は、さまざまなメカニズムによって、集団の未成熟性やその潜在的悪を助長するものである。ここでは、とりあえず、そうしたメカニズムのひとつをあげるにとどめておくが、それは良心の分散化である。
(p263)

「専門化」と「モラル」一般については、同時期に読んだ別の本が詳しかったので、そっちの本をレポする時にまた書きたいと思います。専門化の"例"、具体的様相については、この後の軍隊論できっちり書かれてますが。
とりあえずは"良心の分散化"。それによる責任の回避。
上の僕の言い方と繋げると、要は良心が"分散"されずに、「個人」一人分程度が確保されてれば、一応防げると言えば防げるレベルの話だということですね。
立派な人である必要は無い。人間でさえあってくれれば("専門"家ではなく)、個人であってさえくれれば、極端な蛮行は防げるはず。・・・ただどうも「個人」に対する(近代的)教育ほど、簡単ではないようですけどね。何か別のシステムが必要なのか。もしくは別の思想。

この集団凝集力として最も大きな力を持っているのが、おそらく集団ナルシシズムだと思われる。
(p.274)

"集団"の"凝集力"というと、真っ先に浮かぶのは、その集団のメンバーに対する所謂斉一性(圧力)の問題ですが、ここで筆者が注目しているのは集団が集団として成立して後の、"外""他"に対する立ち現れ方・振る舞いとしての「ナルシシズム」ですね。
つまり集団が集団である、「自分」である、それ自体の中にある快楽や動機。愛。
その集団が集団として成立していること自体が、その集団を"守"る強い動機を生むというか。
何かの目的の為にその集団を守るのではなくて、存在自体が、守る動機。「自分」というものがそうであるように。

この集団ナルシシズムは、その最も単純かつ最も心地よいかたちとして、集団のプライドというかたちで表出される。
(中略)
こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗はわれわれの誇りを傷つける
(p.274-275)

(筆者の)理論的に言うと、ここで"ナルシシズム"という概念を置くことによって、その共通性でもって前回言った"個人"の「邪悪」と集団の「邪悪」を、繫げようとしているわけですね。
つまり例えばこういう箇所ですが。

彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

自分自身の病める自我の統合性を防衛保持するために

「完全性」「統合性」。ナルシシズム
それを脅かされた個人が"邪悪"に染まったように、自分の過ちを認めずに他人に攻撃を振り向けたように、プライドを傷つけられた集団もまた、過度の攻撃性をしばしば無関係な他の集団に向ける。傷つけられたプライドの回復の為に。強くて完全な自分(たち)というナルシシズムの上書きの為に。
それがつまり、当時予想外の屈辱的な大苦戦を強いられていた米軍が、ベトナムで集団的習慣的蛮行に及んだ理由の一つであると。
上で言ったように"共通性"そのものには僕はさほど関心は無いんですが、一種の"八つ当たり"であったという説明自体は、理解の難しいものではないと思います。

少し後の方ですが、ここらへんをまとめた箇所。

 一九六八年当時、アメリカ(中略)の誇りはいたく傷つけられ、とくに軍の誇りは決定的に傷つけられていた。ここでもまた、脅威にさらされたナルシシズムという条件から悪が生まれるという事実が明白となる。軍にとって、悪に走る条件は十分に整っていたのである。
(p.290)


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