読書日記(’18.3.19) ~"イギリス"と"資本主義"

二冊の本をこのテーマでまとめてみました。




『イギリス史』川北稔編


一冊目。
カナダスペインに続いてのイギリスでしたが、一番面白かったのは"古代"のケルト人とゲルマン人とバイキングと定住バイキングの"フランス人"が入れ替わり立ち代わりブリテン島の主導権を争っていた頃(笑)。あとローマ人か。(意外と影薄い)
・・・しかもその誰も、別に"原住民"ではないという、混沌。(笑)
中世に入ると、単なる王侯貴族の内輪もめ。誰が誰だか。


で、話はいきなり飛んで、18世紀以降の近代&産業革命・資本主義の時代に。

p.232

「財政革命」がイギリスでのみ成功した理由は、(中略)納税者の階層の利害を反映しえた議会による保障があったことがあげられている。


"財政革命"については後述。次の本で。
「民主主義」というと今日ではとかく"意思決定の遅滞・不能"性が語られることが多いですが、民主主義のトップランナーイギリスの場合、むしろ議会の"代表"性に国民(納税者)が納得出来たから、大きな政策転換を有機的に行えたという、そういう話。
まあ本来はそうでしょうね。「民意」の反映というのは、つまり"自発性"ということなので。
ただ"代表"者と"有権者"の関係がおかしくなると・・・という。延々クレーム対応に追われるだけになる。


p.251

産業革命のためには、むしろ道路や港湾、運河のような交通手段などの社会資本の整備が重要であった。(中略)
工業化が国家目標となった後発国では国家が自ら整備したものである。しかし、イギリスでは一円の民衆の保護者という意識の強い地主ジェントルマンが、社会的威光のために、それを実行したといえる。


ほお。面白い。
"ジェントルマン"とは何かというと、簡単に言うと「社会的責務意識の強い金持ち」ですね。その"階層"と、そして"文化"
元は上にあるような要は大土地所有者ですが、後に金融関係者などに"金持ち"の中身が移っても、「文化」そのものは受け継がれます。特に"地主"時代には地域への貢献意識が強いわけですが、そこらへんを日本の感覚で言うと・・・「徳の高い庄屋さん」+「武士道」みたいな感じでしょうか。まあそもそも"庄屋さん"自体、一種の武士道の体現者だろうと思いますけど。
この項自体が言っているのは、イギリスにおける近代の"インフラ投資"は、専ら私人の地域貢献によってなされたということ。+利害意識。
その結果の産業革命が「成功」するということをイギリスが示したから、日本も含む後発国は、「国家」主導でより効率的徹底的にやろうとしたという話。広い意味での"開発独裁"?

道路は、十八世紀初めから有料道路として整備され、運河は一七六〇年代から急速に発達し、「運河マニア時代」を現出した。


だから最初は道路は「有料道路」で、そして運河は大々的な投機の対象になった。


p.358

すでに満州事変に際して、イギリスは主要列強のなかで日本にもっとも宥和的な姿勢を示していたが、再軍備の断行やラインラント進駐というナチス・ドイツによるヴェルサイユ体制への挑戦にたいしても、エチオピアにおけるイタリアの行動にたいしても、イギリスは同じような姿勢をとった。


日英同盟があったから優しかったのではなくて(笑)、基本的に全方位事なかれだったという話。
チャーチルが出て来るまでは。

p.364

四一年十二月、イギリス帝国内のマレー半島とハワイの真珠湾にたいする日本軍の奇襲攻撃によって、それまでヨーロッパとアジアでそれぞれ展開していた戦争が結びつき、戦争が真の意味での世界大戦の様相を呈するとともに、アメリカが参戦したとき、チャーチルは「これで結局われわれの勝利が決まった」と、安堵の念をもらした。


日本がアメリカを引っ張り込まなければ、真面目にナチス・ドイツ勝ったかもしれませんよね、少なくともヨーロッパでは。
日本の"余計なお世話"が、イギリスにとっては"大きな親切"だった(笑)。迷惑有難。


p.364

ファシズムに反対し、民主主義を守る戦争への参加は、イギリス国内での社会改革を要求する声と結びついた。(中略)民主主義のための戦争はそれを戦う国の内部での困窮の克服につながるべきあるとの主張がさまざまなかたちでなされた。


これは大変面白い話。
簡単に言えば、対ファシズム戦争による"民主主義"意識の昂揚が、"民主主義的"社会、つまり所謂「福祉国家」政策を一気に進めたという話。金は無かったんですよ、戦時中は勿論、戦後も。"意識"でやった。
一方で現代のアメリカは、"対テロ戦争"によって国内が"非民主化"したわけで、それとのコントラスト。多少アメリカに、酷な比較かも知れませんが。

p.367

かつては中流階級以上の家庭の印であった家事奉公人がこの戦争によってほぼなくなった点も注目に値する。


一方でこんな"悲劇"も。ああ、メイドさんが!(そういうことではない)
民主主義反対。


アイルランド

サッチャーを経てトニー・ブレア労働党政権の始まりまで一通り解説した後で、別にアイルランドだけを解説した章がつけられています。いわゆるUKの北アイルランドだけではなくて、アイルランド島全体の歴史。知らないことばっかりでした。

p.415

しかし、現在の北アイルランドには、一方で自らをイギリス人と認識し、北アイルランドをイギリス(連合王国)の不可分の一部とする、ユニオニストと称する人びともいる。


"北アイルランドの独立したい人たち"対"イギリス"というのはむしろ"後"の話で、本体は北アイルランド内部の争い。それがカタルーニャ等、各国の分離独立運動とは少し違うところ。
言い換えると北アイルランド紛争のとりわけ陰惨な感じは、その「内戦」性に起因するのかなという。
加えて言うと、"カトリック"対"プロテスタント"という「宗教戦争」性、それにそれぞれの背後勢力としてのアイルランド本国(北部六州以外の二十六州)とUKの「代理戦争」という側面も重なっています。
戦争を煮詰まらせる要素大集合という感じで、ほんと悲惨です。
ちなみに「北アイルランド」そのものは、そもそもプロテスタントが圧倒的に優位な地域がそれを大きな理由としてUKに残留したものなので、そこにおける"プロテスタント"対"カトリック"というのは、対等な争いというよりは"支配勢力"対"被支配勢力"の争いというのが、本来の性格です。
語弊があるかも知れませんが、南アのアパルトヘイトに近い印象。分離されているのは、「人種」ではなくて「宗教」ですが。

p.416

アイルランドにキリスト教がもたらされるのは、五世紀のことである。今もアイルランドの守護聖人として敬われている聖パトリックらの修道士たちによる精力的な布教活動により、アイルランドは、殉教者の記録がないほど順調にキリスト教化された。(中略)
七世紀ごろまでは(中略)西ヨーロッパのキリスト教の一大拠点でもあった。


へええ。ケルト(ドルイド教)と、特に喧嘩はしなかった模様。
多分伝わった"キリスト教"自体がそんなに"ローマ"的教条的ではなくて、なので後にローマが支配力を強めると、丸ごと「異端」的な扱いになってしまいます。
でもなんか今でも残ってますよね、キリストとケルトの、密やかな結合みたいな感じは。イギリスの、特にスコットランドを描いた"田舎"のドラマを見ると。ウェールズのドラマも、なんか変だったなあ。(笑)





『株式会社の終焉』水野和夫


二冊目。
結構話題なった本、かな?
堺屋太一が、「近代/成長経済の時代が終わってこれからはゼロ成長の「中世」が来る」ということを書いていたのを読んだ記憶があるんですが(子供の頃なので覚えてない)、主張的には一緒だと思います。
違いは経済学のディテールが細かいのと、堺屋太一が"終わった"と思った後に「電子空間」というフロンティアが発見されて成長経済は延命したわけですが、そのことも踏まえた内容になっていること。

好きなタイプの思想ですけど、本当かどうかは僕には分かりません。経済センスゼロです。(笑)


p.102-103

もはや税収だけでは賄いきれない戦費調達をいかにスムーズにするかが、戦争を勝利に導く決め手となりました。そこで、「名誉革命後の一六九二年に、議会が恒久的な税金を新設して、それを利払いの担保としたことによって国債が誕生した」(富田俊基「2006」p.56)のです。
イギリスは世界に先駆けて王国の借金ではなく、国民の借金、すわち「国債」を発明した。(中略)「王位と債務の継承が不確実な国王の借金の時代が終わり、永続的な機関である議会が借金を保証することによって、国民の借金としての国債の時代が始まった」


上で出て来た「財政革命」ですね。"国債"の発明によって、"財政政策"の幅が格段にかつ安定的に広がった。良くも悪くも。(笑)
税金を作って更にそれを担保にするって、どんな自作自演だよという感じがしますが。
ただ上の本で書かれていることからすると、当時の納税者はそれを支持したわけでしょうね。
この時の戦争相手はフランスですが、その後あらゆる戦争にこの手法は活用されます。

p.122

法律家は次の観点で株式会社批判的でした。(中略)エドワード・クック卿(1552-1634)にみられるように、「会社には魂がないため、反逆罪で捕まえることもできないし、法の保護を剥奪することも破門することもできない」というのです。


「法人」というのも一種の発明ですよね。トリックというか。(笑)
"実体が無いので責任を追及出来ない"という「非人間性」は、"王"ではなく"議会"が借金を保証するようになったという話とも、似ている気がします。
それ以前にも「国」や「家」の為に個人が特定不能な形で善悪それぞれの行為をする(問題となるのはたいてい"悪い"ことですが)ということは行われていたわけですが、それを経済的なシステムとしてより積極的に、ある意味無限に行うよう、会社特に株式会社という発明が促したという。

p.190

当時は印刷業界が最大の産業でしたが、貨幣経済となって300年以上も経つと、ラテン語を読める上流階級の書庫が満杯になりました。(中略)
そこで印刷会社や出版社は、俗語で宗教改革を迫るプロテスタント側につきました。印刷会社はルターが翻訳した聖書を売りまくりました


へえ。
・グーテンベルクが発明した活版印刷術の、当時の最初&最大の使い道は聖書の印刷である。
・ルターの宗教改革が成功したのは、かなりの部分、活版印刷術のおかげである。
ということ自体は、割りと知られた話だと思います。
ただここまで積極的な、「印刷業界」の関与があったというのは、初耳でした。ほとんど"陰謀"。(笑)


肝心の「株式会社の終焉」の話が出て来ませんけど、基本ちょっと僕の手に余るので。
簡単に言えば、上でも書いたように"成長"の余地が無くなるので利益極大化を目的とする組織が成り立たなくなる・必要無くなるという話です。"グローバリゼーション"はむしろ最後の詰めで、つまりアマゾンなりグーグルなり、誰かが「世界征服」したらそれで終わるわけです。誰が勝っても、別にパイ自体が広がるわけではない。誰が勝とうが庶民には関係無いというか。(笑)

以上です。
アメリカアメリカのご時世ではありますが、なんだかんだやっぱり「近代」は、「資本主義」は、イギリスなんだなあという感想。
アメリカはその規模が大きいだけ。ほとんどは過去(のイギリス)に例のあるもの。


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読書日記(’18.1.31) ~スペイン、カタルーニャ、グアルディオラ

まあまあ集まったので、スペイン特集。
ヴェルディとマンチェスター・シティという形で、最近やたらと僕に絡んで来る。(笑)





『スペインの歴史を知るための50章』立石博高・内村俊太編

前回は、中世以来のカタルーニャの独立志向が、非イベリア性、ローマ及び西欧志向という基礎を持っているらしいという話をしましたが。

p.326

言うなれば、11世紀頃の時点で、共通の過去と理念をある程度は共有していたイベリア半島の諸国家が、時代を経るにしたがって各々固有の道筋を選択していったことを暦の利用状況が示唆している。


何の話かというと、スペイン中央政府(カスティーリャ)がヨーロッパで制定された新しい暦(グレゴリオ暦)を導入して国家的統一性の強化を図ろうとしたところ、それまで曲がりなりにもまとまっていた"スペイン"がそれに対するリアクションで分裂して、かえって統一性が緩んでしまったという、そういう話。
僕が特に注目したのは、「共通の過去と理念をある程度は共有していた」の部分。古来分裂し続けて来たものが近代になって一応「スペイン」としてまとまって、それがまた最近危機に瀕しているみたいな一本道的な歴史をイメージしていたんですが、そうではなくていくつかピークがあるというか、まとまる/ほどけるみたいなプロセスを繰り返して来たんだなという。

p.335

19世紀末にヨーロッパがナショナリズムの時代に入った時に、スペインでは、国家の一体性を不可欠の前提とするスペイン・ナショナリズムへの対抗として、地域ナショナリズムが誕生し、両者の対立構図は現在まで続いている。


これもまたスペイン「統一」"挫折"の歴史。
"ナショナリズムの時代"(参考)に日本を含む各国が中央集権的国民国家形成へと動く中で、同じように影響を受けたは受けたスペインの場合は、カタルーニャを筆頭とする"各国"がそれぞれにネイション意識を高めた為、かえって地域化が進んだという、笑い話のような真面目な話。
日本も「江戸幕府」ではなくて「豊臣政権」くらいの緩い統一を前提とした時代にナショナル化が進んだとしたら、そういう可能性もあったのかも知れないですね。各藩それぞれが"国"化するという。やっぱり前提としての「統一」のイメージがあるか無いかでは、大きく違うと思うんですよね。フランスも要は"ナポレオン"(の強力な指導)によって、国民国家を形成して行くわけですし。
まあ天皇もいたし、スペインのようには多言語でもなかったので、根本的に違うと言えば、違うのかも知れないですけど。とりあえず明治政府が"頑張った"ということは、善悪別にして言えるとは思いますね。

その後結局スペインは、20世紀の「フランコ独裁」という特殊な一時期を除いては、他の西側各国並みの強力な中央集権国家は形成しないまま現在に至るわけですが。
通して読んで逆に持つ疑問としては、「スペインはどうして分裂しているのか」ではなくて、むしろ「なぜスペインは"スペイン"という統一性を一応は持っているのか」という方の疑問。
それについてこの本では主題的には取り上げられてはいませんが、それでも拾い上げてみるとまずは

1.「西ゴート王国」という"統一政権"の始原的イメージ

というものが挙げられます。
西ゴート王国とは、415年 - 711年にかけて

現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国(Wiki)


であり、それがともかくもイベリア半島に統一的な王権を確立したこと、またキリスト教国家であったそれが後にイスラムのウマイヤ朝に滅ぼされ、それに対する"レコンキスタ"の過程で郷愁的に美化されたことによって、それ自体非ラテンの征服王朝であったにも関わらず神話的な共通イメージとして定着したと、そういうことです。"かつてスペイン(イベリア)は一つであった"と。

もう一つは、それこそこの本にはあえては書いてありませんが、要は

2.イベリア半島の僻地性

ということだろうなと。
大陸ヨーロッパと海に囲い込まれた「半島」という地理的な隔離性によって、好むと好まざるとに関わらず域内の緩い統一性共通性は意識せざるを得ず、またヨーロッパの方からは近代に至るまで常に異郷視・野蛮視を受け続けていた為、対抗上も団結せざるを得ない部分はある。仲は悪くても。(笑)
そういう言わば"消極的なアイデンティティ"としての「スペイン」は常に存在していて、ただそれゆえそれ以上には、なかなか高まらなかった。これがまあ、僕の目に映った"スペイン史"ですが。

面白かったですね。もっと色んな国の歴史を、改めて見たくなりました。
とりあえず次はイギリスか、フランスか。
「世界史」より「各国史」の方が、どうも面白い気がします。






『グアルディオラ・メソッド―勝利に導くための61の法則』ミケル・アンジェル・ビオラン

図書館にあったので読んでみました。期待したような戦術的な本ではなかったですが、"文化論"的にはまあまあ面白かったです。
作者はカタルーニャ人で、カタルーニャ人として、"カタルーニャ人"ペップやスペインを、語っています。

p.18

生粋のカタルーニャ人が持っていたコスモポリタニズム(世界は一つの共同体だという考え)は、スポーツのジャンルにおいてもタレント性とコミットメントの融合を可能にした。


これ以上は特には書いてませんが、やっぱりカタルーニャ人は、「コスモポリタン」なんですね。
僻地イベリア半島に閉じ込められながら、だからこそ逆に、切に「世界」を思う
スペイン/国を介在させずに。
後半部分が具体的に何についての話なのかはちょっと忘れてしまいましたが、ここらへん全体として筆者が言おうとしているのは、「スペイン」や「バルセロナ」の"成功"として今日語られていることの多くは、実際には「バルセロナ」単体や「グアルディオラ」個人に負うところの大きい性格のもので、「スペイン」のと言ってしまうのは問題がある、特にペップの飽くなき先進性やある種のグローバリズムは、優れてカタルーニャ的なものであって"スペイン"ではないと、そういうことのようです。
まあ"スペイン"と"カタルーニャ"の手柄争いについて口を出す立場には僕はないですが(笑)、ただ"バルサ"があくまで"バルサ"であること、そしてペップの個人的天才が余りに突出していて、「典型」として扱うのは無理があることは、ある程度は誰でも感じるところだろうと思います。
「スペイン」の中での「カタルーニャ」の突出と、更にその中での「ペップ」の突出と、二段構えの構造。


そしてそういう筆者による、"スペイン"評。

p.85

スペインでは自分たちの力やポテンシャルを信じない。(中略)
簡単に説明するとまったく何にも賭けをしない国。それがスペインだ。


スペインは「情熱的でない」ところに、特徴のある国だという。(笑)
かなり挑発的な感じはしますが、ただし見た感じ所謂"情熱の国"スペインという国際的定評を、意識しての記述には見えないんですよね。だから国内的には、実は通じ易い話なのかもしれない。定番の自虐ネタというか。またここでは必ずしも、"カタルーニャ人"として"スペイン"を叩いているようにも、見えません。
まあ日本人が明治維新を誇るように、逆にスペイン人はついに近代的集権国家を築けなかったことを、その自己変革力の無さを、恥じているのかも知れない。
スペイン文化全般も、基本的には暗いですよね。"フラメンコ"とか"闘牛"とか(笑)、明るい"情熱"というよりも暗い"情念"というタイプの文化。魅力的は魅力的ですが、"妖しい"魅力の方。
明るく建設的な"情熱"というよりも、虚無と無力感の淵から立ち上がる"狂気"に近いんですかね、スペインのそれは。ハンター×ハンターでも、「強化系」には分類されないタイプの"熱"かもしれない。(笑)

p.130

スペインはチームワークによって自分たちの能力を活性化させるのが困難な文化だ。集団意識が希薄で、誰の目にも明らかなリーダーシップに乏しい


これはまあ、"バルサ化"して欧州と世界を席巻する以前のスペイン代表を覚えているサッカーファンなら、割りとすんなり納得出来る評価ではないかと思います。
あの時は「国内事情で代表チームに対する忠誠心が乏しい」のが理由と、概ね理解されていたと思いますが、この筆者によるとそれは代表チームに限ったことではなく、"スペイン人による集団"に共通に見られる体質だと、いうことのよう。
そしてそれを改革した克服させたのが、個人の「タレント性」(↑)を集団への深い「コミットメント」(↑)に導いたのが、カタルーニャとバルサの("コスモポリタン"な?)文化だと。
まあ起源や手柄(笑)の問題はともかくとして、とにかく"集団"が苦手だったスペインが、今日では組織プレーの一つの手本として各国から研究されるようになるに至ったわけですから、仮に元が苦手であるなら尚更学びたい、日本人に何かしら伝授してもらいたいものではありますね。「自己変革」のプロセスの再現というか。
いつ見ても"鉄の掟"で動いているイタリアとか、逆に学べるのかなと思うところもありますし。

p.87

"ペップ"グアルディオラが新たに導入したことの多くは、彼がイタリアでプレーしていた時代に学んだことである。


ペップの"非スペイン"性の、ちょっと次元の違う(笑)補足。
脱スペインしてユニバーサルに学んだからこそ、ペップはあるんだと。まあ、それはそうかもしれない。(笑)
ただ正直ペップのバルサを出てからの放浪については、少し冷ややかに見ていたところがあって、いちいち本当に学び切っているのには驚きましたね。"プレイヤー"としては結局は(スペイン)ドメスティックな選手だったと思うので、どうも効果を危ぶんでしまったんですが。


さて最後にこの本のタイトルですが。
グアルディオラのメソッドとは何か。「無い」というのが実はこの本の答え。
そうではなくて、"グアルディオラ"そのものが"メソッド"であるという。言い換えればその人格が。

参考として挙げられているのが、心理療法における「クライエントセンタード」という考え方、手法。

この療法の基本的な考えは、「来談者の話をよく傾聴し、来談者自身がどのように感じ、どのように生きつつあるかに真剣に取り組んでいきさえすれば、別にカウンセラーの賢明さや知識を振り回したり、押しつけたりしなくても来談者自らが気づき、成長していくことができる」ということです。
人間は、成長・自律・独立等に向かう「実現傾向」を持つと考えます。カウンセラーは、自らの体験・意識・表現が一致していること、来談者に無条件の肯定的な関心を持つこと、共感的に理解することを大事にします。
(「来談者中心療法・カウンセリング」日本臨床心理士会のサイト)


ペップの指導もこの考え方に立っているというのが、この人の解説。
「カウンセラーの賢明さや知識」というのが、所謂"メソッド"にあたる部分。ある特定のそれを押しつけるのではなく、ペップがペップとしてチームや選手に向き合う/立ち会うことによって、対象が自ら気付き、"実現傾向"を現していくのに任せるのが、ペップの方法だと。
程度問題は分かりませんが、実際にペップがこの理論を学んで参考にしているのは、確かなようですね、この本によると。それにしても具体的な監督業をイメージすると、さすがに綺麗事な印象は否めませんが。

ただ僕自身も、「ペップには戦術が無い」ということは言いました。
それはつまり、原則は提供するけれど「こうしろ」とは言わない(のではないか)ということ。"絵"に向けて集約させることも無い。その原則を踏まえた上で、でも具体的には"クライエントセンタード"に、個々の選手やチームがその内側から「実現」させて行くものに任せている、それを管理・微調整するのがペップの仕事(の仕方)なのではないか、と、今回の話と合わせるとまとめられないことはないかなと。
もっと言うと、ペップの「願い」は確かに個々の"発露"そのものであって、「組織」というのはあくまでそれを助けるもの、決して"完璧な組織"を作るようなタイプの監督的エゴをモチベーションとはしていない、それは本当に思います。
100%フリーで出来るなら、本当にやらせるんじゃないでしょうか。そういう意味では、「教育者」なんでしょうね本質は。「カウンセラー」でもいいですけど。(笑)


こんなところです。
結構な量になりましたね。(笑)
もう一冊読んだんですが、それはまた今度に。


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読書日記(’17.12.26) ~それぞれのお国事情

年末一挙放出。


『カナダ史』木村和男編



p.5

一八六七年のロシアからのアラスカ購入も、カナダを南北から挟み込んで併合に追い込むことが重要な動機になっていた。


今日経済的な密着性は高いものの、その独立不羈のリベラリズムでアメリカとは一線を画した存在感を確立している感のあるカナダですが、建国以来西へ南(テキサス、メキシコ)へ領土を拡張し続けて来たアメリカは、隙あらば北/カナダをも呑み込んでしまおうという意思は当然持っていたし、ある時期までは具体的努力も続けていたという話。
言われてみればいかにもありそうな話ではあるんですが、あんまりそういう領土的緊張感があの二国にある印象は日本人は持っていないですよね。ただ"アラスカ"には確かに違和感を感じるので、そういうことならばむしろ納得。

p.318-319

(一九六〇年の「カナダ権利章典」制定後)各州は人権規約、連邦政府は人権法を定め、それに基づいてそれぞれ人権委員会を設置した。
基本的人権や自由が憲法で保障されるには、一九八二年まで待たなければならなかった。


歴史を見ると、カナダも言うほどアメリカに比べていつも人権意識が高かったわけではないんですが、これはそういう高い低いというより、「連邦制」「地方自治」がいかに「全国」や「憲法」を遅らせるかという、そういう例。"1982年まで憲法で基本的人権が保障されていなかった"とかいうとどんな発展途上国かという感じですが(笑)、それまでは州ごとの規定でやってたということですね。
日本でも"淫行処罰規定"のような地方ばらばらの人権・人身保護タームもあるにはあるわけですが、やっぱりどうも全国一律じゃないと、不安なところはありますね慣れてないのもあって。今の状況でそこらへんが緩むと、酷いことをする自治体とかボロボロ出て来そうですし。"生活保護"とかはまあ、「運用」のレベルなんでしょうけど。


『スペインの歴史を知るための50章』立石博高・内村俊太編



p.64

北東部でも地中海に面した領域、かつてはタラコネンシス属州としてローマ化が著しい地域(現在のカタルーニャ自治州に相当)の状況も、固有の地政学的諸条件に規定されている。
(中略)
政治・外交関係においても文化面においても、とりわけ南仏地域との親縁性が強いままであり続けた。


カナダの次はスペイン。言われているのは8,9世紀、今しも"レコンキスタ"が始まらんとしている中世初頭の話。
最近もスペインからの独立問題で大騒ぎになったカタルーニャですが、"カタラン"のエキゾチックな響きもあって、割りとローカルで純民族主義的な内向きの運動の印象が日本人には強いと思います。
でもこの本で見るとカタルーニャの独自性というのは単にマドリードを中心とする中央政府(旧カスティーリャ王国)への"対抗"意識ということではなくて、そもそもの非イベリア性というか、"ヨーロッパ"との親近性が起源のようで、へえという感じ。かのペップグアルディオラがカタルーニャ独立を熱心に支持しているのも、"民族主義"というよりはそういうコスモポリタニズム的なニュアンスもあっての"非スペイン"ということなのかなと思ったりもしますが、具体的にはちょっと知りません。調べてみようかな。
ただ現在の状況でカタルーニャがスペインからの独立性を強めると、制度的にはEUから距離が出来て"非ヨーロッパ"化する気もしますけどね、そういうつもりかどうかはともかく。


『サッカーという名の戦争』平田竹男



平田竹男氏。元日本サッカー協会専務理事。
主な仕事はマッチメイク等の対外交渉で、これもまあ「国際関係」の本と言えばそう。(笑)

p.17

もし、当初の予定通り03年に最終予選が行われていたら、闘莉王は日本代表の一員としてプレーすることはできなかった。結果的に、SARSによる延期はアテネ五輪代表にひとつの福音をもたらすことになった。(中略)
平山相太、今野泰幸、徳永悠平などU-20代表組の加入も、SARSによって間に合った。


2002~2003年にかけての中国でのSARS流行でアテネ最終予選が2004年初頭に延びたことによる"影響"という話。
そうだったかな。全然覚えてないです。面目ない。
単に「無能な山本監督が"闘莉王の帰化"と"平山の飛び級"という大補強でようやくチームを形にした」事例としてしか。(笑)
じゃああれは実現しない可能性があったのか。
正直あの二人の"新加入主力選手"抜きで、あのチームがチームの態をなせたとは思えないですよね、じゃあ普通に予選敗退があり得たのか。
まあ負けた方が"警告"になって良かったかもしれないという、かなり色々と混乱したチームでしたけどねあのチームは。"谷間"とは思いませんが。

p.178

だが実は、日本も中東の人々から同じように見られている。
ラモスを帰化させ、呂比須を帰化させ、三都主を帰化させ、闘莉王を帰化させ・・・・・・。中東の人たちが、日本の帰化選手を見つめるときの厳しい視線を知ってほしい。


これはちょっと、虚を衝かれました。
たまにアジア外の国が日本とやって、"違う顔"の選手がいることに驚きを示していたことは覚えていますが、アジア内・中東の連中が日本の帰化選手のことをそんな風に(卑怯だ反則だと)思っていたとは。
根本的には日本人の方が、さんざん中東の「身体能力」「個人能力」を羨ましく思っていた、そういう歴史があるわけですけどね。うちにも一人くらい、そういう選手がいてもいいだろうと、そういう感覚。(笑)
まあ帰化は帰化なんですけど、言われてみれば。"助っ人"というか。


・・・ここからは「映画鑑賞」日記。(笑)

『将軍SHOGUN』



まり子「(日本には)プライバシーがないので自分で作らないと。(中略)
自分の周りに壁を築くのです。」
按針「壁とは?」
まり子「本心は壁に隠れています。しきたりの壁。
言葉もそうです。あいまいな表現で、答えをはぐらかせる。」


日本でも放送されて話題になった、1980年のアメリカのドラマ『将軍 SHOGUN』から。
島田陽子演じる英語に堪能な日本女性まり子と、リチャード・チェンバレン演じる"三浦按針"をモデルとしたイギリス人航海士の会話。
恐らくは原作小説由来の、「日本人の対人関係」についての独自説。
"部屋に鍵がかからない代わりに自分に鍵をかける"的な(笑)。なんか言われるとそんなこともありそうな気はします。あくまで気がするだけですけど。(笑)


『紳士協定』



ライター「すぐ調査部の資料をくれ。・・・起こった事件とか数字のだ」
社長「待ってくれ。資料を並べるだけの能なしなら社に18人もいる。わざわざ君に来てもらう事はなかった」
社長「頭を使いアングルを決め、劇的に書き是が非でも読ませるのだ」
ライター「月をつかめだな」
社長「ありきたりの過激論ではない暗示に富んだ物にしろ」


グレゴリー・ペック主演、エリア・カザン監督による、1947年の名作映画。(Wiki)
雑誌社社長の注文に応えて「反ユダヤ主義」をテーマにした連載記事の執筆にかかろうとしたペック演じる外部ライターと、社長の会話。
何が言いたいかというと、ここで語られているような「記事」が、"良心的""本物"の記事だという共通理解というか「正義」が割りと最近まであった気がしますが、最近はどちらかというとだよねと言うこと。
「資料を並べ」ない、(変に)「暗示に富んだ」ものを書くライターの方が、「能なし」呼ばわれされる。(笑)
"ロッキングオン的印象批評"への冷笑とかもそうですけど。

ある程度はまあ、"サイクル"だとは思います。保守とリベラルみたいなもので。
あるいは"その"スタイル(観)に慣れ切ったライターが増え過ぎたことに対する、当然の反動というか。
ただ時代の要請というか、"実証性"ということについての基本的な要求水準が、決定的に上がったというところも確かにあるようには思いますね。

とはいえ「ソースを示せ」馬鹿にうんざりしている人も少なからずいるでしょうし、僕が書くような横着なものにも意外としぶとく(笑)需要があるようにも見えますし、どうなることやらという。(笑)


ではまた来年。ネタが溜まったら。


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読書日記(’17.10.14) ~アイデアとその表現、吉川永青、篠田節子

忘れた頃に登場するこのシリーズ。
いや、ほんとに忘れてるんですけど(笑)。メモだけしたまま。
というわけで特に繋がりは無いですが、溜めててもしょうがないので。


ジュリアン・コープ『ジャップ・ロック・サンプラー 戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか』


p.64-65
シュトックハウゼンは鈴木に、新しいテクノロジーと、それに魅力を感じる自分がいるせいで、「とても人工的なやり方」でサウンドづくりをせざるを得ないのだ、と告白した。(中略)
「わたしにはあなたが、これこれは人工的でこれこれは自然だと称する理由がわからない・・・・・・人工的と言えるのは、あなたが自分の内なる確信逆らったときだけです。あなたの今のやり方は、そのままで完全に自然ですよ」

本自体は以前紹介しました。イギリスの気持ち伝説的なロック・ミュージシャンジュリアン・コープによる、日本のロックのかなり独創的な研究書。(の、紹介しそびれた部分)
シュトックハウゼンというのは高名な現代音楽家で(Wiki)"鈴木"というのは恐らくは最も海外で有名な日本の禅僧・仏教学者であろう、「鈴木大拙」のことです。

その二人の間でどういうやり取りがなされているかというと、ついつい好奇心に負けて新しい"テクノロジー"を使いがちなシュトックハウゼンが、それは「人工的」で不自然な、根拠の薄い行為なのではないかと悩んでいると告白したのに対して、心からやりたくてやってるならそれは全て「自然」なことだよと鈴木大拙が慰めた、お墨付きを与えたと、そういう話。

僕が解説するとしたら、

1.表現者は常に自分なりの"自然"を求めていて、その"自然"が既存の形式に上手く収まらない時に、必要に駆られて逸脱や"実験"が始まるのであって、変格や目新しさ自体が目的なわけではない。
2.欲望や感情は勿論のこと、観念や思考さえも基本的には一種の"自然"現象として自分の中に「発生」するのであり、内容の是非はどうあれ"それ"に従うのは、少なくとも自然から離れた行為ではない。

・・・といったところでしょうか。前者はシュトックハウゼンの動機と不安の理由を、後者は鈴木大拙の「回答」の背景を、説明しているつもりです。

まあ1.はだいぶ建前的ではあって、多くの、あるいは"凡百の"表現者は、実際には名声を求めて"新奇性"や"革新性"、少なくとも流行遅れではないことのアピールに必死であるわけでしょうが、シュトックハウゼンにとっては(現代)音楽はそういうものではないらしい。
2.は分かり難いかも知れませんが、"確信"や内的思考の、一種の「異物」性ですね。外来性というか。意識にとっての。"自分が"考えたわけでは本当はなくて、ただそうあるようにそこにあるだけだから、「人工」の余地は少なくとも無いという。
"思って"もいないことを言ったりやったり、人の目や耳や流行に配慮して原アイデアから離れ過ぎたアレンジを施してしまうと、それは「人工的」で「不自然」なものになり果てる。あなたはそうではないと、鈴木大拙は言っている。(はずです)


阿基米得『謎のカタカムナ文明 ~秘教科学の最終黙示』


p.26-27
だがいくら五感を超えた超感覚があっても、それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。
 このことは、いわゆる超能力者とよばれる人々を観察すれば充分に明らかなことである。彼らの大部分はペテン師であるが、残りは確かにわれわれにはない超常的な能力をもっているようではある。だが、彼らに共通して見受けられることは、彼らの語る内容には恣意的な解釈と自己顕示欲どうしようもないほど入り混じっているということである。

上と直接の関係は無いかもしれませんが、こちらも「内的思考」、前意識的思考と、意識や人格との、容易に捉え難い関係性の話。

・・・と、その前に、何じゃこの本はという話ですが。(笑)
カタカムナ文明という、固有の科学体系や言語体系を持っていた一部では有名な超文明の紹介を中心に、オカルト・陰謀論系の様々なトピックをまとめて解説&ぶった切った感じの本です。
力説している部分と批評している部分と半々で、上は専ら"批評"している部分。

言っているのはどういうことかというと、例えどんなアイデアだろうと天啓だろうと、どんな素晴らしい"霊感"が来ようと、結局はそういう前言語的な情報を言語的意識的に処理する能力の問題は避けられなくて、馬鹿は馬鹿だし下司は下司、仮にインチキではなくてもその部分がお粗末だったり無頓着だったりすると、(社会的に)価値あるもの認められるものは生み出せないと、そういう話です。
猫に小判、豚に真珠、"恣意的な解釈と自己顕示欲"に"超感覚"。

・・・サッカーでもありますね、何でこんな奴にこんな才能が宿ってしまったんだ、せっかくの才能だけど多分この選手はそれを一生活かせないぞと、そんな悲しい気持ちにさせられることが。(笑)

シュトックハウゼンの話と共通しているのは、アイデアや内的衝動そのものよりも、それの取り扱い方、自分自身のそれとの"対峙"の仕方、そちらの方に事態の本質があることが、往々にしてあるという構図です。
まあアイデアや衝動の"無い"人というのは、実際いないわけですしね。後は拾い上げるかどうか、どう拾い上げるか。


中島厚志『大過剰』


p.95
EU離脱を選択したイギリスでは、大学教育を受けている人々の割合が国民では23%なのに対して移民では45%に達しており、ドイツやフランスといったEU当初加盟8ケ国からの移民の36%はもとより、中東欧出身者が中心となるEU移民の43%よりもさらに高くなっている。

話だいぶ変わって。(笑)
23%とは低いですね。
ちなみに日本はというと、男女共に50%越えです。(参考)
教育内容を考えると、どちらかというと日本が無駄に高い(笑)という面の方が大きいんだろうと思いますが、いずれにしても移民の方が"倍"の進学率というのは、おそらくはかなり"従来"国民の神経に障る、危機感を煽る数字ではあるでしょうね。僕でも多分、気になる。
"EU離脱"選択時の各種報道では、まだ"単純労働の職場を奪われた"的なイメージでの、反移民感情だったように記憶していますが。



・・・以上評論部門。ここからは小説部門。


吉川永青『戯史三國志 我が糸は誰を操る』


p.109
曹操も劉備の変化を感じ取ったらしい。
全身から、良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気を発散している。

「良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気」。いいスね(笑)。いい表現
"男の子"魂メラメラ。
吉川永青『戯史三國志』シリーズとは、魏パート陳宮、呉パート程普、蜀パート廖淳という、何とも渋いというか地味(笑)な武将を主人公に三国それぞれの視点からの三国志を描いた作品で、読む前は正直舐めてましたが、「まだこんな書き方があったか」と結果かなり驚かされた新鮮な"三国志"でした。
人物造型や拾い上げがいちいち意外でしたし、どちらかというと知将を中心に、かなり"戦術"のディテールが細かいのが特徴的。
といって所謂ゲーム的あるいは理系的な作品ではないんですけど。むしろ"真っ当"という印象。今まで書かれなかったことの方が問題かも知れないという。
陳宮がいい奴で曹豹が使える奴ですからね。驚いた。(笑)


吉川永青『戯史三國志 我が槍は覇道の翼』


p.12
黄巾党とはいえ、将となれば飯も違う。上等な豚肉や鶏肉を食うこともできるのに、程普は下等な水牛の肉を好んだ。硬く筋張った牛肉を嚙み締めるごとに気が引き締まり、戦場に赴く緊張が胃袋から総身に染み渡る気がするからだ。

前に水滸伝を読んだ時に、(後に)梁山泊に集まるような食いつめ者や流れ者が、何かと言うと「牛肉」を食いまくるので、いったいどうなってるんだ中国ではそんなに牛肉って気安く食べられるものなのかと少し不思議だったんですが、なるほどそういうことか。「牛肉」は牛肉でも要はそこらへんをうろちょろしている水牛、少なくとも食用の"肉牛"ではない野良(笑)の食材を、てきとうに潰して庶民は食ってたのか。むしろ「豚肉」や「鶏肉」の方が、食用に育てられた高級食材である率が高いと。
Wikiを見ると水牛はそもそもアジア原産で、実際ありふれた"潰し"の利く動物だったみたいですね、なるほど。疑問が解けました。(笑)


篠田節子『インドクリスタル』


p.142上
なぜかって?日本人に社員は扱えても使用人は扱えないんだよ。戦後六十年の平等主義が骨の髄まで染みこんでいるからな

何度か書いていると思いますが僕の最も敬愛する女性作家である篠田節子さんによる、現代インドを舞台にした、ハイテク用高純度クリスタルの原石をめぐる日本のメーカー・商社や現地の諸勢力の苛烈かつ複雑怪奇な争奪戦を描いた作品。
今日の地球上で恐らく最も理解の難しい「国」であるインドの、"色々な面"ではなく"全体像"を、「小説」という形式を生かしてともかくも一回描き切ることにチャレンジした力作と、とりあえずはそう評しておきます。
どんな底なし沼にもとりあえず"溺れ"ない算段を見つけて見せる、相変わらず驚異的な耐久力の知性と感性の持ち主で、今回は特に脱帽でした。

上は何というか、この作品に嫌ってほど出て来る、日本人の常識が"インド"に通用しない例の、比較的分かり易い一つ。
日本人は「社員」を"奴隷"のようには扱えても(社会風刺)、「使用人」を威厳を持って扱うことは苦手だという。そういう経験、ないし"教養"が無いから。
まあ一般に"平等"観というのは、当事者間で共有されないと余り機能しないんですよね。良かれと思っても戸惑われるだけというか。
M奴隷の人はノーマルの人が相手では満足出来ない的な。(?)


他にも色々あったんですけど、PCが壊れた時にどっか行ってしまいました。
それに懲りて今更ながらwebストレージというものを導入してみたんですが、使い方があってるのかまだ自信が無い。
いちいち預けるのかと思ったら、勝手に同期してくれるのか。


テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

猪瀬直樹『欲望のメディア』(’90) ~日本のテレビ事業の歴史




最近多いパターンですが、ニュースザップで紹介されていたのを半ば反射的に図書館の待機リストに入れて、回って来たので何となく読んでみた本。

基本的には日本のテレビ業界の黎明期を描いた本ですが、後半のBSとCSに関する部分が先日書いたばかりの『HBOの過去・現在・未来』の内容と微妙にリンクしたりもしていました。
ちなみにタイトルの"欲望のメディア"というのはズバリテレビのことで、"欲望を刺激する低俗番組を垂れ流す"的な、ややネガティヴでかつ紋切り型でもある猪瀬氏自身のテレビ観を表しているようです。割りとベタなんですよね、そこらへんが。後でも出て来ますが。だから所謂"表現規制"に関わった?
ただしそれはこの本の内容には実質ほとんど関係が無いので、構わず書いて行きます。


テレビ事業草創期よもやま話

p.54-55

早稲田大学理工学部教授川原田政太郎は、テレビの開発を、劇場で観る前提で進めていった男である。実際、その成果はある時期、高柳より華々しかった。人びとは、新しいメディアを劇場で観るものと信じはじめたのだった。
(中略)
スクリーンは「五尺四方」というから、縦横一メートル五十センチとなかなかの迫力だった。ブラウン管ではなく一種のプロジェクターで、スクリーンに投影する方法である。

昭和3年(1928年)のこと。
"高柳"というのは高柳健次郎氏のこと。「ブラウン管」派の研究者ですね。後でも出て来ます。
"劇場"で"スクリーン"で見るということになったら随分テレビのカルチャーも違ったものになりそうですが、とにかくその語間も無くアメリカの方でブラウン管の技術革新があって、結局今日の「お茶の間」への道を、テレビは歩むことになるわけです。
ちなみにこの本によると、日本におけるテレビの研究は、ラジオとほとんど同時に始まっていたそうです。必ずしもラジオ→テレビという、技術的順番ではなかった。

p.78

青緑色の車体の胴体部分には、「テレビジョン」の黄色い大きな文字がくっきり浮かび上がっていた。車といえば黒が常識の時代、四台のバスは東京に着くと警視庁から、派手すぎるので塗りかえよ、と命じられる運命にある。

昭和12(1937)年、NHKが初めて試作した"中継車"の話。指揮を執っているのは上の"高柳"博士です。
ここはむしろ、当時の"自動車"カルチャーと警察の権力の風景として、面白かった箇所。(笑)

p.99

ナチス・ドイツのテレビ放送プログラムを調査したエドウィン・ライスは、つぎの数字をあげている。毎日六時間におよぶ主要なプログラムのうち、直接プロパガンダ二十三・七パーセント、娯楽プロパガンダ六十一・四パーセント、いずれとも定まらない放送十四・九パーセント。
(中略)
テレビのもつ散漫さ、である。人びとの顔を無遠慮につるりと撫でるが、内面まで達しない。ヒトラーの昂った声は、テレビよりラジオ向きなのだ。あるいは映画向き。

"ニューメディア"テレビジョンをプロパガンダに積極的に活用しようとしていたナチス・ドイツが、試行錯誤の末にたどり着いた"最適"バランス。娯楽の優位。
だからテレビは低俗なんだ、と猪瀬氏は言いたがってるわけですけど、僕はむしろ、「映像」と「音声」の違いの話として、捉えたいですね。そういう話としてなら、分かるというか。つまり確かに"ラジオ"は、"テレビ"とは違う独特の刺さり方をする。"内面"に達する。そういう感覚は、ある。
でも映画がテレビとそんなに違うかというと、それは疑問ですね。歴史的にも、テレビが一般化する以前はテレビの役割をも、映画が務めていたわけですし。
なんか猪瀬氏は、映画が好きらしいです。やけにハリウッドを、尊敬している。正直単なる世代的問題に見えますが。"分析"以前というか。

p.133

菊田の回想をつづけよう。
「(中略)NHKの放送番組は終戦直後からいままでずっと、そのほとんどすべては、日本人の自由にはならない(中略)、アメちゃん番組だったのです」

"菊田"というのは菊田一夫、元祖『君の名は』(ラジオドラマ)の原作者兼主題歌作詞者。
GHQ管理下でのNHK"ラジオ"の実態についての証言。
「アメちゃん番組」という表現が面白くて。(笑)

p.205-206

日本では、(中略)公共放送民間テレビは、ほぼ同時期にスタートしたのだ。しかも実際には、日本テレビのほうが免許を得たのは早かった。NHKは民間テレビに引きずられるようにして開始を急がされたのである。

これは割りと日本の特徴的なところで、ヨーロッパなんかはほとんど公共放送中心ですね。だからコンテンツ産業が発展しなくて、その空白にアメリカの映画と日本のアニメが入り放題みたいな、そういう面もあったようです。
ちなみに「日本テレビ」というのは今見ると凄く偉そうな名前に見えますが(笑)、この当時は本当に民間の資本と技術を結集した唯一無二の"テレビジョン"プロジェクトで、だから上で「民間テレビ」と言っているのはそのまま日本テレビのことです。
その後しばらくしてTBSが出来て、次だいぶ空いてフジとテレ朝(の前身)が出来ると、そういう経緯。

p.275

取組みの話ですが、リーグ戦でもタッグチーム試合でもどうにでもできますが、山口(利夫)氏が来ていろいろ話をしたことも想像できます。しかし、小生は彼たちが客に満足できる試合をやれないと思います。木村(政彦)なら名前もあるし山口よりは早いが、あんまり小さいので段が違いすぎると思います。(中略)一番大切な取組みのことですから、将来に影響することはできないと思います。」

"木村政彦"でピンと来る人は来るでしょう、この"小生"とはかの力道山のことです。(笑)
日本での旗揚げを目前に控え、顔繋ぎも兼ねてアメリカ転戦中の力道山が、日本で段取りに走り回っている興行主がよこした経過報告に、クレームをつけた手紙。文体が・・・なんか意外な感じで面白いですね。(笑)
"山口利夫"というのは柔道家あがりの、日本で力道山より少し先にプロレス(まがい。力道山に言わせると)団体を立ち上げた人。それと既に柔道家として高名だった木村政彦が、力道山一座に合流して色々と勝手に仕切りたがっている、それに力道山が釘を刺している図です。

p.277

伊集院記者の署名入りの記事が載ったのは、一月二十九日付のスポーツ欄である。「血みどろで、打つ、ける---スリル満点 プロレスリング」
(中略)
ルールの説明が中心で、啓蒙的色彩が強い。

昭和29(1954)年、あくる二月旗揚げ公演のシャープ兄弟の初来日を控えて、でもさっぱり盛り上がらない前景気に業を煮やした力道山が、辛うじてプロレスの知識のあった毎日新聞の記者に書かせた記事。
"血みどろ"はともかく、"打つ""ける"って、"レスリング"はどこへ行ったという感じですが。(笑)
まあ結果的に力道山の得意技は"空手チョップ"だったわけで、問題無いのかも知れませんが(笑)。とにかくこれが、この当時のプロレスの認知度。

p.334

大宅壮一"一億総白痴化論"で、テレビは初めて中身を問われた。その結果が、免許の制約条件に具現化されたのである。

大宅壮一の、"一億総白痴化"論。
「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。」
(『週刊東京』1957年2月2日号)

この論が与えた影響を猪瀬氏はかなり高く評価しているんですが、ただこれは基本的に猪瀬氏自身の持論でもあるようなので、多少割り引いて考えた方がいいかも知れません。
"免許の制約条件"とは何を言っているかというと、この後放送免許を取得したフジテレビ('57.6月)とテレビ朝日(同7月)に、それぞれ「民族の平和的発展に貢献」「教育局」という放送"内容"についての指定が条件として課されたことです。直接の影響とするには大宅の論からの期間が短過ぎる気もしますが、何らかそういうテレビの放送内容に対する厳しめの時代の空気が存在したことは、確かなようですね。

p.401

高柳が正力に敗れなければ、日本は独自のシステムでテレビ放送を始めていただろうから、日本のテレビ受像機との間に互換性がなく、アメリカ市場を席巻する機会は遠のいたと思う。

これは日本のテレビ事業について、上記高柳博士の主導するNHKが国産規格・ハードによる立ち上げを、正力松太郎の主導する日本テレビがアメリカ規格・ハードの輸入によるより手っ取り早い立ち上げを主張し、結果的に正力側が勝ったことを指しています。そしてアメリカと規格の互換性が高かったゆえに、逆に日本製テレビが後にアメリカ市場を席巻することも出来たと。
まあそれだけが理由ということでもないでしょうけど、"歴史の皮肉"を感じさせる事案ではあるかもしれない。


CATV、BS、CS

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齋藤元章 『エクサスケールの衝撃』 :次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の扉を開く




前にニュースザップで紹介されていた本。2015年1月刊。
図書館で予約して半年以上待ってやっと順番が回って来ましたが、後ろが詰まってるので(笑)全587ページ急いで読みました。急いでレビュー。

"エクサ"とはコンピューターの演算性能を表す単位("フロップス")で、お馴染みの「キロ(バイト)」「メガ」「ギガ」、その上の「テラ」「ペタ」、その更に上に来る単位。(以下"ゼタ""ヨナ"と続く)
現存する世界中のスーパーコンピューターは、「ペタ」の単位で性能を競っているんですが、間もなく、上のWikiによれば来年2018年にも、「エクサ」のスケールのものが登場すると予想されているそうです。

著者は基本放射線科医ですが、色々あってその次世代スパコンの、民間での有力な開発プロジェクトの指揮を執っている人。(齋藤元章Wiki)

その著者による、"エクサスケール"コンピューティングの実現により何が出来るのか、何が起きるのか、どういう世界が出現する可能性があるのか、それを書いた本。


結論だけ言うと、

1.エネルギーがフリー(無料)、無尽蔵になり、エネルギー問題が解決する。
2.次いで衣食住もフリーになり、貨幣経済が終わる。
3.ほぼほぼ「不老不死」が実現する。


と、真に結構というか、のような話。昨今語られることの多い、"人工知能"や"ロボット"の発達によるディストピアとは真逆というか。まあ技術的前提自体は、基本同じなんですけど。

とにかく上の大胆な結論がいきなり冒頭(序章)で語られて、以下順にそれぞれの項目についての説明が展開されて行く、そういう構成の本です。


で、読んでみての感想としては、満更法螺話でも疑似科学の類でもないようだけど、さすがにそんなに美味しい話は転がっていないらしいなというものです。(笑)
言い方を変えると、"スパコンがエクサスケール化する"ことが、即ち著者が語るような"社会"を招来する・・・わけではないということ。期待したのに!!(笑)

勿論科学的技術的可能性としてはそれなりのものがあるようですし、著者は著者なりの論理性でそうした(人間)社会の"必然性"を語っているわけですけど。
ただ特に"2"については、読んでいると「コンピューターの性能」以外の部分でどんどん前提が増えて行くというか、まず著者自身の独自の、はっきり言えばいささか幼稚というか素朴でユートピア的性善説的な"社会思想"があって、あるいは"社会思想家"としての著者がいて、「コンピューター」そのものはそれに援用・引用されているに過ぎないという性格が強い、そもそも途中から滅多にコンピューターの話が出て来なくなってたまに出て来てそういえばその話だったなと思い出すみたいな、そんな感じです。(笑)

"1"についてもエネルギーの「生産力」についての技術的予測は、若干楽観的ながらもかなり魅力的、希望に満ちたものに感じられました。ただそれが社会的に「フリー」になるかどうかは、"2"と同様技術タームだけではどうにもならない社会的要因が多くて、うーんというかそれはそれだなという感じ。
"3"については既に著者以外の多くの人も語っていることですし、"エネルギー"や"経済"ほど社会的に複雑なジャンルでもない(反対する人が少ない)ので、まあいずれそうなるのかなという感想ではあります。「不老」についての独自の見解、「体」ではなくて「脳」「精神」を老化させない為の著者の着目点・症例紹介は、かなり興味深かったです。

トータルで言うと、「コンピューター」の話と「社会思想」の話が、いささか無理やりに接合されている印象のある本で、"エクサスケール・コンピューティング"についてだけだったら、分量は半分もあれば十分じゃないかと、大部の本を読まされた恨みを含めれば、そういう感想です。(笑)
ちなみに後で"抜粋"版も出ているようで、さもあらんという感じです。(笑)



まあ面白かったですよ。少なくとも文系の僕には、刺激的な知見が多かったです。
・・・逆に"文系"部分については、苦笑いを禁じ得ないところが多かったわけですがそれはそれで。
ちなみに著者の"思想"的背景として、レイ・カーツワイルというコンピューター科学者、未来予測家の存在があるんですが、一応この本は別の内容(彼の予測"以前")について語られている本なので、今回僕からは特にコメントしません。

代わりに・・・というわけではないですが、今ちょっと言った"文系"的目線から、面白かったことを少し。


コンピューターの性能が良くなると、要するに何が変わるのか

これがピンと来ないから、かの蓮舫氏なども、「1番じゃないと駄目なんですか?」「2番じゃいけないんですか?」のたまってしまうわけだろうと思いますが。(笑)
いや、でも実際分かんないですよね、正直に言えば、蓮舫氏に限らず。
そりゃ遅いよりは速い方がいいだろうとは思いますけど。どれほどの違いなのか。

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読書日記(’16.12.21) ~年末在庫一挙放出

久しぶりに「国家神道」とは関係の無い、ただの"読書日記"
あっちにかまけている間に知らない内に溜まってたのを、なるべく気楽なネタの順に放出。頭使いたくない!(笑)


まずは小説系まとめて。


「人が臥起をくりかえすように、心も臥(ね)ているときと起きているときがあり、臥(ね)ているときには、なにをいってもむだかもしれません。
今日は、公の心が起きていたのです」
(p.98)

毎度お馴染み宮城谷昌光さん。
心が寝ている時と起きている時か・・・。上手いことを言うな。
この人の言うことはいつもほぼほぼ説教なんですけど(笑)、言い方がエレガントなので素直に聴けるというか、むしろ耳に心地良いというか。
そおっと知らない内に、心を起こしてくれるというか。
そうですね、寝ている時に、あるいは寝ている相手に、何を言っても無駄かも知れませんね。起きる時を気長に待つか、気長に起こすか。
・・・読んだのは少し前なのでうろ覚えですが、状況としては多分、名軍師張良が漢の高祖劉邦に、"部下の進言を聴くこと"について何か話している的な場面だろうと思います。

人は憎まれているうちはまだよい。が、怨まれるようになってはならない。
(p.176)

ご高説、その通りですね。
"憎む"と"怨む"との間には、一つ"スイッチ"の切り替えがありますよね。
"憎む"ならまだ「動機」の範疇ですけど、"怨む"となるともう、「行動原理」として固定されてしまう。
双方の正当性が、最早問われなくなるというか。



「たしかに理詰めで合戦はできぬ。しかし、まずは理を立てねばならぬ。
理の無い戦いを、無理というぞ」
(p.195)

こちらも常連の、山本兼一さん。ただし故人。
当たり前のことを言っているようですけど、これもまあ、"言い方"の問題。
「歴史もの」の魔力というか。・・・『真田丸』、面白かったですか?(笑)。(例によって見てない)
でもまあ、この"理を立てる"ことと一方で最終的に"理詰めで戦いはできない"ことと、この双方をきちんと押さえれば、サッカーのチーム作りについての理念なんて問題も、それで"足りて"しまうような気はしますが。
それがなかなか難しいんでしょうね。
ただそれにしても、"どちらか"しか言わない言説(&監督)が多くて閉口しますが。
・・・立花宗茂とその妻の女傑誾千代(ぎんちよ)についての、美しい物語。
"大河"にはちょっと、マイナーか。(笑)



「教えすぎなのですよ」
「教えすぎ・・・・・・?」
「もう一度言います。師の責任というのは、本物を見せてやること。それだけです。あとは弟子の問題です。」
(p.234)

こちらは初登場、今野敏さん。なんか似たような名前のアニメ監督がいた気がしますが・・・ああ、あれは"今敏"さんか。(笑)
ミステリー作家として有名らしい(Wiki)んですが、これは準時代小説というか、明治初期の沖縄空手の話。
あとは弟子の問題。とりあえずはまあ、文脈によるという感じではありますが。
ただ一つの理想的な師弟関係ではあるよなとは、文脈抜きにしても感じはします。

で、これはどういう小説かというと、沖縄で黙々と伝統空手を学んでいた青年が、いつしか知らず実力を蓄えて、時代の要請で沖縄空手の"近代化"や本土への普及に苦心する話。モデルは実在の人物です。
なかなか面白かったです。後の極真の隆盛によってすっかり悪役というか時代の遺物扱いされるようになってしまった"伝統"空手の、極真とは全く違う角度からの、伝統空手なりの「時代」との格闘の話。
特に新鮮だったのは、極真から"ダンス"と馬鹿にされもした「当てない」空手、その極真の"実戦"主義とは対極にある、当てないどころか本来組手すらしない「型」に専心するタイプの伝統空手の、伝統空手なりの"本物"性の主張が、結構説得力を持って描かれていたこと。「型」が"ダンス"なら、「組手」"スポーツ"なんですよね、伝統側から見ると。実際「組手」をメインとする武道というのは大きくは講道館柔道が始めたもので、最初から一種の"スポーツ"的楽しさ、それによる普及を意図していたところがある。それを更に真似したのが「組手」派の空手で、その究極が極真と、ざっくり位置付ければそういう話のよう。
で、上では"対極"と言いましたが「型」の空手が「実戦」で弱いかというとそんなことはなくて、型を極めずに目先の技を追って半端に組手ばかりやっている流派、空手家が、型だけやり込んでいる空手家に全く敵わない的な描写も、この小説には出て来る。(小説ですけど(笑))
その真偽を僕が見極めることは出来ませんが、でもサッカーでもあるでしょ?「紅白戦」メインの練習をしている一見"実戦"的なチームが、「戦術練習」メインのチームに歯が立たない的なケースが。「組手」の"実戦"性というのは、場合によってはそういうものであるということ。

とにかくそういう話なので、「本物」の型を「見せて」やるのが師の一番の仕事だという上の話も、それなりの説得力は持って来るわけですね。正確には少し違う、もうちょっと入り組んだ話なんですけど、それはまあ、読んでみて下さい。(笑)



 その月に箱館を訪れた英仏軍館の館長が、榎本に面会を求めて来たので、榎本と永井玄蕃が運上所で会うと、艦長がフランス、イギリスの在箱領事を立ち会わせた上で、一通の文書を読み上げた。横浜在留の両国公使の署名があり、エゾ地を「デ・ファクト」の政府、つまり榎本軍が実効支配している新政府として国際的に承認したことを語っていた。
 榎本はこの島は天朝の統治するところで、われわれが新政府と呼ばれるのは心外だと断り、新政府への歎願書を届けることを二人に依頼した。
(p.198)

高橋義夫さん。この人も目についたものは、片っ端から読んでるな。時代小説の名手の一人。
"榎本"は勿論、榎本武揚ですね。主人公ではないんですけど。
英仏が榎本軍の蝦夷地の"実効支配"を認めようとしていたという話は面白いですね。またそれを、榎本が断ったというのも。・・・だから後に、反乱軍なのに明治政府に叙爵されたのかな?
それが当時の国際常識なのか、それとも英仏による日本分断の陰謀なのか。(笑)
まあこれは、ただのトリビアの類。どのみち榎本軍に、何か"先"があったようには見えないですし。
榎本武揚という人も、優秀なんだかぼんくらなんだか、よく分からない人という印象。


それから非"小説"系。


ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した("聖職叙任権闘争")。
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制を義務化したのである。
(p.137)

以前紹介した本です。
これもトリビア系ですが。ほへえ。
何が言われてるかというと、政治的問題で聖職者を世襲にしたくないカトリックが、物理的にそれを不可能にしようと聖職者に"独身"を義務化し、それが回り回って(そこらへんがこの本の主題ですが)「禁欲の美徳」として西欧キリスト教社会を支配したという、そういう話。
まあそれだけでもないんでしょうけど。にしてもひでえ話だな。(笑)
とりあえず"上"にいる人たちが「道徳」を強いて来る時は、ろくな動機は無いですよ。これはもう、目をつぶって石を投げても当たる類。(笑)
古今東西・・・というか、東で投げた石が西で当たっても、大過無いというか。
ああごめんごめん、でもこの前そっちが投げた石がこっちで当たってたから、おあいこね、構わないよね?(笑)

一番メジャーなのは、こういうパターンか。


田舎の福知山藩でも、徳川の寛政の改革が失敗に終わりますと、たいへんなあおりを食って、逆に藩政を緊縮一本にしぼっていく。(中略)朽木倫綱という当時の城主みずからが、藩の領民に、自筆の訓辞を出して、節約しなければいかんとか、親には孝行しなければいかんとか、親切にせよとか、いろいろな細かい訓辞をしております。
 これはだいたい政治家が自分の政治の悪い面を棚に上げて、領民にそういう道徳的なものを強いるということは、たいへん矛盾しています。(中略)これはいまも昔もあまり変わらないと思います。
(p.94)

これも以前紹介した、金光・大本・日蓮宗・浄土真宗の代表者が戦前戦中の宗教状況を振り返って対談している本。この発言は・・・確か金光教の人のだったはず。
まあ直接宗教の話とかとは関係無いですけど、マイナーかつ具体的な例で面白いかなと。"関係無い"だけに、真実味があるというか。
制度の不備を個人の頑張りに責任転嫁する。ダメ、ゼッタイ

ついでにそこで出ていた話。

当時の小学校は、満六歳から満十四歳の八ヵ年で、これを上下二等各四年に分かち、各自八級から一級に至る制度をとっていました。また当時の小学校は実力編入制を採用していました。
(p.145)

これは大本教の人が言っていたはず。子供時代の王仁三郎が秀才で、"飛び級"したという話の中で。
例えばWikiの"飛び級"の項を見ると日本の話として、
 1947年の学制改革以前は、ある程度制度的にも飛び級が可能であった。(中略)
 6年制の尋常小学校5年修了で旧制中学校に入学出来る仕組(いわゆる五修)があった。

などと書かれてますね、確かに。
1947年ということは、ほんとに戦後になって、学制は悪い意味でも、固定されたんですね。
"アメリカ"と言えば"飛び級上等"の印象は強いですが、GHQの方針は違ったよう。
まあ、トリビア豆知識というか。(笑)
詳しくは最近ますますご活躍の("引退"という話はどこへ?)池上さんにでも、聞いてみましょう。(笑)


だいたいこれで、分量的には十分かな。
"重い"のはいくつか手つかずで残してますが。
いやあ、これくらいだと楽だなあ、読書日記は。
年明けたら、また神道も頑張ります。(笑)


テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

中村隆資『堯帝春秋』その3 ~帝国の逆襲

その2より。





・・・タイトル調子に乗ってる?(笑)

でも前回のが『柳生一族の陰謀』



の文字りだったことは、世代的にそろそろ気付いた人は少なくなってるかも知れない。(笑)
"その4"は何にしようかなあ。(他のこと考えろ)

まあでも今回はほんと、"逆襲"の話。
では行きます。



長征

p.197
「商氏の穏(おん)族長が面謁に参りました。敵中三百里を横断して馳せ参じたとのことですが、如何いたしましょうか。」

ある日のこと。
例の"陰謀"の首魁、"静"族長から、更に代は替わっています。

p.198
「何という無益を為(し)てくれたのですか!」
平素の温容をかなぐり捨てて叫んだ。
(中略)
「この居座りで私どもは壊滅的な打撃を被りました。(中略)なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」

・・・余談ですが、"静"かに陰謀をめぐらせた「静」族長に続く、平素"温"容を専らとする「穏」族長ということは、少なくともこの部分は純粋に創作だということでしょうね。(笑)

話戻してさて、何が起こったのか。
穏族長は何に怒っているのか。
その少し前。市井の風景。

p.190-191
家族は戦(おのの)く心で夫や息子を送り出し、村や嶽都の商氏物産交換所へ走った。
戦乱の予兆は非常の食の備蓄に気付かせたが、それは穀物であってではない。自分が、いまのいままでただの「調味料」を貯め込んでいたことを、人々は漸く覚ったのである。
(中略)
馬車の列は鞭声(べんせい)を撥(ぱち)とも立てることなく粛々と順番を待ち夜陰の渡河の如く進んだ暁に商氏の店で泣いているのか笑っているのか判然(はっきり)せぬ店員に持参の塩袋を渡し、(中略)穀物と換えて貰い、(中略)市場を出かける。

簡単に言うと、連合域外で複数の敵の不穏な気配があった。それに対して堯帝は反応したのだけれど、それがまるで待ちかねていたかのような徹底的で大規模で即座の反応で、余りにも完全な配備だった為に戦端は開かれることなく敵は沈黙したのだけど、連合の大軍はそれを威圧するように警戒を解かず、長期の滞陣を今も続けているというそういう状況。
その状況下で起きたのが、一種の"取り付け騒ぎ"
つまりいつ終わるか知れない戦時の非常用の備蓄として、連合諸民は一斉に、それまでせっせと貯め込んでいた塩を持って商氏の各店舗に穀物を筆頭とする必需品を"買い"に走った、または"預かり手形"としての「商氏の塩」を持って"預けて"あった(はずの)穀物を「引き出し」に走った。それに応える為に商氏の各店舗はおおわらわになっていると、そういうこと。

p.199
「<連合>全土の吾が本・支店は丸裸です。帝都・嶽都の大倉庫も空。解池の大倉庫も空、穀物・被服・諸道具・器物、ほとんどすべての物が失くなってしまいました」
「そして塩が残った
「塩だけ有っても何にもなりません!」
叫んだ途端に穏は慌てて口元を押さえた。

"陰謀"発露の瞬間。

それに伴うやり取りとしては、上で穏族長は「なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」と訴えたわけですが、それに対する堯帝の答え。

p.198
「穏君、物事は正確に言わねば誤解を招く。『甚振られ』『壊滅状態』なのは君ら商氏の大商店だけではないのかね」
堯の指摘に穏は押し黙った

・・・簡単に言うと、"塩"を貨幣とした特殊な交換(商売)をしていた、それによって独占的な利益を上げていた商氏の店だけが、この"取り付け騒ぎ"の被害を受けたということ。


計画

この堯帝による"嫌がらせ"、"商氏いじめ"の出陣には、どのような背景があったのか。
ある日堯帝は、ふと気が付いた。

p.208-209
歴代の帝以下、<連合>諸氏族が全員(そっくり)騙されていたとしたら。
事の始めから商氏の側に騙す意思があったとしたら。

p.208-209
そこから独りで理を立てること二月。
遂に、虚実交換の因は商氏の錯誤した誠実に因るか、狡猾な不実に因るか、その二つに一つしか無いと分かった。
この長征は、その卜占であった。

嫌がらせではあるが、その嫌がらせの性格と結果がどのようなものになるかは、商氏次第。
・・・商氏が元々持っていた、「意思」次第というか。

p.209
錯誤した誠実ならば彼は十分な実物の用意を有つか、事態不明のままのほほんとしているのでここに来る必要が無い。
狡猾な不実によるものならば彼は実物を有たず、虚実の交換を再開させるため堯の元に来ざるを得ない。
果たして、商氏は来た悪意の獣であることを彼は証した

後で述べられるように、この"取引"では構造的に虚物としての塩に対して実物としての穀物等が足りていないはずなわけです。だから商氏が善意であるならば、その"構造"に気付かずに言わば必要の無い実物を用意して足りてしまうか、あるいは足りない原因が分からずに茫然としているはず。
しかし商氏が悪意であって、虚実のアンバランスを百も承知でその取引システムを確立運営していたならば、当然実物は足りないし、その実物の足りない状況を誤魔化す為の唯一の手段であり前提である、虚実の交換プロセスの至急の再開を目指して堯帝の元に戦時状況の終止を働きかけに来るはず、という話。

余計なことかもしれませんが一応言っておくと、堯帝に"底意"があったのは確かですが、しかし何か社会のルールや法を勝手に変えたわけではないし(日本のかつての"バブル潰し"のように?)、外敵に動きがあり何らか軍事的対処が必要であったのも事実で、かつ軍事行動として至って有効だったのも事実なわけですね。
ただ平時には分かり難い"構造"を、若干誇張した"戦時"を演出することで露わにしたと、本来壊れているものをより迅速な自壊に導いたと、そういう話。
まあ、悪辣でないことはないですかね(笑)。法的にセーフではあっても。
商氏がはっきりと"陰謀"をめぐらしていなかったとしたら、後々問題にはなったかもしれない。それが免罪符というか。

とにかく陰謀はあり、それを商氏自ら証明・自白せざるを得ない状況を、堯帝は作り出した。

p.209
「百年の欺罔(きもう)は、今日、只今、ここで截(せつ)断する」
地を這うような低声で宣言した。

ははあ。これにて一件落着。
・・・というほど、ことは単純ではない。
"事件"としては、後は処理と処分の問題には、確かになったわけですが。


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テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

中村隆資『堯帝春秋』その2 ~"商"一族の陰謀

その1より。
地震で一瞬だいぶ気勢が削がれましたが、別に僕が自粛してても何の役にも立たないので(笑)、やりかけたことは粛々と。
・・・僕だって明日死ぬかもしれないですし。(こら)






改めて読み直してみて、到底予定の二回では終わらない(三回でもどうかな)ことに気付いてげーっとなったというか、作者の熱量ないしルサンチマンに圧倒されそうになったというか若干引いたというか。
ともかく続けます。(笑)

p.174-175
公私混同。しかも実物である塩を汎用の代替物として使う目的で盗もうとしたものと看える。
由々しき大事であった。
塩の汎用化が、ついに、無垢の公人の気を侵すまでになっている。
(中略)
公人の意識せざる私人化。

前回最後の、「公」人による公"塩"横領事件。
最初の「国家」であり、理想的な「公」の働き場であった、<連合>の歴史上初の。
その特徴は実物、つまり"使用"価値としての「塩」を欲してではなく、"交換"価値としての「塩」を欲しての行動であったこと。
つまり彼は生活には全く困っていなく、既定の公的扶余システムによって、"使用"価値は満たされていた。
ではなぜそのようなことが起きたのか。
事件の背景にあったのは、"汎用"的な交換財としての「塩」の普遍化、つまり「貨幣」及び「貨幣経済」の<連合>世界への浸食という事態。根本的には、農業共同体の連合である。
それがいかなるプロセスで起きたのか。
以下。


塩"商"人「商」氏の歴史

p.210
それは商氏三千年の野望の物語であった。

三千年は長いのでかいつまむと。(笑)
"解池"というたまたま天然のの産出する地域を縄張りとしていた「商」一族は、生活の主な手段が狩猟採集であった時代においては、その塩を他部族との交換に当てて"副収入"として、比較的余裕のある暮らしをしていた。
しかし気候の変化により時代が農耕メインの時代に移ると、塩が産出するような特殊な、つまり農耕に不向きな地域に住んでいた商族は途端に困窮し、副収入であった塩の交易を唯一の手段として、他部族から食料を手に入れるしかなくなった。
そして彼らは「商」人となった。

それは常に他部族の顔色を窺い、しばしば長距離の移動と行く先々での駆け引きに明け暮れる、過酷で不安定な生き方であった。

p.212
商人は常に物資の運用を為し情報を知らせる有物の智者の用を為して農耕氏族に利得をもたらす者でなければならず、これを恒常的に強いられる者は機を見るに敏、眼から鼻へ抜ける犀利と有能をその気性として帯びるようになる。
(中略)商人の眼から見ると農耕氏族の村人は同じ人とも思えぬほど暢気で愚鈍であり、存在に安住しているようであった。
それは商人にすれば軽侮に値する無能であり、その反面、羨望に堪えぬ富裕でもあった。


時は流れ。

p.213
そしてほぼ百五十世代、三千年に近い年月が経過した頃、黄河中流域の農耕氏族が奇妙なことを始めた。軒轅氏の黄族長が姫(き)姓の同族に呼びかけ、対遊牧民族防衛と共同治水のための組織を作った。<連合>の始まりである。

前回説明した、"黄帝"による建国というか、無私の公人「帝」をかしらにいただく、連邦体制の樹立。

<連合>はよく機能し、治安は安定し生産力と人口は目覚ましく増大した。

p.215
商族はその運に乗った。

農耕氏族でない商族は、当然発足には関与せず、当初は従来通り取引相手として、また連合域内の流通の担い手及びアドバイザーとして、あるいは連合の外敵である遊牧民族との仲介役として、その"貿易"の利をも独占しつつ大いに儲けた。

そして・・・

p.216
この上客の随伴者としてこれからも商売を続けていくか、それともこの際、<連合>に加入し、同じ仲間として内に入って商売するか。時の族長・儲(ちょ)は一族の主だった者と鳩首会談し、次なる結論に達した。

<連合>に加入する。(中略)
<連合>の未来を買う。
その内側に入って吾が信用を更に高め、商業によって<連合>の発展を輔(たす)ける。而して<連合>の富を吾れが掌握する。


こうして「商」族は、(元)農耕氏族<連合>の内部に、入り込むことになる。

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テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

中村隆資『堯帝春秋』その1 ~"皇帝"の「公」と「用」





定期的に来る、"中国歴史もの読みたい"病への処方として(笑)、てきとうにまだ読んでない人の中から手に取った一冊でしたが、とんだ奇書でした。
いい意味で。(笑)
世の中にはまだまだ変な人変な才能が隠れているものだと、嬉しくもなり、自分の平凡さを反省させられたり。(笑) 中村隆資Wiki

小説です。一応。
一応というのはですね。
以前中国の殷王朝を題材とした宮城谷昌光さんの『天空の舟』




について、「東アジア人(漢字文化圏人)の精神の始原を"幻想"させる作品」紹介しましたが、その殷の前の夏(か)・・・の更に前の神話的時代、所謂「三皇五帝」の一人"堯(ぎょう)帝"(または"堯""舜""禹"三代の聖帝の最初)の時代を舞台にしたこの作品も、幻想性は更に更に高まって何か元になる史実伝説があるのかどうかすら不明ですが、基本的には同様の、「始原を幻想」させる作品の好例として、とりあえずは読むことが出来ます。・・・少なくとも途中までは、そう読んでました。

で、後半はそれを越えたとんでも展開をして"奇書"であることを僕に認識させるに至るんですが(笑)、それについては次回に書きます。前半だけでも十分に読み応えがあって、かつ既にけったいな人だなあという感慨は与えられていたので。(笑)
特徴としては、その異常な明晰さというか、明快さというか。見ようによっては学術的でもあって、これ小説なのかなあという疑問も感じながら読んではいたんですが、ただ決して"研究"の"解説"などではなく、飽くまで"衝動"に近い強い本人の内部論理、思弁、そういったものの展開なんだろうと思います。
"アマチュア"精神に基づいたしかし"異様に厳密・精密"な記述というのは、「奇書」と呼ばれるものの代表的な形だと、以前もどこかで言ったと思いますが。この組み合わせはほんとに変なものが出来るんですよね、読んでて落ち着かない気分になる(笑)。アマチュアが大らかに書くのは当たり前だし、プロが厳格に書くのも当たり前ですけど、それらを半分ずつ組み合わせると、どうもおかしなことになる。(笑)

比較すると、『天空の舟』を一番中道的な(中国)"始原幻想"小説とした場合、それを学問寄りに展開したのがこの『堯帝春秋』、逆にファンタジー寄りに展開したのが、酒見賢一『陋巷に在り』



ということになりますかね、僕の中の地図としては。


そろそろ本題に入りましょう。
今日、つまり本の"前半"のテーマは、「公」と「用」「公」(おおやけ)とその「用」(はたらき)、または「用」(はたらき)としての「公」(おおやけ)
公共秩序ということ、国家権力ということ、王・皇帝ということ、それらの本質と形成と根拠ということ。
具体的には古代中国において、地域共同体が連合して原初的な国家を形成して、そこに皇帝とその手足となる公人≒公務員という身分が発生した、その時に起きていたことという話です。

恐らく多分に独断的ないし仮想的なんでしょうが、妙に説得的・・・少なくとも魅力的な説明ではあると思います。
特に"思考の整理"という意味で。

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