東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
読書日記(’17.10.14) ~アイデアとその表現、吉川永青、篠田節子
2017年10月14日 (土) | 編集 |
忘れた頃に登場するこのシリーズ。
いや、ほんとに忘れてるんですけど(笑)。メモだけしたまま。
というわけで特に繋がりは無いですが、溜めててもしょうがないので。


ジュリアン・コープ『ジャップ・ロック・サンプラー 戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか』


p.64-65
シュトックハウゼンは鈴木に、新しいテクノロジーと、それに魅力を感じる自分がいるせいで、「とても人工的なやり方」でサウンドづくりをせざるを得ないのだ、と告白した。(中略)
「わたしにはあなたが、これこれは人工的でこれこれは自然だと称する理由がわからない・・・・・・人工的と言えるのは、あなたが自分の内なる確信逆らったときだけです。あなたの今のやり方は、そのままで完全に自然ですよ」

本自体は以前紹介しました。イギリスの気持ち伝説的なロック・ミュージシャンジュリアン・コープによる、日本のロックのかなり独創的な研究書。(の、紹介しそびれた部分)
シュトックハウゼンというのは高名な現代音楽家で(Wiki)"鈴木"というのは恐らくは最も海外で有名な日本の禅僧・仏教学者であろう、「鈴木大拙」のことです。

その二人の間でどういうやり取りがなされているかというと、ついつい好奇心に負けて新しい"テクノロジー"を使いがちなシュトックハウゼンが、それは「人工的」で不自然な、根拠の薄い行為なのではないかと悩んでいると告白したのに対して、心からやりたくてやってるならそれは全て「自然」なことだよと鈴木大拙が慰めた、お墨付きを与えたと、そういう話。

僕が解説するとしたら、

1.表現者は常に自分なりの"自然"を求めていて、その"自然"が既存の形式に上手く収まらない時に、必要に駆られて逸脱や"実験"が始まるのであって、変格や目新しさ自体が目的なわけではない。
2.欲望や感情は勿論のこと、観念や思考さえも基本的には一種の"自然"現象として自分の中に「発生」するのであり、内容の是非はどうあれ"それ"に従うのは、少なくとも自然から離れた行為ではない。

・・・といったところでしょうか。前者はシュトックハウゼンの動機と不安の理由を、後者は鈴木大拙の「回答」の背景を、説明しているつもりです。

まあ1.はだいぶ建前的ではあって、多くの、あるいは"凡百の"表現者は、実際には名声を求めて"新奇性"や"革新性"、少なくとも流行遅れではないことのアピールに必死であるわけでしょうが、シュトックハウゼンにとっては(現代)音楽はそういうものではないらしい。
2.は分かり難いかも知れませんが、"確信"や内的思考の、一種の「異物」性ですね。外来性というか。意識にとっての。"自分が"考えたわけでは本当はなくて、ただそうあるようにそこにあるだけだから、「人工」の余地は少なくとも無いという。
"思って"もいないことを言ったりやったり、人の目や耳や流行に配慮して原アイデアから離れ過ぎたアレンジを施してしまうと、それは「人工的」で「不自然」なものになり果てる。あなたはそうではないと、鈴木大拙は言っている。(はずです)


阿基米得『謎のカタカムナ文明 ~秘教科学の最終黙示』


p.26-27
だがいくら五感を超えた超感覚があっても、それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。
 このことは、いわゆる超能力者とよばれる人々を観察すれば充分に明らかなことである。彼らの大部分はペテン師であるが、残りは確かにわれわれにはない超常的な能力をもっているようではある。だが、彼らに共通して見受けられることは、彼らの語る内容には恣意的な解釈と自己顕示欲どうしようもないほど入り混じっているということである。

上と直接の関係は無いかもしれませんが、こちらも「内的思考」、前意識的思考と、意識や人格との、容易に捉え難い関係性の話。

・・・と、その前に、何じゃこの本はという話ですが。(笑)
カタカムナ文明という、固有の科学体系や言語体系を持っていた一部では有名な超文明の紹介を中心に、オカルト・陰謀論系の様々なトピックをまとめて解説&ぶった切った感じの本です。
力説している部分と批評している部分と半々で、上は専ら"批評"している部分。

言っているのはどういうことかというと、例えどんなアイデアだろうと天啓だろうと、どんな素晴らしい"霊感"が来ようと、結局はそういう前言語的な情報を言語的意識的に処理する能力の問題は避けられなくて、馬鹿は馬鹿だし下司は下司、仮にインチキではなくてもその部分がお粗末だったり無頓着だったりすると、(社会的に)価値あるもの認められるものは生み出せないと、そういう話です。
猫に小判、豚に真珠、"恣意的な解釈と自己顕示欲"に"超感覚"。

・・・サッカーでもありますね、何でこんな奴にこんな才能が宿ってしまったんだ、せっかくの才能だけど多分この選手はそれを一生活かせないぞと、そんな悲しい気持ちにさせられることが。(笑)

シュトックハウゼンの話と共通しているのは、アイデアや内的衝動そのものよりも、それの取り扱い方、自分自身のそれとの"対峙"の仕方、そちらの方に事態の本質があることが、往々にしてあるという構図です。
まあアイデアや衝動の"無い"人というのは、実際いないわけですしね。後は拾い上げるかどうか、どう拾い上げるか。


中島厚志『大過剰』


p.95
EU離脱を選択したイギリスでは、大学教育を受けている人々の割合が国民では23%なのに対して移民では45%に達しており、ドイツやフランスといったEU当初加盟8ケ国からの移民の36%はもとより、中東欧出身者が中心となるEU移民の43%よりもさらに高くなっている。

話だいぶ変わって。(笑)
23%とは低いですね。
ちなみに日本はというと、男女共に50%越えです。(参考)
教育内容を考えると、どちらかというと日本が無駄に高い(笑)という面の方が大きいんだろうと思いますが、いずれにしても移民の方が"倍"の進学率というのは、おそらくはかなり"従来"国民の神経に障る、危機感を煽る数字ではあるでしょうね。僕でも多分、気になる。
"EU離脱"選択時の各種報道では、まだ"単純労働の職場を奪われた"的なイメージでの、反移民感情だったように記憶していますが。



・・・以上評論部門。ここからは小説部門。


吉川永青『戯史三國志 我が糸は誰を操る』


p.109
曹操も劉備の変化を感じ取ったらしい。
全身から、良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気を発散している。

「良い玩具(おもちゃ)を与えられた子供のような邪気」。いいスね(笑)。いい表現
"男の子"魂メラメラ。
吉川永青『戯史三國志』シリーズとは、魏パート陳宮、呉パート程普、蜀パート廖淳という、何とも渋いというか地味(笑)な武将を主人公に三国それぞれの視点からの三国志を描いた作品で、読む前は正直舐めてましたが、「まだこんな書き方があったか」と結果かなり驚かされた新鮮な"三国志"でした。
人物造型や拾い上げがいちいち意外でしたし、どちらかというと知将を中心に、かなり"戦術"のディテールが細かいのが特徴的。
といって所謂ゲーム的あるいは理系的な作品ではないんですけど。むしろ"真っ当"という印象。今まで書かれなかったことの方が問題かも知れないという。
陳宮がいい奴で曹豹が使える奴ですからね。驚いた。(笑)


吉川永青『戯史三國志 我が槍は覇道の翼』


p.12
黄巾党とはいえ、将となれば飯も違う。上等な豚肉や鶏肉を食うこともできるのに、程普は下等な水牛の肉を好んだ。硬く筋張った牛肉を嚙み締めるごとに気が引き締まり、戦場に赴く緊張が胃袋から総身に染み渡る気がするからだ。

前に水滸伝を読んだ時に、(後に)梁山泊に集まるような食いつめ者や流れ者が、何かと言うと「牛肉」を食いまくるので、いったいどうなってるんだ中国ではそんなに牛肉って気安く食べられるものなのかと少し不思議だったんですが、なるほどそういうことか。「牛肉」は牛肉でも要はそこらへんをうろちょろしている水牛、少なくとも食用の"肉牛"ではない野良(笑)の食材を、てきとうに潰して庶民は食ってたのか。むしろ「豚肉」や「鶏肉」の方が、食用に育てられた高級食材である率が高いと。
Wikiを見ると水牛はそもそもアジア原産で、実際ありふれた"潰し"の利く動物だったみたいですね、なるほど。疑問が解けました。(笑)


篠田節子『インドクリスタル』


p.142上
なぜかって?日本人に社員は扱えても使用人は扱えないんだよ。戦後六十年の平等主義が骨の髄まで染みこんでいるからな

何度か書いていると思いますが僕の最も敬愛する女性作家である篠田節子さんによる、現代インドを舞台にした、ハイテク用高純度クリスタルの原石をめぐる日本のメーカー・商社や現地の諸勢力の苛烈かつ複雑怪奇な争奪戦を描いた作品。
今日の地球上で恐らく最も理解の難しい「国」であるインドの、"色々な面"ではなく"全体像"を、「小説」という形式を生かしてともかくも一回描き切ることにチャレンジした力作と、とりあえずはそう評しておきます。
どんな底なし沼にもとりあえず"溺れ"ない算段を見つけて見せる、相変わらず驚異的な耐久力の知性と感性の持ち主で、今回は特に脱帽でした。

上は何というか、この作品に嫌ってほど出て来る、日本人の常識が"インド"に通用しない例の、比較的分かり易い一つ。
日本人は「社員」を"奴隷"のようには扱えても(社会風刺)、「使用人」を威厳を持って扱うことは苦手だという。そういう経験、ないし"教養"が無いから。
まあ一般に"平等"観というのは、当事者間で共有されないと余り機能しないんですよね。良かれと思っても戸惑われるだけというか。
M奴隷の人はノーマルの人が相手では満足出来ない的な。(?)


他にも色々あったんですけど、PCが壊れた時にどっか行ってしまいました。
それに懲りて今更ながらwebストレージというものを導入してみたんですが、使い方があってるのかまだ自信が無い。
いちいち預けるのかと思ったら、勝手に同期してくれるのか。


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テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
猪瀬直樹『欲望のメディア』(’90) ~日本のテレビ事業の歴史
2017年09月21日 (木) | 編集 |



最近多いパターンですが、ニュースザップで紹介されていたのを半ば反射的に図書館の待機リストに入れて、回って来たので何となく読んでみた本。

基本的には日本のテレビ業界の黎明期を描いた本ですが、後半のBSとCSに関する部分が先日書いたばかりの『HBOの過去・現在・未来』の内容と微妙にリンクしたりもしていました。
ちなみにタイトルの"欲望のメディア"というのはズバリテレビのことで、"欲望を刺激する低俗番組を垂れ流す"的な、ややネガティヴでかつ紋切り型でもある猪瀬氏自身のテレビ観を表しているようです。割りとベタなんですよね、そこらへんが。後でも出て来ますが。だから所謂"表現規制"に関わった?
ただしそれはこの本の内容には実質ほとんど関係が無いので、構わず書いて行きます。


テレビ事業草創期よもやま話

p.54-55

早稲田大学理工学部教授川原田政太郎は、テレビの開発を、劇場で観る前提で進めていった男である。実際、その成果はある時期、高柳より華々しかった。人びとは、新しいメディアを劇場で観るものと信じはじめたのだった。
(中略)
スクリーンは「五尺四方」というから、縦横一メートル五十センチとなかなかの迫力だった。ブラウン管ではなく一種のプロジェクターで、スクリーンに投影する方法である。

昭和3年(1928年)のこと。
"高柳"というのは高柳健次郎氏のこと。「ブラウン管」派の研究者ですね。後でも出て来ます。
"劇場"で"スクリーン"で見るということになったら随分テレビのカルチャーも違ったものになりそうですが、とにかくその語間も無くアメリカの方でブラウン管の技術革新があって、結局今日の「お茶の間」への道を、テレビは歩むことになるわけです。
ちなみにこの本によると、日本におけるテレビの研究は、ラジオとほとんど同時に始まっていたそうです。必ずしもラジオ→テレビという、技術的順番ではなかった。

p.78

青緑色の車体の胴体部分には、「テレビジョン」の黄色い大きな文字がくっきり浮かび上がっていた。車といえば黒が常識の時代、四台のバスは東京に着くと警視庁から、派手すぎるので塗りかえよ、と命じられる運命にある。

昭和12(1937)年、NHKが初めて試作した"中継車"の話。指揮を執っているのは上の"高柳"博士です。
ここはむしろ、当時の"自動車"カルチャーと警察の権力の風景として、面白かった箇所。(笑)

p.99

ナチス・ドイツのテレビ放送プログラムを調査したエドウィン・ライスは、つぎの数字をあげている。毎日六時間におよぶ主要なプログラムのうち、直接プロパガンダ二十三・七パーセント、娯楽プロパガンダ六十一・四パーセント、いずれとも定まらない放送十四・九パーセント。
(中略)
テレビのもつ散漫さ、である。人びとの顔を無遠慮につるりと撫でるが、内面まで達しない。ヒトラーの昂った声は、テレビよりラジオ向きなのだ。あるいは映画向き。

"ニューメディア"テレビジョンをプロパガンダに積極的に活用しようとしていたナチス・ドイツが、試行錯誤の末にたどり着いた"最適"バランス。娯楽の優位。
だからテレビは低俗なんだ、と猪瀬氏は言いたがってるわけですけど、僕はむしろ、「映像」と「音声」の違いの話として、捉えたいですね。そういう話としてなら、分かるというか。つまり確かに"ラジオ"は、"テレビ"とは違う独特の刺さり方をする。"内面"に達する。そういう感覚は、ある。
でも映画がテレビとそんなに違うかというと、それは疑問ですね。歴史的にも、テレビが一般化する以前はテレビの役割をも、映画が務めていたわけですし。
なんか猪瀬氏は、映画が好きらしいです。やけにハリウッドを、尊敬している。正直単なる世代的問題に見えますが。"分析"以前というか。

p.133

菊田の回想をつづけよう。
「(中略)NHKの放送番組は終戦直後からいままでずっと、そのほとんどすべては、日本人の自由にはならない(中略)、アメちゃん番組だったのです」

"菊田"というのは菊田一夫、元祖『君の名は』(ラジオドラマ)の原作者兼主題歌作詞者。
GHQ管理下でのNHK"ラジオ"の実態についての証言。
「アメちゃん番組」という表現が面白くて。(笑)

p.205-206

日本では、(中略)公共放送民間テレビは、ほぼ同時期にスタートしたのだ。しかも実際には、日本テレビのほうが免許を得たのは早かった。NHKは民間テレビに引きずられるようにして開始を急がされたのである。

これは割りと日本の特徴的なところで、ヨーロッパなんかはほとんど公共放送中心ですね。だからコンテンツ産業が発展しなくて、その空白にアメリカの映画と日本のアニメが入り放題みたいな、そういう面もあったようです。
ちなみに「日本テレビ」というのは今見ると凄く偉そうな名前に見えますが(笑)、この当時は本当に民間の資本と技術を結集した唯一無二の"テレビジョン"プロジェクトで、だから上で「民間テレビ」と言っているのはそのまま日本テレビのことです。
その後しばらくしてTBSが出来て、次だいぶ空いてフジとテレ朝(の前身)が出来ると、そういう経緯。

p.275

取組みの話ですが、リーグ戦でもタッグチーム試合でもどうにでもできますが、山口(利夫)氏が来ていろいろ話をしたことも想像できます。しかし、小生は彼たちが客に満足できる試合をやれないと思います。木村(政彦)なら名前もあるし山口よりは早いが、あんまり小さいので段が違いすぎると思います。(中略)一番大切な取組みのことですから、将来に影響することはできないと思います。」

"木村政彦"でピンと来る人は来るでしょう、この"小生"とはかの力道山のことです。(笑)
日本での旗揚げを目前に控え、顔繋ぎも兼ねてアメリカ転戦中の力道山が、日本で段取りに走り回っている興行主がよこした経過報告に、クレームをつけた手紙。文体が・・・なんか意外な感じで面白いですね。(笑)
"山口利夫"というのは柔道家あがりの、日本で力道山より少し先にプロレス(まがい。力道山に言わせると)団体を立ち上げた人。それと既に柔道家として高名だった木村政彦が、力道山一座に合流して色々と勝手に仕切りたがっている、それに力道山が釘を刺している図です。

p.277

伊集院記者の署名入りの記事が載ったのは、一月二十九日付のスポーツ欄である。「血みどろで、打つ、ける---スリル満点 プロレスリング」
(中略)
ルールの説明が中心で、啓蒙的色彩が強い。

昭和29(1954)年、あくる二月旗揚げ公演のシャープ兄弟の初来日を控えて、でもさっぱり盛り上がらない前景気に業を煮やした力道山が、辛うじてプロレスの知識のあった毎日新聞の記者に書かせた記事。
"血みどろ"はともかく、"打つ""ける"って、"レスリング"はどこへ行ったという感じですが。(笑)
まあ結果的に力道山の得意技は"空手チョップ"だったわけで、問題無いのかも知れませんが(笑)。とにかくこれが、この当時のプロレスの認知度。

p.334

大宅壮一"一億総白痴化論"で、テレビは初めて中身を問われた。その結果が、免許の制約条件に具現化されたのである。

大宅壮一の、"一億総白痴化"論。
「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。」
(『週刊東京』1957年2月2日号)

この論が与えた影響を猪瀬氏はかなり高く評価しているんですが、ただこれは基本的に猪瀬氏自身の持論でもあるようなので、多少割り引いて考えた方がいいかも知れません。
"免許の制約条件"とは何を言っているかというと、この後放送免許を取得したフジテレビ('57.6月)とテレビ朝日(同7月)に、それぞれ「民族の平和的発展に貢献」「教育局」という放送"内容"についての指定が条件として課されたことです。直接の影響とするには大宅の論からの期間が短過ぎる気もしますが、何らかそういうテレビの放送内容に対する厳しめの時代の空気が存在したことは、確かなようですね。

p.401

高柳が正力に敗れなければ、日本は独自のシステムでテレビ放送を始めていただろうから、日本のテレビ受像機との間に互換性がなく、アメリカ市場を席巻する機会は遠のいたと思う。

これは日本のテレビ事業について、上記高柳博士の主導するNHKが国産規格・ハードによる立ち上げを、正力松太郎の主導する日本テレビがアメリカ規格・ハードの輸入によるより手っ取り早い立ち上げを主張し、結果的に正力側が勝ったことを指しています。そしてアメリカと規格の互換性が高かったゆえに、逆に日本製テレビが後にアメリカ市場を席巻することも出来たと。
まあそれだけが理由ということでもないでしょうけど、"歴史の皮肉"を感じさせる事案ではあるかもしれない。


CATV、BS、CS
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齋藤元章 『エクサスケールの衝撃』 :次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の扉を開く
2017年04月17日 (月) | 編集 |



前にニュースザップで紹介されていた本。2015年1月刊。
図書館で予約して半年以上待ってやっと順番が回って来ましたが、後ろが詰まってるので(笑)全587ページ急いで読みました。急いでレビュー。

"エクサ"とはコンピューターの演算性能を表す単位("フロップス")で、お馴染みの「キロ(バイト)」「メガ」「ギガ」、その上の「テラ」「ペタ」、その更に上に来る単位。(以下"ゼタ""ヨナ"と続く)
現存する世界中のスーパーコンピューターは、「ペタ」の単位で性能を競っているんですが、間もなく、上のWikiによれば来年2018年にも、「エクサ」のスケールのものが登場すると予想されているそうです。

著者は基本放射線科医ですが、色々あってその次世代スパコンの、民間での有力な開発プロジェクトの指揮を執っている人。(齋藤元章Wiki)

その著者による、"エクサスケール"コンピューティングの実現により何が出来るのか、何が起きるのか、どういう世界が出現する可能性があるのか、それを書いた本。


結論だけ言うと、

1.エネルギーがフリー(無料)、無尽蔵になり、エネルギー問題が解決する。
2.次いで衣食住もフリーになり、貨幣経済が終わる。
3.ほぼほぼ「不老不死」が実現する。


と、真に結構というか、のような話。昨今語られることの多い、"人工知能"や"ロボット"の発達によるディストピアとは真逆というか。まあ技術的前提自体は、基本同じなんですけど。

とにかく上の大胆な結論がいきなり冒頭(序章)で語られて、以下順にそれぞれの項目についての説明が展開されて行く、そういう構成の本です。


で、読んでみての感想としては、満更法螺話でも疑似科学の類でもないようだけど、さすがにそんなに美味しい話は転がっていないらしいなというものです。(笑)
言い方を変えると、"スパコンがエクサスケール化する"ことが、即ち著者が語るような"社会"を招来する・・・わけではないということ。期待したのに!!(笑)

勿論科学的技術的可能性としてはそれなりのものがあるようですし、著者は著者なりの論理性でそうした(人間)社会の"必然性"を語っているわけですけど。
ただ特に"2"については、読んでいると「コンピューターの性能」以外の部分でどんどん前提が増えて行くというか、まず著者自身の独自の、はっきり言えばいささか幼稚というか素朴でユートピア的性善説的な"社会思想"があって、あるいは"社会思想家"としての著者がいて、「コンピューター」そのものはそれに援用・引用されているに過ぎないという性格が強い、そもそも途中から滅多にコンピューターの話が出て来なくなってたまに出て来てそういえばその話だったなと思い出すみたいな、そんな感じです。(笑)

"1"についてもエネルギーの「生産力」についての技術的予測は、若干楽観的ながらもかなり魅力的、希望に満ちたものに感じられました。ただそれが社会的に「フリー」になるかどうかは、"2"と同様技術タームだけではどうにもならない社会的要因が多くて、うーんというかそれはそれだなという感じ。
"3"については既に著者以外の多くの人も語っていることですし、"エネルギー"や"経済"ほど社会的に複雑なジャンルでもない(反対する人が少ない)ので、まあいずれそうなるのかなという感想ではあります。「不老」についての独自の見解、「体」ではなくて「脳」「精神」を老化させない為の著者の着目点・症例紹介は、かなり興味深かったです。

トータルで言うと、「コンピューター」の話と「社会思想」の話が、いささか無理やりに接合されている印象のある本で、"エクサスケール・コンピューティング"についてだけだったら、分量は半分もあれば十分じゃないかと、大部の本を読まされた恨みを含めれば、そういう感想です。(笑)
ちなみに後で"抜粋"版も出ているようで、さもあらんという感じです。(笑)



まあ面白かったですよ。少なくとも文系の僕には、刺激的な知見が多かったです。
・・・逆に"文系"部分については、苦笑いを禁じ得ないところが多かったわけですがそれはそれで。
ちなみに著者の"思想"的背景として、レイ・カーツワイルというコンピューター科学者、未来予測家の存在があるんですが、一応この本は別の内容(彼の予測"以前")について語られている本なので、今回僕からは特にコメントしません。

代わりに・・・というわけではないですが、今ちょっと言った"文系"的目線から、面白かったことを少し。


コンピューターの性能が良くなると、要するに何が変わるのか

これがピンと来ないから、かの蓮舫氏なども、「1番じゃないと駄目なんですか?」「2番じゃいけないんですか?」のたまってしまうわけだろうと思いますが。(笑)
いや、でも実際分かんないですよね、正直に言えば、蓮舫氏に限らず。
そりゃ遅いよりは速い方がいいだろうとは思いますけど。どれほどの違いなのか。
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テーマ:コンピュータ関連
ジャンル:コンピュータ
読書日記(’16.12.21) ~年末在庫一挙放出
2016年12月21日 (水) | 編集 |
久しぶりに「国家神道」とは関係の無い、ただの"読書日記"
あっちにかまけている間に知らない内に溜まってたのを、なるべく気楽なネタの順に放出。頭使いたくない!(笑)


まずは小説系まとめて。


「人が臥起をくりかえすように、心も臥(ね)ているときと起きているときがあり、臥(ね)ているときには、なにをいってもむだかもしれません。
今日は、公の心が起きていたのです」
(p.98)

毎度お馴染み宮城谷昌光さん。
心が寝ている時と起きている時か・・・。上手いことを言うな。
この人の言うことはいつもほぼほぼ説教なんですけど(笑)、言い方がエレガントなので素直に聴けるというか、むしろ耳に心地良いというか。
そおっと知らない内に、心を起こしてくれるというか。
そうですね、寝ている時に、あるいは寝ている相手に、何を言っても無駄かも知れませんね。起きる時を気長に待つか、気長に起こすか。
・・・読んだのは少し前なのでうろ覚えですが、状況としては多分、名軍師張良が漢の高祖劉邦に、"部下の進言を聴くこと"について何か話している的な場面だろうと思います。

人は憎まれているうちはまだよい。が、怨まれるようになってはならない。
(p.176)

ご高説、その通りですね。
"憎む"と"怨む"との間には、一つ"スイッチ"の切り替えがありますよね。
"憎む"ならまだ「動機」の範疇ですけど、"怨む"となるともう、「行動原理」として固定されてしまう。
双方の正当性が、最早問われなくなるというか。



「たしかに理詰めで合戦はできぬ。しかし、まずは理を立てねばならぬ。
理の無い戦いを、無理というぞ」
(p.195)

こちらも常連の、山本兼一さん。ただし故人。
当たり前のことを言っているようですけど、これもまあ、"言い方"の問題。
「歴史もの」の魔力というか。・・・『真田丸』、面白かったですか?(笑)。(例によって見てない)
でもまあ、この"理を立てる"ことと一方で最終的に"理詰めで戦いはできない"ことと、この双方をきちんと押さえれば、サッカーのチーム作りについての理念なんて問題も、それで"足りて"しまうような気はしますが。
それがなかなか難しいんでしょうね。
ただそれにしても、"どちらか"しか言わない言説(&監督)が多くて閉口しますが。
・・・立花宗茂とその妻の女傑誾千代(ぎんちよ)についての、美しい物語。
"大河"にはちょっと、マイナーか。(笑)



「教えすぎなのですよ」
「教えすぎ・・・・・・?」
「もう一度言います。師の責任というのは、本物を見せてやること。それだけです。あとは弟子の問題です。」
(p.234)

こちらは初登場、今野敏さん。なんか似たような名前のアニメ監督がいた気がしますが・・・ああ、あれは"今敏"さんか。(笑)
ミステリー作家として有名らしい(Wiki)んですが、これは準時代小説というか、明治初期の沖縄空手の話。
あとは弟子の問題。とりあえずはまあ、文脈によるという感じではありますが。
ただ一つの理想的な師弟関係ではあるよなとは、文脈抜きにしても感じはします。

で、これはどういう小説かというと、沖縄で黙々と伝統空手を学んでいた青年が、いつしか知らず実力を蓄えて、時代の要請で沖縄空手の"近代化"や本土への普及に苦心する話。モデルは実在の人物です。
なかなか面白かったです。後の極真の隆盛によってすっかり悪役というか時代の遺物扱いされるようになってしまった"伝統"空手の、極真とは全く違う角度からの、伝統空手なりの「時代」との格闘の話。
特に新鮮だったのは、極真から"ダンス"と馬鹿にされもした「当てない」空手、その極真の"実戦"主義とは対極にある、当てないどころか本来組手すらしない「型」に専心するタイプの伝統空手の、伝統空手なりの"本物"性の主張が、結構説得力を持って描かれていたこと。「型」が"ダンス"なら、「組手」"スポーツ"なんですよね、伝統側から見ると。実際「組手」をメインとする武道というのは大きくは講道館柔道が始めたもので、最初から一種の"スポーツ"的楽しさ、それによる普及を意図していたところがある。それを更に真似したのが「組手」派の空手で、その究極が極真と、ざっくり位置付ければそういう話のよう。
で、上では"対極"と言いましたが「型」の空手が「実戦」で弱いかというとそんなことはなくて、型を極めずに目先の技を追って半端に組手ばかりやっている流派、空手家が、型だけやり込んでいる空手家に全く敵わない的な描写も、この小説には出て来る。(小説ですけど(笑))
その真偽を僕が見極めることは出来ませんが、でもサッカーでもあるでしょ?「紅白戦」メインの練習をしている一見"実戦"的なチームが、「戦術練習」メインのチームに歯が立たない的なケースが。「組手」の"実戦"性というのは、場合によってはそういうものであるということ。

とにかくそういう話なので、「本物」の型を「見せて」やるのが師の一番の仕事だという上の話も、それなりの説得力は持って来るわけですね。正確には少し違う、もうちょっと入り組んだ話なんですけど、それはまあ、読んでみて下さい。(笑)



 その月に箱館を訪れた英仏軍館の館長が、榎本に面会を求めて来たので、榎本と永井玄蕃が運上所で会うと、艦長がフランス、イギリスの在箱領事を立ち会わせた上で、一通の文書を読み上げた。横浜在留の両国公使の署名があり、エゾ地を「デ・ファクト」の政府、つまり榎本軍が実効支配している新政府として国際的に承認したことを語っていた。
 榎本はこの島は天朝の統治するところで、われわれが新政府と呼ばれるのは心外だと断り、新政府への歎願書を届けることを二人に依頼した。
(p.198)

高橋義夫さん。この人も目についたものは、片っ端から読んでるな。時代小説の名手の一人。
"榎本"は勿論、榎本武揚ですね。主人公ではないんですけど。
英仏が榎本軍の蝦夷地の"実効支配"を認めようとしていたという話は面白いですね。またそれを、榎本が断ったというのも。・・・だから後に、反乱軍なのに明治政府に叙爵されたのかな?
それが当時の国際常識なのか、それとも英仏による日本分断の陰謀なのか。(笑)
まあこれは、ただのトリビアの類。どのみち榎本軍に、何か"先"があったようには見えないですし。
榎本武揚という人も、優秀なんだかぼんくらなんだか、よく分からない人という印象。


それから非"小説"系。


ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した("聖職叙任権闘争")。
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制を義務化したのである。
(p.137)

以前紹介した本です。
これもトリビア系ですが。ほへえ。
何が言われてるかというと、政治的問題で聖職者を世襲にしたくないカトリックが、物理的にそれを不可能にしようと聖職者に"独身"を義務化し、それが回り回って(そこらへんがこの本の主題ですが)「禁欲の美徳」として西欧キリスト教社会を支配したという、そういう話。
まあそれだけでもないんでしょうけど。にしてもひでえ話だな。(笑)
とりあえず"上"にいる人たちが「道徳」を強いて来る時は、ろくな動機は無いですよ。これはもう、目をつぶって石を投げても当たる類。(笑)
古今東西・・・というか、東で投げた石が西で当たっても、大過無いというか。
ああごめんごめん、でもこの前そっちが投げた石がこっちで当たってたから、おあいこね、構わないよね?(笑)

一番メジャーなのは、こういうパターンか。


田舎の福知山藩でも、徳川の寛政の改革が失敗に終わりますと、たいへんなあおりを食って、逆に藩政を緊縮一本にしぼっていく。(中略)朽木倫綱という当時の城主みずからが、藩の領民に、自筆の訓辞を出して、節約しなければいかんとか、親には孝行しなければいかんとか、親切にせよとか、いろいろな細かい訓辞をしております。
 これはだいたい政治家が自分の政治の悪い面を棚に上げて、領民にそういう道徳的なものを強いるということは、たいへん矛盾しています。(中略)これはいまも昔もあまり変わらないと思います。
(p.94)

これも以前紹介した、金光・大本・日蓮宗・浄土真宗の代表者が戦前戦中の宗教状況を振り返って対談している本。この発言は・・・確か金光教の人のだったはず。
まあ直接宗教の話とかとは関係無いですけど、マイナーかつ具体的な例で面白いかなと。"関係無い"だけに、真実味があるというか。
制度の不備を個人の頑張りに責任転嫁する。ダメ、ゼッタイ

ついでにそこで出ていた話。

当時の小学校は、満六歳から満十四歳の八ヵ年で、これを上下二等各四年に分かち、各自八級から一級に至る制度をとっていました。また当時の小学校は実力編入制を採用していました。
(p.145)

これは大本教の人が言っていたはず。子供時代の王仁三郎が秀才で、"飛び級"したという話の中で。
例えばWikiの"飛び級"の項を見ると日本の話として、
 1947年の学制改革以前は、ある程度制度的にも飛び級が可能であった。(中略)
 6年制の尋常小学校5年修了で旧制中学校に入学出来る仕組(いわゆる五修)があった。

などと書かれてますね、確かに。
1947年ということは、ほんとに戦後になって、学制は悪い意味でも、固定されたんですね。
"アメリカ"と言えば"飛び級上等"の印象は強いですが、GHQの方針は違ったよう。
まあ、トリビア豆知識というか。(笑)
詳しくは最近ますますご活躍の("引退"という話はどこへ?)池上さんにでも、聞いてみましょう。(笑)


だいたいこれで、分量的には十分かな。
"重い"のはいくつか手つかずで残してますが。
いやあ、これくらいだと楽だなあ、読書日記は。
年明けたら、また神道も頑張ります。(笑)


テーマ:読んだ本
ジャンル:本・雑誌
中村隆資『堯帝春秋』その3 ~帝国の逆襲
2016年04月21日 (木) | 編集 |
その2より。





・・・タイトル調子に乗ってる?(笑)

でも前回のが『柳生一族の陰謀』



の文字りだったことは、世代的にそろそろ気付いた人は少なくなってるかも知れない。(笑)
"その4"は何にしようかなあ。(他のこと考えろ)

まあでも今回はほんと、"逆襲"の話。
では行きます。



長征

p.197
「商氏の穏(おん)族長が面謁に参りました。敵中三百里を横断して馳せ参じたとのことですが、如何いたしましょうか。」

ある日のこと。
例の"陰謀"の首魁、"静"族長から、更に代は替わっています。

p.198
「何という無益を為(し)てくれたのですか!」
平素の温容をかなぐり捨てて叫んだ。
(中略)
「この居座りで私どもは壊滅的な打撃を被りました。(中略)なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」

・・・余談ですが、"静"かに陰謀をめぐらせた「静」族長に続く、平素"温"容を専らとする「穏」族長ということは、少なくともこの部分は純粋に創作だということでしょうね。(笑)

話戻してさて、何が起こったのか。
穏族長は何に怒っているのか。
その少し前。市井の風景。

p.190-191
家族は戦(おのの)く心で夫や息子を送り出し、村や嶽都の商氏物産交換所へ走った。
戦乱の予兆は非常の食の備蓄に気付かせたが、それは穀物であってではない。自分が、いまのいままでただの「調味料」を貯め込んでいたことを、人々は漸く覚ったのである。
(中略)
馬車の列は鞭声(べんせい)を撥(ぱち)とも立てることなく粛々と順番を待ち夜陰の渡河の如く進んだ暁に商氏の店で泣いているのか笑っているのか判然(はっきり)せぬ店員に持参の塩袋を渡し、(中略)穀物と換えて貰い、(中略)市場を出かける。

簡単に言うと、連合域外で複数の敵の不穏な気配があった。それに対して堯帝は反応したのだけれど、それがまるで待ちかねていたかのような徹底的で大規模で即座の反応で、余りにも完全な配備だった為に戦端は開かれることなく敵は沈黙したのだけど、連合の大軍はそれを威圧するように警戒を解かず、長期の滞陣を今も続けているというそういう状況。
その状況下で起きたのが、一種の"取り付け騒ぎ"
つまりいつ終わるか知れない戦時の非常用の備蓄として、連合諸民は一斉に、それまでせっせと貯め込んでいた塩を持って商氏の各店舗に穀物を筆頭とする必需品を"買い"に走った、または"預かり手形"としての「商氏の塩」を持って"預けて"あった(はずの)穀物を「引き出し」に走った。それに応える為に商氏の各店舗はおおわらわになっていると、そういうこと。

p.199
「<連合>全土の吾が本・支店は丸裸です。帝都・嶽都の大倉庫も空。解池の大倉庫も空、穀物・被服・諸道具・器物、ほとんどすべての物が失くなってしまいました」
「そして塩が残った
「塩だけ有っても何にもなりません!」
叫んだ途端に穏は慌てて口元を押さえた。

"陰謀"発露の瞬間。

それに伴うやり取りとしては、上で穏族長は「なぜ私ども無辜の商業者を甚(いた)振るのですか。市場の小商人たちは悲嘆にくれておりますぞ」と訴えたわけですが、それに対する堯帝の答え。

p.198
「穏君、物事は正確に言わねば誤解を招く。『甚振られ』『壊滅状態』なのは君ら商氏の大商店だけではないのかね」
堯の指摘に穏は押し黙った

・・・簡単に言うと、"塩"を貨幣とした特殊な交換(商売)をしていた、それによって独占的な利益を上げていた商氏の店だけが、この"取り付け騒ぎ"の被害を受けたということ。


計画

この堯帝による"嫌がらせ"、"商氏いじめ"の出陣には、どのような背景があったのか。
ある日堯帝は、ふと気が付いた。

p.208-209
歴代の帝以下、<連合>諸氏族が全員(そっくり)騙されていたとしたら。
事の始めから商氏の側に騙す意思があったとしたら。

p.208-209
そこから独りで理を立てること二月。
遂に、虚実交換の因は商氏の錯誤した誠実に因るか、狡猾な不実に因るか、その二つに一つしか無いと分かった。
この長征は、その卜占であった。

嫌がらせではあるが、その嫌がらせの性格と結果がどのようなものになるかは、商氏次第。
・・・商氏が元々持っていた、「意思」次第というか。

p.209
錯誤した誠実ならば彼は十分な実物の用意を有つか、事態不明のままのほほんとしているのでここに来る必要が無い。
狡猾な不実によるものならば彼は実物を有たず、虚実の交換を再開させるため堯の元に来ざるを得ない。
果たして、商氏は来た悪意の獣であることを彼は証した

後で述べられるように、この"取引"では構造的に虚物としての塩に対して実物としての穀物等が足りていないはずなわけです。だから商氏が善意であるならば、その"構造"に気付かずに言わば必要の無い実物を用意して足りてしまうか、あるいは足りない原因が分からずに茫然としているはず。
しかし商氏が悪意であって、虚実のアンバランスを百も承知でその取引システムを確立運営していたならば、当然実物は足りないし、その実物の足りない状況を誤魔化す為の唯一の手段であり前提である、虚実の交換プロセスの至急の再開を目指して堯帝の元に戦時状況の終止を働きかけに来るはず、という話。

余計なことかもしれませんが一応言っておくと、堯帝に"底意"があったのは確かですが、しかし何か社会のルールや法を勝手に変えたわけではないし(日本のかつての"バブル潰し"のように?)、外敵に動きがあり何らか軍事的対処が必要であったのも事実で、かつ軍事行動として至って有効だったのも事実なわけですね。
ただ平時には分かり難い"構造"を、若干誇張した"戦時"を演出することで露わにしたと、本来壊れているものをより迅速な自壊に導いたと、そういう話。
まあ、悪辣でないことはないですかね(笑)。法的にセーフではあっても。
商氏がはっきりと"陰謀"をめぐらしていなかったとしたら、後々問題にはなったかもしれない。それが免罪符というか。

とにかく陰謀はあり、それを商氏自ら証明・自白せざるを得ない状況を、堯帝は作り出した。

p.209
「百年の欺罔(きもう)は、今日、只今、ここで截(せつ)断する」
地を這うような低声で宣言した。

ははあ。これにて一件落着。
・・・というほど、ことは単純ではない。
"事件"としては、後は処理と処分の問題には、確かになったわけですが。


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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
中村隆資『堯帝春秋』その2 ~"商"一族の陰謀
2016年04月16日 (土) | 編集 |
その1より。
地震で一瞬だいぶ気勢が削がれましたが、別に僕が自粛してても何の役にも立たないので(笑)、やりかけたことは粛々と。
・・・僕だって明日死ぬかもしれないですし。(こら)






改めて読み直してみて、到底予定の二回では終わらない(三回でもどうかな)ことに気付いてげーっとなったというか、作者の熱量ないしルサンチマンに圧倒されそうになったというか若干引いたというか。
ともかく続けます。(笑)

p.174-175
公私混同。しかも実物である塩を汎用の代替物として使う目的で盗もうとしたものと看える。
由々しき大事であった。
塩の汎用化が、ついに、無垢の公人の気を侵すまでになっている。
(中略)
公人の意識せざる私人化。

前回最後の、「公」人による公"塩"横領事件。
最初の「国家」であり、理想的な「公」の働き場であった、<連合>の歴史上初の。
その特徴は実物、つまり"使用"価値としての「塩」を欲してではなく、"交換"価値としての「塩」を欲しての行動であったこと。
つまり彼は生活には全く困っていなく、既定の公的扶余システムによって、"使用"価値は満たされていた。
ではなぜそのようなことが起きたのか。
事件の背景にあったのは、"汎用"的な交換財としての「塩」の普遍化、つまり「貨幣」及び「貨幣経済」の<連合>世界への浸食という事態。根本的には、農業共同体の連合である。
それがいかなるプロセスで起きたのか。
以下。


塩"商"人「商」氏の歴史

p.210
それは商氏三千年の野望の物語であった。

三千年は長いのでかいつまむと。(笑)
"解池"というたまたま天然のの産出する地域を縄張りとしていた「商」一族は、生活の主な手段が狩猟採集であった時代においては、その塩を他部族との交換に当てて"副収入"として、比較的余裕のある暮らしをしていた。
しかし気候の変化により時代が農耕メインの時代に移ると、塩が産出するような特殊な、つまり農耕に不向きな地域に住んでいた商族は途端に困窮し、副収入であった塩の交易を唯一の手段として、他部族から食料を手に入れるしかなくなった。
そして彼らは「商」人となった。

それは常に他部族の顔色を窺い、しばしば長距離の移動と行く先々での駆け引きに明け暮れる、過酷で不安定な生き方であった。

p.212
商人は常に物資の運用を為し情報を知らせる有物の智者の用を為して農耕氏族に利得をもたらす者でなければならず、これを恒常的に強いられる者は機を見るに敏、眼から鼻へ抜ける犀利と有能をその気性として帯びるようになる。
(中略)商人の眼から見ると農耕氏族の村人は同じ人とも思えぬほど暢気で愚鈍であり、存在に安住しているようであった。
それは商人にすれば軽侮に値する無能であり、その反面、羨望に堪えぬ富裕でもあった。


時は流れ。

p.213
そしてほぼ百五十世代、三千年に近い年月が経過した頃、黄河中流域の農耕氏族が奇妙なことを始めた。軒轅氏の黄族長が姫(き)姓の同族に呼びかけ、対遊牧民族防衛と共同治水のための組織を作った。<連合>の始まりである。

前回説明した、"黄帝"による建国というか、無私の公人「帝」をかしらにいただく、連邦体制の樹立。

<連合>はよく機能し、治安は安定し生産力と人口は目覚ましく増大した。

p.215
商族はその運に乗った。

農耕氏族でない商族は、当然発足には関与せず、当初は従来通り取引相手として、また連合域内の流通の担い手及びアドバイザーとして、あるいは連合の外敵である遊牧民族との仲介役として、その"貿易"の利をも独占しつつ大いに儲けた。

そして・・・

p.216
この上客の随伴者としてこれからも商売を続けていくか、それともこの際、<連合>に加入し、同じ仲間として内に入って商売するか。時の族長・儲(ちょ)は一族の主だった者と鳩首会談し、次なる結論に達した。

<連合>に加入する。(中略)
<連合>の未来を買う。
その内側に入って吾が信用を更に高め、商業によって<連合>の発展を輔(たす)ける。而して<連合>の富を吾れが掌握する。


こうして「商」族は、(元)農耕氏族<連合>の内部に、入り込むことになる。
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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
中村隆資『堯帝春秋』その1 ~"皇帝"の「公」と「用」
2016年04月07日 (木) | 編集 |




定期的に来る、"中国歴史もの読みたい"病への処方として(笑)、てきとうにまだ読んでない人の中から手に取った一冊でしたが、とんだ奇書でした。
いい意味で。(笑)
世の中にはまだまだ変な人変な才能が隠れているものだと、嬉しくもなり、自分の平凡さを反省させられたり。(笑) 中村隆資Wiki

小説です。一応。
一応というのはですね。
以前中国の殷王朝を題材とした宮城谷昌光さんの『天空の舟』




について、「東アジア人(漢字文化圏人)の精神の始原を"幻想"させる作品」紹介しましたが、その殷の前の夏(か)・・・の更に前の神話的時代、所謂「三皇五帝」の一人"堯(ぎょう)帝"(または"堯""舜""禹"三代の聖帝の最初)の時代を舞台にしたこの作品も、幻想性は更に更に高まって何か元になる史実伝説があるのかどうかすら不明ですが、基本的には同様の、「始原を幻想」させる作品の好例として、とりあえずは読むことが出来ます。・・・少なくとも途中までは、そう読んでました。

で、後半はそれを越えたとんでも展開をして"奇書"であることを僕に認識させるに至るんですが(笑)、それについては次回に書きます。前半だけでも十分に読み応えがあって、かつ既にけったいな人だなあという感慨は与えられていたので。(笑)
特徴としては、その異常な明晰さというか、明快さというか。見ようによっては学術的でもあって、これ小説なのかなあという疑問も感じながら読んではいたんですが、ただ決して"研究"の"解説"などではなく、飽くまで"衝動"に近い強い本人の内部論理、思弁、そういったものの展開なんだろうと思います。
"アマチュア"精神に基づいたしかし"異様に厳密・精密"な記述というのは、「奇書」と呼ばれるものの代表的な形だと、以前もどこかで言ったと思いますが。この組み合わせはほんとに変なものが出来るんですよね、読んでて落ち着かない気分になる(笑)。アマチュアが大らかに書くのは当たり前だし、プロが厳格に書くのも当たり前ですけど、それらを半分ずつ組み合わせると、どうもおかしなことになる。(笑)

比較すると、『天空の舟』を一番中道的な(中国)"始原幻想"小説とした場合、それを学問寄りに展開したのがこの『堯帝春秋』、逆にファンタジー寄りに展開したのが、酒見賢一『陋巷に在り』



ということになりますかね、僕の中の地図としては。


そろそろ本題に入りましょう。
今日、つまり本の"前半"のテーマは、「公」と「用」「公」(おおやけ)とその「用」(はたらき)、または「用」(はたらき)としての「公」(おおやけ)
公共秩序ということ、国家権力ということ、王・皇帝ということ、それらの本質と形成と根拠ということ。
具体的には古代中国において、地域共同体が連合して原初的な国家を形成して、そこに皇帝とその手足となる公人≒公務員という身分が発生した、その時に起きていたことという話です。

恐らく多分に独断的ないし仮想的なんでしょうが、妙に説得的・・・少なくとも魅力的な説明ではあると思います。
特に"思考の整理"という意味で。
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テーマ:歴史小説
ジャンル:小説・文学
読書日記(’16.1.4) ~冲方丁『光圀伝』他
2016年01月04日 (月) | 編集 |
去年の残り的な。
一回取り上げた本の、それ以外の部分。





読了。
"格さん"はちらっとだけですけど、"助さん"に当たるらしい人は、結構活躍していました。(笑)

p.311
蔵書の一覧作りに、光圀は安らぎを感じていた。様々に生きた人々の記録を扱うことで、現在の己の困惑が少しずつ収まってゆく。
(中略)
一覧の穴を埋めてゆくうち、おびただしい数の生の記録には、確かにがあるのだと実感するようにもなっていた。人の心を平穏にさせる力、自分の人生を客観的にとらえる視点をもたらす力だ。

「歴史」というものの、根本的な力というか。
時に"孤立"しているとも感じられる自分の生が、何かすぽんすぽんと、あるべきところにハマっていく快感というか。(笑)
"教訓"とまで言ってしまうと、積極的過ぎるというか作為的過ぎる感じになりますが。
おっさん度が増すというか。(笑)

"歴史"の力、歴史の"罠"。(笑)
とにかくこういう感慨も込めて、かの水戸光圀公は所謂『大日本史』を編纂したということ。
そもそも「国史」を編纂するという習慣自体が(記紀以来)日本には無くて、言わば朝廷や幕府の代わりに水戸家がやったのだという指摘は、なるほどと思いました。
何でかな?とは思ってたんですよね、確かに。
なお実際は一方でそういう"私的"な国史編纂の試みというのはこの前後に一つの文化的ブームでもあって、例えば朱子学の林家などとも競い合う形で、光圀はこの事業を行っていたということ。

p.523
こうした法整備において、論拠を明らかにすることができるというのは、ある種の特殊技術である。
法の研究も、その制定も、まだまだ組織化されておらず、多くは恣意的にならざるを得ず、その全責任を誰が背負うのかといったことがたびたび問題になった。

大名、御三家の当主という立場にありながら、若くしてたいていの学者以上の並み外れた教養を身に付けていた光圀は、しばしばこの「論拠」を与える存在として幕閣や武士社会に頼られて、それもあって(天下の)"副将軍"的扱いを受けるようになったという、そういう話。

余談ですが最近、なぜ世の政治家たちがしばしば宗教家や霊能者・占い師などの怪しげな人種に頼るのかという理由が分かって来たような気がして、つまり彼らには"自信"が無いんですよね。"根拠"が。論拠が。政策を決定する上で、法律を提案する上で。我々が思ってる以上に。
宗教家には教義に基づいた信念がある、官僚には前例に基づいた知識がある。では政治家には?何も無い。多くはただの人。
"法律を作る"というのは、場合によってはかなりクリエイティブな作業で、ほとんど「世界」を作る、無から秩序を作るというような性格を持つもので、それに耐えるような拠り所を、普通政治家は持っていない。
宗教家には曲がりなりにも世界観があるし、官僚ならその"クリエイティビティ"の危うさを避ける為に、前例に逃げ込むことも出来る。でも政治家は。
だから多分、真面目な政治家程、やる気のある人程、不安に駆られて根拠を求めて、怪しげな権威に近づくと、そういうことはあるのかなあと。その意味で、"政教分離"は、言う程簡単ではないというか。
神のお告げに任せられたら、楽でいいなという。(笑)





しつこく、道徳について。(笑)

p.137
ローマ帝国の官僚機構のように、キリスト教においても(略)カリスマは世襲制によって引き継ぐことはできなかった。(中略)
何世紀ものあいだ、教会は聖職者の地位を世襲制にしようともくろむ国王や封建勢力と懸命の闘争を展開した。("聖職叙任権闘争")
この問題を最終的に解決するために、グレゴリウス十世などの改革派法王たちは、司教の叙任権を自己の手中に握り、聖職者の独身制義務化したのである。

何のことかよく分からないでしょうが、純潔を重んじるキリスト教の性道徳が形成された過程についての説明です。
・・・つまり、聖職者の地位を(その土地の世俗権力の影響下の)世襲制にしない為に、聖職者に跡継ぎが出来ないようにする、その為に独身制を義務化する、その理由付けとして純潔が神聖化されて行ったという、そういうこと。
まあ勿論それだけではないんでしょうけどね。(笑)
なかなか意外な背景でした。

p.75
このような道徳の前提条件はすべて、(中略)むしろ、一般的な感じ方、考え方である。しかし、それらは人間の精神と心に深く根を下ろしているものである。(中略)
 私たち誰もが、良い社会とはどのようなものなのかという理念をもっている。各個人が敵意や嫉妬心を抱くことことなく、知性や愛情で処遇されるような社会。誰もが他者の必要とするものを理解して、知恵と知性でそれに応えるような社会。

「一般的」であり「根を下ろして」いる。それが肝。
前回述べたように、今日道徳には理論的根拠が欠けていて、ここの後段で述べられているような「良い社会」についての理念というのは、あくまで一般的な感じ方として共有されているに過ぎないわけです。だから「"人権"には根拠が無い」などと言い出す人も出て来るわけですけど。
しかしむしろその"一般"性こそが、"根"であるという話。
ちょっと分かり難いか。

つまりですね、この世界一政治的に呑気な国日本でも、近年は"左右"の対立がかなり定式化されて、こうしたリベラルな理想も「左」として、「右」から攻撃されることが増えて来たわけです。
ただね、この種の理想というのはことここに及んでは必ずしも政治的なものではない、理論的なものではない、つまり別に"マルクス主義"へのシンパシーから、現代の我々は(あえて言えば)"リベラル"な理想を、社会目標を抱いているわけではないので。そういう"経験"も無い。
むしろ「マルクスなんて大嫌い」「リベラル」というあり方が一般的なのであって、それは理論的にはある意味意味不明で、最終的な社会像としては"考え無し"な部分もあって、そこを「政治的」な敵には衝かれるわけですけど。
ただだからこそ、普遍的でもあるんですよね。
政治的方法論的な択一の問題としてではなくて、例え元はマルクスを筆頭とする欧米の政治思想家たちがそれぞれの文脈で言い出したことであったとしても、その内容や結論の妥当性・究極性自体を人類は、大衆は直観して、様々な時々の政治闘争の空中戦とほぼ無関係なレベルで、共有して定着して行ったと、そういうことだと思います。また欧米においてもそうであるということを、ここでアルベローニは言っているわけですね。

言葉というのは予め根拠があって主張されて、その論理的整合性によって認められるということもあるけれど、一方で言葉にされたその言葉が、結果として何かを「言い当てて」、その言い当ての的確性や力強さそのものが事実としての"根拠"になって定着して行くと、むしろそちらの方が割合としては多いような気がします。
言葉に限らずですが、何かが「流行る」というのはそういうことではないかと。
だからつまり、「人権」やそうしたリベラルな理想というものは、最早政治闘争とは別の次元で定着している普遍的な目標であり、人類が全体として認めて選び取ったものであり、「道徳」そのものであると、そういう話です。
いち政治思想ではない。元はそうであったとしても。

それをどう、社会システムとして全体的にマネージして行くかという技術的問題は今後もあり続けて行くだろうけれど、「目標」としては、方向としては、もうそれしか無いんですよね。
知ってしまったからには戻れないというか。気が付いてしまったからには。
偏りとしての"左"を攻撃するついでに、それまで押し流す権利は"右"には無いということですね。
例え"右"そのものに、今日主張すべき何らかの政治的妥当性があったとしても。

その部分の折り合いというのが、今後しばらく、多くの社会で問題になって行くだろうなと、そういう感じ。
勿論日本でもね。
左右共に、余り雑駁な議論をして"世界遺産"を破壊してしまわないように、気を付けなければならない。
戦争は外でやれというか。(笑)
左は遺産を盾にしないように、右は中の人のついでに遺産そのものを攻撃対象にしないように。


今日は以上です。


テーマ:本読みの記録
ジャンル:本・雑誌
F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』(つづき)
2015年12月26日 (土) | 編集 |
というわけで(?)つづきです。
今回は少し長くなりましたが、これで終わりです。






第6章 ニヒリズムの効用

p.73-74
しかし、そのような"土台"がもはや存在しないということは、私たちが信じるものをもたないということではなく、私たちが価値観や高貴と思えるような目標をもっていないということでもない。私たちが道徳を失ったということでもない。

"土台"が存在しないというのはつまり、前回期せずして(笑)僕も言ったようなことです。

  「宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を
  奪われた状態」

言ってみれば知的な側面からの、強制力を持った道徳の排除ということですが。
根拠の明示出来ないものに、公的な力を与えないという。

ただそれでも

p.74-75
私たちも、良いこと、より良いことを信じ、夢見、願っている。
(中略)
私たちの司法組織は無数の権利を認め、擁護しているし、つねにその裾野を広げようとしている。

少なくとも西側社会を実際に動かす動因として、ある種の"道徳的"な(あえて言いますが)バイアスが強く存在しているのは確か。理論的根拠が希薄であるにも関わらず。
・・・今「権利」と言い、「西側」と言いましたが、ここに"自由"という概念を絡めて行くとまた論じ方は変わって行くんですけど、ややこしくなるので今は止めます。


ニヒリズムのあとに登場する新たな価値観

p.76
実際、まったく虚無的な文化というものはかつて存在したことがない。(中略)
ニヒリズムは少数者、概して、批判的少数者、あるいは革新的少数者の贅沢なのである。

p.77
今日、ニヒリズム的文化はまったくニヒリズム的でなく、自分が深淵に立っているなどとはつゆほども感じていない人々からなる社会に、居心地よさそうに存在している。

切羽詰まっていないから、追い詰められていないから、ニヒリズムなどを言い立てられるのだという。
絶望していないからこそ。
かつて西部邁が、浅田彰とその友人たちを、"えせニーチェ主義者"と切り捨てていたのを、思い出したりしましたが。(笑)
坊ちゃんたちのお遊びだろう?と。

また仮に知的エリートによる言説上の問題に限ったとしても、

p.76
そして、この場合でも、否定のあとには価値をもつものへと続く肯定的プロセスが存在しているのである。

p.77
ロシアのニヒリストたちは平等主義的革命を夢見ていた。マルクス主義者たちは(中略)すぐに新しい社会主義的人間が生まれると考えていた(中略)
ハイデッガーは、一九二九年から三〇年にかけての講義のなかで、哲学的省察を生むことになる根本的な精神状態を模索し、それを"深い倦怠"のなかに見出したのである。しかし、それから数年後、ドイツが危険な陶酔の時代を迎えると、「ドイツの文学の自己肯定」という論文で、彼の言葉は熱狂的になり、予言者的になるのである。

結局主張している当人でさえも、実際には"ニヒリズム"などというものに耐えることは出来ないのだ、必ず希望と理想を求めるのだという、そういう話。
・・・前回第4章で言った、悪に耐えられる人などいないという話と、似ているかもしれません。
元々強く"求め"るタイプだからこそ、一回は失望して、"ニヒル"になるのだと、そういう可能性もありますが。
それにしてもハイデッガーってみっともない。何人かいる"ナチスに同調した"と後に批判されたドイツ圏の思想家の中でも、際立って見苦しいという印象。基本の性根が、甘く出来てる感じ。

そして勿論、事実としても、ニヒリズムが完遂された社会など存在したことが無いし、学者たち(マルサスやマルクスやジョージ・オーウェル)の虚無的な予想が当たったことも無いと、著者は言います。

p.79
もし仮に、まったくの利害関係やまったくの競争しかなかったなら、社会組織はばらばらに分裂したかもしれないし、資本主義も自己崩壊していただろう。しかし、そうはならなかった。そのわけは、ある程度まで混乱に陥ると、再編成する力が出現したからである。

p.80
そして、一九八四年(*)のヨーロッパには、過去数十年にも勝る民主主義と個人主義が存在した。

で、結局章題の「ニヒリズムの効用」とは何かというと、それが流行することがむしろ、我々がいかに根本の部分で道徳的であるかニヒリスティックではないかを再確認する手段となり、また一方で我々の道徳を洗練させて社会をリニューアルして固める為のいい機会となっていると、そういう話。

ふむ。どうですかね。
ちょっと楽観的に過ぎる感もありますが。
"人間はニヒリズムには耐えられない"という意味で"道徳的"であるというのは、消極的ながらその通りだと思いますし、価値観が稀薄化する一方で長期的には人類社会が高度に道徳的な方向に向かっている、それもまあ、事実だとは思います。(少なくとも今までは)
ただ(道徳についての)理論的難点はそのままですし、だからこそでもありますが要は"本能による揺り戻し"に期待するという折衷的な態度は、何らか最終的なものと言えるのか。
・・・例えばそれこそ日本型の"社会主義"、資本主義や自由の自主規制的な不徹底みたいなものは、この著者はどう考えるのかなとか。ポジティブに評価するのだろうか。
つまりあれは、西洋型の弱肉強食(日本からすれば)というニヒリズムに対する、日本人の本能による「道徳的配慮」であると言えると思うので。



第7章 過去にどんな意味があるのか

p.92
イエス・キリストは、過去との関係を保つことにつねに努めていた。彼はなにも失われることを望んでいない。彼の伝えたいことは明白である。律法を廃するためではなく、それを完成させるために彼はやってきたのだ。

えらいところから入って来ましたが。(笑)
まあ、確かにそんなようなことを言ってはいました。あるいは"キリスト教"をユダヤ教から"独立"させてあまつさえ対立させるように仕向けたのは、弟子たちの勇み足(または陰謀(笑))だという主張も、まま聞くものではあります。
ユダヤとキリストとイスラムが、無事"一つの宗教"に収まっててくれたら、どんなに世界は平和か!(笑)

p.92
ところが、新たな愛、新たな信仰、新たなイデオロギーが、完全に過去との関係を絶つとき、新たな人間はもはや、義務も責務ももっていない。(中略)
そして、限界に対する完全な拒否に向かって、抑えがたい征服の欲求に向かって、不寛容と狂信に向かっていく。

結局ね、"過去との関係を絶つ"という形で新しい何かが主張される時、そこに隠れている動機は、そうして"切り取った"「正しさ」を「独占」したい「私有」したいということなわけですよね。・・・あらゆる"革命"を望む気持ちの中に、特有の卑しさがあるというか。
そして勿論、正しさを私有したと確信した人間は、"正しくない"他者に対してどんなことでもするわけです、出来るわけです。
それを防ぐのが、つまりは"過去"とのつながり。章題に従えば、"意味"
・・・何か今回持ち上げるようですが(笑)、西部邁が自らの立場を「保守」と位置付けるのも、こういう意味の、"新しさ"や"革命"に対する構造的根本的な不信によるわけですね。新し過ぎる福音は、全て間違っていると。構造的に。道徳的に。
勿論そんな態度はダルいですから、好き好んで西部邁も取っているわけではないわけで。意図して、努力して、自制している。「自覚的な」保守とは、そういうものですね。「保守」思想を「革命」的に熱狂的に標榜している類の連中は、また違いますが。

p.93
絶対であってほしいと願うあらゆる再出発や、絶対的で無条件に純粋であってほしいと願うどんな法則にも、道徳性はまったくないことを私は断言する。
道徳性は、ただ、このような過去の放棄や、棄教や、単純化が容認されない場合にのみ生じるのである。

"絶対"の批判を"断言"するということに、微妙な齟齬感を感じなくはないですが(笑)、それだけつまり、著者が熱を入れて語っているということ。
道徳を強く激しく求める人間の営みこそが、最も確実に効率的に道徳を破壊するというパラドックス、飽きもせず繰り返される"パターン"の虚しさ、繰り返す人間たちの哀しさ、それを眺めているしかなかった今までの悔しさ、そうしたものが込められているのを感じますが。
これに気付かない限り、"誰か"が持ち出す"新しい"道徳(運動)は必ず失敗するし、ひいては「道徳」そのものが信用を失い続ける。


第9章 なんのために進化するのか

p.108-109
道徳の領域には、したがって、二つのタイプの力が存在する。まず第一のものは、現行の社会をそのまま維持していく力である。(中略)
個々人はいずれも、自らの社会と結びついており、組織を構成する細胞のように、その社会に有利になるように行動する義務感を抱いている。彼の行動は、主観的には利他主義であるが、実際には、つねに集団のエゴイズムの内部に包含されていて、そこから抜け出ることはできない。

p.109
第二のタイプの道徳がある。生の飛躍が、既存の種や社会を乗り越えて新たなものをつくりだすように、開かれた道徳は社会の利害関係の境界を乗り越える。そのとき、この道徳は、個人のなかに形をとって現われる。
(中略)
ソクラテスの場合がそうであったし、イエス・キリストの場合も同様であった。彼らの開かれた魂は、普遍的理念に向けて、生命を超越して存在している。

またこれは少し別の話、ではありますが。今までとは。
"あるべき道徳"論の。
でも実は一番シンプルな話でもあって、"道徳"を"集団的暴力"に飲み込ませない為の、基本的な心掛け。
常に「個人」であること、「個人」としての自分の内心を問い続けること。・・・まあ前回の「"役割"に甘んじない」という話とは、重なるところが多いかもしれません。
集団的道徳不在の現代において"道徳的"な人というのは多かれ少なかれこういう人であろうと思いますが、同時にだからこそ"集団"的な"閉じた"道徳への忌避感は強くなって、結果道徳への"攻撃"もやまないという。
道徳心が強いからこそ"非道徳"に見える人というのは、実はとても多い気がします。特に現代では。

一方で前章で言ったように、「過去」「伝統」との繋がりという意味での"集団"性も必要なものなのでややこしいんですが、言葉としては「集合」性という言葉もあって、そういう区別でも設ければ、多少は理解し易くなるかなと。
目の前の"集団"の意識ではなくて、その背後(の更に背後)にある"集合"の無意識の方に、を降ろす。
故きを温ねて新しきを知って、それでも足りない部分について発明する、"飛躍"する。くらいのバランス。
まあ単純に「集団」の動きは常に遅いので、探求の成果はまず「個人」の中に現れるわけですね。歩調を集団の方に最初から合わせていると、イノベート出来ない。


第15章 献身することの意味

p.168
男性も女性も私たち人間は、誰もが他の人に、あるいは他のなんらかのものに尽くしたいという、やみがたい欲求を抱いているということである。私たちは、自分自身を愛や関心や配慮、留意の対象とすることができないということでもある。

p.169
単純かつ明瞭な事実は、私たち人間がどうしようもなく道徳的な存在だということである。
 このことは、私たち人間が善良であることを意味するのではなく、ひたすら自分自身のためだけにする行為は道徳的価値をもたないし、私たちの心の奥底には満たされない思いが残るということなのである。
 またについても、私たちは、なにか他のものを口実にして正当化しなければならない。

ナチス党員には"千年王国"という口実があり、、共産主義者には"プロレタリア革命"が、セルビア人には"大セルビア"があったと、そう著者は続けます。

まあ一応の、まとめ的な章。
人間が「欲求」として、「衝動」としての道徳を内側に持っている、欲求や衝動の「抑制」という消極的な意味ではなくという主張については、一つ個人的に印象的な記憶があります。
大学生の時に通学電車の網棚で拾ったゲンダイに載っていた(笑)ある本の書評で、その後探してもこれかなというのが見つからないんですが。
それはある時期(以降)アメリカを席巻した"ダイエット"ブーム('81オリビア・ニュートン・ジョン『フィジカル』、'82ジェーン・フォンダ『ワーク・アウト』)についての研究書で、その著者が主張するにはそれは"ミーイズム"的な思潮の全面化によって公共道徳を失ったアメリカ人が、行き場を失った「道徳衝動」自分の体に振り向けた結果であると、そういう話でした。
なんか分かる気がした、というのと、道徳自体が「衝動」であるという指摘にどきっとしたというのと。
まあダイエットなり嫌煙運動なりに、その実効性とは別に深層のモラリズム、自己(ないし他者)処罰的な要素があるというのは、明らかなことだと思いますし。"PTA"的なものや"言葉狩り"の類が、要するに内なる道徳的な強迫観念が"叩き易い"ところを見つけて食らいついているものだというのもまた明らか。"道徳的"ではない自分からの、逃避というか。
だからこそ著者も、「善良であることを意味するのではなく」と言っているわけですね。単なる欲求の満足でしかない、部分があると。


こんなところですかね。
"全体"としては、分かったような分からないようなところもありますが、「道徳」についての考察集としては、かなり行き届いたものだと思います。
僕はまあ、要は自分が道徳的に生きられればそれでいいので。人類にはあんまり期待していないというか。(笑)
そういう意味では僕も、「私有」とは違うつもりだけど、"正しい"側にいたいと、それだけなのかも知れない。
いい人が増えればいいなとは思ってますけど、でもあえて"増やそう"とすると失敗するのも、目に見えてるし。過去の人類史から。"道徳"の闇は深い。

著者の名誉(?)の為に言っておくと、実は僕は、著者の非常に重要な、中心と言ってもいいかもしれない論点を、あえて割愛しています。
それは進化論的、生命論的に、「道徳」衝動の必然性を理論づけたものなんですが・・・。
ちょっと手に余るので。この小さくて結構おしゃれな(笑)本からも、はみ出して見えるし。
興味がある人は、読んでみて下さい。


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ジャンル:本・雑誌
F・アルベローニ『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』
2015年12月17日 (木) | 編集 |





この(↑)本で日本でも有名になったらしい人(コトバンク)の、かなり哲学的なタイプの本。
「道徳哲学」というか。
タイトルからすると、科学主義的な"全ては人間の思い込み"的な本か、逆に"心がけ次第だ"という説教臭い本のどっちかという感じですが、どっちでもないです。
「道徳哲学」とは言いましたが、"道徳的"な哲学ではなくて、"道徳を哲学する"という感じ。
肯定でもあるし、否定でもあるし。


第3章 「役割を演じる」ことの害悪 より

『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編で言っていた"「専門化」と「モラル」"問題が、つまりはこれ(この章)です。
逆にあちらを引くならば、"兵士"という役割演技の元、上官の命令一下個人としてはとても出来ないような残虐行為を平気で行ってしまう、そのような状態を一つは言っているわけですが。

p.37
私たちは、職業的な役割体系の上に身を置いているわけだが、その理由は、それがもっとも簡単であるからである。

宗教の社会の表面からの退場や、"民主主義"や"価値相対主義"の一般化によって絶対の基準を奪われた状態で、道徳的判断や責任の回避や留保、あるいは代用の為に職業倫理や時に職能そのものに頼るという行動に無縁でいられる人は、恐らく現代社会ではいないでしょう。
その方が、"賢く"も見えますしね。道徳を正面から問うより。
一種の知的な「市民権」の証明というか。

p41
私たち各人は、数々の役割を演じ、さまざまな方法で習得したいくつもの社会的仮面をまとい、さまざまな自我を生みだしながら、別の役割を演じている自我が行っていることについて無知であるように見える。しかし、これらの分離されたそれぞれの自我のあいだでの接触あるいは一致なしに、道徳が存在しうるだろうか。

"無知"というか、"無視"でしょうね、実際には。
勿論分離がこじれて"無知"になっちゃってる人も、中にはいますが。知的能力的に矛盾した複数の状態を一遍に視野に入れることに耐えられないか、あるいは「役割」への没入の結果得られた「力」「権力」への執着後戻りの出来ないレベルに達して正気を失ってしまった人か。
ほとんどの人は、内心では分かっている。「接触」や「一致」の欠落が問題であることに気付いている。そのことに、"良心の呵責"を感じている。・・・感じている"瞬間"がある。(ただしすぐに忘れる)

p.42
二十世紀のすべての過誤、さらにおそらくは歴史のすべての過誤を許したのは、この役割道徳、細分化された道徳、私的、公的、政治的な領域間の分離、家族とイデオロギー間の分離、分裂した自我だったのである。

うーむ。"原因"論としては分かる気がするけど、ちょっと疑問もある。
つまり我々の自我や道徳感覚が分裂している、そのことに社会の高度化巨大化による役割分化が大きく関わっている、それ自体は確かなことだと思います。・・・加えて言うならば、そのことを「正当化」する諸"理論"の洗練も。著者が(後に)挙げる、ナチズムやマルクス主義を筆頭とする。
ただその「二十世紀」のそれが、"統一"されたものの"分裂"なのか、かつて存在した天国状態からの"堕落"なのかというと、それは一概にはどうなのかなと。
むしろ自然状態では一種生態学的に各生活環境に対して緩やかに"分離"していたものが、人間の社会や思想の「進歩」によってそれ以上のもの、それ以上の正当性を持った「統一」を志向し始め、「一致」が観念され、それによって現代的な問題としての"分裂"が意識されることになったのではないかと。
我らの可愛い飼い猫たちは(笑)、飼い主の前でと巡回中に出会った哀れな獲物たちの前では違う"自我"を示すでしょうが、それはただそうなのであってあるべき「統一」が「分裂」したものでも増して"堕落"したものでもないわけでね。
だから特に「歴史のすべて」とまで言ってしまうと、それは遡っての断罪に過ぎるというか、人間に期待し過ぎというか。
"これから"の問題としては、分かりますけど。

一方で、動物ならぬ人間の子供を見てると、積極的に統一はされないまでも、"分裂"はしていない、つまり「大人」の"使い分け"が理解出来なくてしばしば戸惑うわけで、そういう意味での原初的統一状態というものは、無いわけではないんでしょうね。またそれに類するある種の「田舎の素朴な人々」という類型も、満更嘘ということでもない。
ただじゃあ、彼らが積極的に「道徳」的なのかというと、いざ何か選択を迫られた時に意志的に道徳的に振る舞えるのか、その為の基準を持っているのかというと、それもまた期待し過ぎだろうという。
併せて言うと、つまりは「統一」や「一致」を意識出来るような知性を獲得したり、あるいはそういう段階の社会・文化に属している人々が、にも関わらず怠惰や妥協や権力欲やその他様々な理由によってそれを無視するような行動を取る、更にはそのことへの内心の良心の呵責から、それを正当化する詭弁を編み出してより徹底的に逆方向に行って被害を極大化する、それが問題・事態の本態であると、そうまとめていいような気がしますが。

p.43
分離された自我は無責任の根源である。私たちは、道徳が"統一された自我"を要求することを知らなければならない。それゆえに、自我の統一を否定したり、それをおとしめるようなすべての理論を、道徳の見地から警戒する必要がある。

事態としては、まあその通り。
"自我"と言ってしまうと人によっては少し遠く感じるところがあるかも知れませんが、"セクショナリズム"「無責任の根源」であるというのは、分かり易過ぎるほど分かり易い話でしょう。前掲『平気でうそをつく人たち』 ~「軍隊」編では、「良心の分散化」などという言い方もされていました。
結局まあ、ある種の"覚醒"以来、「どの」道徳を取るかという選択を人類は争って来たわけですよね。ユダヤ・キリスト教から、マルクス主義まで。その他諸々。
その闘争自体は今も続いているわけですが、どうやら"どれ"を取っても駄目らしい、結局同じような惨状を招く、失敗を繰り返すらしいという認識から、一方では道徳的判断自体の拒否・廃棄を標榜する思潮がうっすら広まってはいるわけですが、一方では数々の失敗を繰り返して来たからこそ、道徳の「構造」を可視化する材料も揃っては来ていて、それに基づいて再度、今だからこそ「道徳」をきちんと人類文化の中に位置づけし直そうという思想的営為も可能ではあって、それをこの人もやっているということですね。
ただの「復権」ではない、ということです。既存の道徳体系の、"選択"の問題ではないというか。
他方、"統一の否定"というのは、ある意味では正当なリアクション、"ある"大文字の道徳に大きな力を与えない為の安全策でもあるわけですけど、しかし「理論」的には間違っていると、この人は言います。


第4章 悪人とは

p.52-53
政治闘争の場でもずっとそうだった。なぜなら、誰もが、自分たちの敵対者を不快で悪意を抱く者であり、残酷で、非情な存在とみなしているからである。
(中略)
政治闘争はすべて、背徳であるという非難の下に行われた。道徳という観念そのものを軽蔑し、それを愚弄したマルクス主義者やナチスさえもが、敵対者(資本家とユダヤ人)が寛容、同情、兄弟愛、弱者や無防備な者たちへの援助といった価値観を侵犯していると糾弾したのである。

これは本当にそうでねえ。傍から見ると、お笑い草だったりはしますが。
半ばプロパガンダではあるでしょうが、半ばは常に本気でもある。
相手を道徳的に劣位であるとみなした時ほど、人は徹底的に残酷になれると、これもよく言われることですが。・・・というより残酷になる為には、前提として相手を(無意識にでも)道徳的に断罪するプロセスが必要なんですよね、実際には。
章タイトルは「悪人とは」ですが、つまり結論的に言うと、"悪人"はいないんです。
みな"善"なんです。主観的には。
「自らが悪であるということに耐えられる程、人間は強くない」と、ヤン・ウェンリー

ヤン・ウェンリー

言ってました。(笑)
だから結局、「道徳」という問題から逃れることは、出来ないんですよね。人は。
ならば立ち向かおうと、立ち向かう為の思考を続けようと(それがこれだと)、著者は言うわけです。


以下更に縷々続きますが、今日はこれくらいで。
こういうシリアスな題材は、本当はむしろ一気に書いてしまった方が読む方も書く方も疲れなかったりするんですが(笑)、まあオフシーズンでネタ枯れ気味でもありますので、今回は小出しで失礼を。
よろしくお付き合い下さい。


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