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神道側から見た「国家神道」 ~(1)”救済”思想としての神道
2017年10月18日 (水) | 編集 |
お久しぶりです。
女子バレーに押されてすっかりどっかに行かされていたこのシリーズですが(笑)、再開です。
再開・・・というか、これ(神道側からの視点)だけは一通りやっておかないと、バランスが取れないというか事態の解明に重大な手抜かりになるので、少なくとも書いておきます。その後言い残しがあるかは、またその時に。


1."救済"思想としての神道 (または宗教としての神道)

小沢浩『民衆宗教と国家神道』 より



p.35

幕末から近代にかけて成立した民衆宗教は、民衆の祖神に対するあらたな信仰の確立によって、同時期の社会変動に根ざした物的・精神的な不安から人びとを解放しようとする「あらたな救済論」として立ちあらわれたものであった。

具体的には幕末の金光教天理教、少し下っての大本教などの、多くは神がかり教祖による民衆の生活に根ざした、しばしば体制&近代批判的な宗教のこと。
そうした類型からは少しずれたものも含めた「教派神道」系の宗教群については、多分次回まとめて取り上げることになると思います。とにかく例え体制批判的ではあっても、この時期のそうした宗教群は揃って、広い意味の神道的日本神話的な"神"像を信仰のよすがとしながら、民衆救済を目指していました。

これに対して、のちに国家神道に受け継がれていく水戸学復古神道尊王思想・国体論も、ある意味では従来の神道説を「革新」することで、個人や社会や国家の直面する危機を乗りきろうとする一種の「救済論」であったとみることができる。

p.45

復古神道の「救済論」がいかに荒唐無稽なものであれ、民衆宗教と同じく「自由」な競争にさらされていた幕末までのあいだは、それも国民の選択肢の一つであったことを認めねばならない。
しかし、明治維新をへて、国家がその崇敬を国民に強制し始めたときから、事情は一変する。

水戸学は遠くは江戸初期の水戸光圀による国史編纂事業に始まる、水戸藩で独自に発展した尊皇思想を中心とした学問の総称で、明治維新の実行者たちに大きな影響を与えたことで有名。
復古神道は本居宣長・平田篤胤らの国学者による、日本の古来・固有の姿を探る研究から江戸後期に生まれた、学問的宗教というか宗教的学問というか。水戸学と同じく、明治維新の思想的バックボーンを形成しました。
それらがどのような「救済論」を持っていたかは次の項に譲りますが、特に復古神道は学者や武士階級だけでなく、民衆レベルでもかなりの浸透を見せていたようです。


子安宣邦『国家と祭祀 国家神道の現在』 より



p.102

『新論』が国家の大経として立てる祭祀的国家の理念はこの安心論的課題を吸収している。(中略)
国家が人民のそれぞれに死の帰するところを明らかにし、死後の安心を人民に与えることは、彼らの心底からの国家への統合を可能にするはずだと会沢はいうのである。

取り上げられているのは、幕末水戸学の代表的論者、会沢正志斎の主著『新論』です。
今日に至るまで右翼&天皇主義的思想上欠かせない概念である「国体」という語を発案した本として認識していましたが、こんな内容も含まれていたんですね。

p.103

篤胤独自の国学思想の成立を告げるものとされる『霊能真柱』という著述とは、古学の徒に求められる大倭(やまと)心を堅固に保持するには「霊の行方の安定(しずまり)」を知ることが不可欠だとして、日本神話による宇宙生成過程の再構成を通して「霊の行方」の問題の解決をはかった書である。

こちらは復古神道の完成者、平田篤胤
この人は「寅吉」少年の神仙界探訪の記録を熱心に書き留めた話(『仙境異聞』)が有名なので、さほど意外ではないと言えば意外ではないですが。
とにかく"国家"と"天皇"にしか関心が無いような印象のある水戸学や復古神道に、言ってみれば普通の「宗教」らしい側面もあったと、そういう話です。

より公平に言うと、視線が「民衆」にあるか「国家」「天皇」にあるかの違いはあっても、江戸の安定が徐々に崩壊に向かい、対外的にも国内経済的にも(後に言う)「近代」の到来の予感の中で、何らかの危機感や不安感という時代の気分は確かにあって、それについては民・国派問わず、「神道」は鋭敏に感じ取って時代の要求に応えようとしていた、そういう面はあったわけです。
・・・一つ僕なりの言い方を加えると、例えば仏教などに比べると、「神道」というのは要するに"新宗教"なんですよね、実質。だからこそ"時代"にも敏感というか、「国民の選択肢」(小沢)として求められた選ばれた、そういうある意味ではよくある風景でもあったろうと思います。


2.大塩平八郎と"神道"的思想

そういう言わば「必然」としての"神道"の、ある種先触れ的な例として、大塩平八郎の思想について少し取り上げてみたいと思います。

大塩平八郎

・江戸時代後期の儒学者、陽明学者。
・大坂町奉行組与力として活躍後隠居、私塾を開き弟子を育てる。
・天保の大飢饉(1833~37)の際、再三奉行所に救済を進言しまた自らも私財を投げ打って窮民の救済に奔走するが、動こうとしないどころかそれを邪魔する大阪奉行所・幕府に反旗を翻し、所謂「大塩平八郎の乱」(1837)を起こすが失敗、自決する。

こうして書いているだけで軽くが出て来そうにもなる、まことに印象的な歴史上の人物ですが。

こうした激烈な行動の背景に「知行合一」の陽明学思想があるという話は、僕も学校教育の範囲で習った記憶はあるわけですが、その一方で大塩が蜂起の際に書いたとされる檄文には、こんな内容が含まれています。

神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では堯舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである」
「天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がない」
(「崎門学研究会」より引用)

神世への復帰、天皇親政への願いを語る大塩平八郎。
僕がこのことを知ったのは、また全然別の調べ物をしていた時のたまたまだったんですが、でもこれを見た時に、何か腑に落ちたというか、一つ「風景」が見えたような気がしました。

差し当たって"神武帝"や"天照皇太神"の名を郷愁をこめて口にする大塩平八郎が、"右翼"なのか'"国体"主義者なのかというと・・・どうでしょう。僕にはむしろ、違う時代に生まれていれば幸徳秋水と一緒に獄に繋がれていてもおかしくない、そういうタイプのパーソナリティのように見えるんですが。彼の起こした「反乱」も、後の「倒幕」運動というよりはアナーキズム的テロリズムなどの方に、近い性格を感じます。まさか本当に私塾の私兵で幕府を倒せると思っていたとも思えないですし。
ではなぜ彼が「神武」や「天照」を持ち出して来なければいけないかというと・・・。それしか無いからだと思います。現実の幕藩体制とその行き詰まりを前にして、「世直し」や「救民」を志向した時に、救済原理として使えるリソースが、打ち立てるべき「政治理論」が。当時の時代状況では。(だからもし彼が「社会主義」を知っていたならば社会主義者になっていたのではないかと、僕は空想しているわけですが)

そしてこうした"大塩平八郎"が抱えたようなジレンマや限界は、現代の発展途上国や非西欧諸国でも同じように存在していて、それらの国で頻繁に湧き上がる多くは宗教に根を持つ"ナショナリズム"も、それ自体が本当にいいと思って担いでいるというよりは、他に無いから選択されると、そういう面が大きいのではないかと、そう感じるわけです。分かっていても引っかかる罠、見えていても進んでしまう隘路。
不幸な民衆が過去や神話にユートピアを求めるのを、止めるのはなかなか難しい。
逆にだから後に倒幕原理として担がれる「尊皇(王)」も、一部特殊な情熱による宗教思想(家)を含みこみつつも、基本的にはカウンター原理、政治理論的オルタナティヴとして、不可避的に選択されている方便として利用されている、そういう面は当然にあるわけですね。
ただその範囲での"必然性"はあったと、そうは言えると思います。

次にでは各国における"大塩"的事例、不可避の原理としての「宗教」の振る舞いを、見て行きたいと思います。


3.「近代化」と「宗教」と「民族」
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ウッダード『GHQの宗教政策』(終)/"天皇"の処遇と諸政策の影響
2017年03月21日 (火) | 編集 |
前回

最後です。ちょっと長くなりましたが、内容的には割りとあっさりしてると思います。


第七章 マッカーサーと天皇(つづき)


2.「司祭」としての人間天皇

天皇の"人間宣言"

p.292

この問題にかんして世論調査を行なったアメリカの専門家は、「神」である天皇は危険であり、当時存在していたような天皇制は変更もしくは廃止すべきであるが、それは外部からではできないとの意見で一致していた。

今回の"世論調査"は、日本でのということでしょうね。いつどのように行なわれたのかは、分かりませんが。
外部からは変えられないと、思われるくらい日本人の根源に根差した存在であり、一方でだからこそ"危険"でもあるので、変える必要もあるという。
となると是非とも、日本側天皇側からの、自主的な動きを期待したいわけですが・・・

p.296

天皇は、どのようにしてこの提案(注・"人間宣言")を思いつかれたのだろうか。それはご自身の発案だったのか、それとも誰かが勧めたのか。もし、それがご自身のものでないとすれば、そして、たぶんそうではないのだろうが、それは宮中の誰か、それとも外部の誰かからのものか。政府からか。占領軍の介入はなかったのか。もしそうだとしたら、どのようにしてか。

分からないというのが、要するにウッダードのここでの結論・認識。
諸説はあるし、それについて仮説や推論は展開されていますが、とにかく確かなことは知る限り関係者の誰も、掴んではいない、または沈黙を守っている。

いくつか手がかりとなる、ウッダードが把握している事実。

p.297

天皇は、一九四五年九月半ばという早い時期に、二人の外国人記者から直接に、ご自身が神格の所有者と思っておられるかどうかという質問を受けられたことがあったので、この問題が西欧では重視されていることを承知しておられたのである。

ふむ。なるほど。
それにしても、時期も早いし、よくこんな"取材"が行われた/許されたものだなという。
既に"神"じゃない感は無くは無いですが。(笑)

p.299

マッカーサー将軍をふくむ総司令部は、公布の二四時間前コピーを受領したことを除けば、詔勅宣布の提案が実行に移された後から、一九四五年一二月中旬まで、いっさい関知も関与もしなかった

これがまあ、分からないことはありつつも、言わばウッダードが"信じる"、アメリカ側の「関与」

一方で日本側の諸事情。

p.311

この拝謁の際に、天皇が幣原に、日本においても民主主義の思想と実践の先例があったことを示すために明治天皇の五箇条の御誓文に触れたいとおっしゃったといわれている。

"幣原"というのは、昭和天皇の意を承けて、いわゆる「人間宣言」と呼ばれる詔勅を実際に起草した(参考)、幣原喜重郎当時内閣総理大臣のこと。
"拝謁"というのは、1945年12月24日の晩("年内に出す"という目標のもとに、作業が急がれていた)に行なわれた、「人間宣言」詔勅に関する昭和天皇と幣原の打ち合わせ。

"五箇条の御誓文"
 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ


まあ明治維新も、そもそもは「四民平等」を目指した"民主主義革命"ではあったわけですけどね。
これはただ、占領軍の"押し付け"に反撃したというよりは、昭和天皇自身の(一面の)"念願"、積年の思いを、この際表現しておきたかったと、そういう感じかと思いますが。

p.312

この詔勅の場合は、第一に英文の草稿をもとにしたこと、第二に天皇がとくに従来のような硬い文体でなく、やさしい言葉で書いたものをお求めになったために、ことにむずかしかった。

"英文"が草稿なのは、幣原自身の習慣で、広く外国の要人に読まれることを想定した文書については、誤解を避ける為に最終的に日本語で出される文書でも原文を英語で書くようにしていたから。

そうして書かれた詔勅の、「人間宣言」と呼ばれる部分

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

「人間」とも「宣言」とも書いてはいないので、あくまで"汲み取った"意味ではあるわけですけど。
要は"起源の神聖性"が、天皇が天皇である理由ではないという宣言ですね。
そしてそれによって同時に、その"起源の神聖性"を盾にした、日本民族の特別性という正に大東亜&太平洋戦争を主導した(とアメリカ側が考えていた)観念をも、否定したという。
ややこしいのは「現御神」という言い方なんですけど、これは原案の"divine"(神聖な、神の)をそのまま訳すと、皇統を支える神話体系そのもの(またはそれと現天皇との繋がり)を否定してしまうので、それに変えて当てられた日本側発案による用語で、簡単に言うと「"神の子孫"ではあるけれど"神そのもの""生き神"ではない」というような、そういうニュアンスですかね。(参考)
そういう意味での、「人間」「宣言」。


3.天皇と宗教をめぐる微妙な問題

靖国と天皇

p.314

天皇が望むいかなるとき、あるいは場所での礼拝も、連合国軍最高司令官が権限行使の対象にしない天皇の個人的な事柄だと考えられていた。
ただ一つの例外は、一年に二度行なわれる靖国神社の例大祭に参拝できないことだった。

p.315

連合国軍最高司令官の政策にかんするかぎり、天皇が例大祭の際に参拝してもいっこうに構わなかったのだが、中国とソ連が反対を唱え、東京の連合国対日理事会やワシントンの極東委員会で国際問題化する可能性があるのに危険を冒すほどのことはないと考えられた。

「例大祭」・・・神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののこと(例祭Wiki)
特に"靖国"についての用語ではなくて、靖国のサイトを見ても"重要だ"ということしか書いてありません。
とにかく当時も今と同じように、あくまで「外国が反対するから」、天皇の参拝は行われなかったということ。
ただしこれは、「公式」参拝ではなくて、天皇個人or天皇家の私的宗教行為として行われる場合についての話です。より正確には、GHQは天皇家の宗教行為に、「私的」意味合いしか認めていなかった、言い換えれば"信教の自由"一般の問題としてしか見ていなかったということ。
ちょっと無理があるような気は、しないではないですが。それが昨今の国家主義的神道復活の温床となったのだというのが、例えば島薗進氏の主張


天皇家と諸教

p.316

戦前期にも、仏教、キリスト教および神道の公共福祉機関にたいして定期的にご下賜金が与えられていた。このことは、キリスト教が公的には低い評価を受けていた第二次世界大戦のあいだにおいてさえ継続していた。

いい話ですね。(いいのか?そんなまとめで(笑))
まあ天皇家が直接的に「国家神道」的であったとは、やはり思えないというか思いたくないというか。
そういう意味では、やや色々と寛容に過ぎる感もあるアメリカ側の態度も、"影響"としてはともかく"原則"としては、正しいのかなという。


天皇とキリスト教

p.317

一九四六~四九年ころには、天皇がキリスト教徒になる可能性について多くの噂が流れ、公然とそうした見込み記事が出たりした

・京都「都新聞」
・読売新聞
・スペルマン枢機卿、天皇との会見後の記者会見
・東京の新聞二紙
・AP通信
・賀川豊彦

といった媒体及び人物の記事・発言の例が挙げられています。

p.318

バンスが一九四七年の五月に記者にたいして、間違いなく「プロテスタントもカトリックも天皇を自分たちの宗教に改宗させようとしている」と語ったのは、大多数の人びとの意見を正しく反映したものだった。

p.318-319

マッカーサー将軍が、天皇のキリスト教への改宗の可能性を考えていたことは疑いがない
(中略)
しかしマッカーサーが天皇にキリスト教を信仰してほしいと希望したであろうとの疑念にかんしては、状況証拠は否定的である。

まとめていうと、天皇家に対するキリスト教側のアプローチはあったし、天皇家側も色々と"勉強"は行っていた。
しかしそれについて何か強制力が働いていた痕跡は無いし、実際の"改宗"の可能性もシリアスなものとしては無かったであろうというのが、ウッダードの認識。

関連して、天皇家の"改宗"の可能性一般についての、面白い発言。

p.321

仏教系の月刊誌「真理」の自由主義的な編集者、友松円諦師(中略)は、仏教徒が有利な立場にありながら、天皇に仏教に改宗していただくことに失敗してきたことを恥じるべきだという。

まあ仏教に「帰依」した天皇自体は、聖徳太子の時代からこっち沢山いたわけですからね。
というよりもむしろ、いつから天皇(家)は自動的に『神道』の「信者」と見なされるようになったのか、言い換えれば「個人」である権利を奪われた存在となったのか、そのことの方にむしろ、"歴史"的興味はありますが。

この章終わり。
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ウッダード『GHQの宗教政策』/信教の自由と「予言者」マッカーサー
2017年03月07日 (火) | 編集 |
前回まで。


第六章 「信教の自由」の奨励

宗教界からの追放はなし

p.220

バンスは宗教界からの追放の実施に反対する議論のほうが、これに賛成する議論を上回っていると判断したのである。彼は、アメリカの世論神道にかんしては追放の実施を支持するだろうと考えたが、もし追放を他の宗教にもおよぼした場合どうなるかについては確信を持てなかった。

日本の宗教人の公職追放について。
はっきりとは書いてませんが、後半を見る限りここでバンスが慮ったのは、日本での「議論」というよりアメリカでのそれのようですね。
それにしても、何度も言いますが当時のアメリカ国民が「世論」のレベルで日本の「神道」にそんな明確な"意見"を持っていた(らしい)というのは、驚きというか違和感というか。現代のアメリカ人だって、どれだけ日本の国内事情に知識を持っているか怪しいものなのに。
それはそれとして、やはりここにおいても当時のアメリカ人の、"宗教"全般についての好意的態度は、見ては取れますね。(元)敵国の宗教人に対してすらも、バンスがこれだけ気にしなければならないほどに、同情が予想されたという。


神社の「宗教法人」化/神社本庁の結成

p.228

神社の連合体形成にかんする提案をバンスが支持するかという重要な問いは、直接には行なわれなかったのである。

これも何度も言いますが、むしろ"指示"を欲しがっていた各宗、ここでは神道側に対して、バンス及びGHQは、あくまで不干渉を貫いたという、そういう話。直接的な"問い"を行うところまですら、行っていない。勝手に腹を探っていただけ。
神社本庁が結成されたというのは、そうした"政府"側の沈黙に対して、自ら完全に民間のいち宗教(法人)として、神社界が再出発することを決めたという、基本的にはそういう出来事なわけですね。神社組織が強化・結束することに、今日見られるように「国家神道の復活」という臭いは感じられるとしても、宗教政策上の原則論としては、あくまでそういうこと。神社界が自ら決める、つまり「信教の自由」「政教分離」


新宗教の温室としての日本

p.247

占領初期の数年間、信教の自由の結果として、多くの新しい教派とカルトが出現した。しかし、(中略)アメリカの政策決定者が予測していたことを、わずかでも示唆するような記録はまったくない。民間情報教育局の誰一人として(中略)日本の宗教に精通しておらず、宗教課は日本の宗教の一場面としてそれらを扱うこと以外には特別な政策を持たなかった。
(中略)
訪問者は決まって、日本人がどのように新宗教に食いものにされているかに注意を向けさせ、しばしば新しい運動を抑圧するように求めた。

へえという感じ。
まあ元々江戸末期以来、近代日本は"世直し"を求める無数の宗教運動("尊王"思想自体が一種の宗教)に彩られては来たわけで、「国家神道」の統制のたがが外れたらそうなるかという感じではありますが。
アメリカ人がそれを予測出来たかと言えば、それは出来なかったかなと。ただここまでのGHQの態度を見て来れば、そういう有象無象含めて"良し"と、恐らくはハナからそういう対処しか可能性は無かったろうなとも。
ちなみに「訪問者」というのは、日本人の宗教関係者たちです。日本人はアメリカ人程には、宗教性善説ではないという。そこまで「自由」を有難がっていないというか。(笑)


信教の自由と検閲

p.273

検閲はたえず非難の的となったが、その非難の多くは、かなり正当性のあるものであった。多くの場合、記事削除は、短い抜粋だけを材料に、電話で決定されていた。(中略)
占領初期の数年間、ある程度の安定が確立されるまで多少の検閲は明らかに必要であったが、一九五〇年についに検閲が廃止されたことは、関係者全員にとって喜ばしいことだった。

これしか書いていないので、検閲の全体像とか経緯とかは分からないんですが。
とにかく実情はそうであったと。
ただまあ、いかにもウッダード自身が検閲が嫌で嫌で仕方が無いような雰囲気なので、"関係者全員"というのは多少偏った言い方かも知れません。(笑)


宗教指導者訪米の大企画

p.273

一九五一年夏に、日本の宗教指導者の再教育のために八人の宗教指導者から構成された代表団をアメリカに派遣し、九〇日にわたって諸宗教の中心地を見学させ、またアメリカの宗教指導者と会談させるという(中略)企画があった。(中略)
文部省の宗務課長と神社神道、仏教、天理教の代表者がふくまれていた。

へえええ。これは初耳。そんなことが。
それはそれとして、天理教の地位高いですね。(そもそも西洋由来で"教育"の必要の無い)キリスト教を除けば、神道・仏教に次ぐ"第三"の宗教と目されていたということですかね。

p.274

仏教徒の日本宗教連盟の代表者は、五月下旬にこの企画書を見せられて歓喜し、宗教課にたいして全力を尽くして最良の代表を選考とする請け合った。

これがねえ・・・。どうなんでしょ。
"屈辱的"という感覚は無かったんでしょうか。まあ無いはずは無いとは思いますが、少なくとも人によっては。
戦前・戦中に統制に苦しんだ、それは分かるんですけど、どうも戦後民主主義に対する日本の仏教界の余りに迎合的な態度は、それはそれで気に入らないところがあります。それはGHQの直接の圧力が去った後でもそうというか、今日ますますそう感じるというか。"民主主義"より遥かに古い思想としての、誇りはどうなってるんだろうという。仏教は好きだけど、坊主は嫌いだ。死んだのはともかく、生きている坊主に説得された試しが無い。
まあ仏教が骨抜きになるのは仏教の勝手ではあるんですけど、でも結局それを含む"受容"する日本人側に何のカウンターも無かったから、(戦後民主主義の)受容自体が安易になって、今日の思想状況を生んでいるとは思うんですよね。ただの反動にも、ろくな反論が出来ない。
まあいいけど。

代表団は、クリスチャン・サイエンス・モルモン教、ファーザー・ディバイン運動などをふくむカトリックおよびプロテスタントのキリスト教ばかりでなく、ユダヤ教の諸団体を訪問した

うーん、なんか香ばしいラインアップ。(笑)
まあメジャーどころは、"ふくむ"以外のところに入っちゃってあえて名前は挙がっていないんでしょうけど、それにしてもそんな連中に教えを請うたのかという。やっぱ屈辱だろう、これ。
クリスチャン・サイエンスは、教勢は大きいもののアメドラなどを見る限り、今日では完全にカルト扱いされている感じですが、書き方からするとこの本が書かれた1972年時点では、必ずしもそういう認識ではなかったようですね。ちなみに日本にも、実は明治の時代から入っては来ていたようです。(クリスチャン・サイエンスWiki)
モルモンは逆に、19世紀には一夫多妻制問題等、アメリカの主流キリスト教社会とかなり血みどろの戦いなども繰り広げていましたが、19世紀末にはユタも州として正式に認められ、半世紀後のこの頃にはすっかり落ち着いてはいたんでしょうね。(モルモン教Wiki)
ファーザー・ディバイン運動は・・・出て来ないですね、検索しても。この本くらいか。


いずれにしても、相当な非主流派も含めたラインアップで、なんか「西洋」なら何でもいいというような感じで、ますます屈辱的です。(笑)
何を教わって来たんでしょうね。

この章はこれで終わりです。
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ウッダード『GHQの宗教政策』/第五章 超国家主義と軍国主義の一掃
2017年02月07日 (火) | 編集 |
前回。というか去年。
そろそろ佳境、"ラス前"あたり。


第五章 超国家主義と軍国主義の一掃 ~国体のカルト解体への対策


1.新しい祝祭日の制定

p.172

両院の委員会の合同会議を重ねた後で、じつはそのなかの一回においてバンスは、二月一一日(紀元節)は、たとえ国会で承認されても、これを許可することはできないと述べたのであるが、以下の九つの日を国民の祝日とする法案が六月一七日に国会に上程され、七月五日に可決された。
 一月一日 元日
 一月一五日 成人の日
 三月二一日 春分の日
 四月二九日 天皇誕生日
 五月三日 憲法記念日
 五月五日 こどもの日
 九月二三日 秋分の日
 一一月三日 文化の日
 一一月二三日 勤労感謝の日

"二月一一日"の問題はともかくとして、どれが「国民の祝日」かとか改めて考えたことが無かったので、とりあえず書いておきます。

今はこれに、
 二月一一日 建国記念の日
 五月四日 みどりの日
 七月の第3月曜日 海の日
 八月一一日 山の日
 九月の第3月曜日 敬老の日
 一〇月の第2月曜日 体育の日

が加わり、昭和→平成への交代に伴って
 四月二九日 → "昭和の日"へ
 "天皇誕生日" → 一二月二三日へ
と変更されているわけですね。(国民の祝日Wiki)

結構増えたなというのと、"連休"作りの為の名目的なものを除けば、付け加えられたのはやはり「建国記念の日」「敬老の日」「体育の日」と、戦前回帰的な色彩が強いなと、それは思いますね。
・・・「体育の日」が"戦前回帰"的だというのは、それを"国"が定めるのがどうしても"軍事教練"とかを思い出させるからですし、そもそもを言えば「体育」という用語自体が、起源として兵隊育成を意識したものですからね。
じゃあ「スポーツの日」ならいいかと言うと、それはそれで余りにも"西洋"的ニュアンスが強いというか、"スポーツ"という言い方自体が、一つの「思想」であるというか。"スポーツ柔道"なんて言葉もあるように。
意外と難しいんですよね、ここらへんは。
「敬老の日」を加えてもいいんですけど、それならば「こどもの日」は、もっと意味づけをはっきりさせるべきだと思いますね。漠然と"すくすく育てよ"ということではなくて、(大人と経済社会からの)「保護」の対象であるということを。それならば、釣り合いは取れる。


2.戦没者のための記念碑と式典

p.173

いま回顧してみると、連合国軍最高司令官が、日本の政府および民間団体が軍国主義的ないし超国家主義的と解される活動もしくはそのような傾向を促す活動に従事することを防ごうとした努力は、やや行き過ぎであったと思われよう。(中略)もう当時の総司令部が、いかに深い反戦感情が日本人の心の奥底に生まれるかを予知できたとしたら、本件にかんするアメリカの占領政策はずっと緩やかなものになったろう。

ふむ。面白い。
まず"行き過ぎ"だったとは僕は全然思わないですし、実際(天皇制と神道に対して)手ぬるいという批判が本国からも日本の他宗教からも当時あったということがこの本にも書かれていますが、それはともかくとしてその後(占領終了後)主に神道界からの「ゆえなき弾圧を受けた」という反撃・批判が、思いの外筆者にはこたえていて、それへの対応としてこの本が書かれたという側面が少なからずあるということですね。前にも言ったかも知れませんが。
"こたえて"いたのは一つには、今まで述べて来たようにGHQの担当部署が、全体として神道に敵意を持って対処してはいなかった、だから心外だというのと、もう一つはその後の後段を見ても、どうやら神道界及び右翼勢力による批判をかなりの部分"日本人の総意"として受け取っている、受け取り過ぎているらしい、そういう面があるということですね。
その"後段"はまあ何というか、日本人がここまで従順に自分たちが提示したものを受け入れるとは、当の担当者たちも思っていなかったという、そういう話。(笑)
一つには、("世界征服"をもくろむ)「好戦的な国日本」という戦中の宣伝が、前提として深くアメリカ人の中に浸透していたというようなこともあるのかも知れない。そういう意味で、意外だったと。分かりませんがしかし「予知」していたとして、どう変わったんですかねえ。正直あれ以上に"寛大"な占領政策って、ちょっと僕にはイメージ出来ないんですけど。
結局もう一方のドイツの"戦後"を見ても、一回は思いっ切り"逆"に振れるのは、不可避なプロセスのように見えますが。気にすること無いよ、ウッダードさん。(笑)


・・・とにかくそういう"反省"も含めての、各種戦前的軍国主義的記念碑の撤去問題。

p.180

宗教課が差し支えないとみなしたものでも、撤去された事例がかなりあった。
(中略)
現状のままで差し支えないと認められたものは少なかったが、それらは無害であると見なされたもの、本質的に芸術品としての価値をもつと考えられたもの、例外にしてもよいだけの歴史的価値があると判断されたものなどであった。

この時期2年間で約8000件に及ぶ、各種記念碑や像の撤去・移転・書き換えなどがあったそうですから、結構大変なことのように思いますが、全くと言っていいほどそういう記憶や意識は無いですね。・・・一瞬「二宮尊徳像」などが浮かびましたが、あれ(の撤去問題)はもっとずっと後、1970年代とかですしね。(二宮尊徳Wiki)
それは推測ですが、上にあるように日本側がむしろ積極的にというか時に過剰な自主性をもって(お得意の"自粛"?)政策遂行を行なったので摩擦が少なかったのと、あとはこれも上にあるように"歴史的"建造物などは慎重に残したので、そんなに「破壊」的な印象は残さなかったのかなと。

しかし"式典"の方はそう簡単には行かず、今日に至るまで火種が残っているという。

p.180-181

時が経つにつれて、政府の戦没者にたいする無関心な態度に国民が不満を持っていることがはっきりしてきた。
(中略)
政府も一般大衆も戦没者を記念するための正常で非宗教的な手段を与えられていないために、これらの神社を私的というよりは公的な施設とみなしがちで
(中略)
占領軍が戦没者を適切に記念することに反対しているという印象は、払拭することが望ましいと考えられた。

p.183

バンスの意見では、戦没者の遺族と戦友を満足させることができるものは、政府が死に追いやった人びとへの責任を果たし、政府高官が参列して十分に意を尽くされた死者の追悼と記念のための公的式典以外にはないのであった。さらにバンスは論を進めて、過去の戦争の戦死者にたいする正当な表彰が行われなければ、新設の保安隊における式典も完全に受容できるようにならないと主張した。

GHQは戦没者一般の慰霊に何ら異存は無かったし、むしろ積極的に推進・推奨したい立場だったという話。
多少言い訳がましく聞こえないことは無いですが、"アメリカ人"の基本的な態度としては、これは嘘ではないでしょうね。兵士や戦争犠牲者に対するリスペクトというのは、アメリカの文化の中でかなり重要な地位を占めていて、かの"何でもあり"のトランプでさえ、選挙運動中に"退役軍人に対する侮辱"ととられる発言をしてしまった時には、支持者も含めて大きな批判を浴びて、致命的な失点になるだろうと言われていたわけで。(なりませんでしたが(笑))
それにしてもこの「保安隊」(自衛隊の前身)についての言及は、少し驚きかも。要するにこれは、"軍隊"として筋を通せという話ですよね。前の戦争で死に追いやった人たちに対するけじめもつけずに、まともに軍の再建なんか出来るかと。むしろ"右"の人が口にしそうな苦言というか。
まあ言ってもGHQも基本"軍人"ではありますし、日本人の基準で言えばアメリカ人は、全体として中心が「右」に寄ってはいるわけですけど。

それはそれとして、細部の検証。
まず「国民が」不満を持っているというのは、あくまでGHQがそう見ていたという話で、具体的にはちょっとよく分からないところがあると思います。つまり前の項で見たようにGHQないし著者ウッダードは、占領政策に対する日本人の「反」感をやや過剰・過敏に受け止めているところがあるように思うので、ここのところも本当に当時そう思っているのか今(執筆当時)の観点が混じっているのではないか、あるいは"GHQ"というより"ウッダード"個人の感想ではないのかという疑いを、少し僕は持っています。
さっきのバンスの"憤慨"ではないですが、良くも悪くも戦後の日本人は、ここらへんの感覚はだいぶ鈍い気がしますしね。問題にするのは、特別に右な人と、それへのカウンターとしての特別に左な人だけで。
戦争?戦没者?何それというのが、むしろ普通の人。他国に比べて、生き残ったおじいちゃんたちがその時代のことを積極的に語らないという傾向も、ある気がしますし。余り"伝達"もされていないというか。
もう一つ、「非宗教的」なのは「正常」なのかという、問題。
勿論"特定宗派"に拠って国民的慰霊を行なうのは不可能か「国家~」になってしまうので避けなくてはいけないわけですが、一方で全く「非宗教的」にそれを行うというのも、机上の空論ではないかと。要はアメリカがそういう時大雑把に「キリスト教」に拠るように、日本も何かに"拠"らざるを得ないのではないかその有力候補として「神道」を排除は出来ないのではないかという、今日でも"千鳥ヶ淵"(の有効性)などをめぐって、実際に問題になっている問題。
まあ別にこの問題を、GHQ/アメリカ人に解決しろと言っているわけではないんですけどね。ただ書き方がいかにも"軽い"なというか、恐らくは前に"クリスマスツリー"問題でも顔を出した、キリスト教の"普遍性"についてのアメリカ人のごくごく一般的な"驕り"みたいなものが、ここでも顔を出しているなと、そう感じたという話です。
こういう時のキリスト教徒は、ほんとカチンと来ますよね(笑)。イスラムのように血相変えて"主張"しない分、余計傲慢な感じがします。本質的にはやはり、我々"異教徒"を人間だとは思ってないでしょうね。(笑)


3.戦没者をまつる神社
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ウッダード『天皇と神道 ~GHQの宗教政策』(第三章&第四章)
2016年12月15日 (木) | 編集 |
前回

いい加減年末で、どうにも気分ではないんですけど(笑)、先の予定もあることだし頑張ります。
12月は基本的に、クリスマスが終わるまでは、「西洋」の気分ですよね。(笑)
ああ、そういえば少しクリスマスの話も出てたっけ、今回は。


第三章 「神道指令」の法制化

しかし、その当時強制された実施形態が、必ずしもそのまま続くとは考えられていなかった。むしろ反対に、ひとたび日本が主権国家に回復すれば、きっとなんらかの修正が行われるだろうと予測されていた。
(p.83)

GHQの担当者の、自らの宗教政策の永続性についての基本的な見方。
序章で出て来た、マッカーサーの意向に従って、占領は数年で終わるという前提で考えていたという話とも、関連した話でしょうが。
それでいいのか?という感じもしますが、担当者たちの不干渉主義というか、原則提示主義というか、そういう基本的態度からすると、そんなものかなとも。日本人の首に縄はつけられんというか、水場までは連れて行くけど後はというか。
ただ残される方はそれでは収まらない部分もあって、そこらへんについては後で「宗教法人法」制定のあたりでも出て来ます。

憲法改正と宗教

日本国政府は、一九四五[昭和二〇]年の九月には憲法の改正が必要になろうとの認識は持っていたが、その改正が緊急を要するとは思っていなかった。この点では、連合軍最高司令官の意向を大きく取り違えていた。東久邇内閣の下で法制局が慢然と議論していたが、「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた大日本帝国憲法第二八条について考察した記録はまったくない。これはおそらく、幣原内閣の成立四日後の一〇月一三日に作られた憲法調査会において神社神道が問題になったときにはじめて取り上げられたのである。
(p.84-85)

まず信教の自由
これについては必要性自体は誰も表立っては否定しないし、旧憲法でも認められていはいた。・・・ただし制限付きで。
この"制限"を"制限"だと見なすかどうかに見解の相違があって、そこに緊急性の認識の違いが生まれていたということ。必ずしも悪意があるとか、占領軍に対して反抗の意思があるとか、そういうこととは限らない。
「東久邇内閣」というのは終戦後すぐに組閣された敗戦処理内閣で、理由については諸説あるようですが結果としてGHQの「人権指令」の実行を拒否して、総辞職した内閣。(Wiki)
従って次の「幣原内閣」の下で、本格的にGHQの諸改革は進められて行くことになります。(Wiki)
この書き方だとウッダード自身は、東久邇内閣を反動的な性格を持っていたと考えているように見えますね。

それはともかく。

しばしば繰り返された一つの提案は、神社から宗教的な要素を除去してはどうか(中略)というものであった。(中略)
神社は宮内省に移管して皇居の斎殿と同じ扱いにするとともに、国民が希望すれば表敬ないしは参拝できるように公開するという提案もあった。
(p.85)

続いて政教分離の問題。というかほとんどは、「神道」の扱いの問題。
前回("「神道指令」に対する反応"の項)言ったように戦前の日本においては、(神社)神道は"祭祀"であって"宗教"ではないとして、他の宗教とは法制度上も別枠で扱われていました。それと同じようなことを、また"提案"して来ているわけですね。「政教分離」を徹底せよという、GHQの意向に対して。
これもやっぱり、"反抗"しているとかではなくて理解の問題というか、本当に"祭祀"だと思っていて正直この方法の何がいけないのかよく分からないという、そういう実態なんだと思います。戦前戦中に行き過ぎがあったとはいえ、それが日本人の神道に対する基本的な感じ方であるというか。・・・ひいてはその背後にいる、天皇についても。
だから上で問題になった「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限についても、"国民の祭祀をないがしろにしない"という意味では、ある程度は当たり前のこととして、(信教の自由に対する)"制限"とは感じないという感じ方も、広くあるにはある。
勿論この条文がどういう事態を惹起し得るかについての法的想像力自体は、戦前でも十分に働き得ただろうとは思いますが。ヤバい条文には、違いない。

ちなみにこの際だからざっと説明しておくと、「神道の"祭祀"化」が明治においてどのように進んだかというと、最初にかなり強引な神道の国教化と神道の支配による他宗教の"手足"化が試みられ(大教院等)、それに対する仏教等の反撃と政策そのものの空洞性でそれらが破綻した後に、さりとて天皇信仰を中心とした国家体制という大方針自体は揺るがせられない条件下で、"特別"だけれど"実質"の薄い名誉職(「祭祀」)として神道を隔離したと、簡単に言えばそういうプロセスなんですね。
その時と今回に共通する政府の論理はつまり、「神道は"宗教"ではないのだから政"教"分離の問題には引っかからない」(あるいは他の"宗教"とは競合しない、国家が保護しても他宗の"信教の自由"は侵さない)ということですね。これは"誤魔化し"ではあるし"強弁"ではあるわけですが、戦前においてはある程度機能した部分はある。つまり前回の最後に説明したように、祭祀化された神社神道は布教等の積極的活動は禁止されていたので、他宗の直接的"競合"相手にはなっていなくて、その意味での「信教の自由」はあるレベルでは保証されていた。ただ神道の神話や教義が、"理論"として国家主義体制を支えてそれでもって個別の教団の弾圧や国民の思想・信条の自由を制限することにはなっていた。その"罪"をどう考えるかというか、その"罪"をどれだけいち宗教、「宗教教団」としての神社神道に負わせるか、そこらへんに今日まで続く論争があるわけですが。

で、GHQの立場がどうかというと、これは非常に原則論的というか徹底平等で、あくまでいち宗教として神道を扱う。国家からの保護ははく奪するけれど同時に最大限の自由も与える、つまり"祭祀"化という特別扱いそのものが神道の"自由"の侵犯だという立場なので、政府の動機はどうあれ、あるいは神道界の希望はどうあれ、日本側の案はハナから検討には値しなかった。それが「しばしば繰り返された」という表現に込められた、若干の苛立ち(笑)に込められているわけですね。
確かに"いち宗教"と見なしたからこそ、神道側が警戒していた伊勢や靖国等の「国家主義的」神社にもノータッチだったわけで、そういう意味では筋は通っている、公平だとは思います。ただあくまでそれは西洋的「宗教」観だというところはあって、それについては譲らなかった、歩み寄らなかったという、限界はあったかと。
例えば上の"提案"を見て、それでいいんじゃないかとか、現在も実質神社なんてそんなもんじゃないのかと思った人も、少なくなかったと思いますがどうでしょう。それくらい今も昔も日本人にとって「神道」というのは特殊というか、「宗教」という括りで見るのが難しい存在だというか。明治のいざこざも、言うなれば"宗教"ではなかった神道を"宗教"化しようとして失敗した、それで元の鞘に戻ったと、そういう見方も可能だと思います。
とにかく神道の扱い、または日本における「宗教」の定義の問題は難しくて、二大原則の内の特に政教分離については、この後もしつこく、混乱が続きます。

第三点は、第八九条の公金その他の公の財産の「公の支配に属さない慈善、教育若しくは博愛の事業」にたいする支出の禁止にかかっていた。
(中略)
第二には、保管林の制度によって多くの神社や寺院が国有林の保護と植林を行い、その代償として実質的な収入を得てきたのだが、これが廃止されるのではないかという点であった。
(p.89)

これは若干、こぼれ話的な。
余り意識されませんが神社や寺院は結構な広さの山林を国家からの委託を受けて管理をしている場合が多くて、その"管理料"やそこからのアガリが重要な収入源になっていた。それは見かけ上では"政教癒着"には見えるわけですが、そもそもその土地自体が明治になって没収された後改めて委託されたという場合が多くてかつ"保護と植林"の実効性も国家の直接管理では望めないほど高かったので、さあどうしようかという話。
詳しくは省略しますが、最終的にはこれはほとんど実質を替えずに寺社に渡されて、GHQにしてはかなり恣意的非原則的な政策運用をした分野になりました。


宗教法人令

宗教団体の国家管理を目的とした戦前の「宗教団体法」と、現在に至る「宗教法人法」の間に存在した、過渡的な宗教法制(1945.12月~1951.10月)。名前がややこしいので注意

バンスは、当時、「宗教法人令」の達成したことについてのコメントで、それが宗教集団を法人化するための諸手続きを自由化かつ簡略化したこと、法人化に政府の「許認可」を必要としないようにしたこと、および政府行政機関が宗教法人の内部組織や宗教活動にいかなる支配をもおよぼさないようにしたことを挙げていた。
(p.102)

法人化は届け出によったので、文部省は無審査で申請を受け付けるという方針を採用した。何百人といういかがわしい人びとが、よくても一般企業か、悪くすると超国家主義的な集団やあいまい宿が、「人類に幸福を与え、世界に平和をもたらす」というようなみせかけの格好をつけて法人を作り、租税の免除の特権を受けることができたのである。
(p.103)

まあそういうことです。あいまい宿って(笑)。(weblio辞書)
ちなみにソープランドは、言うなれば"あいまい風呂"ですね。(笑)
"「許認可」を必要としない"のならでは何を"届け出"させたのかというと、法人としての財産管理等の形式についてで、要するに一般企業と同じですね。「民法(財産法)でやればいいだろう」という、GHQの一貫した主張がここでも。


宗教法人法の制定

早くも平和条約の噂が広く流れはじめた一九四九年ころ、宗教界には、占領終了後の最初の国会がどんな態度をとるかについて強い不安を感じる者が多かった。
(中略)
人びとは一様に、満足のできる法律が国会で制定される確率は、占領終了後よりもその前のほうが高いという見方をしていたようだ。
(p.104-105)

上で言った、"残される者の不安"の話。
自国の政治家よりも、他国の占領軍・進駐軍の方が信用出来る。
まあ発展途上国などでは、今日でもよく見られる事態ではありますが。現代の日本を見ても時折・・・とかいうのはありがちな皮肉なので、控えておきますが。(笑)
"平和条約"というのはつまり、上の「宗教法人令」が占領期間中限定と、予め定められていたからですね。

その一方で。

文部省が初めて新しい法律の起草について打診してきた一九四七年の時点では、バンスは関心を示さなかった。彼は、宗教団体は民法を使うことができるし、そうすべきだと信じていたのである。
(p.105)

いつもの話。
ではなぜ宗教法人法制定の作業が始められたかというと、それは"不安"を感じていた宗教界からの強(た)っての希望に応えて。
まあ、民主主義ですから。

そうして始まった起草作業は、当初はGHQはオブザーバー的な立場に留まる予定でした。
そもそも常に、実作業は「日本政府」に委ねられていたわけで。しかし。

占領が始まってから四年も経過したという事実にもかかわらず、文部省によって準備された諸草案は古いパターンを守りつづけ、バンスやダイクを絶望的にさせる「宗教団体法」の表現と同じ表現を好んで用いていた。
(p.106)

政府は宗教に関与する権利と義務があるという日本政府の見解からして、すでに難問だった。(中略)官吏たちに納得させるのに、じつに長い時間がかかったのである。
最終的に、「宗教法人法」の第一条(この法律の目的)には、以下のように書かれている。
 第一条  この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、
 その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上
 の能力を与えることを目的とする。

(p.111)

"釘を刺した"、という感じですね。
まあ、どう、なんでしょうね。
文部省があえて逆らってるのか、反動的なのか。他の箇所での文部省も含めた日本の当局の協力の"積極"ぶりを見ると、やはりこれも理解と見解の問題に、どちらかというと見えます。"宗教"に関する、基本的な考え方の違い。諸宗教の自由な活動による"健全"な社会という、キリスト教圏的な社会観を、どうしても共有出来なかったのではないかと。あくまで一定の範囲で"許す"ものとしか、宗教の「自由」はイメージ出来なかったというか。
実は現代の我々の"宗教"観も、GHQのそれよりは当時の日本政府の方に、今もって近いようにも見えますしね。(政府からの)"自由"の原則については確かに敏感にはなっていますが、こと宗教については余り寛容ではないというか、隙あらば活動を制限したいという感情の方が、強く出るように思います。
あるいは当時のアメリカと今のアメリカ、更にはキリスト教社会とイスラム教社会との間にも、同じ"宗教尊重"社会どうしでも同一視出来ない違いがあるわけで。なかなか、難しい。

とにかく日本政府には到底任せていられないと判断したGHQは、主にそもそもの"発注元"である宗教界の代表者との困難な長い協議の末に、ようやく今日残る宗教法人法の起草・制定にこぎつけます。その内容については、特にコメントされていませんが。要は「国家による宗教の管理」というベクトルをいかに排するか、それだけが関心という感じ。目的はただ一つ、いかにして宗教団体にスムーズに法人格を取らせて、社会的地位を確立するかということ。
まあ(法人"令"以来の)法人格の取得資格の曖昧さや、租税減免措置など、どうも納得し難いところも多いゆるゆるの法律には僕にも見えるわけですけど。そもそもの目的意識関心の方向が違うので、説明の必要は認めていないよう。


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常井健一『誰も書かなかった自民党』 より ~自民党派閥史超速理解
2016年12月07日 (水) | 編集 |



副題に"総理の登竜門「青年局」の研究"とあるように、本自体は小泉進次郎"局長"によって有名になった自民党の政党内組織「青年局」(過去に竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三の各首相を"局長"から輩出)の歴史と役割の変化を追ったものです。
それ自体については今回書きませんが、読んでいる中で自民党史そのもののおさらいや現安倍政権に繋がる周辺情報として面白いものがいくつかあったので、紹介しておきます。


「自由」と「民主」、「本流」と「傍流」

親米派の元外交官である自由党総裁の吉田茂は、戦中に政党人が軍部に屈した反省から、幹部級の高級官僚を政界にスカウトして戦後改革を担わせた。それが「吉田学校」である。その代表格が池田勇人(大蔵事務次官)、佐藤栄作(運輸事務次官)だった。
池田は大蔵省の部下だった大平正芳宮澤喜一を率いて政権内に頭脳集団を形成した。これが現在まで続く宏池会(現・岸田派)であり、彼らが「保守本流」と呼ばれる所以である。(中略)こちらが佐藤派、田中派、竹下派と続いた、七〇~八〇年代の「キングメイカー」の系譜である。
(p.100)

モーニング連載中の池田勇人を主人公とした作品『疾風の勇人』



を読んでいる人には、最近俄かに(笑)お馴染みとなっているメンツの話。
あそこでは割りと単純に"権力闘争"としての党人派対策と、占領軍に対する理論武装として池田たちの頭脳を必要としたというような描き方になっていたと思いますが、その更に根底に、戦前戦中(の体制)への"反省"と"対抗"という意図があったと、そういう話。
まあ占領軍に対する感情的な反発はあっても、"改革"の目的自体は、確かに共有しているようではありますからねこの作品でも。個別の違いが強調されてるので、今一つ分かり難いところはありますが。

一方、GHQの命令で公職を追われた元自由党総裁鳩山一郎、岸信介、河野一郎らは復権後、自主憲法制定・再軍備を主張して一九五四年に日本民主党を結党した。(中略)右寄りの政党人が数多く糾合した。彼らは穏健な官僚派の保守本流に対する「保守傍流」というレッテルを貼られた。この流れが、金権政治と対峙した三木武夫、田中角栄との抗争(角福戦争)を展開した福田赳夫、「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根康弘に行き着く。
(p.100)

「自由党」「民主党」という語感からは今日余りピンと来ませんが、「自由党」の方があえて言えばリベラルで"穏健"、「民主党」の方は復古派でナショナリスティックと、そもそもそういう起源を持っていると。
「三木武夫」や「福田赳夫」の後のイメージにそういうものは見当たりませんが、それは彼らの直接の"敵"が自由党系本流が結果として形成した"金権政治"であったから。むしろ「中曽根康弘」の方が本来というか、先祖返りなのかという。(笑)

そんな自由党民主党社会主義勢力と対決するために呉越同舟となり、五五年に発足したのが自由民主党である。
(p.101)

つまり決まり文句のように言われる「憲法改正は自由民主党の党是」という言い方は、嘘ではないけれど若干トリッキーではあって、『自由民主党』としては確かに"民主党"を抱え込んだ時点でそうだとは言えるわけですが、しかし勢力的に「本流」であった"自由党"系列にはそれは無かったわけで、必ずしもそうではないという言い方も出来るは出来る。
別な言い方をすると、「社会主義勢力」というより大きな"左"に対しては自由民主党は保守・右ではあるのだけれど、その内部的"本流"にはそもそも"左"的な部分を持っていると、そういう構造。
そういう"与党"が戦後日本を導いて来たというのと、それだけこの時期、"社会主義勢力"が本気で強かった、脅威だったという話。


「青年局」と「右派」運動

草創期の青年局に携わった自民党参与の小安英峯は、「異端の系譜」を形作った指南役として、矢部貞治(政治学)、高山岩男(哲学)、大野信三(経済学)の名を挙げた。
矢部は三木の相談役であり、早川と中曽根、玉置の恩師でもあった。戦前は近衛文麿のブレーンとして大東亜共栄圏を構想し、京都学派の高山は、それを肯定した。(中略)二人は近代経済学者の大野を加え、五九年に共著『新保守主義』を自民党から出版する。
大政翼賛会の形成にも影響を与えた矢部は、自由な個人よりも結束した共同体が政府と協働する姿を理想としていた。
(p.103)

保守勢力が中央政界で上で言ったような妥協的な合従連衡を行なっている間にも、革新勢力は地方や若年層に着実に根を張っていて、自由民主党結党時点で相当の立ち遅れがあったとのこと。その対策・対抗として、若年層や地方の意見を吸い上げ勢力を結集する機構、党内"改革"勢力として作られたのが「青年局」であると。
上で言ったように党内の"本流"はやはり「自由党」系であったので、自然、そしてそもそもの革新勢力との対決という目的上も、特に初期において青年局の主導権は"傍流"であり"右派"であった「民主党」系の人材が担うことになったと。
・・・ただしこれは「党内政治」的性格も強い話であるので、必ずしも常に「青年局」が"右"寄りというわけではなくて、あくまで"時の"本流に対するアンチ・改革というのが、後になればなるほど基本性格になって行くので、例えばそれこそ小泉進次郎(青年局長)などは、後で述べるようにかなりリベラルな政治信条を持っていて、そこから執行部批判などもするわけです。

それはともかく。

党員一〇〇万人からの五倍増を目指して、過激な左翼運動と距離を置く全国的な青年団体に焦点を絞った。日本青年団体評議会や農協青年部、YMCA、日本青年会議所、ボーイスカウト、赤十字、各宗教団体である。
(p.105)

なんかもう、「青年」という言葉自体、使いにくくなるような感じがしますけど。(笑)
右にしろ左にしろ、必ず"政治"の臭いがついて来そうで。
ここで"宗教団体"が出て来るのが、面白いと言えば面白いところで。宗教、特に戦後の宗教なんてほとんどは(経済)"社会"批判とそこからこぼれた個人を救済することがお決まりの動機なわけで、本来どちらかと言えば"左"的本質を持っているはず。いつか書きますが戦前の教派"神道"ですら、大部分はそういう基本性格を持っているものなんですよね。それがこうして易々と"右寄り"に組織されてしまうのは、単純に言ってしまえば"過激な左翼"とその教祖マルクスが、宗教を完全否定してしまったからで、そこらへん、「平等社会」という本来の目的から外れたところでかなり足を引っ張ってるよなと、いつも思います。
そこらへんも含めて、「左翼」が「過激化」すればするほど、特に「右」でもない、ただの中庸的な団体たちが曖昧な共通点のまま("赤十字"って何よ?(笑))右寄りに組織され易くなり、更に特に宗教などはそうでしょうが、いったん"右寄り"に組織されるとその後はそのアイデンティティを固める為に更なる"右"化が進むと、そういう風景もある気がします。"左"じゃないから"右"。元々そこまではっきりした政治思想を持った団体・勢力が、このノンポリの国日本にそんなに発生する土壌があるようには思えないですし。
とにかくこうして、「宗教」と「自民党」(または与党)は結び付いて行くんだなと、その一端を覗き見た思いでした。


安倍晋三「青年局長」の出世

そんな埋没気味だった安倍を一気にスターダムに押し上げたのはなんだったのか。
安倍は局長在任中の九七年に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を設立している。(中略)平沼や中川、古屋ら青年局長経験者が主導し、現役局長の安倍は事務局長になった。
つまり、安倍を有名にしたのは従軍慰安婦や歴史教科書などの思想的な問題であった。
(p.170)

"埋没"というのは、ある時期までの安倍晋三氏は、同期の小此木八郎野田聖子塩崎恭久、後輩の河野太郎などと比べても、実はそれほど目立った存在ではなかったと、そういう話。
それが"思想"問題をてこにのし上がって行ったということの中には、一つは勿論、そもそも安倍氏がそういう思想傾向の持ち主であったということはあるんでしょうが、それはそれとして元々は安倍氏も「政策通の若手」グループの一員であって、別に単なる右翼ゴロではないということと、その一方で"思想"で出世したからには"思想"(とそれを押す支援団体)を強調はせざるを得ないので、本当のところの狙いは本音は、よく分からないというか単純に測れないところがあるかなという、そういう話。
結果右からも左からも、微妙に疑われたりしているわけですけど。(笑)

そして、こうした若返りの副産物として「次期総理」に浮上したのが、安倍晋三である。
(p.180)

"こうした"というのは小泉構造改革周辺の状況を言っています。それまで入閣歴も無かった安倍晋三氏ですが、前代の森内閣に続いて小泉内閣でも内閣官房副長官に起用され、その「構造改革」と協働することによって一気に序列を上げて地位を固めて、現在に至ると。

歴史上では党内野党の立場であることが多かった青年局だが、小泉と安倍の登場を機に政権が掲げる構造改革の親衛隊となり、反小泉の「抵抗勢力」と戦いを繰り広げた。
(p.186)

純一郎氏自身は青年局と関わりは持っていませんが、何せ"生きた党内野党"みたいな人で(笑)、それが何かの間違いで"与党"になった時に、安倍元青年局長を通じて青年局も構造改革に協力したと、そういう話。

(元)"若手の改革派"でありかつ"反動政治家"であるようにも見える安倍晋三氏の、「青年局」をキーとする曲折ある"生い立ち"の話でした。
ある種偶然に恵まれてというか、"いいとこ"取りで、上手いこと出世したようには見えますね。
同期である野田聖子議員が、"意地"を見せたくなる背景は理解出来たというか。あんなやつ、大したことないのにと、心中では思ってそうというか。(笑)


その他こぼれ話

誰もが知る「青年海外協力隊」は、実は竹下青年局の発案で創設された組織なのだ。
(p.108)

そもそも"竹下登の青年時代"というもの自体が、非常に想像が困難なんですが。(笑)
生まれつきお爺さんだったような気がしてならない。(笑)
とにかくそうなんだそうです。竹下登氏が青年局長だった時代に発案され、その後青年局が駆けずり回って、実現した組織。
要は「地方と繋がる」組織である青年局が、その「地方」の対象を「発展途上国」にも広げたと、そういうことですね。

「二一世紀になるころには、田中政治は反面教師になっている」
角栄は鳩山(邦夫)にそう言い聞かせたという。
(p.128)

1976年の発言。
"角栄伝説"、また一つというか。
まあ単純に「欲」で"金権政治家"になったとはとても思えない人ですから、自らの手法を"方便"として客観視する思考は、当然持っていたという話ですね。
ちなみにこの著者自身は某CS番組で、昨今の"角栄リバイバル"については「美化し過ぎだ」と苦言を呈していました。

ある日、棚橋は派閥の先輩である斉藤斗志二から呼び止められた。「誘い」とは、大統領のプーチン側近からの、自民党の政策決定システムを解説してほしいという話だった。(中略)
「プーチンの周辺は世界の主要政党を比較・分析していたようです。なかでも与党歴が長いのは日本の自民党だということになって、それでお呼びがかかったんです」(斎藤)
棚橋は斎藤とともにモスクワを訪ね、ときの与党「統一ロシア」でスピーチした。
(p.187-188)

"棚橋"ってプロレスラーではないですよ?(笑)。将来馳浩の後を追わないとは、限りませんが。(笑)
安倍氏の七代後の青年局長、棚橋泰文氏のことです。
まあ歴史のこぼれ話。その後プーチンの政権運営に、"自民党の政策決定システム"がどのように参考にされたのかは、よく分かりませんが。(笑)
このように対外的にも、「自民党青年局」というのはれっきとした"代表"として扱われる慣例があるという、そういう一例ではあります。


小泉進次郎「青年局長」の交遊録

最後にこの本が書かれたきっかけであり、遠くない将来の"総裁候補"とも目されている第44代青年局長小泉進次郎氏の、局長時代('11.10~'13.10)の興味深い"交友録"を、名前だけ列記しておきます。

乙武洋匡
湯浅誠・・・"年越し派遣村"
駒崎弘樹・・・病児保育、小規模保育、障害児保育に関するNPO法人フローレンス代表理事
開沼博
津田大介
堀義人・・・グロービス・キャピタル・パートナーズ代表パートナー
朝井リョウ・・・『桐島、部活やめるってよ』
古市憲寿
高島宏平・・・オイシックス代表取締役社長

松井孝治・・・民主党議員
平田オリザ・・・劇作家、演出家
佐藤尚之
内田樹
早野透
想田和弘・・・映画監督
今村久美・・・社会起業家、NPO法人カタリバ代表理事
(p.227~)

なかなか何というか、"政党内野党"感満載ですが。(笑)
池上特番で初めて進次郎氏の肉声を聞いた時は、その余りにも安倍政権と異なるところの多い主張に、なんだこれはやぶれかぶれなのかと思ったりしたんですが(笑)、この本を読んで「青年局」の伝統として、ある程度そういうものが許されているということが分かって納得しました。

まああれで意外と慎重・周到な性格の人のようですね、この本で描かれている姿を見ても。
同じ人気者でも、親父とか(笑)橋下氏とかとは、かなり違う感じというか。
分かりませんが。(笑)


こんなところです。


テーマ:政治家
ジャンル:政治・経済
ウッダード『GHQの宗教政策』/第二章「人権指令」と「神道指令」
2016年11月28日 (月) | 編集 |
(序&第一章)より。


第二章 「人権指令」と「神道指令」

「人権指令」

信教の自由の原則を確立するために連合軍最高司令官がとった第一のステップは、「政治的、市民的、宗教的自由にたいする拘束の除去」と題された一九四五年一〇月四日の「人権指令」の発令であった。
それは日本政府にたいして、「信教の自由の制限を負荷または維持するすべての法律、布告、勅令、政令、規則の廃止および信仰を理由として特定の個人を有利、不利に取り扱う条項またはその適用の即時停止」を命じた。とりわけ戦争遂行のために宗教を効果的に統制し、動員するために用いられた「宗教団体法」および悪名高い「治安維持法」は、とくに廃止の対象として指定されていた。
(p.50)

「神道指令」(後述)は有名ですが、その前にもう一つあったんですね。
内容はどこを見てもだいたい上の通りです。
とりあえずおさらいとして、「宗教団体法」とは。(コトバンク)より。
 宗教法規の整備統一を図り,宗教団体の地位を明確とし,保護・監督を強化することで,国家の統制下に
 宗教団体を置くことを目的に1939年(昭和14)4月8日に公布され,翌40年4月1日から施行された法律。

「治安維持法」は言うまでもないかも知れませんが、一応。
 国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。
 当初は、1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。
 とくに共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義
 等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。
(Wiki)

文部省の官吏たちは、「人権指令」の受領後、ただちに全力をあげてその命令の実行を開始した。関係法令の見直し、およびそのなかでの信教の自由を制限するものの洗い出しは、比較的容易であった。
(中略)
神道については本指令では言及されていなかったし、いまだ政府は、神社は宗教団体ではなく神社参拝は宗教行為ではないとする立場をとっていたから、神道にかんしては、なんらの行動もとられなかった。
(p.51)

まとめて何というか、非常に"フラット"に受け止められた様子が窺えると思います。
内容は言わば当然のものだった、つまり信教の自由も含めて本来は旧憲法下でも認められてしかるべきものだったので、法解釈的な困難は無く、ある意味官僚的に(笑)、粛々と遂行された。
下段についても含むところは無いというか、要は公式見解に従っただけであるし、この時点では神道のそういう位置づけに"問題"がある、"国家主義的"な偏向の可能性があるとは、実際のところほとんどの人は考えていなかったようです。

「宗教団体法」が廃止された後に、宗教団体が法人としてその法律上の地位を保全できるようにするための法案の起草は、かなりの難題だった。
民間情報教育局は、このために、代わりの法律や法令が必要だとは考えなかった。その見解によれば、それは民法で十分であって、法人たる宗教団体は、すべからく民法第三十四条によって法人になるべきだと提案した。
(p.51)

つまりアメリカでは実際に、民法に基づいてある程度一般的に宗教法人についても処理されていて、日本の(後の)「宗教法人法」のような専用の法律は無しでやっているということですね。日本でもそれでやろうとしたところ、宗教界はそれでは困るとここはかなり頑強に抵抗して、決着まで時間がかかったと、こういう話。
他の事では柔軟な著者(GHQ)も、"民法でいいのではないか"というのはぎりぎりまでこだわっていて、それはそれだけそれが当然だと思っていたからでしょうがそれゆえに少し記述が一方的で、この件に関しては宗教界との対立の実際はちょっと読んでいて分からなかったです。"対立した"ということしか書いていない。
一つの推測としては、前回も言ったようにアメリカでは基本的に宗教の社会的地位が高いので、一番問題となる宗教団体の税制上の優遇なども、さほど抵抗なく"付則"的なものの範囲内で実現出来る。日本の場合はそうもいかないので専用の法律で「これこれこういう理由で宗教活動は特殊だ」ということを明言しないとなかなか受け入れられない、宗教団体の"身分"が安定しないと、そんな事情があったりするのかなと思いますが。
特に根拠はありません。


「ビンセント放送」

国務省が日本での占領政策について説明する為に、NBCのラジオで質問に答えた放送のこと。"ビンセント"はその時のスポークスマンの名前。

ビンセント 神道にたいしては、それが個人としての日本人の宗教であるかぎり「占領軍」は干渉しません。
しかし、神道が日本政府によって指導されたり、政府による上からの強制の手段になっている場合には、それは廃止しなければなりません。国家神道を支援するために国民が課税されることはなくなるでしょうし、神道が学校教育のなかに位置づけられることもなくなるでしょう。国家宗教としての神道、すなわち国家神道は撤去されることになるでしょう。
(中略)
この面でのわれわれの政策は神道のみにとどまりません。どんな形をとるにしても、日本の軍国主義的および超国家主義的な思想は完全に抑制されることになるでしょう。
(p.54)

ほぼほぼ、アメリカ政府の立場を言い尽くしている感があります。何せ電波に乗ってますから、逃げも隠れも出来ませんしね。

それはともかく、

この放送は連合国軍最高司令官に向けた公式の政策にかんするステートメントではなく、アメリカ国民にたいして占領政策をわかりやすく説明するための広報活動にすぎなかった
(p.55)

とのことですが、いちいちこんなことを商業ラジオで一般国民に対して説明する機会を持つこと自体が、驚きに感じられます。"民主的"とかいうのもそうですけど、そもそも一般のアメリカ人は、そんなに日本の占領政策に関心があったんですかね(笑)。あるいは知識が。
いくら賠償金を分捕れるとかいう、話ではないわけですから。"シントウをどう扱うか"ですから(笑)。日本人と中国人の、神道と仏教の区別がついてたのかしらんとか思ったりもするわけですが、それとも当時のアメリカ人の民度、ないしは"敵"である日本についての宣伝・教育は、僕の想像を遥かに越えて進んでいたのか。

さてそれ自体としては明確なこのラジオ放送の性格には、実は微妙な面もあったようです。
つまり上にあるように"一般国民向け"のステートメントであったこの放送は、逆に言えば特に現地の総司令部(GHQ)に向けたメッセージではなかった(海を越えて聴かれるとは想定されていなかった)らしいんですが、同時に特段の相談も無しに行われたので、伝え聞いたGHQ側は政府国務省による遠回しな示唆ではないか圧力ではないかと、解釈に悩むところがあったとのこと。
基本GHQはかなり専権的に活動はしていたわけですが、当時の通信環境ではこんな感じのギャップ・時差は、ちょいちょいあったようです。
そしてそういう状況下でウッダードら現地スタッフが読解するに、国務省のステートメントとGHQの方針には、やや無視できない食い違いも見て取れたとのこと。
具体的にはこの部分。

第二点は、国家から分離されるべきものは神道のすべてではなく、彼が「国家神道」と名づけたものに限られていたということである。このことは、干渉の理由がかつて国家神道が日本の「超国家主義および軍国主義の普及」の一因になったことによるものであって、政教分離の原則にたいする理論的な関心によるものではなかったことを示している。
この点に関連して、ビンセント放送が、信教の自由にも政教の分離にも全然触れなかったことに注目すべきである。
(p.56)

つまりGHQが、はっきりと「信教の自由」と「政教分離」という"原則"の明示・適用を大きくテーマにしていたのに対して、国務省側はもっと実利的に、要は国家神道の影響力を消し去って日本を無害化出来れば良いと、そういう考えにとどまっていたと、ウッダードは言います。
・・・正直に言うと示された文面だけ眺めていても、僕にはそこまでは読めないんですけどね(笑)。恐らくは日々の本国とのやり取りの中で感じていたギャップを、あるいは他の根拠も併せた形で、ウッダード(たち)はこの放送を読み込んだということなんだろうと思いますが。
別な言い方をすると、あるいはまとめて状況を整理すると、本国の当然と言えば当然の、「いかに日本の占領統治をつつがなく進めるか」という関心を越える形で、「いかに日本をいい国にするか」という目標・理想を、現地GHQは抱いていた燃えていたということ。だから"原則"を大事にしたいわけで。
逆に理想主義的過ぎる、"左"過ぎる、理論的に先端過ぎるとも言われたりしますが。その後の「日本国憲法」の内容も含めて。
ただまあ読んでいて湧き上がってくるのは、素直に感謝の気持ち、ウッダードたちの情熱と誠意と忍耐強くバランスの良い知性に対する尊敬と感動の気持ちですね、前回もポロっと漏らしているように。(笑)
やはり、いい時にいい国のいい人たちに出会えたなあ日本はと、そう思ってしまうんですが。

たしかに戦争の終わりにいたるまで政府は神社を統制していたし、ある程度、神社参拝を強制していたが、こうしたやりかたも、神社神道を呼吸と同様に当然のものと受け止めていた数千万の日本人の宗教的な信仰に影響を与えることはできなかった
(p.56)

同じ項に書いてある、戦時中の日本の(神社)神道に対する理解ですが。
随分よく分かってるなあというか、分かってるからこそ、神道そのものを滅ぼすという施策は、最初から取る気が無かったんだろうなという。単に「国家との結びつき」や「国家神道の戦争責任」という、事実論的刑法論的な区分けにとどまらず、「国家神道」化しても損なわれていない、日本人の(広義の)神道・神社への信仰の、本質的なところ実際のところを、驚くほどよく理解している。
仮にもカソリックの宣教師だった人が。だったからかも知れませんが。いち「キリスト教」の教義・見解を越えて、"宗教"に真剣で敬虔な人だったんでしょうね。


神社の組織化

一九四五年の九月には、神社は、直面した危機を処理するために必要な組織を欠いていた。数十年にわたって、神社は政府機関によって管理され、その問題を処理してもらってきていた。
神職たちは自分たちの全国組織を持ってはいたが、神社の全国組織はできていなかった。
(中略)
一九四五年の秋から一九四六年の初めにかけて「神社本庁」という一つの組織を設立した。
(p.57-58)

「神社本庁」については、既に一回説明しているのでそちらを。
まあ要は国家神道制度の廃止で官の方にあった取りまとめ組織が無くなってしまったので、代わりに作った組織。ミニマムには。
"神社"にはないが"神職"の方にはあったというのは、戦前の「全国神職会」あたりを指しているんだと思います。ここらへんの神道界の細かい動き・変遷については、興味深いところもあるので後日まとめて紹介する予定です。
ちなみにこの"組織化"を、著者はかなり好意的なニュアンスで記述しています。「ちゃんと組織が出来て良かった」という感じで。ちょっと驚きというか、単に神道が好きなのかなと思わないでもないです。(笑)

彼らの考えの一つに、西欧諸国においては伊勢皇大神宮こそ「カミカゼ精神の根源」という世論が広がっていて、その処分は「占領の最重要課題の一つ」なのであろうというものがあった。
(p.58)

伊勢神宮へのこだわりは神道界の終始一貫したもので、かつ終始一貫、GHQ側はさほど重視していなくて温度差があります。要はいち宗教としての神道の"教義"の問題としか考えていないよう。そこへの不干渉という大方針については、前回説明した通り。
ただ「精神の根源」への攻撃への警戒心、あるいは西欧側の"警戒心"の存在の認識については、本質的には神道側は外してないように思います。"本能"的にというか。ただそれが、「伊勢神宮」をめぐってのものではなかっというだけで。
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ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道 ~GHQの宗教政策』(序&第一章)
2016年11月21日 (月) | 編集 |
ウッダード『天皇と神道』.jpg

W・P・ウッダード『天皇と神道―GHQの宗教政策』(1972)


神道を中心とするGHQの日本の宗教に対する政策を、当事者の立場からまとめた貴重な本。
引用したい箇所をコピーしてみたら結構膨大になって震えてますが、来季の開幕くらいまでには、終わらせたい希望です。(笑)

[ウッダード氏略歴]
1896年ミシガン州生まれ。ニューヨークのユニオン神学校を卒業。日本への宣教経験あり。
1946年からGHQ民間情報教育局宗教課調査スタッフとして占領軍の宗教政策の実施に当った。

さらに、ウッダード氏は、本書の執筆に先立って、占領期に宗教の分野の出来事に影響を与えたさまざまな意思決定に参与し、もしくはこの問題の解明に役立つ情報をもつほとんどすべてのアメリカ人および日本人を見つけだして面接した
(p.14 同上宗教課長ウィリアム・K・バンスによる添書き。1970年)

まあそういう人のようです。
では行きます。



まえがき より

アメリカ軍の日本の宗教にたいする関心は、たしかに尋常ではなかった。
宗教をふくむ現地の習慣の尊重は軍政の基本であって、被占領国の宗教への妨害はいうにおよばず、介入といえども米軍の規則によって禁止されていた。
しかるに占領軍は、上陸のほとんどその日から、宗教の分野でさまざまな問題に直面し、問題状況は一九五二年四月の占領終結にいたるまで継続した。
(p.18-19)

へええ、そんな規則が。
「略奪・暴行の禁止」くらいなら規則化されてそうではありますが、そんな部分についてまで単なる"方針"ではなく、"規則"になっていたとは驚きです。そんな(異文化への)デリカシーを持っていた国がなぜ後に"ベトナム"を、とは思ってしまいますが、まあ20年も経つとアメリカも別の国になっていたということか。
・・・余談ですが最近読んだ別の本で、米軍が(南方の)日本軍の"ゲリラ戦術"をいかに警戒して対策をマニュアル化していたかということが書かれていて、そういう意味でも"ベトナム"の時は、第二次大戦時に蓄えていた知識見識が上手く伝承されていなかったんだろうなということは、推測出来る気がします。
本題に戻って、つまりそういう自軍・自国の"原則"を破ってまで、アメリカは最初から日本の"宗教改革"にやる気満々で、占領に臨んで来たということ。それはなぜかと言えば、太平洋戦争を導いた日本のいわゆる"国体"の問題、「国家神道」という言い方で広く知られる問題を、アメリカは最初からかなりピンポイントで捉えていた、単なる「宗教」一般の問題とは見ていなかったということです。そのことが、この後語られます。


序・日本占領と国家神道の解体 より

神道を国家から分離した理由は、神道の教義が世界平和に敵意あるものであり、日本の超国家主義、軍国主義および侵略主義も国家神道のカルトに根づいており、それによって精神が汚染されているという連合国指導者たちの理解によるものであった。
連合国の指導者たちは、右翼過激派が国民を洗脳し、天皇を制御する権力を獲得し、法律を支配し、教育を統制し、宗教を管理し、日本国を全面的崩壊の淵に追いやったのは、現津神(あきつかみ)たる天皇、神国、神の地などの概念を中心に作られた国家神道のカルトによったと考えたのである。
(p.6)

("アメリカ"ではなく)"連合国"指導者という言い方については、後のポツダム宣言の項を参照のこと。
ポイントが2つ。
1つ目は、単に国家神道を軸とした挙国一致体制が戦争を"可能にした"というだけでなく(現代の我々の一般的理解は恐らくこれ)、「神道」の"教義"自体が、既に「世界平和に敵意ある」ものと認識されていたこと。
2つ目は、そういう戦前の日本の国家体制の実態を、「右翼過激派」つまり一部の専横・扇動者が担っていた、そういう性格の強いものとして認識されていたこと。本当に悪いのは"一部"の奴だと、そう見なしていたこと。
だからこそ、「天皇が免責される」ということも後に起きたのかも知れないですね、本来ならあり得ないですが。

さて1つ目ですが、「神道」(の教義)と言って我々が知っているのは、森羅万象に神が宿っていると見るとか、そこから自然との共生や素朴で素直な心持ちを良しとする価値観とか、後は伊勢神宮=天照大神とその子孫とされる天皇家への漠然とした敬意とか、せいぜいがそれくらいでしょう。3番目を強調し過ぎたのが戦前の社会だと認識したとしても、それが即ち「世界平和に敵意ある」ものとは、とても見えないわけですが。
だからここで言われている"神道の教義"とは、そういう伝統的普遍的なものではなく、以前「秘教化」としてまとめて紹介した、近世・近代に様々な思想家が過激化させた、日本が特別な国であり、神である天皇の元世界征服・世界支配の使命及び権利を有しているという類の、一つ一つは馬鹿馬鹿しいとしか思えない、いくら何でも一国がこんなもので導かれたとは俄かに信じられない、そういう思想のことなわけですね。正直紹介している時は、僕も「民間ではこんなことを言っている吹き上がりもいた」くらいにしか認識していなかったわけですが、連合国側ではそれらをしっかり知っていて警戒して、あまつさえ日本の戦争の"主因"に近いものと認識していたらしい。・・・確かにこちらの高橋信次氏の証言などを見ると、れっきとした神社の"神主"が、そういうトンデモ思想を普通に口にしている風景があったらしいことは、伝わっては来ますが。
勿論「八紘一宇」という言葉は広く知られていて、その"八紘"に「世界」という意味合いがあるのは確かですけど、実際に使われたのは"アジア解放"のスローガンとしてであったので、文字通りの「世界」というよりは「みんな」くらいのニュアンスで、戦後の我々は受け取っているのではないかと思います。

多少いくら何でも「日本の世界征服」をマジに受け取り過ぎではないかと思うところもなくはないですが、とにかく随分日本のことを、事前に、戦争中から、研究していたんだなということは改めて思いました。なお範囲的には次回になるかと思いますが、そうした知識が必ずしも一部研究者だけではなく、アメリカの一般国民にもそれなりに共有されていたらしい様子が窺える場面が出て来ます。
2つ目の「右翼過激派」の更なる描写は、後程。

更に「国家神道」についての整理・定義が続きます。

「近代的な意味における」国家神道は、明治維新の初期に、神社が国のものとされたときに出現し、一九四六年、政府による神社の管理が終焉したときに消滅した。
(p.8)

"制度"論としての、国家神道のミニマムな定義。その内容は別にして、国家の管理及び庇護の対象とされ、半ば役所化した明治から戦前にかけての神社神道。

「国体神道」は、天皇が現津神であり、天皇と日本の国土および国民は一つの神聖かつ不可分の存在であると説く神道の神話にもとづく政治哲学的な信念の体系である。(中略)
国体神道の信奉者は神社の崇敬者(中略)であるが、神社の崇敬者すべてが国体神道の信奉者ではない。
(p.8)

「国体神道」とは聞き慣れない言葉ですが、上で「世界平和に敵意ある」とされている「神道」、そこにほぼそのまま当てはめていい概念でしょうね。特殊な観念性、誇大妄想性を持った神道。よりミニマムには、「国体」という概念を伴った神道(思想)。・・・"国体"そのものについては、多分後述。
こちらは"教義"の問題であって、"信奉者"という言い方にはやはり少数の特定の思想家が推進したというようなニュアンスがあると思います。"神社が""(神社)神道が"やったというより。
ただその影響が、「国家神道」というシステムによって、一般化されたという。

「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは、神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない。そうだったら、連合国軍最高司令官は、神道を全面的に廃絶しなければならなかったはずである。
(p.9)

「国体のカルト」は、著者の造語です。
今までの言い方を使えば、国家神道制度によって国家と接合された国体神道思想が、ほとんど一国丸ごとを蔽って国ぐるみの"カルト"を形成した状態。・・・ナチスドイツのように。そうは書いてませんが。
ナチスが一応ドイツそのものとは切り離されて断罪されたように、日本の"国体のカルト"も日本そのものとは切り離され、その解体によって一応の断罪はなったと、そういうことですね。
まあここで問題となっているのは、「日本」を救うことではなくて「神道」を救うことですが。神道、少なくとも伝統的な神社神道は、"国体のカルト"の一部を形成してしまったが、そのものではない。あるいは"国体のカルト"は神道をバックボーンとはしているが、神道の一種ではない。様々なものの、特殊な結合状態である。
だから国体のカルトは解体の必要はあるが、宗教としての神道を廃絶する必要は無い。再び国家と結び付くことは許されないが、一宗教としての存続は、"信教の自由"の範囲の問題である。
やや雑な比喩を使うと、(アーリア人優越思想の背景となった)ゲルマン神話が廃絶されなかったように、神道(日本神話?)も廃絶はされなかったということですかね。
・・・ただし"一思想"として説かれていても、「国体神道」はペケのようですね。だから新宗教の教祖谷口雅春の『生命の実相』は、一部削除命令を受けた


(ポツダム宣言と宗教政策)

"無条件降伏について書いてある"としか正直僕も知らなかったポツダム宣言の13条にわたる条文の内、日本の占領政策宗教政策に、深い関係があると著者が示している部分。(ポツダム宣言Wiki)

第10条
日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。

"信教の自由の樹立を要求している"。(p.12)

第6条
日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する

"宗教界におけるパージを示唆している"。(p.13)
若干我田引水っぽい気もしますが(笑)、日本がこうした条文を含む"宣言"を受諾したのは確かなわけで、GHQの「宗教改革」の、一応の"法的根拠"とは言えるかも。
まあ何か無いと、形式的にまずいでしょうし。

それはそれとして、また出ましたね"世界征服"。(笑)
うーんという感じはしますが、実際書いてあるんだから仕方がない。(しかも"受諾"している)
アメリカ一国との戦争の物理的不可能性にひいひい言っていた身としては、正直何のことやらというところはあるわけですが、一つには勿論、日独伊三国同盟を通じて形の上では「世界」と繋がっていたこと、それから開戦初期にはイギリス領やオランダ領を奪い取り、後にはアメリカとそれなりに真っ向から戦ったことは恐らくは我々が思う以上に、白人社会にはインパクトが大きかったのでしょう。そんな有色人種は他にいませんしね。それが「"世界中"を相手に戦争を吹っ掛けた」という"評価"に繋がり、かつ国内で言われていることを見れば八紘一宇だ何だと、確かに「世界征服」を宣言していると取れる言論がはびこっている。
ならば・・・というか、言ったことには責任を持てというか、そういう感じですかね。俺たちの世界では、言葉には一つ一つ責任が伴うんだぞというか。
とにかく連合国側の一応の「公式見解」として、"世界征服を目指している国家・日本"という定義は、これを見る限り存在していたようですね。いやあ、なんか照れ臭いぜ。

第12条
日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合占領軍は撤退するべきである。

占領終了の時期。実は明示されていなかった。
 ・一世紀くらいは占領しつづけるべきという人々も。
 ・小崎道雄(牧師)「二五年くらい続けるべき」
 ・マッカーサー「数年で終わらせたい」
(以上、p.15)

結果としてマッカーサーの腹一つで、短期終了の予定で占領行政計画は立てられ、それを見越してGHQの宗教政策も決定されたということ。

序章はここまで。
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武田知弘『教科書には載っていない!戦前の日本』
2016年10月25日 (火) | 編集 |



「国家神道」絡みで読んだ本ではあるんですが、内容的には"トリビア"程度で、「読書日記」向け?
何かの時に、参考になるかもなというくらいの話。
さくさく行きます。


家族

p.142-143

戦前の家族制度では、「家の存続」が第一に考えられた。(中略)
これらの家族制度は、江戸時代の武家の家族制度を踏襲したものだった。
そのため、制定当初から「時代遅れ」だとして反対する意見もあった。
旧民法の起草に携わった法学者、梅謙次郎自身も「家族制度は封建の慣習であって到底、今日の社会に伴わないので、二、三十年後には廃止すべき」と主張していたほどである。

"戦後"の観点から見て"時代遅れ"な"戦前"民法が、その時点でもそれよりさらに前の"江戸"との対比において既に"時代遅れ"とは。つまり"戦後"から見ると二重に時代遅れということになるというか、現民法成立までは"江戸時代"の民法でやってたということ?(家族法については)
ちなみに"現"民法とは言っても別に憲法のように新しく作られたわけではなくて、明治29年以来の「旧民法」を、新憲法の趣旨に従って部分的に改正したものを、今でも使っています。
また上の"梅謙次郎"云々について補足すると、ああ書かれるといかにも梅氏が旧民法に反対しているようですが、「民法典論争」と呼ばれる旧民法制定・施行時に巻き起こった大論争においては、梅氏はむしろ推進派です。"反対派"はそもそも西洋式に「法律」化すること自体が、"日本古来の超法規的原理"としての家父長制を限定化し、揺るがすものだと、そう反対しているんですね。(笑)

p.145

戦前は早婚だったと思われている。だが意外とそうではなかった。(中略)
明治初期はたしかに婚期は早かったが、その後になって晩婚化が進み、昭和15(1940)年頃には、男性28歳女性24歳が初婚の平均年齢だった。現在と比べてもとりわけ早かったというわけではないのである。

へえ。へえへえ。
"見合い"が基本、かつ上にあるように家長の管理下という条件付きではありながら、既に「三高」志向的なものや、それによる「晩婚」化のような問題も起きていたということ。


デパート

p.171

デパートの登場は、日本の小売業の形態を大きく変えた。
それまでの日本の小売店は、特定の品物だけを扱う専門店ばかりだった。
その販売方法は独特で、店に行っても商品が陳列してあるわけではない。客は自分の欲しいものを店員に伝え、それに見合ったものを店員が奥から持ってくる、という実に回りくどい方法をとっていた。
しかも、商品には値札がない。店員は客によって値段を上下し、お得意さんには安く、一見さんには割高で、ということが公然と行われていた。
しかし、デパートの登場によってそれは変わった。

ほんとかしら。
"デパート"と"専門店"の対比は分かるんですけどね。今日でも"大型スーパー"と"商店街"というような形で、日々目にしているギャップですから。
ただここで言われている「日本の小売店」の"販売方法"が余りにも原始的というか、そことデパートとの間の"ジャンプ"が激し過ぎるので、にもっと何か色々あるんじゃないかとは、どうしても思ってしまいます。
とりあえずまあ、今日では「恐竜」産業扱いされている日本の"デパート"が、ある時期最先端であった・・・それは単にラグジュアリーということではなくて本当に革新者であったというのは、見える気はします。

・・・Wikiを見てみると、(欧米の)百貨店が「定価販売」を始めたこと、(三越・高島屋等の呉服系の)百貨店が日本における「陳列式」販売の走りになったことが、確かに書かれていますね。ほんとにそうなんだ。
上の"疑問"とすり合わせをするとすれば、今あるような完成された形態の"デパート"を考えるのではなくて、その移行形態というか"プレ"百貨店みたいなものをイメージして、それが"間"を埋めていると考えると、収まりがいいような気がします。特に日本の場合、"デパート"ありきというより「呉服屋のイノベーション」として始まったというような解説がされてますから、それがある程度漸進的に移行してやがて"デパート"という完成モデルを見出したと、そういうイメージ?

p.172-173

日本のデパートには、欧米のデパートにはない独自の文化がある。
それは、家族連れで買い物をする、ということである。
昭和初期にパリのデパートを調査した三越社員のレポートでは、「デパートの客の99%は婦人客であり、日本のように家族連れでくるのはクリスマスのときくらい」だと報告している。また、当時のヘラルド・トリビューン紙の記者も、日本のデパートが家族全員を顧客としていることに驚いた、などと語ったという。

これはほんとにトリビア。(笑)
"三越社員"の口ぶりからすると、やってみたら「家族」が集まって、その後改めて欧米視察してみたら全然違うんでびっくりしたという、そういう流れでしょうか。
日本の百貨店Wikiを見ると、欧米でも日本でも、巨大で豪華な建物によるラグジュアリーな空間として同じく基本的には成立したものの、一方で日本については「大量販売による廉価販売」という側面も強くあったと書いてあるので、その流れで家族が気楽に遊びに来る"そこそこ"の場所に収まったのかなあとは一応思いますが、どうして先行した欧米ではそうならなかったのかは、ちょっと分からないですね、そこらへんの構造は同じに思いますが。
"家族"で行く場所自体がそもそも日本は少なかったので、同時にそれも担った、とか?


ハチ公

p.179

この記事にもある通り、除幕式にはハチ公自身も参列している。

そうなんだ。
今ならば、SNSで拡散されまくりでしょうね。(笑)
ちなみに渋谷のハチ公像がつくられた経緯としては、新聞記事等でアイドル的人気を博していたハチ公をだしにして、怪しげな便乗商法が流行りまくって、その流れで銅像まで作られそうになったので、有志がもっと「正式」なものをということで、急いで作られたという話。
ハチ公オフィシャル。(笑)


日本人移民

p.233

他国の移民たちのようにギャンブルで身を持ち崩したり、闇社会に沈んでいくようなことはほとんどなかったといわれる。アメリカでは、移民たちによる犯罪集団がしばしば生まれているが、日本人移民によるギャング団というのは、ほとんど見られなかった。

日本人移民は真面目だったという話。
そう言えば"ジャパニーズマフィア"って、比喩以外では聞きませんね。("イタリア"や"アイルランド"はあっても)
「マフィアvsヤクザ」とか、リアルにあったら絶対映画化されてそうですもんね。(笑)

p.233-234

しかし、日本人移民たちはその勤勉さと閉鎖性が災いして、現地の人々からはあまりよく思われていなかった。(中略)
そのため、国によっては日本人移民の受け入れを拒否するところも出てくるようになった。

むしろ"マフィア"でも形成した方が、土地への馴染みとしては有益だったのかも知れない。
"日本人移民"と言えば戦時中のアメリカでの強制収容の話が有名ですが、排斥されたのはアメリカでだけてはなく、かつアメリカでのそれも戦争が起きて急にというよりは、その前からじりじりと進行していた果ての話という面が、あるということ。


徴兵(逃れ)

p.241

当時の北海道や沖縄では、労働力を確保する必要から徴兵を行っていなかった。(中略)
夏目漱石も、徴兵を避けるために本籍地を北海道にしていたという。
(中略)
映画監督の黒澤明は、徴兵検査の担当官がたまたま父親の教え子だった。そのため、彼は徴兵を免れている。

まあ、軽くゴシップ的な。(笑)
夏目漱石の時代で、既に徴兵制があったのか。
まああったんだろうけど、あんまりイメージ無いですね。やはり昭和の戦争時の"赤紙"のイメージが強烈。
・・・その前の戦争は"勝った"から、あんまりネガティブイメージが伝わってないということかな。

p.242

もっともシンプルな手段は、逃亡である。これは"行方不明者"にならなくてはいけないため、社会生活上、大きな制約を受けることになった。それでも「兵隊に行くよりはマシ」ということで、この方法をとる者が絶えなかった。
(中略)
より極端な方法に「犯罪を起こす」というものがあった。
徴兵令では「6年以上の懲役、禁固を受けた者は徴兵しない」決まりだった。(中略)満州事変以降、国内では刑期6年前後の犯罪が急増している。

みんながみんな、心からお国の為に勇ましく戦地に赴いたとは勿論思っていませんでしたが、ここまで広範に徴兵逃れが試みられていたとは、思っていませんでした。
逆に「戦前戦中」の日本の代名詞的な"非国民"的圧力は、ある時期まではそこまで強くはなかったということ。
・・・むしろ"SNS"時代の方が、ニュートラルには徴兵逃れは難しいかも知れませんね(笑)。情報網的にも、道徳的相互監視傾向的にも。


以上です。
なんか久しぶりに"軽い"本で、逆に不思議な気分でした。(笑)


テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』
2016年09月14日 (水) | 編集 |




タイミングが悪い。
ついでに書名も悪い。(笑)
でもまあ、いい本だと思いますよ。面白かった。

舛添氏が全面的に関わった'05年の自民党の「新憲法草案」、左側・護憲派からも比較的評判が良く、バランスの取れたものと評価されたらしいそれが作られたプロセスを、氏の離党後の'12年、自民党野党時に作られた悪名高い「自民党憲法改正草案」を批判しながら、違いを説明しながら、描写した本。
2014年2月刊。惜しい(笑)。いい仕事したのに。

当然憲法自体の勉強にもなりますし、政界の内幕ものとしても結構面白いですし。
ブログのカテゴリーとしては「国家神道」シリーズとして整理してますが、そこまでピンポイントではない。
ただあの'12年「憲法改正草案」に表れている国家観社会観価値観の大幅な変更(または顛倒)の背景としては、そうした宗教勢力の影響は当然考えられる・・・というよりもあれにびっくりしたからこそその「背後」が気になったわけで、そういう意味ではこれはこれでこれまた、"本命"的なテーマではあると思います。

では以下。
まあ学術書というよりも、折々解説を加えつつの言ってみれば「体験記」的な本なので、要約ではなくて個人的に面白かったところを抜き出す形で。


p.3

一読して驚いてしまった。右か左かというイデオロギーの問題以前に、憲法というものについて基本的なことを理解していない人々が書いたとしか思えなかったからである。しかも、先輩たちが営々として築いてきた過去における自民党内での憲法論議の積み重ねが、全く活かされていない。

太字強調は著者による。'12年案を初めて読んだ時の感想。
ある意味"うるさいOBの小言"のテンプレ("'12年販"の作成者はそう思ってると思う笑)っぽくはありますが、これが全てと言えば全て。
"イデオロギー以前"、"憲法の態をなしていない"というタイプの酷さ。
ただまあ、作成者たちの(内の最右翼の)内面を僕が想像するに、彼らは恐らくイデオロギー"外"なんだろうと思います。そもそも"イデオロギー"という言い方自体、左的と言えば左的ですからね。
「理屈」じゃないんだ、「自然」なんだ、これが天然自然の理なんだと彼らが思うものを、"憲法"という体裁に押し込んでいるという。
更に言えば、本質的には「憲法」自体、必要だと思っていないんでしょう。目の前に「憲法」という壁が実際にあるから、それを"改正"する必要があるから、当面そういう形態を取る必要があるだけで。

p.79

宮澤(喜一)氏と私は、憲法改正についての考え方で共通するところが多かったが、いつものことながら、該博な知識を背景に頭脳を超速度で回転させて議論を展開されるので、お相手するのは疲れる

宮澤氏が大秀才である切れ者であるという描写は、例えば現在モーニング連載中の『疾風の勇人』にも出て来ますが、我々が知る微妙に弱腰の品のいい"おじいちゃん"の姿からは、なかなか実感しづらい話ですね。(笑)
でも他ならぬあの舛添要一が"疲れる"とまで言うんですから、ほんとにそうなんでしょうね。(笑)

p.89

○スペイン憲法
第56条 国王は、国家元首であり、国の統一及び永続性の象徴である。
○カンボジア王国憲法
第7条 1. カンボジア国王は、君臨するが、統治しない
第8条 国王は、民族の統合と永続性の象徴である。

自民党の担当議員たちが'05年憲法案を作成する作業で、実際に使われた参考資料の一部。
聞き覚えのある文言がちらちらと。(笑)
平成天皇は初代"象徴"天皇として孤軍奮闘苦心惨憺しておられる印象ですが、実は現在では意外とポピュラーな概念なんでしょうか。
スペイン憲法は(現行憲法のことなら)1978年、カンボジア王国憲法は1993年に出されたもの。

p.110

○九年夏の総選挙で、自民党は野に下ったが、このときに残念ながら、葉梨(康弘)氏や早川(忠孝)氏、船田元氏などリベラルな議員が大量に落選した。また与謝野氏や私も離党したが、その後の野党・自民党が作成したのが、右派色の濃い一二年の「第二次草案」である。
(中略)
 一三年の秋に石破衆議院議員と会ったとき、一二年の自民党内での憲法論議について尋ねてみたが、安全保障の専門家である石破氏は、「第二次草案」の審議には加わっていないと語ったので驚いてしまった。(中略)
「第二次草案」の出来栄えが総じて悪いのは、このようなエキスパートが参加しない形で、憲法学の素養にも欠け、右派イデオロギーで凝り固まった議員たちが主導して作成されたからではあるまいか。

"リベラルな議員が大量に落選"したのは、"大量に落選"した中に"リベラルな議員"がたまたま多く含まれていたのか、それとも逆風の中で支持母体の弱い(又は民主党議員と支持層のかぶる)リベラル議員が、特に大量に落選したのか。
いずれにしても、政権を失うことで"国民政党"の包容力を失って、あるいは"弱者"化して"純粋"化して、より戦闘的になった自民党が再び政権を取り返した結果が、現政権現自民党であるということなんでしょうね。ある意味では、自然なことかも知れない。元々そういう政党として("改憲"を党是として)、結党されたわけではあるんでしょうから。
民主党政権が真に日本に与えだ"ダメージ"は、こちらかも知れない。自民党を保守化させたという。寝た子を起こしたというか。

p.116

 以上が立憲主義の基本的な説明であるが、そのことをよく理解していない国会議員は、そもそも憲法改正論議に加わる資格がない。
しかし、現実には、その場の思いつき程度のことを堂々と述べる議員のなんと多いことか。自民党の「第二次草案」を読んだかぎりでは、近代立憲主義憲法について理解していない議員の数が、○五年よりも増えているのではないかという印象を持ってしまう。

一文目はいかにも、学者的な"正論"ではあるんでしょうが。
しかし二文目は、恐らく正に実態だろうと想像します。
「ウチの選挙区にも新幹線の駅を作れ」とねじ込むのと同じ次元で、憲法に自分の好みの条文をねじ込もうと、後先考えずやいのやいの言って来る。通ればラッキー、自分の手柄的な。
"議員の質の変化"については、前の項で言った通りで、当然の成り行きでしょうね。

p.126

 自民党の政策決定過程では、たとえば、政務調査会の各部会で、そのような審議が行われ、役人や利益団体代表などの意見をよく聴取する。しかし、憲法改正の議論については、仲間の議員たちの意見の開陳のみである、元気のよい議員、雄弁な議員、時局におもねるような議員の意見が優先されがちなのである。

まあ文字通りの問題としては、じゃあ憲法の改正を「利益団体代表」の意見を寄せ集めて作っていいのかという問題はありますが、ここで言われてるのは"仲間の議員"で決めてしまっていいのかという、問題提起でしょうね。"集まり"の性格がそういうものになると、どうしてもいつものように、声の大きい奴の勝ちになるという。
そもそもを考えると、憲法改正の「発議」を国会議員がやるのは、手続き上仕方がないとしても、だからといって憲法案を"作る"主導権が議員にあるのは、どこまで妥当なのかという。
じゃあ誰がやるのかと言われるとそれはまた難しいんですが、恐らくは本質的には、その問題について関心や知識のある人たちがそれぞれに"案"を作成して持ち寄って、それを議員が"代表"して発議(かそれ以前の検討の俎上)に持ち込むというのが、本質的なプロセスなのかなあと。
個別法ではないので、言わば「思想」のレベルに属する問題なので、"みんな"に資格がある。本来は。
知る限り明治憲法の場合は、そもそも"憲法"自体を知っている人が限られていましたから、明治政府内の特に勉強した人たちが作ったんでしょうし、現憲法については何人かの日本人憲法学者の案とGHQの担当者の合作ということみたいですけどね。
まあなかなか「公募」で決めるわけにもいかないでしょうから、実際にはやっぱり議員が主導するしかないのかなあ。

p.122

 立憲主義に立脚した先進民主主義国の憲法は、国が家族を守る義務を規定しているが、「第二次草案」のように家族の相互扶助を規定することはない
(中略)
イタリア「共和国は、経済的手段その他の措置により、家族の形成及びその責務の遂行を、特に大家族を考慮して、助成する」
スペイン「公権力は、家族の社会的、経済的及び法的保護を保障する」
ドイツ「婚姻及び家族は、国家秩序の特別の保護を受ける」
ロシア「母性と子どもであること、家族は、国家の保護の下に置かれる」
欧州憲法条約「家族は、法的、経済的及び社会的保護を受けるものとする」
国際人権規約「できる限り広範な保護及び援助が、社会の自然かつ基礎的な単位である家族に対し、特に、家族の形成のために並びに扶養児童の養育及び教育について責任を有する間に、与えられるべきである」

そうだったのか。
"家族の相互扶助"を憲法に"盛り込む"か"盛り込まないか"の問題かと僕も認識していましたが、もっと根本的に、顛倒した議論になっているんですね。
「家族は大事」だ(とその社会が認めたとしても)けど、守る義務が課されるのは「相互」(つまり個々人)ではなくて「国」
あえて"憲法"に規定するとしたら、選択肢(盛り込むか盛り込まないか)としてはそれしかないという。
それが「憲法」の常識らしい。
・・・ていうか世界どんだけ家族大事にしてるんだよ。「西欧的価値観」を拒否したいなら、むしろ真っ先に「家族」の価値を否定すべきなんじゃないのか。(笑)

p.125

 お隣の韓国では、「国民基礎生活保護法」(二〇〇〇年施行)で現代的な公的扶助の制度が確立されたが、扶養義務者については(中略)
・導入時 : "すべての直系家族"
・'05年改正 : 一親等及びその配偶者+同居している二親等
・'07年改正 : 一親等及びその配偶者のみ
儒教道徳の色濃く残る韓国ですら、このような改正を行っている。

韓国に負けるという、屈辱。(笑)
ちなみに"扶養義務"はなるべく広く取らないと、"家族主義"を推進しようとしている人たちの底意、つまり国の負担を個々人に肩代わりさせたいという意図は、「経済」的に不可能ですね。だからこの韓国の(逐次撤退の)"例"に、意味がある。

以上、理論的実際的双方に、自民党「二次草案」の"家族主義"の奇怪さの説明となります。
まあ上で言ったように、あれを主導した人たちは憲法自体を本当は要らないと思っている、ないしはその母体となっている「人権」思想を拒否しようとしているのだと思いますから、こういう批判がまともに届くかは疑問ですけどね。
ただまともじゃない、ということは現在は(当時の野党ではなく)政権与党として責任を担う立場にある、"まとも"な議員たちは分かっているようで、朝生でその"草案"の話になるたびに、死んだような目で「あれは叩き台ですから」の一本やりで話題をスルーするのがおかしいです。(笑)
そういう意味では、あれが直接"改憲"に持ち込まれる危険性については、割りと僕は楽観していますが。
まともな状況では、無いだろうと。
問題は"まともでない"状況の時。今は色々嫌われがちな安倍首相が身を引いて、もっと、真に質の悪い"後継者"が幅を利かせるような状況になった時、かな?

p.278

 二〇一三年一二月六日には、特定秘密保護法が成立した。国益を守る観点からの情報保護は不可欠であるが、基本的人権と密接な関係があり、もっと時間をかけて慎重に審議すべきであったと思う。とりわけ、問題の多い「第二次草案」を取りまとめた議員たちが、またこの法案作りでも中心になっていた。立憲主義など教わったことのない(と言っている)議員に、これほど重要な法案を任せてよいのだろうか。

こちらも太字強調は著者。( )内は僕の補足。
スパイ防止法自体は必要に決まってるわけですけど、作った「人」があの草案と「同じ」だと指摘されると、急に嫌な感じにはなりますね。(笑)
まああれもね、実際には法律そのものよりその"後"、それを運用する人たちの"質"が劣化した場合だろうと思いますけどね。どんな法律も政令・条例も、作った当人は過程での勉強の縛りもあって、そんな変なことはしないんですよね。問題は"ありき"で動き始める世代という。


こんな感じの本です。
割愛しましたが、"話し合い"とそれで作られた案の"要項"がいちいち明記してあるのは、"ドキュメント"としてかなり興味深いです。もっと色んな法律についてこういう本が出たら、随分勉強になるだろうなという。
興味のある人は"都知事"としての舛添要一はとりあえず棚上げして、読んでみたらいいと思います。(笑)
amazonレビューがやけに低いと思ったら、露骨に"例の件"を反映させている人が多くて、それはちょっと違うんじゃないかと思いました。


テーマ:憲法改正論議
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