いずれ/来月以降、本腰入れて書く予定のものへの僕の関心の、経過報告的な。
そんなん要るかよという感じですが(笑)、何度も書こうと思って準備だけして忘れてる内に、まるで忘れさせないようにとでも言うように関連する話題が目に入って来るんだよねという、そこらへんを書き留めておきたかった。捨て置くには、微妙に話題が豊富過ぎるというのもあって。
そういう"備忘録"と、最終的にどんなことを書けたらいいなと思っているかについての若干の予告的決意表明。
まずは時系列。
1.BBCドキュメンタリー『自由意志 思考を決定するもの』 (2020.4.4初放送) を見る
2.ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』 を読む [2020.11月末]
3.アニメ『範馬刃牙』2022.3月MX放送回(11or12話) を見る
・「意識は無意識より0.5秒遅れてやってる」(その0.5秒の間は"意識"が無いので無防備理論)
・トール・ノーレットランダーシュ(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』)の紹介
4.トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』(序&第一部) を読む [2022.5月]
5.「受動意識仮説が語る驚異の無意識ネットワーク!!/MUTube」[2022.8.23] の、エンタメーテレ『超ムーの世界R』での紹介を見る
6.前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説』 を読む [2022年後半]
7.ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』第二部以降 を読み始める [2023.1月]
・・・BBCで始まったものが、『範馬刃牙』とか『ムーの世界』とか。(笑)
俺の立ち回り先どこにでも出て来るなと。そんなに研究させたいかと。(笑)
以下各々についてざっと。
1.BBCドキュメンタリー『自由意志 思考を決定するもの』 (2020.4.4初放送) を見る
BBCワールドニュース『自由意志 思考を決定するもの』(書き起こし) [2020.4.22]
読解&考察(1) [2020.5.1](リベット実験)
'80年代初めにベンジャミン・リベット氏は、脳の意思決定のメカニズムを理解する為の実験を行いました。
回っている点を好きな時にクリックすればいいのです。その時に私の脳の活動がモニターされています。そしてこの選択をする時に脳の活動が高まります。
それでボタンをクリックすると思ってしまいますけども、実際にはその前に準備電位と呼ばれる段階がありました。1秒早く、クリックをするという決定をしているのです。
それが何百回と繰り返されました。その実験には、どんな意味があるんでしょうか。
自由意志というのは、心が体をコントロールしていると思うわけです。つまり心が自分の好きな決定をして、命令を体に送っているとみなされるわけですけども、リベット実験を考えると、この意識した意思というのは、その前の脳の活動によって決まっているということが分かるわけです。心と体の因果関係という考え方に、異議を唱えるんです。
読解&考察(2) [2020.6.3]
・・・これが出発点。
"心"(意識)がクリックするという決定をする(決定を意識する)前に、"体"(脳)は既にそのクリック/決定のプロセスを始めている。"心"の決定を"体"が実行しているのではない、むしろ逆である。意識は無意識が既に行っていた決定を追認しているだけなのに、自分がその決定を行ったかのように思っている、という実験。
なおここではその"準備"(電位)の始まりを"1秒"前としていますが、リベット自身の実験も含めてこの数値は結構微妙に変動しています。概ね0.5秒前後とされているのが普通で、ここの"1秒"というのはかなり長めの表現で、番組がなぜそれを採用したのかは正直分かりません。
番組自体は、このリベットの実験を冒頭に起きつつ、その後かなり色々な観点から「自由意志は存在するのか」(意識は何かを決定出来るのか)という問題について取り上げています。
2.ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』 を読む [2020.11月末]
後でも述べるように、1.のBBCの議論自体は僕が元々持っていた意識/無意識観と大きなずれがあった訳ではなかったんですが、ともかく読んでみようということでリベットの主著を読んでみました。
大雑把に言うと、実験・研究の"詳細"が書かれている本です。そこまで"一般向け"でもなくて、そういう意味での分かり難さ、色々書いてあるけど結局何が要点なのかなと戸惑う時もある本でした。
結論的には大きくまとめると、2つのことが書いてある本かなと。
(1)"意識"と"無意識"の違いは、感覚入力の持続時間の差
意識および無意識の精神機能の最も重要な違いというのは、前者にはアウェアネスがあり、後者にはそれがないというところにあります。
感覚信号のアウェアネスを「生み出す」には脳にはある程度の時間(約○・五秒間)が必要である一方、無意識の機能が現れるにはより少ない時間(一○○ミリ秒前後)でよいことを、私たちはこれまでに発見しています。(p.117)
BBCの言い方だと、単に無意識(の決定)が先にあって意識が後にあるという話に見えますが、リベットが実際に言っているのは脳に伝わる感覚入力の内、一定時間"持続"したもの(入力され続けたもの)だけが意識/アウェアネスを生み出し、それ以下の持続時間のものは"無意識"にとどまるということ、そしてその為の具体的な必要時間が「0.5秒」(BBCだと「1秒」)だということですね。タイムーオン(持続時間)の必要条件は、どの時点においても意識経験を制限する「フィルター機能」の機能を果たすことができます。一秒間につき何千回も脳に到達する感覚入力のうち、意識的なアウェアネスを生み出すことができるものはほとんどないことは明らかです。(p.134)
つまり0.5秒(1秒)"遅れる"という言い方は、本質的ではない。その0.5秒のおかげで、そもそも意識は存在出来ている訳で。
ちなみに"フィルター"機能とは何かというと、意識の発生が条件付きであるむしろおかげで、"一秒間につき何千回"もの感覚入力の大部分を我々がいちいち意識することなく、"正気"を保って日常生活を送ることが出来るという、そういう話です。
(2)無意識の決定を変更出来る可能性
アウェアネスが生じるために必要な皮質での大幅な遅延という私たちの発見からすれば、アウェアネスが意識的に現れる前に、他の入力によって経験内容が変更されるのに必要な生理的時間は十分にあるということになったのです。(p.83)
ほぼ同じ内容ですが、分かり難いと思うので、両方引いておきます。提示されたイメージの主観的な内容の変化に影響を与えるには、刺激の後に一定の時間が必要となります。
感覚イメージをただちに意識できるとすると、意識的なイメージを無意識に変容できる機会はなくなります。
意識を伴う感覚アウェアネスが現れるまでの時間間隔の間に、脳のパターンがイメージを検出し、意識経験が現れる前に内容を修正する活動が生じることによって、反応することができるのです。(p.141)
何を言っているかというと、無意識が事態を決定してからそれが意識に昇るまでに0.5秒"も"あるのだから、それを利用してその決定内容を修正したり(別の箇所の表現では)拒絶したりすることは可能だという話。言ってみればこの「隙間」に、"自由意志"なり"良心"なりが存在出来るという主張。
ここらへんが読んでてしばらくの間戸惑っていたところで、BBCの番組では(&一般的な認識では)「"自由意志"という思想の処刑人」として登場していたリベットとその実験ですが、この本の最終的な主張はむしろその擁護・救済に当てられているんですよね。科学者としての真正の主張なのか、ある種の"罪の意識"が言わせているのか、今いちよく分からない感じの読後感でしたが。
これについては、後の箇所で日本人学者前野隆司氏のコメントも紹介します。
ともかくそういう本です。
3.アニメ『範馬刃牙』2022.3月MX放送回(11or12話) を見る
バキアニメ3期の11話だったか12話だったか忘れましたが、"Mr.アンチェイン"ことオリバと対峙したバキは、リベット実験を出発点とした"トール・ノーレットランダーシュ"の理論を引いて、「意識は無意識より0.5秒遅れて発生するのだから、その0.5秒の間に攻撃すれば"意識の無い"相手は防御出来ない」という説に基づいた攻撃をオリバに仕掛けます。(結局それでは勝てなかった訳ですけど)
バキにリベット実験らしき理論(名前は直接は出ていない)が出て来たのにも驚きましたし(笑)、またその解釈の独特さにも驚かされました。あれ?そういう話だったかなあと。(笑)
結論的に言えば、これは間違いだと思うんですけどね、板垣先生の。
以下は原作版(70話)からのその個所の抜粋。(サイト主に感謝)
ちなみに説明しているのはオリバ。「人が行動(うご)くとき――――」
「脳が「動け」と命ずる0.5秒前に信号が発せられる」
「つまり――――」
「信号を発してから意識するまでのほんのわずか――――」
「0.5秒間は無意識というワケだ」
「0.5秒間はやりたい放題というワケだ」
そしてそれに対するネット民の反論。(「バキの0.5秒云々って勘違いしてるよな」)
以下結構この問題が"常識"に晒された時に発生する典型的で興味深い議論が展開されていますが、とにかくこれはネット民の方が明らかに正しいと思います。板垣先生のは何ですかね、脳(の命令)=意識としちゃってるということですかね。それで"無意識"の間は、まるで脳が働いてないみたいな理解になっている。1 :このスレは古いので、もうすぐ消えます。:16/03/10(木)12:00:41 ID:393727032
バキの0.5秒云々って勘違いしてるよな
行動した0.5秒後にようやく脳が行為を意識するって事で
行動自体は本人の意思から始まる訳じゃない
3 :名無しさん:16/03/10(木)12:04:10 ID:393727413
反応や行動自体は意識する前にしてる
意識は脳が情報を受け取って作られる後付け

この引用のコマだと、「行動の決意」(意識)と「脳の信号」(無意識)との区別はちゃんとついているように見えるので、何でそういう結論になっちゃったのか。恐らくは後に先生も間違いに気づいたんでしょう(笑)、上のスレによるとこれは"忘れられた設定"になっているようですね。(笑)
とにかくでも、僕がトール・ノーレットランダーシュの名を初めて聞いたのはこのバキアニメなので、そういう意味では感謝感謝。(笑)
4.トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(序&第一部) を読む [2022.5月]
という訳で図書館で借りて読んでみたんですけど、序~第一部の120ページを。
ただどうもピンと来なくて。言っていることはひと通り分かるしそれなりに興味深いんですけど、この問題全体の中の何を話しているのかが、その時点ではどうもよく分からなくて、やや漫然と読んでました。挙句読了しないまま、返却期限で一回返却の憂き目に。(笑)
結論的に言うと、少し"科学的"過ぎるんですよね、第一部は、序で著者も若干危惧していたように。あらかじめある程度の科学史的研究史的知識が無いと、細か過ぎて要するに何の話をしているのかが、ぴんと来ない。
間を置いて第二部以降を読んだ経験から言うと、何なら最初は読まなくていいと思います一般読者は、第一部は。"何の話"をしているのかが二部以降で分かってからだと、一部で言われていたことの意味もなるほどなとなるんですけど。
5.「受動意識仮説が語る驚異の無意識ネットワーク!!/MUTube&特集紹介」[2022.8.23] の、エンタメーテレ『超ムーの世界R』での紹介を見る
そんな感じでまた一回離れかけたところで、飛び込んで来たのがこれ。
CSの人気長寿オカルト&陰謀論番組『超ムーの世界R』で、レギュラー出演者で定期的に少し毛色の違うハード(め)サイエンスネタをぷっこんでくる雑誌「ムー」の現編集長三上丈晴氏が、その少し前にYouTubeと本誌で紹介したらしいネタをここでも、余程気に入ってるんでしょう、転用の割には高いテンションで(笑)語っていました。
内容的には上のリンクページ内のYouTube(25分)とほぼ同じだった気がするので確認したい人はそちらを見て頂きたいですが、リベット実験を導入に使いつつ、その系統の一連の研究を「受動意識仮説」としてまとめた日本の脳生理学者前野隆司氏の研究・主張を、専ら紹介した内容。「0.5秒」の中身を意識発生そのものにかかる時間(0.35秒)と発生後の実際の行為の為の筋肉反応にかかる時間(0.2秒)に分割してあるのが、新味と言えば新味でしょうか。(余談ですが、後者の"0.2秒"の方に着目すれば、"3"の板垣的解釈も何とか修正して成立しないことも無いかもなとぼんやり(笑))
とにかく"また出て来たよ"という再会の喜び(?)と、日本人研究者の存在を知った回でした。(#いくつの回だったかは忘れちゃったんですけど、youtubeの方があるからいいかと)
6.前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説』 を読む [2022年後半]
慶応の、何学者なんだろう、Wikiも紹介に困っているようですがとにかく脳/意識問題の専門家ではあるらしい人の初著書。(2004年)
ちなみに多分名前は全くの初見ではなくて、去年末に書いた『メモ : "マインドフルネス" (とワーキングメモリー)』の参考記事の一つの中でもちらっと名前が出ているんですよね。そっちが先だったかなあどうだったかなあという、割とぎりぎりのタイミング。とにかくそういう意味でも、僕の関心の周辺にいる人ではあるんだろうなとは。
内容はリベットに始まる意識の非主体性、前野氏はそれを「受動」性と言いますが、とにかく'80年代に始まるそうしたタイプの研究の2004年段階でのまとめと独自解釈。特にその非主体的・受動的な"意識"が、逆にではなぜ存在しているのかどのように生まれたのか。("脳はなぜ「心」を作ったのか")
その具体的内容については、今回はちょっと割愛させて下さい。それなりに納得した部分もありますが、ノーレットランダーシュの方をちゃんと読んでから、コメントしたい感じ。全体として、"科学者"として自分の専門性の範囲で語っている部分は面白かったし同意できる部分も多かったんですが、それを離れて言わば"哲学者"や"思想家"として、専門外の思考を展開している部分には、正直あんまり感心しなかったんですよね。普通のおじさんだなあというか。良くも悪くも科学者でしかないというか。(なので僕自身が代わりに"位置づけ"をちゃんと出来ないと、賛否が言いづらい)
取りあえず今回は、それ以外の部分でたまたまメモってある面白かった部分を引用しておきます。
p.88
リベットの所で書いた、意識の"裁量権"の話。最終的に前野氏に賛成するかは別にして、僕が読んでいて感じた戸惑いをちゃんと問題にしてくれている人がいて、ともかく安心しました(笑)。リベットはこのことを他の主要な研究・主張と、割と淡々と並列的に、さも当然のことのように書いているので、あれ?戸惑ってる俺がおかしいのかなリベット実験の自然延長で理解すべきことなのかなと、結構困ってたので。ただ、私と意見が違うのは、リベットとノーレットランダーシュは、「意識」が最終的な拒否権を持つと考える点だ。さまざまな錯覚でだまされている意識も、最後に行動を起こすことを「やめる!」と決める権利だけは持っていて、それこそが「意識」の主体的な役割であり行いうるタスクなのだという。一方、私は、あとで述べるように、「意識」には拒否権すらないのだと考えている。
その件についてノーレットランダーシュがリベットと同意見だというのは、僕がこれまで読んだ範囲ではちょっと分からなかったですね。いずれ報告します。
p.108-109
面白い。が、明らかにこんな通り魔的に紹介する内容ではない。(笑)川人は、『脳の計算理論』の最終章で(中略)「意識とは無意識下で生じている非常に膨大かつ並列に行われている計算を、非常に単純化されたうその並列演算(脳の他の部位のモデル)で近似すること」ではないか、と述べている。まさにその通りだと私は思う。
所詮(無意識下の"真の思考"の)近似なので、「論理」だろうが「アナロジー」(類比)だろうが大差無いというか、論理自体が既にアナロジーであるというか。全ての思考はアナロジーであると、確かユングが言ってましたがどういう意味だったかなあれは。
リベットの"持続時間"論からすれば、ある種"たまたま"0.5秒以上入力され(て意識上に浮上し)た刺激と刺激の間を飛び石的に結んで作られた雑なマップ、それが意識だということになりますか。(どれくらい"たまたま"なのかが多分次に問題になると思いますが)
・・・"川人"というのは脳科学者の川人光男氏。
8300円もするのか。
ちょっと考えさせて欲しい。(笑)
とりあえず市内の図書館には無いらしい。国会図書館でも行くか。
7.トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』第二部以降 を読み始める [2023.1月]
前野氏の本を読んで、納得"いかない"部分も含めて改めて思考が刺激されたので、やはり読んでおかないといけないだろなと、再び図書館でゲット。
今回は前回の続きの第二部から読み始めましたが・・・。やばい。面白いこれ。めっちゃストライクゾーンやんけ。
これは明らかに返却期限を気にしながらまいて読むような本ではないなと、結局買ってしまって借りた方はさっさと図書館に返しました。
ストライク"ゾーン"だというのは、まずは"研究史"的記述・視野の豊かな僕好みの本だというのと、もう一つはそのことにも大きく起因しますが、様々に引かれる登場する科学者たちの研究や発言を見ている内に、"リベット"的なものの「直観」化が可能なのではないかそしてそれは正に自分の求めるものなのではないか、そういうことに思い至ったということ。
どういうことかというと。
各分野で日々新理論や新思想が社会に送り出されて来て、それらは多かれ少なかれそれぞれに実証性や論理性を備えていたりする訳ですけど、ならばそれでもって社会が/一般の人々がそれらを積極的に受け入れるかというとそんなことはなくて、やはり新しいものを受け入れるにはそれなりの動機や受け入れても大丈夫だという安心感(慣れも含む)が必要な訳です。"受け入れた後の世界"についての、ヴィジョンというか。
近々&僕の周辺で言えば、例えばサッカーにおける"エコロジカル・アプローチ"。いかに属人性を減らすか普遍性再現性を高めるかに腐心していたと言っていい欧州を中心とするサッカー界の長らくの潮流に対して、ある種属人性そのものの、その組み合わせによる見方によっては"その場限り"のチーム作りの方法論/方向性が、ローカルならともかく"最高峰"の"最先端"のレベルにまで至る有効性の問題として、次の"潮流"として提案されたことに対して、事例も含めて一応の有効性は認めつつも、多くのサッカー愛好者は戸惑いを見せたと思います。言いたいことは分かる(論理的にも実証的にも)、ただそれがサッカー界の"主流"になっている未来が世界が、どうにもイメージ出来ない。"受け入れた後の世界"が。僕自身も戸惑いを覚えて、手掛かりや具体的な運用の"風景"を探ってみたりした(『"エコロジカル"メモ』)訳ですが。
あるいは最近何かと話題の性的多様性・少数者の問題なんかも、原理的にどうというよりもそのいささか極端にも見える多様性の先にどんな社会があるのかどんな日常が待っているのか、そのことに対する不安は、これは基本(受け入れ)賛成の立場の人にだってあって、少なからず大きな阻害要因になる/なっているだろうと思います。
・・・なんか妙に"例示"に力が入って話があらぬ方向に行きそうになりますが、言いたいのはだから、繰り返しになりますがある理論や思想の受容は最終的にはそれを受け入れた後の"世界"や"生活"の想像可能性、直観化の可否にかかっているというところがあって、増して"意識"や"自由意志"が幻想である世界なんて「不安」そのものな訳で(笑)、そこらへんの問題が実際どう処理されているかを、それを提唱している様々な論者の姿や言葉を通して結構いい感じに描写出来そうなイメージが『ユーザーイリュージョン』の第二部以降を読んでいる内に湧いて来たので、それをやってみたいと、そういうことです。他ならぬ僕自身の不安や疑問も、片付けながら。(基本的には受け入れている人ですが)
来月以降にね(笑)。まだ最後まで読めてもいないので。買っちゃっていつでも読めるとなると、つい後回しになっちゃって。"期限"の近いもの(ありていに言えばほぼ海外ドラマのサブスク)から、優先的に時間を使ってしまって。
その前に出来ればもう一つ、ある種の理論的「補助線」的な内容についての記事を、書けたら書きたいと思っていますが。これは最短来週。(笑)
Amazonプライム・ビデオのネオ西部劇&SFドラマ『アウターレンジ 領域外』(2022)を見ていたら、待ち合わせ場所に先に来ていて時間潰しに何やら瞑想めいたものをしていた謎の美女("オータム")

が、振り返りざまに「今マインドフルネスをやってたの」と言う場面があって、何だろうとなったのが知ったきっかけ。(先月)
早速Wikiを見てみると・・・
マインドフルネスWiki
と言ったことが書かれていました。・現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程
・「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに捕らわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある
・とりわけ新しい考え方ではなく、東洋では瞑想の形態での実践が3000年あり、仏教的な瞑想に由来する
・仏教の重要な教えである中道の具体的内容として説かれる八正道のうち、第七支にあたるパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(Samma-Sati、漢語: 正念、正しいマインドフルネス)のサティの英訳である。サンマ・サティは「常に落ちついた心の行動(状態)」を意味する。
・医療としてのマインドフルネスは、禅を学んだアメリカ人分子生物学者のジョン・カバット・ジンが1979年にマサチューセッツ大学で、仏教色を排し現代的にアレンジしたマインドフルネスストレス低減法(MBSR)を始めたことが端緒となっており、当初はさほど注目されず、行動療法の一環として普及していった。
・2000年代に入るとアメリカでは東洋の思想実践への興味が高まり、アメリカ現代社会に欠けている「『今』への集中」が仏教の思想実践に見られると考えられ、マインドフルネス瞑想が改めて注目されるようになった。心理的・身体的健康や良好な人間関係、冷静な意思決定、仕事や学業への集中、全般的な生活の向上などに効果があるとして注目を集めている。
仏教なのか、八正道なのかという意外性と共に、これを見て僕がピンと来たのは・・・という話をいきなりしても多分読者が呑み込めないので(笑)、もう少し「マインドフルネス」に関して書かれた他の文章も引用してみると。
マインドフルネスとは?意味やマインドフルネス瞑想のやり方と効果、メリットについて説明します (LITALICO仕事ナビ '21.5.20)
言葉の定義。「マインドフルネス(mindfulness)」という言葉は、仏教の経典で使われている古代インドの言語の「サティ(sati)」という言葉の英語訳としてあてられたもので、「心をとどめておくこと」あるいは「気づき」などと訳されます。
英語には、「気づかう」「心配りをする」という意味の「マインドフル(mindful)」という形容詞があります。マインドフルネスの概念では、マインドフルとは「『良い・悪い』などの価値判断をすることなく、完全に『今この瞬間』に注意を向けている心の状態」を指します。
"マインドフル・ネス"だったのか。てっきり"マインド・フルネス"かと。"マインド"を、「現在」で"フル"に満たす的な。その解釈でもWiki自体は読めてましたし。(笑)
マインドフルネスについて (健康デザイン研究所)
この説明で、だいたいイメージは掴めるかと思います。含意というか。マインドフルネスとは、サティ(sati)=「心にとめておく」という意味を持つパーリー語(古代インド語の一つ)の英訳で、本来はメソッドではなく、瞑想や呼吸法などを通して得られる、上のような心の状態を表す言葉だといいます。
私たちの心は普段、未来に向かってワクワクしたり、逆に不安になったり、過去のことを思い出して落ち込んだり、あるいは特定の考えに囚われて苦しくなったり、なかなか「今この瞬間」に留まることがありません。
また、留まったとしても、それが好きなものであれば固執したり、嫌なものであれば拒絶したりして、常に何かに囚われて煩ってばかりいます。
そういったことが一切なく、ただ受け取った刺激を純粋に意識したり、心に湧き起こった印象をありのまま感じたりするだけのシンプルな心の状態。
それがマインドフルネスと呼ばれる、今この瞬間をただ感じている状態なのです。
どういうタイプの"教訓"なのか。
補足的に言うとなぜこれが(Wikiにあるように)特に"アメリカ"で問題になっているかを考えると、「現在」を「未来」(将来)の為に役に立たせること、目的に対する手段としてのみ位置づけるという、功利的ビジネス的思考が余りにも強力になっている社会だからという、そういう文脈だろうと思いますね。そういうガチガチの目的手段関係、現在体験の空洞化からの、(一時的な)解放。
ほとんど脊髄反射的に習慣化している、選択と集中地獄からのというか。
それがどのようにWikiにあるように、"アメリカ"で"注目を集めている"かというと。
世界で成功する経営者が「マインドフルネス」に注目するわけ (logmi Biz '22.11.14)
入山:おそらく僕がアメリカにいた頃、つまり2010年前後ぐらいの頃からもうこの現象があったと思います。シリコンバレーの起業家とか西海岸の経営者が、まさに日本の「禅」の考え方という、非常にマインドフルネス的なものに行き当たって、それこそ今回のWisdomに出られている藤田一照さん[曹洞宗の禅僧]がアメリカの会社に行って講演されたりしていたみたいです。
非常に競争が厳しい社会で、非常にタフで(いなければいけない)。一方でやはり「自分はそもそもなんでこういう仕事しているんだ」とか、「なぜこの会社はあるんだ」という、深いところにちゃんと目指していかないと、心も疲れるしやっていけない。(中略)そういった自分の内面に入る時の1個の手段として「禅」がいいということで広がったのが......もっと前かな。2005年、2006年頃からだったと思います。
ここで話している早大経営学教授の入山章栄氏自身が強調しているのはこの後の(より東洋的内面的な)話の方のようなんですが、とりあえずアメリカのビジネス社会のメインストリームの状況説明としてはここら辺まで。まとめれば「非常に競争が厳しい」「心も疲れる」社会/会社/業界において、それに対処する為に「心/認知をうまく操作して注意を特定のほう[現在]に払わせる」「メタ認知に毛が生えたみたいな」ものとしてのマインドフルネス。入山:僕が2014年から4年間、日本の『ハーバード・ビジネス・レビュー』で「世界標準の経営理論」を連載していたんです。その時の僕はあまりそういったものに詳しくなかったんですが、いくつか認知科学系のリーダーシップとか組織学習のような論文を読んでいると、けっこう「マインドフルネス」という単語が出てくるんですよね。「おぉ!? これって、あの?」ってなってくるんですよ。
それで、その論文をたぐってみたわけですね。実はその論文は、まさに同じ『ハーバード・ビジネス・レビュー』で連載中だったんです。
そこで書かれたマインドフルネスって、実は今なんとなく我々が理解しているマインドフルネスとちょっと違うんです。もっと「認知をうまく操作しよう」みたいな、メタ認知に毛が生えたみたいな感じでした。
人の心をどうやってうまく操作して、注意を特定のほうに払わせるかとか、いわゆる東洋的な、オーセンティックに心の中に入ってくるというものではなかったんですね。
自分自身の認知を変えてストレス状況に対処しよう。そうしたビジネス利用に対する批判的論点が次。
企業は利益のために、マインドフルネスを悪用していないか?──ブームに警鐘を鳴らす専門家に本来の意味を聞いてみた (サイボウズ式 '19.11.21)
アレックス 最近は、社内プログラムにマインドフルネスを取り入れている企業が増えていると聞きます。
職場でストレスを感じている人が、上司からマインドフルネス実践プログラムを勧められ、受講したとします。何が得られるのでしょうか?
パーサー プログラムでは「ストレスとは、状況に過剰に反応して感情をうまく調整できないときに発生する。つまり、あなたが頭のなかで作り出したものだ」と言われるでしょう。
これは企業から社員への暗黙のメッセージなんです。「健康やメンタルヘルスは自己責任です。でも、職場環境や組織文化に適応する支援はしますよ」というね。
パーサー 「キャリアで成功する代償として、抑圧的な職場環境に耐えるための軟膏だよ」ということですね。
アレックス 対処療法的にマインドフルネスを使って、「頑張ってなんとか乗り越えてね」と言っているのと同じですね。
パーサー 今流行っているマインドフルネスは、お金も権力もあるIT業界のエリートによって始められました。自身をスピリチュアル起業家と称し、企業利益のためにマインドフルネスをねじ曲げたのです。
まあアメリカで流行っている、しかもビジネス界でという時点で、おおかたそんなものだろう、そんなものになっていくだろうというのは見えている感じはしますけどね(笑)。対象が何であれ。パーサー 根本的な原因を解決せず、個人のストレスに対する対処能力や免疫力だけを強化するべきではないでしょう。
アレックス 現代人がストレスとうまく付き合えれば、企業は従業員をさらに追い込み、労働環境が悪化することも考えられます。
パーサー その通りです。マインドフルネスは市場から大いに歓迎されていますが、私たちは一度立ち止まって状況を把握するべきです。
当事者も案外それは承知というかそれでもいいと思っているというか、コカインをやる代わりにマインドフルネス瞑想をやって、それでストレスをやり過ごせて(コカインと違って)中毒にもならなければそれで結構というか、社畜としての性能が上がるだけでもそれでいいと、そんなところはあるのではないかなと。(笑)
・・・"過剰に反応"しているというのが、上の僕の言い方で言えば目的手段関係の中で窒息しているような状態、かな?
ちなみに冒頭に出て来た"オータム"さんは、アウトドアグッズ一式担いで各地を転々としているヒッピー的な女性で、しかし実は富豪の娘らしくとある目的で牧場主の主人公に近付いて来て、牧場の片隅でテント暮らしを許されながら牧場の買収を持ちかけて来るそういうキャラ。だから自立独歩の西海岸ニューエイジ系意識高い個人の性格と、ビジネス社会/1%富裕層の申し子的性格を併せ持っているキャラな訳で、そういう人が空き時間に日常的にマインドフルネス瞑想をやっているという描写に、"マインドフルネス"という思想の現代アメリカにおける位置が何となく透けて見えるようではありますね。
実利本位のブームでもあり、一方で真面目に捉えている人は真面目に捉えてもいるという。
さてでは僕自身が"マインドフルネス"のどこに興味を感じたかというと・・・
2012年の本。著者略歴。
ツイッター上の話題から飛んで読んでみて、期待した感じとは少し違いましたが、まあまあ面白かったので書き留め。本田真美
1974年東京都生まれ。医学博士、小児科専門医、小児神経専門医、小児発達医。東京慈恵会医科大学卒業後、国立小児病院、国立成育医療研究センター、都立東部療育センターなどで肢体不自由児や発達障害児の臨床に携わる。2010年、世田谷区にニコこどもクリニックを開業。さまざまな援助を必要とする障害をもつ子どもを診療している
認知特性から見た6つのパターン
副題にあるように人には認知特性から見た6つのパターンがあり、そしてそれぞれの特性の優位劣位によって"頭のよさ"の形も変わるという、簡単に言えばそういうことが書いてある本です。
その6パターンとは
A 視覚優位者
(1)写真のように二次元で思考するタイプ
(2)空間や時間軸を使って三次元で考えるタイプ
B 言語優位者
(3)文字や文章を映像化してから思考するタイプ
(4)文字や文章を図式化してから思考するタイプ
C 聴覚優位者
(5)文字や文章を、耳から入れる音として情報処理するタイプ
(6)音色や音階といった、音楽的イメージを脳に入力するタイプ
の6つ。
まずパッと見て思ったのは、6つもあるのに自分がどのタイプなのかどうも当たりがつかないなということ。当たりがつかない分、興味を感じたというか。・・・つまり少なくとも、常識的直観を難しく言っているだけの、置きに行った(笑)研究ではないらしいなということで。
次に興味を持ったのは、例えば僕自身は自分が"視覚優位"の人ではないという自覚が以前からあって、それは具体的には学生時代(同じ理系の勉強の中でも)計算・方程式系は苦じゃなかったのに図形系の問題がはっきり苦手だったことや、(いつも僕の文章を読んでいる人は分かると思いますが(笑))漫画やアニメという"視覚"表現芸術を見る上での作画技術的なものへの自分の軽視傾向などを見てそう思っていた訳ですが、とにかく僕に縁遠いように思える"視覚優位"の世界においても、この分類・研究によると更に二次元タイプと三次元タイプはまたそれはそれで結構違うらしいという意外性というか新鮮な視点というか。目のいい人たちもみんな一緒じゃないんだ(笑)という。
同じことは"言語"と"聴覚"にも言えて、言語は勿論のこと、視覚に比べれば聴覚の方も、だいぶ僕は重視しているという自己認識だったんですが、だからと言って(5)(6)の違いがすんなり分かるかというとそうでもなかった。言語の方の(3)(4)もそう。
繰り返しになりますが、やはり日常直観だけでは追っつかないことを研究・記述しているものらしいとは。"三次元"じゃないのは確かなんですけど、"二次元"という限定で見ると意外と俺(1)タイプかもなと思えて来たりして、まさかの"視覚"優位の世界がこの自分にも?(笑)
はて俺は何者なんだろうという。
本田40式認知特性チェック
実際の研究でどのように利用されているのかは分かりませんが、上の「認知特性」を分類する為に、著者の研究所が一般公開しているチェックツールがあります。それが"本田40式認知特性チェック"。
・・・リンクページはこちら。尚利用にはLINEアカウントが必要です。
以前は"35"式だったようでこの本でもそうなってますが、今はそちらはリンク切れで修正版の40式のみ公開されています。見比べてみると5つ足された部分以外は、中身は一緒のようです。
早速僕もやってみましたが・・・。うーん、これは困った。
3択アンケートが40個ある訳ですけど、大部分の設問が僕的にはどうとでも答えられるorどれも選びようが無いと感じられる問いばかりで、一応答えてはみましたが結果に我ながら信ぴょう性を感じられない。気分によってその都度違う結果が出そう。
だからと言って何回もやるのも馬鹿みたいなので(笑)、とりあえず1回目の結果。


視覚系二分類の説明

言語系二分類の説明

聴覚系二分類の説明

繰り返しますが自分自身の結果に関しては、まあどうなのかなという受け止め方です。
やはりピンと来ないまま選んだorそれゆえ"中"を取っただけみたいな回答の仕方を多くしたので、細かい数値の違いはほとんど誤差の範囲なのではないかなという。・・・現にこれの前にやってみた簡易版だと、上では"ファンタジー"タイプ優位とされているところが"辞書タイプ"となってましたしね。
一方で本の中の説明を読みながらあれ俺意外と"カメラ"タイプ?と思った部分は、ある意味ちゃんと数値として出て来ていますね。"3D"タイプとは微差ですが、(二次元の)グラビアは好き(笑)なのに細かく描き込んだ奥行き感のあるタイプの漫画の絵とかがそうでもないのは、"3D"適性の問題なのかと思わなくはない。(笑)
"ラジオ"の互角の健闘も聴覚優位の自己認識に合致していて割と嬉しいですが、"サウンド"の極端な劣位は音楽好きとしてはやや不本意。もう一度確認すると
というのがこの二つの違いですが、心当たりがあるとすれば確かに自分はある種聴覚的音楽的に世界を捉えている自覚はあるんですが、その"音楽"が意味するところは専ら"リズム"なので、そういう意味で"音色や音階"が脱落している可能性はあるかも。C 聴覚優位者
(5)文字や文章を、耳から入れる音として情報処理するタイプ
(6)音色や音階といった、音楽的イメージを脳に入力するタイプ
・・・ちなみに僕が普段殊更リズミックな音楽が好きだということはありません(笑)。基本はあくまでロッカーであって、ヒップホッパーではない(笑)。"音色"が無いと寂しいです。パターンだけでなく、質感も欲しい。
アニマックスで見た『遠い海から来たCOO』
のストーリーテリングの上手さに感銘を受けて、そう言えば(原作者)景山民夫さん(Wiki)の"幸福の科学"って、世間的にどういう受け取られ方になってるのかなと検索していて見つけた8年前のtogetter。
読んでるとなんか色んな方面にジワるので(笑)、紹介したいなと。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:15:30
景山民夫が幸福の科学にハマったのは、文化史的には、必然みたいなもんだと思う。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:23:44
高級官僚の家に生まれて、暁星いって、慶応中退して、アメリカでぶらぶらして、帰国後、クレイジーにみいだされ、大橋巨泉に気に入られ、萩本欽一を蛇蝎のように罵り一方ドリフを認める幅の広さを演出し、ブルータスに連載をもち… って、もうね、景山民夫こそ、東京山手文化の正嫡だったわけです。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:25:52
その揺籃が、大正期少年少女文学にある東京山手文化は、つねに、文化を「ワンパッケージ」として消費する。景山民夫のあのノリは、まさに、「ワンパッケージ」だもんな。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:30:14
幸福の科学を「イロモノ」と扱ってたら、舐められます。守護霊シリーズはさておき、あれ以外の「地道なブランディング」は、刮目すべきです。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:31:41
「反体制を気取りたいけど、恥ずかしいことはしたくない」「人と違うことしたいけど、選択行為が面倒いから、ワンパッケージで飛びつきたい」というブルジョワノリにとって、幸福の科学は、とっても魅力的。
メインのポイントはここです。「ワンパッケージ」(で飛びつきたい)。
正直"東京山手文化"も"大正期少年少女文学"も僕にはよく分からないので、この人の文脈自体を正確には読めないんですけど、最後のツイートの「反体制を気取りたいけど、恥ずかしいことはしたくない」「人と違うことしたいけど、選択行為が面倒いから、ワンパッケージで飛びつきたい」の箇所は、2022年の問題として読んでも凄く何かピンと来るものがありました。
具体的には、一つは"ネトウヨ"&"陰謀論"の長期的流行と、更に遡って所謂「若者の右傾化」の動きの、少なくともある部分。
それからもっと最近で言えば、例の"倍速視聴"問題をめぐっても話題になった、「オタクになりたい若者たち」という現象。"インフルエンサー"問題でもあるかもしれない。
まず"陰謀論"は分かり易いですね。自分が今まで知らなかった巨大な未知の知識の体系や秘密の陰謀があって、それを知ることによってあるいはそうした把握を正に"パッケージ"として受け入れることによって、世界が反転する一挙に謎が解ける、あるいは"正しい"側に身を置いて無知な一般人にマウントを取れる、そういう心の動き/誘惑。陰謀論が魅力的である受け入れられる、基本的な構造としてこうしたものがあるのは既に自明だと思います。
そしてそれ自体は右でも左でもない訳ですけど、"戦後日本"という区切りで言えば見方にもよりますが長らく概ね"左"(リベラル)寄りに構成されて来た"表"の思想や常識、それに対して勿論個別に検討・評価すべき洗い直し的議論や事実はある訳ですけど、そうした是々非々とは別にやはり「一挙反転」的快楽や意識的無意識動機の存在は、"世代"規模の大きな動きの背景としてはあるように思います。そもそもの戦後思潮をしばらくの間導いたのも、一種のマルクス主義"陰謀論"だったと言える面もあると思いますし。左の革命に対して右の革命が起きただけというか。
郵政小泉に投票したのも政権奪取民主に投票したのも、あるいはオバマに投票したのもトランプに投票したのも、実はかなりの部分同じ層だったという話も聞きますし。個別の検討ではなくパッケージでベットするので、動く時は一気に動く。どちらの方向にも。まあそもそも「政党」というのはその為にあると、言えなくはないでしょうけど。(笑)
もう一つの「オタク」の方は・・・
彼らは、何かについてとても詳しいオタクに“憧れている”のだそうだ。ところが、彼らは「回り道」を嫌う。(中略)
彼らは、「観ておくべき重要作品を、リストにして教えてくれ」と言う。
(『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来』)
「何者かになりたい」人たちが集うある種のオンラインサロンには、そういう考えの人たちが集っている。このサロンに入り、影響力のある人とつながって、インスタントに何か一発当てたい。脚光を浴びたい。バズりたい。そんな「一発逆転」を狙う人たちであふれている。(『同上』)
「彼らが探しているのは、要は“拠(よ)りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。」
「オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている」
(『「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由』)
タイパ重視の人はチート(的なもの)が大好きだ。「これさえやっておけば副業で儲かる」情報商材、「これさえ読んでおけばOK」のビジネス書や啓発書のリスト。最小の労力で最大のリターンを得られる、ラクな方法。
(『失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの』)
個性的な何者かになりたいけどその為のツールは一揃い一発で下さいそれに従いますという。
"菅野完"氏によればそれは大正時代から東京山手にあった"ブルジョワノリ"だそうですが、だとするとそれがついにある年代以降の日本人全体に一般化した、みんなが薄ーく"ブルジョワ"になったという、そういうことなのか。(笑)
言葉としてはその前の「反体制」が少し引っかかるかも知れませんが、"一般人からのいち抜け"という意味ではここで語られた「個性」志向と同じと言えば同じだと思います。元々"オタク"自体、"反体制"でないことはないわけですし。"少数派"というか。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:41:15
ブルジョワサブカルノリが、カルトにしか吸収されないってのは、ちょっとこの国の宿痾かもしれませんね。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:44:58
糸井重里は徳川埋蔵金という逃げ道があったからよかったけど、徳川埋蔵金ネタがなかったら、幸福の科学にハマったと思う
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 18:58:19
一時期、幸福の科学は、三宿に重点展開したことがある。すぐに徹底[撤退]したけど。つまり、三宿のあの「オシャレといわれてる」感が、幸福の科学に必要だったわけだ。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 19:05:05
僕は、幸福の科学が、ネトウヨノリを装ってくれたのが、「不幸中の幸い」だと思っています。あれ、ネトウヨノリじゃなくて、エコロジー&リベラルノリを装うというブランディングを幸福の科学が採用してたら、いまごろ、リベラル陣営、死滅してると思います
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 19:09:28
つまり、ある時点で、幸福の科学は、「ネトウヨノリこそ、『人と違うことしたいけど選択行為が面倒いからワンパッケージで飛びつきたい』というブルジョワサブカルノリに効く」と判断してたということ。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 19:17:36
もし、幸福の科学が、ネトウヨノリではなく、リベラルノリを採用してたら…
白金や三宿や代田橋や代々木上原のあのノリの街にある教団施設に、オーガニックなTシャツきて靴はコンバースでその癖履いてるデニムは一本七万とかの、ブルータスノリ善男善女が集まる…
…うーん。ありがち
ここは少し異論があるかな。
幸福の科学にブランディングや戦略があるのは確かでしょうが、ただそれが"ネトウヨ"的なのは偶然ではなくて、"装っている"というのとは少し違うと思います。はっきり言えば大川総裁の資質自体がそもそもそうで、それがある意味"素直"に発揮された先が、結果的にある種のブランディングにもなったということではないかなと。
杉山真大@震災被災者 @mtcedar1972 2014年9月5日
>>juns76 そもそも大川自身、共産党の活動家だった団体職員の家に生まれ東大に進学したものの「東大リベラルアカデミズムとそりが合わず」(と言うよりついていけず)、ドロップアウトしたってところなど小室と多くが共通していたりするんだよね。
とコメント欄にもありますが。
糞真面目な田舎の秀才で、著書で再三公言してますがカント/ヘーゲルが至高でその後の相対主義的な知的諸潮流は何言ってるのか訳分からん、正しいものは正しくて正しくないものは正しくないに決まってるというタイプの旧型(当時的に)の"知性"で。
「宗教家」という形でその浮世離れに自ら一定の正当性を与えつつも、やはり主流から外れている面白くなさは感じていただろう日々を過ごす内に、メインは歴史観国家観ではありますが一部には相対主義的な哲学潮流への批判も含んだ形での思想の反転、戦後思想への一斉攻撃的な動きが活発化するのを見て、ならばと"デビュー"したのが2009年
あたりに始まる嫌韓反中反リベラル戦前戦中日本の肯定的評価を基調とする菅野氏言うところの"ネトウヨ"路線。概ねこんなイメージですけどね、僕は。
それがかなりな急展開だったのはやはり戦略/ブランディングがあったゆえなんだろうとは思いますが、金正日や安倍晋三(の"守護霊")等の直接的な"題材"から始まり、その内自分が青年時代に読んだり影響を受けた保守系の学者やビジネス思想家等の"霊言"を次々と、自分史を紐解くように世に送り出していく様は何やら楽しそうで(笑)、"装っている"などというマーケティング的な理解の範疇を大きく逸脱していたように思います。(著作数は膨大ですが、これで古い順からバーッとタイトルだけでも見て行くと、概ね雰囲気は掴めると思います)
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 19:43:13
話あちこちいくけど、幸福の科学。幸福の科学は、景山民夫路線のころは、エコロジー&リベラルノリだったのよ。しかしそれじゃ商圏がひろがらなかったのだろう。あのあと、しばらくして、ネトウヨノリになった。つまり、そっちの方が、「ターゲット層」の本質やったのよ。
菅野完 @noiehoie 2014-09-04 19:45:01
幸福の科学がエコロジー&リベラルノリからネトウヨノリに変えたというのは、幸福の科学が狙う「あの層」の本質が、ネトウヨノリにあるということ。これは、東京山手文化圏の本質に潜むもんだと思いますよ。村岡花子の戦争加担に通じる例のアレ。
上のコメント欄でも言われているように、共産主義活動家でもあった父親が主導した初期の教団・教義、そこから喧嘩別れ的に自立・独立しての模索の果てに見出したのが、"ネトウヨ"的とも言い得るアイデンティティだった訳ですよね。そこに"流行に乗った"要素はあったとしてもそれ以上にご本人の("保守"的な)資質的必然性があって、少なくとも大川氏主導の幸福の科学が「エコロジー&リベラルノリ」で着地する現実的可能性は無かったと僕は思いますね。
むしろもう初期とは別の教団なので、一時よく見ていた現役信者が集う掲示板(公開のものです(笑))では、"信仰"は一応保持しつつも一体何がどうして今自分はこんな"右"寄りの活動を後押ししなくてはならないんだろうと悩む初期からの信者の書き込みなども、定期的に見かけました。
まあ別にいいんですけど幸福の科学の事は(笑)。最近あんまり名前も聞かないですし。
世間話としては、怪しい面白さがあるでしょ?(笑)
そもそも「宗教」自体、「信仰」「入信」という行為自体が、"ワンパッケージ"丸ごと受け入れ行為であり(是々非々では"信仰"にならない)、パッケージのチョイスによる自分のブランディングや選民化やあわよくばの"勝ち組"ベットを目指す行為な訳で、まあなんか小規模な「宗教」行為がそこら中に溢れている、むしろ社会を動かす主体にすらなっているように見える今日この頃ではあります。インフルエンサーって何?(笑)
なんかほんと、"忠誠心"の厚い人が目につくことが多くなったなと、領域・対象を問わず。いちいち避けてると付き合える人が本当に限られて来てしまうので、出来る限りスルーするように努力してますが。ぶっちゃけサッカー界でもね、うん。昔に比べると。"ガチ"度がなんか。
話変わって。
まあある意味「宗教」の話ではありますが。
元々今週は、昔読んで抜き書きだけしておいたこの本のレポをやる予定だったんですが、やってる内に読み返したくなってしまって時間切れでこういう形に。(笑)
その中から今回は、本題には余り関係無い面白かった箇所を。
p.176
ユダヤ教とキリスト教における黄金律には興味深い違いがあります。
キリストの時代の少し前に生きたユダヤ教指導者ヒレルは、このように述べています。「自分がされたくないことを、人にしてはならない」。これは言い換えると、寛容な心を持って、他人のことには構わないようにしようということです。
一方、キリスト教信者は、積極的な活動家の意見を持ちます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人に行ないなさい」(出典『マタイ伝七 : 一二』)。
今は亡き哲学者であるウォルター・カウフマンは、彼の著書である『異端者の信念』(一九六一年)で、この違いの重要性を主張しています。キリスト教信者の黄金律は、他人の願望と衝突する、つまり結局は何かを押し付けることになる、とカウフマンは述べています。
ユダヤ教・キリスト教共に膨大な教えがある中から、この抜き出しがどれくらい公平なものなのかは僕には何とも言えませんが、面白げな話ではあります。米欧の"ドラマ"の描写から心当たりを思い出すと、確かにこの2つが接触する時に、「放っといてくれ」というユダヤ教徒とそれでもおせっかいを焼きたがるキリスト教徒という対立構図(笑)は、よく見られる気がします。だからと言ってイスラエルと対峙しているアラブ人たちが、ああ相手がユダヤ教で良かったキリスト教よりはなんぼかましだと納得するとは思えませんが。(笑)
国語的に読めば、自分がしてもらいたいことが他人もしてもらいたいこととは限らないというのは、余りに明らかですけどね。対してしてもらいたくないことを他人にしなかったとしても、それが喜ばれるとは限らないけれど少なくともそれ自体が迷惑をかける可能性は薄い。人のことは放っとけと、そう言えばつい最近僕も『工場夜景』に絡んで吼えてましたっけ(笑)。"寛容"とか"価値相対""多様"とかいうのは、言ってみればそれだけのことです。ただでさえみんな大変なんだから、イキって干渉して余計な面倒を増やすなと。
ユダヤ教が世界を制すれば良かったのか。うーん、疑わしいな、そもそも「世界宗教」というのはおせっかいなものでしょう。おせっかいだから世界宗教になれるし、世界宗教になる過程で結局どんな宗教も"おせっかい"に変質しそう。仏教ですら、"大乗仏教"になりましたし。"救い"はタダじゃないというか。必ずおせっかいに耐えるという、"対価"を支払わなくてはならないことになる。(笑)
最後は最早恒例、『ゲーム・オブ・スローンズ』の小人の賢者"ティリオン"のぼやき。

章ごとに視点主人公が変わる原作本だと特に、ティリオンのパートが最も作者がノって書いてるのは明らかに感じます。(笑)
p.217下
完全に事実だと知っていながら、これらの告発に対して、彼女が居丈高になって怒り狂うのは驚きだった。
"彼女"というのはこれもお馴染みですが、ティリオンの姉で女王/皇太后のサーセイ・ラニスター。
怒れるんですよね、ああいう人は。真に自己中心的な人自分が可愛い人は、最終的に事実も因果関係もどうでも良くて、今現在自分が感じている不快感だけに関心を向けて全力で怒ることが出来る。自分を被害者だと感じることが出来る。
ただ事実を突きつけても無駄。反応を予測して回り込んで、対処しないと。
p.297下
サーセイは待たせれば待たせるほど、余計に怒る。そして、怒ると愚かになる。冷静で狡猾な姉より、怒って愚かな姉のほうがずっとましだ
という訳で"対処"法?(笑)
いや、これはむしろ"怒り"の種類の問題で、上のような実はどこか冷静で習慣的で自己防衛的な怒りではなく、もっとストレートでプリミティブな怒りにまで追い込めば、こういう"いつも怒っている"人の怒りも利用可能なものになる。
ま、動物なんで、必要なのは説得よりも調教。
p.377下
十六歳で、ユーモアとか自信喪失などの影響をまったく受けていない、若さの確信とでもいうようなものに毒されている。
腹痛え。(笑)
サーセイのお気に入りの少年騎士の話ですが。
"ユーモア"や"自信喪失"とは無縁のげんなりするような「若さ」、日々のインターネットなどでもまま出会いますね。
「確信」に"毒されている"というのがまた。"病"の一種としての「確信」。
p.118下-p.119上
ティリオンは姪のミアセラが大神官の前にひざまずいて、旅の祝福を受けているのを眺めた。(中略)
大神官は家のように太っていて、パイセルよりも尊大で、その声は切れ目なく続いた。"もういい、爺さん、終わりにしろよ"ティリオンはいらいらして思った。"神々はお前の祈りに耳を傾けるより、もっと大切な仕事があるんだ、おれだってそうだ"
誰も聴く者がいない内心の声でもユーモアを忘れない、律義(笑)なティリオン。
むしろあれかな、自分自身を常に「観客」として置いておけるようになるというのが、客観性や俯瞰視野を身につけているということなのかなと、まあそんな大げさな話でもないんでしょうけど。
以上。
こういうのはこつこつ書き止めてはいるんですが、近年めっきり本を読むこと自体無くなっている(主に体力的理由)のでなかなか。
『三体Ⅱ 黒暗森林(上)』劉慈欣
説明不要(ということにしておく)の中国産大ヒットSF小説『三体』。(Wiki)
『Ⅰ』の奇想祭りも楽しかったですが、『Ⅱ』になって"小説"としての味わいはぐっと濃くなった印象。そうかこういう人だったのかというか。
というわけで、引用内容的には特に"SF"感は無いと思います。(笑)
p.26-27
そう言いながら章北海は微笑んだ。呉岳にはその微笑の意味がわからなかったが、それが心からの笑みだということはわかった。
心から発せられた感情を見ても意味がわからないなら、呉岳が章北海を理解できる見込みはない。
ある中国海軍の士官(呉岳)と政治委員(章北海)の関係性の描写。
中国軍/人民解放軍では、部隊に軍事面の指導者と思想面の指導者が、必ずセットで置かれる伝統があります。
意味は分からないけれど心からの笑みだということは分かるというのが、面白いですね。
ある種の"異文化"交流というか、異文化交流の時に必要となる認識上の区分けというか。"分からない"にも色々ある。
ただここでは生粋の軍人である呉岳が、同じく有能な軍人ではあるが日頃からよく理解できないところのある章北海の人格・思想の複雑さに、ある種最終的に"屈服"したことが、彼の"心"が見えたからこそ確定したという、そういう場面ですね。ああ、俺はこいつを永遠に理解できないに違いないと。
p.70
人権と平等の概念はすでに人々の心の奥まで食い込んでいる。
p.186
「たしか『銀河英雄伝説』で、ヤン・ウェンリーが次のように言ったはずです。『かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利にくらべれば、たいした価値のあるものじゃない』」
p.201
「しかし、人類社会はすでに成熟しています。子ども時代には二度と戻れないでしょう」
全て"現代中国人にとっての人権と民主主義"の捉え方が窺える、興味深い箇所。
勿論作者も登場人物も、基本的にインテリ層ではあるわけですけど。
言っていることは概ね普通の事ではある訳ですが、それを"中国人"に言われると、何か決定的に感じるというかやはりそうなんだろうな、中国人にとってもそれらは既にそういうものであり、見かけの政治体制の違い程度で分かれるようなものではないんだろうなという、そういう感慨を改めて持ったりはします。
ちなみに二番目は直接的には、日本人キャラクターがセリフの主です。ただそれを言わせている作者は当然銀英伝を読んでいるか知っている(アニメを見たのかもしれない(笑))筈で、おおという感じにはなりますね。(笑)
ヤン・ウェンリーのこのセリフは作品内でも結構挑発的というかあえて言っているようなところのあるセリフで、そこまで揺るぎない確信を「個人の自由と権利」に抱いているわけではないんでしょうが、ただ方向性としては概ねそっちしかないよなというここらへんの距離感は、多分日本人と、日本人があのシーンを見た時の感じと変わらないんだろうと。そこまで言うかヤンという。分かるけども。
その一方で。
p.197
「正しいとかまちがっているとか、そういうことじゃない。もしだれもかれもが、理由に納得できないかぎり命令にしたがわなかったとしたら、世界はとっくの昔に混沌に呑み込まれていただろう。」
恐らく作中屈指の人気キャラだろう、無頼派警官史強による、"命令"についての考え方。
これはあえて言えば、共産党の"独裁""強権"に対する現代中国人の消極的肯定の態度の反映されている箇所と言えない事は無いと思いますが、そこまでいかなくても「権力」や「服従」や「規律」についての、日本人よりもより意識的でドライでシビアな、中国人一般の心性の反映にはなっていると思います。"力"の存在は常に意識している。場合によってはそれと戦う準備も。どちらも比較的日本人には欠けているものですね。力は"無い"ものとして暮らしたい。しかしいざ現れたらそれには唯々諾々と従う。(笑)
僕も全く日本人なので、気持ちは分かりますけど。
p.195
「男のタイプによって、夢の恋人のタイプは基本的にだいたい同じになるんだよ」
話がらっと変わりますが(笑)、その史強の別の場所での言葉。
ちょっとどきっとしました(笑)。そうかもしれない。
色々好みはあるようで、"理想"を追求しちゃうと行きつくところは似たり寄ったり。例えば"処女厨"みたいなものを、本当に他人事として笑える男は、実はそんなに多くないだろうと思いますね。理想が違うのではなくて、現実(の女)から受ける触発の方を優先しているだけ。それをとりあえず"成熟"と呼ぼうと(笑)。(でも心の中は?)
p.98
白蓉の文章はエレガントで、このジャンル(思春期小説)には珍しい成熟した明晰さがあった。もっとも、小説の中身が文体とマッチしていないので、草むらの露を見ているようだった。純粋で、透きとおってはいるけれど、ひとつひとつに個性がなく、反射したり屈折させたりする光とか、葉っぱの上を転がっていくようすとかでしか区別できない。
恐らくは作者が中国における"ラノベ"的なものや、中国で非常に隆盛しているらしいweb小説の世界における若い人の文章に対して感じていることを書いているのではないかなと想像する箇所。ストーリー的な必然性がよく分からない位、結構克明に描写している印象。(笑)
近年の僕の周りで言えば、ある種の(サッカーの)"戦術クラスタ"の若い書き手の文章などに、こんなような"無個性"を感じて不思議な気分になる事はありますね。何だこれは。"文章"なのか?書き手の生理とかはどこにあるんだ?それとも無いのか?
p.98
「直してくれたところは、プロットじゃなくてキャラクターよ、それがいちばんむずかしいの。あなたが直すたびに、人物に命が吹き込まれる。」
その(女性)"思春期小説"作家白蓉が、恋人でもある年上の創作的には素人の男の遊び半分の"手直し"を受け入れての反応。
結局「個性」と「生理」が無いと、"キャラクター"が作れない訳ですよね("命"のある)。昔から古い作家が新しい作家に必ず呈して来た苦言、「『人間』が描けていない」というやつですけど。(笑)
ただしここではシェークスピアやバルザックやトルストイと言った古典的大家との比較においての現代の作家の話が出ているので、もう少し根本的な問題提起になっているようですが。ただ基本的な構造は常に同じだろうと僕は思っています(笑)。広義のジェネレーションギャップの問題。その"古い"作家も、もっと古い作家からは言われていた筈。
それはそれとして読んでいて思ったのは、なるほど僕は現代サッカー"文壇"において、「プロット」や「ストーリー」ではなく、「キャラクター」や「ダイアローグ」の人として何かしらの存在価値があるのかも知れないなということ。プロットの透明さは若い人に任せますよ(笑)。僕はキャラクターの味わいで勝負。(笑)
三部作の第二部の半分までしか読んでませんが、なかなか色々楽しい小説です。
僕自身が中国文化に入れ込んでるのもあって、作者の方が多少年上ですが"同級生"的なあるある分かる分かる感も随所に。
今回小説はあともう一つ。
七王国の玉座(下)(氷と炎の歌1) ジョージ・R・R・マーティン
こちらもご存知大ヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作本。
なんか超メジャーなものしか読んでないですね僕(笑)。ほとんどFFとドラクエだけやるみたいなタイプのユーザー。(笑)
p.12下
ティリオン・ラニスターは溜め息をついた。おれの姉には、ある種の程度の低い浅知恵がないわけではない。
ティリオン・ラニスターは作品の主人公的な小人症のひねくれ策士。
その"姉"はラニスター家が支配する王国の王妃/女王/王母。
生まれからの苦労によりひねくれつつも、何だかんだと"正義"や"道義"や"よりよい世界"の可能性について思考をめぐらさずにいられないティリオンに対して、恵まれた容姿や生まれにがっつり胡坐をかいてそこから一歩も出る気の無い姉サーセイは、ひたすら体制内の権勢や損得にのみその"知性"(小狡さ)を用いてその範囲を越えるヴィジョンには理解も関心も示さない。
あれで"賢い"と自分では思ってやがるんだからなというティリオンの嘆き。そして往々にして、そういう輩こそが権力闘争の勝者にはなり勝ちという。
実はそういう自分をサーセイも心の底では分かっていて、弟の"深慮"の能力に潜在的な劣等感・嫉妬を抱いていて、事あるごとに攻撃を仕掛けて来るという面も恐らくなくはない。
色々と"苦い"味わいのあるシーン。箇所。具体的には"賢い"姉がこの場合どのように振舞うかをティリオンが推測するシーンだったと思いますが。全くの馬鹿相手だと推測も出来ませんが、"浅知恵"があるゆえに計算しやすい所もあるという。(笑)
Part2 ファン
サッカーを"する"人と"見る"人
p220
自分でサッカーをプレイする人は、どの国でもそれほど多くなかった(人口の10%を超える国 はそんなになかった)。スタジアムでサッカーを見る人はさらに少なかった。
一瞬あれ?と思ったんですけど、思う必要があるのかないのか、書いている今もよく分からない。
例えば日本で「サッカーが好きです」と言う人が目の前にいたとして、その人がテレビやネットでサッカーの試合を見るだろうことは当然としても、次に浮かぶ疑問としては「スタジアムにまで行く人なのか」どうかであって「自分でプレーするかどうか」ではないと思うんですよね。だから不等号としては逆じゃないかという気が一瞬したわけですが、まあ話は統計の話なので少なくともこの人が見た統計ではそうだったわけでしょう。
まあ「プレイ」のレベルにもよるのかも知れませんが、例えば学校体育あたりも含めて「やったことのある」人数だったら当然「スタジアム観戦したことがある」人数より遥かに多いというのは分かりますが、職業や学校を離れて定期的にプレーする愛好する人となると、かなり日本の中ではレアなイメージ。"草野球"をする大人と"草サッカー"をする大人との、イメージとしての馴染みの差というか。
一方で"Jリーグの観客動員"に絡んで、「自分でもプレーするある程度サッカーに詳しい人」はJリーグには興味を余り持たないとか、「サッカースクール等に通う子供」は土日は自分の練習があるので見に行けないというようなこともよく言われるので、そういう層も考えれば日本でも (テレビ等で見る人)>プレーする人>プロサッカーを生観戦する人 という不等号もおかしくはないのかもしれない。
・・・とまあ、僕があれこれ考えていても何の結論が出るわけでもないんですが(笑)、割りとあっさり、"当然の"結果として上の内容が書いてあったので、ちょっと色々と渦巻いてしまったという話です。なかなかバスケみたいにリンクがあるからちょっと遊びでやるという感じのスポーツでもないのでね。基本かなり広いスペースが無いと出来ないし。下手が蹴り合うとボールがあっちゃこっちゃ行って危ないし(笑)。("キャッチボール"などと比べても)
"やる"スポーツとしては、若干ハードルが高い気はしますね。
イングランド及び世界の"サッカーファン"
p.243
それは、イングランドのクラブをサポートする外国人のファンはひとつのクラブを一途に応援しているわけではないというものである。中国サッカーについて書いた『竹のゴールポスト』の著者ロワン・サイモンズによれば、中国では多くのファンが「いくつものライバルチームを同時に」サポートしており、好きなクラブをころころ替える。サイモンズはこう書いた。「中国には浮気性のサポーターが非常に多く、ひとつのクラブに揺るぎない忠誠を誓うファンはほとんど見つからない」
p.246-247
イギリスのサッカーファンの大多数は、スタジアムに試合を見に行かない書斎型ファンだ。2003年にMORI社が行った調査によれば、イギリスの成人の45%がサッカーに関心があると答えている。だが前の章でみたように、イングランドとスコットランドの全プロチームの平均観客数は人口の3%程度でしかない。イギリスのサッカーファンの大半は、スタジアムにまったく行かないか、ほとんど行かないかのどちらかなのだ。
フレッチャー・リサーチが1997年に行った調査は、イングランドのサッカー市場を初めてまともに取り上げたもののひとつである。それによると、プレミアリーグのクラブをサポートしている人のうち、1シーズンに1試合でもスタジアムで試合を見るという人は約5%だった。ファンがスタジアムに足を運ぶ回数がこれほど少ないなら、ホーンビィのようにホームゲームをすべて見るファンはさらに少ないことになる。
中国とイギリスの"ライトサポ"像ですが、いずれも若干、僕の日本での生活実感からすると意外な感じ。
まず"イングランド"を筆頭とする外国クラブを応援している日本人サポをネット上で見る限り、基本的には国内クラブを応援する場合と同様、対象クラブは固定している、忠誠心を持って応援しているように見えます。勿論"地元"ではないという意味では変わり易いものではあるでしょうが、その場合でもあくまで"忠誠心"を向ける対象が、何らかの理由で変わるというタイプの行動に見えます。決してここで言われている中国人ファンのように、"ころころ"変わったりはしない。
ただ言われてみるとああなるほどねと心当たりがあるのが、最近ではもっと多様化しつつあるのかもしれないですが、伝統的に言われて来たアジアにおけるマンチェスター・ユナイテッドの圧倒的な人気について。正直何でマンUなの?、そりゃ確かにPRは先駆け的に熱心にはやったのかもしれないけどという気持ちがずっとあったので。バルサやレアルなら"憧れ"の対象として分かるし、ACミランにも神話的に強かった先進的だった時代はある。でもマンUって有名ではあっても良くも悪くも非常にイギリス的イングランド的なクラブで、"イギリス文化"へのフェティッシュなセンチメントを除けば外国人が憧れるような対象には思えない。ファーガソンのチームは長く安定して強かったけど、それも別に世界のサッカーをリードしたとかではなくて、イギリス的なサッカー様式美の理想形としてじゃんという。ベッカムなの?ベッカムなのか?という。
まあ"ベッカム"に単純化していいかどうかはともかくとして、要するに究極のミーハー、メジャーなもの何かお祭りがやっている賑やかなものに素朴に寄って行く、そういうマインドがメインなのかなと、中国のファンについての上の描写を読んで軽く納得してしまったんですが。
勿論前提にはプレミアリーグ中継自体のアジアにおける普及の早さというのがあったわけでしょうけど、そうは言っても情報化時代だしなあという。日本でもさすがに"ダイヤモンドサッカー"の時代は神話の時代で、"歴史"としてはセリエAダイジェストあたりがやはり現代への繋がりのスタートだと思いますし。"心当たり"が薄いなあという。
後者に関しても、少なくとも僕のツイッターのリスト"ヴェルディ"や"ジェフ"TL(笑)を眺めている時の"出席"率というか、生観戦の"常識感"度と比べると、思いの外"本場"のサポの実態はライトだなとそういう印象。
まとめて何が言いたいかと言うと、大きくは中国なども含めたアジアの"後発"サッカー国の中にあって、日本人サポはひときわ模範的というか、「理想的なサポーター像」を素直に受け入れている度合いが大きいのではないかという事。そういうものにどうしても馴染めない部分が未だ多く残る、自分の良心の呵責(笑)の軽減感と共に。
あくまで印象ですし、ネットの海は呆れる程広大(未だによく呆れる)なので、僕の"リスト"のサンプリングの有効度に不安はあるとしても。
p.252-253
このモデルはすべてのクラブに完璧にはあてはまらないだろう。それでも92チーム全体のデータを考えれば、前年は見に来ていたファンの50%が次の年には帰ってこないという推定は確実に成り立つ。イングランドサッカーのある分析にはこう書かれている。「たとえばロンドンに本拠を置く3部リーグのクラブには、推定で約1万人のハードコアなファンがいる。チームの状況や相手チームの順位によって観客数は2万人に増える」。この文章は、ロンドンのシンクタンク、ポリティカル・アンド・エコノミック・プランニングが1951年に発表した報告書にあるもの だが、いまでも戦後イングランドのサッカーファンの姿を的確に表している。
p.253
この高い「年間死亡率」は新しい現象ではない。61年間の観客数のデータをみると、イングランドの観客の行動はほとんど変わっていない。ホーンビィ型のハードコアなファンがいることはたしかだが、イングランドでサッカーの試合に行く人の大半はごくたまに行く程度で、応援する チームを替えることも多いのが実情だったようだ。
"92チーム"というのはイングランドの"プロ"クラブの数。「年間死亡率」は前の段落で言っているある年に来たサポが次の年にはいなくなる率。"ホーンビィ"というのはイギリスの"熱狂的"サポのライフスタイルを描いた『ぼくのプレミア・ライフ』
1950年代から60年間変わってないというのが、感慨深いというか何というか。景気の上下や"プレミアリーグ"の興隆とかは、特に関係なく一定。言わばこれが、"普通"の、もっと言えば"正常な"(イングランド)サッカーファンの姿。
"根無し草"としてのイギリス人
p.262-263
イギリスは、農民が生まれた村を離れ、縁のない工業都市で働きはじめた世界で初めての国だった。教会に人々が行かなくなった時期も多くの国より早かった。世界中で人々を土地に根づかせている絆が、イギリス人のあいだには非常に希薄だった。
産業革命が終わったあとも、イギリス人は相変わらず移動を続けていた。いま平均的なイギリス人は、住む場所をおよそ7年に1度の頻度で変えている。欧州委員会が行っている「ユーロバロメーター」調査の2005年版によれば、イギリス人はノルウェー人とオランダ人に次いで、ヨーロッパで最も頻繁に住所を変える国民だ。国を出て行く人も多い。いま海外には約600万人のイギリス人が住み、ほかにイギリス人の血を引く人々が5000万人以上いる。イギリス政府によれば、これだけ多くの移住者を広い地域に出している国は、ほかにインドと中国くらいしかない。
前半は前回出て来た、産業革命時の民族/労働力大移動の話。後半は"海外移住"が多いのは何となく大英帝国の名残りで想像がつきやすいですけど、国内移住の多さというのはなんか意外でした。
・・・多分"イギリスドラマ"愛好者の僕が、「田舎町」や「僻村」を舞台にしたミステリーストーリーを見過ぎているからかも知れません(笑)。そこでは基本住民は固定的で、たまにロンドンに行くとかになったらもうそれだけでちょっとしたイベントなのでね(笑)。(そして名探偵の捜査はたいてい住民の閉鎖性や入り組んだ人間関係に邪魔される)
日本で言えば、いくら金田一耕助ものが繰り返し映像化されているからといって、あれが日本の"典型"だと思われても困るみたいな話でしょうか(笑)。まあこれは余談。
p.263
イギリス人が失ったルーツはもうひとつある。生まれた場所だけでなく、生まれた階級を離れる人も多いのだ。この変化が大規模に始まったのは60年代である。経済が成長を遂げ、学校に通う年数が長くなり、大学進学率も上昇した。労働者階級の国は「中流の国」に変わっていった。
多くのイギリス人には痛みのともなう変化だった。父親は工場労働者だったのに、その子どもたちはサラリーマンや専門職になった。必要とされる経験や技能は父親と違う。人々はルーツとの接点を失った。
引き続きイギリス事情。単純に面白いというか、言われてみるとなるほどというか。
全体としては何を言っているのかと言うと、
1.イギリスにおける特定のサッカークラブを重要なアイデンティティとして熱狂的に応援するという習慣、(多数派ではないにしても)典型的象徴的な"サポーター"像誕生の背景
2.そしてそれが実は"多数派"ではないにも関わらず、"典型"として受容され"物語"として愛される国民的背景
についての説明です。
これ自体はそれなりに説得的だとは思いますが、日本も含む世界各国の"サポーター"と"熱狂"の実態や由来について理解するには、やはりまた別途研究・思索が必要な感じはします。面白いけれどこれだけだと、割りとありがちな"国民性"論に見えなくはない。イギリス特殊論というか。
自殺と悲劇
p.281
国を挙げての一体感がこれほど生まれるのは、スポーツを除けば戦争や大災害くらいだ。わかりやすい例をあげれば、1963年にジョン・F・ケネディが暗殺された直後の1週間――アメ リカ中が悲しみに暮れるとともに「ひとつ」になった日々だーには、調査対象となった3都市で自殺が1件もなかった。やはりアメリカが「ひとつ」になった9・11同時多発テロの直後には、「自殺防止ホットライン」にかかってくる電話が通常の約半数の1日300件程度に減った。ジョイナーによれば「史上最少」の数字である。イギリスでは1997年、ダイアナ妃が死んだ後に自殺が減っている。
このすぐ後で述べるように、著者は大型スポーツイベントやスタジアム建設(≒プロスポーツチーム招聘)に"経済効果"なんてものはない、コンサル業界や一部御用学者によるアメリカ発の壮大な詐欺であるという立場の人なんですが、一方で幸福"感"一体"感"を与える効果はある、その良い例が(別の原因での予備軍に対する)自殺率の抑制であるということも主張していて、これはその流れでの議論(統計)。
直接サッカーは関係無いですけど、単純に面白いですね。別に夢"も"希望"も無くても他に大きな気がかりや関心事があると人は自殺しなくなるというのは、やはり自殺というものが、"甘え"とは言わないですけどかなり特殊な行動だということを表しているようには見えますね。"自然"なor"仕方のない"自殺というものは少ないというか。もし自殺志願者に会ったら、とりあえず"止め"ておいて間違いは少なそう。(笑)
スポーツの「経済効果」
p.283-284
いま南アフリカには、これによく似た言い伝えがある。2010年に世界のリッチな人々が飛行機でやって来て、この国を救ってくれる......。2004年5月に南アフリカがワールドカップ開催国の座を勝ち得た日、ソウェトの人々は歓喜のあまり叫んだ。「金が来るぞ!」ヨハネスブルクで出会う人々の半数は、2010年に向けた計画を何かしらもっている。大会期間中に貸すためにアパートを買う、スタジアムの外でソーセージとコーンプディングを売る、 農家の女性たちを集めて参加国すべての国旗をビーズで編む。南アフリカの人々の話題はそんなことばかりだ。新聞を開けば、有名人がいま取り組んでいる仕事を話し、たいていこうつけ加える。「とにかく2010年に間に合わせないと」。「2010」はすっかりマジックナンバーになった。
2010年のサッカーW杯開催を控えた南アフリカの人々。
なんか微笑ましいというか、みんなの願いが叶えばいいね!と、単純に盛り上げてあげたくなりますが。(笑)
しかし・・・というのが、以下の話。
[スタジアム建設と地元経済]
p.285
アメリカの場合、スポーツチームのオーナーは本拠地になりたがっている都市の納税者に、だだっ広い駐車場つきスタジアムの建設費用を払わせる。やがてスタジアムはオーナーに譲り渡され、さらに彼はチケットを売って金を儲ける。
p.285-286
典型的な例が1989年にあった。当時のアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュの息子をはじめとする10人の投資家が、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズに8300万ドルを出資した。ブッシュらはもっと大きなスタジアムを欲しがった。右派の億万長者のグループだというのに、彼らはスタジアム建設費用を納税者に負担させようと決めた。もし実現しない場合はレンジャーズを他の都市へ移すと、新しいオーナーたちはおどかした。地元アーリントンの人々は市内の消費税の0・5%引き上げにおとなしく賛成し、スタジアム建設に必要な1億9100万ドルを捻出した。
(中略)
ブッシュのグループは1998年、レンジャーズを2億5000万ドルでトム・ヒックスに売却した。金額のほとんどは納税者が建てたスタジアムに対する評価だった。ブッシュ個人は1490万ドルを儲けた。
ひでブ。
子ブッシュとその取り巻き連中がいかにナチュラルにク〇かなんてことは今更真面目に論じるような話題でもないと思いますが、ここでの問題は彼らがどんなに悪どくて小狡いことをしたかではなくて、こうした「ビジネスモデル」がいかに確立・定着して日常的に行われているかという、そういうことだと思います。彼らの"悪"が独創的なら、まだ救いはあるというか。
p.286-287
納税者にスタジアム建設費用を払わせたい人は、経済学者を雇って「経済効果」を分析させた。まったく奇妙なことに、この手の分析はほぼ例外なく、スタジアムを建てれば納税者はリッチになると結論づけていた。
p.287
理屈はたいていこんなところだ。スタジアムを建てればまず建設業界に雇用が生まれ、完成後はスタジアムで働く人の雇用を生む。ファンがあらゆるところから集まってきて(「それをつく れば彼が来る」)、金を使う。ファンにサービスを提供する新しいビジネスが生まれる。スタジアム周辺に人が移り住み、さらに多くの人が移り住みたいと願う。そうなるともっと多くのビジネスと雇用のチャンスが生まれる。
前者のような試算が下駄を履かされているだろうことはさすがにどんな能天気なタイプの人でも薄々は感じるところだとは思いますが、それでも後者のような"説明"に心躍らされる面は大きい、何らかそんなようなことが起きるんだろうな起きて欲しいなと、割りと普通に納得しているというかこういう説明を"流通"させているところは広くあると思います。理想的過ぎる想定ではあるだろうし後に問題は残るんだろうけど、とりあえずは"効果"はあるんだろうと、渇望に近い期待を込めて。
p.287
たとえば経済学者が、もしスタジアムを建てれば、むこう1年間に3億ドルの経済効果があると言ったとする。実際は市の収入が10年間で10億ドルしか増えなかったら、そこにはべつの要因 (たとえば世界経済の状況)があったと言えばすむ。もともとの予測がまちがっていたことを証明するには、スタジアムを建てなかった場合にどれだけの収入増があったかを予測しなくてはならない。だが、そんな仮定の数字はわからない。スタジアムはもう出来てしまっているからだ。やがて経済学者は、今度はオリンピックにもっと多額の金をつぎ込むことを正当化する研究にとりかかる。
オチが秀逸。(笑)
[ロブ・バーデによる反"経済効果"説]
p.289
バーデの率直な問いかけは、スタジアム支持派にいつも無視された。たとえば、新しいスタジアムを建てる建設労働者はどこから来るのか。彼らにはすでに仕事があったのではないか。だとしたら他の場所で人手不足が起こらないか。もし労働者の奪い合いになれば、建設コストがかさむことにならないか。 1ドル入ってくるとしたら、おそらくどこかで1ドル出て行く。とりわけ市が財政を均衡させ くてはいけないなら、スタジアムに金を使えば病院や学校に回す予算はその分減る。そこで職が失われれば、スタジアムのもたらす利益からは差し引いて考えるべきだ。
p.290
他の都市からスタジアムにやって来る人もそれほど金を落とすわけではないと、バーデは考えた。市外から来るファンはホットドッグとビールを買い、試合を見る。そして帰る。これを経済効果とは呼ばない。ショッピングモールやシネマコンプレックスのほうが、あるいは病院でさえ、スタジアムよりは消費を促すはずである。
名前からしてドイツ系かな?とは思いますが、原語表記及び本人データは見つからず。そう言えば注とか一切無い本だな。
とにかくロブ・バーデという元バスケットボールプレーヤー(ウィスコンシン大のキャプテン)の若手経済学者(多分すっごい変わり者)による、空気を読まないというか"王様は裸だ"研究。すると・・・という。多分研究自体は、そんなに複雑なものではないんだろうと思いますね。誰もやらなかっただけで。金持ちクラブへの恐れと、上で言った庶民的"願望"の煙幕に遮られて。
"ショッピングモール"や"シネマコンプレックス"はともかくとしても、"病院"との比較は結構痛快。あっという感じ。何らか精神の"死角"に届いている研究なんだろうなと、瞬間ぴりっとします。(結果は調べてみないと分からないわけですけど、調べてみなくてはという気にはさせる)
p.290-291
スタジアムが建設されなかった場合の経済状況は予測できないかもしれないが、スポーツチームの本拠地となった都市と、そうではない都市の経済成長を比較することはできる。
(中略)
バーデは、さまざまな都市の市民1人あたりの収入や新たに設立された企業の数、新規雇用などのデータを分析した。突っ込めば突っ込むほど、スタジアムがある都市とない都市の経済状況には差が見えなくなっていった。スタジアムの建設費用は明らかになんの利益も生んでいなかった。
スタジアム建設の項の最後の、"経済効果"の検証不能性(建てなかった場合との比較が出来ない)という問題に対応した研究。
p.291
やがて周囲が注目しはじめた。他の経済学者もバーデの研究を下敷きにして、スタジアムが富を生むかどうかを検証する新たな方法を見つけていった。こうしてアメリカの多くの都市で、スタジアム建設への反対運動が始まった。
90年代半ば、バーデは連邦議会で証言を依頼された。彼が証言する日、議会ではクリントン大統領の不動産取引に端を発する「ホワイトウォーター事件」と、ボスニアへの軍事介入に関する公聴会が開かれていた。だがスタジアムに関する公聴会が始まると、他の部屋は空っぽになった。
ざっとした記述ですが、さすがアメリカいったん火が付いた後の、進捗もリアクションも早いなあという感じ。
後半は一応、連邦議会に招かれるまでに認められたという事を表す記述ではありますが、アメリカのおじさんたちがスポーツ大好きな感じが窺えて面白いですね(笑)。それだけにインパクトのある研究でもあったんでしょうけど。
p.292
このころには、スポーツ大会のホストになるのはいいことだとするアメリカの議論が外国にも広まっていた。
「巨額の経済効果」への期待がふくらみ、あえなく砕け散るという展開は、やがてサッカーの主要大会にはつきものになった。
"本国"では廃れ始めた理論の、時間差での他国への波及という悲喜劇。ちなみに"商業主義"五輪の始まりと一般にされるのが、1984年のロサンゼルス五輪(Wiki)。子ブッシュの(手慣れた)案件が1989年で、バーデの研究が認められて議会に呼ばれるのが90年代半ば。(というタイム感)
"ロサンゼルス"の時点で、既に国内的にはやばさが囁かれていた、そういう時期だったのではないかなという。
[サッカーの大型大会の例]
外国のファンは金も落としていかなかった。大会がイギリスにじかにもたらした金額は1億5 500万ドルだった。1996年の1年間に外国人観光客はイギリスで200億ドルを使っていたから、まったく微々たるものである。リバプール大学とリバプール市の調査によると、大会期間中にリバプールを訪れた外国人は3万人で、使った金額はわずか156万ドルだった。これによって雇用はどれだけ創出されたのか。答えは30件、すべて臨時雇いだった。
1996年の欧州選手権イングランド大会。
30件て何?病院作ろう、病院。
p.292
数年後、日本と韓国で2002年のワールドカップの経済効果が試算され、(中略)ワールドカップが経済を押し上げた痕跡はないに等しく、フーリガン騒ぎを恐れた観光客が渡航を控えた証拠だけが見つかった。
むしろ大型スポーツ大会が"あるから"来ないタイプの観光客もいるという視点は、結構盲点でした。引き算の"経済効果"。
p.293
しかもスタジアムはほとんどが税金によって建てられていた。日本がスタジアムの新築・改築に投じた3340億円の約64%は開催地の自治体が負担していた。この金額の大半は、親切な納税者からJリーグクラブへの贈り物となった。
正直に言いましょう。皆さんも。
この機会だから上手く自治体をだまくらかしてかっちょいいスタジアム建てさせちゃえとい邪心/下心は、リアルタイムで持ってなくはなかったですよね。(笑)
嘘つきなのは投資家だけではない。どだいスポーツなんて儲からないに決まっている、"社会的価値"は無いとは言わないけれど、本質的にはスポーツ側の自己利益的"弁論"であると、本当はみんな知っているはず。
p.294-295
ワールドカップに来ていた他の外国人(全体の4分の1程度)は、ふたつのグループに分けられる。まず「訪問時期変更組」。どうせドイツに行くことになっていたからワールドカップ期間中に合わせた外国人だ。もうひとつのグループは、ちょうど大会期間中にドイツにいたので、ワールドカップはどんな感じなのだろうと見に来た外国人である。プロイスのチームはこれを「ついで組」と呼ぶ。
「訪問時期変更組」と「ついで組」を合わせても、経済を押し上げる効果はほとんどない。この人たちはワールドカップがなくてもドイツで金を使っていたのである。プロイスのチームは調査対象者に支出の内訳を細かく尋ねたうえで、ワールドカップに来た人々が落とした金額を8億ユーロと推定した。ドイツの消費者の年間支出は1兆ユーロを超えているから、まったくたいしたことのない金額であり、ドイツが大会のために投じた金額も大きく下回っていた。
2006年ドイツワールドカップ。
先ほどの"むしろ来ない"観光客という事例と、似た話。
経済"効果"を計算する時に、何を"足し"たらいいのか引いたらいいのか、全体像をどう見るべきなのか。
p.295-296
UEFA(欧州サッカー連盟)は関係者とゲストのために、すべてのスタジアムから車で5分以内の場所に5つ星ホテルを丸ごと借り切るよう求めている。さ らに参加国向けに16のホテルが必要になる(大半は5つ星)。審判はスタジアムに近い5つ星ホテルに宿泊しなくてはならない。ドーピング検査を担当する医師にも5つ星ホテルが必要だが、こちらは「田園地帯」にあることが条件だ。ホテルにかかる費用の大半はポーランド政府が負担する。
これは端的にUEFAの乱脈というか"体質"の例、かな。
どうもてなすかなんて開催国の裁量だなどという"正論"は、招致活動の時点で既にとっくにどこかへ消えているんでしょうね。
"ポーランド"というのは2012年欧州選手権ポーランド/ウクライナ共催大会の主催者。(ぶっちゃけ記憶に無いですが)
p.302
幸福感は大会後に大きく上昇する一方で、大会前にはいくらか低下している。スタジアムの工事は間に合うのか、イングランドのフーリガンは押し寄せてくるのか、わが代表チームはふがいない戦いをしないだろうかといったお決まりの騒ぎが、ストレスを高めているものと思われる。大会の6年前、4年前に行われた調査では、サブグループの多くに幸福感の低下が確認で きた。
おまけ。
今回端折っちゃいましたが、スポーツの大会招致や本拠地化は、経済的には地元に利益をもたらさないが、"幸福感"は確かにもたらすという、著者のもう一方の主張に関連して。
ワールドカップと欧州選手権の、複数の大会を対象にした研究の結果。
大会前に必ず一回幸福感が低下する時期があるという、面白い結果。マリッジブルーみたいなものか。(そうなのか?)
まあ招致成功の喜びという最初のピークと、その後一回冷めて現実的な心配事が色々目につき出すというのは、言われてみれば当たり前の事ではあるんですけど。改めて"研究"として出されるとまた別の感慨が。
結局図らずも口走った"マリッジ"という例が、近いような気はしますけどね。"利益"計算で出来るようなものではない、先に地獄が待ってるかもしれないけど今はとにかくするんだ!という。(笑)
サイモン・クーパー&ステファン・シマンスキー著。2010年。
前に図書館でポチ(?)してあったのを、ふと思い出して。
『ジャパンはなぜ負けるのか』という挑発的なタイトルではありますが、それはまあ日本向けの編集で、該当箇所もそれ用に書き足されたもの。
経済学と統計学の観点から、サッカー界の伝統と常識の不条理と嘘を列挙して行く内容。
あんまり僕が"コメント"するような(出来るような)タイプの本ではないんですけど、エピソードとしては面白いものが沢山あったので、ずらずらーっと。
まずは全14章の、ちょうど半分を。
ジャパンはなぜ負けるのか
p.40
辺鄙なところにいれば孤立する。だが、ネットワークがあれば接点が生まれる。(中略)
あいにく日本よりサッカ ーのうまい国が多いのも、ネットワークを考えると説明しやすい。日本サッカーのかかえる最大の問題は国の位置だ。世界で最高のサッカーが行われている西ヨーロッパのネットワークから遠すぎる。その距離を縮めるための努力をしているともいえない。
あっさり言えばそこですよね。仮に協会首脳陣が"洋式"派に入れ替わったとしても、結局距離感やずれ感、これじゃない感は大して改善されないんじゃないかという気がします。あれこれ遠くで考えるよりも、日々そういう相手とやることから自然に体得するもの決まるものの方が大きいというか。
オーストラリアを強くして"あげた"のは、アジア(が受け入れたこと)ですよね(笑)。まったく余計なことを。(笑)
p.53
ヨーロッパで8年間プレイした中田英寿は、2006年のワールドカップのころには他の日本選手をほぼあらゆる面で上回っていた。当時の日本代表監督ジーコは「練習メニューを中田に合わせると他の選手が壊れてしまう」と語っていた。
なるほど。
そういう意味も含めての、あの「日本人はフィジカルが足りない」"それ今言ってどうする"退任会見だったんだとしたら、多少はジーコの立場を理解してあげる必要も出て来るかも。
p.54-55
そこそこの選手がいて、西ヨーロッパのサッカーの知識があり、準備する時間がそれなりにあれば、「周縁」の国でもいいサッカーができるのだ。それなのに日本は、西ヨーロッパの指導者を雇うことに奇妙なほど乗り気ではない。オランダ人のハンス・オフトは1992年に日本を初のアジアカップ優勝に導いた。フランス人のフィリップ・トルシエは2000年のアジアカップで日本を優勝させ、2002年のワールドカップでは決勝トーナメントに進めた。しかし日本代表の歴史のなかで、西ヨーロッパの監督はこのふたりしかいない。
一読目の時は気が付かなかったんですが、"2010年"ということはつまりこの人は「オシム」(2006-2007)も含めて"駄目"だと言ってるんですね、「西ヨーロッパ」じゃないから。日本人的には"日本人"か"外国人"か、"外国人"の中でも"南米"か"欧州"かという区分けでしか見てないので、"西ヨーロッパ"限定にこだわる視点はある意味虚を衝かれました。
・・・そう言えばオシム"代表監督"に対して故クラマー翁がかなり批判的だったんですよね。日本人監督の方が上だとか(『”FAIRPLAYの記憶”:D・クラマー編より』)。言葉数はそんなに多くないですけど、結構感情的だった記憶。あれにもそういうニュアンスがひょっとしてあったのかな、"ドイツ/西ヨーロッパ"人として。東欧なんて田舎だ。田舎もんが田舎もんに教えてどうするという。(俺たちを差し置いて)
p.55
ステファン・シマンスキーがイングランドの数百人のクラブ監督の成績を1974~1994 年にわたって分析したところ(中略)選手時代のデータは監督としての成功を予測する材料にはなりえず、わかったのはディフェンダーとゴールキーパーが監督としては成功していないことだけだった。監督の現役時代のポジションで圧倒的に多かったのはミッドフィールダーで、フォワード出身の監督は平均より少しだけ成績がよかった。
ディフェンダーとゴールキーパーが監督としては成功していない。そうなのか。何となく"根性"派が多い印象はありますけど。
あと駄目っぽい印象が強いのは、現役時代"華麗"なテクニックで売ってたMF系。司令塔ではなくて限定的に美味しいところだけ関わる系。
まあ"統計学"の本に対して、"印象"とか言っててもしょうがないんですけど。(笑)
・・・このパート全体としては、要はしのごの言わずに「西ヨーロッパ」に倣っとけ、それが近道だという内容。
Part1 クラブ
移籍ビジネス
p.67
イングランドのあるビッグクラブが、スカウトの推薦してくる選手がたいてい金髪であること に気づいた。見た目の似かよった2人の選手のなかでは金髪が目立つためではないかと思われた (スカンディナビア諸国での試合は例外かもしれない)。まわりと違う色には、どうしても目が行く。だからスカウトは自分も気づかないうちに、金髪の選手に注目する。このクラブではスカウ トのリポートを読むときに注意することにした。
日本人にはあまり関係無い話ですけど、面白い。(笑)
逆にJリーグの外国人で"金髪"ってほとんど記憶に無いですね。ロッサムはそうでしたっけ?
見慣れないのでむしろいんちき臭いというか、ちゃんとサッカー出来るの?みたいな気持ちになったりして。(笑)
p.77
失敗したリロケーションの典型例は、1999年にニコラ・アネルカが レアル・マドリードに移籍したときだ。スペインのあるリロケーション・コンサルタントは、いまでもこの移籍を顧客への宣伝材料に使っている。
(中略)
レアルはアーセナルからアネルカを3500万ドルで獲得したが、彼を新しい環境に適応させるためには1ドルも払わなかった。チームに合流した日、内気で世間知らずな20歳の若者は、誰も施設を案内してくれないことに気づいた。ドレッシングルームのロッカーも割り当てられなか った。初日の午前中に何度も、アネルカは誰も使っていないようにみえるロッカーを使おうとした。そのたびに誰かが来て「そこは俺のだ」と言った。
新加入選手が移籍先/引っ越し先で落ち着けるように気を配るべき(増して高い金払って買ったんだから)という話ですが、これはちょっと酷いなレアル。ロッカーが見つからないってどういうこと。どこの練習(参加)生の扱いだよという。これでやる気を失ったとしても、一概にナイーブだとは責められない気がします。
レアルに限らず、ヨーロッパではよくある話だということ。"立派"なビッグクラブでも。
94-95
最後にクラブ関係者への大サービスだ。移籍市場を勝ち抜く12のポイントをまとめておこう。
1 新監督は移籍に無駄金を使う。使わせるな。
2 「群衆の叡智」を生かせ。
3 ワールドカップや欧州選手権で活躍したばかりの選手は過大評価されている。無視せよ。
4 一部の国籍は過大評価される。
5 ベテラン選手は過大評価される。
6 センターフォワードは買うな。
7 紳士はブロンドがお好き。「見た目による先入観」を捨てよ。
8 20代初めが選手の買いどき。
9 選手の市場価値より高いオファーが来たら、迷わず売れ。
10 中心選手を放出する前に代わりを用意せよ。
11 私生活に悩みをかかえる選手を安く買い、問題解決に向けて支えよ。
12 選手のリロケーションを手助けせよ。
あとはせいぜい常識をはたらかせよう。
詳しくは読んでもらうとして、"2 「群衆の叡智」"だけ補足しておくと、「多様な人々の集団にみられる異なる意見を集めれば、ひとりの専門家に意見を聞くより、最良の結論に達する可能性がはるかに高い」という理論だそう。対してイングランドサッカー界では、監督独裁が主流であると。
監督と(GM等)スタッフ人事
p.106
サッカークラブでは、たいてい前任者をクビにして数日のうちに後任を決める。「時間をかければクラブに決断力がないと思われる」と、ヨハンソンとともにパネリストをつとめたイリア・カエンツィヒは言 った。このとき彼はハノーファー9のゼネラルマネジャー(GM)だった。
p.113
メディアやファンもクラブの分別ある判断を妨げることが多い。いつもクラブに素早い対応を求めるのだ。チームが3敗したら、ファンは監督をクビにしろとか新しい選手を買うべきだと言いはじめる。1カ月前につくったビジネスプランを捨てろというようなものだ。
これは若干耳が痛いかも(笑)。さっさとクビ切れ問題もそうなんですけど、サッカー界の"サイクル"としては、"次"がすぐあるのが当たり前というか、決まらないと"慎重にやってるな"ではなくて、「決めておいてからクビ切れよ」という"無能"判断がなされる傾向が強い気がしますね。間置かない方が優秀というか。
それは一つには普通の企業とは違って"大過なく"ビジネスが回ることに余り意味がない、「代行」「暫定」監督の下で消化する試合得られる勝ち点に、よっぽどシビアに降格でもかかっていない限り余り価値が見出されない、あくまで正式監督の下での"将来"や"プロセス"だからこそ、感情移入なり分析の価値が出て来るという、そういう事情はあると思いますけどね。
ただ現実的なプロセスとしては、やっぱり多少、我々は急がせ過ぎなのかもしれない。
p.113
「この産業における消費者運動はじつに過激である」と、A・T・カーニーの『利益をめざすプレイ』と題する報告書にはある。
"消費者運動"(笑)。まあ確かに。見ようによっては。(笑)
我々は皆"物言う"消費者。
普段"社会"的なことに余り関心の無い人や、"市民運動"的なものを毛嫌いする政治信条の持ち主であっても、ことサッカーチームの応援ということになると。気が付くと。(笑)
p.112
あるいは、コンサルティング会社A・T・カーニーのエマニュエル・エンベールが指摘するように、多くのクラブが独裁的なオーナー経営者に牛耳られているためでもある。エンベールは言う。「自尊心を満たすためにクラブに金を出している人がごまんといる。ビジネスにとって決していいことじゃない。オーナーは監督のほかには、まわりに強い力 をもつ人間を置きたがらない。給料も非常に安い」
こちらは"GM"以下プロフェッショナルなスタッフが、サッカー界では育ち難い理由の話。