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22-23ペップ・シティについてのいくつかの書き残し
2023年06月14日 (水) | 編集 |
試合中を中心に、今季のシティに関してはツイッターでだいたいその都度言いたいことは言っていた気がするのでそんなに言い"残し"たこともないとは思うんですが、それでもそういえば言ってないなということや言うタイミングが特に無かったことも無くはないので、1年(1シーズン)に一回くらいはという意味も含めて、ブログ記事として。
まあ内容的には、それこそツイッターで十分そうな内容ではあるんですけど。


「0トップ」と「ハーランド」の間

20-21シーズン限りのアグエロの退団及びそれ以前からの稼働率の極端な低下以来、長らく不在だったリアル・ストライカー役として、また特にCLでの同格以上の相手との試合での膠着状況の打破・決め手役として、言い替えればチーム悲願のCL制覇の切り札として(と、少なくとも日本の世論の大勢では目されて)今季シティに加入して来た、ノルウェーの若き大型ストライカーハーランド
前者に関してはご存知の通り、プレミアリーグの得点記録を超時代的に更新する活躍で、十分過ぎる程期待に応えて見せました。
ただ後者に関しては、専ら格下相手の試合では順調に得点を稼いだものの、大会大詰めの準決勝以降、宿敵であり代名詞的な"同格以上の相手"レアル・マドリーとの準決勝2試合でも、続くインテルとの決勝でも得点を挙げることは出来ず、結果だけ見れば役目を果たせたとは言えない結果に終わりました。

ただそれによってチームがCLのタイトルを逃した訳ではなく、また一方で"ハーランドが点を取れない"ことへの対処(極端な例としては0トップへの復帰とか)によってタイトル獲得が達成された訳でもなくて、"テーマ・ストライカー"としては若干ボケた感じのシーズン終了となりました。


・・・こんなやや後出し的な"まとめ"などもありつつ。笑

ともかく、そのストライカー不在時代にペップ・シティが練り上げた、CLこそ獲れなかったもののそれはそれで世界的な名声を博した「0トップ」サッカーと、その限界を更に突破させるべく獲得された"ラストピース"としてのスーパーストライカー「ハーランド」、途中ハーランドのチームへの組み込みに苦しみ"虻蜂取らず"状態になりかけていたように見えていた期間は特にですが、この二極をめぐって、大きくは今季のシティが議論の対象となっていたのは、確かだと思います。

ただこの自明にも見える前提に、議論の優先順位の問題としてあえて口にはして来ませんでしたが僕はしっくり来ない/もやもやもするものを実はずっと抱えていて、それは0トップかそうでないか、専従的ストライカーなしかありかという一般的な問題構図と、そのストライカーが「ハーランド」であること(あるいは「ハーランド」をフィットさせるという課題)との間には、少し距離があるというか飛ばされているステップがあるのではないかということ。
つまり以前牽牛星さん(@kengyuusei0330)のストライカーありきの(ペップの)チームビルディング論に対して、それはサッカー界の中でも特別/特殊に能力の高いストライカーの存在を前提にした時に、主に機能する方法論/問題設定なのではないかという話を僕はしました。(『「徹底」と「最大」の微妙な違い ~今更牽牛星さんへの返答』)

議論の土俵自体を変えてしまう選手の質の差

現代における自己完結的なアタッカー類型
(ハーランド、レバンドフスキ、ムバッペ、メッシ、クリロナと例を挙げて)
共通するのはプレーの"基準"、要求水準の決定的上昇と、更にはグローバル化によるその集約・集積的加速の試練を乗り越えることによって生まれた、歴史的視点で見てもある種突き抜けた"新しい"アタッカーたちだということです。

自己完結できるアタッカーを前提としたチーム作りの話と、しないチーム作りの話とでは(違う)


ここで言っているのは何かというと、各時代に存在する一流ストライカーたちの中でも現代の彼らのような選手たちは特別に能力の高い、自己完結性の高い、"戦術〇〇"のような扱いがむしろ自然なような超絶的カテゴリーの選手たちであって、例え一流の部類ではあっても一般の(?)ストライカーたちとは区別すべき存在であるということです。
名前を挙げているように、勿論ハーランドもそうしたレベルの存在だと僕は考えているので、もしペップ・シティが一般レベルの一流/有能ストライカーを使った上でCLの壁に跳ね返されていたのなら、そこを超絶レベルに替えてみたらどうなるかというのは順当なステップな訳ですが、実際にはそもそもストライカーのいない"0トップ"のチームで試行を繰り返していた訳ですから、そこからいきなり超絶レベルの"ハーランド"では、試すべきステップが論理的に一つ抜けていることになる訳です。
ストライカーが必要か必要でないかではなく、超絶的ストライカーが必要かの話に一気に行ってしまったという。文脈的に名指しするのが若干躊躇われるところではありますが(笑)、シティ関連の名前で言えば例えば何度か名前の挙がったハリー・ケインとか、あるいはもっと若く健康でフル稼働の可能なアグエロ(笑)でもいたら、順番通りに前者(ストライカーが必要か必要でないか)の問題の検討が出来たかもしれませんが。

勿論実際の補強はその時獲得可能なそのポジションの最高の選手を獲りに行くのが普通で、ハーランドがリーズナブルな価格で獲れるのにそれをやめてわざわざより平凡な選手を獲る(うっかりするともっと高いかも知れない)なんてのは非現実的な話なので、まあ来てしまったものは仕方がない(笑)し誰を責めるつもりも無いんですけど。
そもそもそれ以前に、僕がこんなことを気にするのは0トップ基本で築き上げて来たチームに誇りや愛着や興味があって、その続きないし変えるにしても延長を見たいという気持ちがあるからで、その気持ちを共有しないあるいはもっと単純に"CLを獲る"ことへの最短距離に(のみ)興味がある人(それは当のペップやフロント自体がそうかもしれない)には関係の無い話でしょうし。
ただ大きくは"延長を見たい"派と思しき人でも、"ハーランド襲来"の陰て飛ばされた"ステップ"について言っている人が見当たらない(知らないだけでどこかにはいると思いますが(笑))ので、実はこんなことを未練たらしく気にしてたんですよということを、書いておきたくなりました。(笑)

細かいことを言うと、(超絶)"カテゴリー"だけでなく、ハーランド"個人"の資質的問題みたいなものも、あったような気がします。
同時期に移籍の噂があったり実際に移籍した選手の中でも、例えばエムバペならば3トップのどこでもプレー出来て試合中の移動もよりスムーズで、互換性を基本とする(それまでの)ペップ・シティのやり方に接続し易かった気がしますし、レバンドフスキならばポストプレーと言う分かり易い戦術要素を(得点能力とは別に)兼備していて、それはそれで使い易さがありそう。
対してハーランドはほぼセンター専門のワンタッチゴーラーであり、カウンター専用機的性格も強くて、シティにとってより文脈遮断的というか、あえて言えば相性の悪い選手だったような。(一方で"子供っぽく無邪気"に近い素直な性格は、この後に述べる"無限オープン成長マニア"としてのペップ監督のチームに相応しいとも言えるかもしれませんが)

いや、実際どうなるんでしょうね、来季以降のシティ&ハーランドは。
この1年に両者が実現した融合/化学反応自体にはそれなりに十分な見応えはあったと思いますが、言ってしまえば最大の"目的"は既に達成してしまったので、要らないとは言いませんが(笑)苦労してその作業を続ける意義は見え難いと言えば見え難い。"ハーランド"自体への興味や"ハーランド入りシティの最高到達点"への興味や夢を、別に描くことは可能ではありますが、ただそれはどんな選手についても言える訳で。なまじいち選手とは言いづらい存在感を、どうしても避けられないスーパーな選手であるだけにね。目標がぼんやりしているとどうもテンションの上げどころが。
実は見たいものははっきりあって、それは戦術的にどうとかではなく、今季のCLでは結局見せられなかった本当に決定的な試合で"理不尽"を振るうハーランドの姿。・・・まあその為に"戦術"が新たに必要となるのかも知れませんが、とにかくそれを見ないとそれこそ獲った甲斐が尽くされたとは言い難いようなそんな贅沢欲求。それは"0トップの延長"論とは、全く別の、ひょっとしたら反対の欲望ではあるのかも知れませんが。(笑)

最後にもう一度だけ本筋に戻ると、例のアルバレス大活躍のリバプール戦で、"0トップ+ノーマルストライカー"チームは、実現したと言って言えなくはないのかも知れません。たださすがに1試合だけの話ですし、それでCLを戦った訳でもないので。
はい。(笑)



ペップ・シティのサッカーはロボットサッカー?

持ち主の人柄のせいか、僕自身のTLはいつも至って平和で直接そんな騒ぎを目にすることは無いんですけど、@j0jene011 の人(元"ジェン"さん・・・の筈ですがは?(笑))を筆頭とする好戦的なタイプのシティアカウントをたまに覗くと、シティは割としょっちゅう特定的なタイプの煽りをプレミア他サポから受けているらしく。(実際は試合の前後以外低浮上なので雑情報が目に入らないだけだろうと思います笑)
その中の代表的なものとして、「(ペップ)シティのサッカーはロボットみたい」「無感情でつまらない」的な、表現は色々でしょうがそういうものがあります。(あるようです)

それに対する僕の反応はというと。
分かるけど・・・。今?というものになると思います。
付け足すとすれば、プレミア見始めて何年?またはいつから?という素朴な疑問になりますか。
というのは僕自身、(初年度)16/17のペップ・シティに対してなら、そういう感想を持ったかもしれないし書いたこともあるような気がしないでもないので。その後ももう一回くらい、17/18のリーグ初戴冠の喜びが過ぎての3年目から0トップ本格稼働前のどこかの半年なり1年なりの期間にも、そんな感想を強めに持って、寝落ち頻度の高い観戦生活を送っていたような記憶。

まあ、そう言われ易いサッカー、チームではあると思います。
シティに限らずポジショナル・プレー濃度の高いサッカー全般の特徴としての、淡々と特定の論理的帰結に状況を追い込んで不確定要素(とそこから来る激情?)を抑え込んで行くようなプレースタイル、その中でもペップ・シティの、常軌を逸して真面目な監督と、その監督の指導に耐えた/耐えている真面目な選手たちによる、極端に波の無いクオリティの安定した、ほとんどいつ見ても黙々と真面目な(笑)試合ぷり。そしてそうしたチームがあげている長期に渡る安定して圧倒的な(特にリーグの)戦績。どうせ勝つんだろうな結局優勝するんだろうなという"結果"に対する若干の醒めた思い自体は、その結果を喜ぶシティ・ファン自身も抱いたことが無いと言えばそれは嘘になるだろうと思います。

ただ、ただですよ。
ある程度の期間見ていれば、上で既に"常軌を逸した"と書いてしまってはいますが、その"真面目さ"がいかに異様でそれ自体驚嘆の念を抱かせられるものか、ペップの探求心、向上心、自己改革の躊躇の無さ、"閉じ"たり落ち着いたりすることを知らないのではないのか普通の人なら働く特定の神経伝達物質の分泌が何らかの理由で休止状態にあるのではないか(笑)と疑わせる思考の活動性の止まらなさとそのサイクルの回転速度、その時々のアウトプットが何であれ見栄えがどうであれ、それ自体はもう「情熱的」としか言いようがないもので、逆にこれが"情熱"じゃなかったら何なのかな、あ、ごめん言い方が甘かったのかな狂気とか狂熱的情熱とかともっと絞り込まなかったから誤解されたのかな?え?そうではない、あそうみたいな。
ということに、一定期間以上ペップ・シティを見ていながら、あるいは同じリーグの専従的観戦者として暮らしていながら、何らか気付かない、感じないのだとしたら、感じない人なのだとしたら、それはもう、しょうがないよねという。"反論"の対象ですらないよねという。ただただ、しょうがないよねという。文章だからこうしてあえて書いてるけれど、もし面と向かってそういうことを真顔で言われたとしたら、僕はただ「はあ。」としか言わないだろうと思います。はあ。そうすか。(おっ、一言増えた)
一方で折に触れて見かける、当のシティ・サポもたじろぐような(笑)真剣さ熱心さで、ペップ・シティのサッカーについて語る他サポたちの存在よという。だからまさか今更、2023年にそんな批判を耳にするとは思わなかったので、目を白黒したという。(逆にだから歴が浅いんだったら仕方がないけどと言う、冒頭の話)

勿論プレーするのは監督ではなくて選手なので、監督の人格だけで話を終わらせる訳にはいかないでしょうけど。
選手の方は確かに、次々課される新タスクや新機軸を、実行するのに消化するのに手一杯で、監督の頭の中程"情熱的"でもいられないことはままあるでしょうが(笑)、一方でペップ・メソッドの代名詞的存在である「魔改造」の数々、"瞬間芸"ストライカー以外の何者でもなかったアグエロのタクティカルFW化あたりに始まり、出て来た時は繊細華麗な中盤テクニシャンにしか見えなかったフォーデンの強襲ウイング&ストライカー化(挙句のサイドバック化笑)、逆に剛球一直線のスペシャリストサイドバックであったウォーカーのMF化スルーパサー化、続く同ポジションのカンセロのご存知"カンセロ・ロール"、これは改造というより大拡張/名プロデュースという感じですが、それから今日に至るまで定期的に彼をチームの救世主たらしめているギュンドアンのセカンド・ストライカー化、これは元々持っていた能力の一つではあったでしょうがしかし本格化したのは0トップ(ストライカー不在)&デブライネ故障離脱のダブル・パンチ時に、狙ってペップが施したチーム改造の成果によるものだったと記憶しています。更にそれから今年のグリーリッシュのサイドのポストプレーヤー的無限列車化(字面の印象のみ)は、どの程度元々のプレーの延長なのかはよく分からないんですがとにかく目を見張るブレークぶりでしたし、そして勿論最終盤の話題を独り占めした感のあるストーンズの偽SB→偽CB→プロパー的ボランチ→プロパー的インサイドMFへというどこで止まるんだろうと思ったら結局止まらなかったドミノ倒し改造。(笑)
その他もっと地味にはハーランドのポストプレイヤー化や忘れてごめんジンチェンコ(&デルフ)の偽SB化、忘れようとしてごめんスターリングの一時のストライカーとしての覚醒、ロドリの2年目以降の成長も尋常ではなかったし、デブライネでさえペップに会わなかったらここまで怪物的選手になったのか、ただの物凄く上手いMF/クロッサーで終わったかもしれない(十分に凄くはあるんですけど(笑))と、思ったりもします。

とにかくこうした彼らの次々達成する飛躍/変化に、監督の情熱に応える前のめりな意欲や困難は伴ってもの自己改革の喜びを感じないことは僕には難しく、それを「ロボット」だの「無感情」だのという、最も表面的部分に対しての印象から来るのだろう紋切り型で処理するのはとても無理に思えます。"影の努力"なんてわざわざ見なくても、分かり易く目につく事象だけでも。
こんなに"情熱"的で、こんなに狂ったようにサッカーに真面目に打ち込んでいる監督やチームに、今後会えるのかなと。繰り返しになりますが、これが情熱じゃなければ何なのかな、これに心を揺さぶられない人って何なのかな、何を見ている人なのかなと。

ま、確かにある種「人間的」でなく見える部分はあります。これも再び話は戻りますが。
見た目の印象的にもペップ自身は結構百面相ですけど(笑)、"チームの顔"デブライネはどんな困難なプレーも献身的なプレーも、若干顔の血流に変化を見せるだけで(笑)極端と言っていいくらいに表情変わらずこなしますし。(内面は意外と瞬間湯沸かし器っぽいですけど)
だから(?)そういう印象を持ってもいいとは思いますが、あえて変なことを言うとその「非人間」性は、ロボット的機械的というよりも、「超人」や「聖人」に近いタイプのものだと思うんですよね。基準が高過ぎるor倫理性が高過ぎるゆえの、日常的"人間"味の喪失。感情の喪失ではなく、成熟というか変化というか錬成(?)というか。それ自体気持ち悪いと言えば気持ち悪いものなのかも知れないですけど。(笑)

まあそんな感じです。


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テーマ:欧州サッカー全般
ジャンル:スポーツ
週末はコミュニティシールド ~マンチェスターシティ雑談
2022年07月27日 (水) | 編集 |
"CS"と略されると、どうしてもチャンピオンシップクライマックスシリーズどっちでもないんかいと日本人的にはとりあえずコケてしまいますが、プレミアリーグ王者(マンC)とFA杯王者(リヴァプール)による、イングランドのスーパーカップ。(FAコミュニティ・シールドWiki)
DAZN配信ですがそのDAZNがプレミアのサブ放映権を取れるのかどうか、翌週の開幕を目前に未だに緊張感の漂っている状況で、例年になく僕も妙に意識してしまう中せっかくだから何か書きたいなと思ったけど特にネタも無いので再々び(どう読むんだ?)お馴染みの牽牛星氏の記事に叩き台になってもらって、おさらいと心の準備でもしようかなと。


3年目のゼロ(21/22MCIレビュー)(2022-05-23)

シティが最終節の大逆転勝利で21/22プレミア・リーグの優勝を決めた直後のタイミングを狙ってアップされたらしい記事。(僕はしばらく気付かなかったですけど(笑))
いきなり余談ですけど、ここに至る時期しばらくの牽牛星氏は、日々twitterで自論の核心的な内容を繰り返し放流し続けていたので、そちらを読んでいた僕はブログがアップされたと聞いても「ああ単行本が出たのね、そんな季節か」と"連載派"の漫画読者のようなスタンスで鈍い反応しかしなかったことを覚えています(失礼(笑))。俺連載で読んだ漫画は基本単行本読まないタイプなんだよねえ、なんか書き下ろしショート漫画とか単行本購入特典とかあるの?あるなら読むかもしれない、気が向いたら的な。(笑)
まあこういうのは"ブロガー"がtwitter活動を活発にした時に割と起きがちな現象で、かのtkqさん(@tkq12)なんかもいっとき大人気のtwitterと(旧)ブログの効率的両立を試行錯誤して、"tweetのまとめをそのままブログ記事とする"みたいなことをよくやられていた記憶でしたが、結局二度手間が馬鹿馬鹿しくなったのかそのブログは発展解消の対象にされてしまいましたね(笑)。(ちなみに僕の場合はブログ用人格の独立性がかなり強いので余りそういうことは起きません)

という訳でだいぶ遅れてついこの間今更読んでみた"単行本"。
まず些細な引っ掛かりとしてはこの箇所。

SAC=Stand Alone Complex

 独立した個人の行動が総体としての集団の挙動になること

自分にはシティがこう見えた。


意味としては

互助より自助

各位の自己判断で複数の選択肢を単独で提示し、独力での後出しジャンケンで相手を出し抜く

(以上全て"2、シーズン前半①暴走するSAC"より)


ことを基本とする戦い方、それの連なりとしてのチームの"集団"性の特徴ということでしょうが、僕が気になっちゃった(笑)のは『(21/22MCIレビュー)』と題する文章の一部として「自分にはシティがこう見えた。」の箇所を読むと、特に初見の人には"SAC"自体が"21/22MC"特有の/発の現象に一瞬読めてしまわないかなという事。実際にはそれは"連携の鬼"ダビド・シルバ退団後の"20/21MC"から始まっている現象(用語としての初出は'21.12.2の記事)で、その事は今回の記事でも前後をよく読めば分かる訳ですけど、ただよく読まないとちょっと一瞬ね。"20/21MC"の一種の「解決策」としてのSACが、"21/22MC"に「暴走」して修正が施されたという流れが入って来づらいところがあるんじゃないかなと。
なぜこんなことにこだわってるかというと別に"添削"をしたい訳ではなくて(笑)、牽牛星理論の中でもこの"SAC"論は一番僕自身の思考の助けになってくれた個人的にお気に入りの論なので(笑)、ちゃんと扱ってあげて!誤解の余地を残さないで!という謎の贔屓というかおせっかいというか、そういうこだわりです。(笑)
あともしあるとすれば、「暴走」問題も含めて"20/21SAC"と"21/22SAC"との間に何か質的違いを見出しているのか、見出しているとすれば含めてそこらへんの区別も読みたかったなという。まあ特に無いかも知れませんけどね、手に入れた「自由」が二年目に入って"手癖"化して少し放埓になり過ぎたという、前期森保ジャパンなどでも起きたよくある現象でしかないのかも知れませんが。

次もっと全体的な話。といっても具体的にどの箇所ということではないんですが。
"3年"間の"ゼロ"トップ生活を、ざっくり言えば嘆いている(笑)文章を読みながら、それとの自分の微妙な距離感について少し思いを。
これは全くリサーチしたものでも何でもないので"前提"としては的外れな可能性はありますが、シーズン中シティサポのTL(参考"リスト:MAN CITY")を眺めていて思っていたのは、僕も含めて比較的年長のサポの方が、"ゼロトップ"orストライカーがいないという状態に寛容である、抵抗が少ないように感じるんですよね。繰り返しますが年齢含めて、あくまで印象でしかないですが。とにかくもしそうであるならば、その理由は、「日本代表」を筆頭とする日本(人)サッカーとの付き合いの長さによるのではないのかなと、つまり"頼れるストライカー"なんてものは、「いない」のがむしろ普通であることに慣れてしまっているという。(笑)
日本代表の国際水準でのストライカー不足"決定力不足"については今更言うまでもないでしょうが、国内リーグに限っても以前『「徹底」と「最大」の微妙な違い』(中の"議論の土俵自体を変えてしまう選手の質の差")で言ったように、シティの獲得対象になるような世界トップレベルのストライカーたちのように、肩書通りに頼りになったり条件設定すれば自己完結的に点を取ってくれるようなストライカーはまず滅多にJリーグにはいないので、自然と"いない"ことを前提としたサッカーの見方が身に付いてしまっているので時に物足りなく感じることはあっても基本は平気であるという、そういう話。
牽牛星さん自身もペップバルサから"見る"サッカーを本格的にスタートさせてこれまでほとんどJリーグは見たことが無いとおっしゃられているように、物理的視聴環境の世代差もあって年齢が下るほどスタート地点のレベルが高い、頼りになるストライカーが"いる"サッカーを体感的に標準としている度合いが強いのではないかなと。

まあ、思っただけですけど。
どうもストライカーががんがん点取って勝てるチームって、砂糖かけ過ぎなんじゃないかというか調味料の味濃過ぎなんじゃないかカロリー高過ぎなんじゃないかと、"粗食"に慣れた身には戸惑いがあるんですよね(笑)。いいのかなそんなの食べてと、脇腹の肉をつまむ。最近代謝悪いんだよお。
まあ胃薬でも用意して、待ってますけど。(笑)

次。


さらば『未来』よ(ジェズスのトリセツ)(2022-06-27)

雪辱を期すペップシティはSBを全取っ替え、システムは3412を導入。アグエロかジェズスか、という問いに対し共存の道を選んだ。アグエロとジェズスを2トップで起用した。
ジェズスのチャンスメークでアグエロをカバーし、レバミュラのバイエルン時代に並ぶ新たな最終生産コンビを結成しようとしていた。


ペップシティ初年度16/17シーズンの途中に加入したジェズスの、2年目17/18シーズンの前半の話。
まず単純に記憶が定かでないんですけど、アグエロジェズスの2トップって初年度もやってませんでしたっけ、2年目の"新生"ペップシティからでしたっけ、どうも上手く行かない(初年度?)チームの"あがき"の一端としての"アグエロジェズス2トップ"の印象が強めに残ってるんですよね。その問題について現sakeさん(@szakekovci)とリプ欄で話し合った覚えもあるんですが、残念ながらsakeさんが一回アカウント消しちゃってるんで、どのタイミングだったかは確かめられない。
まあいいや。
とにかくここは、「レバミュラのバイエルン時代に並ぶ新たな最終生産コンビを結成しようとしていた」というくだりが、ああそういうことかと。
というのは、上で"あがき"とか言ってますが、僕自身はこの2トップに余りいい印象が無くて。バルサ時代、シティ時代、それと随伴する世界のサッカーのスタンダード含めて、ペップと言えば1or3トップというイメージだったので、何だ2トップってクラシックなと、まずシンプルに違和感。そしてもっとまともな疑問としては、1トップ1CF前提の編成下での"アグエロ以外まともなFWがいない"(しかも怪我がち)という状態から、ジェズスが来たことでどちらが1stかはともかくとしてとにかくバックアップがいる状態がようやく作れた。でもそれを2トップにしちゃったら単純に考えるとあと2枚バックアップが必要となる訳で、1人来たのに2人足らなくなってるぞ、何だその算数は加算なのか減算なのか強化なのか弱化なのか?と、釈然としない感じに(笑)。(実際はそんな単純な運用ではないでしょうけど)
更に言うならば、"2トップ"として二人は身体特性が似たり寄ったり、共に身長175cm程度のそこそこの強さも持ったアジリティタイプに見えるので、まさかそんな筈は無いけどなんか何も考えずにFWを二人並べただけにも見えなくはないぞと、とにかくしっくり来てなかったんですよね。
それを"バイエルンのレバミュラ"(レバンドフスキ&ミュラー)のイメージで改めて捉え直すと、なるほど確かに"純正ストライカー"(レバンドフスキ/アグエロ)を多芸な2nd(ミュラー/ジェズス)がフォローするという分かり易い機能性が見えるな、2トップにする意義が見えるなと、特にアグエロがまだ"ペップ"用の多能型ストライカーに魔改造魔変身する前の時期なだけにと、胸落ちする部分がありました。

上で言ったようにやはりレバミュラ程コントラストがはっきりしていない、身体的技術的に似たり寄ったりな面は否めないので、レバミュラを"目指した"とまでは想定しづらいところはあると思いますが。
ただレバミュラをモデルにした念頭に置いた、レバミュラという"2トップ"の成功体験があったからこそ、多少の文脈的な唐突感を抑えてでも2トップという選択肢を発想したんだろうなと、それについては確かなように感じます。(正確には今回そう感じました)
僕はペップのバイエルン時代はほとんどフォローしてなかったので、当時は全然思い至らなかったですね、皆さんは分かってたんでしょうか。

そういう、為になったというお話でした。
ジェズス個人については、シティだけでなく、いっときブラジル代表でも「点が取れない」ことが殊更話題になっていたように、同格の選手が沢山いる(トップランク)チームだと、つい色々遠慮意識し過ぎて縮こまって力を発揮しづらいタイプなのかなあと、思うところはあります。だから環境変われば、今のアーセナルならと、思わなくはないですが。それこそJリーグに来たら、バカバカ点取りそうという。その時は今の売りの"献身的な動き"とかは、全然やらなくなってるかもとか。(笑)
いい選手だとは思いますね。これだけ"煮え切らない"選手生活を長く送っていても、"A級"の風格を完全に失ったことは、一度も無いと思います、入団当初の輝きを、今思い返しても別に嘘だとも幻だとも思わない、思う必要を感じない。シティで開花する期待は、さすがにもう持てなくなってはいましたが。
幸あれ。


スターリングを考えよう。(2022-07-07)

一方、もう一人のシティFW陣の問題児というか査定困難物件(だった)スターリング。
牽牛星さんは"条件""環境"によって同じ資質がどのように表れるかどのように目に映るかということを主に上の論では取り上げていらっしゃると思いますが。ある意味不運であった、使い方次第であったという立場ですかね。(本心なのかどうか今いち読めない(笑)ところもありましたが)

僕の印象に特に残っているのは・・・。
なんかこの選手、ある時期を境に急激に「古く」見え始めるようになったんですよね。
元々特に頭がいいタイプでもシュートも含むボールテクニックが圧倒的に優れているようなタイプでもなかったのは確かでしょうが、ただそれはそれとしてそれ込みで、いっときは確かにライジングスター、イングランドとシティの未来を担う選手と多くの人に目されていた筈ですし、他ならぬペップも本気の期待とかなりの部分確実な将来性を、この選手に見ていたように見えます。後に扱いのランクは落としても、根底の部分では最後までそうだったかも知れません。

その最大の源であろうスピードは未だ特段衰えたようには見えませんし、牽牛星さんの分析でもスタミナと耐久力、"無事是名馬"力は出色であると、そういう評価。("耐久力"については単に全力でやらないからじゃないか自分にストレスをかけないからじゃないかと思う所もなくはないではないですが(笑)。スターリングにご苦労さんという気持ちになったことが無い)
勿論得点関与の数字も内容の薄さは言われながらも、通してコンスタントと言えばコンスタント。

ただ時期ははっきりとは言えないですが、ある時期からスターリングが"スターリング"として許されなくなった、それまで込々で許されていたプレーの細かいところが雑だとか全体的にとんちきだとかいう(笑)"個性"が、個性として許されなくなったストレートに悪口として(笑)言われるようになった、僕自身もプレー水準自体を改めて根本的に疑うようになった、そういう"転換"(の時期)はあった気がします。
上のジェズスとの比較で言えば、ジェズスは失わなかった"A級の風格"を、スターリングの場合は失ってしまった。信用が落ちてしまった。

その大きな理由としては、例えば牽牛星さんが示したような使われ方による当たり外れ得意不得意、それ自体はどの選手でもある訳ですが、それが余りにも"他力"である、デビュー間もない新人のような思いやりお目こぼしが何年たっても必要である、自分自身は何も変わろうとしない、適応しようとしない、"成長"も成熟もしている様子が無い(でも給料だけは上げろ!(笑))、そういう様子に対する苛立ち興ざめがあると思います。
より大きな括りで言うと、シティやそれを中心とするプレミア、ひいてはヨーロッパサッカー(とまで広げるべきかは微妙かも知れませんが)の進化・変化、不断のレベルアップ見る側も含むスタンダードの刷新に、途中からスターリングがついて来れなくなった置いて行かれた(変化しないことによって)、それによって同じ個性の見え方が変わった「古く」見えるようになった、そういうことかなと。
いつまで経っても素質だけで、俺は凄い凄い筈だでプレーしている。若手には必要な全能感かも知れないけど若手にしては文字通りに受けて来た教育が古めだし、さりとてベテランの味も無いし。

ペップという世界有数の師匠とその要求に応えてどんどん自分を変えて行く仲間たちに囲まれているだけに、スターリングの"置いてきぼり"感は日々年々嵩んで行く訳ですけど。しかしなぜか本人の自己評価の高さは毛ほども傷つく様子はなく、駆け引きだか何だか知りませんが世界のサッカー人の尊敬を一身に集める永年バロンドール候補デブライネと同等の待遇を要求しているという話も、繰り返し伝わって来る。
あの自尊心の高さは何なんだ何を根拠にしているんだというのは、ある意味プレー以上に、シティファンを悩ませる首をひねらせるところだと思います。(笑)

何となく思うのは、成長力が無いのにプライドが高いのではなくて、プライドが高いから自己肯定感が強過ぎるから、成長できない変化が出来ないという、そういう順番なのかもしれないなということ。
・・・論理的繋がりとしては、よく分かる話だと思います。"現象"としても、確実にそういう部分はあると、割と自信を持って言えます。
ただ本源はどうなんでしょうね、それについては観察だけからは、僕もよく分からない。

その前に"プライドと成長"の(マイナスのタイプの)関係にも二種類あって、一つは勿論、プライドが高過ぎて自分に成長・変化の必要性自体を見出せずに、同じことを繰り返すパターン。これに関してはかなり確実に、スターリングは陥っていたように見えます。
そしてもう一つ、プライドが高いのは同じでもそれがもっと"ガラス"寄りのタイプで、凄い自分成功する自分正しい自分etcという自己イメージないし対外的イメージを傷つけるのが怖くて、誤りや欠点を認められないか"やってみて駄目だった"場合を恐れて変化や新しいトライを拒否するパターン。これに関しては、どうなんでしょうね。自覚しないまでもこうした心理が隠れていたのなら、彼の第三者的には謎な部分の多い自己評価の揺るがなさも、理解し易くはなると思いますが。・・・つまり、そうでなければ、彼自身がもたなかった、"根拠"よりも"必要性"を理由として、スターリングの自己評価はあった。

ただ・・・どうなんですかね。
実際の見栄えとしては余りにも"天然"ぽいので(笑)、そんな"影"と共に生きていたのかなという、実感レベルの疑問はあります。仮にそういう自己欺瞞があったとしても、意識の表面から相当深いレベルに存在していて、ほとんど意識されることは無かったのかなその場合はと、ごにょごにょ。
ただ何も無いとするとあの自信の理解がやはり少し困難である、"天然"の度合いを相当に高く設定でもしないとしっくり来ないので、何かはありそうではある。
これに関して今のところ僕の直観はYESともNOとも言ってくれないので、論理的な範囲の推論しか出来ませんが。

高過ぎる/固まり過ぎた自尊心が成長・変化・適応を阻害して、気が付くと同輩にもどんどん抜かれて行った天才というと、日本だとアトランタ後の前園真聖みたいな例が浮かびますが。単に衰えたとか失敗したとかいうよりも、妙に見てる側のイライラを誘うケース。
まあ前園の場合は肉体的な衰えないし柔軟性の喪失のようなものも早々に訪れたような印象だったので、その点まだまだ全然元気なスターリングには、巻き返しの機会は十分に残っている訳ですが。頑張れ。(一応)

惜しいんですよね。スピードを筆頭とする身体能力が怪物的なのは間違いないですし、批判の多い素っ頓狂なパーソナリティだって、場合によっては"許容"の対象どころか"武器"にだってなり得る可能性のあるものだと思うので。ゲームを"破壊"しないといけないサッカーの攻撃の選手としては。
実際ペップの緻密さに時に窒息しがちな傾向もあるチームの中にあって、スターリングには何かそいう時の風穴を開けてくれそうな期待感は、常に無くは無かったと思います。あのチェルシーとのCL決勝の時だって、スターリング起用にえっとは思いつつも、ひょっとしてスターリングならやってくれるのではないかいい意味で"やらかし"てくれるのではないかという期待も、一瞬はよぎりましたし、僕は(笑)。(すぐに甘い期待だったことを思い知らされましたが(笑))

まあ逆に言えば、圧倒的な活躍をしてこそしっくり来る、生き生きと輝けるお気楽でも愛される、そういうパーソナリティではあるんですよね。様になるというか。ブラジル産の天才にはよくいるタイプ。そういうパーソナリティでないと出来ない活躍というのも、間違いなくありますし。
スターリングの"内面"について僕の述べたような常識的な"心理学"がどこまで届いているかは謎ですが、要は活躍してしまえばいいんですよね自己評価通りに、それで全てが丸く収まる(笑)。その時は恐らく、プレーの細部の雑さとかも、予測し難さとして武器になってる気がしますし(というかスターリングが"活躍"している時は基本そうだと思います)。待遇で揉めたければその時大いに揉めればいい。(笑)

・・・なるほどジャマイカンなのか、そもそもが。やはりブラジル産天才の方の類型で考えた方が理解はし易そうですね。変に"イングランド人"だと思い過ぎると、腹が立ちがち。(笑)


以上です。
結局スターリングのパートが一番長くなったのは意外。僕はスターリングのファンなのか?違うと思うけどなあ(笑)。まあ"謎"のファンではあります。
今回は一部を除いて必ずしも牽牛星さんの文章に"依拠"した訳ではないというか、別に引っ張り出さなくても(笑)書けた内容が多かったですけど、まあ何かきっかけが無いと書けないので、感謝感謝です。

シティのPSMはバイエルン戦の方は今日の深夜見る予定なので、まだハーランドのゴールは見ていません。専ら21/22シーズンの頭のままで(笑)書きました。


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「徹底」と「最大」の微妙な違い ~今更牽牛星さんへの返答
2022年02月16日 (水) | 編集 |
違うと言えば違うんだけどまあ別にいいかとその時は思ってたんですが、'22Jリーグ開幕を前に、気分的に区切りとしてやっぱり書いておこうかなと思い直して。
昨年末(12/2)牽牛星さんが書いてくれた僕へのレス(in『背反の先にあるもの』)に対するレス。


(サッカーにおける)「徹底」(という方法論)についての応答

まず簡単に流れを整理します。

"シティ"と"ペップ"(みどりのろうごくblog) ['21.9.20]

(おまけ)"チームの最大値"の出し方問題 より

③リーグは流動、大耳は不動を徹底
ケイン獲得、フォーデン期待、どちらになったとしても大切なのは、リーガはコアUTを用いて柔軟な起用で乗り越えながらビッグチーム相手で最終生産過程のブラッシュアップに時間をかけるべきだ。
リーグはケガの予防と戦術の拡充と実験も兼ねてフレキシブルな起用を心掛け、同格格上との闘いが続く大耳やリーグの重要な試合ではスタメンを完全に固定するのが良いと思う。
(『ペップの大耳10年戦争』)


という牽牛星さんによる"「徹底」の提案"を承けて。

僕が書いた昔話というか伝統的なサッカー状況についての認識。

対応すればその場はその試合は上手く行くかもしれないけど、それをメインにすると長いスパン長いシーズンの中ではチーム力の高止まり(注・誤用。"頭打ち"的な意味)が起きて結局勝てない、タイトル獲得レベルまでは行かない。
多少不器用なようでも特定のスタイル(戦術やシステム)を多くは特定のメンバーで煮詰めて、それの運用で"対応"にも当たった方が結局効率がいい、これがある時点までの、国によって程度の差はあれ日本に限らないサッカーチームの経験則だったと思います。(アト)


そして恐らく世代的に同様の認識を前提にしての、岩政大樹氏の今日状況の整理。

僕の補足。

僕流に言うと"「徹底」は「バリエーション」を凌駕できない"がスタンダードになったのは割と最近の事で、昔はそんなことは無かった。(アト)


用語法自体はこの際だから分かり易く、以後は"岩政語"に合わせることに。
長らく「徹底」の「バリエーション」・・・を志向しての結果的「中途半端」への優位がサッカー界を支配してきたように見えるが、近年の「バリエーション」の理論的充実によってその地位が逆転した。

という状況を前提にしての、

話戻して牽牛星さんがこんな年寄り臭い問題意識を特に持っているようには見えませんが(笑)、「バリエーション」優位の筈のトップレベルのサッカーの"頂点"対策の話として、回り回って再び「徹底」っぽい話が出て来ているのに単純におっと思いました。(アト)


というまとめ。

それに対する牽牛星さんのレス。短いので全文引用。

背反の先にあるもの(21/22MCI中間報告風)(牽牛星のよろず日記)['21.12.2]

第4章 Re "シティと"ペップ" 中の 4-2最大値形成 より

最大値形成における徹底とバリエーションという問題に関して、自分は以下で述べているようにリーグ、CLにおいては求められる素養が異なると考えている。
シティはリーガを制圧してしまっているので、自分がシティの課題について語る時にはCLでの支配力の増強、という事を念頭に主張を繰り広げるので、嫌と言うほど最終生産の話をするのも、CLを制覇するための絶対的な矛の欠落が課題なので、『徹底』したとしても相手が止められない武器の構築を訴えている。
リーグを取るだけならばバリエーションを広げるUT路線でも問題はないとは思うが、強敵との一発勝負が続く短期決戦においては、70点の武器を2,3持つのではなく90点の武器を一つ有して、その武器で殴り殺す事が求められるように思う。
『改めてお聞きしたい』とアトさんが書かれていた部分に、お答えするのなら、CLのような短期決戦においては徹底が重要であり、どんな盾でも防ぎきれない矛の生成、どんな矛でも耐え抜ける盾の生成、のどちらかをやりぬく必要があるように感じる次第である。


これ自体は要は牽牛星さんの持論のまとめですし、少なくともその文脈において僕も特に異論は無いんですが。(実際にそれで勝てるかとかはまた置いておいて、少なくと"論"としておかしなところがあるとは)


「徹底」の中身

「徹底」が必要だと、牽牛星さん。
「徹底」の必要性の方が優位であったと、僕。
ただ問題は、その「徹底」の中身に一致していない部分があって、つまり牽牛星さんによる"UCL制覇の方法論"は、僕(や恐らくは岩政氏)の"問い"に対する直接的な"答え"にはなってないという、すれ違いを僕が感じるということ。
・・・国語的にというか(笑)。国語の問題を出したつもりが理科や社会の解答が出て来てしまって、どうしようかみたいな(笑)。どうしよう?岩政先生。(at 職員室)


牽牛星さんの"最大値"論

そもそも何の為の「徹底」かと言えばそれはそのチームの戦闘力的「最大値」を引き出す、そこに到達する為の方法論としてなわけですが。
それに関しての牽牛星さんの持論。

シュートの上手い選手を中心に得意な戦型を創出し、それを最大値とし、そこへ接続するためのリーグを支配する構造を作り出す、このメソッドをバルサとバイエルンでは徹底していたペップ
(『背反の先にあるもの』)


これは直接的には現実にペップが採って来た選択についての観察ですが。

更にそもそもの牽牛星さん自身の考え。

(4)ペップという才能

集団競技において、よく聞く言説として『1+1=2にも3にもなりうる』といったものがある。しかし自分の持論として、集団は最も優れた構成員を上回るパフォーマンスを出すことは出来ないと考えている。1+1=1以下である。
それはサッカーでも変わらない。集団のエース、ここではスコアラーだが、その”器”を超える最大値は得られないのである。
(『坂道グループとペップを巡るメタゲーム』['22.2.12])


せっかくなので最新作より。(笑)
見ての通り簡単に言えば、スーパーなorベストな特定個人(の質)を起点[基準]かつ終点[最大]に考えるのが、牽牛星さんの論。
結論というか。


僕の「徹底」論

もう一度上の引用を、今度はもっとピンポイントに。

多少不器用なようでも特定のスタイル(戦術やシステム)を多くは特定のメンバーで煮詰めて


つまり僕が基本的に想定しているのは、あくまで"スタイル"や"戦術"や"システム"の次元の話であって、選手個々の資質は問題にしていない訳です。「特定のメンバー」という言い方がひょっとしたらそうでないように読めてしまう可能性はありますが、それは単に「固定」という意味であってその中に特別な選手がいるという意味ではない。(いるかもしれませんけどそれは偶々)
牽牛星さん自身もCL対策として「不動」「固定」を語っている(一番最初の引用)訳で、そこら辺を誤解しているとは思いませんが。

とにかく選手の質ありきの牽牛星流"最大値"論と、それには触れずに純構造的な問題として展開されている僕の論と、同じ「徹底」を問題にしているつもりの論でも見た目の違いは明らかな訳ですけど。
ただ選手のいないチームも要素の無い構造も存在しないので、いずれ実際の/個別のチーム作りにおいては当然何らかの形で選手の質は関わって来ます。だからこの二つが完全に対立することも完全に別の問題として扱われることも現実的に無いは無い訳ですけど、では何が問題なのかどこが引っかかったのかを、次に。
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"シティ"と"ペップ"
2021年09月20日 (月) | 編集 |
そういうつもりで読み始めたわけでも書き始めたわけでもないんですが、気が付いたらそんな感じの内容の感想が多かったので、テーマはそれで。(笑)
"シティ"ファンと"ペップ"ファンという入り口の違いによる、「ペップ・シティ」の見方の微妙な違い

"ペップ"ファンである牽牛星(@EVA0330penguin)さんがブログ『牽牛星のよろず日記』で書かれた6つのペップ/ペップ・シテイ記事をまとめて読んで、"シティ"ファンである僕が改めて意識したいくつかの視点というか自分の立ち位置。それが主な内容。

 ペップシティとコアUT (2019-12-10)・・・[1]
 ペップの大耳10年戦争 (2021-06-14)・・・[2]
 ペップバルサ総論 (2021-07-13)
 もう一度あの場所へ(21/22ペップシティ展望) (2021-08-13)
 始祖から連なる流転する多角形の物語 (2021-08-26)
 鶴の翼を広げて(ペップシティ21/22選手名鑑風) (2021-09-04)・・・[6]

・・・ペップの前任ペジェグリーニ時代がお初という限りなく俄かの僕が「"シティ"ファン」のアイデンティティで語るのもそこそこ気は引けるんですけど、さりとて"ペップ"ファンではもっとない、ペップの仕事をちゃんと見たのはシティに来てからなので、まあ"立場"としてはそういうことになります。
ちなみに今季の僕は「井上潮音ファン」という立場を通して「ヴィッセル神戸」の試合を毎試合見ているので、牽牛星さんが時折気にする純正"シティ・ファン"との距離感みたいなものは、読んでいてそれなりに分かるところはありました(笑)。まあちょっとペップと潮音では、現チームへの関与のレベルが違い過ぎますけど。

とにかくそういう前提での、何か。
全部読みましたが直接の引用は、1,2番目と6番目の記事から。(それぞれ[1][2][6]と引用元を表示)


"最終生産者"問題

"最終生産者"というのは牽牛星さん独特の言い回しで、要は(実効性のある)"ストライカー"、"最終的に点を(いつも)取る人"みたいな意味。タイプとしては別に(レバンドフスキやケインのような)"本職"FWである必要は特に無くて、それこそメッシ/クリロナのような本職やスタート位置がウィングの選手でも、点さえ絶対的に取ってくれればそれが最終生産者。

牽牛星さんのサッカーやペップ・シティの論や見方は、多くの場合この概念をキーとして展開されていますが、"シティ"ファンとしての僕が読んでいて最初に単純にあっと思ったのもこの問題、"ペップ"のチームと"最終生産者"の問題でした。
・・・いや、つまり凄く単純なことで、"ペップ"のチームが"最終生産者"がいない前提で構成されているのはそれはシティにおいてだけで、バルサの時はメッシエトゥーが、バイエルンの時はレバンドフスキミュラーという最終生産者がちゃんといた、いる前提でチームが構成されていたということ。
シティだけ見ていると、まるでペップは"最終生産者"抜きでいかに勝つかという縛りゲーに専心しているマニアな人にも思えて、そして見ているシティ・ファンもそのことに慣れ切っているところがあると思うんですが(笑)。確かに定期的に"ストライカー"問題は話題にはなりますが、それはそうなったらいいなそれもいたらいいだろうな楽だろうなという、"贅沢""付け足し"的な関心で、そこまでの切迫したニュアンスは基本無いと思います。

後で見るようにそのことにそれなりの必然性はあると思いますしその範囲でも十分にペップ・シティはエキサイティングではあるわけですが、ただ"歴史"的問題として言われてみると全くそうで、知らず自分の視野が限定されていたことに気付かされたという、そういう話です。
まあ牽牛星さんからすればごく当たり前のことで、"気付か"せるつもりも特に無かったろうとは思いますが。(笑)

とにかく「"最終生産者"のいるペップのチーム」の方を(歴史的に)常態と見なしている牽牛星さんは、シティについてもそのような観点から基本語ります。

そしてペップはバルサ時代の旧友チキとソリアーノが待つマンチェスターへ向かう。そして、満足する最終生産者がいない苦しみが始まる。[2]

シティ最大の問題、『結局このチームって誰に点を取らせる目的のチームなのか分からない』問題が浮上する。[2]

バイタルでメッシにフリーでボールを持たせる、レバミュラにサイドからハイクロス爆撃を行う。これがペップチームの必殺技。しかしシティでは必殺技を見つけられずにいる。今まではスペシウム光線で怪獣を倒していたのに、シティではひたすら怪獣が死ぬまで殴り続けるだけだ。[6]


うーんなんか、謝っといた方がいいのかなという気持ちにはなります。
ごめんねペップ。(?)


"ペップらしさ"問題

と、とりあえずは謝っておくという日本人的対処はしつつも(笑)、そこまで納得してないというか申し訳なく思ってない部分も実はあって。
確かにペップが来てからの5年間、シティが獲得したレギュラー級の(ウィングタイプ以外の)"FW"はジェズスただ一人で、そのジェズスの結果的な得点力やそもそもの既存のエースFWアグエロの稼働率を思えば、ペップが恒常的に頼りになるストライカー不在で戦っていたのは事実。それはハンデではあり出来ればそういう選手が、欲しかったか欲しくなかったかと言えばそれは欲しかったでしょう、当たり前ですが。

思えば1年目夏のオーバメヤン獲得未遂、冬のジェズス獲得、2年目冬のサンチェス獲得未遂とマーケットが開く度に最終生産者の獲得に向かっていて、不満はあったのだろう。[2]

と、牽牛星さんも。

ただそれはシティの編成の純粋な"失敗"なのかシティ・ファンはペップに申し訳なく思うべき(笑)なのかというと、そうでもないのではないかという気も。
つまり逆に、余りにも"獲っていなさ"過ぎるんですよね。本命が駄目で二番手を獲って、それが不発みたいなことすら起きていない。ほとんど不動。一瞬イヘアナチョとかいう名前も浮かびましたが、彼は下部組織上がりなんですね、そうだったのか、それでいたのか、大して役に立たないのに(笑)。というくらい、"2人"以外の名前が挙がらない。(2016年以降の"FW"の項参照)
これだけ消極的となると、やはりペップ自身にそういう消極性が、つまり満願に近いレベルの選手が獲れなければ別に獲らないでいいと、そういう意向なり了解なりがあったと、考えるべきだろうと思います。あれほどクラブにとって大事な監督な訳ですから。

別な観点として、先程ある種の"根拠"として挙げた"歴史"の問題、つまりバルサでもバイエルンでもいたんだからシティでも"最終生産者"はいるのが当然でいないのは欠損で異常事態だという認識、これもそうなのかなと思っているところがあります。
つまり逆に、"たまたま"だったのではないかと。特にバルサに、"メッシ"がいたのは。
それはメッシが余りにも特別な選手でそもそも一般的に言って代わりを求められない選手だというのは勿論ですが、と同時に"バルサ""バルサのカンテラ"にとっても、特別特殊な選手な訳で。シャビやイニエスタ、ブスケツやペドロなら、バルサのカンテラはある程度狙って作れるでしょうが、メッシはそうはいかない。だから"バルサ"の申し子としてのペップのサッカーの構想が思想が、"怪物的な最終生産者"としてのメッシのような選手を前提として作られているとは、どうも想像し難い。・・・そもそもメッシ自体、途中まではあくまでドリブラーであって、ストライカーとしての覚醒は後年の事だったわけですしね。
つまりそういう意味で、"最終生産者"不在のここまでのペップ・シティも、ペップ的にはそこまでイレギュラーではないのではないか不満はあれど"本意"の範疇なのではないかと、そう考えるわけです。「ペップ・バルサ」の再現にはメッシないしそれに近い怪物的"最終生産者"が必要だとしても、"ペップのサッカー"自体はそうではないのではないかと。バイエルン時代の問題は問題としてありますが、とりあえず"出発点"を重視するならね。

シティ・ファン一般の気持ちとしても、概ね現実としての"最終生産者抜きのペップ・シティ"には肯定的、歩調を同じくしているように見えて、"最終生産者"抜きでペップとシティが達成して来たものに誇りと愛着を持っていて、そりゃストライカーは欲しいけどそれが突出するのは嫌だ、"ペップ"(シティ)より"〇〇"が大きくなるのは御免みたいな気持ちは、やせ我慢でなくあるだろうと思います。それこそ今更クリロナなんかの力を借りて勝つくらいなら負けた方がマシだ、おととい来やがれあんた塩持って来ておくれ塩みたいな気持ちに、この前の"噂"の時になった人は少なくないのではないかと。(僕はなりました(笑))
ハリー・ケインくらいならいいですけど。逆に。(逆に?(笑))

まあ牽牛星さんも、別にそこらへんの機微が、僕が言ったようなことが分かってないわけではないのは分かるんですけどね。

秩序だった無秩序の具現化のためのUT[ユーティリティ:筆者注]性の高いタレントによる無限ポジション変換と無限パス交換を主軸とする支配理論、これこそがペップの目指す真の理想なのだろう。[2]


ただ"ペップ"への愛が強過ぎて、その苦労が見ていられなくて(笑)そしてペップに"大耳"(ビッグイヤー。UCLタイトル)をまた取らせたい気持ちが強過ぎて、つい不満が先に立ってしまうことがあるだけで。(笑)

ただ↓のような言い方には、ちょっと待ってくれと言いたくなるところがありました。

これはシティの特徴でもあるが有効な指し手を打ち続けていれば自ずと得点は獲れる、という一種のカルマを信奉している節があり[2]


いや、それはあくまで"ペップ"のペップが来てからの"カルマ"(ドグマ?)であり、シティのじゃないよ、濡れ衣だよと。(笑)
ペップが来る前のシティなんて、良くも悪くも"普通"のチームだった筈。作り込みが甘い(&その一方で個々の能力が高いので何かしらで点は取れる)分、いやにのんびりと攻めてるように見えることは往々にしてあった(笑)としても。


"ペップの奇策"問題

チャンピオンズリーグや国内リーグの強豪相手の大事な試合で、ペップが時に/しばしば狙い過ぎた戦略の不発で自滅しがちだという批判・定評に対する、牽牛星さんの見解・反論。
まずはその代表例。

'13-'14シーズン、バイエルン初年度のCL準決勝レアル戦。

2ndlegにおいて現在まで続く大耳ペップバッシングの起点『奇策溺れ』が始まった。424をぶつけてバランスを大きく崩した。433でバランスを整え構えれば良いものをリベリの『攻撃的にいきたい』というコメントを受け、ロベリと心中すべくロベリと2topの前線4枚で攻撃を加えるシステムを採用。ロベリーが封じられ、U字パスを繰り返し、可能性のないクロスが跳ね返されてカウンターを受け、バイエルンの『群れ』の後ろの広大なスペース目掛けてベイルとロナウドが駆け抜けて0-4で敗北。[2]


'14-'15シーズンバイエルン2年目、CL準決勝バルサ戦。

ペップは『家』カンプノウでMSNに3バックをぶつけ、マンツーを選択した。勇敢なカウンタープレスは早々に怪しさが漂い始める。(中略)
ペップは早期に4バックへ変更しゲームは拮抗状態へ。ノイアーのビッグセーブもあって75分間0-0で凌いでいたゲームは、(中略)メッシの輝きによって2ゴールをあっという間に奪われ、バルサはチャビを投入しティキナチオ発動。攻めかかるバイエルンをあざ笑うネイマールのカウンターからのシュートで万事休す3-0で大耳制覇の夢は散った。[2]


'19-'20シーズン、シティ4年目のCLベスト8リヨン戦。

この試合3バックをペップは選択する。ラポルテ、ガルシア、ジーニョの3バックに大外がウォーカー、カンセロ、2セントラルがギュン、ロドリで前線はジェズスを1topにスータリングとデブ神がシャドーに配置され、リヨンの352をはめ込む布陣となった。
リヨンは3バックの両脇を広げアンカーをケアするロールを担うジェズスをピン止めしWBを前線に上げて数的有利を作り先制点を挙げる。ペップは慣れた4231に戻し同点弾を奪うも今度はリヨン本来の布陣の良さが活きてくる。[2]


'20-'21シーズン、シティ5年目CL決勝チェルシー戦。

シティ初の大耳決勝に胸躍る多くの人々が見守る決戦でペップはギュン4番でフォームを崩していたスターリングを先発させ、またも奇策と騒がれる中で1-0負けで涙を飲んだ。[2]


このように"失敗"例を列挙して見せた後で、しかしその内実を牽牛星さんは次のようにそれぞれ評価します。

今季のバイエルンはロベリを活かす為のシステム構築が中心で433をぶつけたとして勝てたか、は何とも言えない。[2]

・・・バイエルン、レアル戦。

この敗北を昨年に続き奇策で負けた、と表現するメディアもあったが、これは正確ではない。おそらくどうやっても負けたはずだ。[2]

・・・バイエルン、バルサ戦。

ただ最初から4231で挑んだとしても普通に負けていたと思う。4231になってからリヨンを崩すことが出来なかったのを見ていると厳しかっただろう[2]

・・・シティ、リヨン戦。

この試合最大の論点4番ギュンの是非であるが、ジーニョであれば我慢強くパスを散らせていたかと問われると難しく、失点シーンもスライディングで防げたか、と言うとそれも何とも言えない。(中略)
スターリングの選択も幅を取りハーフを攻め、根気強く攻撃し続けるためには必要な駒であり(中略)幅を獲って深く掘れるのはスタリンしかいないので妥当と言えば妥当である。[2]

・・・シティ、チェルシー戦。

長々(笑)引用して来ましたがまとめて言うと、"奇策"で敗れたとされる試合はどれも他の方法や"正攻法"でも勝てたとは思えない力関係であり、策そのものにも一定の合理性が認められるという、そういう主張です。

ペップの奇策溺れが印象に残りやすいが、大耳でペップが負ける時(殆どだが笑)は戦術云々というより普通に人的資本が足りていない。相手の得意戦型を受け切れないというのが殆どだと思う。[2]


そうだとすれば敗戦自体は根本的にはペップの責任ではないですし、「奇策の不発」の方も、そのままなら負ける可能性が高い試合におけるそれでも逆転の可能性を探ったペップの無理を承知の努力の表れであって、例え不発でも必ずしも責められるべきものではないということになります。
実際そうだったとして、それを認めたとして、その場合に敗戦後に多くのシティ・ファンが漏らす(漏らした)不平・不満を、どう考えたらいいのか。ただの見当違いなのか、結果乞食のたわ言なのか。直近20-21UCL決勝のチェルシー戦後に、同様の解説をしてくれた文章は他にもありましたが、それを読んでなるほどなとは思いつつも納得して気が晴れるようなことは、残念ながらほとんどありませんでした。試合直後に感じた不平・不満は、今でもほぼ変わらず残っている。


その理由を探るにまず上のような(牽牛星さんが説明するような)事態において、ペップの「奇策」が果たしている機能をもう一度確認すると、つまり本来、あるいは他の監督ならばもっと公衆の目に明らかなものとして見えた筈の"劣勢"が、見える前に先手を打ってペップの"策"が施されることによって見えなくなってしまう訳ですね。(それは同時に"策"自体も、「前提」の知られない「結論」として、奇妙なものとして公衆の目の前に現れることを意味する訳ですが。)

そうして策の甲斐なく負けた時に見ている人(シティ・ファン)が思うのは、一つは勿論、普通にやったら勝てたのではないかという想い。ただそれはどこまで行っても"if"の問題でしかないのはみんな分かるのでそこまでしつこく追及はしないでしょうが、それでも残るのが、言わば"負け方"の問題。勝ち負け別にしても/仮に負けるにしても/どうせ負けるなら、いつもの形でいつもの力を出して、それで負けたかったという想い。それならば諦めは付きやすい、恨みっこ無しだというのと、更に言えばもしそんなに奇策に頼らなければ負けるくらいにチームが/シティが弱いのならば、そのことをきちっと見届けて受け止めたかった、その機会をペップの"奇策"が奪った、そういう不全感、そういう不満、そういう"怒り"。負けたから怒ってる、ペップ〇ねと言ってる(僕は言ってないですけど(笑))わけではない多分。ほとんどの人は。
そうですね、怒ってますね、まだ怒ってますね僕そう言えば。あのチェルシー戦には。珍しくしつこい。(笑)

勿論上でも言ったように、ペップが仮に僅かでも勝利への可能性を探り続けること、"見えて"しまうゆえに何かを"やって"しまうこと、そのこと自体を否定したり批判したりするのは酷ですし、やめさせるのは難しい(笑)だろうと思います。
ただ長年サッカーを見てれば惨敗も大敗も少なからずみんな体験はしてるでしょうし、僕自身はもう10年以上日本の二部リーグを抜け出せずにいる緑のチームのファンでもあるのでサッカーが上手く行かないこと自体は慣れっこなわけですが。それでもペップの"奇策負け"が与える「負け味」の悪さというのは、なかなか類を見ない、特別な性格のものに感じます。後を引く。(笑)
・・・それで思い出しましたがそう言えばヴェルディも(名前言った)ミゲル・アンヘル・ロティーナに率いられて近年最も一部昇格に近付いた2018年のJ1昇格プレーオフの磐田との決定戦の際には、それまでチームの要であったアンカー内田達也をいきなり外してノーアンカーの即席中盤で挑むというロティーナの"奇策"の果ての負けというものを、経験してましたね。ロドリかフェルナンジーニョかを直前数試合探った挙句フェルナンジーニョで行くと決めた、と思って本番迎えたらどっちもいない即席中盤で負けたシティのチェルシー戦と、似てると言えば似てる。(笑)
ヴェルディの場合シティと違ってほとんど誰にでも分かるくらい地力負けしていてどのみち負けたろうなという部分については余り異論は無かった筈ですが、それでもロティーナの選択の後味の悪さについては、当時のほとんど絶対支持の空気の中でもかなり厳しい声、恨みや怒りの声が飛んでいました。そういうものですね。そういう"負け方"

結局だから何に怒っているのか、いたのか、シティ・ファンは(あるいはヴェルディ・ファンは)、改めてより一般化した形で言ってみると、それは

 試合を奪われた

ということではないかなと。あるいは「プレー」を。プレーを見る機会を。
勝利をではなく。タイトルでも、昇格でもなく。(それもあるでしょうが)
丸々一試合、無かったことになっている。クライマックスになる筈だった試合の経験が。空白になっている。なんか知らんが負けたらしい。負けという結果は、残っているらしい。
監督は試合をしたのかもしれない。でも選手は?観客は?
選手はまあ、試合してないことはないでしょう。でも半分くらい?どうも余り要領を得ない感じでやっていた、これ以上ない大事な試合に対してテンションを高めきれないままやっている感じの選手はそれぞれの試合で何人もいた気がしますから。観客は?どうなんでしょう。僕はほんと、無かったことになってますね。試合について"書かれた"文章は覚えてますけど、試合についてはあんまり。
ああ、試合したかったなあ。もう一回やって、ちゃんと負けたい。(勿論出来れば勝ちたい(笑))

繰り返しますがペップ(やロティーナ)の勝利への努力を否定することは、ほとんど論理的な問題として出来ないと思います。ただそうですね、少なくともペップに対しては、こういういちゃもんをつけることは可能なのではないかなと。
つまりペップも属する筈の"クライフ"流、クライフ教の根本教義は、観客に向けてプレーする、観客の喜びの為にエモーションの為にプレーする、そういうものだった筈。だからペップの、監督の、先回りし過ぎの"処置"によって、例えそれが結果"悲しみ"であったとしても観客の試合によって呼び起こされる素直なエモーションの噴出が阻害されたならば出口を塞がれてしまったならば、それは流派的にも罪であって、抗議する権利が観客にあるのではないかという。
勿論これはたまたまペップに対してだけ使える抗弁であり告発であり、ロティーナがどう言うかは知りませんが。(笑)
例えばそういうことです。

最後の"ロティーナ"の部分が意外と重要かもしれないのは、ペップやロティーナに限らず、今後ますます(or少なくとも当分の間は)"先取り脳内将棋"の比重の高い監督の活躍は増えて来るわけでしょうから、ペップにシティ・ファンが、ロティーナにヴェルディ・ファンが味あわされたような、喉に各種栄養剤だけ突っ込まれてはい食事終わりみたいなそういう釈然としない"ディナー"、試合の出現も増えて来るだろうと予想されるからですね。
それにサッカーファンは慣れて行くのか、サッカーはそういうものだとなって行くのかというと、あんまりそうは思わないかなあ。ことはサッカーのレゾンデートル的なものに関係していて、必ずしもサッカー・インテリジェンス(だけ)の問題ではないのではないかと。

まあどんな"策"もどんな"戦術"も、選手が消化して得心して動いていれば、自ずと"プレー"にはなって行く"試合"にはなって行くものだと思いますから、そいう意味ではやはり"俄か仕込み"が問題なのであって、他の選択肢が無かったか他の選択肢の方が良かったのではないかと、何周かした挙句にごく普通の批判・問いかけを、することになるのかも知れませんが。
逆に似たようなケースが増えて行けば、その中での批判・検討、監督間での考え方の洗い直しなども、自ずと起きて行くのかも知れませんね。

以上つまり、今のところ監督と観客、どっちも悪くはないと思うけれど、どちらかというと監督の方に譲って欲しいなあと思っているという、そういうある現代的で構造的な"不幸"についての、僕の見方でした。
過保護反対!子供に失敗する自由を!機会を!的な話でもあるかも知れません。(笑)


・・・まあ、牽牛星さんの"エモーション"はエモーションで、よく分かりますけどね。(笑)

絶対的最終生産過程の不在が不安を駆り立て、奇策的な応手を『取らされ』一発勝負に沈む負のサイクル[6]

不安定な最終生産過程から奇策を放ち炎上する未来が心配でならない。twitterのTL上で『大耳負けた、ペップ死ね』が広がる景色を見るかもしれないと思うと心が痛くてしょうがない。[6]



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僕の知っているアグエロ
2021年05月26日 (水) | 編集 |
先日のエバートン戦、全然"引退"じゃないしありていに言えば"生え抜き"でも"バンディエラ"でもないのに、どんな"引退"にも負けない壮麗な"物語の完結"感と生え抜きバンディエラ並みの満場の惜別感を残し、その一方で正にその試合の2ゴールが示したようにまだまだ全然世界トップレベルの選手が次の活躍の場に移るだけというプロフェッショナルな爽やかさまで伴った、イベントとして完璧という以上のシティでのプレミアラスト試合を務め上げて見せたセルヒオ・アグエロ選手。(まあ本人はサッカーやっただけでしょうけど(笑))
まだCL決勝というどイベントでの活躍の可能性も残っているわけですが、逆に試合後はそれどころではない可能性も高いので、今の内に夜中に与えられた笑いと感動(笑)の返礼をここに記しておきます。


ペジェグリーニ時代のアグエロ

アルゼンチン(代表)にそういう選手がいることは勿論知っていましたが、さほど熱心な海外サッカーファンでもない僕がこの選手を特に認知したのは、たまたま興味を持って見始めたペジェグリーニ・シティの選手としてでした。・・・バティだのクレスポだのと比べると、同じアルゼンチンのトップFWでも日本での知名度はそこまでではなかったですしね。
シティ自体もNHKBSでやってれば見るという程度だったので記憶が定かではないですが、13-14シーズンだったか14-15シーズンだったか、当時はとにかく何かっちゃあ怪我でいない印象が強かったので、23試合出場にとどまっている13-14シーズンが有力でしょうか。(シティ自体は状況証拠から多分その前のシーズンから)

ではいた試合のアグエロについてはどうだったかというと、これがちょっと難しい。"BS"時代のシティと言って僕が思い出すのは、まずは何と言ってもヤヤトゥレであり(これが50%くらい)、次はアルゼンチンはアルゼンチンでもサバレタの方であり、それから勿論ダビド・シルバであって、なかなかアグエロの名前は出て来ない。何ならジェコの方が先に来る。(笑)
では印象的な活躍をしなかったのかというとそんなことはなくて、今でも映像が思い浮かぶ鮮烈なゴールがいくつもある。(ジェコには無い(笑))
ただ・・・一瞬なんですよね、それが。場面は思い浮かぶけど、場面しか思い浮かばないというか。僕にとってペジェグリーニ時代のアグエロは、「ちょくちょく謎のタイミングで謎のアングルから突っ込んで来て無闇に難しいゴールを決めるけど、それ以外は何してるかよく分からない選手」であって、毎年チーム得点王ではありながらアグエロの存在はある意味勘定に入れずに、チームを見ていた。アグエロのゴールは常にボーナス、例えそれが毎月であっても(笑)。もらってラッキー無くても気にしない、その時は給料(ジェコとか?(笑))の範囲で普通に暮らす。

要は"ストライカー"ということではあるんでしょうけど、アグエロのプレーの"唐突""瞬間芸"感はひときわ強烈で、それで脳がトータルな構図の中に記憶することを拒否する感じ(笑)。無いものとした方が安定する。(ゴール)「職人」というにすら、大人しく収まってくれない感じ。そういう"狡猾"で功利的な、言い換えれば「世間」ずれした感じとは少しずれる。それゆえ"馴れ"ない。
そこらへんは後述するアグエロのパーソナリティの独特さとも関係して来ると思うんですが、それについてはまた後で。


ペップ・シティでのアグエロ

そういうアグエロの元に、16-17シーズンから"ペップ"グアルディオラが監督としてやって来ました。
あくまで継続的で連続的で全体的なトータル・フットボールを推し進めるペップのチームで、むしろ"消える"ことで"外れる"ことで、そして"瞬間"的に爆発することでプレーを成り立たせていたアグエロは、当初苦戦します。言われたことは基本的にやろうとはしていましたが、予め"見られた"状態でそこから持続的漸進的に効果を蓄積して行くようなプレーは、"唐突"が身上(?笑)のそれまでのアグエロのプレーからはかなり隔たったもので、基礎能力の高さで何とかこなしつつも時に苛立ちや戸惑いを隠せない様子は見て取れました。またシーズン途中にはジェズスという、より若くよりペップの戦術的要求にジャストフィットした同ポジションの有力選手も加入して来て、主役交代の日が遠くない気配を、多くの人が感じていたと思います。

しかしそこからアグエロは、意外な反撃を見せます。徐々にペップの要求にも慣れて、それまであまりやらなかったポストプレイなども改めて効果的意図的にやるようになって、チーム戦術の中でしっかりした機能を果たすようになり、それだけでも立派なんですが、どうも話はそのレベルにとどまっていないように、僕の目には見えました。単に"適応"したという以上に、何か"中身"が変わってしまったような印象すら、ある時期以降のアグエロから僕は受けました。
どういうことかというと、つまり僕流に言う瞬間・断続・唐突(笑)の選手として既に世界一流の名手としてある意味完成していたアグエロが、ペップの指導と格闘する中でそれとほとんど反対のトータル・連続・関連蓄積の方向で、そうしたプレーの体現者として呼ばれた筈のジェズスすら凌ぐ積極性で、むしろ"生き生きと"(それゆえ効果的に)プレーするようになった。僕に言わせれば、「本質を曲げた」プレーで。・・・一般に瞬間が得意なら連続は得意ではない筈ですし(国内弩級のリベロだった闘莉王はボランチとしては役立たず)、逆に連続が得意な選手は瞬間の決め手は今一つなのが普通(それこそ例えば"ジェズスの決定力"問題)。だから"適応"や"レパートリーを増やした"という以上の勢いで新たなプレーを、ほとんど第一人者然とこなすアグエロの姿を、奇異の念と感動で、鳥肌が立つような思いである時期以降僕は見ていました。なんなんだこの人と。(笑)

しかもいったん"ストライカー"であることを要求される場面になれば、以前と変わらぬ"瞬間"の爆発力を見せるわけですから、当時のジェズスの立つ"瀬"ない心境を想像すると、涙が止まりません(笑)。売りの筈の"動き"であっさりとキャッチアップされ、決定力では言わずもがなの大差を見せつけられ。しかも言ってみれば伸び盛りの若手がリアルタイムの成長力でおじさんに負かされたわけで、悲惨です(笑)。そこで一回ポッキリと心を折られたであろうジェズスが、再び人数合わせ以上の積極的存在感をチームの中で取り戻したのは、ほとんど今季、20-21シーズンに入ってからようやくだったと思います。チームの新生/上昇と随伴する形で、アグエロの物理的不在にも助けられて?


"永遠の美少年"としてのアグエロ

話戻してそのアグエロなんなんだ問題。
その一つの答えというか、僕なりに見てああ!そういうことかとヒントめいたものになったのが、いつかのJSPORTS"Foot!"の回顧企画で目にした、アトレチコ時代('06-'11)の若きアグエロの姿。
・・・多分2008年12/12の『#18 亘さんのアミーゴを訪ねて At.マドリー編』ですね、手元に映像とかはありませんが。それが正しければ、1988年生まれのアグエロは、当時20歳ということになりますが。

その時のアグエロがどうだったかというと・・・。とにかく"美少年"でした(笑)、ノンケ("ストレート")の僕でもぎょっとするほど。形が整ってる整ってないというのもそうなんですけど、とにかく"透明感"が半端ない。生き物としての"純粋"さが、何かこの世の範(のり)から外れてるような。それで"ぎょっ"としたわけですけど。

アグエロアトレティコ1アグエロアトレティコ2


・・・拾った画像なのでずばりというわけにはいかないですが、"美少年"感としては例えばこんな感じ?"無垢"な感じは、伝わると思います。

それで何か芋づる式(?)に思い当たった、そう言えばアグエロってそうだよねと俄かに焦点を結んだのが、アグエロの瞳の時に不思議(不気味?)なくらいに"澄んでいる"印象。妙にすっと通ってしまって、変な言い方ですがそこに何も映ってないのではないかみたいな表情をする時がありますよね。

アグエロシティ1アグエロシティ2


単にびっくりしてるだけ?(笑)。いやいや。2番目とか、見れば見る程不思議な顔に見えます僕には。妖精さんですか?という。(笑)

更に付加的エピソードとしては、元マラドーナの娘婿にして初孫の提供者という"経歴"も加えたいかも。(笑)
・・・へええ、第一子2009年か、そんな若かったのか。
いや、だいぶ後ですけどこの話を聞いた時は、結構びっくりしましたね僕は。マラドーナの娘ですよ?そう簡単に結婚出来ますか?する度胸ありますか?(笑)。無関係ならまだしも、ど同業のアルゼンチンのサッカー選手が。日本のプロ野球選手が、おいそれと長島三奈氏(長嶋茂雄氏の次女)と結婚出来ますかみたいな話でね。
男として尊敬しましたね。僕にはとても無理、同様の立場なら。(笑)

まとめて何が言いたいかというと、アグエロって人並外れて"純粋""素直"な人なのではないかということです。
純粋で透明な、かつては超俗的な美少年であり今もその面影を瞳に残す。
同じ道の神がかった大先達マラドーナの娘であろうと、気にせず、あるいは素直に喜んで、あっさり結婚してのける。(想像ですが(笑))


アグエロの"魔"成長

つまりですね、ペップ就任後のアグエロの、僕から見ると奇異で異例で矛盾にすら見える部分のあった本質反転的奪胎的置換的"成長"、それを可能にしたのは、簡単に言えばこのアグエロの人並外れた"素直"さだったのではないかということです。そう繋がります。(笑)
しばしば意外で多彩な用兵と選手の成長を根気強く促すことには定評のあるペップですが、この場合の主体は促"された"アグエロ側の方により大きくあるだろうというのが、僕の見立て。じゃないとあの頃のアグエロの"成長"の速度感や突破力が、自分的に納得がいかない。適応は所詮適応でしかないし、それで新世代の"エリート"ジェズスをその得意分野で追い抜くまでは無理。ペップの"改造"ったってそんな簡単なものではないだろうし、これからの若手選手でもないのにそこまで立ち入って無理押しするとも思えない。ペップは単に敬意をもって公明正大に基準を示しただけで、一通り言ってみてそれで駄目なら普通に(部品)交換・移籍が待っていただけの予定だったろうと思います。

それに対してアグエロが応えた。恐らく誰もが予想しなかった深度で、敏感さで、"素直"さで。それまでの自らのプレーの"本質"にすら見えた特性すら、頓着せずにあるいは自覚なしに、ある意味壊して作り直せるような"素直"さ。
結構な大手術な気もしますが決して嫌々でも無理やりでもなかったのは、それによって"瞬間"の本能自体は殺されることが無かったという事実に、示されている気がします。

これがまあ、"美少年"アグエロ(笑)の鮮烈な印象と共に、僕に見える"ペップ・シティのアグエロ"の全体像ですね。その後加齢もあって(元々故障がちでもあったことを今回この文章を書いて思い出しましたが)コンディション不良(そう言えばコロナも)で出場機会が大幅に減り、その間にチームが"0トップ"を基本とするスタイルで安定してしまったことでさすがに元専任的ストライカーの選手として"別れ"を決断することになったのは、誰が悪いわけでもない致し方のないことだったと思います。それでも物理的に出続けていればそうした変化にすら対応出来たかもしれないという気はしないでもないですが。まあデブライネの使い方を見ても、アグエロがいればいたでペップは意外と普通にアグエロの専門性に合わせる形でチームを作った可能性が高いので、そもそも前提が違って来るかも知れませんが。
そこらへんも含めて、とにかくペップは"魔改造"はしていない、むしろアグエロの方が"魔成長"したのだというのが、小見出しの意味です。(笑)


以上、これが僕の知っている、セルヒオ・アグエロという選手です。
皆さんのと同じかどうかは、分かりません。(笑)
まあとにかく、約10年間に渡って色々な種類の驚きを、僕に与えてくれた選手でした。・・・ついつい"引退"に寄せた辞みたいになりがちですが(笑)。チャンピオンズリーグ決勝も頑張ろう!(どうも今いちまだ緊迫感が無い)


テーマ:欧州サッカー全般
ジャンル:スポーツ
web版 footballista 2020年の"有料"記事より
2021年02月03日 (水) | 編集 |
この前やった"無料記事"版の有料(限定公開)記事版・・・と堂々と紹介できるほどの分量は実は無いんですけどね。
やってみて分かったんですが、web footballistaは有料化して以降急速に無料公開分を絞り始めていて、まともに引用できるのは2020年でも最初の方の記事だけなんですよね。計算違いだわあ。(笑)

とにかくその範囲で、やってみます。多分これが最後でしょうね、このパターンの記事は。(システムが変わらない限り)2021年以降はやる意味が無さそう。


「マッチプランは意味を失いつつある」本人が明かす“ナーゲルスマン流”チーム構築 (鈴木達朗 2020.03.23)

マッチプランは、少しずつ意味を失いつつある。というのも、試合の流れの中で常に調節して適合させなければならないからね」
3年前なら、試合前にしっかりとマッチプランを構築して、それを1試合通して最後まで実行することもできた」
「現在の試合前の準備は、対戦相手の具体的なイメージをつかみ、その試合のための理想的なメンバーの組み合わせや配置を見つけ出して、選手たちを試合に送り出すことなんだ。常に複数のフォーメーションに対して準備をしておかないといけないし、さまざまな数的有利・不利の状況について備えておかないといけない」


結果当たり前のことを言っているようではありますが、他ならぬ"ナーゲルスマン"が、"3年"という時間単位でこういう内容を語っているのが面白いというか、おかしみがあるなと。
3年前ということはつまりつい最近、ナーゲルスマンを一人の筆頭とする"新世代""データ分析派"の(多くは若手)監督たちが台頭して/むしろ主流化して、サッカーの常識が塗り変わって以降ということになると思います。
それによって試合前の準備が精緻化して、きっちりした「マッチプラン」を基に試合に臨むことが当たり前のこととして要求されることになって、しかしその同じ潮流の更なる進捗が今度はその"成果"(マッチプラン)の意味を危うくしているという皮肉。
何というか、"新人類""今ドキの若いモンは"と嘆いているのを見るような不思議感というか。あえて死語を乱打してみると(笑)。"昔は良かった!"って、どの昔だよと言う。(笑)
最初からオッサンである世代からすると、そういう追いかけっこの切りの無さに馬鹿馬鹿しさというか無常感を感じてしまう部分があるから、どこかでケツをまくること、"自分たちのサッカー"とまでは言わなくてもどこかに単純化ポイント割り切りポイントを作る方が実利がある場合が少なくないのではないかみたいなことを考えてはしまうわけですが、さりとて走ってる電車からいきなり飛び降りるのも無謀なので当面はやはり"準備"の"精緻化"を怠ることは出来ないとそれもまあ分かって、ナーゲルスマン自身の(最後の段落の)結論もそういう内容ではあるわけですね。
まあ理念闘争はともかくとしても、実際問題当該チームの選手が付いてこれなくて益より害の方が大きくなる可能性なんかも一般的にあるわけで、そこらへんを最終的にどうさじ加減するかは結局個々の監督次第というか、むしろ手法の共有が進む中で"勝てる"監督になる為の違いの出しどころという感じもしますけどね。(という形で僕は常に監督に"最終責任"を問うんですけど(笑)。そう簡単に"選手の能力不足"を理由にはさせない)


「プレーヤートレーディング」の時代は何によってもたらされたのか? (片野道郎 2020.03.23)

プレーヤートレーディングは、直訳すれば「選手売買」となる。これ自体はまったくニュートラルな言葉なのだが、実際には「移籍を通して利益を上げること自体を目的とする選手売買」を指して使われている。


初めて「プレーヤートレーディング」的な動きが起こったのは、1990年代末のイタリアだった。(中略)
有力7クラブの間で選手獲得競争が過熱した結果、ローマ、ラツィオ、パルマ、フィオレンティーナという4クラブが過大投資による赤字で深刻な財政危機に陥り、2002年から04年にかけて実質的に経営破綻するという結末になった。


その過程で、帳簿上の赤字を粉飾する手段として使われたのが、「等価交換移籍」という手法だった。
2つのクラブが同じ値札のついた選手を交換すれば、結果的には一銭も移籍金を支払わずに移籍が成立する。その値札についた金額は、同じ数字でさえあれば、高かろうが安かろうが実質的には相殺されるのだから、何の変わりもない――はずなのだが、実際には大いに変わりがある。それぞれの選手を獲得した費用よりも高い値段をつけて売れば、帳簿上はそこに差益が発生するからだ。(中略)
形式的な移籍によって、文字通り無から有を生み出す。「プレーヤーの債券化」の始まりである。


世代的にプロ野球ファンとして子供時代を過ごして、その後Jリーグを筆頭とするプロサッカーに主な観戦対象を切り替えた身として、"プロ野球にはあったけどプロサッカーには無い"(くて少し寂しい)要素として、一つは「"キャンプレポート"と"オープン戦"」(の楽しみ)、もう一つは「交換トレード」(による編成の活性化)があります。
前者はサッカーにも無くは無いけどかなり薄い、情報価値のあるものは一般にはほとんど流れて来ない、後者はそもそも移籍制度保有権の制度が全然違うので、"ドラフト制度"も含めてサッカーにはほぼ存在出来ないものなわけですね。
一応選手に打診はするけど基本的には球団どうしが自己都合で生身の人間を"交換"し合うという制度に"人権"的な問題はあるのではないかということは、サッカーとは無関係に野球界内でも昔から言われていて、法的にはサッカーの制度の方がちゃんとしてるとは思いますが(笑)、それはそれとしていちいち金銭を発生させないでも双方の編成や適材適所を合理化出来るというのは"スポーツ"的にはかなり魅力的であって、そこそこ現実性のあるロマン(合意さえあれば貧乏球団でも出来る)として知恵の絞りどころでもあって、サッカーにそれが無いのは結構ショックでしたね。逆に野球の世界で(サッカーの慣行に近い)"金銭トレード"というのはむしろ軽蔑の対象というか殺伐感の伴うものであって、球団ファンやその選手のファンに、怒りを買う危険の大きなものでした。"交換"の方が、よっぽど「人間」扱いされてる気がした。勿論個別に悲しむ選手や釣り合いのおかしな交換例などは、あったりはしますが。

というわけでここでは「赤字粉飾」の為の手段としてのみ事例的に取り上げられている(笑)「等価交換移籍」ですが、むしろイタリア人たちの"悪知恵"が開いてくれた「可能性」の方に、目を向けたい気持ちもあったりしますというか読んでて思いました(笑)。制度的には出来なくは無いのかと、逆に。
力が無いわけではない保有選手を、単に「干す」より首にするよりちまちま「貸し出す」より、あちらの浮いている実力選手と「交換」する方が、随分と楽しい気はするんですけどね。ダイナミックだし。まあ近い事例もたまに無いわけではないようですけど。
林陵平とか林陵平とか林陵平とかね(笑)。何だったんだろうあれはという心残り。どのみち若手以外はほぼ金になんかならないわけですからね、"移籍金"ったって。少なくともベテラン選手の選手寿命はどちらかというと伸びる気がしますけどね。早めに居場所の見つかる可能性は高まりそう。


自転車に補助輪はムダ。「コンテクスチュアルトレーニング」とは何か? (浅野 賀一 2020.04.04)



この本の監訳者へのインタビュー。

「いろんなことを知っているがばかりに、優先順位をつけるのが難しくて。現在のスポーツ界でも、お金があったり規模が大きなチームでは選手一人に対して何人も専門家がつく。そこで選手がケガをした場合、医者の診察、理学療法士のリハビリ、鍼灸師のマッサージ、ストレングスコーチのトレーニングが要素還元的にバラバラのコンセプトで進んでしまう。で、その選手はまたケガをして戻ってくるわけですよ。そこには、選手が復帰するまでの過程で選手を中心とした共通理解がないとダメなんです。それが欠落している」


そういうことって起きないのかなと思ってはいたんですけど、やっぱり起きているようですね。
科学は普遍・客観なはずだけど、実際にはそれぞれがそれぞれにやっているだけという部分も多い。

「ボッシュはもともと解剖図を描くアーティストだったんですけど、それぞれの専門書が矛盾していることに気づいたんですよ。その矛盾を解消するために、彼は論文を集めて読んでいって、共通のコンセプトを作っていったわけです。」


何というか、"よく出来た"逸話だなと。(笑)
正に人体を"バラバラ"にする「解剖」図の、「専門」書どうしが"バラバラ"であると。
その"バラバラ"の"専門"性を、繋げる試み。
"アーティスト"というのがまた面白くて、つまりは(解剖学の)「専門家」じゃないから気付いた日常的な"全体"感からの、素朴な疑問の追求。
・・・こういうこともあるから、サッカー素人の僕の"疑問"も、追求していいのではないか的な?(笑)
「論理」的であることは、前提ですけど。「論理」は「科学」より広い。(こともある)

それで具体的にどうするかどうしたかという内容は有料部分なわけですが・・・それではあんまりなので(笑)支障無さそうな範囲でざっと要約しますと、

・動作の過程ではなく結果に意識を向けさせる「ナレッジ・オブ・リザルト」
・動作の仕方ではなく、結果としてそういう動きが生まれる状況を作ってあげる
選手自身に問題解決させる。(判断基準を作らせる)

というようなことが語られます。
先に"結果"や"全体"を示して、プロセスや細部については自己組織化によって自動的(それが自発的でもある)に決まる/決めさせるということですかね。

・・・無料部分で言えば、

「2人の選手がいたらそれぞれに合わせた教え方をするんですよ。人によっては左を注意させたり、上を注意させたりして、それぞれの選手に独自の問題解決を促していたんです。」


というあたり。

ちなみにタイトルにある『コンテクスト』という言葉は直接出て来てないのでこの記事でははっきりとは分からないんですが、選手に経験させる「状況」のことを言ってるのか、それとも選手個々に置かれる状況・文脈(コンテクスト)が違うという、「個別性」具体性のことを言ってるのか。両方かも知れませんが。


以上3つくらいですね、引用して使える記事としては。少ないですが。
上の記事以降はどんどん「無料」部分が少なくなって、一番笑ったのは上の"コンテクスチュアルトレーニング"の項でも出て来た「要素還元主義」批判に絡んだ『「戦術脳」を鍛えるヒントは野菜にあり!サプリメント=要素還元主義の限界』という記事で、何と無料部分はこれだけです。(笑)

ビタミンCよりもピーマンを食べよう


ギャグ、なのかなと思わなくもないですけど。(笑)


テーマ:サッカー
ジャンル:スポーツ
web版 footballista 2020年の無料記事より
2021年01月20日 (水) | 編集 |
去年末のヴェルディ記事を書く時に、web版footballistaをまとめ読みしているということを書きましたが、その際に面白いなと思ったものについて、つらつらと。
とりあえずは誰でも読める、無料/一般公開記事の中から。(可能なら有料記事でもやる予定)


まずは西部謙司氏の記事2つ。

ゾーンプレスを脅威に昇華した “オランダトリオ”の破壊力 (西部謙司 2020.02.26)

1980年代後半から90年代初頭にかけて、新戦術ソーンプレスとフリット、ファン・バステン、ライカールトの"オランダトリオ"を擁してイタリア&ヨーロッパサッカーを席巻したサッキ・ミランについての回顧記事。

ただ、90分間ずっと「ボール狩り」をしていたわけではなく、回数としてはセットプレー並だ。


サッキが下敷きにした、リヌス・ミケルスの「70年代のアヤックス」についての記述。ちなみに「ボール狩り」+「ゾーンディフェンス」が、つまりはゾーンプレス。(という説明)
セットプレー並。そんなもんなのか。
僕はそのアヤックスを基に作った'74年W杯のオランダ代表の方は一通り見たことがあるんですけど、とにかく"'90分間"制圧していた印象で、"犠牲者"となったブラジル代表やアルゼンチン代表の試合中ただただ絶望していた表情を痛ましく(笑)思いながら見ていた記憶があります。・・・最後決勝で"試合巧者"西ドイツ代表に優勝をかっさらわれたことで「悲運」の印象が強いかも知れませんが、それ以外はむしろ"いじめっ子""殺戮者"という印象でしたね僕は(笑)。美しいとも余り思わなかったし。ただただ凄いなと。えげつないなと。何ならアンチ・フットボールだなと。(笑)
だから"セットプレー並"の頻度というのはやや意外なんですが、可能性としては
 1.'74年のチームはアヤックスを更に過激化したボール狩りを行っていた。
 2.(ボール狩りと組み合わされた)"ボール・ポゼッション"の方が、「制圧」の印象を生んでいた。
 3.そもそも「ボール狩り」の定義の問題で、今で言えば"ハイプレス"(特にストーミング系チームの)のような特別に過激で集中的なプレッシングのみを「ボール狩り」と呼んでいて、そちらの頻度は"セットプレー並"であった。

みたいなことかなと。そのどれかか組み合わせ。

進化版を作っただけあってプレッシングの威力はバルセロナの比ではなかった


サッキ・ミランが"攻撃"については要はショートカウンターからのオランダ・トリオの個人能力頼みで、さしたる革新は無かったという話からの流れですが。
その"攻撃"の方の革新を担った、ミケルスのチームの言わばサッキ・ミランの"兄弟弟子"に当たる、クライフ・バルサ(1988-1996)との比較。
こちらは僕は本当にスポット的にしか見たことが無いんですけど、その範囲でもえらく"緩い"なあという印象を受けていたので、やっぱりねという感じです。"比ではなかった"。そうでしょうねえという。そうであってくれないと、記憶の辻褄的にあまりよろしくない。
まあロマーリオとかストイチコフとかが前線にいたチームですからね。そこまで真面目にボールを狩るとは。


フランスが世界王者になる時。「即興性と多様性」を引き出す2人の名将 (西部謙司 2020.08.18)

微妙にタイトルのニュアンスがずれてる感じ。
何か現在のフランスの持っている特定の可能性が"これから"フランスを世界王者に導く未来像について書かれているような印象を受けると思うんですが、実際は"過去に"フランスが「世界王者」になった('98年、'18年の)二度のW杯のチームに、どのような共通性があったかという話。

ジャケ監督は[強化試合で]同じメンバーでの同じフォーメーションを1回も組まなかった。つまり、ベストメンバーは本大会が始まるまで不明のまま。とはいえ、誰が見てもだいたい予想はつく。(中略)しかし、ジャケ監督は性懲りもなく毎回フォーメーションとメンバーを替え続けた。フォーメーションは考えつく限り、ありとあらゆる形が試されている。


ディディエ・デシャン監督の2018年優勝への道のりもジャケの時と似ている。
ジャケほど意味不明な実験はしていないものの、大会が始まってから完成品ができ上がったのは同じだ。そして完成品といっても、実際には未完のまま優勝してしまったのも98年とよく似ている。98年はCFがいなかった。デュガリーは負傷し、トレゼゲは若過ぎた。決勝でプレーしたギバルシュは大会無得点である。18年のメンバーは固まっていたが、最後まで勝ちパターンはよくわからないまま。CFの無得点も98年と同じ。


こうした"共通点"の内容の更なる説明。

ジャケのフランスは守備が強力だった。1点取れば負けないし、2点取れば確実に勝てる。けれどもどんな相手からでも2点以上取れる攻撃力はない。そこで、ありとあらゆる形を試してデータを蓄積し、少しでも相対的に有利な形と組み合わせを探った


デシャンのチームはカウンターをやれば世界で一、二を争う能力があった。しかし、それだけではW杯は勝ち抜けない。遅攻の力も必要で、守備も盤石にしなければならない。人材はいたので、いかに組み合わせてバランスを見出すか。結果的にジャンケンでいえばグー・チョキ・パーを全部そろえた


つまりどちらも強味を基に、理想/最強のチームの完成ではなくてケーススタディの徹底的な蓄積で、大会を勝ち切ったということ。

それが

フランスらしい自己肯定であり、彼らのやり方なのだ。


と西部さんはまとめるわけですが、若干この"二例"に頼り過ぎというか、なぜそうなのかの説明は弱い/足りないかなと。

一応フランスの多人種性という理由は挙げてはいます

人種、身体能力、背景文化の違う選手たちは、それぞれに得がたい個性がある。


スペインのような完璧な攻守循環を作り上げるチーム作りは、多様な人材のいるフランス向きではないのだろう。


が、さほど明確には主張していない。

例えば(半分冗談ですが(笑))哲学の世界ではイギリスの経験論に対する大陸の合理論の創始者として"フランス"のデカルトの名がまず挙がったりするわけで、"フランス"人が本来現実主義とは限らないし、実際左翼理想主義の本家の一つでもあるわけですしね。なぜサッカーだと"右翼"になるのか。(笑)
あるいはサッカーの世界でも、プラティニたちの"シャンパン・サッカー"の時代もあったわけですし。
結果"勝てる"のがジャケ/デシャンのあの形であった事には理由があるんでしょうし、この先もそうではないかという西部さんの予測に割りと僕も賛同はするんですが、「理由」としては、"フランスらしさ"の中身の説明としては、もう少し欲しかったなという感じです。


続いては結城康平氏取材による記事×2。

創造力がある選手をどう育てる? “育成改革中”イングランドの現状 (結城康平 2020.03.26)

イングランドの大学の「フットボール学科」で学んだ後、現地で活動を続けている日本人指導者マーレー志雄氏へのインタビュー。

先日もボーンマスとFA(イングランドサッカー協会)が共同でGK講習会を開催していたんですが、最初はボーンマス側も乗り気ではなかったようです。クラブ側も多忙ですし、ノウハウをオープンにしたくなかったのが本音だったみたいですけど


ボーンマスが"渋る"というのがリアルで面白い(笑)というか、そんな門外不出の"ノウハウ"がちゃんとあるのかというのが変な感心ポイント。
例えば日本を代表する"優秀育成クラブ"たる(笑)我らが東京ヴェルディの下部組織に、JFAから共同オープン講習会か何かの打診が来たらどういう反応をするんですかね。まさか断りはしないだろうと思いますが、その際に子供たちはいいけどよその指導者が来るのはお断りだとか、ここまでは見せてもいいけどこれ以上は駄目とか、そういう具体的で"盗まれる"危険があるようなノウハウはあるのかな、単純に分からないですけど。
結局何が優秀なんですかねウチは。"伝統"とか"風土"とかだとしたら、一週間二週間公開したところで何を盗まれることも無いわけでしょうが。スタッフも結構入れ替わりはあるようですしね、どんな継続性が逆にあるのか。自分のクラブのことながら謎です。

特に小さいスペースでの1対1――ボールをキープしなきゃいけない時や狭い局面でも日本人は細かい動きで打開してしまいます。イングランドの子供たちはそういう器用で俊敏なプレーができない。イングランドらしく、気合いで何とかしようとします(笑)。ただ一方で技術が不足しているからこそ、様々な工夫をする傾向はあります。例えば狭いスペースでプレーできないのはわかっているので、広いスペースを使うとか。


子供でもイングランド人はイングランド人なんだなというのと、そしてそれゆえの「工夫」の蓄積が、長じてのある種のプレーの熟達、あるいは日本人とイングランド人のプレーの差にやはり繋がっているんだなという。
海外サッカーを見始めた子供の頃から、あちらの選手、代表的にはイングランド人やドイツ人の"不器用"な選手たちの、大きなスペースを使うプレーのある意味の"繊細"さやクロスを使った攻撃の"巧み"さにはいつも感心していて、対してボールテクニックでは劣らないどころかたいていは優る日本人選手のそうしたプレーの"雑さ""不器用"さ、全体のレベルが上がっても余り改善されないように見えるそれには、いったい何なんだろうこの差はと、思わされるものがあります。それこそ中村俊輔的なマエストロレベルまで行かないと、"対等"の効率を持ったクロスが日本人選手には上げられない。そんなのはいずれひと握りなので、それでは解決にはならない。
勿論"細かい"プレーなら日本人の方が上手い訳でしょうけど、では同じく細かいテクニックの相対的にある南米選手が日本人のように大きなプレーやクロスが下手かというとそんなことは無いので、やはり何か日本の子供の成育過程というか、自分が持っているもの出来ること出来ないことの認識やそれらのサッカー的状況との重ね合わせに関して、何か欠陥というか学びのプロセス上の問題がどこかにあるんじゃないかとは、思ってしまうところはあります。現在に至っても。
"キック力"の問題、だけとは思えない。それもあるとは思いますが。
「技術」と「要領」の違いというかね。


指導者大国ポルトガルのUEFAプロライセンス取得コーチが語る、ポルトガルの指導力と日本人プレーヤーの魅力 (結城康平 2020.10.18)

2. 発展は直線ではない、という思考。人間の成長は非線形なメカニズムとなっており、それを理解しなければなりません。例えば広いスペースでのトレーニング後に、狭いスペースでのトレーニングを計画したとします。それによって選手は狭いスペースで思考速度を速くしなければならないでしょう。逆に狭いスペースでトレーニングした後に、広いピッチでのトレーニングを組むこともあります。これによって、選手はスペースの活用法を知るはずです。このように2つの異なったトレーニングの方向が、どちらも選手の発展に寄与しています。


その信奉者/代弁者を自ら名乗るルイ・サ・レモス氏による、"戦術的ピリオダイゼーション"の主張・援用する「非線形」という概念の分かり易過ぎるくらい分かり易い例。・・・つまり、「広さ」と「狭さ」を行ったり来たりするから、"ジグザグ"だから、"線形"ではないという。
こんなに分かり易くていいのか、というか(笑)、なんかただの弁証法にも見えるぞという気もしないではないですが、少なくとも練習プログラムの組み方という意味では、有益そうな説明ですね。

私は中島を常に『チームプレーヤー』として評価していました。あれは南米やヨーロッパのアタッカーにもない、彼だけの武器です」

――興味深いご意見ですね。代表チームでは中島のドリブルは、強引だと評価されることもありますが……。

 「そのような意見は信じられませんね。中島は常に勝利を求めており、抜群に賢い選手です。彼が強引にプレーをしている時は、それがベストの選択になってしまっているのではないでしょうか? 彼は自己中心的なプレーヤーではなく、私が指導した時にはボールを引き出すような動きやパス、クロスでチームの攻撃を牽引していました。
 指導した私が自信を持って保証しますが、中島は非常に賢い選手です。常にチームにとってベストになる選択肢を探し続けています」


ポルティモネンセで中島翔哉の指導者でもあったルイ・サ・レモス氏。
"フォア・ザ・チーム"だからこそ「強引」なプレーをする選手という、類型自体は僕も理解出来ます。"戦術"よりも自分の感覚を信じる度合いの強い、南米の大物選手などにはまま見られるタイプですね。ヴェルディ時代のエジムンドなどは正にそういう選手でしたし、フッキの"強引"さも単に我儘というより自分なりの「成功」への"最短距離"が見えてしまうからこそのものという面が、少なからずあったと思います。(単に融通が利かないという面も、否定は出来ませんが。(笑))
中島翔哉をここに並べられるのかというと、並べられなくは・・・まあないかなという感じ。ヴェルディでも代表でも、彼が"自己アピール"よりは"善意"で、「勝手」「強引」なプレーをしてるのだということは、一応僕も感じはします。ただ余りそれを肯定的に見る気にならないのは、結局は実効性の問題か。"結果"が出ていないという。(エジムンドやフッキのようには)
ただ"結果"かいい時でも(そういう時も勿論ありますから)、やはり何かゲームの洞察/情報収集に不十分なものがあって、必要な判断やプロセスがショートカットされていてそれがたまたま結果が良かっただけみたいな割り切れなさも、見ていて残るんですよね。"あっぱれ"あげてもいいけど(笑)"尊敬"は出来ないというか。彼にチームを委ねる気にはならないというか。(エジムンドのようには)

が、それにしても褒められてますね。外国人から見れば彼も十分に("フォア・ザ・チーム"の)日本人だということなのか、それとも「自己責任」カルチャーの濃度の高さが彼の"強引"を日本人のようには気に留めないということなのか。
でもまあ、ここ数年は"ちゃんと守備しろ規律を守れ"的な注意を、チームから受けることが多いようですしね、やはり"問題"はあるようには思いますが。判断のショートカットという。


その他の人の記事×2。

英国で学んだ異色の“育成”研究者。データが示す昇格選手の条件とは? (足立真俊 2020.03.25)

上のマーレー志雄氏同様、イングランドでフットボール科学を学んだ、こちらはどちらかというと"研究者"であるらしい後藤平太氏のインタビュー記事。

イングランドのU-21の女子選手を対象に、消化が遅いものを食べるグループと消化が速いものを食べるグループに分けて、その食事の3時間後にサッカーの試合を想定した運動をしてもらいました。15mのスプリントを数分おきに行ってもらいましたが、スピードを持続できたのは消化が遅い食事を摂ったグループでしたね。


試合前にはすぐエネルギーになるもの(代表的には"バナナ"(笑))を食べろという常識は間違い?

――イングランドのアカデミーでは、後藤先生がかつてされていたようにアルバイトで指導できるんですよね。そのせいか、ユース育成ルールではスタッフの勤務形態も決まっているんですけど、常勤の指導者の必要人数は少なく定められているみたいです。

 「私がイングランドにいた当時も、アカデミーの指導者のほとんどがアルバイトでした。


へええ。
わざわざ"定められて"いるというからには、意図的なものなんでしょうね。人材の流動性なり、同じことですが若手指導者になるべく均等に経験のチャンスが行くように?単なる財政的理由とは思えない。
一方で日本では基本"常勤"を求められるので、それで食えなくて"研究者"の方をメインにしているという、後藤氏の話。

「アカデミーでチームに残留できた選手と残留できなかった選手を比較しました。全体としては低速度での移動距離が長い選手ほど残留できていることが判明しましたね」


読めば分かるようにまだ色々と研究途中のデータのようですが、これもなかなか興味深い指標。
全体として、この方の指標の取り方というか研究手法の方に、何か面白みを感じた記事でした。なるほどこうやって(サッカーを)研究するのかという。


バルセロナよりミュンヘンより、今が幸せな理由 (ル マルティン 2020.04.03)

グアルディオラのシティ一年目の密着記事。

グアルディオラがバルセロナでトップチームの監督に就任して過ごした4年間は、苦しみの方が多かった。過剰な責任感、信頼してくれた人を失望させたくないという気持ち、世界一の選手メッシの存在……。様々なものが重圧となって、すべてやり尽くしたとは言えない4年間だった。


この人の書き方ですけど、そうなんかなあという。
やり尽くしたし、逆にやることが無くなったからこそ故郷を離れたと、外野的にはそういう印象の方がどうしても強いと思いますが。
プレッシャーは当然あるとしても、あの栄光の4年間で"苦しみの方が多"いと言われると、おいおいと言いたくなる同業者は多いのではないかと。(笑)

あのドリームチーム時代のように、チキと一緒なら何もかもが簡単だ。球質の良いロングボールを送り込めば、GKの飛び出し際にゴールへとシュートを流し込んでくれる。


チキ。ベギリスタイン。元浦和レッズ。(笑)
Jリーグに来た"大物"選手は数多けれど、個人的にあれほどどう使えばいいのか何が取り柄なのか、最後まで分からない選手もいなかったです。
"左きき"の基本"ウィンガー"らしいんだけど、言う程単騎の突破力があるわけではないし(先にいたウーベ・バインのように)決定的なパスを出す型を持っているわけでもないし、勿論ストライカーでもないようだし、全体的なレベルの高さは分かるんだけど具体的にどう"中心選手"として使っていいのか、当時(97-99)のさほど人材豊かではない浦和レッズ基準で見ても、よく分からなかったですね。
上の"プレイバック"にあるように、一瞬のタイミングで抜け出して合わせる感覚はあるようなので結局ストライカーとして使うのがいいのかなあと、ようやく結論めいたものが見えてきたところでお別れという、個人的にはそういうめぐり合わせでした。(笑)
・・・ということを、読んでいて思い出したというだけの話です(笑)。まあそもそも、2020年にもなって突然載った感じの回顧記事ですし。(笑)


以上です。
ちなみに西部さんによる"無料"記事では、もう一つ凄く面白い記事(『不確実なサッカーで再現性を追求する、意外と古い「パターン攻撃」の歴史』)があったんですけど、それについて書いている内にこれはシングル・イッシューとして描くべき内容だということに気が付いたので、近い内に別枠で書く予定です。


テーマ:サッカー
ジャンル:スポーツ
読書日記(’18.5.15) ~サッカー本まとめて
2018年05月15日 (火) | 編集 |
昨日届いたおニューのテレビに、まだふわふわしている(笑)感じなので、こんなので。
前に取り上げた本の、こぼれネタ集みたいな。




ミケル・アンジェル ビオラン 『グアルディオラ・メソッド―勝利に導くための61の法則』

p.105

「まったくそれはありません。これまでになく絶好調です。未公開の練習を見学してもらいたいくらいです。これまでにないエネルギーがチームに充満しています。SFのようなプレーを練習していますからね。」(シャビ)


'09.5月ということですからバルサの初年度、三冠達成した08/09シーズンの最後の方。
取るもの取って、一年間のハードスケジュールをこなして、さすがにそろそろモチベーションの維持に苦労する頃ではないかと問われてのシャビの言葉。
よく思うんですけど、"戦術"というのは何の為にあるのかというと、勿論直接的には勝つ為敵を欺く為翻弄する為にあるわけですけど、ある意味それ以上に味方の「モチベーションを掻き立てる」高める為、その為の"ツール"としてあるという面があると思うんですよね。簡単に言うと、"好奇心"ということですけど。知的刺激。その為には「何かある」ということが大事なのであって、それが何かということは二の次とは言いませんけどある意味別の問題。現実に選手がやる気になっていればそれでいいというところがありますし、逆にやる気になっていなければかえってモチベーションを低下させていたりすれば、それがどんなに"トップモード"だろうと"合理的"だろうと、それは"機能"していない戦術ということになる。敵と対する前の段階でね。

監督の仕事自体、要するに選手を"結果"としてやる気にさせてまとめ上げて全力を尽くさせることが仕事だと言えるわけで、「戦術」というのもその手段の"一つ"、他の方法の方が得意な人もいればあるいは少なからず重視はしていても仕事上の配合自体は色々であり得る。
ただ毎日毎日毎年毎年(笑)仕事としてサッカーをやっているプロ選手の場合は、ただやらせたって飽きる流すという方向にはどうしても行き易いわけで、既に生活なんかみんなかかっている以上"好奇心"というのはかなり重要な"モチベーション"で、そういう意味ではやはり戦術は大事だとは言えると思います。"何か"あるということが。・・・見てる方もね。書く方もというか。(笑)





アレックス・マルティン『大切なことはみんなピッチで教わった』

p.169

グアルディオラにとって、その場所とはカンプ・ノウの地下にある、窓のない小さなオフィスだった。なかばグアルディオラの"私室"と化した、その絨毯とランプのほかには飾りもない部屋で、彼は対戦相手のDVDを観ながら、相手の強みと弱点をひたすらメモしていく。
「すると魔法の時間が訪れて、『これだ、明日はこれで勝てる!』とひらめくものだ」


ひらめくのか。ほんとかしら。こんな行き当たりばったり?(笑)
本自体多少情緒的で怪しい内容も多いものなので、どこまで真に受けていいものやらというところはありますが、ここまでドラマチックではなくても、何らかこういう場所こういう風景はあったんでしょうね。
一応「」で括られていますし(笑)。そんなようなことを言ったは言ったんでしょうね、ペップが。

p.179

イギリスのチェルシーFCのフランク・ランパードは、ずば抜けた頭脳に恵まれている。(中略)
ある日のトレーニングのこと、選手たちを対象に知能テストを実施する、とチェルシー専属のドクターが言いだした。(中略)
ドクターを大いに驚かせたのは、ランパードの知能指数だった。なんと天才物理学者のアインシュタインと同じ160だったのである!


ああ、なんか分かります。
当時余りプレミアを見ていなかったのもあって、正直チェルシー時代のランパードには、「パワフルに守ってパワフルにシュートを打つ」という、いかにも"イングランド人"らしい選手という以上の印象はありませんでした。それが晩年、NYCに移籍する前の腰掛けでマンチェスターシティに来た時に、その万能なテクニックと柔軟なポジション適性や気の利きまくったプレーに、「こんなにサッカーの上手い選手だったのか」とびっくりして、いっぺんにファンになりました。
いやあほんと、もう少し見ていたかったですし、もっと言うと例えばもう2,3歳若くてタイミングが合えば、それこそ"グアルディオラ"下でも問題なくプレー出来たのではないかと、そういう詮無いことを考えたりもします。グアルディオラの下でプレーする、"進化"したランパードを見てみたかったと。今のフェルナンジーニョの地位を奪っていた・・・かまでは何とも言えませんが、少なくともギュンドアンなんかに頼る羽目には、ならなかったのではないかと。(笑)

全く意味の無い想定ですけど。ただただ、見てみたかったなあと。
いっそ"パワー寄りのデブライネ"とか。褒め過ぎ?(笑)



日本サッカー戦記

加部究『日本サッカー「戦記」』 2018.2..9

p.118-119

古沼はいきなり試合前日にフォーメーションの変更を告げる。
それまではセンターフォワードの早稲田を軸に、両翼にウィンガーを配す4-3-3で戦って来たが、この試合は2トップで臨むというのだ。選手たちは面喰った。
「おい、2トップって、なんだ?」


1977年の、帝京高校サッカー部の風景。そんなもんかね。(笑)
今だとより"ナチュラル"に日本人がプレー出来るのは2トップの方で、3トップの方がより高度で戦術的、戦術理解が必要と、そういうイメージだろうと思いますが。
ただその更に"一周"前だと、"センターフォワード"と"ウィング"の「役割分担」の方が簡単で"自然"で、4-3-3が最もポピュラーなフォーメーションだったらしいことが、この本でも随所に出て来ます。
多分"2トップ"が可能になる、言い換えると"2トップのコンビネーションで崩す"というようなことが可能になるには、一人一人の日本人選手の"一芸"に留まらない総合的な技術及びサッカーアイの向上が必要だったと、そういうことでしょうね。
ちなみに"2CB"については、実は未だに"2トップ"並みの成熟は日本人は達成していないのではないか、マークとカバーの3バック的な分業を4バックでも誤魔化し誤魔化しやっているだけなのではないかと、そういう印象が僕にはあります。

p.205

石井(義信)はライバル中国が強力な2トップを用意して来ることを想定し、3バックの導入を決断した。
「最終ラインで1人余らせるという発想ではなく、守備で余裕を作りたかった。でも当時の私にとって3バックは未知のものでした。そこでマツダの監督を務めるハンス・オフトに、どういう概念でどういうシステムなのかを聞きに行った。」


p.206

選手たちには4バックから3バックと、新しいフォーメーションに変わったという意識は希薄だったようだ。例えば、堀池も「まったく攻撃には出ていかない右SB」のイメージで、相手のエース格をマンマークすることに専念していた。


"フォーメーション"問題続き。
こちらは1987年、ソウル五輪アジア一次予選での風景。監督は当時"気鋭"の石井義信監督。先頃お亡くなりになられましたね。
どういう意味でしょうね。一人余らせるわけではないけれど守備に余裕を持たせる3バックって。3人で交互に2トップを見るということ?
オフトにわさわざ聴きに行ったということは"システム"としての3バックをちゃんとやろうという気はあったわけでしょうね。ただ選手(堀池)にはその意図はあんまり伝わっていなくて単なる4バック+1というか、形としては多分そこまで"5バック"ではなかったのではないかと想像しますが、発想は完全に5バックというか。
・・・でも(エースの)"マーク"と言っていますね。3バックでサイドの一人がエースのマークというと、アトランタ最終予選白井博幸とか思い出しますが。
あれも今思うと、どういう並びなのかイメージしづらい。当時はそこまで気にして見てませんでしたけど。


p.132

「ニッポン!チャ、チャ、チャ」(中略)
1979年、当時の日本には、まだ観客がスポーツの会場で声を揃えて応援する習慣がなかった。その3年前のモントリオール五輪で女子が金メダルを獲得し、球技では最も世界に近い実力を誇ったバレーボールの関係者たちが、この光景を見て羨んだ


若きマラドーナが来日したことで有名な、1979の東京開催ワールドユースの風景。
へええ。
それで"見習った"成果が、現在のほとんど"マスゲーム"的な、バレーの国際試合の集団応援なのか。(笑)
まさかサッカーが先とは。

p.134

平均点の選手は見当たらず、明らかな特長を持つ個性派集団だった。監督の松本が解説する。
「私たちの時代は、高校でサッカーを始めて10年後に五輪で戦った。そのためには並外れた運動能力が必要だったわけです。むしろサッカーしかしてこなかったという選手はいなかった。」


同じく東京ワールドユースの、日本代表(候補)選手たちの話。
"岡野"みたいなのがいっぱいいたということですかね。(笑)
でもなんだかんだ、岡野を越える"スピード"選手は、未だにいないですもんね。

p.178

当時(日産の)主将の清水が述懐する。
「実は(木村)和司は足が速いんです。ウィンガーをしていたので、ドリブルも上手くて相手を抜き切るテクニックがある」


関連して。
"育成"が充実していないからこそ、「代表」まで行くような選手は本当に化け物揃いだったみたいな話。
それにしても和司さん俊足情報は初です。(笑)
どうしても晩年の"おじいちゃん"のイメージしか無いですけど。(笑)
"運動量"はプレースタイルの問題もあるにしても、"スピード"ねえ、意外。
ヒデも俊輔も、ウィングなんて出来ませんもんね。凄いじゃん。


p.145

この日本の若い世代のテクニックを見て、韓国は危機感を抱いた。実際後に都並は韓国の関係者たちからも、裏話を聞いている。
「だからこそ韓国は日本に追いつかれないように先手を打った。それがプロリーグの創設だったそうです」


こちらは何かというと、1982年スペインワールドカップの予選の話です。
"若い世代"とは具体的に、都並敏史、風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也、木村和司などのこと。
このエピソードは何というか、"日本人選手のテクニック捨てたもんじゃない"案件というよりも、"韓国のサッカーに対する真面目さ日本よりもだいぶ先を行っていた"案件とすべきかなと。
プロリーグ作っちゃうかね、その程度の"気配"で。

p.224

だが鮮明に覚えているのは、アマチュア時代でもユニフォームやスパイクなどの質では、日本が王国ブラジルを凌いでいたことだった。(中略)
「それがなんだか恥ずかしかったですね」(名取)


1989年、ひょんなことで実現した日本代表の南米遠征の時の話。
"名取"というのは、元浦和の名取篤
まだアディダスとかじゃないですよね、多分。(笑)
日本代表に金があったわけはないから、日本の国産メーカーが優秀だったということなのか、それともブラジル・南米の方の環境がまだまだだったということなのか。
"恥ずかしい"という気持ちは、なんか分かります。(笑)


以上です。
これで一応、『日本サッカー「戦記」』も、60年代から全年代についてレポしたことにはなります。
今回取り上げませんでしたが、讀賣クラブにドイツ人監督グーテンドルフが来た時の摩擦と葛藤の話とかも面白かったですし、ほんとおすすめですねこの本は。
日産あたりも含めて、結局Jリーグ以前はほとんどの日本人チームが3トップだったんだなあというのが分かったというのが、ある意味今回一番の収穫でした。


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読書日記(’18.1.31) ~スペイン、カタルーニャ、グアルディオラ
2018年01月31日 (水) | 編集 |
まあまあ集まったので、スペイン特集。
ヴェルディとマンチェスター・シティという形で、最近やたらと僕に絡んで来る。(笑)





『スペインの歴史を知るための50章』立石博高・内村俊太編

前回は、中世以来のカタルーニャの独立志向が、非イベリア性、ローマ及び西欧志向という基礎を持っているらしいという話をしましたが。

p.326

言うなれば、11世紀頃の時点で、共通の過去と理念をある程度は共有していたイベリア半島の諸国家が、時代を経るにしたがって各々固有の道筋を選択していったことを暦の利用状況が示唆している。


何の話かというと、スペイン中央政府(カスティーリャ)がヨーロッパで制定された新しい暦(グレゴリオ暦)を導入して国家的統一性の強化を図ろうとしたところ、それまで曲がりなりにもまとまっていた"スペイン"がそれに対するリアクションで分裂して、かえって統一性が緩んでしまったという、そういう話。
僕が特に注目したのは、「共通の過去と理念をある程度は共有していた」の部分。古来分裂し続けて来たものが近代になって一応「スペイン」としてまとまって、それがまた最近危機に瀕しているみたいな一本道的な歴史をイメージしていたんですが、そうではなくていくつかピークがあるというか、まとまる/ほどけるみたいなプロセスを繰り返して来たんだなという。

p.335

19世紀末にヨーロッパがナショナリズムの時代に入った時に、スペインでは、国家の一体性を不可欠の前提とするスペイン・ナショナリズムへの対抗として、地域ナショナリズムが誕生し、両者の対立構図は現在まで続いている。


これもまたスペイン「統一」"挫折"の歴史。
"ナショナリズムの時代"(参考)に日本を含む各国が中央集権的国民国家形成へと動く中で、同じように影響を受けたは受けたスペインの場合は、カタルーニャを筆頭とする"各国"がそれぞれにネイション意識を高めた為、かえって地域化が進んだという、笑い話のような真面目な話。
日本も「江戸幕府」ではなくて「豊臣政権」くらいの緩い統一を前提とした時代にナショナル化が進んだとしたら、そういう可能性もあったのかも知れないですね。各藩それぞれが"国"化するという。やっぱり前提としての「統一」のイメージがあるか無いかでは、大きく違うと思うんですよね。フランスも要は"ナポレオン"(の強力な指導)によって、国民国家を形成して行くわけですし。
まあ天皇もいたし、スペインのようには多言語でもなかったので、根本的に違うと言えば、違うのかも知れないですけど。とりあえず明治政府が"頑張った"ということは、善悪別にして言えるとは思いますね。

その後結局スペインは、20世紀の「フランコ独裁」という特殊な一時期を除いては、他の西側各国並みの強力な中央集権国家は形成しないまま現在に至るわけですが。
通して読んで逆に持つ疑問としては、「スペインはどうして分裂しているのか」ではなくて、むしろ「なぜスペインは"スペイン"という統一性を一応は持っているのか」という方の疑問。
それについてこの本では主題的には取り上げられてはいませんが、それでも拾い上げてみるとまずは

1.「西ゴート王国」という"統一政権"の始原的イメージ

というものが挙げられます。
西ゴート王国とは、415年 - 711年にかけて

現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国(Wiki)


であり、それがともかくもイベリア半島に統一的な王権を確立したこと、またキリスト教国家であったそれが後にイスラムのウマイヤ朝に滅ぼされ、それに対する"レコンキスタ"の過程で郷愁的に美化されたことによって、それ自体非ラテンの征服王朝であったにも関わらず神話的な共通イメージとして定着したと、そういうことです。"かつてスペイン(イベリア)は一つであった"と。

もう一つは、それこそこの本にはあえては書いてありませんが、要は

2.イベリア半島の僻地性

ということだろうなと。
大陸ヨーロッパと海に囲い込まれた「半島」という地理的な隔離性によって、好むと好まざるとに関わらず域内の緩い統一性共通性は意識せざるを得ず、またヨーロッパの方からは近代に至るまで常に異郷視・野蛮視を受け続けていた為、対抗上も団結せざるを得ない部分はある。仲は悪くても。(笑)
そういう言わば"消極的なアイデンティティ"としての「スペイン」は常に存在していて、ただそれゆえそれ以上には、なかなか高まらなかった。これがまあ、僕の目に映った"スペイン史"ですが。

面白かったですね。もっと色んな国の歴史を、改めて見たくなりました。
とりあえず次はイギリスか、フランスか。
「世界史」より「各国史」の方が、どうも面白い気がします。






『グアルディオラ・メソッド―勝利に導くための61の法則』ミケル・アンジェル・ビオラン

図書館にあったので読んでみました。期待したような戦術的な本ではなかったですが、"文化論"的にはまあまあ面白かったです。
作者はカタルーニャ人で、カタルーニャ人として、"カタルーニャ人"ペップやスペインを、語っています。

p.18

生粋のカタルーニャ人が持っていたコスモポリタニズム(世界は一つの共同体だという考え)は、スポーツのジャンルにおいてもタレント性とコミットメントの融合を可能にした。


これ以上は特には書いてませんが、やっぱりカタルーニャ人は、「コスモポリタン」なんですね。
僻地イベリア半島に閉じ込められながら、だからこそ逆に、切に「世界」を思う
スペイン/国を介在させずに。
後半部分が具体的に何についての話なのかはちょっと忘れてしまいましたが、ここらへん全体として筆者が言おうとしているのは、「スペイン」や「バルセロナ」の"成功"として今日語られていることの多くは、実際には「バルセロナ」単体や「グアルディオラ」個人に負うところの大きい性格のもので、「スペイン」のと言ってしまうのは問題がある、特にペップの飽くなき先進性やある種のグローバリズムは、優れてカタルーニャ的なものであって"スペイン"ではないと、そういうことのようです。
まあ"スペイン"と"カタルーニャ"の手柄争いについて口を出す立場には僕はないですが(笑)、ただ"バルサ"があくまで"バルサ"であること、そしてペップの個人的天才が余りに突出していて、「典型」として扱うのは無理があることは、ある程度は誰でも感じるところだろうと思います。
「スペイン」の中での「カタルーニャ」の突出と、更にその中での「ペップ」の突出と、二段構えの構造。


そしてそういう筆者による、"スペイン"評。

p.85

スペインでは自分たちの力やポテンシャルを信じない。(中略)
簡単に説明するとまったく何にも賭けをしない国。それがスペインだ。


スペインは「情熱的でない」ところに、特徴のある国だという。(笑)
かなり挑発的な感じはしますが、ただし見た感じ所謂"情熱の国"スペインという国際的定評を、意識しての記述には見えないんですよね。だから国内的には、実は通じ易い話なのかもしれない。定番の自虐ネタというか。またここでは必ずしも、"カタルーニャ人"として"スペイン"を叩いているようにも、見えません。
まあ日本人が明治維新を誇るように、逆にスペイン人はついに近代的集権国家を築けなかったことを、その自己変革力の無さを、恥じているのかも知れない。
スペイン文化全般も、基本的には暗いですよね。"フラメンコ"とか"闘牛"とか(笑)、明るい"情熱"というよりも暗い"情念"というタイプの文化。魅力的は魅力的ですが、"妖しい"魅力の方。
明るく建設的な"情熱"というよりも、虚無と無力感の淵から立ち上がる"狂気"に近いんですかね、スペインのそれは。ハンター×ハンターでも、「強化系」には分類されないタイプの"熱"かもしれない。(笑)

p.130

スペインはチームワークによって自分たちの能力を活性化させるのが困難な文化だ。集団意識が希薄で、誰の目にも明らかなリーダーシップに乏しい


これはまあ、"バルサ化"して欧州と世界を席巻する以前のスペイン代表を覚えているサッカーファンなら、割りとすんなり納得出来る評価ではないかと思います。
あの時は「国内事情で代表チームに対する忠誠心が乏しい」のが理由と、概ね理解されていたと思いますが、この筆者によるとそれは代表チームに限ったことではなく、"スペイン人による集団"に共通に見られる体質だと、いうことのよう。
そしてそれを改革した克服させたのが、個人の「タレント性」(↑)を集団への深い「コミットメント」(↑)に導いたのが、カタルーニャとバルサの("コスモポリタン"な?)文化だと。
まあ起源や手柄(笑)の問題はともかくとして、とにかく"集団"が苦手だったスペインが、今日では組織プレーの一つの手本として各国から研究されるようになるに至ったわけですから、仮に元が苦手であるなら尚更学びたい、日本人に何かしら伝授してもらいたいものではありますね。「自己変革」のプロセスの再現というか。
いつ見ても"鉄の掟"で動いているイタリアとか、逆に学べるのかなと思うところもありますし。

p.87

"ペップ"グアルディオラが新たに導入したことの多くは、彼がイタリアでプレーしていた時代に学んだことである。


ペップの"非スペイン"性の、ちょっと次元の違う(笑)補足。
脱スペインしてユニバーサルに学んだからこそ、ペップはあるんだと。まあ、それはそうかもしれない。(笑)
ただ正直ペップのバルサを出てからの放浪については、少し冷ややかに見ていたところがあって、いちいち本当に学び切っているのには驚きましたね。"プレイヤー"としては結局は(スペイン)ドメスティックな選手だったと思うので、どうも効果を危ぶんでしまったんですが。


さて最後にこの本のタイトルですが。
グアルディオラのメソッドとは何か。「無い」というのが実はこの本の答え。
そうではなくて、"グアルディオラ"そのものが"メソッド"であるという。言い換えればその人格が。

参考として挙げられているのが、心理療法における「クライエントセンタード」という考え方、手法。

この療法の基本的な考えは、「来談者の話をよく傾聴し、来談者自身がどのように感じ、どのように生きつつあるかに真剣に取り組んでいきさえすれば、別にカウンセラーの賢明さや知識を振り回したり、押しつけたりしなくても来談者自らが気づき、成長していくことができる」ということです。
人間は、成長・自律・独立等に向かう「実現傾向」を持つと考えます。カウンセラーは、自らの体験・意識・表現が一致していること、来談者に無条件の肯定的な関心を持つこと、共感的に理解することを大事にします。
(「来談者中心療法・カウンセリング」日本臨床心理士会のサイト)


ペップの指導もこの考え方に立っているというのが、この人の解説。
「カウンセラーの賢明さや知識」というのが、所謂"メソッド"にあたる部分。ある特定のそれを押しつけるのではなく、ペップがペップとしてチームや選手に向き合う/立ち会うことによって、対象が自ら気付き、"実現傾向"を現していくのに任せるのが、ペップの方法だと。
程度問題は分かりませんが、実際にペップがこの理論を学んで参考にしているのは、確かなようですね、この本によると。それにしても具体的な監督業をイメージすると、さすがに綺麗事な印象は否めませんが。

ただ僕自身も、「ペップには戦術が無い」ということは言いました。
それはつまり、原則は提供するけれど「こうしろ」とは言わない(のではないか)ということ。"絵"に向けて集約させることも無い。その原則を踏まえた上で、でも具体的には"クライエントセンタード"に、個々の選手やチームがその内側から「実現」させて行くものに任せている、それを管理・微調整するのがペップの仕事(の仕方)なのではないか、と、今回の話と合わせるとまとめられないことはないかなと。
もっと言うと、ペップの「願い」は確かに個々の"発露"そのものであって、「組織」というのはあくまでそれを助けるもの、決して"完璧な組織"を作るようなタイプの監督的エゴをモチベーションとはしていない、それは本当に思います。
100%フリーで出来るなら、本当にやらせるんじゃないでしょうか。そういう意味では、「教育者」なんでしょうね本質は。「カウンセラー」でもいいですけど。(笑)


こんなところです。
結構な量になりましたね。(笑)
もう一冊読んだんですが、それはまた今度に。


テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
「原則」と「戦術」 ~コンテ、ロティーナ、リカルド・ロドリゲス、そしてペップ
2017年12月06日 (水) | 編集 |
サッカーのチーム/組織プレーにおける原則ないし原理と戦術の関係、及び区別。
主に「ポジショナル」の語で昨今語られている、理論的場をめぐって。

僕の語感だと「原理」に行きかけたんですけど、この方面のリーダーの一人結城康平(@yuukikouhei)氏


に合わせて、僕も「原則」で話を進めることにします。

・・・別に結城氏の威を借りなくても語れるは語れるんですけど(笑)、あった方が分かり易いので。


ポジショナルプレーは「原則」として様々な戦術的事象を理解する基礎となる。

(「ポジショナルプレー総論。現代サッカーを貫くプレー原則を読み解く」"VICTORY")


上のツイートは割りと走り書き的なものに僕がたまたま特に目を留めたものでしたが、11/24に書かれた総論的コラムにおいても、その問題意識が継続しているのが分かります。

戦術に意味を与える上位概念としての「原則」として、ポジショナルプレーは現代フットボールを理解する為の重要な鍵になる。
(同上)


ここはちょっと僕は「下位」に置いちゃうかなあ、どっちかというと。「基礎」なわけだし。
まあいいですけど。

では本題。


所謂「コンテ式」と、今季の東京V&徳島のサッカー

『’17ロティーナヴェルディの幻想的予想』('17.2.20)で書いたことのおさらい的内容ですが。

'17年のJ2シーズン開幕前、及びその開幕前に行われたいくつかのプレシーズンマッチをめぐって語られたこの 羊@GP_02A 氏らによる一連のツイート

 東京Vvs浦安 TM現地雑感&343でのボール前進と崩しの解説

によって、

・ロティーナ監督がヴェルディに"ポジショナル"なるプレー原理を持ち込んでいるらしい。
・それは今正にプレミアリーグを圧倒的強さで制しつつあるコンテチェルシーと同じものらしい。
・またどうやらロティーナ同様スペイン出身の徳島のリカルド・ロドリゲス監督も同じようなことをやっているらしい。(そう言えば既にプレシーズンマッチでの好調は聞こえていた)


という前評判が俄かに高まりました。

蓋を開けてみるとどうだったか。
結論的に言うと、蓋を"開ける"直前の僕の「コンテチェルシー」についてのこの直観に、ほぼ沿うような結果だったと思います手前味噌ですが。

コンテチェルシーの試合を改めて見て思ったのは、そうは言ってもやっぱり「イタリア」だよなということ。つまり単体としてのコンテチェルシー、その"先端"性の裏にあるあるいは"強さ"の地盤になっているのは、やはりイタリア伝統のカウンタースタイルであって、「3バック(3-4-3)ボゼッション」戦術は、その職人芸をより効率的にやる徹底的に洗練させる為の"方便"みたいな部分があるよなということ。
(中略)
要はコンテチェルシーは、あくまで"コンテ"のものであるということ。

(上記『’17ロティーナヴェルディの幻想的予想』)


ロティーナもリカルド・ロドリゲスも確かにスタートの時点では、3-4-3で低めの位置で構成したポジションの優位で相手を引き出して"罠"にはめ、理想的にはノーリスクで相手の逆を延々突き続ける"コンテ"的な手法を取っているように見えました。
特に奇しくもいきなりこの両者が激突した開幕戦で、リカルド・ロドリゲス監督率いる徳島が披露した完成度は予想を越えて素晴らしく、"ポジショナル"はともかくとして"イタリア"サッカー好きだった(笑)僕の羨望を誘ったものでした。

しかしその後の徳島/リカルド・ロドリゲスが、そういうイメージとはむしろ真逆の、多分に前のめりな攻撃サッカーの方向に"進化"して行ったのは周知の通り。
一方のロティーナも、基本性格としてはセーフティ志向、リカルド・ロドリゲスよりは"コンテ"に近いイメージは残しつつも、かなり早くから「それにとどまるわけにはいかない」というはっきりとした意思を見せて、(せっかく)安定していたバランスの崩れや自ら決めに行く為の人材の不足を危ぶまれながらも、意外なほど分かり易く"理想主義的"に「能動・攻撃こそが"良い"サッカーである」という姿勢でチーム作りを進めていたと思います。

それらの良し悪しは措くとして、言えるのは「ポジショナル」という同一の原則・原理に立脚しつつも、更に言えば今回の場合はむしろ珍しいくらいにかなりはっきりと"意識"しながら用いつつも、結果志向されるスタイル表現される戦術は、3人3様別々のものになっているということです。逆に言えば、「原則」が「戦術」を一義的に決定するわけではない、ここに少なくとも二つの、考えられなければならないサッカーの組織プレーの異なる次元が存在すると、そういうことです。
だからこそ結城氏も、特に注意喚起しているというか。

では何が決定しているのかと言えばそれはまあ、ケースバイケースというかパーソンバイパーソン(そんな言葉あるのか?)なわけですが。コンテについてはまあ、行きがかり上「イタリア」ということで片付けてしまいましたが、勿論そんな簡単じゃないと言えば簡単ではない。じゃあロティーナは「スペイン」なのかいという話になってしまいそうで(笑)、それも嘘ではないと思いますが勿論それだけではない。
個別の監督についての考察はそれぞれ縁があった時にまたやるとして、今回の話で面白いというか肝なのは、こういう「原則」と「戦術」の区別・分離のようなものは、実際にはあらゆる監督メソッドに含まれているものだと思いますが、たいていは区別されていなかったり事実上"同時"に表れていたりする。ただ今回は「原則」の方が異例なほど明確に言語化されているので、それによって(同じ原則に基づいた)「戦術」の違い、二つの"分離"が鮮やかに見えている、そういうことだと思います。


まとめると同じく「ポジショナル」プレーの原則に基づきながら、コンテはコンテなりに、ロティーナはロティーナなりに、リカルド・ロドリゲスはリカルド・ロドリゲスなりにそれぞれ異なる「戦術」を実現していると、実現せざるを得ないと、彼らの個性に従ってと、当たり前と言えば当たり前ですがそういう話です。
「原則」は重要ですが原則だけで戦術・スタイルは決定されないし、監督やサッカーを見るのも正しくないと。これもまあ言葉にしてしまうと随分当たり前ですが。

・・・そうですね、前に僕がハリルホジッチをめぐる(特に擁護・賞賛系の)「論」について、

例えば同じ「理」や「相対観」を前提としていても、どの程度"作戦"サッカーになるかはそれぞれの監督の個性によるわけですし、あるいはそれは「スタイル」構築型のサッカーと、別に矛盾しているわけでも共存不可能なわけでもないわけじゃないですか。
(『帰って来たハリルホジッチ(?)/ロシア最終予選ホームオーストラリア戦』)


とクレームをつけていたのも、そうした「区別」の問題に関わっているわけですね。
原則("「理」や「相対観」")は原則、戦術("作戦サッカー")は戦術であると。ある原則から引き出せるものには様々な可能性がある以上、あるたまたまの一つの戦術の必然性を誤認させるような説明の仕方(例えそれが成功したものであったとしても)は間違っているし、また原則に関する議論とその監督の仕事全体の評価は別にすべきであるし出来ると、そういうことをまあ、言っていたわけです。

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