東京V等サッカー、漫画、アニメ、アイドル 他
オジーマジックの狭間で
2005年05月27日 (金) | 編集 |
2.オジーマジックの狭間で(前半戦総括(3))

今までさんざんオジーの当意即妙で痒いところに手が届くチーム作りについて語り、特に今年はいささかオーバーに一喜一憂して来た感がありますが(笑)、そうしてオジーの作るその時々のチームスタイルがそれぞれに一定のクォリティを示しているからこそ、単純な優劣がつけ難いからこそ逆に痛感していることがあります。
それは、あの天皇杯スタイルがいかにかけがえの無い特別なものだったかということです。

結果が出たから、ではありません(勿論それは大事なことですが)。少なくともオジーが率いている限り、この先も当分の間ほとんどどんなスタイルでもヴェルディは一定レベル以上の戦いをして見せてくれることでしょう。それはオジーの腕の冴えと同時に今のヴェルディの選手たちのクォリティとヴァリエーションの賜物でもあります。そのことは誇りに思います。
しかしなまじそうした奥行きや幅という”退路”があり、また一方でぶっちゃけ必勝を義務付けられているわけでもないヌルめのポジションにあることから宿命的に付きまとういわゆる「試合の入り方のマズさ」を筆頭とする試合毎の当たり外れ、緊張感の持続力の無さ、一試合及び大会トータルでの勝ち切る力の弱さという問題点を回避・解決出来る可能性があったのは、果敢で明快なプレッシングとランニング(によるスペースメイキング)を前面に押し出したあの天皇杯スタイルだけなのではないかと思うのです。

果敢で明快なゆえの弱点や狭さはあるでしょうし、あのままやってもいずれ何らか行き詰まりは来たでしょう。それはそれでその時対応するとして、しかしすべきだったのはあのスタイルで行くところまで行ってみること、伝統の「中盤じっくりパス回し」に次ぐ”第2の本能”と言えるレベルにまであのスタイルが身につくまでやり続けることだったのではないかと思えてなりません。
今はオジーがあの手この手で支えてくれていますが、いつどんな事情で彼がチームを離れることになるかは分からないわけです。”第1の本能”だけで戦った場合、どんな危険があるかは今まで嫌というほど見て来たでしょう。巨大戦力を抱える資金力も勝者のメンタリティも無いヴェルディが頼れるのは、文字通りのサッカーの内容だけです。あの伝統との分かりやすい差別化と分かりやすい結果を伴った天皇杯スタイルとの出会いは、ヴェルディのサッカー的なインフラというか資本金というか、そういう基礎部分の底上げ・拡張を図る千載一遇のチャンスだったと思うのです。

事は『ヴェルディ10年の計』に関わる、と大げさでなく思います。そういう観点に比べれば”決定力”なんてのは些細な問題です。つまり・・・・ワシントン獲得は大失敗だった!と話としてはそうなってしまうわけですが。いい選手だし、良かれと思っての前向きな補強だというのも理解はしますが、タイミングと人がまずかった。獲得出来てしまったこと自体僥倖という面があると思いますが、それがむしろ罠だったような。変なドラが乗って手作りの方針がブレてしまって、逆転の目が消えそうになってるみたいなそんな感じ(笑)。何らか存在感のあるFWは欲しかったですが、ちょっと方向違いの影響力が大き過ぎ。


実際にはオジーはプレッシングを捨てたりは全くしていませんし、現時点でも思いの外スムーズにヴェルディの選手たちはそれに馴染んでいると思います。しかし『10年』というようなレンジを視野に入れての醸成期間としてはどうも目先の変化が多くて曖昧さが付きまとうというか、一心さが足りない気がします。少なくとももうしばらく狭いくらいに打ち込む期間が欲しかった。上を見ても下を見ても、別に血相変えて勝ち点を拾って行かなければならないレベルのチームではないわけですし。

上ではメンタリティ的なニュアンスに寄った説明しかしていないのでよりサッカー的に付け足すと、あのスタイルの優れた部分は「自分から仕掛けられる」ことにあると思います。受けの安定感や受けて外し透かす上手さはヴェルディの大きな強味ですが、それが何かと後手に回る傾向に結び付いているのも事実。あの前後、他ならぬ選手たちのある種の飢えにも似た自ら動いて仕掛けていける喜びに満ち溢れたプレーぶりが忘れられません。

では現在の”カウンター”(風味)ヴェルディの行く末は?
勝ち点、ではなく次代へ向けての新たな結晶化という意味で僕に文句を言わせない成果を、後半戦でオジーとヴェルディ(とワシントン)が見せてくれることを今は切に願います。(「総括」終わり)


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前半戦総括(2)
2005年05月24日 (火) | 編集 |
(3)現行スタイルの由来と展望

こうした”らしくない”チーム作りをオジーが選択した理由は、別にオジーが宗旨変えしたわけではなく、ひとえに過密日程が進行する中でチームを特に守備面を中心とする決定的な崩壊から遠ざける為の方便、多少ニュアンス(とそれが重要な役割を果たす攻撃面)を犠牲にしても骨組の堅固さとタスクの明確さを優先したその結果なのだと思います。だからゆっくり準備時間が取れたらもっと丁寧に作り直すかもしれないし、そうでなくてもこの先大きな問題点が出て来ればまたいつものように巧みで素早い変わり身を見せることは十分に考えられるわけですが・・・・

僕自身が今のスタイルをどう考えているかというと、まず”カウンター”と連呼していますが、文字通りオジーがカウンターを標榜していると思っているわけでは勿論ありません。守備や破綻の無さへの慎重な意識と、一方で生命線と強く自覚するプレッシングへの意識、及びヴェルディは攻撃サッカーのチームであるという意識がせめぎ合う中で生じている半ば偶然的なバランスというのが今の状態の実際でしょう。

ただフィールドの重力は前から後ろへ働いているものなので(?)、後ろに強い意識を残したままではそのつもりはなくてもどうしてもカウンターというニュアンスはついて回るものです。またオジーの現在のゲームプランの要・・・・というか本音が、いかに早くカウンターを狙える楽な状態にたどり付けるかという若干消極的なものになっているというのもここまでの苦労からは実際あると思います。ワシントンという武器なのかお荷物なのか際どい不確定要素との戦いに疲弊して、今のヴェルディ(オジー)にマイペースで主導権を握って勝ち切るイメージは持ち難い。

そうした悪いとまでは行かなくても不安定なバランス、準備状態が、鹿島という適度な圧力と噛み合うと鮮烈なハーフカウンターとして弾け(うっぷん晴らし?)、柏という不活発で取り止めの無い目標を相手にすると支点を捕らえ損ねたテコのようなちぐはぐな戦いとして表れる、リーグの最近2試合だけからはこんな現状がイメージ出来ますが。


ナビスコガンバ戦の大敗を受けて勝負よりテスト・調整に重心を置くともとれる発言なども聞こえて来ますが、この先の修正作業を通してカウンター/リアクションというニュアンスが取れて行くのか、はたまたむしろそういうものとして完成度が高まって行ったりするのか、そこらへんはもう正直予想する気も起きないくらいよく分かりません。ただ一つ面白味のある展望として今僕が考えているのは、災い転じて福となす、”らしくない”チーム作りの経験がオジーの新境地を開いてヴェルディに今までに無い完成度を与えるというヴィジョンです。

つまり就任以来何パターンものヴェルディをオジーは作り上げ、それぞれに強味も魅力もしっかりありましたが、イージーカムイージーゴー(笑)、ちゃっちゃと出来る分どれもそこそこである程度以上にはならないという宿命のようなものもあり、それは何か無ければ無限に繰り返されるようなそんな予測が高い確度で成り立つと思います。
それが今回よりソリッド(最近のオジーの口癖)でシステマティックで、いったんは個々人の自発性を抑え込むようなオジー自身にもややよそ行きの手法でともあれチームを構成したことにより、それに鍛えられたオジーとヴェルディの本来の持ち味が一段二段上のレベルで花開く、そんな可能性を考えてみたりする今日この頃です。つまりもうちょっと我慢して追究してみいというのが一応の結論になりますが。”予想”ではないです、脳の暇つぶしの慰み。

・・・・”2”では更に長い射程でヴェルディとオジーをめぐる「スタイル」の問題について考えてみたいと思います。


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前半戦総括(1)
2005年05月24日 (火) | 編集 |
1.”今の”ヴェルディの位置付け

今年も開幕からこっち色々ありましたが、いちいち追わずに今、具体的には8節名古屋戦から12節柏戦にかけて熟成を重ねてるような迷走を続けているような(笑)、特に守備および攻守のセーフティなバランスに重きを置いたスタイルについてだけ検討します。それが書いてる先からまた別の企画/規格を追究し出しかねない千変万化のオジー流への適当なアプローチのように思えるので。

(1)オジーの(過去の)チーム作りの特徴

内実についてはまだ諸説定まっていないように見える現在のスタイルについて、僕は「オジーのチームの中でも突出してシステム性優位の(選手本位でない)スタイル」だと評価しました。

つまり一昨年の就任以来各時期において様々なシステム、様々な戦術を駆使して結果としてヴェルディの戦闘力を長期に渡って高いレベルに維持して来たオジーですが、彼の本質・最大の長所は個々の選手の特色や可能性をそれぞれのファンにすら思いがけないような深く細かい観察力で見極めるその姿勢にあると思います。結果選択されたシステムや戦術はそうして見極めたものを敷衍し、活かすための器として導き出されたもので、決して自らの信念や好み予定調和的結論から選手を駒としてある形に当てはめる戦略家・戦術家としてオジーのチーム作りはあるわけではない。

例えば2003年の基本布陣であった中盤フラット4-4-2スタイルにおいては、全体としてはそれまでの個人の能力や閃きに頼ったヴェルディのスタイルからは一段抜け出た整然とした組織的な攻守を実現しつつ、一方ではエムボマのポスト、林&米山のフィード、コバ&ラモンのバランス感覚、山田卓也の突進・シュート力、平野の運動量、アツのロングディスタンスの加速力とそれぞれの特徴が十二分に活かされて輝いていました。
3-5-2を主体とした続く2004年においては、ストッパー起用されてDFリーダーの任から解放された米山、及びスーパーサブやWB起用を経て従来のパスではなくドリブル能力に重心を移された小林大悟という、常にその才能に比した煮え切らないプレーで期待を裏切っていた2選手の攻撃力を目覚しいレベルに引き出して見せたことが特に印象的でした。

(2)今季、これまで

今年2005年もワシントンと平本のコンビ&ワシントンと2004年型プレッシングサッカーの不適合の解消に(部分的に)成功した6,7節の「平本トップ下4-4-2」の採用までは、オジーのチーム作りの姿勢は変わりは無かったと思います。しかしそのスタイルが一方で露呈していた守備面の不安をカバーする為に8節以降の試行錯誤の結果たどり付いている現在のスタイル、両サイド引き気味、ワシントン1トップ気味の3-5-2で、奪ったボールの反転速攻を主体とするそれは、少し性格が違っているように思います。

それが最も端的に表れているのが左WBの相馬のポジションで、一方で僕はその引き気味/受け気味のプレイスタイルの要求が相馬のオーバーテンションに一息つかせる好影響について語っているので分かり難くなっているかもしれませんが、あくまでそれは副次的な要素で普通に見ればやはり明らかに相馬はやり難い、攻撃面の持ち味が発揮し難い状況に置かれているわけです。
周知の通り去年のある時期以降の相馬というのは存在自体が戦術とも言うべき要中の要な選手なわけで、その選手のやり易さが犠牲になっている以上他の部分がどうあれとてもじゃないですが選手の特徴優位の構成とは言えないわけです。

また平本自身は一時の煮詰まりを個人的に脱しているのでさほど目立ってはいませんが、平本を2トップの下に置くことでいったんは解消されたワシントンと平本の関係の問題も、再度のシステムチェンジで基本的には元通りのワシントン/平本の2トップ体制に戻った(ここらへんは試合毎に揺れ動き中)わけで、言わばうやむやに先送りされた状態。
逆にワシントンを本格的に1トップとして考えた場合は、速攻スタイルで幅のある攻撃をするためのエムボマ的なポスト能力をこれまでのところワシントンは示していないわけで、よくよく考えるといかにもここらへんは消去法のシステムの論理からのご都合主義的な選択という感じも否定し難くあります。


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モナコとヴェルディの比較調査<内情編>
2005年05月18日 (水) | 編集 |
(経営の特徴)

モナコ

カジノで潤うモナコ王室レーニエ大公一族の手厚い庇護の元に、フランスリーグの中でも突出した派手な補強で定評があったが、近年は巨額の財政赤字も明らかになり、選手売却中心の手堅い経営形態に移行している。

なおフランスリーグは公権力の直接支援は認めておらず、”庇護”と言っても表向きその手段は王族のコネクションを利用した投資や人材の誘導という形に限られているが、前会長はモナコ議会与党党首、現会長も王族に近い筋の人物とその結び付きの強さは明らかで、「観光立国モナコの広告塔」というのが今も昔も隠れも無きASモナコの基本的なアイデンティティである。

ヴェルディ

広告で潤う(?)讀賣新聞王国の積極的バックアップを受け、当初は”プチ日本代表”的な豪華陣容でリーグを席捲していたが、後述の讀賣新聞社撤退後は漏れ伝えられる主力選手の薄給に聞く者の胸が締め付けられる貧乏球団に転落。(だがなぜかポイントポイントでは一点豪華主義的な大物外国人の加入で話題を攫い、そこはかとなく三つ子の魂が生きている感じ。)

讀賣新聞傘下の時代にはプロ野球の巨人軍同様「広告塔」として位置付けたい親会社側と「地域密着型総合スポーツクラブ」というリーグ側の基本理念が噛み合わず、それも遠因となってついには親会社の全面撤退という自体を招いた。後を継いだ日本テレビはチーム名(”FCニッポン”)などで一定の自己主張はしつつも目に見える積極的な支援は行わず、さりとて地域密着~としての体質変換も思うように進まずしばし宙ぶらりんの状態にも見える。

(財政危機)

モナコ
’02-’03シーズン終了後に累積赤字を理由に2部リーグへの降格を宣告されるが、保証金を積むことにより回避。

ヴェルデイ
’98年に親会社讀賣新聞が経営から撤退し、系列の日本テレビが引き継ぐ。解散も噂されるが大幅な縮小経営と数度の経営陣の刷新を強いられつつも、今日まで存続。


(観客動員・サポーター)

モナコ

収容2万人足らずという欧州名門クラブとしては異例の小規模ホームスタジアムにも関わらず、そもそものモナコの人口の問題やまた名だたる金持ち天国であってサッカーの普遍的な支持層である労働者階級がほとんどいないという事情から、ダービー戦など特別な試合以外では満員になることは稀。その多くない観客も総じて大人しく、しばしばアウェイ・チームのサポーターに圧倒される。

だが元キャプテンで現バルセロナ所属のフランス代表ジュリからはこんな証言も。
アウェーチームは、あの雰囲気に惑わされる場合がある。あまりにも静まり返っていることが多いため、アウェーの選手は欧州カップ戦でプレーしていることをついつい忘れてしまい、あまり重要な試合ではないような気になってしまう。
実際に戦績自体は十分なホーム・アドバンテージを示しているということ。

ヴェルディ

スター選手を揃えて常勝を誇った当時はリーグ全体の人気過熱と相俟って毎試合満員が当たり前の盛況を呈していたが、ブームの終焉と共にリーグの平均をも遥かに上回る勢いで(?)人気が下降、一転閑古鳥が名物に。本拠地移転(川崎→東京)、新スタジアムの使用でそこそこ持ち直すが現在に至るも常に動員はリーグの下から数えた方が早いという位置。

またチームのサッカースタイルに根差した元々の自由な気風もあって当初からサポーターの組織化には余り熱心でなく、動員が好調だった時代にはそれもさほど問題視されなかったがそれが落ちこんで来るとただでさえ少ないサポーターが更に分裂していてみっともないと悪評の的に。その点については近年改善が進んだというのが一応の定評であるが、依然声援の迫力不足を指摘する声は時に選手の側からも発せられることがある。


・・・・一応この後に<考察編>がある予定。(to ネタにしたい人へ)


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ASモナコと東京ヴェルディ1969の比較調査<データ編>
2005年05月17日 (火) | 編集 |
(創立) モナコ/1924年 ヴェルディ/1969年

(本拠地) モナコ/モナコ公国(人口3万人) ヴェルディ/東京都稲城市(人口7万人)

(スタジアム)
 モナコ  スタッド・ルイ2世(収容人数 18,500人)
 ヴェルディ  味の素スタジアム(収容人数 49,970人)

(リーグ参加)
 モナコ  1953年よりモナコ公国唯一のプロクラブとしてフランスリーグに特別参加
 ヴェルディ  1993年より日本リーグ唯一のプロクラブとしてJリーグに特別参加(?)

(優勝実績)
 モナコ  フランスリーグ7回、フランスカップ5回、スーパーカップ1回
 ヴェルディ  Jリーグ2回、リーグカップ2回、天皇杯2回(’93以降)、スーパーカップ1回

(主な在籍選手)
 モナコ
  アモロス(フランス)、ホドル、ヘイトリー(イングランド)、ウェア(リベリア)
  シモーネ(イタリア)、バルテス、アンリ(フランス)、ガジャルド(アルゼンチン)
 ヴェルディ  ラモス瑠偉、三浦知良、北澤豪、柱谷哲二、ペレイラ、ビスマルク、エジムンド

(主な監督)
 モナコ  ミシェル・イダルゴ、アーセン・ベンゲル、ジャン・ティガナ、ディディエ・デシャン
 ヴェルディ  松木安太郎、ネルシーニョ、レオン、李国秀(総監督)、ロリ・サンドリ、アルディレス

(ダービーマッチ)
 モナコ  ニースとの”コートダジュール・ダービー”、マルセイユとの”南仏ダービー”
 ヴェルディ  FC東京との”東京ダービー”、横浜Fマリノスとの”旧ナショナルダービー”(?)

(チーム勝利後の恒例行事)
 モナコ  カジノでシャンパンがふるまわれる。
 ヴェルディ  なんかない?

(アイドル)
 モナコ  故グレース・ケリー王妃
 ヴェルディ  奥菜恵サイバーエージェント社長夫人

・・・・グレース・ケリーさんは現在のユニフォームの基本デザインを考案したご本人だそうなので、奥菜さんにも何か作ってもらいましょう。恵ちゃんマフラーとか。


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では逆にどういう人がヴェルディを見るのだろう(3)
2005年05月16日 (月) | 編集 |
まあ今まで書いて来たことが「ヴェルディを(見るのが)好きな人こそが真にサッカーを好きな人だ」的な逆差別に聞こえたりするとそれはちょっと拙いのですけど。
言いたかったのは要するに「他が駄目駄目だから自然その部分が浮き彫りになる」あるいは「そういう原理的な部分にでも基礎を置いていないと積年の侮辱に耐えられなかったはず」という現象的な次元、ある種の必然的な結果についてです。

とにかく経緯はどうあれ仮に僕が想定した類型、つまり『好きだけどハナから行く気の無い人』が本当にある意味での”コア層”を形成している(いた)とすれば、クラブ経営という観点からはこれは非常に困ったことであり、不都合なことであり、直接経営に携わる立場の人には同情せざるを得ません。僕ほど確信犯でないのなら、そこまでスタジアムが嫌いでテレビが好きなわけでもないのなら、出来れば行ってあげて欲しいなと思います。

ただ・・・・ここで「不都合」という言葉を使ったことに注意してもらいたいのですが、僕としてはあまりこれを「悪い」とまでは言って欲しくないわけです。僕自身の例が正にそうですが、シンプルに言えば人それぞれの感じ方であり基本的人権の問題(笑)であるというのはまず勿論あります。誰かの「都合」を「善悪」に単純化して押し付けるのは古今東西圧制の基本パターンなわけですし。

そうした言わずもがなの一般論は置くとして、もう一つJの重要なボキャブラリーとして「文化」というものがあります。これは現行ではある共通の理想化された(”サッカー文化”という)イメージを指す言葉としての色合いが濃くなっていますが、本来はむしろ非共通性そのもののこと、既成事実の価値判断抜きの追認というニュアンスの強い言葉なわけです。不倫も文化だし纏足も文化だし、首狩りも立派な文化です。(とりあえずは)
だから価値基準の一義的確立という目的性を本質的に内在させている「理念」とは不倶戴天の敵のような気もするのですが、まあそこらへんはうるさく問わないことにしましょう。

ただそれでも”個性の尊重”という本義は忘れて欲しくはなくて、良い文化と悪い文化というものは無いわけです。ある観点や目的から見て「都合が良い/悪い」文化というのはあるでしょうが。つまり人が少ないのもコア層が傍観者的なのもヴェルディの立派な文化だ!・・・・というわけにはいかないですかねなかなか。ASモナコとかはどうしてるんでしょう。

いや、現状がいいと言っているわけでもまた逆に冗談で上のようなことを言っているわけでもないのです。価値観として擁護し得ると言うことと、実感として不全感・劣等感があるというのはまた別の問題です。そう他人と比較して感じている内は文化とは呼べないとも言えますし。つまり言ってみれば総体としてファンがアクティヴでないという既成事実を、これから文化として熟成していく過程が必要なわけです。

そんな文化は熟成したくないって?まあそうかもしれませんが(笑)。ただこれだけ辺鄙なポジションからただ追いかけたって追い付くとも思えないというか、そもそも100%追い付く/見習うというような観点だけでやるのは寒々しいやら屈辱的だわでやり切れないというのは無いですか?
意地の問題は置くとしても、後発の勢力というのは何か違ったものを持ちこまないといつまでたっても2級市民で逆転の可能性は薄いものです。そしてその”何か違ったもの”というのはたいてい既に持っていてむしろ欠点とされていたものだったりするわけで。

・・・・というようなことをつらつら考えていますが。ほんとにモナコはどうしてるんでしょうね。経済的なことも含めて。ちょっと調べてみます。今週割りと暇なので。


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では逆にどういう人がヴェルディを見るのだろう(2)
2005年05月16日 (月) | 編集 |
こういうイメージ的な身の置き所の無さを自虐的なプライドをもって余裕で耐えられる、むしろ楽しめる人がヴェルディ・ファンの中に一定数いることは知っています。他ならぬ僕自身もそうですから。ただそうした論外の連中(笑)は別にすると、だからこそヴェルディを贔屓にし続ける人はイメージ的な援護・修飾無しに純粋にヴェルディのサッカーが好きだ、興味を持っている人が多いということが他チームとの比較で推測出来るのではないか、これがまあ僕の論の中心的アイデアです。

で、そういう人たちはなぜスタジアムに行かないのかと、僕も思うわけです。
熱くヴェルディのサッカーについて語り、そこには確かに愛情の裏づけも感じる人がどうもスタジアムには行ってないらしいことが分かるということがV-Boardsなり2ちゃんなりその他ネット上で実際にままあります。個別にどうこう言うつもりはありませんが、遠方とか極端な貧困(笑)とかの特殊な事情を除いても、毎試合ヴェルディの試合を欠かさず注視している人は少なくとも味の素スタジアムのキャパ以上は実数としているはずですし、その全員が行かないにしてももうちょっといてもいいのではないかと。素朴に。結構面白い試合してるじゃないかと、興味深いポイントも沢山あるじゃないかと。

すっかりテレビ観戦派として認知/軽蔑されてるだろう僕に言われたかないと思う人もいるかもしれませんが、つまり僕はそういう人なわけです。僕がスタジアムに行かないのはヴェルディに文句や不満があるからではなくて、ただただスタジアム観戦という行為が嫌いでテレビ観戦という行為が好きだからです。例え僕がスペイン人で贔屓チームがヴェルディではなくてバルサやレアルで日々それを目の前で見ることが可能でも、それでも僕はテレビで見ます。特に疑問な点はありません。
・・・・別な言い方をするともしJのシステムが変わってヴェルディが放送権を自前で持つようになって、ヴェルディの試合をテレビで見るのに別料金がかかるようになったらむしろ僕は喜んで払うわけです。ようやく自分のライフスタイルが不可避的に引き起こして来た道徳的葛藤(ヴェルディに経済的に貢献出来ていないという)から解放されると(笑)。

ここまで極端な人は少ないとは思いますが、実はこういう傾向はヴェルディ・ファンという人種には相対的にあるのではないかと直観的に思います。ヴェルディを好きな人はサッカーを「見る」のが好きな人であって、「参加」したり「熱狂」したり増してや「応援」したりというのはどう考えても本筋ではないように思える、そういう感受性の人。
それが即ちスタジアム嫌いに結び付くとは限りませんが、何の疑問も無く日参している人には分かり難いでしょうがあの空間の”イベント”感というのは強力なものです。しばしばサッカーそのものを脇に追いやってしまうほどに。それが気になるタイプの人は想像するだけで疲れて、あるいはうるさく感じられてしまってテレビ桟敷に落ち着く、そういうことはあると思います。

それにしても・・・・と僕も思ったわけです。せっかくのタイトル獲得の高揚感のまま、前年の良好な内容と話題性のある補強を手土産に開幕した今年の動員の不調ぶりには正直驚きました。色々と要因はあるでしょうし、「いいサッカーをすれば客は集まる」という神話を信じたこともありませんが、さすがに減るとまでは思いませんでした。そして次にああ、ハナから行く気が無いのね、ならしょうがないかと。それでこういうことを書いているわけですが。


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では逆にどういう人がヴェルディを見るのだろう(1)
2005年05月16日 (月) | 編集 |
ナビスコ広島戦での観客数(の少なさ)が話題になった時にも書こうかと思って結局やめたんですが、せっかく他サポの方が煽りでなく(笑)取り上げて下さったので書くだけ書いておきます。
大した話ではありませんが。ただの思い付きで統計的根拠もありません。

つまり相対的に多くはないとは言えそれでも一定数の固定ファンが存在しているわけで、では逆にその人たちはなぜ数あるJチームの中からは他ならぬヴェルディを贔屓にしているのか。
強くて金持ちでスター揃いで華やかだった「王者」時代は遥かに過ぎて、強くもなければ金も無い、おまけにJの理念の劣等生でイメージ最悪、好きだと言えばクラスでえんがちょ(古)にされかねないそんな何の取り柄もないチームをなぜ追っかけ続けるのか。

まあ上の言い方が実感的に一番しっくり来たのはココの開設当時の’02年あたりで、だからこそ「prison」「牢獄」という命名がそれなりに一般性を持っていたわけです。その後ロリやオジーという優れた監督が来てそれなりの戦績を上げ、またエジムンド、エムボマ、ワシントンというスポット的ではありますが”スター”もやって来て随分イメージはましになったと思います。

ただそれでもまとわりつく”劣等生”のイメージ(実態もそうですが)は強力で、困るのは本来どんな体制下であれ劣等生であることは逆に「反逆児」としてのカウンター・アイデンティティの源にもなり得るはずなんですが、ことヴェルディに関しては讀賣グループとのからみで「守旧派」イメージとの結び付きが宿命的に断ち難いのでそれすらままならないという、実にまあ何とも身の置き所が無い。ただただネガティヴ。

各クラブやサポーターの地道な活動の効果を否定する気はありませんが、はっきり言って「万」というオーダーでの人の動きに”流行りもの”や”ブランド”というイメージ面の要素が小さいなんてことは群衆行動一般の原理としておよそ考え難いので、これはやはり大きなハンデだと思います。ニュートラルな評価を受ける為にまず差別の壁を乗り越えてorすり抜けてもらわないとならない。それで初めてイーブン。今後も余程のことが無い限り、そういう意味では状況が少なくとも有利になることは無いでしょう。


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柏戦雑感
2005年05月15日 (日) | 編集 |
ホントに雑感。

・今のレイソルと今のヴェルディだったらこういう試合になるかという。苦笑い。
・どちらも真面目に一生懸命にはやってるけど、一発(レイソル)とまぎれ(ヴェルディ)以外では点が入る気がしなかった。
・しょせんカウンターのチームどうしだしなというのもあり。
・ヴェルディには前節のアントラーズのような強敵の力が必要だし、レイソルには・・・・戦術が必要?(失礼)
・カウンターってほど高級なもんですらないよな、レイソルのあれは。必死に守って誰かが何かを起こしてくれるのを待ってるだけ。
・ヴェルディの”カウンター”については後ほど『前半戦総括』で、改めて。
・せっかくいい人揃いのレイソル系ブログで「成績は似たようなものだけど実力はヴェルディの方が全然上」って感じの事前コメントをあちこちでいただいてたのに、披露できず申し訳ない(笑)。

・平本のやれめでたやの決勝点は、南がもう少し我慢強いキーパーなら余裕で止められていたはず。ていうかあんなあたふたと寝ちゃわないで、黙って立ってれば平本が勝手にぶち当ててくれるのに(笑)。
・何と代表を狙ってるらしい(試合前コメント)その南よりは、少なくとも遥かにカリスマだった我らが”10年ぶりキーパー”水原さん。
・日テレ解説の武田さんは、アナウンサーが補足するまで完全に公式戦出場自体が10年ぶりだと信じていたようですが(笑)。この世にはJ2やJFLってものもあるんですよ。
・とはいえやはり感無量だったでしょう、出たての頃の義成みたいなけれん味のない「前へ!」の気持ちが清々しく、また案外そういう方が安心感も醸し出りするもので。
・まあ良かった。とりあえず良かった。勝ち点3をありがとう。奥さんも美人でした(笑)。
・人相風体は新吉さん似で、ヴェルディには珍しい関西アクセントはナミさんを思い出す。
・でも全体としてはそのまんま義成かなという。トシと寝癖以外は(笑)。
・さっぱりした裏表の無い気性に、出口の見えないサブ生活に耐える強さの秘密を見た気がしました。

・大悟は怪我でも?外れるなら外れるで久しぶりに”スーパーサブ”大悟が見たかった。
カンジンはオジーに付け届けでも?何でいつも戸田が交代なのか。
・カウンター自体にメリハリがないと、相馬も飛び出しのタイミングが掴めない。
・それにしても投げやりなプレーだったけど。何?そのキック。
・まあ相馬に関してはあくまでその荒々しい単細胞を愛して、いかに使ってやるかを考えるというのが僕の立場だけど。
・森本は切れが無くなったのは疲労で仕方ないかなという部分もあるけど、どうもプレーが雑な気がする。丁寧な型通りのフェイント+切れという順番なんだから。
・高原なんかもパワーとスピートがついてからワールドユース当時は持っていた間合いの魔法を失ってしまったと思うし、こういうのは注意しないと。
・シュートの判断とかも積極性というよりは強迫観念で慌てて打ってる感じで、ちょっと自分を見失ってるかな。基本的に人がいいからねえ。
・こうして見るとあくまで”ヘナギ”であり続ける柳沢はどうしてなかなかなタマだなとか。
・こんなんでも一勝は一勝。変な感じ。

気が無くてすみません。総括の方で頑張ります(?)。


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鹿島アントラーズ 優勝おめでとうございます!!
2005年05月09日 (月) | 編集 |
ウチの屍を越えて行け。生き残った者の義務だ。
ホントに、心臓を掴み出されるようなPKでした。あ、ちょっと待って!今の無し。無しだってば。
せめてすっきり決めてくれよなあ小笠原。その後の”GKワシントン”のゴールキックの姿勢が義成よりもよっぽど綺麗で安定感があったのがまた泣き笑いで。
では涙を拭いて(?)振り返ってみます。

ニュースタイル?

・これは何というか・・・・”超攻撃的ハーフカウンター”?
・ここんとこオジーが何度か強調していた「ボールを取られた後に速くプレスをかけろ」というのを、単に守備時の対応の問題ではなく基本戦術として昇華したようなそんな感じ。
・プレスのタイプとしては去年の『仕掛けるプレス』、今年何回か見せた『圧迫して絞り上げるプレス』ともまた違った、『引っ掛けるプレス』。引っ掛けてそこからの電撃。
・それが”超攻撃的”というのは引っ掛けるラインとして意識されてるのがかなり高めなのと、速攻だけど人数をかける気も満々だから。
・ただし実際には人数は間に合ってない場合が多かったけど(笑)。1トップじゃなく、平本がフルに出たらどういう感じになるのかな。

相馬 in ニュースタイル

・このスタイルを象徴している(露骨に中心にもなってたけど)のが相馬で、前節セレッソ戦の感想で半ば当てずっぽうで(笑)言っていた「消えている/出て来るという基本構造」が、結構堂に入った感じにスタイル化されていて驚いた。
・同じく攻撃参加でもこれまでのそれが「(ボールを収めての)ドリブル突破」であったのに対し、この試合では「(奪ってからの)飛び出し」というべきものに重心が移っている。
・別の言い方をすると主に使われている能力がテクニックからスピードに変わったということ。
・とにかく行くぞ行くぞと名乗りを上げて仕掛けるのではなくて、消えているところから出て来るという形になった。
・タイミングの幅は狭くなってその意味では窮屈なのかもしれないが、待ち構えているところに突っ込んで行くのと比べて楽になった部分は確かにあるだろう。
・実際終盤全体的にタガが弛んで純粋な個人技勝負の色合いが濃くなってからは、疲れもあるのだろうが攻撃参加に前半ほどの威力・効率性は感じられなかったような。

その他

・死の日程のどん詰まりで突然こんなフレッシュなサッカーをされて、さぞかし鹿島も面食らったでしょう(笑)。思っていたより遥かにしっかりしたヴィジョンの元に名古屋戦以降4戦(名古屋、Fマリ、セレッソ、鹿島)の試行錯誤過程は歩まれて来たと考えて良さそうで。
・単なる守備崩壊からの緊急避難でも、弱気になってのバランスの為のバランスへの引きこもりでもなかったんですね。またもやオジーにいい方へ裏切られた格好。
・ではこれで行けるのか。というのと、そもそもどれかで「行く」ということがオジーの場合あるのかというのが。うーん・・・・書くことが沢山ありそうなので別枠で。
・とりあえずこのスタイルだともうやまたくにはいわゆる「右WB」としての個人(攻撃)能力ではなくて、トルシエのチームの明神みたいな戦術的な役割だけ期待してればいいのかなと。
・右の辻褄合わせは頼んだ、攻めは左に任せろと。(機会があればよろしく。)
・そうなればある意味では懸案解決なのだが。速いし、相馬頼みの裏に戦術的裏打ちもあるし、ちゃんとやれば左偏重でもそれはそれで十分行けるでしょう。
・ついでに相馬不在時の”バックアッパー平野”も、前の純粋な個人能力を求められた時よりはましに機能しそうな気がする。
・それにしてもシュート、決めてくれ。決まってくれ。(泣)
・追い付くまでは勝てるとは思わなかった。でも追い付いてからは負けるとは思わなかった。あの同点ゴールはよく頑張ったご褒美だから、当然最終的に何らかの果実は手元に残ると信じてた。
・なのに、なのに・・・・。神様の馬鹿。そんなに鹿島に勝たせたいか。分かったよ、もういい。(冒頭に戻る)


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