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「直観」と「言語」と「論理」
2008年07月15日 (火) | 編集 |
「脳と直観」に続くその先。「直観」と「言語」と「論理」
脳内の意識外の”思考”が、「直観」という形でいかに意識にもたらされるかが前回で、今回はもたらされた直観が、いかに意識の中で思考を形成するか。
ちなみに間に挟まっているのは、キー概念である「直観」について、特に掘り下げて考えてみた過程の追究。・・・・とはいえ実は直観については、抜け落ちていることがそれでもいくつもあるんですが、今話すとかえって分かり難くなると思うので割愛。

参考でしかないですが、手がかりとしてそう゜さんとの問答の中での、関連箇所を再び引く形で。
引用元(1)(2)(3)(4)


「直観」と「言語」

そしてそれ(直観)を更に断片化して、「言語化」するわけです。大変です。(笑)


脳/無意識という自然を、直観という形で人間化・個人化するプロセスについて語った、その後の話。

まずこの二つは択一の関係にはなくて、「直観」(ないしはその素)は常にある、でその内の何割かが時と場合と必要性と技術的可能性に応じて「論理」化されると、こういう風に考えた方がいいと思います。
じゃないと言葉/論理を習得していない幼児や動物は、生活上に必要な最低限の認識が得られなくて困ってしまいますから。(笑)


言葉遣いとしては「直観」と「論理」ですが、実際にはこれは直観と「論理を含む言語的認識全体」の話ですね。

だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている、または直観という”氷山”の”一角”として論理が存在していると、そういうイメージの方がふさわしいかと。


これはかなり言語行為の中でも抽象性の高い「論理」についての話ですが、続きの話なのでここに。


「言語」(化)と「論理」(的思考)

僕なんか”考える”ことなんて滅多にありませんけどね。
だって面倒くさいもん。(笑)
正味やってるのは「直観」の「言語化」だけです。
それと「思考」はほんとは少し違う。


繰り返しますが、これが出発点。

対極、ではないんだと思うんですけどね。
処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。


直接には「直観」と「論理」の方の話なんですが、オリジナル(の直観)に近い方と遠い方との、広義の思考・認識行為の中での形式性の度合いの問題として、ここに。


「直観」と「論理」(的思考)

「論理」をこねるのは、遊び半分か喧嘩の時ですね。いわゆる「理論武装」というやつ。
世の中の”筋が通った話”なんて、筋が通ってる分だけ全部嘘です。(笑)


(注)つまり言外に「直観」しか信じてないということを言っている。

オリジナル(の言語化)とその発展・展開ということでしょう?
展開部分はある程度形式が決まっているので、あまりそこに囚われるとオリジナルがどっか行ってしまって、だから”ノイズ”だと。


”オリジナル”≒「直観」、”展開部分”≒「論理」。

何にも考えていない(言語化すべきチョッカンがない)人でもその形式をなぞることによって、考えているフリをすることは出来る。


考えていない=直観が無い。しかし直観が無くても論理は紡げる。(厳密には違うんですけど)


・・・・と、ここまで書いたことを承けて更に色々書いていたんですが、煮詰まって知恵熱が出て来たので中断(笑)。今日はここまで。そうですかそうですか、そっちへ行っちゃいけませんか。
いや、ありません?風邪とかとは別に、心身のバランスが崩れている時に出て来る疲労性の発熱。ドカンと上がって、サッと引くんですけど。むしろメンタルヘルスのパラメーターとして、僕は重宝してますが。

まあマラソン大会とか嫌な行事の時に、子供の頃出していた熱と似たようなものか。(笑)
既にほぼ引いてますのでご心配なく。