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"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [1] ~ポリティカル・コレクトネスとフェミニズム
2019年05月07日 (火) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)


"ポリティカル・コレクトネスとフェミニズム"
何て煽情的なサブタイトル。炎上狙いか?(笑)
まあ残念ながら(?)、そういう内容ではないと思います。"期待"にはそぐえないかと。(笑)


大学生編

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
渋谷陽一の音楽批評 双方
栗本慎一郎と現代思想 であり
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左


1.PMRCとポリティカル・コレクトネス

(1)ポリティカル・コレクトネスとPMRC

ポリティカル・コレクトネス

性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用することを指す。(Wiki)

日本において「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が普通に聞かれるようになった・・・"普通"というのはつまり、インターネットは普通(笑)にやるけれど特別政治や社会問題に関心があるわけではなく、立ち寄り先は専らニュースサイトやツイッターや趣味関連のブログ程度という僕のような人の目にも触れるようになったという意味ですが、それを"普通"と言っていいならそれはいつ頃のことでしょうかね。
"大統領候補"ドナルド・トランプの言動が話題になるようになったのは2015~16年頃でしょうが、さすがにそれでは最近過ぎるか。Wikiに載っている目立つ用例として、「スチュワーデス→キャビンアテンダント」が1996年、「看護婦→看護師」が2002年ですから、そこらへんでは既に"実態"としては認知されていたはずですが、言葉としてはどうだったか。
・・・「トルコ風呂→ソープランド」(1984)は、それはまた別枠な気がするぞ?Wiki編者(笑)。ところで「ジンギスカン」はいつまで使われ続けるのか。「セクシー女優」という言い換えには、何の意味があるのか。
とりあえずじゃあ"実態"(「キャビンアテンダント」)と"ブーム"(トランプ)の中を取って、2000年代末くらいと想定しておきましょうか。

発祥の地アメリカでは1980年代ということになっていますが、実は僕個人としては、それとほとんど時差なくこの言葉に触れている、意識する経験をしているんですよね。
それは別に僕が事情通だったからでも意識が高かったからでもなく、ヘヴィ・メタルファンだったからです(笑)。この"ポリティカル・コレクトネス"的潮流の中で生まれた「PMRC」というポピュラーミュージックの歌詞表現に関する検閲組織(1985年設立)が、ヘヴィ・メタルの人気バンド"ジューダス・プリースト"や"トゥイステッド・シスター"を標的にし(「最も不愉快な15曲のリスト」)、それを問題視したヘヴィ・メタル専門誌"BURRN!"



が外部ライターに依頼した比較的本格的な特集記事を何度か載せていたからです。その中で"ポリティカル・コレクトネス(PC)"という言葉も、背景の話として出て来ていた。・・・"PC"という略語は割りと使われていましたかね。"ポリコレ"は記憶に無い。

1985年というと僕はまだ高校生ですし(つまり"BURRN!"は小遣いでは買えない)、アメリカと日本の時間差を考えると1986~88年頃の話ですかね。PMRCをディスったジューダス・プリーストの曲"Parental Guidance"('86)をアルバムで聴いた時はまだポカーンとしていた記憶がありますから(笑)、'87年以降が有力。
とにかくまあだから、約20年後に再び身の周りでこの言葉が比較的頻繁に聴かれるようになった時は、「あ、懐かしい、あったねそんなの」というのがまずもっての感想でした(笑)。「まだそんな話してるの?」とまでは思いませんが、"言葉"として現役である(むしろホット(笑))ことには少し驚きました。


(2)"ポリコレ"は「右」なのか「左」なのか

当然「左」なわけでしょうけどね、現在の文脈では。理論的にも多分どちらかと言えばそう。

ただ当時大学生の僕がジューダスらに加えられていたこうした圧力をどういうイメージで見ていたかというと、むしろ「右」サイドのイメージでしたね。だからPMRCの旗振り役として主に名前の挙がっていた"ティッパー・ゴア"というおばさん(失礼。でもほんとにそういう、少女漫画に出て来る三角眼鏡でガリガリのキンキンうるさいおばさん教師のイメージ)が、後に"民主党"の副大統領アル・ゴアの夫人であると知った時は、え?共和党じゃなかったの?と結構びっくりしました(笑)。悪いことをするのは、うるさいことを言うのは、全部共和党かと思ってた。
(実際のティッパー・ゴア

Tipper Gore

"三角眼鏡のキンキンおばさん"というより、"肝っ玉母さん"とかに近いイメージかな?(笑)
尚更「右」的でもあるかも)


より正確には、「左」と「右」、ではなくて、「リベラル≒価値寛容」「全体主義・国家主義≒画一的正義の押し付け」という対立のイメージでしょうけどね。日本において「リベラル」という言葉・概念が「左」と結び付けられるようになるのは、かなり最近。あえて右左で言うなら、「中道左派」と「極右」の対立というイメージ?それこそ『太陽にほえろ!』(前回)は思想的にはリベラルですけど、社会における"位置"的にはどう見ても真ん中へんですから。

こうしたイメージの元には、PMRCが単なる民間団体というよりワシントンの有力政治家夫人たちによるほぼ「政府」側の活動として存在していたというのは、当然大きいと思います。最初から"権力"を持っていた。またゴア夫人の夫は民主党ですけど、次に名前の挙がるベイカー夫人の夫(ジェイムズ・ベイカー)はバリバリの共和党。やはり直接の"党派"というよりも「体制側」であることに特徴のある運動だったのは、間違いないと思います。
とにかくだから、当時の僕としては"リベラル"な立場として"ポリコレ"と敵対していた認識だったので、後に「リベラル」と「ポリコレ」がセットで槍玉に上がる形で再登場して来た時には、え?え?え?何のこと?俺はティッパーおばさん側なの?と、かなり当惑させられました。

まあこういうある種ナチュラルな"リベラル"の社会的位置づけが途中から激変して戸惑うという経験は、僕前後の世代のある程度以上"知的"と自負する層の人の多くが、経験していることだと思いますが。
真ん中ないしニュートラルだと思っていたら、「左」にされた。単なる"良心"、人類普遍の理想だと思っていたら特定の「思想」にされたというか。
そうなったことについては、(理論的に)正当な部分と不当ないし過剰な部分と、両方があると思いますが、まあそれは結論的な話になるのでまた後で。


(3)「ポリティカル・コレクトネス」と「言葉狩り」

当時の話に戻って。

PMRC/ティッパー・ゴアによる"検閲"的運動が、かなり具体的な政治権力として、また戦後日本が正に手本とした"リベラル"の本家、"自由の国"アメリカ発の動きとして登場したことにはそれ相当のインパクトはあったわけですが(アメリカの根っこの部分の保守性や宗教的原理主義の存在に気付くのはもっと後)、ただ「戦い」の性格としては、「敵」としてのポリティカル・コレクトネスの本質性については、一方で実は"既視感"のある部分もあったりしました。

これ知ってる。要するに「言葉狩り」だよね?

"言葉狩り"

特定の言葉の使用を禁じる社会的規制を否定的に表現した言葉。
1993年に起きた筒井康隆の作品「無人警察」における一連の事件の中で扱われ世間に浸透した。(Wiki)

あからさまに不十分な記述として運営に叱られていますが(笑)、結構これでイメージは伝わると思います、特に「筒井康隆」の名前が出て来たあたりで。
ただし'"1993年"というのは随分と新しい話で、つまりこの『無人警察』



における"てんかん"描写をめぐるある種のバッシング、筒井康隆の立場からすれば「言葉狩り」によって"断筆宣言"という決定的な事態に至った(筒井康隆Wiki)、それをもって「言葉狩り」という"言葉"が認知浸透を見たという編者の記述ですが、ではそれ以前はどうだったかというと少なくとも僕が筒井康隆を読み始めた小学校時代(遅くとも'80年代)には、既に随所で筒井康隆は各種メディア・勢力による自分の作品への表現規制の文句を直接間接に書いていたはずですし、「言葉狩り」という言葉自体も筒井康隆本人(の発案)によるかどうかは定かではないですが目にしていた記憶があります。・・・実際その"集大成"(笑)というか"堪忍袋の緒が切れ"た事態として、「断筆宣言」もあったわけでしょうし。いきなりぶち切れたわけではない。(笑)

"時期"の問題として更に付言するならば、これは今回気付いたことですがとりあえずこの"1993年"の時点では、こうした問題は「言葉狩り」の問題として扱われていたことがこの件で分かりますね。まだ"ポリティカル・コレクトネス"ではない。
ならば1996年の"キャビンアテンダント"も、そうかな?2002年の"看護師"だとどうだろう。"ブロードバンド元年"が2001年だそうですから(ADSLWiki)、そろそろアメリカの状況(言葉)がダイレクトに入って来てもおかしくない頃かも。まあいいや。

一応言っておくと、「言葉狩り」というのは"狩られる"側の言い方で、「ポリティカル・コレクトネス」というのは"狩る"側ないし中立の概念なので、最初から非対称と言えば非対称なんですけどね。
ただそれはそれとしてこの二つの言葉がほぼ同じような意味同じような事態について言っている、あるいは違う時代背景における連続的な問題意識を扱っているのは明らかだと思います。

そこから何が言えるかというと、一つは勿論、今日言うところの「ポリティカル・コレクトネス」、言葉の"正しさ"という問題は、別にアメリカ発の問題ではなくて日本にも昔から存在していた問題であるということ。
そしてそこから更に踏み込むと、「ポリティカル・コレクトネス」(を目指す事)は必ずしも今日のように"左"と結び付けられる問題ではなくて、今"右"側という自意識を多く持つ人たちが抵抗しているように、昔の日本の知識人、総じて現在の観点からは"左翼的"とされるだろう知識人たちも、同じように抵抗していたということ。(その代表として筒井康隆が相応しいのかにはいささか疑問もあるんですけど、ややこしくなるので今回は割愛。)
右翼にとっても左翼にとっても、「ポリティカル・コレクトネス」は敵であると。(笑)
まあ「言論統制」されて喜ぶ"知識人""知性"というのはちょっとどうかしてますから、当たり前と言えば当たり前なんですけどね。(笑)

とにかくだから恐らく「ポリティカル・コレクトネス」や「言葉狩り」の問題を解く、説明するには、"左""右"とは別の視点が必要となるはず。"左右"の違い自体はあると思いますが、ただそれは左だから賛成するとか右だから反対するとか、そういう単純な話ではない。・・・これ以上書き出すと本論の目的からずれてしまうので、そこらへんについては余裕があれば、最後にでも論じてみようかなと思いますが。


2.上野千鶴子とフェミニズム
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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済