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"右"と"左"についての個人史的考察:大学生編 [番外] ~渋谷陽一の「思想」
2019年05月21日 (火) | 編集 |
(はじめに)(小学生編)(大学生編[1])


最初にお断り
なるべく"本流"に繋がるよう努力はしましたが、少なからずこじつけ臭くて結局はただの「渋谷陽一論」でしかないようにも思うので、「番外編」とさせていただきました。
無くてもこの先の話は通じるはずなので、興味がある人以外は読まなくても(笑)いいです。


大学生編目次

PMRCとポリティカル・コレクトネス 
上野千鶴子とフェミニズム 
( 渋谷陽一の音楽批評 "左""右" 双方 )
栗本慎一郎と現代思想 であり
文化人類学 
呉智英の「封建主義」 
大本教への興味 
"市民運動家"との出会い 反左



[番外] 渋谷陽一の音楽批評

"BURRN!"が出たからにはロッキングオンも!と繋げたいところですが(笑)、実際には僕はいきなり渋谷陽一の"著書"(評論集)を読んでしまったので、雑誌ロッキングオンを読むようになったのはその後というか、その流れというか。ついで(笑)というか。
きっかけは覚えてないですねえ。何らかロックへの興味だとは思うんですけど。ネットの無い時代、昔はほんと行き当たりばったりで店頭で本を"買って"、学生の時は金が足りなくてしかたなかったですね。



それぞれ初版1980年、'82年、'84年。
どれかが古本屋でたまたまあった、という可能性もあるかな?(きっかけ)
ちなみにメタル以外の(普通の?)ロックを聴くガイドに最初にしたのは、別の人です。

本題に入って。
渋谷陽一。雑誌『ロッキング・オン』『CUT』の、創刊編集長。1951年生まれ。(Wiki)
渋谷陽一1渋谷陽一2

前回で既に"上野千鶴子"という本格的な"学者""思想家"の名前が出てはいるんですが、しかしより直接的に僕に「思想」的な「覚醒」、刺激をもたらしたのは、こちらの一介の(?)ロック評論家、本人に言わせると"本業はあくまで編集者"な人の方だと思います。
まあ上野千鶴子の"女性学"は、結局思想・哲学というよりも「個別科学」として読まれてしまったということではあるかと思いますね。そのスケールのインパクトだったというか。

さりとて渋谷陽一がそこまで大した哲学者であったとか包括的な思想内容を持っていたというわけではないわけですが、要はタイミングとポジションの問題でしょうね。ある種の「洗礼者ヨハネ」のような役割を、僕に対して果たしたという感じ。(ただし"救い主イエス"には未だに出会っていない(笑))
でも実際なかなかだと思いますよこの人は、読み返しても。自分の頭と体を使った「意識的思考」の、本当に出来る人。もっとつまらない哲学者や無内容なプロ評論家は、腐る程いると思います。有名な中でもね。


1.渋谷陽一の"左"的影響 ~「対象化」論

(1)「批評」と「対象化」

その渋谷陽一が展開する、直接的にはロック/音楽批評の中で、口癖のように出て来ていたワードが、「対象化」というもの。渋谷陽一の「批評」の内容はほぼこれ、あるいはこれの必要性を訴えることに尽きると言ってもいいかもしれない、中心的な概念です。
対象化。文字通りには、何かを「対象」として捉えること、あるいは捉えられるようにすること。特に特殊な概念ではないので耳慣れている人もいない人もいるでしょうが、とりあえず具体的な使い方を見て行きましょうか。
典型的には、所謂"プログレッシブ・ロック"をめぐるこういう記述。

プログレッシブ・ロックとは、ロックがロックそのものを対象化し始めた最初の動きと言える。(中略)
それまでのロックは、一種の初期衝動のみによって突き進んでいた。走り出したいという欲求があれば、すぐに走り出し、そこには対象化の努力も何もなかったのである。

(『ロックミュージック進化論』 p.113)

ロックとはもともと現実との違和を徹底的に増幅し、そのひずみを音にして来た音楽である。その違和を対象化し、原因を露にしていくのがプログレッシブ・ロックであった。

(同上 p.125)

衝動の"対象"化、違和の"対象"化。
簡単に言えば、感覚に名前を与える行為で、そこから例えば"原因を露に"することも可能になる。

今のはどちらかというと内面的事柄に特化した説明ですが、より外面的な事象だと、こんな感じ。

("アメリカ市場"という舞台において)
アメリカのバンドにとってアメリカ自身はあえて批評したり、対象化したりする必要のないものであった。(中略)
イギリスのバンドは自分たちのイギリス的な部分を対象化し、インターナショナルなスタイルを獲得しようとするのである。

(同上 p.145)

ここでは他人の目に映る"自分自身"を自分に対して客体化するみたいな意味ですかね。そもそも"イギリス的"という言い方自体に、「対象化」のプロセスが入っていますが。
客体化して「対象」として扱う。扱えるようにする。内側にぼんやりあったものを外側に引っ張り出すという意味で、"外化"などという言い方をすることもありますね。対象化・客体化・外化、全てほぼ同じ意味。

"客観"化・・・だと"主観"として意識されていたものを客観として意識し直すみたいなニュアンスが強いので、少し使いづらいかなと(使えなくはない)。むしろどういうものとも意識"されていなかった"ものをされている状態にするのが、対象化や客体化。批評の種類(客観か主観か)の問題ではなくて、批評の"無い"状態からある状態にする行為。その最初の一歩というか。

とにかくこの「対象化」というプロセスが渋谷陽一の批評の中心であり、中身であると、そう言っていいと思います。(少なくともこの時期の)
それ以上のことは、その「対象化」の具体的中身からの論理的延長。

(2)「対象化」と相対性

で、ここからが少し分かり難くて、この稿を「番外」と位置付けざるを得なかった由縁ですが。(笑)
こうした渋谷陽一の音楽をめぐる論が、僕に何をもたらしたかというと。
一言で言えば、かつて日本SFがもたらした"懐疑"(相対性)の、「その先」かなと。
世間や慣習や伝統が押し付けて来る意味や価値を、疑って相対化して差し戻す受動的なプロセスにとどまらず、逆に自分から意味や価値を能動的に見出して確定して行く、あえて言えば"押し付け"返す(笑)反撃のプロセスというか。"対象化"作業によって。

つまり"懐疑"というのは、知的にはある種の密かな優越感を持たせたりはするんですけど、一方で"信じる"力を失う分、心理的に"弱"くもさせるわけです。それだけで終わると。
その"後"の、それ(慣習的な価値と意味)に代わるものを作る作業が必要で、その手本が例えば渋谷陽一の言う「対象化」というプロセスであったわけですね。
実際渋谷陽一は、ある種の"サバイバル"戦術として、「対象化」プロセスを位置付けていたりもします。

ジム・モリソンやジャニス(ジョプリン)が死んでしまったのは、彼等が自らの内なるロックを対象化し得なかったためだ。ある意味で生き延びるしたたかさを持ち得なかったために死んでしまったといえる。
ただロックなるものが本当に言葉として対象化され、語られるには少々時間がかかったのである。社会とのかかわりの中で戦略戦術が考えだされるまでには時間が必要だった。

(同上 p.73)

自分がやっているものは関わっているものは、あるいは自分が自分の中に感じているものは要するに何なのか。それを理解・確定する(対象化する)ことによって、それを抱えながらあるいは利用しながら、社会(世界)の中でどう生き延びて行くかのプランが立てられるようになると、そういうことですね。

・・・そう、「批評」的態度というものを学ぶと同時に、「戦略」的思考というものに触れたのも、多分渋谷陽一が初めてだったですね僕は。「性格が悪くなった」と、ごく端的に母親に言われた記憶がありますが(笑)、この時期。

そういう意味でも明らかに影響は大きいんですけど、ただその"影響"の中身を論理的に確定する(それこそ"対象化"する(笑))のは、なかなか難しいんですよね。
それは渋谷陽一のそもそもの記述が断片的なもの(音楽雑誌の投稿原稿)であるというのもありますが、それ以上にその影響が論理的に一つ一つ"教えられた"というよりも、渋谷陽一の(主には"対象化"という)言葉遣いをきっかけとして、僕の中に潜在していた諸々の思考や感情が一気に寄り集まって形を得たという、そういうタイプのものだからです。
何か全く新しいことを知ったというよりも、既に持っていたものの使い方の、手頃な例を示してもらったというか。
・・・そういう意味では別に渋谷陽一でなくても良かったんでしょうが、でもまあ"渋谷陽一"で良かったかなと思っています、結果的には(笑)。十分というか。(笑)

で、"中身"はともかくとして、問題は"影響"の「方向性」なわけですが、この論のテーマとしては。
上で"日本SF的相対主義の「次」"だという言い方をしましたが、「次」である、受動的相対化から、能動的意味確定・発見の作業に移ったという意味ではある意味変貌・転向のプロセスとも言えるわけですが、しかし僕の中の"風景"としては、この2つはどうも同カテゴリーというか、延長線上に位置しているんですよね。
あくまで結果的感覚的なものでしかないんですが、しかしそれはそれとして選びようのない一つの(心理的)"事実"として、それを前提に渋谷陽一的「対象化」を位置付けてみると。

「対象化」によって「相対化」による"心理的弱化"という問題を一部補強出来たことによって、相対主義路線での生存可能性がより高まった、つまり路線堅持と、そういう"効果"(笑)かなと。
実際のところは当の渋谷陽一の論全体が、圧倒的に「相対性」を前提として出来上がっているので、そもそもの「対象化」概念の生息環境自体がそうだったということはあります。そういう意味では、自然な位置づけ。
とにかく結果として"風景"が変わらず意識される"路線"も堅持されているので、これに関しては一応「左」的影響と、そういうことにしておきたいと思います。



2.渋谷陽一の"右"的影響 ~認識と「身体」性
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テーマ:右翼・左翼
ジャンル:政治・経済