ヴェルディ等サッカー、漫画、アイドル 他
’04.5月~8月前半のみどりのろうごく
2023年05月31日 (水) | 編集 |
Mリーグの追記を書く予定を取りやめたので、困った時のこれ。
元々そういう枠として、始めたものだったりしますし。
8月"前半"で切ってるのは、後半に2ndステージが始まるからで、つまりその直前のインターバル期間まで。


5月

断念(2004年05月01日)

5月になりました。

が、余りに忙しくて落ち着いて考え事が出来なかったので、結局今回のサイト再編成は見送り。

というわけで大枠は変わらないとしても後もう少し考えてることがあるんですが、折り悪くというか良くというかここ一日以上ADSLが繋がらなくて調べ物とかそういう作業が出来ないので今日はここまで。


まだやってたらしい。
そしてADSLだったらしい。(笑)


ていうか(2004年05月03日)

ありていに言えばリーグぐるみの”死のロード”、まさかオジーが平野を途中で引っ込めるとは。
疲れてないわけはないんだけど、本人も結構意外そうでした。これをきっかけに急に我に帰って、怪物平野が疲れ知らずじゃなくなったりしたら困っちゃうんですけど(笑)。


GW日程の話。
そう、この時期(オジー期)の平野は、怪物的な身体能力と超人的なスタミナ・運動量と、万能の戦術遂行能力と勿論左足の技術を備えた、何というか本当にありがたい、素晴らしい選手でしたね。しかもそれでエゴとかかけらもなく、"三度の飯よりサポートが好き"みたいな奇特な性格で。まさか後年、あれほどピンボケ発言で集中砲火を浴びるような人になるとは。
アツはまあ、昔からあんな感じでしたけど(笑)。それをオジーと平野が上手く介護してた。(神戸では出来てないらしい)


(新潟戦)[実際は無題](2004年05月04日)

おまけ。FWの起用法について。
前の試合に先発した飯尾、この試合に先発した桜井、それと両方で途中出場したボマ。実はこの3人はオジー的には同カテゴリーなんじゃないかと思うんですよね。小柄ながらポストプレーの要領を心得ている飯尾、最近キレは今ふたつだけどとりあえずキープ力のある桜井、そして言わずと知れたボマは3人とも「前線のポイント作り」という同じ役割を担っている。
それがなぜ取っ替え引っ替えかというとそれぞれに総合力なりコンディションなりに不安を抱えているからで、言わば質の不足を数で補っている状態。だからボマの途中投入は戦術の変化というよりももっと単純にクオリティアップという意味合いが強いと思います。

逆に言うと常にその全てのパートナーとなっている平本にはそういうプレーは全く期待されてないということですが、それはそれで割り切りがいいのかこの試合の平本のパフォーマンスはかなり上等で、平野と並んで予感のあるプレーをしていました。森本との交代もこれまでの”見切り”というよりお役目ご苦労というニュアンス。
まあだからと言って次も期待出来るとは全く限らないがのが平本ですが(笑)。


ロリ時代には不器用ながらも、"ポストプレーヤー"としての職能をそれなりに確立していた(確かその時期に代表の候補にも一瞬挙がってたような)平本でしたが、オジーにはそこらへん全然評価されず、再び"ドリブラー"(&ストライカー)としての位置づけに回帰して、でもかえって解放されていいプレーをしていたというそういう試合のよう。
そしてこのシーズンの終盤には・・・と、それはその時に。
"チビ"飯尾(一慶)はポストプレー上手かったですよね。その一方で、見た目から連想し易い"小兵ドリブラー"としての瞬発力は、李時代に初めてユースから抜擢された時をピークに、その後は影を潜める一方という。ドリブルの肉体的接触に耐えられないのもありましたが、性格的な問題が大きかったと思います。おっとり真面目な優等生で、ドリブル突破のような"不確実性"プレーは苦手。


ジェフ戦(2004年05月06日)

そういやあオジーの基本理念として「全員の運動量が均等なサッカー」なんてのもありましたね。


ありましたありました。
なるほど、その理念や美意識が、選手の自由を最大限に近く尊重しつつも絶妙にバランスの崩れないオジーのチームの良さの源となっていた。どこかが歪んでたり誰かが無理して支えてたりするのが、嫌なんですよね多分この人は。それを"醜い"と感じる。(上の平野の"怪物"プレーも、基本的には平野の"自由"の発露。確かにチームの不調時には、結果的に"支えて"もらうこともありましたが)
で、ふと思ったんですけど、オジーって実は、広義のというか少なくとも感覚的には、"ポジショナル"派なんじゃないかなという。李さんのようにはっきりそういう「方法」「理論」を使っていた訳ではないとしても、発想や(チーム作りの)目標に通じるものは少なからずあったのではないかという。細かい"組織化"や"パターン"化はしないのに、オジーのチームの攻撃が物凄くスムーズである種(動的)秩序的だったのは、言うなればオジーの"魔法"の陰には、何らかポジショナル的な準備、配置の配慮があったのではないかなと。
・・・前に所謂"エコロジカル・トレーニング"について取り上げた時に、ポスト現代サッカー(ポジショナルを筆頭とする)としてのそれがオジーの魔法の正体かと、一瞬引き合いに出しかけて、でも結局違うんじゃないか(エコロジー/熟成型ではない)という結論に辿り着きましたが。
いや、その、ペップシティの(特にハーランド"前")各々が伸び伸びと自分の能力を発揮しつつ、それが決してチームを壊さない(壊す時もある(笑)。ウォーカーとか(笑))、チームがあって自由があり自由によってチームが更に拡張するみたいな感覚に、割と似たものを感じるんですよね、オジーのチームは。だから"ポジショナル"一般というよりも、人格含めた"ペップ"のポジショナルに、親近性があるのかも。
ピンと来る人います?思い付いたばかりで、これ以上の説明は今は出来ないんですが。(笑)


6月

アイスランド代表戦(2004年06月01日)

4-4-2版ジーコジャパンの”黄金の中盤”への僕の一番の違和感は、小野稲本の総合力が売りの2選手がホントにただ並んでるだけのだらしないドイスボランチにあったのだけど、それが3-5-2になった途端最大の武器になるとは。組み合わせも含めて2人の生涯ベストポジションではないだろうか。中途半端×中途半端=∞。器用貧乏は世界を救う。(中略)
余りに見事な機能ぶりに早くも小野不在の時はどうするかなんて心配の声も出てるけど、その場合はいわゆる”ボランチ”の選手に代わりを期待するよりはむしろそこに中田ヒデを持って来るべきですね。今から小笠原や俊輔を真剣にバックアッパーとして育成するのもあり。そういうポジション。


へええ、小野稲本が機能してたのか。しかも華々しく。
ドイスボランチというより3列目のダブル司令塔
まあ小野がフェイエでやっていた役割に似てるのかな。その前に"半FW"トマソンを置いての。
別な言い方をすればアンカー抜きのインナーハーフ×2みたいなイメージ。
南アの遠藤長谷部とも、そういう意味では似ている(あれもその前にあったアンカー阿部を抜いた形)気がしますが、稲本は長谷部より遥かに"ゲームメイカー"性が強いので、"ダブル"性も濃厚。(長谷部もデビュー当時は繊細な司令塔だったんですけど(笑))
まあ小野も稲本もね、とにかくどういう選手なのか単独でどういう機能を期待出来るのか、生涯はっきりしない選手でした(まだ現役ですけど(笑))。その点では遠藤と長谷部の方が立派、監督孝行。


・フル代表イングランド戦(2004年06月02日)

小野は何て言うか、キックの足が長くなった感じ。技術的・パワー的には大して変わってないんだろうけど、低いポジション(とオランダサッカー?)に慣れて長いキックの間合い/イメージを自分のものにしたというか。長いパスもシュートも、インパクトの瞬間やたらリラックスしてるんだよね。


その小野の"使いづらさ"の理由の一つとして、後方ポジションが基本なのに長いキックが無いというのがありましたが、そこら辺もこの時期には改善している部分があったという話。


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Mリーグ2022-23反省会 ~僕を裏切っていった女たち
2023年05月24日 (水) | 編集 |
渋谷ABEMASの初優勝で幕を閉じた5年目のMリーグ
僕の推し自体は別のチームでしたが、一方で一番麻雀的に好きな/尊敬しているチームはABEMASだったりするので、それはそれで喜ばしいです。妥当でもありますし。妥当過ぎて"応援"するような対象ではあんまり無いんですけど(笑)。普通に行けば勝つだろうという、実力のチームだと思うので。
とにかく4人とも揃って隙が無くて、年齢背景バラバラなりにそれぞれに"成熟"した麻雀を打つと思いますし、さりとて単に無難という訳ではなく個性化もしていて見所があって、誰が出てもABEMASの出場試合は退屈するということが無い。
比べると(あくまで比べるとですけど)その他のチームには一人二人はあんまり認めてない選手がいたり、露骨に成績の上がらない選手がいたりします。ABEMASに次ぐ"粒の揃った"チームは今年はパイレーツだったかなと思うんですが、ちょっと色々と恵まれなくて、セミファイナルで敗退となりました。
・・・ちなみに僕の"応援"チームはKONAMI麻雀格闘倶楽部で、最終的にも準優勝ですし勿論実力が無い訳ではないんですけど、挙げた2チームなどに比べるとどちらかというと危うさや可愛げがあって、それが応援ポイントというチーム。(笑)
と、(Mリーグの)ヘビーユーザー以外には通じそうもない、雑な総括はこれくらいにしてと。

今年のテーマは"僕を裏切っていった女たち"
要は今季のMリーグで、僕の予想を大きく上回るような活躍や成長・変化を見せた女流プロたちについて、舐めてましたどうもすみませんという、"反省会"です。(笑)
まあ何というか、手前味噌気味な言い方にはなりますが、人生でここまで予想外のものばかりを見せられた経験は、ジャンルを問わず記憶に無いです。どうも人間の成長力というものを舐めていたらしいと言うべきか、それとも俺は"女"が全く分かっていないらしい(笑)と言うべきか。


ともかくでは成績下位チームから順番に。

・東城りおプロ(セガサミーフェニックス)
・二階堂瑠美プロ(EX風林火山)

昨年度、2021-22シーズンに同時に加入した二人ですが。
そのニュースを聞いた時は、正直「何で?」と思いました。
他にもっと実力や魅力のあるプロは女流にもいくらでもいるだろう、Mリーグが興行である以上人気や知名度をある程度重視するのは仕方が無いとしても、この人選はいくら何でもブランド価値を下げ過ぎではないかと。
同様に怒っている、茶番だと毒づいている人は当時結構ネット上でも見られて(参考)、それらを引いてのブログ記事を書く寸前まで行ったんですが結局書かないで、まあ良かったなと今は思いますが。
具体的にまず東城プロは確かに放送対局の常連で、単体で水着DVD



なども出している人気美人雀士ではあるんですが、はっきり言ってそれありきの人で、麻雀的に何か特筆するようなものを持っている人には見えませんでした。一応"強気"という売りにはなっていましたが、それは女流でよくある"細かいことが苦手"ゆえの開き直り的なものでもあって、しかもそこまで発動率も高くなく、同じ売りの高宮プロや岡田プロの露骨に下位互換という感じ("グラビア"的にもそうですけど(笑))。はっきり言えば、個人的に最も退屈な女流雀士の1人でさえありました。
一応直前の2021年初頭に「夕刊フジ杯麻雀女王決定戦」(の個人戦)というそれなりに知られた放送対局タイトルを獲得はしていたのでそれきっかけではあるんでしょうが、それも"正当性"というより何とかしてアイドル雀士をねじ込みたい主催者側の"口実"に使われたという、むしろそういう印象でした。
そして実際に加入初年度2021-22シーズンでのパフォーマンスも、まあ予想通りというか縮こまってこそいなかったものの、なんか大人の試合に子供が一人紛れ込んでるようなそんな印象のもので。
一方の二階堂瑠美プロは、妹の亜樹プロと共に"女流"という業界自体を切り開いて来た功労者であって、"知名度優先"とはいってもさすがに東城プロと同列に並べるのは失礼な存在ではあります。ただキャリアが長い分、色々と"落ち着いて"しまった人ではあって、女だてらに職人的な渋くて緻密な打ち筋で女流の枠を越えた尊敬を集め、掛け値なしにトッププレイヤーである亜樹プロに対し、"三色好きの華やかな手役派"というキャラ自体は確立しているものの、逆に言えばそれだけの人でシリアスな戦闘力では妹より一枚も二枚も落ちるという印象が拭えず、今更成長も望み薄な分、期待感では若手以下で、かなりがっかり感のある"新加入"選手に思えました。とりわけ僕が嫌だったのがその加入先が妹のいるEX風林火山だったことで、二階堂"姉妹"の看板はそこらの花麻雀ならいい引きになりますが、究極の真剣勝負のMリーグではむしろ"不謹慎"な雑音にしか思えず、並べられては今更セット売りされては亜樹プロだって不愉快だろう、口には出さずとも内心ではと。勿論そんな理由で貴重な"枠"を奪われた(としたら)、他の実力者プロたちもと。
そして瑠美プロもまた、初年度の戦いは概ね予想された通りであり、さすがに"花麻雀"仕様は抑制してリアリズム志向で打とうとした、その努力自体は理解出来ましたがさりとてそこから何か個性や強みを発揮するには至らず、若くも強くもない平凡なベテラン女流雀士が何となくそこにいるだけの、そんな1年だったと思います。風林火山の渋めのチームカラーも、いかにも似合ってなかったですし。

そして二年目。"コネ入社"組2人の今年はどうかなと冷笑的に開幕を迎えた僕を待っていたものは・・・
まず東城プロ。元気でした。元気どころの騒ぎじゃありませんでした。大暴れ。高宮まりの・・・上位互換?(高宮プロ自体の変貌は後で書きます)
早くから"バーサーカー"(ベルセルク)の二つ名を持つ高宮プロは、"大胆"と言われることが多いですが実際は人一倍素朴誠実な性格で、"暴れる"というよりも"決死"の覚悟で捨て身の一点突破を愚直にかけ続けるそれが定期的に思わぬ結果を生むというそういうタイプ。何なら額には日の丸の鉢巻きでも巻いてそうな(笑)そういうイメージで(僕は笑)、重いというか湿度が高いというか、"アイドル"雀士の代表ではありますが正直決して"明るい"雀風ではないと思います。
ところが東城プロは、軽いんですよね。ぴょんぴょん跳ね回ってブンブン振り回す(笑)。こちらは"大胆"というより無執着かな?そういう軽さ、明るさ。性格の違いはあるので個性の違いは個性の違いでいいんですが、問題はそれが二人の共通の特徴であるある種の"素人"打ちの、「効果」に与える影響。女流どうしならいざ知らず、男子も含めた名手の集まるMリーグの中では時折爆発はするものの基本的には流れについて行くのが精一杯(だった)の高宮プロに対して、東城プロの明るい"素人"打ちは、"玄人"たちのペースを根本的に乱し、先の見えない恐怖の戦い(東城プロにとっては遊び場?笑)に誘うことしばしば。"素人"打ちというと馬鹿にしているようですが、ゲーム構造的にランダム要素の多い麻雀にはどこまで行ってもそういう打ち方の存在出来る余地があり、そうでない計算可能な部分の精度を高める努力を日々"プロ"たちが行う一方で、実は「棒テン即リー全ツッパ」が結局最強であり、素直に運を掴んた人が勝つのが競技の本質なのではないかという疑い、実際は心の底ではみな"確信"しているのではないかとも思いますが(笑)それを言ってはおしまいなので言わない(笑)、とにかくそういう競技に見える面がある訳ですよね。
ただじゃあみんな素人打ちすればいいかというとそれは色々知った後には実際は難しい、ビギナーズラックはビギナーにしか使えないと、これは麻雀に限らず色んなジャンルで言えることだと思います。でもそれに近いことをプロ歴10年になんなんとする東城プロはやってしまう。やれてしまう。特に2022-23シーズンにおいては"コンスタント"と言っていいくらいの頻度で。そうしてついにシーズン通したMVPを現実的に視野に入れるところまでのし上がり、俄かに"確実"な結果を期待されるようになったこともあるでしょう最後は息切れしましたが、とにかく最高峰の舞台での予想だにしなかった"素人"打ちの限界突破の姿を見せてくれました。
正直滅茶苦茶ファンになりましたね。滅茶苦茶応援してました。加入前の低評価も開幕前のせせら笑いもどこへやら(笑)。自分でもびっくり。"評価"が上がったというよりも見方が変わった、見えていたもののポテンシャルを見誤っていたことを認めたという感じですが。・・・実は初年度の後半にも、既に"変化"の予兆は感じていなくはなかったんですけどね。象徴的には繰り返される髪色の大胆な変化っぷりに。

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今時髪色を変えたりチームカラーに染めるなんてのはよくあることではあるんですけど、東城さんのそれは一瞬現実感を見失うレベルの何か規格外の吹っ切れ方で、"嫌い"な筈なのに(笑)毎回つい笑ってしまって。相変わらず打ち方は素人臭くはあるけれど、そういう自分を受け入れて思い切り"遊ぶ"ことに、どうも覚悟を決めたらしいなというそのこと自体は感じてはいました。(翌年のその"成果"については全く予想外でしたが)
なぜ東城さんがそういう心境に至れたかについては・・・長くなりそうなので他の人の件ともまとめて別の機会に。

とりあえず次に二階堂瑠美プロの二年目に話を移すと、こちらも初年度に比べれば確実な進歩を見せて、お荷物感の否めなかった前年から一転風林火山の確実な戦力/ポイントゲッターとしてコンスタントに機能して、やや不調だった妹の成績も大きく上回ることに成功しました。打ち方としてはそこまで何かが目覚ましく変わったという感じはしませんが、"花麻雀"モードから"シリアス"モードへの転換が、2年かかって完了したという、そういう印象です。
結局"求め"られてなかったという面はあると思うんですよね、"女流"であることそのパイオニアであるという以上のことが、M以前の放送対局においては。なまじパイオニアであるゆえにというか。
ぶっちゃけそれで食えたでしょうし、求道者風味の生真面目な妹(彼女は彼女で話すととても面白い人ではありますが)に比べてサービス精神の豊富な陽性の性格もあって、ある種の"タレント"としての表現に収まり切っていた部分が。僕もその範囲でしか判断していなかったきらいがありましたが、今季は意外な巧みさやむしろ"腹芸"に近いもの、いい意味での"ベテラン"の底力を随所に感じることが出来ました。やはり場の要請に従って発揮される/引き出される能力は変わるんだな、簡単に見切ってはいけないなと、反省させられた次第。実は本人にとっても"新しい自分"であった可能性は無くは無いのかなと思いますが、それについては自団体での(放送されない)日々の麻雀を知らないので、本人に確認してみないと何とも言えませんが。


瑞原明奈プロ(U-NEXTパイレーツ)

前年21-22シーズンの堂々たるMVP選手。
ではあるんですが、正直何が/なぜ強いのか僕にはどうしても分からなかったんですよね。壮大なま〇゛れ、と言いたくなる時もありましたが、いくらランダム要素の強い麻雀でもトップリーグの1年通しての結果にそんな馬鹿なとは思いますし、何とか言わずに我慢みたいなそんな日々。(笑)
そして今年も強かった瑞原プロ。むしろ益々というか余裕を持ってというか。その"秘密"の核心については相変わらず僕は分からない、仮説の一つも立てられない感じなんですけど、とりあえず受け入れはしました。やけになって諦めた訳ではありません(笑)。ちゃんと認めてます。ただ分からないだけで(笑)。ある意味Mリーグ32選手中、最も難解な選手。(僕には)
印象的に一言で言えば、究極の優等生という感じではありますけどね。地頭はしっかりしていて詰められる理についての追求・研鑽は怠りなく、ただ同じ女流のトッププロの中でも亜樹プロ的な"求道"感や魚谷プロ的な鋭敏なスタイル意識は無く、むしろ"常識"の範囲である種"事務"的にそれらを扱ってる感じ。その一方で、だからこそなのかもしれませんがここぞという時に意外に大胆というか我儘(笑)というか、根拠のよく分からないと言えば分からない意志のはっきりした選択をし、それが高い確率で成功し続けているそういう印象のここ2年間。正直結果が出ているから注目しているだけで、それ以前の2年間はほとんど積極的な関心を持ってはいませんでした。今は逆にその"無個性"ぶりが不気味に見えてはいる訳ですが。
どうなんでしょうね、特にインタビューとかを聞いていると、品のいい真面目なお嬢さん(既婚子持ち)ではあるんですけど意外と放胆というか呑気というか、状況関係無くいつもやけにリラックスしている

mizuhara_akina

という(笑)印象の人で、ある意味東城プロに似た無執着なところはあるのかなと。ただ基礎の強さは東城プロを大きく上回るというかアイデンティティの"入口"が違うというか、無執着は"プラスアルファ"として発揮しているので気付かれ難い。"気配"抜きに突如爆発する厄介さというか。そこで引き寄せた運に、今度は理の強さを活かして確実に効率的に乗っかって最終的に手が付けられなくなる。
・・・僕が描写出来るのはこれくらいですけど。
いかにもワセジョ(?)らしい、美人だけど女感はあんまり無く(笑)、まあなんかスペック相応に真っすぐ育ったんだろうなという感じの人。国際教養学部、理系ですらないのか秀才ではあっても、ほんと背景ストーリーを付け難い感じの人。それゆえのニュートラル?ニュートラルゆえの無限成長力?
来季こそは、もう少し正体に迫りたいものだと思っています。(笑)


高宮まりプロ(KONAMI麻雀格闘倶楽部)
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テーマ:麻雀
ジャンル:ギャンブル
松嶋えいみさん(’23)
2023年05月20日 (土) | 編集 |




松嶋えいみさん。

絵に描いたような(?)"エロ"さで、かえって明朗快活、見てると幸せな気持ちになります。(笑)
昭和のエロ本(見たことは無いですが)風味ではありますがそこまで品が無い感じもせず、でもちゃんと"ヴァイタル"にエロくもある。
AV風と見る人もいそうですが、AVの場合は逆にもっと小綺麗に撮るか(単体の場合)、あるいはグロテスクに肉体の部位を強調して来る感じ(のパッケージ)が多い気がして、松嶋さんの収まりの良さは・・・漫画かな?むしろ二次元?"メリハリ"ボディではありますが。(笑)
こういうとにかく微妙なラインを渡り切るのが日本の"グラドル"というジャンルで、そういう意味で松嶋さんは優等生というか、古き良き時代を思い出すというか。

井上和香さん

inouewaka_b1inouewaka_b2


とかが活躍していた時代?。あそこまでのメジャー感は、さすがに無いですが。


そろそろWikiを見てみますか。
身長168 cm B87(F) - W60 - H86
B87しかないのか。それでこの"立体感"は、本当にスタイルがいいんですね。
その場合"W60"は、業界サイズではなく実測に近いタイプでしょうね。

9頭身ともいわれるそのスタイルは「ミラクル神ボディー」とも評され、「第5回 プロが選ぶアイドルDVD賞」で「スタイルがいいで賞」を受賞。


なるほど。
"H86"の方も、個人的にはポイント高いですね。BよりHの方が1cmでも小さいと、覿面に締まった感じになる。だらしない印象を受けないというか。

趣味はサバイバルゲーム、お酒、ドライブ。特技は水泳、シンクロ。また、空手、キックボクシング、トライアスロンもこなす。


アクティブな印象は確かにありますね。それと湿度高めなエロ(演出)との凌ぎ合い/組み合わせのバランスが、グラドル松嶋えいみを作っている感じ。

・・・正直個別に拾える画像よりも各DVD等のパッケージの方が知的というか上品というか、何か"筋"が一本通っている印象があるので、多分いいカメラマンいいチームに恵まれている人なんだろうなと。それだけの"素材"だということもあり。


検索しても"人柄"とかに触れた記事は一切出て来ない(笑)んですが・・・。

松嶋えいみ 30歳唯一のDVD、“新妻えいみ”の自分史上最大下乳にノックアウト(ドワンゴジェイピーNEWS)

2014年グラビアデビュー。168cm B87-W60-H86(cm)の9等身とも言われる黄金比スタイルから“ミラクル神ボディ”という異名を持つ松嶋えいみ。
彼女以降同様のキャッチコピーを名乗ったグラビアアイドルはいるが、“ミラクル”で“神”という最上級のその言葉は松嶋えいみの代名詞となり、そのプロポーションの絶品さは10年にわたり他の追随を許していない。


10年とは長い。そんなに長く定評のある人だったのか。
まあ多分"初々しい""清楚"だった瞬間は無さそう(笑)ですし、活力のある明るいエロさで逆に加齢もあんまり気にならなそうですから、息は長いでしょうね。本人もまだまだやるつもりのようです。

一方でそういえば僕はなんでこの人を知ったんだろう、いかにもグラビア界完結低浮上という感じの人なのにと一瞬マジに思い出せなかったんですけど。

甲冑萌え!松嶋えいみが鎧を紐解き水着美女に【動画あり】(HOMINIS)

美女が由緒正しき甲冑を身に着け、身体に残る痕とともに鎧を脱ぎ去るとビキニ姿になる、歴史とグラビアを融合させた番組。甲冑の持ち主の紹介や、甲冑の歴史、時代背景なども詳しく解説する。
今回は、ミラクル神ボディのグラドル・松嶋えいみが登場!
甲冑:武田信玄 美女:松嶋えいみ


ああそっか、『鎧美女』(フジテレビCS)か、そうそうそうだった。
ちゃんと録画もしてあったのに忘れてた。
なかなか"イメージDVD"とかだるくて見てられないので、この番組は貴重です。

せっかくなので録画部分から画像を・・・と思ったんですが、そうかこの回変則的な構成で、僕的に見所が少なかったんですね、"素材"の良さだけは分かりましたが。
仕方がないので公式系の画像から。

matsushimaeimi_yoroi1

水着で書道
いいですねこのミスマッチ。
昔『ウゴウゴルーガ』で"はだかでかがく"というコーナーがありましたが。(世代)



単行本になってるとは知らなかった。細川ふみえさんやら荻野目洋子(!)さんやら"実業家"になる前の千葉麗子さんやらの結構メジャーな女性タレントたちが、全裸で温泉に浸かっている風のCG(本人も肩までは出す)を背景に、歴史上の科学理論を解説してくれるコーナー。(笑)


『鎧美女』に戻って。

matsushimaeimi_yoroi3
matsushimaeimi_yoroi02

通常は(最後の)サウナコーナーの代わりに、"鎧兜が肌に付けた跡を修復する為の"オイルマッサージコーナーがあって、それがまあやっぱり何というか、いい訳ですが。
理由があるのが変にいい。(笑)
ちなみに施術者はいつも女性です。(正しい)


1992年4月7日生まれ、牡羊座のA型。
牡羊のAとはまた随分真面目そうな。むしろ融通が利かなそうというか。
多分本人そんなにエロエロではないんじゃないかなと。やはりよく"プロデュース"されているという印象の強い人。

キャリアが長いのもあって、DVDはそろそろ30枚に迫ろうかという発売枚数。本当に"グラビア"で食ってる("タレント"というより)感じの人で、芸人で言えば"劇場で食ってる"的な。(笑)
だから今後僕が見るようなバラエティ番組とかで出会う機会があるのかは、微妙な感じ。
またちょっと"アダルト"過ぎるので、ヤンマガ等漫画雑誌のグラビアで見る機会もあるのか無いのかという。

まあこういうあり方も、ありというか、むしろいいというか。
でもほんといいパッケージ多いなと。事務所に大切にされてる感というか。
グラドル界に幸あれ。(そんな締め?)


’04.1月~4月のみどりのろうごく
2023年05月16日 (火) | 編集 |
1月

ちゃんとそのうちサッカーの話もします。(2004年01月05日)

大騒ぎした挙句見掛けがほとんど変わっていないのは、別に密かにやる気が復活している訳ではなくて結局今の形態が1番様々なタイプの画像に対応出来るからなのです。大きい/小さい、縦長/横長、スタイリッシュ/お下劣(笑)。

正直僕自身覚えてないんですけど、前年末騒いでいたのは「サイトをやめる」ということではなくて「ヴェルディサイトをやめる」という話だったのかもしれないですね。
("所長さん")画像の貼り場所としてのサイトを無くすという可能性は、全然無さそうな書き方。(笑)
あるいは「閉鎖」か「縮小」かで縮小を選んだという結末なのか。
そもそものことを思い出すと、一番最初のサイト開設("midori law"とかいう名前)は当時ヴェルディについて書きたかったテーマの長文を、まさか公共の掲示板に投稿する訳にもいかないので誰の迷惑にもならずに置いておく為の場所としてでしたが、それについてひと通り書き終わってからは、今度は当時好きだったモデルさん(黒澤優さん)の画像を貼って眺める為の場所として改装した"midori prison"というのを作って、引き続き色々な人の画像を貼り続け半ばついでにヴェルディについても書くみたいな、そんなスタンス/行きがかりだったんですよね。
だから上のような話になる。(笑)

ここは今までよりもはっきりと、ジャンルを問わずたまたまその時に関心のあることを書く場所になると思いますが。あえて言えばテレビとサッカーとアイドルと読書の日記?(なげえよ)

別の日の記事を見ると、どうやら当時「名無しの日記」というタイトルで、テキストスペースを運営していたようです。勉強になった。


で、結局(2004年01月16日)

戸田は来ないの?まあ影響力の大きな選手だけに、なまじレンタルなんて半端な形で来られても困るような気もするからそれはそれでいいんだけど。
しかし松井獲得に名乗りを挙げているということは、ラモンの後釜に外人は取らないということなのかな。

攻撃陣ということで言うなら、とりあえずそこそこの選手でいいから日本人FWを1人は獲らないと編成がいびつになると思う。ボマは当てにならん。基本2トップならチビや玉乃は本当の意味ではFWとして数の内に入らん。

戸田(和幸)が来るという話があったのか。縁としてはやはり監督が清水時代に一緒にやったオジーだということか。当時もエスパルスで、結局この年は来ずに翌2005年にこの移籍は実現しますね。
戸田が現役選手だてらに自分のサイトで大胆に意見発信し始めるのはもう少し先だったように思いますが(2005年の記事で分かるかも)、言っても2002年W杯チームのレギュラーですし、若手の頃から必ずと言っていいほど時の監督と"揉める"に近い激しい議論を戦わせる選手として知られていたので(笑)、やはり迎え入れる側にはそれ相当の準備が必要であるという認識は、既にあったようですね。
"松井"は松井大輔。当時京都のテクニシャンMF。後でも出て来るのでコメントはその時に。
FW陣の話を見ると、ロリ時代に一回高まったFW平本の評価は、この時かなり落ちているようですね。最終的には年末の天皇杯優勝の、立役者の一人になる筈ですが。


単純さの勝利(2004年01月30日)

図書館で読んだサカマガの反町インタビュー。
J1での戦いの展望を聞かれて、「戦術には個人戦術、グループ戦術、チーム戦術、ゲーム戦術の4つがあって、チーム戦術つまりいわゆる”自分たちのサッカー”は変えないがゲーム戦術は相手に合わせて臨機応変に変える」と。

多分より一般的には前の3つを「戦術」として総称して、4つ目は去年ウチで何度か話題になった「戦略」とか「作戦」とか、一応別個に語られることの方が多いように思います。ただ反町さんの意図は知らないけどこうして4つ並列するメリットというのは感じるところがあって、一つは用語の混乱に一気にけりがつけられること。いやまったく、こんな方法があったとは。ていうかこれでいいじゃん。

もう一つはチーム戦術つまり”自分たちのサッカー”を語る時に、予めこうして4つ並べておけば常に4つ目の要素も視野に入れながら語ることが出来るということ。

「個人」「グループ」「チーム」「ゲーム」の4つの"戦術"。
これいいじゃないか、分かり易いぞ。20年前の発言ですが、明日から使えそう。(笑)
メリットについてはまあ、文中のある通り。さすがたなあ、反町さん。あるいは松本を筆頭とする反町さんのチームの「ゲーム戦術」の強さは、そもそもがこの"4戦術"論的な視野が最初からあってのものだったのかも。
ちなみに前半の"3戦術"論を、最初に聞いたのは1999-2000年の李国秀総監督の口からでしたね。まああの方の力点は、最初の「個人戦術」に一番重くあったと思いますが。それの教育に突出して熱心な人だった。


2月

フル代表マレーシア戦(2004年02月07日)

1トップの下に攻撃的MF3人というのは、スキル第一主義のメンバー編成で中盤の流動性を確保するには1つの模範解答ではあるわけで。まあそれなりに形は見えていた。どのレベルまで通用するのかとか、ヒデや俊輔が入ると逆に滞るんじゃないかとかそういう疑問はあるにしても。

ここで4-2-3-1が初登場していたのか。
文脈からすると、国内メンバーでは"黄金の中盤"はどのみち組めないのでという理由もあったようですけど。4-4-2絶対でスタートして3-5-2を導入して、更に今ここという話。

やまたく。
良かったですね、楽しそうでしたね。パートナーが今回は福西じゃなくて遠藤というのも幸せだったし。
松木/小見/ロリ下での”ボランチ”やまたくというのが必ずしもパッとしていなかったというのもあって、オジーと比較してジーコにサイドで、あるいは2列目で使えと文句を言っている人が多かったけど、この人の場合はむしろチームの中での位置付けの方が問題なので。

キャプテンシーはキャプテンシーでいいとしても、戦術的/純サッカー的には中心ではなく周縁、物理的にも精神的にも使うより使われる立場でこそ生きるので。そういう意味でちょっと一時のやまたくは頼られ過ぎだった。

やまたく。山田卓也
ジーコジャパンではドイスボランチの片割れとして使われていたようで。まあジーコのサイドバックは攻撃力/テクニック重視ですし、"攻撃的MF"やまたくというのはオジー一流の独自工夫なので、ジーコに求めるのは無理がありますからね。
正直代表でどういうプレーをしていたかは全く覚えてないんですけど・・・。遠藤と組んでたということは潰し役だったのかな。それとも遠藤のパスに"飛び出す"プレーが冴えてでもいたのか、"使われる"という内容からすると。
身体的に無理は利くけど、じゃあ具体的にプレーでどう"頼"ったらいいのか、終始分かり難い選手だった気がします、"ヴェルディ"の山田卓也。"武骨な器用貧乏"みたいな語義矛盾的選手。(笑)


ああ、これいいですね。(2004年02月08日)

僕も前から思ってました。

ヒデ復活でジーコの「中田ボランチ構想」加速(サンスポ)

ベタに2列目に並べてヒデ&俊輔にお願い!よりはぐっとチームとしてのイメージに奥行きが出来ますね。ジーコ自身の言葉から引っ張ると、ヒデの影響力を一番有効に生かす方法の1つ。逆にぶっちゃけ2列目やトップ下の”細工屋”としては世界的には勿論、日本代表の中でも実はそれほど抜けた存在でもないですし。

小野と組ませて並べたりしてね。本当の意味での「W司令塔」が出来るかも。ちょっとオランダっぽいですが。マレーシア戦の4-2-3-1との整合性もいいし、2列目に置いた布陣よりはいない時の代替・調整も簡単でしょう。

去年の末あたりから色々見てると、何というかジーコは徐々に強迫観念やこだわりが解けてとりあえず”普通の”監督にはなって来ている気がします。システムとか選手起用とか、思考のプロセスがフォローしやすくなってる感じ。

2004年というとパルマ最終年。余り高く評価してくれなかったプランデッリ監督(後のイタリア代表監督)の下規律に縛られまくった窮屈なプレーに終始し、すっかり"ファンタジー"や"インスピレーション"の枯れ切った印象のヒデさんでした。長年のウェイトレでか年齢でか、どうも体も重く固くなり過ぎている印象でしたし。>"細工屋"の件
それでも"ボランチ"起用というのは多分一歩踏み込んだ"コンバート"で、だからあえて小野と組ませるとかいうアクロバットを、ついでに考えてるんだろうと思います。(笑)


五輪代表イラン戦(2004年02月09日)

>山本監督は、戦術やら人員配置やらの枝葉末節にこだわって、幹をつくることを疎かにし過ぎなイメージが。西野、早野あたりとそのへんは似てる。意外と日本人監督にはありがちなのかも・・・。

これは僕の文章ではなくて、今は亡き当時の有名サイト内の記述です。ご本人今更アピールしたくは無さそうですから(笑)、あえて名前は出しませんが。(元記事には一応あります)

まあ何というかネット上の自称戦術通とかと区別がつけられないんじゃマズかろうと。

これは僕の。
まとめて何が言いたいか何が見えるかというと、現在は日本サッカー指導部の"頑迷固陋"が問題視されることが多いですが、この時期まではむしろ日本のトップor協会系監督たちの"節操の無さ""オタク性"の方が問題視されていたということ。逆にもっと"オタク"になってくれと、どちらかというと今は望まれている訳ですが。
結局オタクになり切れずにorそれが上手く行かずに、"節操"の方に舵を切った"ジャパンズウェイ"になったというのが、その後の流れかもしれません。(あくまで源の一つでしょうけどね、代表における度重なる選手vs監督の力関係問題の方が、より直接的な契機だろうと思いますが)


選手総とっかえ?(2004年02月10日)

よく「選手系」の人とかがチームとかクラブとか、そんな組織や集団なんて信用できない、愛着を持てない、自分は選手個人についてくというようなことをおっしゃいますが。

選手系。チームではなく、個別の選手の応援をメインにチームを渡り歩くタイプのファン。"井上潮音"に関しては、最近僕もすっかりそうですが。(笑)
主に女性ファンからなるそういう集団は、SNSだと自然に棲み分けが行われているんだろうと思いますが、"サイト"時代は明確に「~選手応援サイト」として可視化されるので、ヴェルディ系では特に揉めてはなかったと思いますがやはり"生態"の違いに驚くことはままありましたね。
という記録。
まあでも"井上潮音が出ている"というだけで目に見えて高まる試合への集中力・感情移入の熱を見ると、案外自分はそっちなのかなと思わなくもない今日この頃ではあります。


一応何か書いとくかね(2004年02月14日)

ここらへんに関して返す返すも気の毒だったなと思うのはフランスW杯の城彰二。つまり岡田監督からの期待・指示というのはあくまで何を置いても戦術的貢献の方であったのは間違い無く、例の「城をFWの軸とする」発言というのも全くそういう意味のものであったのだと思う。”軸”ではあるがエースでもストライカーでもない。
それがまだ理論家肌の色が濃かった岡田青年監督の説明不足、それにタイミング的にキングカズとの王座交代という劇的効果を伴ってしまったことによって突如として誰にもこなせないような空想的期待に曝されてしまった。
もし今の岡田監督があの地位にいたら、戦力的な期待はさほど出来ないとしても城を守る為にカズをメンバーに残したのではないかと思ったりするのだけど。

純粋な思い出話。要点は2つ。
1.岡田監督が"FWの軸は城"と言ったのは、"エース"という意味ではなくプレッシングやポストプレー等の戦術的な軸という意味。
2.城に過大なプレッシャーをかけない為にも、岡田監督は無駄なセンセーションを避けてカズをメンバー入りさせておくべきだった。

やはり"FWというのは点を取る人"という観念は日本ではまだ素朴に生きてましたし、「城と岡野の2トップにしてくれればチャンスはいくらでも作ってやる」という、"チャンスメイク"の方に割り切ったヒデの発言には、僕自身もついて行けない部分が正直あったそういう時世でしたね。城はさておき岡野を先発で使う?そんな邪道なと。
その後"FWなんてタイヤだ"(使い潰して適宜交換するものだ)というトルシエの発言があり、いったんはそれに驚かされたもののその後結局そういう扱いが常態化して、近年では世界的潮流もあって再び"得点力"重視の傾向は出て来ているもののやはりまずは走れ献身しろというのが、日本代表のFWではあります。「岡野」が沢山というか。(笑)


一応何か書いとくか2(2004年02月14日)

1つ目についたのは田中ハユマの孤独感。再三のコメントなどを見ても、一人だけ高圧の上昇意欲、要求水準の高さを抱えてそれを受け止めきれないチームから遊離して勝手に自分の基準でプレーしている感じ

山本五輪代表の話ですけど。
へえ、そうだったんだ。
ロリ・ヴェルディで大活躍している時も、オジーに冷遇されている時も、ハユマの"矜持"の高さ、俺は高級な選手で高級なプレーをするんだという存在感は、確かに独特なものがありました。
山本ジャパンではどうだったんでしょうね、ドリブラー中心のせせこましくて落ち着かない攻撃の編成の中、サイドでキープできるハユマがアクセントになるという組み合わせもありそうに思うんですが、そういう信頼を監督から得ることは出来なかったのか。
ハユマについては、また後でも出て来ます。


次号が出る前に感動を書きとめておこう(2004年02月16日)

天才レフティー?とんでもない。むしろ田舎の秀才がいかに全国レベルでサバイバルするかのハウトゥーとして読まれるべきサッカー人生だろうよ。

ただ名波の面白いところはこういうことを僕なんぞが何を言う必要もなく完璧に把握していて、しかもそれを現役選手の身空で一般メディア上でクリア過ぎるほどクリアに言語化してみせるところ。全くもって僕は彼のインタビューの、言葉の大ファンである。友達になりたい/なれそうだなと思える数少ないJリーガー。いつもいつもご馳走ありがとう。

これは今の"名波サン"とは別人の話。
いつからか彼は"天才レフティー"という過剰な持ち上げを受け入れて、"名人"化してしまって、ご存知のような「名監督になれない"名選手"」の現代を代表する一人になってしまった訳です。名選手的理想主義派の代表というか。

同じジュビロの田中誠のインタビューも並んで載っていて、「今時の若いモンは!」みたいな感じて菊池直哉のプレーの軽さに文句をつけていたのでなんか笑ってしまった。”巧いけど軽い”DFの代表みたいだったある時期までの田中誠の印象がどうしても強くて。

アトランタ当時の田中誠の華麗な"リベロ"ぶりと、一方での対人の頼りなさと言ったら。(笑)
ただその後ジーコに割と常連的に呼ばれるようになった時は、華麗さも頼りなさも両方程々になっていたので、彼なりに"成熟"してはいた頃だったんでしょうけどね。


もういいよ日韓戦は(2004年02月22日)

いや、あるか、突出したもの。平山。ある意味この選手のチームへの影響力というのは、代表レベルでの比較で言えば中田英寿を越えてかつてのラモスに迫るものがあると思う。
元々中盤の構成力に重きを置かない(置けない)山本ジャパンにとって、1人の確実なポストプレイヤー/頼りになるセンターフォワードの存在の有無が状況を劇的に左右するというのは予想できたことだが、一方でこの日本にそんな人材はいまいというのも99%の人の「予想」であったわけで。いやはや。

ラモスとまで言うか。
それくらい、平山がいるといないとでは別チームになっていたということですけど。
更に言えば唯一の"タメ"ポイントであり、ある意味ではパスの出どころでもあった。
同様なことをサイドでハユマも出来たらいいのになと言うのが、さっきの話でもあります。


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『富野由悠季の暗号』より ~「絵」と「演出」(「アニメ」と「実写」)
2023年05月11日 (木) | 編集 |
細々(こまごま)と体調が悪くて、僕にしても久しぶりな更新。





WOWOWで見ました。オンデマンドでも見れます。

「機動戦士ガンダム」の生みの親、富野由悠季。彼の作品を支えてきた豪華スタッフの証言から『Gのレコンギスタ』へと至る富野監督の演出論を読み解くドキュメンタリー。


とのことですが、本人ではなく周囲の人のコメントがメインということもあり、個人的にはそこまで有益な情報は少なかった気がします。基本、"それぞれの富野語り"にとどまる内容というか。

その中で僕が面白かったのは、"キャラクターデザイナー・アニメーター"吉田健一(Wiki)が出演しているパート。

YoshidaKenichi

・・・知的で穏やかな語り口が、個人的に好感度/信用度大だった吉田氏。(笑)

『キングゲイナー』『エウレカセブン』『Gのレコンギスタ』のキャラデザ(あと未見ですが『電脳コイル』の磯監督の新作『地球外少年少女』も)を担当している人ですが、資質的な富野さんとの"遠さ"(の自覚)が、逆に目の付け所のピンポイントさに繋がっていて、なるほどと思うことが多かったです。
分量的にも一番この人のパートが多いんですが、その割に構成的な位置づけははっきりしていなくて、(吉田氏がではなくて)作った人は結局何が言いたいのかなという感じの全体ではありましたが。

以下吉田氏の発言を抜粋しつつ。


"アニメーター"吉田健一氏から見た富野演出の特殊性

抜粋1

・富野さんの特殊性は絵に頼らないところ。
・絵自体は上手い。ただアニメに定着させるのは難しい(タイプの絵)
キーワードを考えるのが上手い。


アニメの演出家ではあるが、絵、"animate"する/絵を動かす部分には、演出の重心を置いていない。
"キーワードを考えるのが上手い"というのは、吉田氏の説明だと、"絵"ではなく"概念"(キーワード)によって、どういう絵を描く/作るべきかを、アニメーターたちに伝えている(そしてそれは最終的に観客にも伝わる)と、そういうことのよう。
その直後に「感覚の再現」というワードが出されます。

(字幕)
例えばナウシカが空を飛んだ時、観客は目で見て楽しむだけでなく浮遊感を実際に味わっている。これを「感覚の再現」と呼んでいる。アニメーター出身である宮崎駿監督の得意技とされる。


吉田氏によると宮崎監督の下ではこれがアニメーターのメインの仕事というところがあり、またその為の細かい技術がいくつも確立されている。
文脈的には、つまり富野監督の方法はこれとは違うということが言われている。だから吉田氏は富野演出に従いつつ、そこに宮崎的"感覚の再現"技法を"加え"てみる試みを、時々していたということ。
サッカー的にやや雑に言うと、"戦術"(富野)と"個人"(宮崎)的な対応か。"全体構造"と"局面"というか。欧州と南米(or和式)?
勿論これは富野演出の方に寄せた対照の仕方で、宮崎演出には宮崎演出なりの、"戦術"や"構造"があるんでしょうけど。ただ最初の"絵に頼らない"という言い方に戻れば、絵が動くから動きが伝わる宮崎演出と、シーンの概念的構成によって動きが(動いたことが)伝わる富野演出的な対比を、吉田氏がここでしようとしているのは確かだろうと思います。

では絵を動かさない(描かない)富野演出は、何をしているのか。

抜粋2

・富野監督がコントロールする部分は、コンテと編集とアフレコ
・要するに僕らが絵を描き切る前。設計図。特にコンテ。


コンテと編集とアフレコ。
まず大前提として、(絵)コンテによるシーンの設計図をきっちり作る。(VTR中の安彦良和氏によれば、富野氏は虫プロでの自身の最初期の仕事からコンテ作りには参加していたとのこと)
それに従ってアニメーターたちが絵を描いて行く訳ですが、そこの部分はそれこそ吉田氏などに任せて"コントロール"しない。(宮崎氏を筆頭とする一般的な、少なくともアニメーター出身のアニメ監督の場合、そこへもっと直接的に深く関わる)
富野監督が再び"コントロール"するのは、そうして描き上がった絵とそれによって構成されるシーン/素材の「編集」作業、及び更にそれを基にした声優によるアフレコ作業。
後者については後述するとして、つまり極端に言えば「絵」の前(コンテ)と後(編集)にしか興味が無い訳で、大部分の「絵」派の監督にとってアニメの(重要な)"本体"が絵そのものであるのに対して、富野監督にとってのアニメの絵はシーンの内容を伝える為の一種の記号というか「アニメ作品」という将棋を指す為の"駒"というかそういうものであると。"王将"と書いてあれば王だろうし、"K"と書いてあって王冠被ったひげのおじさんが判別できればキングであろうと(笑)。それでよしと。極端に言えば。「作品」の本体は"将棋"のゲーム性の方であり、「演出」とは富野監督の指し筋のことであって駒やカードの絵画的表現ではない。

だから

抜粋3

・自分が参加したキングゲイナーも含めて、実際のところ誰がアニメーターでも成り立つ、富野さんは富野さんの守備範囲["コンテ・編集・アフレコ"?]の中で、"富野作品"に出来てしまう、して行ってしまう。
・僕が演出をやらないのはそれが出来る気がしないから。


ということになります。

・・・以上ある意味では富野さんと真逆のタイプである、意識的に"非演出家"である生粋のアニメーター吉田健一氏に従って、アニメ監督富野由悠季の「特殊」性について見て来た訳ですが。


富野監督、富野演出は特殊なのか

この文章が結果どんなタイプの人にどれだけ読まれるかは分からないところはありますが、ただブログ自体の想定平均読者像からすると、正直あんまりピンと来てない人の方が多いのではないかと思ったりします。他ならぬ僕自身も、そういうところがあるので。
どういうことかというと、「コンテと編集とアフレコ」に主に注力するという富野流は、アニメ界では"特殊"なのかもしれないですけど実写の世界では、言い換えれば世間一般の映像劇視聴者がまず考える演出・監督の姿としては、むしろ普通なのではないかと思うからです。だから"特殊"前提の話の進め方には・・・という。
つまり、当たり前の話ですけど、アニメの場合重視するしない以前にまず誰かが絵を"描"かなければ、物理的に存在出来ない訳です。駒でしかないとしても駒が無ければ、将棋は指せない。(笑)
一方で実写の場合、極端に言えばカメラを持ってそこにある風景なり人間なり動植物なり機械なりのこの世に存在する何かを映せば、わざわざ"絵を描"かなくとも無から有を生み出さなくとも、とりあえず何かを映したことになる「映画」になる(ドラマなりドキュメンタリーなりに)。それぞれの美醜とか芸術性とかいう以前に、有る/無しのレベルでそういうはっきりした違いがある。
そうした絵を描く/動かす、その作業を監督するというプロセスがごっそり抜け落ちている実写ものの場合、監督・演出家が主にする作業としては、シーンの構成を考え(「コンテ」)、それに従って俳優・出演者を動かしてみてそれに調整を加え(アニメで言えば「アフレコ」、音声について"アフター"でないことも実写では多いでしょうか)、そうして撮った素材を「編集」して作品として完成させるという、要素としては正に"富野監督がコントロールしている"とされるものそのものな訳です。
そして世代的にも(1941年生まれ。TVアニメ『鉄腕アトム』開始時既に24歳)個人的にも、「アニメ」ではなく「映画」を作りたかった富野監督(参考)にとっても、それは"演出家"としてむしろ標準的なプロセスである筈。
その後結果として約60年を業界で生きた成功したアニメ監督である富野さんが、頑なに"実写流"をアニメに"押し付けて"来た筈はない訳ですが、"本当は映画が作りたかった"そしてアニメ業界でもアニメーター経由で演出家になった訳ではない富野監督が、あくまで実写/アニメ共通の作品性を極力自分の作品/演出技法に求め、それがアニメのアニメたる部分の比重の小ささとして根っからのアニメ人には"特殊"に映るという、そういう事態ではあるのではないかと思います。
そういう意味で、アニメ演出家富野監督の技法の"特殊"性はあくまで状況的相対的な特殊性であり、本人は特殊なことをやろうとも自分が"独創的"な演出家だとも、思ってはいないのではないかなと。
まあそれでアニメ業界で大きな成功を収めたところに、単に「実写」技法という外在的要素以外に富野さん個人の特殊性なり才能なりは隠れているのかも知れませんが、比較対象が少なくてなかなかそれについては難しい(数多いるアニメーター系監督どうしなら比較し易いでしょうが)。そこまで行くまでに話が終わってしまうというか。(吉田証言も含めた今回の"ドキュメンタリー"もそう)


(まとめ?)僕の中の「富野」と「宮崎」

僕自身はどうかというと、未だに毎四半期に始まる膨大な数の地上波アニメ群の少なくとも第1話はほぼ欠かさず見る僕は、一般社会的には立派なアニメオタクの部類なのかもしれませんが、余りそういう自覚は無いですし子供時代少年時代に遡ってもそれほど熱心にアニメを見ていた訳でも増して"アニメで育った"というタイプの子供でもなかったと思います。当時の有名作品は、専ら成人後にあらかた後追いでは見ましたけどね。
一方で"海外ドラマ"に関しては今も昔も物理的に見られる(日本語化された)作品は一部アジア地域除く地球上の全作品を見る勢いで見ている紛れもないオタクですし、映画もメジャー/新作作品となると心許ないですがそうでないマニアック寄りのor白黒時代も含む古い作品に関してなら、標準よりはまあまあ見ている方だろうと思います。当然そこにおける「演出」「映像」的なこだわりも、アニメの時と比べても多めにあるように思います。
そもそもアニメについてもマメに見ているのが"テレビ"アニメであることからも分かるように、見ているのは専ら人気"漫画"や"小説"の"アニメ化"されたものであって、主役は「物語」であって「アニメーション」そのものではない。
という訳で僕のアニメを見る視点も、別にいちいちそう意識している訳ではないですが本質的にアニメ"外"アニメ"内"的"汎"映像劇的なもので、そういう意味では富野監督と同じで、"演出"観も演出技法上の力点も、近いというか違和感無く理解出来るというか。一方で宮崎駿監督を筆頭とする"アニメーター"系の有名監督たちの作品/"傑作"を見ている時は、綺麗だなあよく動く絵だなあと感心したりはしつつも、感動ポイントや評価ポイントがそこにあるわけではなく、あくまで物語的にどうか一般映画的な意味での演出や演技がどうかという観点で(のみ)見ているという、それが基本的な態度。(勿論例外はあります)
だからこと「アニメ」に関して言えば、僕は圧倒的に"富野"派、絵や細部ではなく構造/構成派だと言えると思います。

ただでは常に、どのジャンルでもそうかというと、それが案外そうでもないようなんですよね。
例えば今回の富野演出のアニメ界での位置づけの為に引いてみた"サッカー"の例で言うと、確かに戦術や構造は重視するし、一定レベル以上のそれらが前提に無いサッカーを見るのは苦痛ではありますが、ただ最終的に何を見たいか何に一番感動するかというと、そうした戦術や構造と関わりながら、あるいは場合によってはそれを裏切るように発露する爆発する、個人の技能やイマジネーションの方のようなんですよね。別に"解放の為の束縛"と、"ツンデレ"的に割り切ってる訳ではないんですけど(笑)、気が付くと。そしてその"個人の技能"にしばし忘我的に耽溺している瞬間というのは、アニメで言えばアニメーターの技巧・技量そのものに、絵の躍動そのものに本体的に感動する評価する、そういう見方と重なる部分が多いのではないかと思います。
つまりサッカーにおいては、結構僕は「宮崎」寄り。特に"現代欧州サッカーファン"という(「富野」的ジャンルの)括りの中で言えば、多分半分の比重を越えて「宮崎」寄りに分類されてもおかしくない人なのではないかなと。(南米とか日本とかを入れるとまた話は違って来ると思いますが)

あるいは(ポップ)「音楽」という例で考えてみると。
確かにコンセプトも曲構造も重要ですけど、結局のところ演奏ないしそのものに面白みや聴き応えを感じないと、部屋で流すくらいはいいとしても、ヘッドフォンで"体感"的に聴くのは退屈しちゃって無理なんですよね。いい曲だけどいいアーティストだけど、ヘッドフォン聴取には耐えないというケースは、結構あります。逆に曲自体は(最初と最後の)"テーマ"の提示程度の機能しか果たしていなくて後は延々ソロやインプロヴィゼーションみたいなタイプのものでも、好きな/出来のいいものならいくらでも聴いてられます。むしろ終わらないでと願ったり。まだ10分しかやってないじゃんみたいな。(笑)
こういうある意味での"幸福な本末転倒"は、作画/絵メインでアニメを見る/評価する人の口ぶりには、ちょいちょい感じることがあります。それはそれで楽しいんだろうなと想像はしますが、僕自身はアニメに関しては、ソロとか別に要らないから、4分でも長えよサクサク行こうぜという感じの人です。
という訳で結構演奏派技術派の音楽ファンである僕ですが、だからと言ってジャズに行ったりはしないので、富野前提の宮崎多め入りみたいな感じですかね(笑)。サッカーの時よりも、宮崎成分は多いかな?

あるいは・・・AV。(笑)
これは人によって嗜好が分かれるでしょうが、僕自身は"ストーリー"とか"演技"とかほんと勘弁な人です。基本「女優」ものは見られません。ほとんど企画/ドキュメンタリー/素人系専門の人です。ただただ「絵」の躍動を見るのだけが目的、お話とか意味とか邪魔でしかない、剥き出しの「作画」のクオリティだけが目的。「絵」や「作画」がこの場合何を意味するかは、あえて語りませんが。(笑)
逆に一部の本当に「作画」派(と感じる)のアニメに関しては、AVと同類のものとしてあえて見ることもありますけどね。ストーリーがどんなに下らなくても芝居がどんなに馬鹿馬鹿しくても、それは数分間の"絡み"を見せる為のアニメーションアクションを見せる為の、"状況設定"の説明パートとして割り切るという。その作品のファンに言ったら多分怒られますけど(笑)。絡みはエロいよそれは認める。でも意味なんて考えるだけ無駄だろう?こんなのという。(言えない、言わない(笑))
とにかくAVについては、僕は完全に「宮崎」派。(と、この文脈で言うのはどうだろう(笑))
絵のエロティシズムだけが大事。

と、このように各ジャンルにおける「富野」性と「宮崎」性のばらつき(の僕の中での表れ)を提示することによって、「富野演出」(の"特殊"性)の相対的位置が分かり易く位置付けやすくなるのではないかなという、そういう話です。


最後にもう一度だけ吉田証言に戻ると。
そういう"絵に頼らない"富野演出を共に仕事をしながら見て来た"絵の人"吉田氏が、「僕が演出をやらないのはそれが出来る気がしないから」と結論的に吐露しているのは、アニメ界においての"特殊"という前提で語りつつも、結局は富野監督がやっているようなものこそが、より本来の、より純粋な意味での「演出」だと、認めているとそう感じざるを得なかったと、そういう話なように思えます。
そう、思うんですけどね、僕も。"感覚の再現"は感覚の再現で確かに魅力的ですけど、でもそれは後の話だろうと。ただ特に各アニメ「映画」の世評を見ると、たまに分からなくなってしまいます。
まあ「本来」であるならばあるならばこそ、"富野"的部分を他の"作画派"監督たちが、やっていない、軽視している筈は無いことも、言うまでもないのだろうとは思いますが。あるいは本当はそれほど"特殊"ではない富野監督一人に、その部分を背負わせて論じることの問題も、あるはありますね。

ともかく『富野由悠季の暗号』の感想としては、以上です。