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”人間化”と”猫化”
2006年08月28日 (月) | 編集 |
坂東眞砂子 子猫 日経 (検索対策w)
坂東コラム僕の本論その詳述1
前回予告した『では逆に”人間化”はそんなにマズいのか』というお話。
再びちなみに、相変わらずリサーチ/リファランスは一切していません。


哲学、特に現象学系統の主観主義的なそれでは、人間がそれぞれに自分の主観や意識を元に/投影しながら世界の中で生きる、あるいは自分なりの「世界」を認識・構成して行く様子を、「繭を紡ぐ」などと言ったりします。一人一人が自分の、自分なりの「繭」を持っている。その中で暮らしている。

今のは人間どうしの比較の話ですが、それをよりスケールを広げて人間と他の動物・生物との間の異種間の話としても考えても、基本的に事情は同じだと思います。
その場合、「繭」を紡ぐツールとして考えるのは、狭義の主観や意識というより、何らかの意味での「自己」、個体を個体たらしめているシステム性のようなものとなるでしょうか。

つまり人間は他者や猫などの異種や自然環境やあらゆる自分を取り巻くものを、それぞれに自己化=人間化しながら生きています。観念的にも、物理的にも。自分の繭の中に取り込みながら、その取り込んだものをそのものとして付き合っていきます。選択の余地なく。
それは時に度が過ぎるように見える時もありますが(それこそ”環境破壊”など)、基本的には生きる為の当たり前の戦略で、それが神ならぬ身の存在が世界の中で生きるということです。


その意味では猫側も事情は同じです。人間が猫を人間化するように、猫は猫で人間を”猫化”することによって生きるための戦略を完遂して行きます。
これについては格好の例があって、つまり僕が鼻で笑った、例の
>だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
という坂東コラムの素朴過ぎる突っ込み(?)の件がそれです。

これに対する現在最も一般的な回答としては、「子猫時代の母猫との関係を再現・擬装している」というものが挙げられると思います。飼い猫にとって、飼い主である人間は母親に類するものだというわけです。
これは経験的にもかなり納得の行くもので、例えば1年くらい前に病死してしまったいい歳の僕の飼い猫は、僕が本でも読もうとベッドに横向きに寝そべったり・・・・つまり母猫が授乳する時の姿勢に似た態勢を取ると、超特急ですっ飛んで来て腹のあたりに収まり、しゃぶりつきこそしませんが(笑)指一本触れずとも勝手にゴロゴロうるさいくらいに言い出したものでした。

あるいは最近なら”強い方”とかですが、僕の5,6年に渡る野良猫の観察によれば、野良猫が最も激烈に僕(人間)に甘えるのは、独立したてのまだ母猫がかりだった頃の感覚と独立生活の不安感が入り交じった時期のように思います。
それより前の”本物”の母親の庇護下にある時期では僕なんぞただの「餌をくれてちょっかい出すと面白いデッカイ変な生き物」でしかないようですが(笑)、その母親の存在が失われると、たまさか僕を”使って”母親との一体感・安心感の再現を試みるような行動を取るようです。
(つづく)

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