2008年06月18日 (水) | 編集 |
ウチの不良外人どもの話題はともかくとして。(笑)
”Jリーグの審判”という話は、今ブラジル人たちの間でブームなんでしょう、炎上なんでしょう。
次にクルのは口裂け女か、マクドナルドのミミズバーガーか。
真面目に代理人がまとめて洗脳でもしてるんじゃないの?
代表サッカー関係は今色々と脳内で接続が進んでいて、面白いところなんですが、どこから話していいのかという感じ。まずはなるべく無難そうなところから。
反町と城福
スタート時の混乱に眩惑されて書きそびれましたが、トゥーロン開幕時、その前のアンゴラ戦までのインスピレーションで僕が用意していた「構図」は、反町と城福の2人を対比的にオシム・フォロアーとして位置付ける、具体的には
オシムの”頭の固い長男”反町と、”勘のいい次男”城福
といったものでした。・・・・何となく、分かりません?(笑)
その(オシムとの)共通性や類似性の具体的なところは今回面倒なので書きませんが(いずれ発展的な形で)、城福については「ムービング・フットボール」というかけ声や他でもないヴェルディ戦での羽生のゴールを、オシムが「あれがワタシのやりたいサッカーだ」ど絶賛したという新聞報道などから、既にある程度の一般的な認知はあるでしょう。
反町についても、アンゴラ戦以降のサッカーに対して、そういう方向での再評価(例)というのは、さほどレアでもない見解として進んでいるようです。(そう言えばオシムも)
まあ”頭の固い”と”勘のいい”云々はオレ感ですけど。
でも長男と次男と言うのは、だいたいそういうものですよね!(そこが問題ではない)
オシム・インパクトの2面性
岡田ジャパン発足以来、主に同時に掲げられた『接近・展開・連続』スローガンの示すところについての本人の意図を越えた可能性を探るという形で、概ね僕は擁護的に、岡田監督を語って来ました。別な言い方をすると、オシムの価値を抑制的に論じて来た。
まあ弱い方の味方をするというのは、僕の論者としての一種の本能ですけどね。それは「判官贔屓」ということではなくて、「論の死角を潰す」という本能なんですが。論全体の形・バランスを綺麗に、完全なものにしたいんですね。誰が”勝っ”てもそれはあんまりどうでもいいんですけど。
ともかく僕も含めて、オシムとオシムが焦点化した「日本化」という問題をめぐって色々言われて来た中で、恐らく最も一般的で反論の難しい”批判”的抑制的な論点としては、「オシムが(信奉者の言うように)偉大であればあるほど、尚更そんな特殊な替えの利かない人の仕事をモデルに、日本サッカーの大計を考えるわけにはいかない」というものだろうと思います。
一般性の無いものを”基準”には出来ないという、ある意味当然の主張。オシムがいないと出来なくなってしまうのでは意味が無いという。
しかしイコンとしてのオシムにはもう一つの性格もあって、それは(サッカー的僻地の日本に)「世界の常識を体現・紹介している」人であるというもの。
”常識”とか”スタンダード”とかいうのは、案外ローカルだったり(それが通用しているエリアへの)コンプレックスからの過剰反応だったりもするので鵜呑みには出来ませんが、まあそうなんでしょう、かなりの部分。
とにかく前段の『特殊』な人”オシム”の他に、『一般』性普遍性の人としての”オシム”も、いるわけです。
”Jリーグの審判”という話は、今ブラジル人たちの間でブームなんでしょう、炎上なんでしょう。
次にクルのは口裂け女か、マクドナルドのミミズバーガーか。
真面目に代理人がまとめて洗脳でもしてるんじゃないの?
代表サッカー関係は今色々と脳内で接続が進んでいて、面白いところなんですが、どこから話していいのかという感じ。まずはなるべく無難そうなところから。
反町と城福
スタート時の混乱に眩惑されて書きそびれましたが、トゥーロン開幕時、その前のアンゴラ戦までのインスピレーションで僕が用意していた「構図」は、反町と城福の2人を対比的にオシム・フォロアーとして位置付ける、具体的には
オシムの”頭の固い長男”反町と、”勘のいい次男”城福
といったものでした。・・・・何となく、分かりません?(笑)
その(オシムとの)共通性や類似性の具体的なところは今回面倒なので書きませんが(いずれ発展的な形で)、城福については「ムービング・フットボール」というかけ声や他でもないヴェルディ戦での羽生のゴールを、オシムが「あれがワタシのやりたいサッカーだ」ど絶賛したという新聞報道などから、既にある程度の一般的な認知はあるでしょう。
反町についても、アンゴラ戦以降のサッカーに対して、そういう方向での再評価(例)というのは、さほどレアでもない見解として進んでいるようです。(そう言えばオシムも)
まあ”頭の固い”と”勘のいい”云々はオレ感ですけど。
でも長男と次男と言うのは、だいたいそういうものですよね!(そこが問題ではない)
オシム・インパクトの2面性
岡田ジャパン発足以来、主に同時に掲げられた『接近・展開・連続』スローガンの示すところについての本人の意図を越えた可能性を探るという形で、概ね僕は擁護的に、岡田監督を語って来ました。別な言い方をすると、オシムの価値を抑制的に論じて来た。
まあ弱い方の味方をするというのは、僕の論者としての一種の本能ですけどね。それは「判官贔屓」ということではなくて、「論の死角を潰す」という本能なんですが。論全体の形・バランスを綺麗に、完全なものにしたいんですね。誰が”勝っ”てもそれはあんまりどうでもいいんですけど。
ともかく僕も含めて、オシムとオシムが焦点化した「日本化」という問題をめぐって色々言われて来た中で、恐らく最も一般的で反論の難しい”批判”的抑制的な論点としては、「オシムが(信奉者の言うように)偉大であればあるほど、尚更そんな特殊な替えの利かない人の仕事をモデルに、日本サッカーの大計を考えるわけにはいかない」というものだろうと思います。
一般性の無いものを”基準”には出来ないという、ある意味当然の主張。オシムがいないと出来なくなってしまうのでは意味が無いという。
しかしイコンとしてのオシムにはもう一つの性格もあって、それは(サッカー的僻地の日本に)「世界の常識を体現・紹介している」人であるというもの。
”常識”とか”スタンダード”とかいうのは、案外ローカルだったり(それが通用しているエリアへの)コンプレックスからの過剰反応だったりもするので鵜呑みには出来ませんが、まあそうなんでしょう、かなりの部分。
とにかく前段の『特殊』な人”オシム”の他に、『一般』性普遍性の人としての”オシム”も、いるわけです。
反町や城福は、”オシムの”子供なのか
または”オシムの”「影響」であれをやっているのか。
違うだろうと思います。そんな単純な因果ではないはず。勿論間近で見て大いに影響やインスピレーションを受け、参考にはしているでしょうが。
だいたい出来るわけがない。オシム見ました影響を受けました、あれカッコイイ僕もやってみたい、じゃあちょっと(五輪&U−17)代表チームあるからやってみよう、ほら出来たなんて。
考えてみれば当たり前のことですが、ではどうなのかと言うと、そこで「常識」の人、「一般性」の人の方のオシムということが絡んで来るわけですね。
つまり・・・・オシムが紹介・体現している、言い換えればオシムが”影響”を受けたのと同様のソースから、反町も城福も影響を受けているのだろうということです。論理的にも、タイミング的にも。もしそれが「常識」であるならば、基本的には誰でもアクセス可能なはずですから。多少の誇張も交えて言えば、オシムと反町・城福は同格、仕事の性格は並列的だということです。
”誇張”の意味を上の「長男/次男」の比喩を生かして表現するとすれば、反町や城福にとってのオシムは、「ほとんど師匠にも近い存在の、世代の離れた兄弟子」という感じでしょうか。(笑)
我が門のサッカー道は、遠く険しいのじゃ。とにかく”近く”ても、師匠そのものではない。
こんな多少背伸びした強弁が出来るのも、一昔前とは比べ物にならないくらいサッカーがグローバル化、というかサッカー情報がグローバル化したからなわけですけど。特にテレビの力で。
オシムが一日中どこかのサッカー中継を流しっぱなしにしている”サッカーオタク”なのはつとに知られていることですが、反町家の風景も大差ないでしょう(笑)。オタクは国境を越える?!
勿論本場での実体験・指導体験の差はいかんともし難いものがありますし、オシムの一番マニアックな部分、オリジナル・トータルフットボールへのこだわりは、なかなか余人と共有出来るものではないでしょうが。
そして「日本化」問題
こうした認識、または前提の再整理と、反町や城福の実際の仕事から僕に見えて来るのは、(オシムと)「日本化」問題の、妙に円満な解決ルートです。
つまりオシム個人の相対化という面倒で闘争的な問題意識を経なくても、”父親殺し”や岡田的攘夷運動(笑)をしなくても、勝手に「日本化」は進むだろうということ。「オシム崇拝」に足を取られない、より本質的な。しかしオシムが開いてくれた視野は十分に生かして。
元々彼は”父親”ではなかったのだから(兄ではあっても)、”殺”す必要も無い。
・・・・全然”つま”ってないな(笑)。こういうことです。
オシムという外国人が口火を切って、当面オシム個人への期待やその仕事をなぞるような形で考えられた「日本化」という作業。それに対してやや挑戦的に、”日本人”としてのアイデンティティ把握や歴史認識による捉え直しを試みた岡田(と僕?)。
その一方でより素直にオシム・ラインに融和的な形で、新しいサッカースタイルの構築・提示作業を試みている、反町や城福という日本人監督がいる。
彼らの仕事はオシムを中心に日本サッカーを考えるタイプのサッカー・ファンからも、それなりに好意的評価を得ているようですが、しかし勿論同じではない。それぞれに違うし、オシムのとも違う。腕が違うというのはともかくとして(笑)、それ以前になんかニュアンスが違う。同系の理論を体現しているはずですが、オシムの雄大さやスペイシーな感じよりも、やっぱり何か、日本人的なせせこましさを強く感じる(笑)。それこそ岡田”接近”理論的な。
ここらへんの具体的な話はまた後でしたいですが、とにかくこうして理論闘争ではなくて粛々とした具体例の提示、またはオシムvs岡田という対立構造だけからは見えて来なかった風景を目の当たりにして、なんかこう、案ずるより産むが易しだなと感じている今日この頃です。
つまり・・・・「日本人」アイデンティティなんて放っといても出て来る、日本人監督が日本人選手を使ってやれば。”外国人”オシムと、共通の理論的インスピレーション的基盤を元にしても。
だから、思うんですが、今は「長男」と「次男」の話がたまたま問題になっていますが、その内に「三男」やら「四男」やら、「イトコ」やら「ハトコ」やら、「年若の叔父」やら「変わり者の大叔母」やら、次から次へと色々出て来るだろう、そうした作業やそれぞれの共通性や違いが、「日本化」の内容を豊かにして実体を作り、定着させていくだろうと。
そしてその片隅に、気が付いたら岡田監督の仕事すら、すんなり位置付けられるかも知れない。(既に最近僕の中ではそんな感じなんですが)
まあツンデレはやり切った方が面白いので、今後もぎりぎりまでなるべく対立図式も維持して行きたいと思っていますが(笑)。まだまだ苛めるぞオシム。
なんかやっぱり話の順番間違えてるような気もするんですが、とりあえず見取り図を提示してみました。欠けているピースも追い追い埋めて行きます。
または”オシムの”「影響」であれをやっているのか。
違うだろうと思います。そんな単純な因果ではないはず。勿論間近で見て大いに影響やインスピレーションを受け、参考にはしているでしょうが。
だいたい出来るわけがない。オシム見ました影響を受けました、あれカッコイイ僕もやってみたい、じゃあちょっと(五輪&U−17)代表チームあるからやってみよう、ほら出来たなんて。
考えてみれば当たり前のことですが、ではどうなのかと言うと、そこで「常識」の人、「一般性」の人の方のオシムということが絡んで来るわけですね。
つまり・・・・オシムが紹介・体現している、言い換えればオシムが”影響”を受けたのと同様のソースから、反町も城福も影響を受けているのだろうということです。論理的にも、タイミング的にも。もしそれが「常識」であるならば、基本的には誰でもアクセス可能なはずですから。多少の誇張も交えて言えば、オシムと反町・城福は同格、仕事の性格は並列的だということです。
”誇張”の意味を上の「長男/次男」の比喩を生かして表現するとすれば、反町や城福にとってのオシムは、「ほとんど師匠にも近い存在の、世代の離れた兄弟子」という感じでしょうか。(笑)
我が門のサッカー道は、遠く険しいのじゃ。とにかく”近く”ても、師匠そのものではない。
こんな多少背伸びした強弁が出来るのも、一昔前とは比べ物にならないくらいサッカーがグローバル化、というかサッカー情報がグローバル化したからなわけですけど。特にテレビの力で。
オシムが一日中どこかのサッカー中継を流しっぱなしにしている”サッカーオタク”なのはつとに知られていることですが、反町家の風景も大差ないでしょう(笑)。オタクは国境を越える?!
勿論本場での実体験・指導体験の差はいかんともし難いものがありますし、オシムの一番マニアックな部分、オリジナル・トータルフットボールへのこだわりは、なかなか余人と共有出来るものではないでしょうが。
そして「日本化」問題
こうした認識、または前提の再整理と、反町や城福の実際の仕事から僕に見えて来るのは、(オシムと)「日本化」問題の、妙に円満な解決ルートです。
つまりオシム個人の相対化という面倒で闘争的な問題意識を経なくても、”父親殺し”や岡田的攘夷運動(笑)をしなくても、勝手に「日本化」は進むだろうということ。「オシム崇拝」に足を取られない、より本質的な。しかしオシムが開いてくれた視野は十分に生かして。
元々彼は”父親”ではなかったのだから(兄ではあっても)、”殺”す必要も無い。
・・・・全然”つま”ってないな(笑)。こういうことです。
オシムという外国人が口火を切って、当面オシム個人への期待やその仕事をなぞるような形で考えられた「日本化」という作業。それに対してやや挑戦的に、”日本人”としてのアイデンティティ把握や歴史認識による捉え直しを試みた岡田(と僕?)。
その一方でより素直にオシム・ラインに融和的な形で、新しいサッカースタイルの構築・提示作業を試みている、反町や城福という日本人監督がいる。
彼らの仕事はオシムを中心に日本サッカーを考えるタイプのサッカー・ファンからも、それなりに好意的評価を得ているようですが、しかし勿論同じではない。それぞれに違うし、オシムのとも違う。腕が違うというのはともかくとして(笑)、それ以前になんかニュアンスが違う。同系の理論を体現しているはずですが、オシムの雄大さやスペイシーな感じよりも、やっぱり何か、日本人的なせせこましさを強く感じる(笑)。それこそ岡田”接近”理論的な。
ここらへんの具体的な話はまた後でしたいですが、とにかくこうして理論闘争ではなくて粛々とした具体例の提示、またはオシムvs岡田という対立構造だけからは見えて来なかった風景を目の当たりにして、なんかこう、案ずるより産むが易しだなと感じている今日この頃です。
つまり・・・・「日本人」アイデンティティなんて放っといても出て来る、日本人監督が日本人選手を使ってやれば。”外国人”オシムと、共通の理論的インスピレーション的基盤を元にしても。
だから、思うんですが、今は「長男」と「次男」の話がたまたま問題になっていますが、その内に「三男」やら「四男」やら、「イトコ」やら「ハトコ」やら、「年若の叔父」やら「変わり者の大叔母」やら、次から次へと色々出て来るだろう、そうした作業やそれぞれの共通性や違いが、「日本化」の内容を豊かにして実体を作り、定着させていくだろうと。
そしてその片隅に、気が付いたら岡田監督の仕事すら、すんなり位置付けられるかも知れない。(既に最近僕の中ではそんな感じなんですが)
まあツンデレはやり切った方が面白いので、今後もぎりぎりまでなるべく対立図式も維持して行きたいと思っていますが(笑)。まだまだ苛めるぞオシム。
なんかやっぱり話の順番間違えてるような気もするんですが、とりあえず見取り図を提示してみました。欠けているピースも追い追い埋めて行きます。
この記事へのコメント
面白く読ませていただきました。
思うところを少し。
岡田監督は、
オシムの代表をみて、「日本人でここまで出来るんだ」みたいなものがあって、要するに日本人によるサッカーの新たな解釈、道、限界(やれる範囲)が見えたのではと。それで、その範囲、限界値で自分のサッカーをしようとしている。さらに、現実オシムの残した物があるから、使える物は使おう、という感じ。
反町さんは、
オシムの「練習メソッド」「試合のメソッド」「オシムサッカー実現のメソッド」etc.のメソッドに影響を受けていると。で、そのメソッドをそのままコピーしているのではなくて、そのメソッドを開発するにあたって、必要な”考え方”、”解釈の仕方”みたいなものをもらって、それを自分のサッカーに取り込んでいる感じ。
城福さんは、オシムの影響は、一般人並(多少語弊があります)にしか受けて無くて、もともと自分の中にあったもの中心のサッカーで、それを名付ける、とか外殻をつけるのにムービングフットボールという言葉を使っただけのような気がしています。
ずっと追っているわけではないので、正確ではないですが、城福さんのサッカーに数的優位を作るために走らせようという工夫は感じにくくて、”走る”=”マラソン”相手と走りっこして勝てばいいやみたいなものを感じるんですよね。
日本化については、西部謙司さんの言っていることを私は指示しています。「どんなサッカー(プレミア、リーガ、ミラン、ブラジル、イタリアetc.)をさせても、ブラジル人がやればブラジルぽく、日本人がやれば、自然に日本ぽくなるだけだ」的なものです。
アトさんの今回のお話と通じるものがあると思います。
個人的には、明らかにオシム前と後で、サッカーの見方、解釈の仕方が変わりましたね。メディアから流れてくる情報だけで、そういうインパクトを与えられるというのが、”オシム信者”とまで言われるほどの人を産む一つの理由だと思います。一言でいえば、教え方が上手いってことなのでしょう。ただ、上司にはしたくないですね(苦笑)、似ているように感じる人を知っているんですが、”距離がある”か、”同等の立場”なら非常にためになるんですが、上司の距離だと”めんどくさい””疲れる”人で。オシムも、通訳さんに送迎され中にマンホールの上を通って車が揺れることをいちいちツッコんで議論に発展させる人ですから。上司だと邪険に出来ないし、日常茶飯事だとめんどくさい、と。
それはそうと、お体の方は如何ですか?
言葉だけになってしまいますが、お大事にして下さい。
思うところを少し。
岡田監督は、
オシムの代表をみて、「日本人でここまで出来るんだ」みたいなものがあって、要するに日本人によるサッカーの新たな解釈、道、限界(やれる範囲)が見えたのではと。それで、その範囲、限界値で自分のサッカーをしようとしている。さらに、現実オシムの残した物があるから、使える物は使おう、という感じ。
反町さんは、
オシムの「練習メソッド」「試合のメソッド」「オシムサッカー実現のメソッド」etc.のメソッドに影響を受けていると。で、そのメソッドをそのままコピーしているのではなくて、そのメソッドを開発するにあたって、必要な”考え方”、”解釈の仕方”みたいなものをもらって、それを自分のサッカーに取り込んでいる感じ。
城福さんは、オシムの影響は、一般人並(多少語弊があります)にしか受けて無くて、もともと自分の中にあったもの中心のサッカーで、それを名付ける、とか外殻をつけるのにムービングフットボールという言葉を使っただけのような気がしています。
ずっと追っているわけではないので、正確ではないですが、城福さんのサッカーに数的優位を作るために走らせようという工夫は感じにくくて、”走る”=”マラソン”相手と走りっこして勝てばいいやみたいなものを感じるんですよね。
日本化については、西部謙司さんの言っていることを私は指示しています。「どんなサッカー(プレミア、リーガ、ミラン、ブラジル、イタリアetc.)をさせても、ブラジル人がやればブラジルぽく、日本人がやれば、自然に日本ぽくなるだけだ」的なものです。
アトさんの今回のお話と通じるものがあると思います。
個人的には、明らかにオシム前と後で、サッカーの見方、解釈の仕方が変わりましたね。メディアから流れてくる情報だけで、そういうインパクトを与えられるというのが、”オシム信者”とまで言われるほどの人を産む一つの理由だと思います。一言でいえば、教え方が上手いってことなのでしょう。ただ、上司にはしたくないですね(苦笑)、似ているように感じる人を知っているんですが、”距離がある”か、”同等の立場”なら非常にためになるんですが、上司の距離だと”めんどくさい””疲れる”人で。オシムも、通訳さんに送迎され中にマンホールの上を通って車が揺れることをいちいちツッコんで議論に発展させる人ですから。上司だと邪険に出来ないし、日常茶飯事だとめんどくさい、と。
それはそうと、お体の方は如何ですか?
言葉だけになってしまいますが、お大事にして下さい。
2008/06/19(Thu) 04:54 | URL | Same #yQqYkdOc[ 編集]
岡田ジャパンの行く末みたいなもの?(笑)
弱いところはありますが、それを含めて何とかマネージ出来ていますという。
総体的に、おっしゃることに半分ずつ賛成という感じですかね。
>岡田
オシムの仕事への違和感を通じて、今まで漠然と抱えていた(日本)サッカーに対する把握が、俄然鮮明になったので一度試してみたくなったという感じかと。
ただし、アクシデントによる代表監督就任という機会が無ければ多分殊更表現はされなかったもので、その意味では準備不足・内容不足ではあったんでしょうが。
>反町と城福
反町さんはよく”勉強”していて、城福さんは我流に”インスパイア”されているだけだというのは賛成(長男と次男(笑))。ただし価値付けとしては逆かも。
つまり反町さんは”なぞって”いて、城福さんは”掴んで”いるという。だからSameさんが反町さんについて評価している部分は、要するに「最近こなれて来たね」という話です。
オシム的に言えば反町さんは「よく頑張ってるね」で、城福さんは「やるなあこいつ」という。実際の賞賛のニュアンスにも、そういう違いがあると思うんですが。
一例を言うと、反町さんは運動量を、チーム作りの下支えで使ってしまっていて、それでああいうおつりのないチームになる。
城福さんはそれ以前の配置やら組み合わせやらのセンスに才気があって、そこにプラスアルファとして運動量を使えている。それがFC東京の融通性やたまの爆発力に繋がっていると、そう僕は見ています。(器用貧乏でもありますが)
・・・・だから”マラソン”と言うなら、むしろ反町ジャパンの方かと。「総量」をある程度機械的に前提としている。
ただし今のところ、一般(の監督)に参考になるのは反町さんの方でしょうね。
彼も古い人ですが、ある種変わり者的に勉強熱心(オタク?)な人で、勉強自体はオシム以前からコツコツやっていたはずですが、それが頭デッカチのあれもこれもで終わりそうなところを、オシムという磁場を得たことで焦点化しつつあると、そういう風に感じていますが。
西部さんは・・・・ある範囲では常に正しいんですけどね。僕も一番信用している/参考にしている人ではあるんですが。
でもそこを越えて踏み込む、議論の場を作る気は無いように思います、岡田就任からこっち。すぐ自分の土俵に逃げ込もうとする。
ちょっとネコタツ的”本場”論者に、なりかかってるところがあるかと。まあ単純に岡田ジャパンに、クオリティ的に興味が持てないんだと思いますけど。(笑)
弱いところはありますが、それを含めて何とかマネージ出来ていますという。
総体的に、おっしゃることに半分ずつ賛成という感じですかね。
>岡田
オシムの仕事への違和感を通じて、今まで漠然と抱えていた(日本)サッカーに対する把握が、俄然鮮明になったので一度試してみたくなったという感じかと。
ただし、アクシデントによる代表監督就任という機会が無ければ多分殊更表現はされなかったもので、その意味では準備不足・内容不足ではあったんでしょうが。
>反町と城福
反町さんはよく”勉強”していて、城福さんは我流に”インスパイア”されているだけだというのは賛成(長男と次男(笑))。ただし価値付けとしては逆かも。
つまり反町さんは”なぞって”いて、城福さんは”掴んで”いるという。だからSameさんが反町さんについて評価している部分は、要するに「最近こなれて来たね」という話です。
オシム的に言えば反町さんは「よく頑張ってるね」で、城福さんは「やるなあこいつ」という。実際の賞賛のニュアンスにも、そういう違いがあると思うんですが。
一例を言うと、反町さんは運動量を、チーム作りの下支えで使ってしまっていて、それでああいうおつりのないチームになる。
城福さんはそれ以前の配置やら組み合わせやらのセンスに才気があって、そこにプラスアルファとして運動量を使えている。それがFC東京の融通性やたまの爆発力に繋がっていると、そう僕は見ています。(器用貧乏でもありますが)
・・・・だから”マラソン”と言うなら、むしろ反町ジャパンの方かと。「総量」をある程度機械的に前提としている。
ただし今のところ、一般(の監督)に参考になるのは反町さんの方でしょうね。
彼も古い人ですが、ある種変わり者的に勉強熱心(オタク?)な人で、勉強自体はオシム以前からコツコツやっていたはずですが、それが頭デッカチのあれもこれもで終わりそうなところを、オシムという磁場を得たことで焦点化しつつあると、そういう風に感じていますが。
西部さんは・・・・ある範囲では常に正しいんですけどね。僕も一番信用している/参考にしている人ではあるんですが。
でもそこを越えて踏み込む、議論の場を作る気は無いように思います、岡田就任からこっち。すぐ自分の土俵に逃げ込もうとする。
ちょっとネコタツ的”本場”論者に、なりかかってるところがあるかと。まあ単純に岡田ジャパンに、クオリティ的に興味が持てないんだと思いますけど。(笑)
>反町さんは運動量を、チーム作りの下支えで使ってしまっていて・・・
「走るのは当たり前だ」、と言っていたオシムの言うとおりってことですよね。反町さんにとって”走る体力”は、”武器”じゃなくて”下支え”、ベースってことですよね。で、武器は”走り方”だと思います。
対して、城福さんは、他のチームより走れる体力を”武器”としているととっています。で、その武器名が”ムービングフットボール”。私が”マラソン”と呼んでいるものです。
>オシムという磁場を得たことで焦点化しつつある
同意です。勉強したことの中で、何が効果的、必要なのかオシムによって分かった。要は取捨選択の基準が出来たってことでしょうか。
反町さんは、あくまでオシムの方法論の再解釈をしているだけだから、オシムから離れる割合は小さい。”なぞっている”感は拭えない。城福さんは、別物だから、オシムにとっては新しい(自分ではやらないものと言った方が良いか)のでしょう。賞賛についてはアトさんの言う通りでしょう。
西部さんについては、確かにそう思います。
「走るのは当たり前だ」、と言っていたオシムの言うとおりってことですよね。反町さんにとって”走る体力”は、”武器”じゃなくて”下支え”、ベースってことですよね。で、武器は”走り方”だと思います。
対して、城福さんは、他のチームより走れる体力を”武器”としているととっています。で、その武器名が”ムービングフットボール”。私が”マラソン”と呼んでいるものです。
>オシムという磁場を得たことで焦点化しつつある
同意です。勉強したことの中で、何が効果的、必要なのかオシムによって分かった。要は取捨選択の基準が出来たってことでしょうか。
反町さんは、あくまでオシムの方法論の再解釈をしているだけだから、オシムから離れる割合は小さい。”なぞっている”感は拭えない。城福さんは、別物だから、オシムにとっては新しい(自分ではやらないものと言った方が良いか)のでしょう。賞賛についてはアトさんの言う通りでしょう。
西部さんについては、確かにそう思います。
2008/06/20(Fri) 07:47 | URL | Same #yQqYkdOc[ 編集]
オシムとの関係がどうというよりも、もっと一般的なチーム作りの方法やその手腕の問題として、僕は捉えているところがあるんですよね。
>「走るのは当たり前だ」、と言っていたオシムの言うとおりってことですよね
広い意味ではそうです。しかしオシムは”走らせる”監督ではありますが、何よりも効率的・効果的に走らせる、走ることをサッカー的な大きな効果として表現出来る監督であるわけですよね。目的はワークや堅さではなくて、美しさや創造性なわけですから。
僕が反町監督が「下支え」的に使っているというのは、極端に言えば大熊FCの”部活サッカー”的な意味です。(笑)
「考えて走る」と言った時に、「考え」の足りない部分を遮二無二「走る」ことで補っているという。だから”おつりがない”、それ以上が難しそうということですね今のところ。”おつり”を作る為には更に超人的に走らなくてはいけない理屈になって、それを”マラソン”と。
オシムのチームは完成度が高まると、実は”走”っていることは見ていてそんなに意識しなくなって、ここぞと言う時のダイナミックな飛び出し(とその為に必要とされた運動量)を見て、おお、走ったなと、そういう感じになっていたと思うんですが。
現状の反町ジャパンは、”走”っていることをビンビンに、息苦しいくらいに意識させられる、そういう段階。その点FCの選手は実働量はともかくもっと楽しそうに、前向きに走っている。それが城福監督の「考え」のおかげなのか「勘」「要領」に近いものなのか、まだ僕にも見えていないところはあるんですが。
オシムの凄さは理論なのか、というそもそもの問題もあると思います。論理的に説明できる、具体的なトレーニング・メソッドを作れる、その論理性が凄いのは確かなんですが、でも他に理論的な監督/似たことをやっている監督がいる中で、彼が特別なのはそれ以前のイメージやヴィジョンの持ち方、チームの機能性の感覚的な把握の仕方の方なのではないかと。
偉大性の問題としても、個性の問題としても、それは別にどちらでもいいんですが。
真に”師の心”を理解しているのは誰か、みたいな。但馬守(反町)と十兵衛(城福)?とか。いや、テキトーですけど。(笑)
>「走るのは当たり前だ」、と言っていたオシムの言うとおりってことですよね
広い意味ではそうです。しかしオシムは”走らせる”監督ではありますが、何よりも効率的・効果的に走らせる、走ることをサッカー的な大きな効果として表現出来る監督であるわけですよね。目的はワークや堅さではなくて、美しさや創造性なわけですから。
僕が反町監督が「下支え」的に使っているというのは、極端に言えば大熊FCの”部活サッカー”的な意味です。(笑)
「考えて走る」と言った時に、「考え」の足りない部分を遮二無二「走る」ことで補っているという。だから”おつりがない”、それ以上が難しそうということですね今のところ。”おつり”を作る為には更に超人的に走らなくてはいけない理屈になって、それを”マラソン”と。
オシムのチームは完成度が高まると、実は”走”っていることは見ていてそんなに意識しなくなって、ここぞと言う時のダイナミックな飛び出し(とその為に必要とされた運動量)を見て、おお、走ったなと、そういう感じになっていたと思うんですが。
現状の反町ジャパンは、”走”っていることをビンビンに、息苦しいくらいに意識させられる、そういう段階。その点FCの選手は実働量はともかくもっと楽しそうに、前向きに走っている。それが城福監督の「考え」のおかげなのか「勘」「要領」に近いものなのか、まだ僕にも見えていないところはあるんですが。
オシムの凄さは理論なのか、というそもそもの問題もあると思います。論理的に説明できる、具体的なトレーニング・メソッドを作れる、その論理性が凄いのは確かなんですが、でも他に理論的な監督/似たことをやっている監督がいる中で、彼が特別なのはそれ以前のイメージやヴィジョンの持ち方、チームの機能性の感覚的な把握の仕方の方なのではないかと。
偉大性の問題としても、個性の問題としても、それは別にどちらでもいいんですが。
真に”師の心”を理解しているのは誰か、みたいな。但馬守(反町)と十兵衛(城福)?とか。いや、テキトーですけど。(笑)
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