ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
「直観」についての覚書
2008年07月09日 (水) | 編集 |
(承前)

”再確認”作業が意外と面倒、かつ面白かったので、本論の前に予備的なものを。
要は去年イブニング&門辺美沙読者「そう゜」さんと、コメント欄で延々やっていた問答です。
全編読みたい人は(その方が分かりやすいと言えば分かりやすいはず)、臨時に独立カテゴリー化しておいたので、どうぞ。

それはそれとして以下では、主に僕の発言の中から、重要かつ今回の話に直接繋がり(繋げられ)そうな箇所を抜粋。


今号のイブニング(’07.6.12) より

>僕なんか”考える”ことなんて滅多にありませんけどね。
>だって面倒くさいもん。(笑)
>正味やってるのは「直観」の「言語化」だけです。
>それと「思考」はほんとは少し違う。


直観と言語と思考。これが全ての始まり。
この時点では実は、直接的には一種の謙遜/卑下であったというか、言わば「直観的思考」と「論理的思考」のタイプもしくは階層の、片方に偏った人だという、そういうことを言っていただけだったんですけどね。

>・・・・ただ「直感」(インスピレーション)との区別の必要はあって、別に天から降りて来る偶さかの素敵なアイデアではなくて、日常的な精神機能の一つ。”インテューション”。

昨日ゲレーロさんに説明したようなこと。「直観」とは、または「直観」と「直感」の区別。

>>「直観」と「直感」
>言い換えれば前者は論理でこそないですが、広義の「思考」の一種・手段です。
>後者は感覚。


これも同様。

>要はオリジナル(の言語化)とその発展・展開ということでしょう?
>展開部分はある程度形式が決まっているので、あまりそこに囚われるとオリジナルが
>どっか行ってしまって、だから”ノイズ”だと。


で、それはそれとして、これはそう゜さんのメイン/オリジナルの関心ですが、その直観がいかに曇るか、その後の特に言語的思考によってかき乱されるか、誤るか、迷うか。

>あらゆる思考、あらゆる瞬間にそれぞれに直観(非”感”)は働きますし、働いているということ
>において貴賎(正誤)はないとも言えると思います。


二つのことが言われていて、
1.”日常的機能”である直観は、思考を含む人間の生活のあらゆる瞬間に働き、関与している。
2.直観は誤らない、またはそれぞれの直観の間に本質的優劣は無い。

1.について言えば、例えば昨日取り上げたチェスマスターの天才的な一手も、僕らが日々の作業を破綻無く執り行う機能の延長線上にあると、僕は考えています。
2はちょっと”神秘主義的”に響くかもしれませんが・・・・

>究極的には「直観」というのは一種の自然物で、それ自体として間違ったりはしない。間違う
>のはそれの言語的把握、意識の側の作業の方だと、僕は了解していますが。


そういうことです。
そもそも”間違い”とか”誤り”というのはそれ自体が概念、言語的なものですからね。
自然界に”間違い”はありません。原因と結果があるだけです。(それも広義には概念ですけど)
そしてその自然界と人間界を媒介するのが、言わば直観と呼ばれているシステムかなと。
昨日の話では直接的には、”脳”という「自然」と”意識”という「人間」性の媒介。


今号のイブニング(’07.6.26) より

>”直観”のような、厳密さではなくて純粋さが問題になるような記憶の対象

前回の話の続きで、直観の自然性と、それが言語や概念や論理によって”曇る”という問題。

>僕(の脳?)の中に、僕が「直観」として意識したものの元となる何かの”情報”が保持されて
>いる。この過程そのものに僕の意識や努力は関わっていない。
>初期の「直観」というのはこの何かの”情報”に対して、僕の意識or認識のシステムがアクセス
>した時に、言わばたまたまその時の環境や必要性に応じて取り出された/加工されたもの
>なわけです。逆に言えばその後直観の内容が変容したりするのは、その”環境や必要性”が変
>わるからですね。


うわやばい話だな(笑)。直観以前の”原情報”のような概念が登場。
直観は自然的ではあるが自然そのものではなくて、自然から人間的必要によって引き出された、または引き出す過程での、情報(伝達)の一形式であるという。ま、”媒介”ということでもあります。
再び昨日の話と重ねるとすれば、”原情報”に当たるのが脳の照合・検索作業(の結果)で、”環境や必要性”にあたるものが、その時のチェスの局面ということになりますか。まあ文脈が違うので、説明としてあんまりきれいにはハマっていない気がしますが、構造としてはそういうことです。

なおここでは特に、そう゜さんの関心に従って、ある時直観として与えられた同一の情報に何回もアクセスし直すこと、または同じソースから展開された一つの思考の流れの中で、(そう゜さんには)同一のはずの直観がぶれる/変容するように見えて混乱する現象について語られています。

>その結果取り出されるものはその度変わるんです。その時にたまたま今取り出されて(言語化
>される)いるものが限定的であること、その背後にある総体をうっすら予感して留保しながら
>認識や思考を行なう、ということです。


ここらへんになると、もうほとんど昨日の例では説明できないと思いますが、これは実は”原情報”(≒脳)と”直観”の話というよりは、その先の直観の言語的把握・表現とその限界の方の話なんですよね。まあこれは後で。

>意識されている時点で、直観すら既にピュアではないんです。個人化されているんです。
>でも人間が意識出来るものはそれでしかないので、全体の構造を推測しながら、限定的な認
>識行為を行い続けるということですね。
>・・・・そしてそれを更に断片化して、「言語化」するわけです。大変です。(笑)


原情報→直観→言語と、一応ここでもアウトラインは出ていますね。

>論理的じゃないor論理が苦手な人が直観に優れているか、直観の扱いに長けているかという
>と、そんなことは全然ないんですよね。残念ながら。
>論理も直観も要は思考の一形式だと、前の方に言いましたね。考えること自体が苦手な人、嫌
>な人は結局両方駄目なんですよ。


おまけの当てこすり。(笑)
まあ直観も思考行為の一種だという、最初からの主張の一つの俗な局面の話ではあります。



今号のイブニング(’07.7.24)今号のイブニング(’07.8.28) より

(アト)
>対極を両方持ちつつの総合的には中央寄りがいいのか、片方を極めるだけ極めた方がいいのか…?
対極、ではないんだと思うんですけどね。処理水準とその時その時要求される情報としての形式の違い。
ただしそういうことを意識しない、または連続的に捉え(られ)ない人にとっては、両者は敵対する別のものになってしまう。


(そう゜)
> だから”直観が論理を内包”しているのではなくて、直観の上に論理が被さっている
こうしてみてみると、直観をより高度化したものが論理な感じですね。
ま、それでいて、より単純化したものともとれて。
してみると、なんだかアナログとデジタルの関係に近い気がしてきたな。


ここらへんも直観論から、直観と言語/論理の関係論に重点が移っています。
前者は実は「感情」と「理性」のようなもっと俗な問題形式を経由して、やや僕が強引に話を引き寄せているんですが、まあ結果として問題無いように思います。

ただし後者は改めてチェックして見たんですが、そう゜さんがどこを引いてるのか見つからなかったんですよね。
内容的には僕が言いそうなことなので(笑)、多分一回コメント投稿してやっぱりやめたのを、そう゜さんはRSS取得で、最初のコメントの方に答えているのではないかと推測。(笑)


・・・・ええ、付いて来てますか?(笑)
次からが昨日の話の、直接的な続き。


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コメント
この記事へのコメント
やっと直観と直感の違いが分かった・・・
どうも、お久しぶりでございます。
イブニング本誌で田と門を勘違いして、なんとなく来てみたところ、何か名指しされてる(笑)

タイトルは7/8分のコメント
> ただし結局のところしばしば入り混じって使われますし、こと哲学史上の「直観」に限っても、見る限りかなり意味内容にブレがあるので、言うほど明確な概念ではないと思います。

辺りで要は直観の意味で直感と書いている事もあるわけか、と。

"カンって奴は経験に裏打ちされているものだ"
という"カン"は実は"観"だったのか。

その辺りを頭にいれずに裏側から見ていた"直観"で議論していたような気がします。ま、ずいぶん時間が経っていますし、あくまでそんな「気」が。


> ただし後者は改めてチェックして見たんですが、そう゜さんがどこを引いてるのか見つからなかったんですよね。

http://atlanta.blog24.fc2.com/blog-entry-683.html#comment

辺りみたいですね。
別に、「イブニング&門辺美沙読者」だけじゃないですから。(笑)
2008/07/10(Thu) 02:56 | URL  | そう゜ #Ht/SES6s[ 編集]
おお、そういうことか
いやー、”出典”の提供(?)ありがとうございます。やっと繋がった、というのと、次の展開の叩き台になる内容だというのと。
あんなところにあるとは、気が付かなかった。(笑)

>イブニング本誌で田と門を勘違いして、なんとなく来てみたところ
何のことか分かりませんが、昨日は『メガネリターンズ』で飛んで来た人が何人かいましたね。

>その辺りを頭にいれずに裏側から見ていた"直観"で議論していたような気がします
ただ少なくとも、直観の定義そのもので議論がブレていたことは振り返ってみてなくて、その上での機能や振る舞いの問題に、ちゃんとなっていたと思います。
それは歴史上の哲学者たちの(笑)”ブレ”についても基本的には同じで、「チョッカンはチョッカン」で普遍的に通じるところがあって、ただ問題の形式がその都度違うので、端的な意味が変わって見えるというそういう感じかと。

・・・・そうそう、ついでにこの際だから言っておきますと、
http://atlanta.blog24.fc2.com/blog-entry-677.html#comment
で問題になってる動物と人間の比較の話ですが、あれは僕が悪くて、論旨そのものはあれで意味はあるんですが、用語法としてはそこまでの流れとちょっと位相が変わり過ぎて、混乱するのは無理なかったと思います。
あの中でそのまま意味があるのは、「本能」=「理性」の部分ですかね。これから書くかも知れませんが。(未定)
2008/07/11(Fri) 00:29 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
マシンは相変わらず安定していませんしね
せっかくだから最初から読み直してみようか、とも思いましたが、
・・・何処にそんな時間が・・・
やる事(やりたい事&やらなきゃならない事)が山積みですよ。しかもどんどん積み重なってきているし。
というわけで、今回はポイントに留めておきます。

> 何のことか分かりませんが
まんがバカ幸福論ですね。「いつ電話しても留守電」辺りに(笑)

> 動物と人間の比較の話

前回の話を念頭に、動物云々の話辺りを読んでみると、言いたい事はなんとなく解ったような。
あるものは逃げ、あるものは突っ込んで行く、逃げるにしても別々の方向に進んで行く。
選択の違いはやはり個々の環境などから来る経験の違いだと思います。

>例えばヒトにおける「論理」や「理性」のある部分は、動物における「本能」行動の形式性・プログラム性を起源としているのではないか

ただ、この辺り、よくわからなかったですね。
たとえば、渡り鳥の帰巣本能なんかは、「あっちに行けば巣だからあっちに行く」というよりかは、
「こっちよりもあっちに行くのが良いような気がする」位の意識?のような気がします。
言ってしまえばこれこそ直感ですね。
発情とかもある種本能ですが、やっぱり、体がそれに抗う事の難しい何か、ならば納得も出来ますが、「オレは興奮している。興奮を鎮めるには・・・」とか(笑)はありえんと思うわけですよ。

という事で、どういった経緯でそういった所に至ったか、次回掲載辺りを期待しつつ。


で閉めようかと思いましたが、ついでにもう一つ。
某少年マンガ雑誌の提訴の件、最近知ったんですが、講談社とかはどうでしょうかね。大丈夫かなぁーイブ・・・げふんげふん。
ま、雑誌を見ている限りではアレほどでは無いんでしょうが、としても作家の力量を伸ばす方向にあったかは・・・

まぁ、門辺センセの事は余り心配してないですけどね。あのキャラクターはおとなしくOLとかありえんと思いますし。
ふと気が付くとこんな所で?!って意外なジャンルで作品発表している気がします。
2008/07/13(Sun) 23:46 | URL  | そう゜ #Ht/SES6s[ 編集]
漫画家の地位の(低さの)問題は
ある程度は業態として当然なんですが、”不文律”や”空気”は、問題になった時にそれを追認してしまうと、その後エスカレートして歯止めが利かなくなるのでそれなりの議論の帰着は必要だと思います。それはともかく。

>「動物の本能行動」と「ヒトの理性」

ええ、原理的なことだけ言っておきましょう。
つまりはこれもある程度は、アカデミックなタームの問題(についての誤解)なんですが。

生物学上で「本能」(行動)という時は、(抑え切れない”動物的な”)「衝動」や「欲望」のことではなくて、むしろそれらの「秩序性」や「形式性」のことを言います。
一番分かり易いのは、動物の性は普通、”発情期”という形式に支配されてますよね?それを「発情期には発情を抑えられない」の方ではなく、「性衝動が”発情期”という鋳型に従って発現する」という、むしろ「秩序」性に焦点のある概念なわけですよ。
・・・・だから人によっては、逆に人間(の性)を、『本能の壊れた』ものだと表現するわけです(笑)。のべつまくなし発情。

思考・判断や行動一般で言うならば、それこそ”帰巣本能”などのように、動物は露骨にプログラム化されたor生得の行動様式をヒトより沢山持っています。
そしてその時、その動物はプログラムに従って行動しているだけで、「思考/判断」しているとは言わないわけです(だから『直観』も働いていない)。サインや環境刺激からオートマティックに連鎖するパターンでしかないわけで。

平たく言うと、未知の、未定形な状況にゼロから「見当」をつけるのが、最も基本的な直観の働きですからね。だから確定しているところに、直観の入る余地は無い。
・・・・ここまで分かりますかね。とりあえずは用語法の問題で、本能≒形式というのは前提。単なる”衝動”的なイメージというのは、間違ってるとは言いませんが日常語だということです。

それがどう「理性の起源」かというのは・・・・うーん、ややこしいし他の全体の構図とセットなので、また今度。(笑)
2008/07/14(Mon) 13:54 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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