ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
N・Q・コルベット『聖娼』より(その2)
2008年10月01日 (水) | 編集 |
その1より。


男性とアニマ/女神

男性におけるアニマの発達段階は、現実の女性関係に具体的に反映される。
彼が女性を(中略)なら、それは彼の内なる女性(アニマ)の性質がまだ、男性をすぐにからかったり、嘲笑したりする少女の段階に留まっていることを示している。このような男性は、過度な感傷や場違いな攻撃性が表に現れないように感情を閉ざしている。 (p.85)


俺のことかい?と一瞬思いますが。(笑)
うるさい、でも少なくともネットでなら、「感傷」「攻撃性」を、それなりに的確に表現できるようになった、必ずしも感情を閉ざさなくてもすむようになったぞと届かない反論。(笑)

愛の女神の力と強さに崇敬の念を抱いたとき、男性の中に成熟したアニマが現れてくる。(中略)
女神を無視すると、不毛ですり減った人生を迎える結果となる。(中略)
しかし女性の本質が、弄ぶべきおもちゃとしてではなく、取り込むべきエネルギーとして評価されるならば、心的生活が開花し、実り多い新しい展望が開けて来る。 (p.85.86)


「取り込むべきエネルギー」という視点が明確にあるということは、所長さんエントリーをいつも読んでいる人は同意してくれるのではないかと思います。生命力への敬意というか。・・・・でも一方で、”弄ぶべきおもちゃ”という視点もまた、明確に存在していますが。(笑)

ていうかですね、「おもちゃ」も「エネルギー」も、ある種利用対象として特殊化して見ているという意味では同じで、後者でも十分に差別だよなということの方を、うっすらいつも気にしてはいるんですけどね。しかしまあ、主体(たる自分)にとって他者が客体化・対象化されるのは宿命的なものなので、仕方ないということでOKなのかなとも。


人なる神

聖娼は(中略)元型的イメージとみなされるかもしれない。しかし同時に、彼女は生きた人間でもあるのだ。愛の女神と聖娼は(エロスという)ひとつの原理に属している。そしてその原理自体は、人間的でもあり神的でもある。
この考え方は、父と子という二重性を持ちながらなおかつひとつ、というキリスト教の信仰と似ている。息子としてのキリストは、人間により近い側面である。 (p.87)


ちょいマニアック。キリストと”交わる”ことによって、父=神の原理に触れる。その為の二重性。

それ(女神)は元型的なものなので、完全に意識に統合することは決してできない。
私たちは神々の領域に入ることはできないし、また神々の力に同一化することもできない。もしそうすれば、狂気に陥るか、圧倒的な自我肥大を起こしてしまうかのいずれかであろう。 (p.87)


どこが琴線に触れたのかを説明するのが難しいのですが。
とりあえず、観念と同一化して個人性を失うことのないようにという、一般的な警告の話としてでも。
”Jの理念”程度では狂気には至らないでしょうが、「自我肥大」を起こしている輩は、ちょいちょい見かける気がします。常に「人間」の、「個人」のレベルに引き下ろす努力を。誰も”自分”を何かに代行させることは出来ないのです、ということで。


恋と投影

少女ならどの年齢でも常に自分の創造的な能力を男性に投影し、恋人の目に映し出されたものだけを自らの姿として見てしまう。
彼女は英雄と恋に陥る。その英雄とは、彼女の無意識的な可能性を具現化したものである。 (p.92)


恋に陥るのは常に投影の結果である。それは、相手への尊敬とか評価といった成熟した感情などではなく、その人が自分自身の一面を愛してしまったということである。 (p.92)


さほど珍しい論旨ではないですが、分かり易く整理されているので。
それにしても、要は「未熟な段階の女性(性)」という意味のテクニカルタームだということは分かるんですが、なんかこの人”少女”に当たりがきつい気がします(笑)。そんな言い方せんでも。俺の少女をいじめるな!(笑)


アニムスと男性性

上の「英雄」や男性的で創造的な無意識の可能性を女性の中で担っているものとして、アニムス=内なる男性像という概念があるわけですが・・・・

(古代の聖娼同様)現代の女性も、アニムスを統合することで人生に立ち向かっていくための準備が整う。
(中略)
彼女はもはや、男性と競う必要も、男性性を取り入れる必要もない。すなわち、アニムスと同一化する必要がないのだ。自分の中に男性的な力が存在しているのを知るようになった女性は、自分に対して毅然とし、女性の本質を守り通すようになる。 (p.101)


前回『処女』の項、および上の『人なる神』の項参照。
なるほど、こういう論法があるか。内部的に十分に男性性を取り込んでいるから、外部的に男性化する必要が無いという。という前提で、”女性の本質”という何かと語弊も多い概念を、ユング派はあえて使うわけですね。
「統合」と「同一化」の違いにも注意。統合出来ていないから同一化する。

すると表面的に男性化している女性は、アニムスやその投影である外なる男性像と同一化することによって、男性的な方向への、これも一種の”自我肥大”状態にあるということになるか。・・・・やっぱ危険な言い方だ。(笑)


妻と母

ユング
現在の文化レベルにおいて、男性の圧倒的多数は、女性のもつ母親的意味を乗り越えるほどには進歩していない。そしてこれが、アニマが娼婦という幼稚で、原始的な段階以上には滅多に発展しない理由である。 (p.125)


” 娼婦”という言い方がこの本のテーマとハレーションして分かり難くなってますが、ここでユング御大が言っている”娼婦”は、今回冒頭で著者が”少女”という言葉で表しているのとほぼ同じ、いたずらや挑発に特化した、原始的なアニマ像のことと理解すれぱ問題ないと思います。
この箇所の面白いところは、言うところの「現在」が、生没年1875~1961のユングの「現在」だということです。別に21世紀の日本人男性のことではない(笑)。”パピルスに記された「最近の若いもんは」”的な話ではありますけど。

西洋における離婚率の上昇は、母である妻の支配から逃れるために、男性がとる手段を反映している。
女性の情熱的でダイナミックな側面が、静的で母親的な安心へと変質していつたときに感じる男性の欲求不満やストレスを緩和するには、現代の社会規範においては離婚か不倫以外に方法がない。  (p.125,126)


あるべき他の「方法」が、現代なりの、聖娼との交わり、ということですかね。


男性の”男性化”

自我が女性の空想的な特徴に脅威を感じると、そこに強力な防衛が張りめぐらされ、男性的なペルソナ役割への過剰な同一化が起こってくる。(中略)
しばしば男性は、本当の自分とペルソナの区別がつかなくなり、仮面だけの人間になっていく。 (p.130)


いますねえ、こういうおじさん。沢山。(笑)
何時間話してもほとんど一言も心に残らない。だって心が無いんだもん、ハナから。
更に特徴的なのは、こちらの問いに対する答えがずれまくることで、それは要は「ペルソナ」でしかないから、マニュアル化されていないもの、『よくある質問』に載っていないものには(笑)上手く答えられないんですね。

ちなみに上で”自我肥大”と解釈してみた男性化した女性問題も、こちらの「男性的なペルソナ役割への同一化」の方に理解してみた方が、分かり易いかも知れませんね。


成熟と愛

心理的に未熟な女性(乙女)と心理的に成熟した女性(年齢にかかわりなく)との違いは、前者は愛が彼女に仕えるように仕向けるのに対し、後者は愛すなわち女神に仕えようとするところである。 (p.163)


思いっきり恥ずかしいことを言うと(笑)、結局愛は所有出来ないんですよ。「誰かの」愛なんてものは存在しなくて、「誰かを通した」愛があるだけ。通り道、回路が形成されれば、勝手に流れ出して汲み尽くされることはない。
・・・・ああ、恥ずかしい。(笑)
自分の愛ですら、本当は「自分の」ものではない。場所を提供しているだけ。

それにしても「少女」だ「処女」だ、更には「乙女」だと、いい加減にしろというところもありますが。(笑)
まあ楽しいんですけどね、こういう日常語を再定義して新しい視野を開くという作業は。僕もよくやります。(笑)


こんなところですかね。なお、「感想」は実はこれから。(笑)


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