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アメリカ人のリアリティ ~『バトルスターギャラクティカ』
2008年11月08日 (土) | 編集 |
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グレン夜話は寝過ごして見逃したので、アニメの話は終わり。
ついでにその前のBS2の2本とのだめも見逃した~。川澄さんの声が聞きたい~。・・・・その後の『クラナドアフターストーリー』”神”エピソードの後編は見逃さずにすんだので、ギリギリセーフですが。お涙頂戴に潔く献上してしまった。あれは、勝てない。

一転して(かな?)、米国産のSFドラマの話。しかもややマイナー。
『宇宙空母ギャラクティカ』という、70年代の人気シリーズの’03年製作の現代版。”続編”ではなくてオリジナル・ストーリーの基本焼き直しで(『新宇宙空母ギャラクティカ』という続編は別にある)、何でわざわざそんなことするのかと一瞬思いますが、実際に見るとそんなことは言わせない、ハードで現代的な出来上がりで、唸らされます。
ある意味ストーリーよりも演出が主役みたいなところがあって、一応オリジナルも少し見てみましたがもう別ものというか、先に”焼き直し”版(笑)のかっこ良さを味わってしまうと今更見られない感じ。


具体的にどういう作品、どういう演出なのかというと・・・・一言で言うと、暗いです(笑)。ダークとかおどろおどろしいとかではなくて、余りにリアルで、余りにハードで、緊張感があり過ぎて。面白いんだけど、苦しい。(笑)
元々宇宙戦争に敗戦後の、人類生存の望みを懸けた逃避行という暗めのストーリーなんですが、暗さの本質はやはり演出面にあって、状況的な苦しさではなくて、主に人類内の人間関係や政治的駆け引きや、要は群像劇的な圧迫感がメイン。最近の(もっと)有名な作品と比較するとすれば、『LOST』シリーズ

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の感じが一番近いか。
物理的にも照明自体が暗めで陰影もかなり濃いので、乱視気味の僕には字幕を読み取るのがひと苦労。(笑)
ただしそういう照明的特徴は、「表現主義」的とかそういう象徴的な表れではなくて、あくまでリアル、ほとんどドキュメンタリータッチに近いようなそういう印象で統一されています。

なんか全然見たくならないと思いますけど(笑)、あえて見たい人にしか薦めません。本当に暗いし救いが少ないし、ギスギスして嫌な感じです。それが味なんですけど。そうねえ、『イデオン』ぽいと言えばイデオンぽいかな。ガンダムなら一応みんなに薦められても、イデオンは・・・・というそういう感じです。製作者もそういうつもりで、腹括って作っているでしょう。スタートレックの人(の一人)らしいですけど。


現在本国では最終らしい第4シーズンが準備中で(wiki)、僕はスーパードラマTVの第2シリーズを見ている最中で先はまだまだなんですが。僕がこの作品の特に何についてわざわざ書きたいかというと・・・・。リアルさです。
え?また?もう聞いたよと思うでしょうが(笑)、正確にはその”リアル”さの置かれている位置についてです。

僕は基本調べ物が嫌いな人なので(笑)、この作品についてもオリジナル・ストーリーとかは知らずに虚心にワクワクしながら見ているわけですが。特に第2シリーズになってから、たまに違和感を感じるようになって来たんですよね。
逃避行中の船団内の「民主主義」のありようや「マスコミ対応」までクソ丁寧に描くリアルリアルなタッチの中で、敗戦前の人類の居留地が、”12星座”にそれぞれ擬された12のコロニー連合なのはまあいいですよ。成立そのものが(未来の)その時点から1000年以上前という設定のようですし。昔の人はロマンチックだったということで。(笑)

で、その残存艦隊が生存の鍵/安住の地を求めて、失われた”伝説”の地球を求めるのも、それがコロニー間に伝わる”聖典”内の伝承、言わば約束の地であるのもまあいいです。
神はともかく「宗教」そのものは、一つの立派な『現実』であるし、キリストであれイスラムであれ、人類文明が(現代の延長で)このテの一神教の主導の元に発展したのなら、未来においてもこうした誇大妄想的な発想が、現実の力として出て来ても全然不思議ではないと思います。

ただその地球を探す鍵が「アポロンの矢」で、しかもそれが象徴的な何かではなくてそのまんま(笑)ギリシャ的彫像が手に持っていた金属製の”矢”で、それを別の像(具体的にはさるところにある”射手”座の像の弓の部分)にはめこむとそこから光が放射されてなんやらかんやら・・・・、とにかくそれで地球へ至る光のマップが示されて、一同その”プラネタリウム”にうっとりという場面に至って、ちょっと待て、それはいくら何でも演出と合わんだろう、お前までどうしたスターバック(登場する女パイロット)、そこは照れてくれ頼む!と、ちょっとずっこけてしまいました。(笑)


これはどういうことなのか、ということですけどね。こんなむしろ”ファンタジー”映画に相応しいような、アニメの方が自然なような、下手するとドラクエのテーマが流れて来ても不思議じゃないような(笑)展開を、極め付けのハードでリアルな演出のまま、力技でやってしまう作品(の存在)をどう考えるべきか。(しかも評判は高い)
可能性としては1.力技だと思っていない(何も考えていない)2.”リアル”演出自体の必然性・衝動が強い。の二つだと思いますが、答えとしては”2”を基本として、その結果としてのプラスするところ”1”要素、という感じかと。

・・・・で、ここからの論述は非常に分かり難いと思いますが、書くだけ書くので聞くだけ聞いて下さい。(笑)
一言で言うと、アメリカ人は”リアル”なものが好きなんですよね。と、言うよりも、”リアリティ”がほぼ一層しかなくて、出来得る限りそのラインを実現するよう動いて行く。時代的制約や技術的予算的限界はあれど、目標としては出来る限り。それはそうしようと意識しているというよりも、アメリカ人として当たり前の目標なわけですね。

戯画的に言えば、「ゴリゴリの科学主義者」みたいな感じです。曖昧なもの、現時点で科学で説明出来ないものを、ポリシーというより本気で認めない/認められない。この場合で言えば、「科学」という”一層のリアリティ”に、本当に住んでいる。
あるいは”訴訟社会”アメリカの、(法)論理への馬鹿正直な信頼や追随みたいなもの、それへの日本人の違和感やついていけなさみたいな、そういうコントラスト。これで少し分かりますかね。これらを論理ではなくて感覚的な次元として言っているのが、アメリカ人のリアリズム至上、”リアリティがほぼ一層”しかないということ。

勿論アメリカにもファンタジーや幻想はありますが、それらはあくまで「裏」、強固な表の”リアル”の反対/補完物として存在している。多重ではなくて二重ですね。ジキルに対するハイド。だから’60年代のように、幻覚剤系ドラッグという”別の”リアルを提示するものがあると、一気に極端に走って”ブーム”になったりもするんでしょう。一層一層の重みが違う。何となく混じったりはしない。アメリカのドラマで弁護士やビジネスエリートや、強固な『現実』を生きている人がやたらコカイン等をやるのも、はたまた精神分析に通うのも・・・・とここまで行ってしまうと広げ過ぎが。
ファンタジーやコミック/アニメーションが、それなりに栄えつつ「子供向け」や「純娯楽」ときっちり囲い込みされるのも、と、こっちは結構本題。

どうしてこんなことを考えるのかというのにはいくつか伏線があって、
 (1)特に『24』以降の”映画的”米ドラの隆盛とその評価
 (2)アメリカのコミックの絵の”リアル””細密”志向
 (3)アメリカにおける近年の”CG”の発達と利用の方向
というような関心。

(1)は具体的には『24』『LOST』『プリズン・ブレイク』『ヒーローズ』という、大予算の映画的製作体制の、映画的リアリズム演出の作品がそれぞれに(日本の一般客にも知られるくらいに)大ヒットしたこと、そしてそれをアメリカのTVドラマ業界周辺の人たちが、「映画に近付いた」というような形で歓迎しているらしいこと。
・・・・これは僕のような筋金入りの熱狂的なアメドラファンからすると、非常に嘆かわしいことでね(笑)。つまり僕はアメリカ映画/ハリウッドと聞くと、まずダサいと連想してしまう人ですが(笑)、一方で同じアメリカのTVドラマについては、ほぼジャンルごと信頼しているというか、関わっている人たちを心から尊敬しているというか、作品見て日々驚嘆しているというか。僕が地上の王となった暁に、もしアメリカ合衆国を滅ぼさないとしたらほぼ理由はそれだけです(笑)。つまり、映画に”近付”く必要なんかないというか、それむしろ堕落だろうというか。

そもそもアメリカのTVドラマ自体、別に”リアル”でないと思うことはないわけですけど、それでもまあ言ってみれば「テレビ紙芝居」という伝統的な箱庭性、コンパクト性は根本の部分でやはり映画との違いとして少なくともアメリカ人には感じられていて、それを僕は(現代のアメリカ映画に欠けている)”粋”であり、良心としての職人性であり、ジャンルとしての優秀性を支えているものと感じるけれど、そうでない人にはリアルさの不足、映画からの格落ちと、不満として感じられるとそういうことなんでしょうね。

多分この説明ではよく分からない人が多いと思いますが気にせずさっさと(2)に行くと(笑)、特に最近漫画批評の本を立て続けに読んで、アメリカのコミック読者はデフォルトで絵/画力を重視する、それも基本、デッサンや構図の正確さや描き込みの細かさと言った、写実的でストレートな意味での”上手さ”であるという話をあちこちで聞きました。”象徴”や”記号”ではなくてね。
それはあえての価値判断というよりはそれが”当たり前”であるとして暮らしている/来たので、そういう人が日本の漫画を見ると、まず何よりも戸惑うんですね。象徴的な絵画表現に戸惑うというのと、この程度の絵でなぜ商品として成り立っているのか戸惑うというのと(笑)。描き込み不足に不満を抱くというのは勿論。金返せと。

これは逆に、なぜ写実的細密的な絵にこだわる/それ自体に価値があるとみなす漫画家やファンが一定数いるのかという、僕の日本での日々の素朴な疑問への一つの回答でもあるかも知れません。
それは、単に、いるわけです。アメリカにいるように、日本にもいる。そういう価値観、美意識、そういう”リアリティ”の抱き方をしている人は。それこそ「劇画」ブームというのが実際にあったように。総体として、”主流”ではないとは思いますが。特に少女漫画/女性作家の”線”的な絵に、男性読者が慣れてからは決定的に。分かりゃあいいわけです、絵なんて。絵は「見る」ものというより「読む」ものというか。その中に、また美も効果もありますが。とにかく「写実」的である必要というのは、現状ほとんどない。いいからさっさと、原稿上げろ。(笑)

更にさくさくと(3)に行くと、ある時期以降のアメリカのCG技術の発達と、その広範な利用やそれに基づくゴージャスフルCGアニメの隆盛は、何か”堰を切った”という印象を僕は受けます。せき止められていたものが、必要な技術を手に入れて一気に動き出したというか。
対して日本の方は、勿論それなりに時々の技術を取り入れつつも、それとはまた別にコンテンツ業界そのものは発展した。技術がショボくてもショボいなりに、アニメも、特撮も、独自の内部的創作的欲望によってたゆむことなく進み、技術はそれを支える一つの条件でしかない。だからCG技術がクリティカルに進歩しても、例えばアニメならば、むしろそれをいかにセンスよく既存の(セル画的な)フォーマットに取り入れるか、溶け込ませるか、そっちの方に神経を使っているということは何回か書きましたね。(*)

ところがアメリカの場合は違う。美的センス的にどうというよりもまず、いかにリアルか、現実に近似的であるかそういう映像を実現するか、そっちに技術は引っ張られる。というよりも、一定以上の近似性を実現する技術レベルが手に入って初めて、大々的に(広義の)アニメーションの出番なんてものも生まれた。特有の美なんてほぼ求められていない。・・・・よく知りませんがゲームも多分そうですね。流行るのは専ら代替現実的なタイプのゲーム。シューティング系を筆頭に。


すっげえ強引ですけど、つまりアメリカ人には一つの”リアル”というレベルが当たり前のものとしてあって、後はいかにそれに忠実か、近づけるか、そういう方向性だけが基準となっている。
映像表現、SF映画/ドラマという次元で言えば、それが通常はアクションや超常現象的シーンでの(CG)表現のクオリティ、現実らしさをシビアに問うという形で表れていたのが、『バトルスター・ギャラクティカ』という、同種のものの中でも出色の”リアリティ”追求の姿勢を、作品全体として強く持っている作品においては、ついに「不思議」なシーンの不思議さ、独立した(非)リアリティをある種無視する、日常性の中に遮二無二吸収する、言い換えればリアリティの複層性や混在を否定するという形で表れていると、そう僕は感じました。ここまでやるかと。

ほぼ成立しているように思いましたが。多少の違和感はあっても、滑稽にも、木に竹を接いだようにもなってはいない。ただ感じるのは、そうか、そこまでリアリティを統一したいかという、衝動の強さ。”この”現実以外、いっさい要らない。ファンタジーは嫌いさ、だって”不思議”だから
対して日本人は、多義性や揺らぎや曖昧さや、”態”(てい)や”みなし”と親しみながら、その都度約束事的にリアリティを構成する行為を当たり前のようにしている。特に自覚無く。まあこの言い方も、決め付けっちゃ決め付けなんですが。ただ少なくともここまでのコンテンツ産業の実態を見ると、比較の問題としてはそう感じざるを得ない。

どちらが世界的に特殊なのか。割りと微妙な感じもしますけど。資質として特殊なのは、多分日本人の方だと思います。だからここまで、こういう形の漫画やアニメが発展出来た。ヨーロッパのコミックなんかも、”絵”という意味ではアメリカの方に近いみたいですしね。
ただアメリカ人のリアリティの単層性、そこから来るだろう悪名高い「正義」狂いや独善は、原理としては”キリスト教文明”的な括り方は可能でしょうが、程度としてはかなり突出したものだろうと思います。普通、あそこまで真に受けない、こだわらない。


・・・・ええ、まあ、つまり、「演出」というのは”リアリティ”のあり方を決定する、コントロールする作業なわけです。まず第一に。どういう”態”で行くのかという。それが究極的には、一つしか無いんですね、アメリカには。いわゆる「現実」という。そういう話。

もし『バトルスター~』を見ようという奇特な人がいたら、女パイロット”スターバック”の定型を遙かに越えたやんちゃさの可愛さ、性欲の開けっぴろげさ(笑)も含めたそれを、味わって欲しいなと。見事な演出見事な演技です。
どうもいつにも増して取り止めのない話で、失礼しました。


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