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ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで」メモ
2009年01月06日 (火) | 編集 |
番組公式

メモってどうなるものでもないような気はしますが、いずれ自分が書くつもりでいることに使えそうな気もするので。
 >吉本隆明Wiki
 >番組の元になった講演会そのもののレポ(「しーなねこの記録」)

大きなテーマ、キーコンセプトは、吉本さんが主著の一つ『言語にとって美とはなにか』

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で提示した、「自己表出」「指示表出」という、言語の二重性・二面性。

「自己表出」とは
 ・現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に「幻想」の可能性
  として想定できるにいたったもの ・・・・たまって、出たもの。(僕解説)
 ・対象にたいする意識の自動的水準の表出(以上「しみんとくらし」より)
 ・言葉の〈表現〉としての作用を概念化したもの(石村実氏
「指示表出」とは
 ・対象にたいする指示(「しみんとくらし」)
 ・言葉が〈意味〉をなして何かを指す(表す)作用を概念化したもの(石村実氏)
 ・説明的、対他人の日常的言語(僕)

なかなかずばりという解説が無くて、比較的ネットで分かり易いところを探してみたらここらへん。
要は”表現”と”説明”、”独り言”と”伝達”、”個人”と”対他者”くらいの把握でいいかと。
注意すべきはこの論・分類が、通常言語は後者の説明的伝達的機能から考えられているが、それは二次的なもので、出発点としては、根底的には前者があるという、そういう文脈で提示されたものだということです。
だからあまり、説明を読んで理解しようとしないで下さい(笑)。自己表出という概念に、少なくとも心当たりのある人にとってしか、意味の無い、理解しようのない話です。自分の胸に、訊いてみな。(笑)

以下具体的に講演内容から、関連して面白かった、興味を持ったところ。


文学/芸術と言語(自己表出)

・文学/芸術は本来自己表出的なもの。
・説明(指示表出)による理解ではなくて、送り手の自己表出(的水準)と受け手の自己表出(的水準)の、出会い
・俳句・短歌等、”簡素化”志向の日本文学は特にそうだが、一方で西洋にはバルザックやドストエフスキーのように、「展開」や「起伏」に富んだ、つまり指示表出の面でも充実した、それでいてしっかりと自己表出を成功させている文学が多く見られる。
・日本でこれを成功させているのは横光利一くらいか。(という論をかつて私は述べた)
・簡略化すれば”純文学”が自己表出、”大衆文学”が指示表出。
・....ではあるのだが。
・上で述べたような長大な展開部、指示表出を用いて読者を引っ張るタイプの文学であっても、目的は結局、そもそもの自己表出の部分に読者を導くこと、そこで読者と出会うこと。
・なのであり、”横光利一”以降の現代の大衆文学について、吉本さんがどういう評価をしているのか知りたいな。
・というのは僕が普段大衆文学を評価する上で、エンターテイメントな仕掛けは仕掛けとして、でも結局何よりもまず「自己表出」であるかどうか、絶対的な主観性の爆発・凝縮があるかどうかというのを最終的な基準にしているからですけどね。例えば類似ジャンルで比較すれば、島田荘司は”表現”だと思うけど、京極夏彦は”説明”のレベルにとどまっていると感じる。
・アニメも同じですね(笑)。例えば『ソウルイーター』は指示表出的には凡庸なところが多いけど、自己表出的な瞬発力には魅了される。....概ねストーリーよりキャラ、みたいな傾向にはどうしてもなります。
・本来純度の高い”表現”そのものである音楽を、”説明”に従属させる「メッセージソング」は糞だという話でもあります。何が和製R&Bだ馬鹿。ちなみに吉本さんは、清志郎/RC好きで有名でしたね。(笑)


他人の思考(という指示表出)

・こういう、言わば言語・思考活動の個人性の価値を主張するところに特徴のある吉本さんですが。
・しかし戦前/戦中は天皇教に心酔する学生で、それが破れた戦後の再出発においても、世界理解の方法として、まず(アダム・スミスからマルクスに至る)「古典経済学」という、具体的な思想体系、つまりは”他人の指示表出”に積極的に範を求めている。
・ここらへんがほぼ我流一本、哲学者だろうと宗教家だろうと、女だろうと(笑)、誰か他人に心酔したり同一化したり、範を求めたりという習慣の一切無い僕には、不思議と言えば不思議なところ。結論は似てるのに。
・別にしないようにしてるんじゃなくて、出来ないんですけどね、やろうとしても。滾々と湧き出る自分の自己表出が、他人の自己表出とその結果である指示表出を、受け入れる隙を与えないというか。
・ただし天皇教自体については、最近は凄く、理解出来るような気がして来ています。
・あれはつまり、どんなに時の政府や軍部に歪められていたとしても、結局のところ古来の普遍的な、「自然(神)崇拝」の元締めであり生きた集大成であり、本来的には非個人的なものなんですよね。そうした力、そうした言わば”チャンネル”としての利用価値・生命力は、ほぼ常に変わらず持っている。
・....と、いうことを、「猫」という”チャンネル”を通じて日々自然(神)崇拝の真髄が実感出来てきつつある最近の僕は、理解出来るような気がする。昭和天皇は、やっぱり好きだし。自然神は、最高です(笑)。幸福そのものです。
・話戻してだから吉本さんが、そういう他人の思考と取り組む時、指示表出を通じて自己表出に至るという経緯を実際に踏んでいるのか、それとも自己表出の強固性を前提として、仮に/方法的に、ある指示表出に身を委ねているのか、そこらへんの内面がどうなっているのかなあというのが。
・僕も多くの思想家や哲学者、宗教家を尊敬していますし参考にしていますが、最初から対等、一対一なんですよね。彼の自己表出と僕の自己表出、それが出会うか出会わないか。言い換えれば「心当たり」があるかどうか。教わろうとか、誰かが答えを知っているなどということは、ハナから一切想定しない。心がけてるのではなくて、出来ないんですよ、体質的に。繰り返しますが。
・まあプラトンも、アウグスティヌスも、それぞれに「理解」とは要するに「心当たり」のことだ、とは言ってますけど。頑張って”教え”ても、無から有は生まれない。誠心誠意説明しても、分かる準備の出来てない人には通じない。吉本さんの芸術観自体も、最終的にはそこを指し示しているわけで。
・これはまた、僕が論理ではなく比喩を重視した記述スタイルを好む影の理由でもありますが。(笑)
・説明するのではなく、読者の中の「心当たり」を目覚めさせるのが目的。
・対他人的には、多分もう少し僕は”勉強”もした方がいいんでしょうけど、なんか結局、回り道のような。ちゃんとやってれば、いずれ同じところに出るさと。やあ、また会いましたねえ、吉本さん。過程での指示表出的齟齬にこだわるのは、効率が悪い。

言語表現の拡散と集中

講演会後の、糸井重里氏との話談より。

・現代の言語表現は、日々豊かになっている。
・技法的にもニュアンス的にも、かつては考えられなかったくらい、現代の日常言語は充実しているし、表現の媒体・機会も多様化している。
・しかしそうしたものが限定されていた古代や古典文学の時代には、逆にその分、恐ろしく集中した、凝縮された言語表現が、文学として表現されていた。
・それは今読んでも、正直現代人の到底太刀打ち出来るものではないと思う。(と吉本さん)
・日常言語を越えた洒落たことを言う為にいちいち「歌」が必要ならば、そりゃ上手くもなるさという。
・『へうげもの』の”わび”に込められた気迫を見よというか(笑)。媒体の限定の持つ力。
・それはまた同時に、古代から現代にかけて、別に人間は「進歩」なんてしない、同じようなことの表現ルートが変わってるだけだという、そういうことでもありますが。
・....以上のことは、基本的に僕も同意。
・例えば聞いた事例ですが、(『幻魔』『ウルフガイ』の)平井和正が、かなり早くからネットに目を付けて積極的に関わりながら、結局は”小説”を書く上で妨げになると、ネットでの文章表現を控えることにしたという、こんなのも似たような認識なのかなと思いますが。文章が、痩せる、というね。
・僕なんかもそもそもネット/ブログがなければこうして文章を公開すること自体無かったと思いますが、こういうお手軽な手段があることによって(笑)、ある意味では書き手としての真の成熟を妨げられているんだろうとなというのは、実感しなくはないです。繰り返しますが別に文筆家になろうと、思ったことは無いですけど。
・話戻して吉本さんの言うことは、たまに古いものを読むと実際感じることで、古典の力は何よりも凝縮と研磨と、書かれる動機の急迫性の力。結果としての希少価値、歴史的価値と共に。
・それに比べると新しいものは、どんなによく出来ていても何か枝葉というか余裕があるというか、結局のところ古いものを読めば十分か、または少なくとも古い方から順に読んで新しいのを読まないと意味が無いというか、そんな気にはなります。
・ただそうそうそんなことはやってられないので(笑)、そこで救いとなるのが再び言語の、作品の、「自己表出」性の重視、「指示表出」性の(ある意味での)軽視ということ。
・つまり、「書かれた説明」、否応なく時空間的制約・意味付けの支配下にあるそれを重視しない、読むわけでなはない、要はそれを通してより無時間的無空間的な、個人的心理的言語である「自己表出」を読むのであれば、そして人類が本質的には別に進歩しないのであれば(笑)、どれを読んでもおんなじだと、極論すればそうなわけです。どの道を通ってもローマには行ける。
・これは新しい/古いだけではなく、生きていてたまたま入って来る何かから、何を学ぶか、ということでもあります。....はっきり言いますけど、読んだから分かるというものですらないんですよね(笑)。そんなのは”契機”の一つでしかない。自分自身の準備状態の方が、遙かに大事。ただ考えたって分からんよ。漸悟より頓悟。(*)
・震わされる「心当たり」を自分の中に作って行けば、いずれ何かの機会に誰かの言葉が刺激してくれます。


言葉にしないと人目に触れる可能性は無いんですけど、だからと言って他人に「向けて」言葉を紡ぐというのとも、ちょっと違うんですよね。最初に戻りますが。
全身全霊をかけて一人ごつ。それが誰かの何かに響く。その繰り返し。
主に論理と概念で構成される「指示表出」のネットワーク、その陰に存在する、それぞれ孤立しながら尚かつ繋がっている、「自己表出」の”出会い”のネットワークみたいな、そんなイメージが。

と、いうような把握も元にしたネット論を、書こう書こうと思っているんですが、なかなか腰が、上がりません。(笑)


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