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W杯予選ホーム豪州戦
2009年02月12日 (木) | 編集 |
頑張ったけどね。

南アフリカW杯アジア最終予選  日本代表 △0-0△ オーストラリア代表(横浜国際)

頑張っただけというか。頑張りに依存しているというか。
問題は”精度”、ではないと思いますけど。


まずこの試合の基本的な構えですが、事前のコメントなども併せると、普通に勝ちに行った、むしろ蹂躙しに行くくらいの意気込みだったと、そう僕は素直に考えてるんですが違うのかな。
違うとすればそれは選手交代の遅さで、駒としては別に1番手大久保2番手岡崎で別にいいし、現状それくらいしかないんでしょうが、そこから更に”最後の手段”、3番手巻まで行く勢いが感じられなかったというか、タイムスケジュール的にそういう感じじゃなかった(二番手岡崎が83分)というのが、引き分けで良しという考えの比重も高かったという可能性の、一つの根拠にはなりますか。その場合トゥーリオが最後上がってたのは、勝手な判断だという話になりますけど。(笑)

しかしサブに憲剛入ってないんですねえ、ふーん。橋本と今野、2人も要るか?
岡崎の使い方にもピンポイントの意図が感じられなかったし、なんか今年に入ってからのテストマッチ(ただし一部公式戦(笑))の”成果”は、無かったことになってる感じでどうも釈然としませんけど。
憲剛も巻も、行ってみれば「岡田の選手」ではないわけで、メインに考えないのは別に当たり前なんですけど、逆に「岡田」に無い分かり易さ/一般性もあるわけで、いざという時の割り切り用に、限定的ながらしっかりした地位を、もう与えてもいいと思うんですよね。実績は残して来てるわけですし、軽視の中でも。

まああのう、話戻して、「引き分けで良し」という意味での”慎重”姿勢は無かったとしても、”晴れのオーストラリア戦”で、「基本」にこだわる、最もオーソドックスな「岡田サッカー」をぶつける、小細工はしない、非常手段は使わない、そういう意味での”保守”的な姿勢、それはあったかも知れないなあと、少し思いますね。
「特別なことはしない」って、そういう意味か。高さ対策とか、リスクを控えるとか、そういうことをわざわざはしないという意味かと思ってた。

正々堂々と言えばそうなんだけど、ちょっと自己満足的な感じもあります。スタメンも(現在の)「頭の中の理想」がそのまんま出て来たような、予定調和的なもので、岡崎くらい残すかなと、僕は思ってたんですが。
岡崎なら勝ったとか達也が駄目ということではないんですけど、例えば岡崎が一人生き残ることで、「今、このメンバー」というリアリティは、ぐっと増したと思うんですよね。これでは本当にジーコの”黄金の中盤”で、始まる前に既に少し疲労感があるというか、後はいつものメンバーに”頑張って”もらうしかないという、おつりの無い感じになるというか。

まあよく考えたら岡崎は最近トップ下で使われてないので、最初から達也しか考えてないと言えばそうなのかも知れません。”いつものメンバー”、特に松井と長谷部の対角線は、今までにも増して”頑張った”ようにも思いますし。結果としてはね。


試合内容としては、まずプレスは効かなかった。いや、今時ある程度以上の相手に、ファーストプレスで取り切れると考える方がどうかしてるので、”取れない”というより、”脅威を与え切れなかった”、”辟易させるところまで行かなかった”という感じでしょうか。これはまず困りますね、今後更にレベルの上がるはずの相手を考えると。
ただ一方で、岡田スタイルのもう一つのキーワード、「動き直し」の方、これは結構効果があったというか、”保険”として効いていたと思います。これは馬鹿に出来ない功績だと僕は思いますけどね。あえてこれ単独で意識付けして見せたのは、知る限り岡田監督が初めてのように思います。

とはいえ最初から”保険”頼みでは困るので、もう少しファーストプレスに迫力というか、相手をいったんは窒息の危機に追い込むような、分厚さが欲しい。あそことやるとあれがあるからやだなあと、思わせる程度には。
何が足りないのか。ここは結構、”精度”なんじゃないかという気もします。初手の時点で少し個々の走力に頼り過ぎているのではないかと。後は・・・・体格かな、意外と(笑)。一人でも重量感のある選手がいると、追われる方はかなり生理的に嫌だと思うんですけど。みんな蚊とんぼと分かり切ってるとどうもね。ヒディンクの韓国の有効性の少なくとも一部は、韓国人選手の潜在的には国際的に通用するものであった、ゴツさ、パワーにあったと思います。走ってるだけと、馬鹿にしてもいられない。

そういう選手を一人くらい入れるか、それが求められないならせめてもっと緻密に、整然と”淡々と”、追われる方がじわじわ締め上げられるような厭らしさ・効率性を身に付けるか。「今日も頑張っとるのう」と見透かされるのではなく。
実際ほんと頑張ってはいて、時間が経つにつれて不自然なくらいに(笑)変わらない日本代表のテンションと運動量に、オーストラリアの選手はそれなりには調子を狂わされてはいたようには見えましたが。ただなんかそれも、誤差の範囲というか、せめて相手が英連邦の本国とかなら、その程度の反応でも満足出来なくはないんですが、南半球の末端の方なら、もう少し本気で慌てさせたい。

例えばアルゼンチン代表のプレスとか、ほんとクールで怖いですよね。いつの間にか、という感じで目の前に迫っている。なんなんでしょうねああいうの。それに対して日本代表のは、一生懸命走ってる”過程”が見えてしまうというか。
あるいはそこまで行かなくても、この前の、岡田監督いわく”完敗”のウルグアイ代表でも。あれくらいは、訓練次第で出来るんじゃないかと思うんですけど。


そしてもう一つの問題は、プレスorボール奪取から、攻撃への流れ、連動性。ここについては、CWCのガンバに比べても、少し見劣りがしたと思います。ガンバのプレスもガンバのボール回しも、それぞれ単独ではそれほど特別な工夫があったとは僕は思いませんが、二つの連動性はスムーズというか成熟感があって、併せてそれなりの威力があった。対して岡田ジャパンのは、それがブツブツ切れるというか、次どっちに飛んでくのか、悪い意味で予想が付かないところがあった。

その部分でストレスがあった、無駄に消耗していたから、ある意味では”やらせて”くれていたオーストラリア相手に、得意の横から横から回り込むボール回しを、岡田監督の意気込みほどには、ベストの形では見せられなかった。

これについてはまず上の話と併せてやっぱりプレスの問題、プレスで十分に押し込めていないから、その後のポゼッションも安定せず、余裕を持って後ろの選手が回り込めなかった、人数をかけてパス回しが出来なかったと、そういう面があると思います。結局岡田ジャパンて、この”一本”のラインが全てみたいなところがありますからね。
ただそれだけではない。パス回しそのものの問題、狙いと方向性は面白いし、ハマると結構鮮やかなんだけど余りに即興頼み、発動するかどうかが風任せの部分が、レベルが上がったところで出たかなと。ガンバと比べても。

要するに初期段階の作りに、安定性や自動性が足りないんですよね。そもそも”任せ”ちゃってるんでしょうけど。だから結局遠藤と俊輔に頼る、ということでもありますし。
弱い相手ならアバウトでも持ち上がれる、持ち上がって人が散ってからなら、高い確率で面白いパス回しも出来る。この試合でも流れの中で何度かは、そういう形になったこともあった。その時はそれなりに有効なチャンスも作れていた。でもほとんどの場合は、”ここだ”という間合いで人が上がり切れずに、あるいはギリギリ過ぎるタイミングで回すのに精一杯で相手を幻惑するまでの余裕を持てなかった。

やろうとはしてるんですよ、意思統一が乱れてるわけではない。でも現実にポゼスが安定しないと上がるに上がれないし、いつ”ベクトル”が発動してるのかも掴みづらい。特に岡田ジャパンのは、よくある” SBのオーバーラップ”みたいな機械的なものではなくて、みんなが一斉に、かつ微妙な感覚を共有しながら上がるタイプのものだから。


で、冒頭の話ですけど。
足りなかったのは「精度」ではなくて余裕、最も単純には、(その原因でも中身でもありますが)人数だったのではないかと。
そもそも岡田サッカーって、「精度」のサッカーではないじゃないですか。逆に「混乱」を、「マギレ」を武器にしようというスタイルだったはず。その為にはそれを巻き起こして拾い上げる為のこちら側の人数は、どうしたって必要で。人数をかけない効率重視のカウンターサッカーとかなら、「精度」は命綱ですけど。

勿論何にでも「精度」という水準は存在しますし、あるに越したことはないですけど、そういう意味では既に過去に格下相手に見せた模範演技のものでも僕は結構十分だと思いますし、この日足りなかったのはその精度ではなくて、その”模範”レベルのものを思うように演じられなかったことの方だと思います。だから精度そのものは、まだ問われてもいないとも言えますし。
いずれにしても「精度」が問題だとすれば、そうした”本領”を発揮する前の段階、発揮させる為の準備のレベル。つまりは『初期段階の作り』という、恐らくは現状岡田監督には”隠された次元”のところだと思います。

ここらへんはどうも、ほとんど神秘的なぐらいに(笑)、今のところ外国人監督の圧勝の部分で。オシムは言うまでもなくトルシエでも、最近のJで言えばオリベイラなんかもそうですし、監督一年性のはずのピクシーですらも、唖然とするほどあっさりと、シンプルで効率的な”ベース”作りをやってのけています。
勿論これらは目立つ成功例ではあるんですが、それにしても何がそんなに違うの?というくらいに違いますよね。日本人でも西野監督なり、この前の五輪の反町監督なり、一定の時間をかけて安定感のあるポゼッションを作った人はいますが、しかしそれには”時間をかけた/かかった”なりの鈍重さというか、融通の利かない感じがつきまといます。戦略の気軽な変更や、応用のベースにはなり得ずに、むしろ縛りになるかあっさり別のものになるか。要は、プロセスやメカニズムが、実は余り意識的ではないんでしょうけどね。出来るように「なった」というだけで。「した」というより。

岡田ジャパンに話を戻すと、プレスの労力と効果の関係、ポゼスの初期段階の安定性、その後の更に本格的な攻めの部分の実効性、全てが少しずつ足りなくて、その足りなさが蓄積して、全体として崩れてはいないけど上滑りし続けた、隠れた負担が余裕を奪った、労多くして実りの少ない、90分間だったなと。
これで本気で「出来た」と思ってるなら、ほんとヤバい。相手はマンUじゃないんだから、「出来る」のは当たり前でしょ。・・・・なんか妙にガンバの肩を持つ格好になってますが(笑)、分かり易い比較として。

多分岡田監督は、「80点」と思いたいんじゃないかと思いますが、「65点」かな、僕が付けるとすれば。


惜しいんですけどね、いいところはある。具体的には最初に言った「動き直し」の部分と、あとすっかり馴染んで来た横からの変な距離の、”クロス”とも”パス”とも言い難い、ある種無造作なボールの入れ方、それで作るチャンス。これは真面目に、今後も「日本人」にとって武器となり得るソフトだと思います。
ただそういう”新兵器”以外の、”通常戦力”の部分がいかにも貧弱で。せっかくの新兵器が、戦場のエピソードの一つにしか、なれていない。

今回/これまで注文を付けた部分(基礎の”理”)は、恐らく改善されないだろうと思いますから、望むのはチームマネジメントの部分の向上ですね。つまり今は変に”成果”に満足している心境のようですから、「記念」の対オーストラリア第1戦を機に、そういうのはいい加減にしてもらって、もっとダイナミックに、リアルに、チームを捉え直して、運営して行って欲しい。少なくとも色々な選手の意欲を、きちんと組み込んで。推進力やヴァリエーションとして利用して。
個人の自発性をベースにするというなら、尚更ね。”マジック”の一つも見せてくれよと。

岡崎の使い方には、正直がっかりですね。いかにも”この”メンバー、岡田流黄金メンバーでの、ヴィジョンしかないんだなと感じてしまいました。それと「それ以外」が、上手く繋がっていないというか。
逆に言えば、「オレ流」宣言後にいきなり打ち出して来たこの組み合わせの、インスピレーションとしての特別性も感じますが。遠藤の1stボランチ、玉田の1stトップ、奇策なりに必然だったんだなと。・・・・ああ、ただしその最初の時にいた”唯一のストライカー”大久保の地位は、現在非常に迷走してますけど。もう一度、トップ下に戻してみたらどうかと思います。結局のところ、構成上一番シュート係になり易いのは、このポジションなわけですし。これは岡崎が入っても同じですが。達也は色々やり過ぎるので、そういう意味では微妙。

そこで点が取れれば、案外簡単に糞詰まりは解消出来るのかもなと。強敵相手でも、せめて焦点が絞り易いというか。


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コメント
この記事へのコメント
おひさです。

プレスの効きの弱さの原因が体格不足ではという指摘ですが、自分としては寄せ手の体格よりも後方(MF+SB)の体格不足が気になりました。豪州としては「困ったら前にハイボール蹴っとけばいいや」という太くて頼れる命綱を持っており、かつ、それゆえ回し自体の精神的余裕も当社比二倍、みたいな。

このクラスより上との対戦を念頭に置くと、相手の2手3手4手目ぐらいまでは対策を立てておいて欲しいんですが、初手に傾倒して極端なチームを組んでしまい、2手目対策すら覚束ない危うさを感じます。最近のコメント(「あとは精度を高めるだけ」)も本当に恐ろしい^^;

「初手への傾倒」、「極端なチーム」という意味では、近年のユース代表を中心にさんざ味合わされた、理論派系日本人監督一般の危うさも感じます。10年前は釜本さんはじめ体感系を毛嫌いしていましたが、まんざらそうでもなかったのかなあ、とか。

サッカーの本質的にも、対戦相手のレベル(優勝ではなくGL突破からベスト4)的にも敵失で勝つという事態は大いにありうる訳ですから、あまり自分達の特徴云々に煮詰まらず、王道(=最も敵失を広いやすい形)的な要素にも片足は残して欲しいなあというのが日豪戦翌日のサッカー観でした。
2009/02/12(Thu) 13:11 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
まああのう、”極端さ”そのものは、ここまではっきりと意識的な場合は、基本的には後はお手並み拝見でいいと、監督の創造性を尊重する一般的な立場からは、言っていいと思うんですけどね。岡田監督個人は、良くも悪くも”系”では語れない、孤立したタイプのサッカー人だと思いますし。

問題は岡田監督の文脈に沿った上でも目に余る手際の悪さや、無知で。
オシムだって十分に極端なんですけどね、腕が抜群なのとそれ(極端さ)以上に地力が分厚いので、結果的にオーソドックスな良さが目立ってるだけで。オシム”もどき”の監督なら、途端にまた色々と他のものが目立っても来るのではないかと。それこそ降格時のペトロヴィッチとか。

(2手3手4手目ぐらいまでの)”対策”は、実際問題ある監督の方がレアだと思うんですけど(笑)、逆に常識の裏打ちがあれば、「初手」そのものの威力が増して、後手に回る可能性自体が減るだろうという、そんな感じでしょうか。
基本は一長一短でしかないと思うんですけどね、どんな監督も。「理論」的には。後はちゃんとやれるかどうか。・・・・まあ武術の”流派”みたいなものだと、最近よく時代小説を読みながら感じています。(笑)
2009/02/13(Fri) 13:36 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
>豪州としては「困ったら前にハイボール蹴っとけばいいや」という太くて頼れる命綱を持っており、かつ、それゆえ回し自体の精神的余裕も当社比二倍、みたいな。

こっちは正直よく分からないですけど、”蹴られ”たら駄目なのはどんな構成のチームでも基本的に同じじゃないかと思うので、やっぱ”蹴らせ”ない方かなあと。
体格云々はほぼ思いつきですけど、要するに”予定調和”以上の何かが欲しかったと、相手の注意力を削り取る、という、そういう意味でしょうね。(って自分が言ったことですけど(笑))
2009/02/13(Fri) 13:45 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
>常識の裏打ちがあれば、「初手」そのものの威力が増して、後手に回る可能性自体が減るだろうという、そんな感じでしょうか。

んー。というかむしろ逆の意味ですかね。そこまで「初手」にのめり込まない、旨い儲け話は疑ってかかることができるというバランス感覚を監督に求めています。このチームで言うと、50/50のルーズボールが来たら「見せ場だ! 美味しい!!」と思えるMFや、空中戦に強いFWを彼らの持ち味が生きるような形で組み込むとか、左右の対称性をもっと崩して右に人数を割きつつ、左は松井の1対1に期待するとか。

それを「岡田監督の文脈に沿った上で」、手際のレベルでなんとかできるなら歓迎です。が、微修正含め文脈自体から変えなきゃならないなら変えてくださいよ、と。「配牌的に面前で純チャン三色を狙いたくなる気はわからなくもないけど、ここは役牌ドラ2でもいいんじゃないの? 04五輪、06W杯、08五輪とマイナス続きだし、まずは固く2位以内(GL突破)を目指そうよ。それにリーチで裏ドラのれば化ける可能性もあるんだからさ」みたいな。

あ、あと、理論派だろうが選手上がりだろうが極端だろうが新人監督だろうが、難敵相手に内容結果の伴ったゲームを続けてくれれば文句ないです。しかし現状それは出来ていない。ではなにが悪いのか、どこがネックになっているのかを過去の経歴やメディア経由で知った言動から推察するに、頭でっかち「系」かなあ、と。
2009/02/13(Fri) 15:56 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>こっちは正直よく分からないですけど
(TVですが)リアルタイムで観たときは、追い回し要員がしっかり追い回してボールを下げさせたものの、GKやCBが前方にフィードし、それを日本のSBやMFがなんとかタッチ外に出して豪州のスローインという場面が気になりました。だからフィジカルコンタクトで負けずにボール確保する能力が欲しかったんです。これは体格だけの問題ではないですが、しかし体格の問題が相当大きいなあと。

ただ、いま作業しながら横目で録画を観てるんですが、今度は追い回し要員がしっかり追い回してパスコースを限定させ、みえみえのパスを出させることに成功した(しかも受け手は日本ゴールに背を向けた体勢)が、そこへの寄せ手がターンだけを封じるような甘い寄せに留まっているためボールを刈り取れず、パスを成功されてしまう場面が気になりました。

という訳で、FWの追い回しは90点(W杯でも一応武器)、CBの苦し紛れロングボール対応は78点(W杯でもあまり弱点にはならない)、しかしMFのボール狩りが45点(アジア最終予選でも平均以下)だったと採点しました。結局空中戦だろうが地上戦だろうが、中盤でボールを刈り取れないところが日本のプレス戦術のボトルネックですかね。
2009/02/13(Fri) 16:15 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>そこまで「初手」にのめり込まない、旨い儲け話は疑ってかかることができるというバランス感覚を監督に求めています。
これは更に更に、”逆”じゃないでしょうか。
”バランス”を取ってしまったら勝ち目が薄いという認識を前提に、ギャンブルをしているわけで。基本、弱者のサッカーで。

>微修正含め文脈自体から変えなきゃならないなら変えてくださいよ、と。
「文脈自体」を変えるなら、普通監督を代えるんじゃないでしょうか。(笑)
kukuさんがそういう意見だとしてもそれは構わないですし、必ずしも反対ではないですが(笑)、僕の議論としてはまず徹底的に現監督の文脈に沿って考えるのが先にあるわけで。一種の”練習問題”として。オシムだろうが岡田だろうが、それぞれの可能性を考える。それらの重なるあたりに、自分の考えもあるわけでしょうが、あまりそれ自体を語ることは優先順位的にありませんね。

>過去の経歴やメディア経由で知った言動から推察するに、頭でっかち「系」かなあ、と。
これは基本的には用語法のすり合わせの問題ですが、それにしても普通「理論派系日本人監督一般の危うさ」をあえて問題にする時は、山本とか反町とか、そういう”直輸入/お勉強”型を言うんじゃないですかね。岡田さんは独自思考型でしょう?少なくとも今回は。
じゃあ逆に「体感」でも「理論」でもない監督ってどんな監督なんですか?kukuさんの用語法では。「バランス」系?
2009/02/15(Sun) 00:31 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
>しかしMFのボール狩りが45点(アジア最終予選でも平均以下)だったと採点しました。
ああ、これは分かりますね。僕が(ここについては)「精度」が低い、「個々の走力に頼り過ぎ」と言っているのも、ここらへんだろうと思います。特にポジション別に考えたことはありませんでしたが。

やっぱりこう、トルシエや更に加茂と比べても、どうも雑な気がします。どちらも正直、そこらへんについて鮮明な記憶は無いんですが。”体格”の影響も含めて。
2009/02/15(Sun) 00:39 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
>”バランス”を取ってしまったら勝ち目が薄いという認識を前提に、ギャンブルをしている
そりゃそうですよ。そりゃそうですが、確率1/3に突っ込むのと1/4に突っ込むのとでは同じギャンブルでも違ってくる訳で。そこで「日本の特徴とやらに縛られすぎではないかい?」「拾える部分的局地的勝利は拾わないと直ぐに種銭切れるでしょ?」と感じている訳です。挑戦者ゆえなにがしかの型破りは当然なされるべきでしょうが、破ることに囚われて自家中毒でパフォーマンスが落ちたらそれはやっぱり駄目出しモノでしょう。仮に日本がベスト4に行くとしても、90分間押しっぱなしの完勝連発なんてありえず、PK勝ちやマイアミの奇跡に近い勝利も含まれると思うんです。「日本のお家芸の背負い投げでオール一本勝ちするつもり。だから背負い投げの練習しかしてないよ^^」ってのは止めて欲しいなあ、と。

昨日のスパサカのインタで、大久保や長谷部あたりは「もっと強引にいくべき」と言い、中村は「急ぐな焦るな前に行き過ぎるな」と言っていました。どちらも可能性あるでしょうが、ノルマと手駒からして自分は長谷部大久保派に一票なんです。但しなにがなんでも個人技突破だとか、困ったらシュート撃っとけとかではなく、敵失期待・混沌歓迎的なプレイをゴール付近で行うことを基本設計にもっと濃厚に織り込んだり、チームで一番対人突破を期待できる選手が持ち味を発揮できるよう、その前後のプレイを整備したらいいんじゃないかな、と思うんです。


>「文脈自体」を変えるなら、普通監督を代えるんじゃないでしょうか。(笑)
トルシエは対フランス戦の敗退で変えたと思いますし、ジーコも大敗後に総とっかえ的なことをやりました。現監督も対バーレーン戦の最初の敗退後に路線変更(オシム踏襲からオリジナルへ)を宣言して実際変えました。私見として監督交替でいい(監督交替がいいの一歩手前ぐらい)とは思いますが、監督人事に手をつけない路線変更も現に「普通」になされているような。。


>岡田さんは独自思考型でしょう?少なくとも今回は
>「体感」でも「理論」でもない監督ってどんな監督なんですか?
監督のタイプの話というより、失敗のタイプの話ですよね。「選手への影響力統率力が弱くて空中分解」、「戦術知識がなく、十年一日のサッカーでタレントを活かせず」、「独自の、あるいは最先端の理想的サッカーを実現しようとしたが実践に失敗し不完全燃焼」、「特定選手のみを重用し、疲労蓄積でシーズン終盤に失速」、「娯楽性に欠ける人柄やサッカーが周囲に煙たがられ、ちょっとした失敗で解任騒ぎ」とか、定番の失敗タイプがいくつかあるじゃないですか。で、現代表については理論の実践不能というパターンではないかと解釈しているんです。

S級獲得過程で脳内に移植された借り物理論なのか、それとも独自の思考から導いた理論なのかは問わず、要するに理論の実践不能でしょ? と。脳内理論の形成過程や独自性につき大量生産系と一線を画しているかいないかという設問なら、「画している」の方に9割方賛成ですけども。
2009/02/15(Sun) 14:21 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>トルシエや更に加茂と比べても、どうも雑な気がします。どちらも正直、そこらへんについて鮮明な記憶は無いんですが。”体格”の影響も含めて。

オフサイドルールの(解釈)変更なんかは無視しつつ語りますと、加茂時代やトルシエ時代はボールホルダーへの圧迫は出来ていたものの、プレスを無力化するロングボールを蹴られ、相手FW対日本DFの個対個の争いになって苦しんだ記憶があります。現行チームは高いラインの維持にさほど拘らず、また両CBの楔やハイボールを巡る対人守備力が飛躍的に向上したゆえその課題はクリアできていると思います。なので一概に雑だ駄目だというほどでもないかなとは思います。

ただ、TVで見慣れた欧州・南米のサッカーと比べると、MFやSBが相手のパスの受け手の1-2m後方で反転突破だけを封じて満足しているシーンが余りに目に付きます。そこでガツンと行って奪還するなりルーズボールにするなりができないと、W杯レベルでは守備にならないのではないかと感じます。中盤まで退いた相手FWへのパスなどは中沢が相当アタックして潰していたので、対比の意味で余計に印象的でした。

Jでやると一昔前ならファール確実、カードが出るか出ないかというようなプレイですが、最近は審判の基準もずいぶん正常化してきていると思いますし、そういうプレイを見せまくる選手もいます。代表の守備面における最大の違和感はそこなので、「王道」に近づけて欲しいなあ、と(笑。


* * *


んー。またも外したみたいで残念です。今度こそがんばります(笑。
ありがとうございましたノシ
2009/02/15(Sun) 14:44 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
あ、書き漏らし。

欧州南米に比べて違和感と書きましたが、トルシエ時代の稲本&戸田(&中田英)に比べても中盤の潰し能力は相当低下したと思います。稲本や阿部、今野あたりを起用すれば当時に勝るとも劣らないレベルには行くのでしょうが、遠藤やW中村あたりを外す副作用も当然ある訳で。

そこの人選について背負い1本路線は良いですが、その分他で寝技や締め技なんかをおさえてくださいね、と。
2009/02/15(Sun) 14:53 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
優先順位と目的意識の問題
ではないかと。意見(や観察)というより。

>破ることに囚われて自家中毒でパフォーマンスが落ちたら
岡田ジャパンに否定的な人が多いのは、「破ることに囚われて」いるからではなくて、「破」れないからじゃないですかね。リスキーorアンバランスだからではなくて、メインの狙いのクオリティが足りないから。”不安”だからではなくて、”魅力”がない、関心を引くレベルに達してないから。
この前のガンバについての議論なども想起すると、多分kukuさんは元々”バランス”や”穴”の方に先に目が行くタイプなのかなとも思いますが、ガンバと比べても岡田ジャパンの場合は、メインの狙いの威力そのものをまずは問題にすべきチームだと思うしまたそういう段階ではないかと思います。だからkukuさんのおっしゃること自体は分かりますが、それについて特に議論したいという意欲が、どうも現時点では湧きません。

例えば僕は僕で岡田さんの”常識”の弱さみたいなことは、何回も指摘はしてますよね。
でもそれは穴が空くことを心配して言っているというよりは、”穴”や非効率で無駄な力を使うことによる、メインの狙いの威力への悪影響を心配しているわけです。それと勿論、”狙い”そのものの実行においても現れるだろう、ディテールの弱さ。

抽象的な言い方になりますが、”アンバランスをマネージすること”と、”バランスを取ること”は、似てるけど違うんだよねという。

>監督人事に手をつけない路線変更も現に「普通」になされているような。。
人事の困難性に縛られる現実はそうでしょうけど、僕ら外野は基本筋論をやってるわけですから、”その監督”である必然性がある程度以上薄れるような変更を論ずるならば、代える話になるのが「普通」では?
ちなみに岡田さんの”オレ流宣言”は、実質「監督交替」ですよね。ようやく本当に、「交替」したというか。

>理論の実践不能
広く言えばそうですけど、ちょっと広過ぎませんか?
例えば山本の失敗と岡田の失敗(したとして)が、日本サッカーを考える上で同じ意味を持つことになるとは僕には思えませんが。何の為の類型なのか、何の為に分けるのかということです。

>んー。またも外したみたいで残念です。今度こそがんばります(笑。
なんですか?僕にハマることを狙ってるんですか?(笑)
真面目に言いますとですね、どうもkukuさんは細かいところが強いせいか、「目的」や「枠組み」が今いちマイナーというか、射程が短いことが多い気がして仕方ありません。
別に僕の問題意識をいちいち肯定してもらう必要は無いわけですけど、要は何を問題としているのかというのを、互いに絶えず推測しあいながらでないと、なかなか毎度ジリジリすることになると思います。
個別の話は、ほんと興味深いんですけどね。むしろkukuさんがブログをやって、僕が質問者に回った方が、効率はいいかなとか思ったりしますが。(笑)

ま別にいいですけど。どらかがキレさえしなければ。
2009/02/16(Mon) 07:59 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
自分の狙いは「ほへー」としたい/してもらいたい、されたい/させたいというところですかね?
しかし「ほへー」ってなんだ?(笑

>どうもkukuさんは細かいところが強いせいか、「目的」や「枠組み」が今いちマイナーというか、射程が短いことが多い気がして仕方ありません。
仰るとおり「毎度ジリジリ」しており、「膠着だなあ」と感じています。そして、「どうして元記事はほへーとした味わいがあるのに、返信は重箱の隅に向かってくるんだろ?」と感じていました。こちら側はこちら側で。

中田おやじさんとカフェや彼のサイトで交していたようなやりとりがしたかったんですが、ミケロット氏とトルシエの世界や彼のサイトで交していたようなやりとりになってしまい、当惑し、申し訳なく思いつつ、力不足を感じています。なんか年がバレるぶっちゃけで恥ずかしいですが(笑
2009/02/16(Mon) 18:08 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>中田おやじさんとカフェや彼のサイトで交していたようなやりとりがしたかったんですが、ミケロット氏とトルシエの世界や彼のサイトで交していたようなやりとりになってしまい

これはあくまで「ほへー」の程度についてであって、おやじさんのレプリカが欲しい訳ではないです。為念
2009/02/16(Mon) 18:23 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>中田おやじさんとカフェや彼のサイトで交していたようなやりとり
ごめんなさい、それ知りません。ヒデ?

要するに「何について論じているのか」が大筋一致していれば、”ほへー”でも何でもしていられるわけですよ。それが一致していないと感じるから、まずはすり合わせの努力をしているわけで、「重箱の隅」とのことですが実際には”隅”どころか中に入れてもいません。

「箱」という比喩で言うなら、僕は何かといちいち徹底的に自作したがるタイプの人で、だからからむ人は基本的に、僕の”箱”にいったんは入ってくれないと、話が始まらないわけです。・・・・まあこれはそれ以前に、”読む”人がそうですね。皆さん日々、お付き合いご苦労さまですという感じです。(笑)

そこらへんについてkukuさんの傾向としては、その箱に入らない、というより、大雑把に言えば似たような形の既製品(ここ重要)を毎回どこからか持って来て、その箱の形を前提に怒涛の勢いで中身の話を始めてしまう。
しょうがないからなるべく箱の形を近付けるようにまた作り変えるか、あるいは共通の新しい箱を作ろうと僕は努力するんですが、そもそも「箱」が問題となっているということに、なかなか気付いてもらえなくて。

強いて言えばkukuさんは科学者なんだと思います。枠組み自体はある程度保証(無意識化)されていて、その中での”作業”を精緻化する。
対して僕は哲学者で、一番の関心は常に枠組みです。逆に枠組みが正しく設定されれば、後の作業はほとんど自動的に出来るだろうという、そんな感じ。

真面目にブログ書きませんか?
その方が”やりとり”そのものも、上手く出来るだろうと思います。kukuさんの示すディテールそのものは、いくつかほんとに、いいヒントになってます。結局のところ人は、自分の”箱”でしか、思うようには語れないとも思いますし。
2009/02/17(Tue) 06:08 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
> 僕は哲学者で、一番の関心は常に枠組みです。
アトさんがピッチ上の具体的事象など視野の隅におしやり、形而上なり脳内なり社会的存在なりとしての枠や箱と格闘しておられる/戯れておられるなら、それは有意義だと思いますし共感します。プレイの楽しみや応援の楽しみとは異なる、サッカーを「語る」楽しみといえばそこしかねーだろ、ドーパミンもどんどん出るぜよと思っていますので。

> 僕の”箱”にいったんは入ってくれないと、話が始まらない
> 枠組みが正しく設定されれば、後の作業はほとんど自動的に出来るだろう
この2文の関係がよくわからないんですよね。入らねばならないが、しかし入ったら後は自動的?

> それが一致していないと感じるから、まずはすり合わせの努力をしている
自分はコメント書いてないときもブログを読ませていただいており、かつ赤の方やら酩酊さんとのやりとりやらまでそこそこチェックし続けて1年以上は経過しているので、敢えてゴーマンかますなら相当わかってるんですよね実は。もちろん100%とは行きませんが、アトさんのkuku評よりは随分わかっていると認識しています。それでも不一致なら、それは恐らく論じたいことが違うから不一致なのでしょう。わかっていないからとか、気付いていないからではなくて。

とはいえモーニングネタや所長さんネタにサッカーネタのコメントしている訳でもないですから、一致している部分もそれなりにあると思いますよ。それでも一致より不一致が気になって話にならない、膠着だというのであれば、それは相性が悪かったか、あるいは他人様のブログ上で臆面も無く絡んでくる側(kukuですね^^;)のセッション能力不足なのでしょう。

> ディテールそのものは、いくつかほんとに、いいヒントになってます。
ということは「ほへー」はそれなりに産まれていた訳ですな。字句通りに受け取る限りは^^
これで自分を慰めつつ、今回はこの辺で。
2009/02/18(Wed) 22:02 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>アトさんがピッチ上の具体的事象など視野の隅におしやり、形而上なり脳内なり社会的存在なりとしての枠や箱と格闘しておられる/戯れておられるなら
えー、違います。
「具体的事象」にも、「形而上なり脳内なり社会的存在なり」にも、それぞれに”科学者”的取り組み方と”哲学者”的取り組み方があるんです。題材の問題ではないのです、題材へのアプローチの問題なのです。
哲学そのものは、言ってみれば”アプローチ”学ですね。題材そのものに対応する、個別科学とは論理的に次元が違います。どちらが偉いということは勿論無いですが、混ぜたらマズいのはお分かりですね。

>この2文の関係
特にソリッドな関係はないですよ。
僕は僕で、「正しい」(”適切””合目的的”ということですね)と思われる枠なり箱なりを探して、作って、決めるわけです。
読者や対話者は、それに乗っかるなり否定するなり、改良を提案するなり、とにかくまずはその存在を意識して了解して、それを前提に自分の態度やその後の話の展開を決めるわけです。まあ”乗っか”ってる場合は、さして意識する必要も無いでしょうけど。
実際にはよほどのことが無い限り、他人の「箱」や「枠」には違和感が付きものです(それを無視するのが”盲信”や”洗脳”ですね)。本人ですら厳密にはそうです。それをとりあえずは、その場の箱や枠に合わせた形で話を進めて(”合わせて”と言ってもいいです)みて、どうしても上手く行かなければ改めて別なものを提案するか、胸にしまって適当に撤退するか。
他の人のブログ等にコメントをつける時は当然そういう配慮をしますし、自分のところにつけられたコメントに対しても、少なくとも僕はまず可能な限り”合わせる”ことから始めます。
合わせてくれた場合は分かりますし、「あ、こいつ無頓着だな」というのも分かります(笑)。第三者としてあるブログ主に、「ああ、そこは合わせてくれるな、そのバカにバカだとちゃんと言ってやってくれ」と、密かに歯噛みすることもあったりします。(笑)
これらの話が分からないとすれば、そういう問題領域を日頃意識していないからですね。問題が立って初めて、答えが得られる可能性が出て来るわけですから。”正しく設定されれば・・・・”という話とも、繋がりますけど。

>酩酊さんとのやりとりやらまでそこそこチェックし続けて
酩酊さんは元の作りがかなり違くて、かつ酩酊さんがその”違い”に興味がある、ご自分なりの「問題」を見ているので、成り立っている関係だと思います。正直僕は最初、なぜこんな正統派な(?)人が僕なんかを評価してくれるのだろうと、かなり戸惑いました。(笑)
ともかく違うのが分かってるので逆に誤解が生じ難いし、結局は自分の箱(?)に帰って行くことにも淀みがないので、まあ円満ちゃ円満なわけです。
kukuさんが好意なのは分かるんですけど、逆に「一致」を期待し過ぎるというか、「一致」というものを甘く見ているところが僕からするとあって、そこらへんがちょっとリスキーというか、分の悪いベットをしていると、そんな風に感じます。男と女でも、「合う」ということを前提としてしまうと、「合わない」部分の方が目立って来て辛くなると、少なくとも僕の場合はそうです(笑)。それを相互洗脳で、束の間補うわけでしょうけどね。

ちなみに言っておくと、kukuさんが書き込みを始める前に感じていたとおっしゃっていた(僕とサッカー観が)「合う」(ことが多い)という認識そのものは、決して間違いでも事実無根でもないでしょうし、それを否定しようという気もありません。確かに「合う」んでしょう、ただしそれはkukuさんの「箱」の中でです。(”読者”という状態・環境においてと、いうのも)
ある同じ要素がどう機能するかというのは、それの置かれた環境や構造や文脈次第なのです、だから「箱」が大事なわけです。逆に上手く箱を設定し直せれば、再び「合う」状態も作れるんだろうと思いますが、その為には最低限、「箱」の本質的重要性を、もう少し認識してもらいたいなと、僕の立場からはそうなります。

>「ほへー」はそれなりに産まれていた訳ですな
ほへーかどうかは元ネタが分からないので置くとして(笑)、構造が要素の機能を決定するにしても、そうは言っても要素に立脚して構造も出来ているわけですから、ある特別な要素の存在や出現が、構造そのものの組み換えを要求することは当然あります。そういう意味で、考えさせられるポイントがいくつかあって感謝していると、いうことです。・・・・組み換え作業自体は(笑)、まだ途中ですけど。結局変わらないかも知れません。
まあ科学で哲学の代用は出来ないと思いますが、科学的発見が哲学に大きな影響を与えることは、普通にあると、最初に戻ればそういう話です。
2009/02/19(Thu) 11:15 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
前回のこちらのコメントの主題は、「会話の前提条件としてはある程度合う、ある程度通じるレベルで十分なんじゃない?」であり、「「この人はわかった上で隣接事項をふってきたな」という評価と「コイツは判って無いから的外れの話をしてるな」という評価の線引きは実は曖昧なモノじゃないの?(だからもう少し気楽にやるのはどうよ?)」というものですよね。ここの部分、文章のコアの部分はそもそもアトさんに伝わっているのでしょうか? 

> 題材の問題ではないのです、題材へのアプローチの問題なのです。
いやいや、「題材の問題」としようが「題材へのアプローチの問題」としようが、こちらの主張とそれへの返答に何か決定的な違いが生じるでしょうか? 引用させて頂いた段はこちらへの返答としてふさわしかったですか?

1ミリでも1秒でも正確にサッカーを把握したい、そういう具合に語りたいから「どちらがより正確か、よりホンモノか」で議論なり罵倒なりが発生するアカデミックなありかたと、サッカーそのものの正確かつ包括的な把握というより、視点の斬新さや対比の妙、文章の味わいなどでほへーとさせるアートなありかた。アトさんのところは後者だと思ったからこそいいなーと感じた訳で、だからこそコメントして絡みたくなった、と。

換言すると、万物を計測する絶対原器を扱うという態度ではなく、自分なりのモノ、形而上なり脳内なり社会的存在なりとしての枠や箱と格闘しておられる/戯れておられるのが好ましいと。とすれば、逆に言えば枠も箱も補助線や仮定線に過ぎないのであるから、「枠に入ってこないから話にならない」ではなく、「そう来るならこう返してみようかな」ぐらいのリアクションはどうですか、という問いかけでした。

という訳でもう一度問いますが、「題材の問題」としようが「題材へのアプローチの問題」としようが、こちらの主張とそれへの返答に何か違いが生じるでしょうか? 引用させて頂いた段はこちらへの返答としてふさわしかったですか?

* * *

まあ中田おやじvsミケロットなり、アートvsアカデミックなりという対立項の置き方自体が乱暴だ、既製の枠組みを租借しつつ後は怒涛で語っているんだといわれればそれは全くもってその通りかもしれません(笑。しかし、それならそれでそういう返答がスパーンと来れば「膠着だなあ」とは感じていないんです。そうで無い(そう感じない)から筆禍かる、じゃナカッタ引っかかるんです。それは上記の引用部分に限らず、全体的傾向として。

> 最低限、「箱」の本質的重要性を、もう少し認識してもらいたいな
「舞台にあがってこられると台無しだから客席で見てて」ということなら、もちろん従います。しかし「掛け声かけるならもっと上手に」と言われている気がします。では上手な掛け声、役者がよりノッてくるような掛け声ってどんなもんでしょう? 当の役者に聞いてはみたが、役者は役者であって心理学者じゃないから返答は当を得なかった。そんな気がした今日この頃であります。

* * *

>「一致」というものを甘く見ている
> ある同じ要素がどう機能するかというのは、それの置かれた環境や構造や文脈次第
というか、サッカー観が合うといっても常に全領域で合致してた訳ではないですからね。9割方合うからこそ残りの1割の「?」が膨らんで、遂にはコメントという行動に至ることもあるでしょうし。自分の場合も「仰るとおり。よくぞ言ってくれた!」と感じた時には賛同コメントや共感コメントをつけさせてもらおうという気には全然なりません。拍手ボタンをポチるぐらいが精一杯です(笑。

甘くみていたのはサッカー観というより、やりとりの仕方についてですね。実は自分もかつては(サッカー関連では無いですが)サイト持ちで、掲示板でのやりとりなんかも管理人サイドで経験しています。そうするとROM常連でこちらの情報も持ってるような奴が慣れ慣れしく語りかけてきたりするんですが、こちらはどういう次元で返答したものか難しい。それでも、アトさんと自分だったら「こんな感じになるかな?」という予測はあり、それがよさげだったからこそコメントに至ったのですが、ものの見事に外しました(笑。

自分としては、「アトさんにとってほとんど泥ベースながらもちらほら玉が混じるようなコメント→玉だけを拾ってアトさんから何か一言→その一言のうち、自分にとって玉な部分を拾って何か反応」、みたいなやりとりが数回交されておしまい、みたいな展開を予測し期待してました。夫婦でも親友でもないんですから、そんな感じで年に数回美味しく/都合よく拾いっこするのがベストなんじゃないの、と。コメントに合わせようとしてくれるのは有難いけども、何もわざわざ泥をひろってぶつけっこしなくても、と(笑。

* * *

前回ゴーマンかました自分の見立てから予測するに、恐らくは更なる返信を頂けるような気がします。が、さすがに自分でもやりすぎたとは感じているので、今回は(こちらからは)この辺で。またアトさんが忘れかけた頃、自分の羞恥心が癒された頃にでもお邪魔するかも知れませんが、とにかくありがとうございました。
2009/02/21(Sat) 20:53 | URL  | kuku #sgjD.pbA[ 編集]
>「会話の前提条件としてはある程度合う、ある程度通じるレベルで十分なんじゃない?」であり
非常に簡単に答えると、要は「ある程度通じ」てる感じがしなかったから、通じさせるための努力を、先にしたということですね。一般論として、片方が「通じてる」と感じていてもう片方が「通じてない」と感じていたなら、仮にそれが結果として誤解であったとしても、通じて「ない」と感じている方の不安のケアを優先すべきではないでしょうか。

>いやいや、「題材の問題」としようが「題材へのアプローチの問題」としようが、こちらの主張とそれへの返答に何か決定的な違いが生じるでしょうか? 引用させて頂いた段はこちらへの返答としてふさわしかったですか?
ごめんなさい、丸ごとよく分かりません。「引用」てどこのことでしょう。

>サッカーそのものの正確かつ包括的な把握というより、視点の斬新さや対比の妙、文章の味わいなどでほへーとさせるアートなありかた
褒めてもらってるんでしょうが、「正確」はともかく「包括」の方は、むしろ特徴的狙いとして目標としているので、多少心外ですね。
多分「包括」そのもののイメージが違うんですね、だから「箱」や「枠」の重要性についての話も、うまく通じない。

>「枠に入ってこないから話にならない」ではなく、「そう来るならこう返してみようかな」
だから、「返」す為には一定期間、同じ「枠」に入っていることが必要なんですよ。枠自体はどれでもいいですけど、”同じ”枠である必要はある。
どうも言語活動そのものの認識に、基本的に必要な概念・把握の共通性が成立していない気がします。ひょっとして「枠」が無いという状態があり得ると、そう思ってますか?

>サッカー観が合うといっても常に全領域で合致してた訳ではないですからね。9割方合うからこそ残りの1割の「?」が膨らんで、遂にはコメントという行動に至ることもあるでしょうし。自分の場合も「仰るとおり。よくぞ言ってくれた!」と感じた時には賛同コメントや共感コメントをつけさせてもらおうという気には全然なりません。拍手ボタンをポチるぐらいが精一杯です(笑。
これはその通りですね。ただその割りに、「合致」の楽観を前提に、グイグイ迫って来るなと、他の(論争的なタイプの)コメント者に比べて感じますが。変にハードルを上げてしまっているというか。

>「アトさんにとってほとんど泥ベースながらもちらほら玉が混じるようなコメント→玉だけを拾ってアトさんから何か一言→その一言のうち、自分にとって玉な部分を拾って何か反応」、みたいなやりとりが数回交されておしまい、みたいな展開を予測し期待してました。
うーん、論理的に迫られたら論理的に返しますよ、やっぱり。ていうかむしろ僕は、本文の非論理性を、コメント・議論の、つまりは「あえて問われた時の」論理性で補いたいと(笑)、そういう構えなんです。
それはそれとして、基本的にkukuさんが望むようなやり取りは、”ブロガー”kukuさんとの間での方がやりやすいでしょうね、やはり。対等の立場での、すれ違いざまのネタの応酬ということで。コメント欄・掲示板では、どうしても「対面」型の対決的なコミュニケーションが優位になります。

まあ、キレさえしなければ、いくらでも付き合いますけどね、僕は。前にも言ったように。
2009/02/22(Sun) 03:04 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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