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実例:監督類型の試み[代表編2]
2009年02月25日 (水) | 編集 |
ええ、覚えてますでしょうか(笑)。週末はゼロックスですし、開幕前に、ともかくも去年の残りを。
「コンセプト」「理論」「エンジニアリング」の3機能を元とした監督論がこちら
それの実例編で、ヴェルディ編がこちら、代表編の1がこちら

今だったら違う尺度を取る可能性もなくはないですけど、それなりに支持も受けたようですし、とにかく一回やり切ってみます。今回は代表編の2、五輪の山本昌邦、反町康治両監督。
一応言っておくと、3機能の遺漏ない働きに何らか書くほどの問題がある人が今回の対象なので、こういうラインアップになります。トルシエもオシムもオフトも、あるいは加茂も(’02ツーロン小野剛も)、まずその意味では僕如きが何か言うほどの欠落(言い換えれば特徴)は無い。ユース代表で大熊とか吉田靖とか、それぞれの意味で書きたい監督もいなくはないんですが、五輪代表ほどちゃんと見る機会が無かったんで。


・山本昌邦

色々手を付けているような何もやっていないような、非常に分かり難い監督。
とりあえず色々なことは言いました。
「ダイレクトプレー」「15秒でシュートまで」「パス・フィジカル・シンキング3つの”スピード”」「人間力」

まず話題になった「ダイレクトプレー」「15秒でシュートまで」ですが。
これは主に’02W杯での得点成功例の統計から導き出されたらしい、”世界で通用するため”のプレーの仕方の、山本監督なりの結論。
ここで僕が注目したいなと思うのは、これだけ”速さ”を強調しながらも、今だったら聞いてパッと誰もがイメージするだろう、「ショート/ハーフカウンター」という分類意識が、当時の山本監督には恐らく無かった、言動・行動から伝わって来なかったということ。勿論、伝統南米的な、手数を厭わないゆったりポゼッション”でない”という程度の大雑把な意識はあったでしょうが、あえてカウンターだという意識も、同じように無かった。

補強として別な言い方をすると、山本監督が当面の基準としていたのは、あくまで”トルシエ”であって、”加茂”ではなかったと、時代的に当たり前と言えば当たり前のことを想起してもらえばいいと思います。速さは目していたけれど、加茂の地点まで戻ろうとしていたわけではなくて、基本的にはパスサッカーであるトルシエ的日本の、更なる改良を目指していた。
更にこれは前も言ったと思うんですけど(どこだったかなあ)、少なくともこの当時まで「ポゼッション」と「ショートカウンター」の区別というのは今ほど概念として鮮明なものではなくて、現在でも岡田監督の中にそういう残滓が見られるように、尚更山本監督の中でもそうだったということ。

では何なのか、というと、それが無いんですよね、多分。
「ダイレクト」「15秒」、それ以前から言っていた「(3つの)スピード」も含めて、これらは要するに意識付けであり、あるいは結果的な”状態”であり、決して”中身”ではないんですよ。どのように、ではあっても、何を、ではない。要は「運用」については口を酸っぱくして言っていたけれど、運用の対象であるもの、つまり「スタイル」や「戦術」などと言われるだろうものそのものについては、実は特に言っていない。漠然とトルシエや、アテネチームの前身の西村ユース~’02ツーロン小野のチームがやっていたことを下敷きにはしていたんでしょうが、山本監督の不作為が続く中で、いつしかそれも崩壊して、最後には”戦術トゥーリオ”&”戦術平山”になり果てていた。

そのことについて山本監督が深刻に受け止めていたかというとそうでもないと僕は思っていて、単に「上手く行ってないな」とは思っていたでしょうけど、それは根本の欠落ではなくて個別の施策や人選の問題だとしか捉えていなくて、結果いじくり回してる途中で大会そのものが終わってしまった。(笑)
で、最終的に言ったことが何かというと、(選手たちに)「人間力」が足りないということ。簡単に言えば個人能力、個人としての総合力ということで、なんだそりゃジーコかあんたはという感じですが、意外とそうなんじゃないかなと。サッカーはサッカーで自然に出来るもので、後はそれをどういう色付けでどこらへんに注意してやるか、山本監督が留意していたのはそこだけだったんじゃないかと。そういう”ポリシー”であるというより、そうとしか見えていなかった。巨大な死角があった。見えないから、本人は平気で歩いていましたけど(笑)。悩んでいたのはこっちだけ。

しかもそれでいっぱし”理論派”面していたわけですから、不思議は不思議ですけどね。でも最近でもエンゲルスなんかはそうだし、哲二監督もそういうところがあったし、ここらへんは確実にそういう人はいるんですよね。僕自身もそんなに昔からそこらへんの意識付けが明確だったわけではないし、ある時期まではサッカーは、ヨーロッパの一部を除いたサッカーはと言った方がいいかも知れませんが、案外そういうものだったのかなと。

とにかくとりあえず「3機能」的に言うならば、(コンセプト)突出型なのは間違い無くて、それを具体化する(理論、アイデア)部門はほとんど死角になっていて、ただ面白いのはその(コンセプト)の内容そのものが運用面やある意味具体的細目的な(エンジニアリング)的色彩の濃いもので、でも全く機能させられていなかったから結局そこも空白に等しかったんですけどね。
ただその”空白”は、エンジニアリングの「腕」そのものというよりもエンジニアリングの対象がそもそも確定していなかったことに起因するように見えて、そこらへんがあえて確定する必要がそんなに無かった、日本サッカーがもっと素朴だった’97年のユース代表監督(Wiki)当時は、それなりに先進的ないい監督でもいられたのかなと。

今はもっと明確化する、「作る」必要が監督に課せられているので、なかなかそうはいかないと思いますけど。
こうして見ると何となく今の監督偏重、選手過保護というような状況が見えなくはないですけど、理由はどうあれみんなが”必要だ”と思うものが与えられないと、やっぱり上手くは行かないんですよね。良し悪しというより、集合意識的な問題として。欠落は、意識された瞬間に本当に欠落になるというか。

企画の緊張感が失せているんで、妙に長いですな。(笑)
次反町さん、多分もう少しまとも。

・反町康治 (Wiki)

へええ、一般入試で慶応の法学部入ってんだ。ふん、でも経済学部の青木ゆうこりんの方が上だね。
それはともかく沢入重雄、望月達也の両氏も今のところ日本人指導者としては結構優秀な部類だし、なんかそういう風土だったんですかね、当時の清水東は。(3つ後輩の我らが武田修宏氏は?)

現役時代の僅かな印象としては、なるほど知的でクールでイケメンな(関係無い)ベテランMFではあったんですが、”ゲームメーカー”というような包括的な印象も理詰めで下支えする渋い働きのようなそういう印象も無くて、「ウルフ」の異名通り、むしろ感覚的に一点集中突破で、あくまで攻撃の”アクセント”というようなそういうタイプのMFで、意外と使いづらいというかむしろ’97までやっていた印象すらないというか。
新潟の監督としては、ほとんどが伝聞ですが曰く「戦略家」で「対策」の人で「やりくり」の人でという。たまに見ると、一言で言って何がやりたいかその度よく分からないというか、フィールドに”理”のみで”意志”が不在というか、そういうタイプの監督。僕からすると。新潟という物理的環境で仕方なくというところはあったにしても、そうそう我慢だけでは続かないはずなので、まあ概ねそういう人なんだろうなと。

その後北京五輪代表監督として初めて(笑)陽の光の下で観察されて、総体的な印象としてはとにかく、「朝令暮改」「右往左往」の人という。それも山本監督のように「優柔不断」「意志薄弱」というより、感激屋でいちいち真に受ける、つまり”意志”そのものが変わるという、その結果の「右往左往」。
北京後の極端なショゲぶりとか一転しての攻撃指向宣言とか、なんかほんと子供みたいというか、”溜める”ということを知らんのかというか、つくづく西野さんと岡田さんは突出してるな、”腹”があるなというか。どいつもこいつも「人間力」不足じゃというか。ちなみに大砲高木さんは人間力は結構ある方だと、期待してますけどね。

それはともかく、一方で名うての”理論派”でもある反町さんに、理想のサッカーはあるのかですが。無い、だろうと僕は思っています。あるのは「理想」というイメージそのものですね。
つまり「理想」の「最新」の「優れた」サッカーをやりたいといつも思っているだけで、その都度の中身にそれほどの必然性はない。自分なりの論理、自分なりの文脈は確立していない。これこれこういう理由で、こういう理論的狙いや優位性をもって、私はこういうサッカーをやるという、決め方は、この人には出来ない。要はミーハーなんですよ(笑)、確かに博識でも柔軟でも、あることはあるんですけど。オタク・・・・かなあ、やっぱり。細部の為の細部。

そうした反町監督の、北京チームの後期、予選突破後本大会開始にかけてやっていたサッカー、「重心の低いプレッシングサッカー」&「カウンター気味の人とボールの動くサッカー」みたいなものの機能性を、僕はある意味とても評価していたわけですけど(参考)、その後の色々なコメントを見ていると、結局あれは偶然の賜物、状況が生んだバランスだったみたいで。・・・・つまり、本人的にはただ単に型通り「前から」「アグレッシヴ」に行くつもりが、相手関係やチームの立ち上がりの遅さの問題で、気が付くといつもそういうバランスになって、それが結構いい感じに”機能”していたという(笑)。そんなんありか。

ただこの「偶然」には二つの背景があると思って、一つは反町監督のミーハーぶり、無意志ぶりが、当面のチーム”意志”の挫折も実際は元々無かったもので大した問題にはならずに、スムーズに現実としてチームが備えている機能性の出番への移行を可能にしたという、逆説的事態。本気じゃない分、負けても大したことはない。
一方で発動すれば何とかなる基本的な機能性を、チームに与えられるだけの、反町監督の細部についての素養と現場力と。この二つの妙なコンビネーション。・・・・だからやっぱり、初戦のアメリカ代表が弱過ぎた、それによって下手に反町監督の軽薄な”意志”が通ってしまったのが、つまずきの元だったなと(笑)。状況に依存して上手く行っていたチームが、状況が変わって空回りしたという。

やろうとしている部分となっている部分とのギャップについては、前にここでも書きました。


そんな反町監督の”3機能”診断ですが。

まず(コンセプト)は、あるようで無い、ですね(笑)。その都度色々言ってますけど、思い付き、その時の気分、”最近読んで感激した本”みたいなものなので、まともに受け取るだけ馬鹿馬鹿しい。あえて言えば”コンセプト・コンプレックス”みたいなものが潜在していて、それで逆に強調したがるんじゃないかなという。
結局コンセプトなんて、生き様が決めるんです。ねえ?オシムさん。あるいはそれこそ今回の岡田さんの、”哲学”とか。少々野暮ったいけど。

次に(理論、アイデア)・・・・ちょっと分かり難いと思いますが、システムも含めた戦術やスタイルの具体的な部分ですね、特に特定性、単にこんな感じというより”これ”というのを決める能力。
これは何と言うか、一言で言うと凡庸ですね。いつも通り一遍というか。コンセプトから類推して、まあこういうことなんだろうなと、一応は理解出来たりもするんですけど、それだけでは”チーム”は動かない。
これは一つはそもそものコンセプト決定に重心が乗っていない、目的がお座なりだから手段も特定化出来ないというのもあるんですが、もう一つは結局、センスの問題。例えば今まで取り上げた中で言えばこの部門得意のオジーなんかなら、”コンセプト”なんて別に無くても、現場目線で感覚的にそれなりに最適化されたチームスタイルを作れますよね。概ねその場限りですけど(笑)。サッカーが上手なんですよ。”サッカーの人”というか。良くも悪くも、理屈は無いけど。

最後に(エンジニアリング)の部分ですが、ここがこの人の真骨頂だと思います。
状況によってやることが決まれば、あるいは条件的制約によってやれることが限られれば、それを”ちゃんと”やることに関してはなかなかの腕がある。本当は職人なんですよね、理論家ではない。例えば以前、大宮/札幌の三浦監督について、Izmさんに問われるままに”エンジニア”だと口走りましたが、それでも三浦監督にはオランダ的なブロック4-4-2という”スタイル”についての明らかな好み、理念的偏向のようなものがありますが、それすら反町監督には無い。再び例を挙げれば、やはり京都での加藤久さんに近いタイプでしょうね。まだ割り切れてないようですし(笑)、またその状態がこの人の「監督」として一番危うい時ですけど。


ああ疲れた。こんなんでいいすかね。


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