では御手洗潔が”恋”をするとすれば、それはどういう恋なのか。
『さらば遠い輝き』 より (’98 『御手洗潔のメロディ』所収)
(キヨシのスウェーデンでの親友”ハインリッヒ”と、レオナとのロスでの会食中の会話)
「何か言ってた?彼。日本のお話」
「一度だけ聞いた。
あの夜、一杯機嫌になった私は、キヨシにこう訊いた。キヨシ、君は人間が好きかとね。
ああ好きだよ、と彼はごく気軽に言った。脳の神経回路が好きなんだ、その持ち主だって好きさと、彼らしい理屈を言った。
そうじゃないと私は言った。私が言っている人を好きになるとは、他人の痛みを自分の痛みに感じて、呼吸さえ苦しくなり、その悲しみと苦痛とで相手と自分との位置を確認し合うような、そういう種類の出来事のことだと。
そうしたらキヨシは考え込んだ。長い沈黙のあと、一度だけあると言った。」
(p.284-286)
たいぶ、つまんでますが、煩雑になるので流れで。
そしてキヨシが語った一度だけの”恋”の話。
「一人の日本人と出遭ったと。まだ若い男で、記憶をなくし、ぼろぼろに傷ついていた。自分が誰だか解らず、習慣記憶をなくしているからどうやって生きて行けばいいのかも不明で、それは、人間がこれ以上ひどくなれるものだろうかと思うくらい、参っていた。息も絶え絶えで、藁にもすがるようにして彼の部屋に飛び込んできたのだ。
彼を見た時、キヨシもまたひどく傷ついたと言った。青年は何もする力がなく、収入の道も、それを探す方法も思いつけず、しかも恐ろしい陰謀の道具にされていて、このまま放っておけば命にもかかわった。だから事態の収拾いかんは、すべてキヨシの能力ひとつにかかっていた。そのことに気づいた時、キヨシは使命に目覚めたと言った。それは天命にも似ていたと。」
「その時の青年の、哀願するような目つきがたまらなかったとキヨシは言った。その気分は穏やかなものなどでは到底なくて、ほとんどノックアウトを食らい続けるような痛みだった。あんなひどい気分は生まれて初めてだった。助けてやらなければと、自分が命をかけてこの青年を助けてやらなければと思った。
あの瞬間、自分は何かに目覚めた。言ってみればそれは、自分一人だけで気ままに生きていくんじゃなくて、時には誰かを導いてやらなくてはならないという自覚だ。僕にはその使命があった。ハインリッヒ、これが君のいう例に当たるんだろうか、とキヨシは私に言った。」
(p.286-287)
引き続きつまんでいます。ちなみにこの「青年」は、後に彼の”ワトソン”になる人物石岡和己その人で、作品としては『異邦の騎士』が、このあたりのことを描いています。
ともかく、これを聞いたレオナの反応。
私は息を呑んだ。
この時はじめて私はレオナを見たのだが、彼女は両手で顔を被っていたのだ。私は肝を冷やした。何が起こったのか解らなかった。
「レオナ、すまない、私は何かひどいことを言ったのか?」
「いえ、いいのよ、大丈夫」
しかし言葉とは裏腹に、声は鼻声だったし、肩はぶるぶる震えていた。(中略)
「いいのよ、気にしないで、(自分は気分屋だから)こんなことはしょっちゅう。何か楽しいことを話しましょう。
ああそう、キヨシはそんなことを言ったのね。ははは、あの人らしいわね、変な人。
いえ、あの人らしくないわ!何よっ!」
(p.287-288)
哀れハインリッヒ地雷を踏むの図ですが、正直僕もレオナの反応に不意を突かれた一人です。
逆にそれを見て、ああ、あれは御手洗なりの”恋”なのかと。レオナを嫉妬させる。
そう了解してみればレオナの反応自体は理解出来て、なるほど確かにレオナのことも御手洗は助けてくれたし色々と労わってはくれた、でも自分については決してしてくれなかった「動揺」を、御手洗は石岡についてはしている、あまつさえ「傷ついて」すらいる。ええい、悔やしや。私もあの人を、傷つけてみたい。
ていうか何よ、他の誰に対しても同じように心を動かさない人だと理解すればこそ、私もこうして諦めて我慢しているのに、なんなの?なぜあたしでは駄目でその男ならいいの?ふざけんじゃないわよホ○野郎!・・・・ハア、ハア、ハア、今のは聞かなかったことにして。
で、結局御手洗の”恋”とはなんなのかですが。
読んで分かることは、
・入口は「同情」「哀れみ」である。
・対象の徹底的な無力さが、御手洗を動かした。(言わばそれが恋の対象となる資格?)
・その無力な相手を、日頃の範を越えてとことん助け/導く”使命”を自分に課すというのが、直接的な内容。
・そしてそれは決して穏やかで幸福なものではなく、生まれて初めて味わうような「ひどい気分」であった。
こんなとこでしょうか。
最後の部分は、感情、特に「恋」のように”激しい””熱い”感情というものの本質についての、御手洗の基本的な感じ方考え方が表れていると思いますが、ここらへんを掘るとまたややこしくなるので置いておきます。
3番目の「他者への一定限度を超えた踏み込んだ働きかけ」というのも、言ってみれば当たり前の/普遍的なことですからいいですね。ただそれが御手洗のことであるので、”異例”性がひどく際立ちますけど。
特徴的と言えるのは最初の二つ、「哀れみ」という入口と、無力、つまりは状況の切迫性、クリティカル性ということかと。
それについて考える上で、御手洗自身ではないものの、御手洗ストーリーの中で島田荘司が肯定的に描いている数少ない”恋愛”の例を挙げることが、役に立つのではないかと思います。
御手洗シリーズの中の祝福された”カップル”たち
『ロシア幽霊軍艦事件』の、ロマノフの皇女アナスタシアと、日本軍人倉持平八
まずは何と言ってもこの2人。
ロシア革命で王座から追い落とされた最後のロマノフ皇帝の娘アナスタシア、幽閉先で革命軍の兵士たちから、家族ぐるみの繰り返しの暴行と凌辱を受け、それを逃れて庇護を求めた皇帝派からも、結局なんやかやと性的奉仕を求められ、絶望しかつ瀕死の重傷を負ったところを進攻して来た日本軍に拾われる。そこでアナスタシアの世話役を任された日本軍人倉持平八から親身な看護を受け、ようやく安心を得、また倉持を深く信頼するに至る。
そのアナスタシアを、正確な事情がつかめないままロシアに送り返そうという軍の意向を伝える倉持に対して、必死にすがるアナスタシアの言葉。
「私はここにいます」
アナスタシアはきっぱりと言った。(中略)
「ここは日本軍の陣地だ、言わばあなたの敵国ですよ」
「いいえ、ここは敵陣ではありません」
アナスタシアは言った。
「何を言われます。日露大戦を忘れましたか?」
「あなたがいます」
「なんですと?」
「私を助けてくれたのはあなただけです。あなたがいなければ、私は今頃もう生きてはいませんでした。ただあなただけが、真に私のためを考えてくれたのです。死にかかっている私を吹雪から拾い上げ、眠らないで看病してくれました。幾日も、幾晩も。そして私の体に触れることはなかった。ここしばらくの地獄のような日々のうちで、本当に信じることが出来たのはあなただけです。だから私は、あなたのそばにいます。」
(ハードカバー版 p.271-272)
あなたがいるからここは敵地ではない。
”愛”ならではの強弁と逆転ですね。なんですと?(言ってみたい)
フィクションであると承知しながら、「日本人」として、つい誇らしく胸が熱くなる場面です。
「私はあなたを好きだと言っているのです。あなたはどうなのです?紳士なら、お答えなさい」
「あなたは残酷なことを問われる。あなたの身分なら、何を言ってもそれは許されるでしょう。だが私は違う。もしあなたを好きだなどと言ったら、どうなりますか?」
「私は嬉しいです」
「成就することのない思いだ。日本の一平民がロシアのロマノフの皇女と?ふん、馬鹿げてる。だからそんな言葉など無意味です。」
「私には意味があります。深い深い意味です。生きる力がそこから得られるのです。私は地獄を抜けて来ました。どうか喜びを」
(同上p.278)
「私は嬉しいです」という、アナスタシアのとんちんかんな答えがかわいいですね。
いや、そうじゃなくってさ、アナさん。どうなりますか?というのは。(笑)
育ちから当然アナスタシアは世間知らずではありますし、当時まだ(未婚の)ティーンエイジャーで子供でもありますし、『恋愛』という意味でそんなに深いものが、ここで描かれているわけではないわけですね。
ただ彼女の追い込まれた恐るべき状況において、彼女のこの”愛”に込めた切実な思いというのは痛いほど伝わって来ますし、同時に彼女には”それ”しかないのだということも。この点において島田荘司も、このシリーズの他の例のように冷笑的だったり揶揄的だったりは全くしていなくて、結構長めの(御手洗たちの出て来ない)アナスタシア/倉持パートは、かなりストレートに”ラブロマンス”として読めます。正直僕も、何回か涙腺が緩くなりました。
最後のセリフも、素朴ながらのアナスタシアの”愛”についての洞察として、至って肯定的に書かれていると思います。
『異邦の騎士』の、「敬介」(石岡)と「良子」
もう一つの目立つ例としては、上でも挙げた『異邦の騎士』において、ある不幸な兄妹の手の込んだ計画犯罪に巻き込まれ、記憶を消された石岡和己(という本名が判明するのは最後の最後で、それまでは犯人たちのその都度ミスリードした名前で自分を認識している)が、御手洗に助けられて事件が解決し、記憶が戻るまでの空白の期間に石岡と同棲生活を送った良子という女性と石岡の間に生まれた愛があります。
実はこの女性はくだんの犯人兄妹の妹の方で、石岡(の記憶)を監視しまた時に応じて思い通りに行動してもらう為の、言わば”工作員”として送り込まれたそういう存在なんですが、記憶を失って不安げな、同時に生来優しい石岡の人柄にほだされ、本気の恋に落ちてしまいます。
こうして書いていると何だか火サスのストーリーか何かのようですが(笑)、他ならぬ石岡の物語でもありますし、これも島田荘司は、裏があることは勿論前提ですが、紛れもなく”真実の”愛の話として、描いています。
それなりの動機を背負ってこの犯罪に加担している良子ですが、兄の計画に従いつつしかし最後の最後、石岡に自分たちの代わりに目指す相手を殺させんとする場面では、自分の身を挺してそれを止め、結局死んでしまいます。それは石岡と良子の間に繋がる”赤い糸”のなさしめたものであり、ただその糸は細過ぎて石岡は救えても良子は救えなかったのだと、そんな甘口のまとめを、石岡に許しています。
上の2例の共通項としては、一つは「極限状況」ということがまず挙げられますね。
”愛”という救いを、切実に必要とする状況というか。
もう一つは関わっている人たちの、それぞれの”イノセント”性のようなもの。アナスタシアは高貴の人らしい、独特の無頓着な率直さをもった少女であり、倉持は地方出身の素朴な、頭は悪くないですが軍隊組織に馴染めない、やや線の細いところのある青年。石岡は勿論、ハナから記憶を失っているわけですから”イノセント”そのものですし(笑)、良子も不幸な生い立ちの、かつそうした不幸を変に従順に受け入れてしまうところのある性格で、兄にも途中までは言われるままでした。
これを先の御手洗自身の唯一の”恋愛”の特徴に重ねると、要は思わずほだされるような無防備な人間たちについて、愛するより他に改善の方法が見当たらないような、切迫した状況で編まれる「愛」、芽生える「恋」、そういうものなら(価値を)認められると、そういうことでしょうか。
そういう観点からは、それこそレオナの御手洗への想いなど、どんなに本人”真剣”でも、所詮贅沢品であると。あなたがいなくちゃ駄目なの。またまたあ、それはものの例えでしょ?(笑)
むう。分かるし、共感しないわけでもないんですけど、同時にちょっと気恥ずかしいというか青臭い感じもします。これだけだと。
というわけでカッコつけで少し足してみると、一つは「哀れみ」という感情の特殊性・特権性ということがあるかなと。色々ある”良い”感情の一つ、ではないところがあるんですよね。愛があって思いやりがあって、哀れみもある、わけではないという。
簡単に言うと、最も基礎的かつ普遍的な道徳(的)感情であると。
例えば儒教(孟子)で言えば、これは”惻隠の情(心)”ですね。「他人をいたましく思い同情する心」などとありますが、重要なのはこれがそれこそ(孔子的な)「仁」などという形で徳目化、社会化される前の、よりプリミティヴな感情であり、それゆえの信用性や普遍性があるということです。西洋でもルソーなどが、同じく「哀れみ」をそのように位置づけていますね。
だからつまり、御手洗のように日々抽象的な知や美の世界に心を遊ばせ、俗人の感情生活や社会生活に興味が無いような(笑)人でも、この部分については損なわれずに(むしろ豊かに)持っているし、発動させるにも妨げが無いわけです。ある種”最後に残る”感情です。
逆にそこを突破口にすれば、御手洗でも普段近づかないリアルな感情の世界へ、うっかり(?)踏み込んでしまうこともあり得るわけです。その”うっかり”が、出会いの時の石岡のケースという、そういうわけ。
御手洗ほど特殊ではなくても、元来無欲でさほど自分の毀誉褒貶に関心の無い倉持の場合も、アナスタシアへの深い同情から、恐らく本人にも意外なほどの熱烈な恋愛感情が、湧き出ることになった。
”同情から愛情”みたいな言い方をしてしまうと随分俗っぽいようですが(笑)、要は「欲」や「夢」とは別のところから生まれる、最もギリギリの必然性から生まれた「愛」「恋」と、まあそういう話ですね。
同情を引くなんてのは、「恋の駆け引き」としては下司な類とされるでしょうが、相手によっては、それしか突破口が無い場合もあると、覚えておいてもいいかも知れません(笑)。恋愛について「欲」や「夢」を、そもそも持っていない相手にはね。なんて。
それからもう一つは・・・・いや、まあ、いいか。一応これだけで”キヨシの恋愛”そのものの説明は済んでる格好だし。紹介したかったアナスタシアと倉持の話も、紹介出来たし。
疲れました。他のこと書きたい。
ちなみに御手洗シリーズには、もう一人「犬坊里美」という重要な女性キャラクターが出て来て、こちらは石岡和己を相手に、歳は二回りほど下なんですが、なかなか気合の入ったアプローチというか、駆け引きというか、いたずらというか、今いち本心が分からないんですけど(笑)とにかく繰り広げます。
実際普通の意味での「女」や、「恋愛」模様としては、石岡自身が普通人であることもあって、こちらの方が描写としてはむしろ本格的という感じが。結構嫌らしいよね、里美ちゃん。”女”だよね。レオナなんて清潔なもんだ。やっぱむごいよ、御手洗。(笑)
まあ公平に見てシリーズの本線からはやや外れてる感じで、それもあってか後にこの犬坊里美は、スピンオフシリーズのヒロインとして、御手洗シリーズを飛び出します。
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まだ読んでませんが。結構評判はいいみたいです。
まあ色々書いてますよ/書けますよ島田さんもという、フォローです。(笑)
女”嫌”ってるばかりじゃなく。