2009年07月04日 (土) | 編集 |
フジテレビNEXTで3日23:00~4日8:30までオールナイト清志郎関係大放出という豪快な企画をやっていて、さすがに全部真面目に見たわけではないけれどともかく最後まで付き合いました。
温泉旅館ライブが良かったなあ、題して「素足のままで」。(”素顔のままで”ね(笑))
やっぱキヨシロウはちゃらけてナンボで、だからメンフィスで現地の強者たちと組んだやつは、「本格的」過ぎてあんまり好きじゃない。重厚過ぎるというか、微妙にキヨシロウのヴォーカルが貧相に聴こえるというか。
誤解を恐れず言えば、むしろXJAPANより何よりも、”ヴィジュアル系”の元祖だと思います。本人嫌がるだろうけど。いんちき・・・・とは言わないけど、”へなちょこ”なんだよね、キヨシロウは。そこらへんを指して鮎川誠も、「日本のロックを”明るい”ものにしてくれた」と言ってるんだろうし。(番組内インタビュー)
君が代パンクヴァージョンも、だから僕は見てて辛いです。”反原発”と同じくらいやだ。
それはそれとして面白かったのは、序盤のどこだったか忘れましたが(笑)、キヨシロウが自分の作曲技法の”基本”を解説して、「メジャーコードで物悲しさを出す」ことだと語っていた箇所。これはキヨシロウの好きなソウル(R&B)伝来の手法らしいんですけど、なるほどなと思いました。キヨシロウのヴォーカル&ヴォーカルメロディが、シンプルなのに常に変な遊離感があるのは、ハイトーンの独特の不思議な声質に加えて、そういう構造的な理由があったのかと。
”明るさ”も”悲しさ”も、それぞれに強く存在しているんだけど、一色にはならないんですよね。塗り潰されないというか。マイナーでそのまんま悲しいと、演歌?四畳半フォーク?(笑)
それで思い出しましたが、誰かが言っていたことで、一方で優れた”ポップソング”の(典型的)条件は、逆に「マイナーコードで明るさを出す」ことだとか。それで明るいんだけど切なくて、キュンとなるという(笑)。よく出来た説明だ。仮に統計が味方してくれなくても、納得したくなる。
ちなみにキヨシロウは銭形平次のテーマ(おーとーこだったーら)がお気に入りで、これなんかは”演歌”調ではありますが、マイナーだけど明るいという、正にそういうパターンだと、これは確かキヨシロウ本人も言っていたと思いますが。
報告したいのはとりあえずこれだけなんですけど、それだけじゃ寂しいので(笑)、ロック話繋がりで、ちょっと元ロッキングオン編集長にして現在の日本のロック評論の基礎を作った、渋谷陽一(Wiki)の”理論”について、最近思い出したことを。
・・・・パフュあーちゃんのロッキングオンジャパン爆弾インタビューの余波で、”ロッキングオン的批評”(一種のスターシステム)についての批判めいたものが、一部ネットで盛り上がっているようなので、別に擁護というわけではないんだけど、例えば元はこういうものだよというのを。
いや、”ロッキングオン的批評”の悪いところ自体は僕も分かっている/賛同はするんですけどね。
実際、それに嫌気が差して、リスナー生活の前線からの撤退を決めた部分があるということは、既に何回か書いてますし。
ただそれはそれとして。
温泉旅館ライブが良かったなあ、題して「素足のままで」。(”素顔のままで”ね(笑))
やっぱキヨシロウはちゃらけてナンボで、だからメンフィスで現地の強者たちと組んだやつは、「本格的」過ぎてあんまり好きじゃない。重厚過ぎるというか、微妙にキヨシロウのヴォーカルが貧相に聴こえるというか。
誤解を恐れず言えば、むしろXJAPANより何よりも、”ヴィジュアル系”の元祖だと思います。本人嫌がるだろうけど。いんちき・・・・とは言わないけど、”へなちょこ”なんだよね、キヨシロウは。そこらへんを指して鮎川誠も、「日本のロックを”明るい”ものにしてくれた」と言ってるんだろうし。(番組内インタビュー)
君が代パンクヴァージョンも、だから僕は見てて辛いです。”反原発”と同じくらいやだ。
それはそれとして面白かったのは、序盤のどこだったか忘れましたが(笑)、キヨシロウが自分の作曲技法の”基本”を解説して、「メジャーコードで物悲しさを出す」ことだと語っていた箇所。これはキヨシロウの好きなソウル(R&B)伝来の手法らしいんですけど、なるほどなと思いました。キヨシロウのヴォーカル&ヴォーカルメロディが、シンプルなのに常に変な遊離感があるのは、ハイトーンの独特の不思議な声質に加えて、そういう構造的な理由があったのかと。
”明るさ”も”悲しさ”も、それぞれに強く存在しているんだけど、一色にはならないんですよね。塗り潰されないというか。マイナーでそのまんま悲しいと、演歌?四畳半フォーク?(笑)
それで思い出しましたが、誰かが言っていたことで、一方で優れた”ポップソング”の(典型的)条件は、逆に「マイナーコードで明るさを出す」ことだとか。それで明るいんだけど切なくて、キュンとなるという(笑)。よく出来た説明だ。仮に統計が味方してくれなくても、納得したくなる。
ちなみにキヨシロウは銭形平次のテーマ(おーとーこだったーら)がお気に入りで、これなんかは”演歌”調ではありますが、マイナーだけど明るいという、正にそういうパターンだと、これは確かキヨシロウ本人も言っていたと思いますが。
報告したいのはとりあえずこれだけなんですけど、それだけじゃ寂しいので(笑)、ロック話繋がりで、ちょっと元ロッキングオン編集長にして現在の日本のロック評論の基礎を作った、渋谷陽一(Wiki)の”理論”について、最近思い出したことを。
・・・・パフュあーちゃんのロッキングオンジャパン爆弾インタビューの余波で、”ロッキングオン的批評”(一種のスターシステム)についての批判めいたものが、一部ネットで盛り上がっているようなので、別に擁護というわけではないんだけど、例えば元はこういうものだよというのを。
いや、”ロッキングオン的批評”の悪いところ自体は僕も分かっている/賛同はするんですけどね。
実際、それに嫌気が差して、リスナー生活の前線からの撤退を決めた部分があるということは、既に何回か書いてますし。
ただそれはそれとして。
いきなりですがそもそも僕は特に古くからの読者というわけではなくて、読み始めた頃は確か既にロッキングオンの編集長は増井修さんに変わっていて、渋谷陽一は”たまに出て来る会長さん”みたいな感じ(笑)。だからライターとしての渋谷陽一とは、主に単行本化されている評論集で触れたことになります。
ロック微分法
音楽が終った後に
ロックミュージック進化論
ここらへんかな。実家にまだあるかどうか。(笑)
本人度々「根本的にはライターではなくてエディターだ」と言ってますし、それほど意図的体系的に物を書いた人ではないのであまり大げさに待ち上げるのも叩くのも余り意味は無いと思いますが、その中でいくつか、忘れられない言葉・思想があるので、それを紹介してみます。文言の細かいところは、ご勘弁を。
・「音楽は感情ではなくて、感覚(で聴くもの)だ」
これは僕も当時(高校生?大学生?)自分なりに感じていたことを、一つはっきり代表して言語化してもらった感じで、禿同と膝を叩いた覚えがあります。(笑)
最近の話題で言えば、篠田節子さんが言っているここらへんに関連するかと。
まさにその通り、康臣のヴァイオリンから欠落しているのが、そうしたパトス的部分だった。しかしそれをもって感動のない演奏と言えるだろうか。(中略)
「すすり泣く高音も包み込む低音」も、一時的な気分に過ぎない。優れた音楽のはらむ感情は個人的感傷を超えて、普遍的で雄大だ。
言葉遣いとしては、渋谷陽一が「感情」と言っている部分が篠田さんの「パトス」「気分」「感傷」に当たると思います。上のキヨシロウの、”一つの情緒で塗り潰さない”というこだわりも、関係して来る話でしょうね。
こういうのは要するに、日常的な想像力によって「用意された」枠組みでしかなくて、音楽はそれに従属させられています。”創造的”であることを最初から阻害されているというか。ここでは感情/情緒の話ですが、僕が”メッセージソングが嫌いだ”と言ってるのも、音楽がある「意味」に奉仕させられているという、そういう構造的には同じことですね。
それに対して篠田さんが対置しているのは、「普遍的で雄大な非個人的感情」ですが、渋谷陽一の「感覚」とはでは何か。
それこそ「感覚」的で(笑)明確な説明は無かったと記憶していますが、印象としては”喜怒哀楽”的に分節化される前のより本質的抽象的な感情や感動みたいな感じで、多少篠田さんの説明とも重なるか。
関係しそうな具体論として、次の”語録”に移ります。
・「リズムは世界観だ」「リズム感とは世界認識の方法だ」
とりあえずは”メロディ”よりも”リズム”の方が本源的だという、認識ですね。だから「感情」の地位も低い。
”リズム”とは要するに時間の捉え方、パターン化の仕方なので、それがその人の認識構造の何らか基本となるのも、また音楽を「音楽」として雑音から区別する最低限の概念になるのも、それ自体は割りとすぐ分かるでしょう。音程の上下(メロディ)はその後の問題。
だからリズム感の違いが世界観・・・・と言って大げさなら、少なくとも生活感と密接な関連があるのも、それ自体は自明だと思います。たいていはある人の生活感に伴った聴き易いリズム感、音楽ジャンルという形で、この場合はどちらかというと、またしても音楽はやや従属的な位置にあるわけですが。
しかし特にその”リズム感”と”世界観”が、ある人の世界や人生についての理想や義務感と関連して来る時、「聴くべき音楽」や「あるべきリズム感」として、両者は少なくとも同時的なものになります。だから多くの若者は”よりカッコイイ音楽”や”時代を表現するリズム感”みたいなものを求めて、一種の自己変革を試みるわけですね。”演歌オヤジ”が厳しいのは、演歌が悪いというよりも、その心を閉じた安住ぶりが、コミュニケーションの可能性の極小を意味するからです。
ここらへんに関連して僕がサッカーファンに言いたいとすれば、例えば中田ヒデの”キラーパス”が画した「時代」感、サッカーについての新しい感覚の捉え方、新しいテンポ感みたいなものです。そのパスが通るか通らないか以前に、そのパスが”正しい”(タイミングの)狙いを持ったパスなのか、それが通った時にどのような「世界」が広がるのか。
その意味でやっぱりヒデは画期的な、”世界標準”の選手でしたし、逆に前園は違ったし、時代下って今の俊輔も、要は単なる”上手い”選手に過ぎないわけです。何も特に、「開き」はしない。
今開きそうなのは、やっぱり山田直輝でしょうね。ややローカルですが(笑)大黒将志も、日々「正しい」(または彼の)世界認識の方法を、ヴェルディイレブンに訴え続けています。ほとんど、ついて行けてませんが。(笑)
リズムが世界認識であるとは、概ねこういうことです。・・・・だから渋谷陽一は、情緒/メロディ以前に、特にリズム的な「感覚」の部分でしっくり来ないと、何らかの必然性や時代性が感じられないと、とても聴く気にならないと、体が拒否すると、ヘヴィ・メタルを攻撃したわけですね。そんなパス、通っても何も起きんよと。
・「個を通じて普遍に達する」
一番インパクトがあったのはこれかなあ。
僕も考えていなくはなかったけど、言い切る自信はまだ無かった。
これはまずは、「一般」と「普遍」を、区別する試みです。単なる迎合や最大公約数的アプローチと、隠れていた何かの真実を”言い当て”る、その結果としての大衆的支持や、新たな”古典”誕生との。
ズバリ商業音楽の担い手たちには、切実な問題ですし。”やりたい音”と”売れる音”を、どう矛盾させないか。売れたり売れなかったりは結局かなり偶然に左右されたりはするんですが、少なくとも理論的に、作る際の心構えの問題としてね。これが区別できなくて、必要以上に頑なな音楽活動に追いやられたり、逆に自分の核を見失ってしまったミュージシャンたちが、どれだけいるか。
渋谷陽一が言ったのは、真摯に「自分」を掘り下げて行けば、そこに結果的に「普遍」性のある表現の鉱脈を探り当てる、そういう”場”に出る、その可能性/ルートについてです。最初から右顧左眄していても、手に入るのは「一般」や時流の追随に過ぎないよと。
多少理想主義的ではありますし、個々の表現者の元々の資質によるところも無視出来ないとは思いますが、実際こういうことはあると、多くの超時代的な音楽作品などを聴いていても感じることは多いです。個性的で独特な表現なんだけど、元型的な必然性、据わりの良さを感じるという。いかにそのレベルまで、「自分」を追い詰められるか。恐れず「個」に徹することが出来るか。
これはまた、狭義の「客観-主観」図式から”主観”を救い出す為の思想でもありますし、否定しようもなく、僕の叙述スタイルの基本でもあります(笑)。自分の主観が、何らかの普遍性を”言い当てる”可能性を、僕は信じているわけですね。客観→一般のラインの方は、他の方々にお任せします。(笑)
その成果の判断についても、読者諸兄に委ねるとして。
ね?結構面白いでしょ?
あんまり多くを期待してもしょうがないですけど、それこそ後により本格的に哲学/現代思想に触れる前に、この人を読んでおいたのは無駄ではなかったです。”音楽”という例示の具体性という意味も含めて。
こんなとこで。
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