ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
BSマンガ夜話第37弾"遠"感
2009年12月25日 (金) | 編集 |
ふう。
何だかんだ、こういう世間的に大きなイベントがあると、良くも悪くも気持ちに変な"区切り"が発生しますね。
連続性が途切れるというか。

今週何があったっけ、おお、『HUNTER×HUNTER』 出てる

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じゃん。これは何ともクリスマスプレゼント。しかも表紙ジジイかよ(笑)。後で買って来よう。

というわけで(?)マンガ夜話とか。


『リアル』『犬夜叉』『青い花』
実はどれもちゃんと読んだことの無いやつなんですが、かえってでもそれなりに伝わって来るものがあるんだなあと、興味深かったです。

井上雄彦『リアル』。
前に言ったと思いますが、"オタキング"岡田斗司夫は少なくとも漫画については、ほぼ代弁してもらっても問題ないくらい、僕は意見も視点も似ているんですよね。ちなみにアニメについては、六割くらい。
どのように似てるかというと一つの言い方ですが、例えば岡田さんが「いしかわじゅんと噛み合わなかっ」たり「夏目房之介と対立してい」たりする時は、ほぼ100%僕は岡田さんの立場で、ある種同じような疎外感を味わったりしている。(笑)
・・・・まあ、いつも見ている人にしか、てんで分からない説明ですけど。(笑)

とにかくその岡田さんが、僕が日頃酷評している『バガボンド』の(とあえてここでは言っておきましょう)井上雄彦の、同時期に並行して描いている『リアル』を絶賛しているので、正直えええーーーっと思って見ていたんですが。・・・・いや、読んでませんよ、『リアル』は。読む気も無かったというか。
ただその後で岡田さんが、『バガボンド』について、「絵の為の絵になっている」「自足的でつまらない」(さっさと終わらせてしまえ!!(笑))という意味のことをコメントしていて、ああなんだやっぱり同じなんだ、だとすれば逆に、『リアル』はほんとに面白いんだ、そういう欠点を免れているんだと、俄かに期待感が高まったという、そういう次第。

だから何だということではないんですけど、「評論家」というものの一つの"使い"方の例としてね。
"正しい"か"間違ってる"かではなく、「自分」との関係を確定しておくと、相当に類推が効いて便利だという。
もう一つ面白かったのは井上が「演技」の好きな作家だという話で、これは「絵」にこだわるという定評とリンクして、僕の抱いていた違和感や感覚的なずれを、一つ言い当ててくれる表現だったなと。そう意識はしてなかったんですが。
つまり僕からするとどうでもいいところにこだわっている、あるいは見当違いな重点の置き方で、漫画表現をやろうとしているということですが。早い話、頑張ってくれてもそんなとこ読まねえから、最初からという、そんな感じ。話が止まるだけだ。

・・・・直感的にはこれは、アニメにおける声優の「演技力」にこだわる見方(&再びそれとリンクして絵のクオリティ)とも同期しているように思いますが、面倒なのでここではそれは結論だけで。
ほんと分かんないですよね、僕。上手い人はちゃんと上手いと思うんですけど、「下手」(特に"棒読み"系)の方は、誰かが指摘してるのを見るまでは、てんで。作品として機能していれば、いっさい気付かない。(笑)


高橋留美子『犬夜叉』。
これも何となくは知ってますが、さっぱり触手の動かない作品でした。
勿論読めばそれなりに面白いだろうというのは、力量的に予想は付くんですが。そそらない。
その原因は今回の夜話の、特に非ファンのおじさん論者(笑)たちが少し引きながら語っていた、"高橋留美子総集編"的な作品の性格で。つまり既視感というか、読まなくても分かりそうな感じ。それが僕だけのものではないというのが分かって、一つ安心しました。(笑)
なんかね、極端に言うとセルフパロディというか、"高橋留美子が高橋留美子メソッド/キャラを使ってある種の「製品」を作っている""「プロジェクト」を主催している"みたいな、変に遠い感じはあるんですよね。"リアル"な作品として見づらいというか。

で、それを批判したいというのではなくて面白いなと思うのは、討論の中でも繰り返し出て来た高橋留美子の「メジャー指向の強さ」「(過剰とも言える)バランス感覚」みたいなもの。"オタ/同人"や"民俗"といった自分の「資質」に、走りそうで決して走らない、違う意味での"資質"。それがどこから来るのかなあという。
ぶっちゃけ少し、不自然なブレーキに感じることもあって、それであんまり、僕はこの人にのめり込めないんですが。それこそ『うる星』の時代から通じて。

一つは同人/腐女子系(笑)元祖世代ならではの、緊張感というか気負いというか、責任感というか、そういうものはあるだろうと。そう簡単に見切られないぞ、後ろ指さされないぞという。・・・・次の『青い花』とかになると、そういう律義さはもうほとんど無くなってしまうわけですけど。
そしてもう一つは、もっと根本的な話。多分。討論でも結論的なものとして出て来た、"るーみっくわーるど"の包容力、良くも悪くもの。戦っても戦いにならない、ぶつかるようでぶつからない、「母性的」であり、予定調和的であり。

それがこの文脈でどう働くかというと、どれか一つの「資質」が走る、とんがる、それによって何か世界や価値観を瞬間的にも限定して切断して、単純化・抽象化して提示する、そのことの"大人げな"さ、その耐え難さ。気が付くと、「丸」く、包んでしまう。角を取ってしまう。
だからつまり、高橋留美子は、「資質」に走ることを"我慢"しているわけではなくて、走る"欲望"は欲望として、しかしそれを更に上回る"包む"欲望が必ず発動するので、それで結果としてこうなるのではないか。あるいは今更、こんな(『犬夜叉』のような)メジャー志向な作品を、自ら積極的に描けるのではないかという、そういう話。欲望ではある。しかしその形が独特。


で、志村貴子『青い花』。これは僕は、アニメでしか見てません。
ただその時に感じていた特有の"置いてきぼり"感が、再びおじさん論者中心(笑)の討論で、ある種丹念に追求されていて、面白かったです。

一つは勿論、ガールズラブそのものや、思春期少女の生活感ですが、しかしこれは、あのレベルの論者にとっては、実はそんなに問題ではないわけですよね。はばかりながら僕も。ストレートな感情移入に困難が生じることが無いとは言いませんが、いずれ想像類推の範囲であって、逆にむしろ、それ以上ではないので退屈させられるところもあるくらいで。で?という。

この作品・作者が本当に恐ろしい、僕らおじさん論者を戸惑わせる可能性があるとすれば、それは実はその無反省さ、無思慮さ、それこそで?と問われて特に答えが無くても、恥じたり気にしたりしないかも知れない、そういうディスコミュニケーションにあると、言うとすれば言えると思います。
言葉で言えば夏目さんの言った、「輪郭の無い」世界。最初から最後まで"過程"であり、それ以上でもそれ以下でもない。

それは正確には描かれている「世界」がということではなくて(それ自体はそうだとしても、主題としては実はありふれたもの)、それを「作品」として表現する・構成する、作者の意識/自意識のあり方の"無"さ、これが不思議というか不気味というか、何じゃこりゃというか。(笑)
例えば「アンチドラマ」とか「アンチテーマ」みたいなのは、広い意味の相対主義やポストモダン的な脈絡で、既にさんざんやられているというかお馴染みのものではあるわけです。むしろ今は更に一回転して、その上でいかに「ドラマ」を作るか「テーマ」を構成するかというのが、"チャレンジ"としてはメインの勘所となっているかと。

ただこれは、そういうのとも違う。「伝統」に「反抗」してるのでも、「絶対」を「相対」化してるのでもなく、ただ、そうなんですよね。
一言、いい加減だと、言ってしまいたいところですが(笑)それを言ったら負けの気がするし、その割りには良い作品でもあるので、それで夏目さんなんかは「分からない」とあえて完全に撤退した言い方をしているわけでしょうけど。
あれは否定の代わりの、撤退なわけですね、要するに(笑)。僕に言わせると。喉元までは出てるんですけど、否定の言葉が。でもそこは慎重に敬意を表して、抑える。

ただなんか、絶望的な感じはあります。話、通じねえだろうなあという。
女だからか、若いからか。
色々違いはあっても、物を作る(orそれに関心のある)人間どうしで自然と最低限噛み合って来るはずの何かが、上手く形成されない気持ちの悪い感じ。
尊重してるのは本心ではあるんだけど、でもやっぱり物足りなくはある。自分たち世代まで積み上げて来た営為が、余りにスルーされている勿体ない感じが。

無理にとは言わないけど、何とかならんかね。(笑)


基礎教養としての「相対主義」の価値を体感出来るのって、どれくらいの世代くらいまでなんですかね。
最近とみに、不安になります。
「ネットが保守的だ」みたいな話とも、関係して来ると思いますが。

まあいいです。
メリークリスマス。(え?)


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