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哀しきエリン
2009年12月27日 (日) | 編集 |
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NHK教育アニメ、『獣の奏者 エリン』終了。(Wiki)
いや、凄い作品でした。重いというか。

一言で言えば、「豪球一直線」
これは作中で主人公エリンにつけられたあだ名、「王獣一直線」の、いかにも文字りに聞こえるでしょうが、実際にはそれと無関係に(それ以前から)僕の頭に自然に浮かんで来たキャッチフレーズで、それが作中の趣向としてのエリンのあだ名にここまで被ってしまうところに、いかにこの作品がぶっとい一貫性を持った完成度の高い作品であるかが、やや手前味噌ですが窺えると思います。
言ってみれば、作り手が見せたいと思った正にその方向に、実際に僕が見たということで。


そんな完結性の高い作品世界の中で、僕が唯一どうもしっくり行かなかった表現、言葉遣いがあって、それはエリンと"同志"半分"男女"半分的な控え目な愛を育むセザンのイアルや、ダミヤのスパイとしてカザルムに送り込まれた教導師キリクがエリンを評して言う、「穢れなき少女」という(類の)もの。
勿論エリンはその独特の(「一直線」な)"純粋"性に最大の特徴のあるキャラであるし、年齢的に"少女"年代が舞台になっているのも間違いはないわけですが、だからといってエリンのプロフィールを、「穢れなき少女(乙女)」というようなある意味よくある表象でまとめるのには、僕は少なからず抵抗があります。

・・・・改めてWikiを見ると、その亡き妹の悲しいエピソードと重ねることでエリンの"乙女"性を強調する役割を果たしている「キリク」は、アニメ独自のキャラだそうなので、恐らくは原作ではそこまであからさまに推されているイメージではないのだろうと思いますが。
それに軽く勇気を得て、僕のエリンのイメージをまとめてみると、一つは「最初から完成された存在」というものがあります。物理的に幼女だったり少女だったりはしても、彼女はある意味最初から"大人"であって、完成された存在であって、変化したり成長したりは、ほとんどしない。だからある種の"未満"の"未熟"の、危うい美しさをまとうものとしての「少女」性のようなものを、僕がエリンに感じることは基本的に無い。(たまにはあるけど(笑))

エリンがなぜそうであるのかは、とりあえず分かり易いところでは、その厳しい生い立ちが理由でしょう。
共同体の中でほぼ(闘蛇の世話能力という)職能のみを基盤とする、限定的な生存権で肩身狭く生活する母親の元に生まれ、しかもその母親すら、早い時期に無残な形で奪われ、安穏と「子供」でいることを許されなかったエリン。現実世界でも、発展途上国や貧しい地域などではしばしば見られる、「早く大人にならざるを得ない」子供たちの逞しくはあるけど哀しくもある、そういう類型の一つとして、エリンも見ることが出来ると思います。

ただ僕にはそれすら最終的には些細なことのように思えて、エリンの強さ、頑固さ、強情さ、人並み外れた伸びやかな知性を持ちながら、優柔不断や線の細さとは無縁な、いざという時真っ直ぐに、感情と直観の赴くままにしばしば苛烈な結論と決断にたどり着いて小揺るぎもしない、その言ってみれば"かわいげの無さ"は、到底「少女」だの「乙女」だのといった甘っちょろい総括を許すものではないと思うし(笑)、発達過程的特性や生い立ちには還元できない、彼女の「魂」、本来の性質そのものに根差すようにしか見えません。

要はエリンは最初からエリンであって、最後までエリンであると。
例えば"動物使い"(広い意味での)という「職業」選択についての早熟も、別に早く成長することを環境に強いられたからではなくて、単に"答え"が最初から分かっていたというだけのことのように見えます。子供か大人かなどということに、エリン自体が最初から余り興味が無い。彼女の"純粋"さも、青さではなくてむしろ余計なものを取り去って研ぎ澄ました結果の、"成熟"の極みの方に、性格としては似ている。


で、それを踏まえて更にエリンを見ていると、しまいにはエリンは、その"かわいげの無"さは、少女子供どころか、 「人間」ですらもないのではないかと、思えるくらいで("二つ"目のイメージ)。・・・・つまり彼女は余りにも「正し」過ぎて、普通の意味での"人間味"のようなものを感じ難いという。
やや突飛なようですがここで作中に戻ってみると、それこそキリクは「守るべき清いもの」(とその為に使われるべき「力」)の現世的象徴として『真王』(一族)を再発見して、それでもってダミアの余りに自我的な企みに疑問を抱き、またその構造をエリンにも重ねて彼女をも守るべき対象として認識して、ダミアを裏切るに至るわけです。だからそういう意味でエリンが"純粋"で"穢れない"というのなら、逆に分かるんですよね。現世を越えた"神"的な存在として。あんまり"かわいそうな妹"とか、人間的な次元で言われるとうーむという感じになるんですが。
まあここらへんは原作の意図とアニメの脚色が錯綜してそうなのでこれ以上追求しませんが、明確な思考と強靭な行動力で、およそかわいげ無く(しつこい(笑))現実的に生きるエリンが、その苛烈な現実性の余りの迷いの無さに、逆に現実を追い越して彼岸的存在に見えることは確かにあって、面白いところ。
そしてその複層性は、"ファンタジー"としての作品そのものの性格とも、重なって連想されます。

ハイ・ファンタジー・・・・。原作者の上橋菜穂子さんの作風をめぐってよく聞かれる言葉ですが(Wiki)、僕も勘違いしてましたがこれは「高級な」「大人っぽい」ファンタジーという意味ではなくて、「世界観の独立性の高い」「高度に作り込まれた」ファンタジーのことなんですね。逆にじゃあ、独立性の"低い"ファンタジーというと、何だろ。史実に材を採った、いわゆる「伝奇」ものとかかな、身近な例だと。

ま、とにかく"ファンタジー"ではあるわけで、そして"ハイ"についての誤解も解けたわけですが、にも関わらずこれを"ファンタジー"と言われると、どうにも違和感が。
ぶっちゃけ「楽しく」はないですよね。つまり"ファンタジー"という触れ込みの作品を見る時に、今日普通に期待されるような楽しさは。要は全く、"解放"感が無い。"逃避"感というか。
それどころか、これでもかという感じで現実の厳しさ重さを、突きつけられる。

勿論たいていの寓話もそういう意図を隠しているものですし、「伝奇」ものなどが歴史の矛盾を告発したり敗者の声を拾い上げたりということを重要な仕様として持っているのも今日ではよく知られたことでしょうが、それにしてもその前段階としては、"剣と魔法""英雄とドラゴン"や、エキゾチックな"秘術"などの景気の良い馬鹿話(笑)が、しばし読者・視聴者に浮世の憂さを忘れさせるというのも、これもあえて問う人もいないくらいの、お決まりのシステムになっているわけで。
そういうものが、『エリン』(やその前にやった『精霊の守り人』)にはほとんど見られない。

一応謎の異能集団"霧の民"であるとか、"地のドラゴン"「闘蛇」や"天のドラゴン"「王獣」なども出て来て活躍することはするわけですけど、それらがこちらを、いわゆる"ファンタジー"的な解放や飛翔に誘うことは、全くと言っていいほど無い。
辛うじて王獣の飛ぶ姿の美しさや、その絶叫が闘蛇に及ぼすある種の催眠効果あたりが多少のカタルシスは生みますが、しかしその背後に存在する現実の厳しさを忘れさせてくれることは一瞬たりともありませんし、勿論それらが何かを「解決」するわけでもない。・・・・むしろ王獣が暴れれば暴れるほど、そうして「解決」してはいけない現実の重さ・痛さが身に染みるという、そういう構造になっている。単に禁欲的でアダルトという以上に、ファンタジー的なカタルシスに敵対的な作品だとすら、感じますが。

殊更変な事をしているわけではないんですけどね。要はファンタジー世界という「箱庭」を作って、その中で分かり易く現実世界・社会のシミュレーションを行って、矛盾を可視化告発する、解決の道筋を探るという、あらゆるファンタジーや伝奇やフィクションが、多かれ少なかれやっていることを、非常に生真面目にやっているだけで。しかしこの、飛ばなさ、現実感の重さは、尋常ではない。なまじ"ファンタジー"的意匠を使っているから、いよいよ救いが無いというか。(笑)

・・・・それに対する解答というわけでもないんですけど、僕が見ていると感性的に連想するものが一つあって。
それは多くは「近代」に対するロマン的反動や、科学を含む現代的なシステムに対する半ば商業化された"逃避""超越"ジャンルとして存在している、今日我々が接する「ファンタジー」とは違って、上橋作品のそれは、正に"現実"そのものとして最初から描かれているのではないかなという。
ただその"現実"は、現代社会のカリカチュアやシミュレーションというよりも遥かに、古代ないしは近代以前の、社会そのものの現実。

そこにおいて超自然の"ファンタジー"的意匠の数々は、モニター画面内の虚構世界で楽しまれる馬鹿話や飛び道具ではなくて、大真面目に日々の現実感の根底を支えている概念や構造なわけですよ。神々は生きているわけです。別に「常識」や「科学」に対する、カウンターとしてではなくて。
勿論その時代なりの疑問や葛藤はあるでしょうが、基本的な前提としてはね。だからそこにおける"ファンタジー"は、現実からの飛翔であるよりは、むしろそれへの沈潜や分析という、性格を持つ。今日科学がそうであるように。だから"飛ぶ"ことや"逃げる"ことや"解放"には、容易に繋がらない。むしろ現実性の強化の方に、より繋がる。逆にある意味、いわゆる"ファンタジー""非現実"の、存在出来ない世界というか。

と、いうような、かつて実際に存在していたであろう生活感(上橋さんは文化人類学者でもあるとのこと)を前提に、でもあくまで現代日本の読者を対象にして現代のファンタジー文学を書くという構造に、たまに違和感というか、要するにどうしたいんだろう?という疑問を感じることも、無くは無いんですけどね。どう読んで/見ていいのか、分かり難いというか。リアリティのハードなファンタジー文学という、一つの相対的価値があるのは分かるんですけど。
例えばハリポタなら、色々解決できないことはあるけれど、でもまあここは一つまた人間の善意を信じてみようかと、そんな気分にさせるあれはあれで立派な機能というか、浄化作用を明確に持っていると思うんですけど。


何の話だったっけかな。
そう、だからエリンの"純粋"さが、「夢」というよりは現実の本質を抉り出すような形で機能するのも、そういう近代的な意味でのファンタジーの存在出来ない逃げ場の無い世界ゆえであるだろうし、それがいつしかそのまま神々しく見えて来るのも、現実の底に(外ではなく)"神性"が生きている古代的世界ならではのことであるかも知れない・・・・というのは、今日書きながら考えた、こじつけに近い思い付きですが。(笑)

まあ何がしか、現代においてそういう「底」の"神性"を発見しよう/したいというような望みを、上橋さんが持っているというのは、何となくは分かりますね。『精霊の守り人』の方を見ても。
あんまり明確ではないと思うんですけどね。歴史上の「古代を描く」と、はっきり決めてしまったような作品の方が、"照射"という意味でのインパクトの、強い作品は見られる気がしますけど。

そういう作者のふらつきをむしろグイグイ追い越すような形で、エリンは進む。恐らくは「運命」に従順な古代人としての気質と、合理と個人の近代人(女性)、双方の推進力を掛け合わせるような形で。勢いで。
その強さ勇ましさが、悲劇的というか哀しいというか。
彼女は確かに、そもそもそういうコではあるんだと実際思いますが、それでももう少し、「子供」でいられたなら、「少女」でいられる余裕を与えられるなら。
(イアルとの)"恋愛"においても、明らかに彼女は「使命」や「正しさ」との関連から、そちらを最優先とした派生的なアプローチでしか、そうしたものと接していないわけで。それで特に不満がある様子はありませんが(笑)、見ている方としては痛々しく感じる部分があるのも事実。まあ、あんまりそうした「同情」がストレートに通じるような、かわいげのあるタイプでもないでしょうけどね(笑)。同じくらいのテンションで行かないと、そもそも視野に入れてもらえない。

やはりちょっと、神的というか、み使い的というか。非人間的というか。
"使命"が形を持ったような存在というか。
ジャンヌ・ダルクやイエス・キリストが、"同情"の対象になり得るのなら、彼女にもという。大げさに言えば、そんな感じ。


書きたかったのは、主に前半(折り返し部分前)の話です。
後半はついで。
とにかく、一つ一つの表現に納得感のある、優れたアニメだったと思います。異様なまでに堅実というか。
王獣が覚醒する場面がいつも「壁画」「絵巻物」のような表現になっているのは、僕の言うこの世界における"ファンタジー"の位置の、一つの裏打ちと言えばそうかも知れない。あくまで遡行的なものだという。
逆に闘蛇の乱戦が割りと今風の"CG"でございという表現になっていたのは、微妙に違和感があったというか安っぽく感じなくはなかったですかね。

とりあえず、僕も王獣飼いたい。(笑)
乗って飛ぶまでは、怖いからいいけど。(笑)
最後の方に見せた、絶対的一体感が崩れた後の、エリンとリランの関係の"成熟"とかは、素敵でしたね。
少々駆け足で、分かり難くはありましたが。


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コメント
この記事へのコメント
はじめまして。RX5と申します。

アニメ版の最終話をどうまとめるのか、とても気になっていました。というのも、アニメでは、獣の奏者全4巻の半分しか語られないであろうと思っていたからです。

息子のジェシとアルがたわむれているシーンを持ってくるとは驚きでした。原作者が監修しているだけに、さすがです。

残りの2巻は、より壮絶で、より過酷になりますが、謎の全てが明らかにされると共に、物語は完全な形で昇華されます。

母親となったエリンの行動を知ると、エリンに対する理解がより深まると思います。
2009/12/27(Sun) 20:50 | URL  | RX5 #9L.cY0cg[ 編集]
僕は原作を読んでないので、あのシーンは単純にびっくりしました。だ、誰の子?(笑)

もしアニメで扱った範囲で終わるなら、エリンはあの矢傷で死んだ方がすっきりするというか、満足な終わりに感じますけどね。"使命"を果たしたから死ぬという。
むしろ一本しか当たらないのを、何なんだよ不自然だなと思いながら、少々不満げに最終回は見ていましたが。
・・・・ただし、母親同様に食い殺されて終わるというのは余りに悪趣味なので、あそこまで行けばリランが助けるのは仕方ないと思いますけど。(笑)

ちなみに主演の"棒読み"については、当然言われるだろうけどいつもいつもおんなじことばっかり言ってて、飽きないねえアニヲタさんたちはというのが、偽らざる気持ちです。僕はこの作品の"感動"の重要な部分を担う、素晴らしい「演技」だったと普通に思ってます。
ただし、演出効果としては効果的"過ぎ"て、それで僕のような極端な感想が出て来るという、可能性はあるかも知れません。そこらへんは、監督さんにも聞いてみたいところですね。
2009/12/28(Mon) 05:30 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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