東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
『ハーバード白熱教室』総括
2010年06月21日 (月) | 編集 |
ハーバード大学の人気講義(サンデル教授の「政治哲学」)をTVショー化した、NHK教育の地味に話題になっていた番組。(公式)

・・・・と、一応説明はしてみますが、はっきり言ってあの長大で豊饒な内容を、見てない人にかいつまんで説明しちゃう資格が僕に(誰かに)あるとも思えないので、結局は見た人だけに向けて、ここからは書きます。

更に言うと、これはあくまで「講義を見た範囲の」感想です。最低限Wikiくらいは見てみますけど、本格的に調べ始めちゃうとまたそれは違う気がします。
つまり「賛成」も「反対」も、それはあくまで"サンデル教授の把握する枠組み・哲学史"に対する/おけるものだということ。

だからものの本にはこうあるとかいうタイプの突っ込みは、ご勘弁願います。
僕が教授の発言をこう誤解しているというのなら、OKです。(笑)


個別の議論はともかくとして、最終的に言いたいのは、僕はサンデル教授の立場=communitarianismに、反対だということです。それがあったから、見流すつもりが書く気になったというか。

communitarianism(共同体主義) Wiki

・20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想
・共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない
・共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない


講義では「コミュニタリアニズム」と終始訳されていましたが、「共同体主義」と言ってしまうと非常にあっさりしているというか、いかにも僕が反対しそうな感じで(笑)なんか話の底が見えそうになりますが。
そういうことでもないんですよね。講義の中でこのサンデル教授自身の主張が登場するのは、ほとんど最後の最後ですし、僕が反発を感じたのもあくまで「コミュニタリアニズム」に対してであって「共同体主義」に対してではないんです。この違い分かりますかね(笑)。言うなれば、論理に対してであって観念に対してではないというか。

さてまず第一の批判ですが。それは、コミュニタリアニズムが中途半端だということで。折衷的で、あえて原理として立てる必要を感じない、マイナーだ、立場を増やして話をややこしくするだけのものだということ。
上のWikiの定義で言えば、紫字で表現した部分、
・自由主義を根本から否定するものではない
・ラディカルなものを奨励することはない

という性格。
だったら言うなよ、とは言いませんが(笑)、要は単なる実用的便宜的な議論じゃないか、既存原理の運用や政策上の妥結ですむじゃないかと。こんなのが哲学なのかと。
講義の中でも、サンデル教授(寄り)の主張に対して、「それはリベラリズムのこういう論理の応用で説明できるレベルの問題だ」と反論した学生が、何人かいましたね。僕はあれに賛成です。

コミュニタリアニズムがこういう性格を持つには理由があって、講義も正にそういう流れで説明されていましたが、その前提には現代アメリカにおけるリベラリズム内の(?)過激派、 libertarianism(リバタリアニズム)の台頭があるわけですね。

libertarianism(リバタリアニズム) Wiki

・他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想のことである。この意味の時は、自由意志主義、自由至上主義とも訳される。
・リバタリアンは自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は倫理的に正しくなく結果的には非生産的であるとし、徴兵制と福祉国家には強く反対する。個人の自由と自由市場を擁護するなどというごく少数の基本事項以外、これが「正式な」リバタリアンであるとするような信条は存在しない。
・個人の自由を尊重する立場としては、元来リベラリズムという用語があるが、この語は社会的公正を志向するがゆえに政府による再分配によって平等を実現しようとする社会主義~社会民主主義的・福祉国家的な文脈で使われるようになった。 そのように変化した概念と区別し古典的な意味での自由主義を現わす言葉として、リバタリアニズムという用語が使われるようになった。


講義内では福祉国家どころか、納税の義務そのものを激しく否定するリバタリアンの姿が紹介されて、これは酷く印象的でしたね。
いかにもアメリカ的な徹底自由、徹底個人、徹底市場、ウィナーテイクスオール、詐欺師や大金持ちの自己正当化(笑)論法ではあって、それによる社会の分断・崩壊、貧富の差の極大化や弱者の切り捨ての容認、そして道徳的な虚無への危機感として、真面目なタイプの哲学者たちが"コミュニタリアニズム"なんてことを言い出すのは、分かるのは分かるんですけどね。

・・・・勝手に分かっててもしょうがないので(笑)、一つ駄目押しで、大雑把な図式化をしてみましょうか。
ここまでに出て来た用語を用いて。

1.(前近代的な諸政治体制から近代に出現したそれらも引っくるめた広義の)「全体主義・国家主義」

2.それに対する批判・解放としての「自由主義(リベラリズム)」

3.その極論としての「リバタリアニズム」

4.それに対する抑制・反動としての「コミュニタリアニズム」


イマココ。
ちなみに講義の中で直接的に"1"について取り上げたことはなかったように思いますが、そこらへんは全体にリベラルな場の性格を考慮してあえて語る必要を感じなかったというのと、あるいは講義の一番最初に出て来た『功利主義』「最大多数の最大幸福」論への反論で代用出来ると、そう考えたのかなと。

で、僕の批判としては、"リバタリアニズム"という現象・流行を重視すれば、まともに受け取れば"コミュニタリズム"には必要性があるのかも知れないけれど、そこまでのことには思えない、余りにもアメリカの直近の現実に律義に反応し過ぎて、「哲学」としての慎みというか距離感を失っているように思えるということ。・・・・言ってみれば、リバタリアニズムが無ければコミュニタリアニズムも必要が無い、単なるアンチ・カウンターだと。
また、リバタリアニズムの方は「極論」なりに(だからこそというか)論理的な整合性や美しさは感じなくもないのに対して、コミュニタリズムの方はいかにも"為にする"反論であり、論理構成が曖昧で苦しく感じる、政治家の答弁みたいだ(笑)ということ。

そして更に。これは僕があえて"反動"という言葉で表現した部分ですが、リバタリアニズムを抑制する為のコミュニタリアニズムは、上で述べたようにリベラリズムへの穏健ながら対抗思想でもあるわけですが、実際にはいちリバタリアニズムへの抑制効果以上に、リベラリズムそのものへの破壊効果が大きくて、結果的にはその当初の意図を越えてそもそもの"1.「全体主義・国家主義」"の復活と、大差無い論になってしまうだろう、そういう気がしてならないということです。

それについては、詳しくは次に


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