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スカパー岡田監督×フェラーラ対談
2010年05月24日 (月) | 編集 |
そうかあ、例の「ハエ」発言というのは、会見の場での思い付きではなくて、少し前から口にしていた最近お気に入りのフレーズだったのかあと、それはともかく。(笑)
(ロッベンやエトオを抑える方法として、一人では抑えられないし人数かけるのも限界があるから、繰り返し次々にチャレンジして行くしかないという、そういう文脈で使われていました)

総じて大した内容の話は無かった(バルサの"再プレス"をインテルが早めのロングボールでかわしていたという話が、唯一"戦術的"と言えばそうでしたかね)と思いますが、その中で岡田監督の言い回しに、僕が引っかかったというかある種なるほどなと思った箇所を、少し。


「日本人てのは基本的な闘争本能みたいなところで、やっぱりまだまだ優しいところがあるっていうかね」
「勝負の厳しさっていうかね、本来持っている動物としての闘争本能、生存競争に打ち勝つ闘争本能みたいなものをね、出して行かないといけないでしょうね」


日本が世界と戦って行く上で、足りないものこれから必要なものというテーマでの、一見何気ない発言。
前提として、イタリアサッカーの凄さとして過去の視察で何を感じたか、それは技術戦術以前の強さ、球際やメンタリティの強さだという、そういう話がありました。
それらを岡田監督は、『闘争本能』という言い方で総括するわけですが・・・・

日本人にメンタル的な強さが足りない、対してイタリア人は強い、これ自体はいいとして、ただそれを(闘争)「本能」という言い方で把握するのは、少々違和感があります。「本能」だとするとそれは基本的に生来のもので、決定論的で、"まだまだ"もクソもないじゃないかというのはともかくとして、何というか「本能」という固定的な言い方をしてしまうと、その"強さ"の中身や形成過程や構造についての洞察・考察が、放棄されてしまう感じがするからです。
実際に僕は、そうした強さやあるいは「勝者のメンタリティ」のようなものを生むのは、"本能"のようなプリミティヴなものというよりは、むしろ徹底した合理精神と、それによるやるべきことの明確化なのではないかと、基本的には思っています。・・・・それを今日象徴しているのが、例えばモウリーニョという監督と彼の作るチームであると。一つの言い方ですが。
明確に把握しているから、迷わず実行出来るし、本能や感情の気まぐれな発露に頼らずに、意識的努力で持続・維持可能になるのであると。

で、岡田監督もそこまで身も蓋も無く決定論的に考えているわけではなくて、だからこれからの教育の必要性を語るわけですが、しかしではその中身は何かという説明になると、やはり「本来持っている」「動物としての」という定義に、戻って行ってしまうんですね。・・・・ちなみにその前の「勝負の厳しさっていうかね」というのは、司会の西岡明彦アナが、"本能"というドギツイ言い方を"勝負の厳しさ"(を知る)という言い方にそっと置き換えた(笑)のを、わざわざ否定的に引き継いでの、語り出しです。
やはり「本能」というイメージ自体は、割りと動かし難いものとして、岡田監督の中にあるようです。

これはつまり、岡田監督が日本を、そして勿論現在率いている自分のチームを強くする為の"方法"論として、非常に「内発」的で、「掘り起こし」タイプのものをメインに考えていて、訓練形式化といったタイプのものは重視していないということを、あえて意図してではないでしょうが(笑)、改めて示していると思います。
これは過去の主だった発言、"ゾーン"(参考)であるとか、あるいはそれ以前の"ジャズ"であるとかにも、勿論繋がっているでしょう。

"ゾーン"の時は、要するにゴール前での判断力・決断力を上げる為にという話でしたが、球際の強さや勝者のメンタリティを身につける為にも、やはり眠っているプリミティヴな力を、部分を、掘り起こし呼び起こすというのが、岡田監督の基本的なアプローチのようです。そして呼んだ後は、それに委ねると。"ジャズ"だと。
ある種楽観的ではありますね。「動物」としての「本能」なら、必ず存在はしているはずなわけですし。もしそれが答えなら、そんなものがあるのなら。だから現状をある程度無視しても、奇跡を信じられる/語れるわけですね。


と、いう岡田監督の把握自体もそうですが、更に僕が個人的に違和感を感じる、危うさを覚えるのは、岡田監督の語り方言語観そのもの。上の参考エントリーでも、同じようなことは言ってますが。

一言で言えば、「理」と「非理」の区別、便宜的過程的な区別を、少しこの人は真に受け過ぎているのではないかと。
(中略)
しかし実際には「理」と「非理」は、常に同時に存在しているわけです。まとめてそれが、一つの「世界」。少なくとも(理性ある)人間にとっての「世界」。・・・・逆から言えば、一つの「世界」を人間が便宜的に”理”という観点から分割したのが、この両者の区別なわけですね。


今回も要するに、「本能」という最早「」つきか特定的(学術的)な定義抜きでは使われなくなった古い概念を、余りにもストレートに、その実在を疑わない形で岡田監督は使ってしまっている。
今でも普通に使うことは使いますが、それは慣用的にか、他に呼びようがないよく分からないものを、"便宜"的に、一種の機能的定義として、仕方なく使うのであって、岡田監督のようにどっかりその上に腰を下ろして(笑)使ったりはしないわけですね。危険というか。

そんなものがあるのかどうかは分からない、ただ仮にそのものとしては実在しなくても、何らかあるように見えるある種の現象を記述して共有して、とりあえず話を進める為に使う。それが今日における「本能」という言葉の、妥当な用法だと思います。逆に余り強く言い過ぎると、決めつけや差別にすら繋がってしまう。(例・"母性本能")
それか勿論、繰り返しになりますが完全に学術的な用法ですね。

で、恐らく、こうした岡田監督の言語的哲学的な過度の素朴さが、彼のそれなりに優れたところもあるひらめきや問題意識を、利より害の方が多いものにしてしまっている。"無能な働き者"にしてしまっている、そのように僕には見えますね。改めて。
惜しいし、面白いんだけど、必ず間違える。人はカンのみにて生くるにあらず。


「自分なりの何か信念みたいなものを持ってるんだろうなと思いますね」
「あー・・・・」
「やっぱり意志の強さっていうかそういうのがあるんでしょうね、やっぱり凄いと思いますよ。」


これはグアルディオラやモウリーニョの優れたところを聞かれた岡田監督が、答えての言葉。
「あー」なんてのがわざわざ入っているのは、聞き手の西岡アナの「え?そこですかあ」という暗黙の抗議というか微妙な表情を、伝えておきたかったからです(笑)。(当社比)
まあ弱くちゃやってけないのは確かでしょうけど(笑)、"方法"や"理由"としては当たり前過ぎるというか何も言ったことになっていないというか。むしろその「信念」の中身や、強い意志を持てるに至る根拠とか過程の方が、大事なんじゃないのかな強いて言えば。

見えて来るのは、そうした「信念」や「意志の強さ」に憧れて励まされて、よし、俺も頑張ろうと妙に奮い立って頑なになる、未熟なまま固まってしまう厄介な人の姿というか。(笑)
その前にも、アンチェロッティの成功をめぐるエピソードとして、"自分自身"であることを通したという部分を、やたら強調して語っていましたが。

上の話と併せると、やはり基本的に「概念」や「言語」が"固い"というのは、感じますね。「」(カッコ)出番が少ないというか。(笑)
むしろ「信念」に囚われない、頼らないでも自分を維持できるのが、モウリーニョやグアルディオラの強さに、僕には見えますけどね。モウリーニョに「信念」とか言ったら、鼻で笑われそうな気がします(笑)。よくも俺様に、そんな野暮なことを。グアルディオラの場合は、バルサ/クライフ的伝統や強迫観念との、絶妙な距離感、かな。引き継ぎつつ囚われない。


そろそろ試合ですね。
信念のジャパン対、怨念のコリア?(笑)


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