明石散人的岡田ジャパンの見方(?)

いや、タイトルは半分以上冗談ですけど。
京極夏彦(or京極堂)の"築地の師匠"として知られる明石散人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E6%95%A3%E4%BA%BA

の本をここんとこ集中して読んだので、(読んだ人は分かりますが)その繰り返し・重複の無茶苦茶に多い発言の中から、特に興味深かった、かつ何なら↑のタイトルのようにこじつけて読めそうなやつを(笑)、ピックアップ。


語彙の発明(日本語の日本化?)

「和歌」と「短歌」

同じ五・七・五・七・七であっても、和歌には自分自身で創作した造語挿入が必須の条件として求められ、一方の短歌はもっと自由で必ずしも三十一文字に縛られることもなく、更に、自分で創作した造語を歌に詠み込む必要もなく、造語を挿入してしまうと逆に短歌としては成立しません。


日本古代の文化人たちは、まだ語彙が非常に少ない日本語を豊かにするため、いかにして日本独自の言葉を増やしていくかを懸命に勘案した。そして、当時の知識人たちが採用したのが、日本の定型詩にゲーム的感性を取り入れることで、五・七音句を繰り返す長歌、五・七・七を二度繰り返す旋頭歌、五・七・五・七・七の和歌、このいずれにも、なるべく創作造語を入れるという規則を課した。
そして、このルールが日本の定型詩を爆発的に膨張させた。当時の文化人たちの目論見は当たり、あらゆる階層の人たちの定型詩が溢れ(例・万葉集)、日本人は歌を詠み交わすことでコミュニケーションを発生させ、どんどん日本語の語彙を増やしていった。


・・・・『日本史快刀乱麻』より。

ふへえ。そうなんだ。そうなのか?!
ググった範囲では同様の記述は他に見当たらなかったので、かなりこの人独自の説なのかも知れません。
しかし仮に本当なら、エキサイティングな話ですね。素晴らしい"文化政策"だ。

江戸期の長崎通詞たちの活躍

和歌に造語を込めなくなった明治以降、日本語の語彙は急速に少なくなっていく。それでも明治の初めまでは日本語は非常にユニークだった。(中略)
例えば、江戸期の長崎通詞たちの優れた造語力には、感心するばかりだ。(中略)コペルニクスの地動説を初めて日本に紹介した本木良永、いうまでもなく「地動説」そのものが彼の造語である。また、志筑忠雄はエンゲルベルト・ケンペルのまとめた鎖国政策に関する論文を一八○一年「鎖国論」と名称し翻訳したが、これ以前に「鎖国」という日本語は存在しなかった。(中略)
ここ(『暦象新書』)での志筑は、驚くことに「引力・真空・重力・求心力・遠心力・動力・速力」といった新しい日本語を次々と造語してしまう。


それに比べて現在のカタカナ語の、なんと陳腐なことか。「スキーム」だの「コンセプト」だの「アイテム」だのと、醜悪の極みである。だいいち何を意味してるのかさっぱりわからない。日本語というのは柔軟性があるから、意味をなさない語が入ってもそれなりの文章表現は可能だが、しかしこういった表現方法を安易に許せば、せっかくの日本語の性能を失ってしまう。
こういったカタカナ語は官僚用語に多い。


同じく『日本史快刀乱麻』より。
よし、僕も今日からカタカナ禁止にしよう。"ポゼッション"とか"リトリート"とか、金輪際使わないぞ。"ゴール"は"よし!"だ。(いやあそれは)

・・・・まあだからとにかく言いたいのは、日本人のサッカーの受容も表現も、ほとんど始まったばかりみたいなものなので、勉強は勉強でいいけど安易に"直訳"や"当てはめ"(や勿論直輸入)に頼らずに、必要があればいちいち造語するくらいの勢いで、しっかり目の前のリアリティを体に/脳に、刻み付けるようにやっていきたいなということです。
あるいは、僕は日本サッカー(第二の)黎明期の"万葉歌人"の一人になりたい!!でも可。(笑)

あのね、大西さんの元々の「接近・連続・展開」というのは、僕は素晴らしい日本語だと思うんですよ。自分が見ているある伝えたいリアリティを、全脳力を振り絞ってピンポイントで表現している、そういう迫力がある。その言葉でなければ、あるいはそもそも"日本語"でなければいけなかったんだろうなというのが、凄く伝わって来る。
だからそれに岡田さんがインスパイアされるのはよく分かるし、インスパイアのされ方も別に間違ってはいないと思うんですけど、だからこそ、そういう日本語を基にしているからこそ、もうちょっと何とかならなかったのかと、そういうのはありますね。あんたのはカタカナ語ならぬ、ラグビー語じゃねえかと。擁護しつつ批判、という感じですが。


オリジナリティの基準は根源ではなく分岐点にある

というわけで今度は"オリジナリティ"という概念についての話。

「何が日本独自のものなのか」とよくいわれますが、それは分岐点をどこに置くのかという問題だと思うんです。
これは何に対しても言えることで、人間とチンパンジーの分岐はどこだ、チンパンジーとゴリラの分岐はどこだ、ゴリラとオランウータンはどこだ、と分岐を明確にすることが重要なんです。それをしないで、ただ根源を辿っていくと、結局、人間もネズミも同じものになっちゃうんですね。
(中略)
つまり、僕はあくまで(駒の再使用ルールの発生という)分岐を定めた上で将棋は日本固有のものだと言ったんです。

・・・・『日本史鑑定』


例に挙がっているのは将棋ですが。
これはなかなか、有益な整理だと思いますね。何となくは分かっていることではありますが。分岐、か。
"オリジナル"というのを、いちいち"根源"で考える必要は無いんだと。遡り過ぎるとクソミソ一緒(笑)になってしまうんだと。
例えば岡田監督が「狭い地域での日本人のアジリティとテクニックの高さ」ということを言った時に、「いや、狭い地域でもヨーロッパの選手の方が上手いよ」というタイプの反論をする人がままいますが、これなんかも僕は余りに原則論的で、何も言ったことになってないと思うんですよね。そりゃ大きく言えばそうだろうけど、基礎技術では未だ敵わないんだろうけど、そういうことが言いたいわけではないわけじゃないですか。あくまである状況でのあるタイプの"アジリティ"や"テクニック"なら、互角以上の面があるんじゃないのというそういう可能性を言っているわけでね。ある"分岐"から先の話をしているのであって、"根源"の話なんて聞いてないよという。

"スタイル"や"戦術"のレベルでもそれは同じで、要するに"オリジナル"な部分があれば(分岐してれば)それで事足りるわけで、何もいちから全部発明するという話ではない・・・・わけですけど、これについては岡田監督もその全否定派も、それぞれにマズかったというのが、実際のところだと思います。
全否定派は事を大げさに取り過ぎていた。が、岡田監督は岡田監督で、余りに「根源」から乖離し過ぎた為に、どこが「分岐」なのかもよく分からなくなってしまっていたし、逆に素朴に「根源」主義的な批判・言説の活躍を許してしまう、呼び込んでしまうところが大いにあった。

まあ岡田監督がどっちを考えていた、「根源」なのか「分岐」なのかは、正直僕もよく分からないんですけどね。何か考えがあったのかという、意味も含めて。(笑)

ソフトとハード

ことわざの話。と、特にアメリカとの対抗上、日本がソフトパワーやオリジナリティを、多少蛮勇でも見切り発車でもいいからもっと積極的に主張して行くようにならないと、今後どうにもならないというそういう文脈の話。

『話し上手の仕事下手』というのも、ある意味百里の道も九十九里が半ばと似ています。
これは口ばかり達者な人をあげつらうことですが、話し上手の仕事下手は、ソフトは考え付くけどハード化は苦手という人のことですよ。
こういう人を批判的に見るのは、正にハード重視の考え方を示唆していると思います。
凄いソフトを考える人は、ハード化する時の難しさを考えないから突拍子もないアイデアが涌いてくるんです。


『話し上手の仕事下手』は結構なことなんです。ソフトに巧みな人はハード化は苦手なんだよな、って評価しなければ駄目なんです。
話し上手と仕事上手が手を結ぶことを、『君臣水魚の交わり』と言うんです。君の役割と臣の役割は違うんです。でも、役割として対等なんです。対等だから水と魚になるんです。(中略)
話し上手の仕事下手は嘲笑うものではなく、これぞ水魚の交わりだと思えるようでない限り日本は発展しませんよ。


・・・・『月とスッポンと日本語―究極の蘊蓄語録』より。

まあこれはね、前に何人かの監督をサンプルにちょっと考えてみましたが、実際のところサッカーの監督の仕事の"分業"がほとんど進んでいない現状では、"ハード"が余りに駄目なら"ソフト"がどうだろうともう「駄目」と言われてそれで終わりになってしまうのは、致し方ないところが大きいんですけどね。「君」も「臣」も区別が無いんだもんという。一部の贅沢な例外を除いては。

ただそれとソフトの価値や可能性を、見る、想像力を働かせて見出すというのは、別の問題なわけで。
上司でも取り引き先でもないのに(?)、ふんぞり返って結果主義では。完成品を口まで運んでもらえないと食えないのかという。
・・・・まあ、結果食えないという、"可能性"も、当然ありますけどね。(笑)


「面白い」と「面白がる」の違い

僕は視た目の情報を自分の情報ストックと組み合わせながら解析するのが大好きなんだ。
予めの情報ストック量が大きくないと、新たな情報が小さくしか消費できない。人の反応は情報消費量が大きければ大きいほど増大する。
例えば、面白い、面白がる、この両者は明確に違う。後者には個人の情報ストック量に裏付けられた強い意志が働く。


本当の面白さというのは・・・・・・、ハウリングポイントを超えた世界に存在する。この世界は普通の人には雑音にしか聞こえないし、風景も視えない。でもここには、情報ストックと情報消費が常に一対一の人には決して経験できない未知の世界がある。


・・・・『視えずの魚』より。

明石散人お得意の論旨で、どこかにもっと分かり易い言い方をしている箇所があったような気もするんですが、見つからないのでとりあえずこれで。
面白がり礼賛。まあそんなに変わった論旨ではないと思いますが、一つ一つの言葉遣いが面白くて、それにより馴染みの論旨に新たな/独自の力が備わっていると思います。

ここで言う「情報ストック」を、「教養」と言い換えている箇所が確かあったと思いますが、いずれにしてもあんまり「事前にある知識」的に静的に捉えてしまうと、不正確だし何より偉そう過ぎるでしょう(笑)。たまたま知ってる世界を、延々メシの種にしている人のみっともなさ、みたいなこともありますし。
そうではなくてある"情報"が与えられた時に、既存のor自分の持っている知識群を、「意志」的に、「大きく」、対象を乗り越えるように、"情報ストック"として活用する態度、それが結果としての"教養"にも繋がるという、やや強引に読めばそういうことかと。・・・・勿論、絶対的な知識量も大事ですけど、ただ特にある程度レベルの似通った人どうしで違いを生むものという意味ではね。

「情報ストックと情報消費が一対一」というのはどういうことかというと、例えば"凄い"オシムを見て"凄い"と言う、みたいなことですね(笑)。"面白い"もの(オシム)を見て"面白い"と言う。
今回の文脈だと、当面は、そのままでは"凄"くも"面白"くもない岡田をいかに自らの教養でもって意志的に面白がるかということが問題になるわけでしょうが、しかしそれ以前にオシム自体も、オシムという"情報"を一対一的に「消費」してるだけじゃあ、しょうがないんじゃないのというそういうのはあります。

それでも何となく用が足りるように見えるのは、オシムの元々の情報量が大きいからで、だらだら消費しているだけでも結構間が持つという(笑)。自分の教養が問われるまでもなく。
一方で岡田武史なんてのは・・・・。はっきり言えば、僕が最初期に書いた文章群()などを思い出してもらうと分かると思いますが、ほとんど始まった途端に消費は終わってるんですよね。単なる一対一的なのは。後は自力で、どうにかしているだけで。
でも別に僕としては、オシムと岡田で違うことをやっているつもりもないので。褒めたいわけでも貶したいわけでもないし。淡々と、やっているつもり。僕がオシムに対して比較的否定的・批判的なことを書くのが恐らく多いのは、要するに「凄いオシム」や「面白いオシム」は、消費し終わったから次のことをやっているという、そういうたまたまの順番の話なわけですよね。逆に岡田を褒めることが相対的に多かったのも、「駄目な」「つまらない」岡田は、とっくに消費し終わっていたから。


こんなとこかな。
以上は残り二試合(運が良ければそれ以上)で岡田ジャパンがどういう結果を残そうと、言っておく価値なり必要性がありそうに感じられること。より本格的な総括も、終わってからやるつもりですけど。
まあ去年末くらいからは、僕もすっかり関心を失って、かなり受け身のいち"消費"者的態度になってることは否めないですけどね。(笑)

これにて一応の紹介終わり。
明石散人先生(笑)や明石ファンには、とんだ飛ばっちりでしょうが、妙に読んでいてバシバシはまったので、こういう書き方をしたくなってしまいました。


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