ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
『ハーバード白熱教室』総括(その2)
2010年06月23日 (水) | 編集 |
その1

ええ、悩んでたのはですね、備忘録程度のつもりで書き始めた前回のエントリーに、(母集団の規模を考えれば)意外な反応があってその理由を考えてみるに、どう見ても大したことは書いてないので(笑)、要するに前提的な"議論の整理"の部分に隠れた需要があったんだろうなと、そう考えざるを得ないということで。

だから予定では(前回の末尾に書いた)自分の主張の結論的な部分だけをさっさと書いてしまうつもりだったんですが、悩んだ挙句まずは今回も前置き部分を、少し丁寧に書いてみることにしました。
・・・・全然読みが違ってたら、ごめんなさい。(笑)


コミュニタリアニズム v.s. リベラリズム

まずはリバタリアニズム・コミュニタリアニズムと同様に、Wikiを基にしたリベラリズムの定義を。

liberalism(リベラリズム、自由主義) Wiki

・啓蒙思想から生まれ、政治的・法的には政府からの自由である自由権や個人主義、政府への自由である国民主権や参政権などの民主主義、そして経済的には私有財産と自由市場による市場経済や資本主義などの思想や体制の基礎となり、また総称ともなった。
・アメリカ合衆国などでは「リベラル」(liberal)は民主党などの社会保障や平等を重視した中道左派的な思想や勢力を呼称する事が多いため、政府や議会など干渉を最小限にすべきとする伝統的な自由主義思想を「リバタリアニズム」(libertarianism)と呼んで区別する場合も多い。
・現代のリベラリズムは、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。レッセフェール(自由放任)を基本原理とする古典的自由主義や自由至上主義(リバタリアニズム)とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。


前二者に比べると歴史が長い&意味が広義なので、まとめ方が少し難しいんですが。
現代日本語としての「リベラル」の語感からすると、上の項目2と3を押さえておくのは必須でしょう。ただ「対リバタリアニズム」ではなく、「対コミュニタリアニズム」ということに限っては、結局問題となるのはそもそもの定義である1項目目だけであると、そう言っていいような気がします。・・・・つまり僕の強調部分、『自由』『個人』の、"総称"ということ。

これらは要するに"近代人"の常識的なものであって、それにあえて名前を付けるのも実情に合わない感じはするんですが(かといって「近代主義」というとまた別の意味になってしまう)、現に講義で使われているのでしょうがない(笑)。ただ講義でも、要は常識という、そういうニュアンスは、きちんと共有されていたとは思いますけどね。それにあえて異を唱える、「リバタリアニズム」や「コミュニタリアニズム」という構図。
まあ現代日本語でも、いわゆる特に頭の固い頑固親父的な"前近代"性や"時代錯誤"に対する時は、「リベラル」という言い方も、割りとそのまま使われなくはないですね。


主意主義または意志主義と、『物語的自己』

リベラリズム的な「自己」(個人)観と、コミュニタリアニズム的なそれの違い。

前者は僕のヒアリング(?)の範囲だと、それらしい用語として「主意主義」という言葉がよく使われていたように思いますが、これもちょっと調べただけでも色んな文脈で使われてしまう言葉のようで。
ただ教授が言わんとするところは講義を見ていた人には割りと明確でしょう、道徳性や社会的義務を、あくまで「個人」(意識的自己)による(意志的)「選択」の範囲で/それを基準に考える広義の(つまりリバタリアニズムも含む)リベラリズムに対して、『物語的自己』という独特の言い方を用いて"個人""自己"の定義を拡張的に、より社会構造(共同体)に埋め込まれた形で予め考えることにより、デフォルトの義務・道徳の範囲をも拡張する、より社会的共同体的なものも含めたものとして再定義するというのが、つまりはサンデル教授の目指すところですね。

・・・・ちょっとややこしいのは、そういう話になる前段、むしろ講義の大部分を使ってサンデル教授が説明していたのは、功利主義的全体主義的な「結果の利益」や「全体の利益」ではなく、個人の「意志」や意志的「選択」そのものに道徳性・行為の正しさの基準を置こうとする、カントを筆頭とする哲学者たちの思想だったということですね。だから僕も最初は、何を言おうとしているのか、よく分からなかったです。

もう一つ『物語的自己』についてですが、これもいったい何を言い出すんだろう、"物語"って何だ?と戸惑った人が多いと思います。僕もこの言葉自体は初耳でしたが、言おうとしていることはだいたい分かります。
要するにこれは、例えば精神分析が「無意識」という言い方で、文化人類学が「文化」という言い方で、あるいは構造主義が「構造」という言い方で(他にも色々と)それぞれの文脈で主張・論証した、"意識"や"個人"や"主体性"といった、近代の理想や近代的人間観の基礎概念及び前提を限定or否定する見方、それをマイルド(笑)に脱色化した形で哲学的に肯定して、新しい自己概念として自分の政治哲学の基礎に置こうとしているという、そういうことだと思います。

上は言ってみれば僕の得意分野(笑)ですから、言わんとすること自体は分かっているつもりです。まあサンデル教授がどういう文脈や背景でこの概念に至ったのかは、講義の範囲ではちょっと分かりませんけどね。
とにかくサンデル教授/コミュニタリアニズムは、「自己」概念自体の改変によって、道徳概念の改変・拡張を行おうとしていると、そういうことです。自己は生まれ落ちた時に、(共同体的)「物語」の一部として既に含まれている/包まれている存在であって、(リベラリズム的な)孤立した自己ではあり得ないと。

人格の有する諸属性本質的なものであって、(リベラリズム論者の)ロールズの想定する偶有性は、無意味な仮想であり、リベラリズム的な個人主義が、家族や地域などとの紐帯を欠いた負担なき自我にすぎないというサンデルらの共同体主義からの批判


Wiki だとここららへんの話。
まあ"科学"的にはそうだと思いますけど、哲学的には少し乱暴というか、文脈が途中から変わっちゃってる気が僕はするんですが、論の趣旨から外れるので今回はこれ以上言いません。・・・・言ってみれば僕の中でも、"心理学者"としての自分と"政治哲学者"(?)としての自分は、当面別個に存在しているんですよね。「事実」の次元と「目標」の次元を、いきなりは混ぜられないというか。


リベラリズム的な道徳的虚無とコミュニタリアニズムによる補償

やはりあえて"リベラリズム"と言ってしまうと、何か狭いというか無駄に政治的な感じでウマくないですが、とにかく近代精神の目覚め以来、我々(少なくとも西側社会の)は様々な道徳や伝統的概念、社会的規制を否定・解体・相対化して来ました。
この講義の主な関心範囲で言えば、「愛国心」「家族」「所属グループ」「コミュニティ」への忠誠心、より卑近な(?)話で言えば、「男は男らしく」「女は女らしく」等々の前提的役割概念など。

こうした流れの根底にあるもの、原理が、"自由"で孤立した(現実的にというより論理的に)「自己」イメージと、それが改めて判断の拠り所としようとする意志的で合理・理性主義的な「選択」なわけですね。・・・・"物語"という言い方も、この"理"とのコントラストだと、そう呑み込むと分かり易いかも知れません。
ともかくそうした「自由」主義や「個("孤"?)人」主義、「合理」主義の徹底化の一つの帰結が、哲学としてのリバタリアニズムや、"納税の義務さえ否定する、個人の権利の侵害だと真っ向から主張するリバタリアン"の姿ではあるわけでしょう、論理的には。より一般的にも、ミーイズムなり幼児的エゴイズムなり、他者への無関心なり、米日問わずいつからか"問題"だと言われるようになった、ある種の傾向性など。
モンスターペアレントなり、学級崩壊なり?(笑)

それらに対して、現実レベルでは、典型的には「『家族の価値』の再生を訴える米共和党の候補」や、時にその背景でもあるキリスト教原理主義的なものの興隆というような形で、リアクションが起きることはままありました。またより大きく言えば、イスラムも中国文明も、そういう"西側社会"のようになるまいという警戒心をはっきりと抱いて、あるいは折に触れ表明していると思います。

ただそういう露骨にイデオロギー的なものや、西側一般人の感覚ではキワモノにしか見えない教条からなどではなく、講義の流れを見れば分かるように、リベラリズム的自由や個人の意志的選択の価値を十分に分かって認めているタイプの論者・哲学者たちが、あえて時に個人より優先する/超越する共同体的なものの価値や必然性を、独立した哲学的立場として主張するというのが、コミュニタリアニズムの言わば"新味"なわけですね。

人としてはむしろ"リベラル"タイプ(つまり"頑固親父"でも"国家主義者"でもない)、しかしあえて言っていることは、そうではない。そこに新たな説得力の可能性は、あるかも。その意外性が、"何事だろう"と耳を傾けさせるというか。
最初に言った、政治運動としての穏健性・非過激性という、担保と共に。


次からがむしろ、僕の言いたいことです。


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