2010年10月28日 (木) | 編集 |
『ハーバード白熱教室総括』その1、その2。
続きないし締め部分を書きかけたんだけどピンと来ないまま放置して、早4ヵ月。
その間にあれよあれよと結構なブームになって、"東大版"や"日本版"なども、催されているようですが。
たまたま残してあった(ハーバード版の)最終回を見直したら、いくつか気付いたことがあったので、書いておきます。
その上でモチベーションがあったら(笑)、予定していた"締め"も。
"敵"は「自由」や「個人」というより、「普遍」
さてこれまでは(そして討論の中でも)、主に「個人」と「自由」との、「コミュニティ」の対立、またはそれによる前者の制限という文脈・構図をメインに話を進めて来ましたが、講義をよく聞くともう一つの項、もう一つの構図、もう一つの遠近法が存在しているのが分かります。
それは『普遍』というもう一項を、めぐるものです
・・・・最終講義より。
結論として「個人」を制限しつつも、一方で功利主義の「最大多数の最大幸福」論に対しての異議から講義を始めたサンデル教授であるわけですから、本当の敵はこちらではないかと、そんなようにも思うわけで。
または「個人」主義の、「普遍」主義に繋がる部分というか。
「個人」がどのようにして、一見反対語のような「普遍」に繋がるのかについては、後でいくつか挙げたい面白い例示的説明があるんですが、ここではとりあえず、サンデル教授自身の言葉で、補強をしておきましょう。
簡単に言えば、"偏り"が無いから、"普遍"だということ。
友人に対する感情的依怙贔屓や、地縁血縁国籍等の帰属先という"偏り"から、切り離された「個人」という、そういう個人がその延長上として次に考える単位としての「普遍」、または"人類"ということ。
我々の"反・普遍" (笑)
なぜ(笑)なのかは、すぐに分かります。(わらい)
実はこういうタイプの「反・普遍主義」というのは、我々日本人、特にある世代以降の日本人には、非常に馴染みのあるものだと思います。
ありていに言えば、漫画やアニメを見て、育って来た世代。教育勅語でも、資本論でもなく。(笑)
例えば多くの(ジャンプ系?)少年漫画の主人公たちは、言います。
仲間を傷つける(た)奴は、許さねえ、と。
あるいはガンダムを筆頭とする、数多の宇宙戦争系のアニメにおいては、最初迫り来る敵を単に"敵"として扱っていた、あるいは自らの"正義"や"大義"を素朴に信じて戦っていた登場人物たちが、やがて敵も同じような人間であることに気付き、あるいは信じていた正義や大義に疑問を抱き、それに代わる普遍的な正義を捜し求めるも多くは得られず、断念して、代わりにより身近な人々や愛する人の存在、あるいは普遍的な正義からは遥かにミニマムな感情や良心の中に、行動原理や存在基盤を見出して行きます。
同様のものとして、"人類"に絶望した傷付き易い天才的人物が引き起こした「悪の計画」、典型的には人類を滅ぼして地球や宇宙を救おうというようなそれを、彼の絶望は理解するが、いくつかの卑近な善や愛を手掛かりに、それでも僕は/私は人間を信じると、そう叫ぶ主人公たちが阻止するストーリー。
まあほんと、そんなんだらけですよね、ぶっちゃけ。(笑)
たまにほんとに絶滅したりすると、いっそすっきりしたりしますがそれはともかく。(笑)
ちょっと言葉足らずかも知れないので補足すると、最初の「仲間を傷つける奴は許さねえ」発言の前には、
・何が"正義"かなんて知ったこっちゃねえが
あるいは
・"正義の味方"を気取るわけじゃねえが
というようなセリフ・前提が、省略されているわけですね。
"普遍"は知らないが、ともかく俺は、目の前のこれを信じると。
サンデル教授の"反・普遍"主義と、代わりに置かれた"コミュニティ"というのも、基本的には同じようなもの、同じような絆、あるいは同じような感情を背景とした概念だと思います。
ただのエゴじゃしょうがないけど、でも軽々しく語られる"普遍"はもっと怪しいと。
だからそれらの中間で、目の届く、責任の取れる範囲で、何か確かなものを見つけようという。
サンデル教授のコミュニティと、"我々"の正義観
このように、サンデル・コミュニタリアニズムの"コミュニティ"と、日本の少年少女及びそのなれの果て(笑)たちの正義観や絆(きずな)観には、実は見ようによっては非常に理解し合える共通性があると、そう言っていいと思います。
ただ・・・・一方で無視出来ない違いもあって、それが"なれの果て"の一人でもある(笑)僕の違和感を、終始くすぐり続けるんだろうと思います。
それは何かと言うと、一言で言って方向が違うんです。ルートが。(同じ)結論に至る。
それによる力点やニュアンスの違い。
つまりサンデル・コミュニタリアニズムの場合は、最初に紹介したように、直接的には極論的リベラリズムとしてのリバタリアニズム、そのエゴイズムの暴風雨に対するカウンターとして、提起されているわけです。
だから原則性や哲学的純理論性はともかくとして、実用的にはやはりこれは、"反・個"という方向性をメインとする思想であり、勢力であり、そのように機能するわけです。
ところが上で挙げたようなタイプの日本の漫画やアニメにおいては、明らかに敵は「個」ではありません。
個を押し潰す普遍・全体、あるいは逆に奪われた普遍性が与える存在的不安、それらに対する防御や救済として、絆や小コミュニティは、形成されるわけです。
だから動機としては、主導的な感情のタイプとしては、どうしても「個人主義」の色合いが濃くなるわけですね。
まとめて別な言い方をすると、ポジション的には似たようなものでも、サンデル製の"コミュニティ"が「小さな普遍」なのに対して、日本(のサブカルチャー)製の"コミュニティ"は、「拡張された個」なわけです。
中身にそんな大きな違いは無いと思いますが、構えている方向が違う。そしてそれによって恐らく、その先の成長の仕方も違う。
結局サンデル・コミュタリアニズムは、全体主義や前近代的共同主義への先祖帰りを招くだけではないのか、そういう不安・不満が、どうしても僕にはあります。
講義を聴いた学生たちに対する影響としてはともかく、その思想が一つの勢力化して、社会一般にメッセージとして伝わる段階ではという。
・・・・まあ既に講義でも、どう見ても単に素朴に「愛国的」だったり自分の所属している学生寮への「忠誠心」を自明のように語るようなタイプの学生が、上機嫌で教授の話を聴いているというようなシーンがありましたね。いいのか?それでいいのか教授?と、その時の僕の内心の声。(笑)
対してジャパニーズサブカル版コミュニタリアニズム(?)の場合は、そうした盲目的"普遍""共同"性への警戒心はよりしっかり保存されているというか、「個」と「普遍」の緊張感はより高い次元で存在しているというか、そういう風に僕の目には映ります。登場人物たちの行動や態度に、背景にある"思想史"が、より確実に刻まれているというか。
一つにはやはり、どうしても「個」の方が脆弱なので、より力点を置いておかないとすぐに消し去られてしまうという、カ関係の問題もあると思いますが。
ちょっと先走り過ぎたかな。
結構結論を、言ってしまったような気もします。(笑)
続きないし締め部分を書きかけたんだけどピンと来ないまま放置して、早4ヵ月。
その間にあれよあれよと結構なブームになって、"東大版"や"日本版"なども、催されているようですが。
たまたま残してあった(ハーバード版の)最終回を見直したら、いくつか気付いたことがあったので、書いておきます。
その上でモチベーションがあったら(笑)、予定していた"締め"も。
"敵"は「自由」や「個人」というより、「普遍」
さてこれまでは(そして討論の中でも)、主に「個人」と「自由」との、「コミュニティ」の対立、またはそれによる前者の制限という文脈・構図をメインに話を進めて来ましたが、講義をよく聞くともう一つの項、もう一つの構図、もう一つの遠近法が存在しているのが分かります。
それは『普遍』というもう一項を、めぐるものです
君たちの内の何人かは、集団の構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり私たちが人類に対して負っている義務に、いつも劣るに違いないと論じたが(中略)、それは正しいのか。
啓蒙思想家モンテスキューは、この容赦なく普遍化しようとする傾向が、道徳的想像力をどこに導くのかについて、恐らく最も強力で、最も正直な説明をしている。
「本当に有徳な人は、もっとも遠い他人を助けるためにも、友人に対するのと同様に迅速に駆けつける。」
そして彼は、こう付け加えた。
「完全に有徳な人に、友人はいないだろう。」
人類愛は気高い感情だが、多くの場合、私たちはもっと小さな連帯で暮らしている。
・・・・最終講義より。
結論として「個人」を制限しつつも、一方で功利主義の「最大多数の最大幸福」論に対しての異議から講義を始めたサンデル教授であるわけですから、本当の敵はこちらではないかと、そんなようにも思うわけで。
または「個人」主義の、「普遍」主義に繋がる部分というか。
「個人」がどのようにして、一見反対語のような「普遍」に繋がるのかについては、後でいくつか挙げたい面白い例示的説明があるんですが、ここではとりあえず、サンデル教授自身の言葉で、補強をしておきましょう。
(カントやロールズの個人の自由意志主義について)
更に魅力的なのは、その普遍的な念願、つまり偏見や差別無しに個人を個人として扱うという、考え方だ。
簡単に言えば、"偏り"が無いから、"普遍"だということ。
友人に対する感情的依怙贔屓や、地縁血縁国籍等の帰属先という"偏り"から、切り離された「個人」という、そういう個人がその延長上として次に考える単位としての「普遍」、または"人類"ということ。
我々の"反・普遍" (笑)
なぜ(笑)なのかは、すぐに分かります。(わらい)
実はこういうタイプの「反・普遍主義」というのは、我々日本人、特にある世代以降の日本人には、非常に馴染みのあるものだと思います。
ありていに言えば、漫画やアニメを見て、育って来た世代。教育勅語でも、資本論でもなく。(笑)
例えば多くの(ジャンプ系?)少年漫画の主人公たちは、言います。
仲間を傷つける(た)奴は、許さねえ、と。
あるいはガンダムを筆頭とする、数多の宇宙戦争系のアニメにおいては、最初迫り来る敵を単に"敵"として扱っていた、あるいは自らの"正義"や"大義"を素朴に信じて戦っていた登場人物たちが、やがて敵も同じような人間であることに気付き、あるいは信じていた正義や大義に疑問を抱き、それに代わる普遍的な正義を捜し求めるも多くは得られず、断念して、代わりにより身近な人々や愛する人の存在、あるいは普遍的な正義からは遥かにミニマムな感情や良心の中に、行動原理や存在基盤を見出して行きます。
同様のものとして、"人類"に絶望した傷付き易い天才的人物が引き起こした「悪の計画」、典型的には人類を滅ぼして地球や宇宙を救おうというようなそれを、彼の絶望は理解するが、いくつかの卑近な善や愛を手掛かりに、それでも僕は/私は人間を信じると、そう叫ぶ主人公たちが阻止するストーリー。
まあほんと、そんなんだらけですよね、ぶっちゃけ。(笑)
たまにほんとに絶滅したりすると、いっそすっきりしたりしますがそれはともかく。(笑)
ちょっと言葉足らずかも知れないので補足すると、最初の「仲間を傷つける奴は許さねえ」発言の前には、
・何が"正義"かなんて知ったこっちゃねえが
あるいは
・"正義の味方"を気取るわけじゃねえが
というようなセリフ・前提が、省略されているわけですね。
"普遍"は知らないが、ともかく俺は、目の前のこれを信じると。
サンデル教授の"反・普遍"主義と、代わりに置かれた"コミュニティ"というのも、基本的には同じようなもの、同じような絆、あるいは同じような感情を背景とした概念だと思います。
ただのエゴじゃしょうがないけど、でも軽々しく語られる"普遍"はもっと怪しいと。
だからそれらの中間で、目の届く、責任の取れる範囲で、何か確かなものを見つけようという。
サンデル教授のコミュニティと、"我々"の正義観
このように、サンデル・コミュニタリアニズムの"コミュニティ"と、日本の少年少女及びそのなれの果て(笑)たちの正義観や絆(きずな)観には、実は見ようによっては非常に理解し合える共通性があると、そう言っていいと思います。
ただ・・・・一方で無視出来ない違いもあって、それが"なれの果て"の一人でもある(笑)僕の違和感を、終始くすぐり続けるんだろうと思います。
それは何かと言うと、一言で言って方向が違うんです。ルートが。(同じ)結論に至る。
それによる力点やニュアンスの違い。
つまりサンデル・コミュニタリアニズムの場合は、最初に紹介したように、直接的には極論的リベラリズムとしてのリバタリアニズム、そのエゴイズムの暴風雨に対するカウンターとして、提起されているわけです。
だから原則性や哲学的純理論性はともかくとして、実用的にはやはりこれは、"反・個"という方向性をメインとする思想であり、勢力であり、そのように機能するわけです。
ところが上で挙げたようなタイプの日本の漫画やアニメにおいては、明らかに敵は「個」ではありません。
個を押し潰す普遍・全体、あるいは逆に奪われた普遍性が与える存在的不安、それらに対する防御や救済として、絆や小コミュニティは、形成されるわけです。
だから動機としては、主導的な感情のタイプとしては、どうしても「個人主義」の色合いが濃くなるわけですね。
まとめて別な言い方をすると、ポジション的には似たようなものでも、サンデル製の"コミュニティ"が「小さな普遍」なのに対して、日本(のサブカルチャー)製の"コミュニティ"は、「拡張された個」なわけです。
中身にそんな大きな違いは無いと思いますが、構えている方向が違う。そしてそれによって恐らく、その先の成長の仕方も違う。
結局サンデル・コミュタリアニズムは、全体主義や前近代的共同主義への先祖帰りを招くだけではないのか、そういう不安・不満が、どうしても僕にはあります。
講義を聴いた学生たちに対する影響としてはともかく、その思想が一つの勢力化して、社会一般にメッセージとして伝わる段階ではという。
・・・・まあ既に講義でも、どう見ても単に素朴に「愛国的」だったり自分の所属している学生寮への「忠誠心」を自明のように語るようなタイプの学生が、上機嫌で教授の話を聴いているというようなシーンがありましたね。いいのか?それでいいのか教授?と、その時の僕の内心の声。(笑)
対してジャパニーズサブカル版コミュニタリアニズム(?)の場合は、そうした盲目的"普遍""共同"性への警戒心はよりしっかり保存されているというか、「個」と「普遍」の緊張感はより高い次元で存在しているというか、そういう風に僕の目には映ります。登場人物たちの行動や態度に、背景にある"思想史"が、より確実に刻まれているというか。
一つにはやはり、どうしても「個」の方が脆弱なので、より力点を置いておかないとすぐに消し去られてしまうという、カ関係の問題もあると思いますが。
ちょっと先走り過ぎたかな。
結構結論を、言ってしまったような気もします。(笑)
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