ヴェルディ、代表、二次元、女子バレー 他
非理想主義的理想?
2011年07月13日 (水) | 編集 |

ブータンへ行ってみたいもう一つの理由がある。それはブータンの若き王、ジグメー・シンギエー・ワンチュックのお人柄である。

最近、アメリカの雑誌に王のインタビューが載った。イギリス留学の経験もある王が、鎖国政策に触れて、「われわれは別に東洋のスイスになりたいと思っていない」とおっしゃった。ブータン人は特に勤勉じゃないし、オーソドックスなものの考え方は好きじゃない、と。
「東洋のスイス」という、かつての日本にマッカーサーが託していた夢を、王は頭から拒絶している。鎖国政策によって、自国文化のいったい何が保存されるか。王は答える。
「われわれは遊びゲームレジャーが好きなんだ」と。


"リービ英雄"という妙な名前の、大人になってから本格的に日本語を覚えて、それで日本語で書いた小説が評価されて少し脚光を浴びた、名前は変だけど(笑)ハーフでも二世三世でもない純粋な白人作家のエッセイ・評論集『日本語の勝利』

日本語の勝利日本語の勝利
(1992/12)
リービ 英雄
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の一節より。

なかなか面白いと思いますね。
「国民総幸福量」という、そのジグメー・シンギエー・ワンチュック現在は"元"国王が掲げたスローガンというか指標が有名な、そのブータンの政策の根底にある考え、メンタリティ。
イタリア人スペイン人が言うなら普通ですが、名うての仏教国ブータンの国王に言われると、あれ?という。(笑)

何も大層なことをしたいわけじゃない。特段理想的国家体制を発明しようとも、それでもって人類を救おうとしているわけでもない。むしろ何もしたくないのだ。余計なことを。・・・・そしてそれが、"幸福"であると。
その"余計なこと"の最たるものが、「近代化」であり、またそれをモデルとした「社会の発展」的な発想であり、それをブータンは拒否すると。その為の鎖国。

何かをしたいから鎖国するのではなくて、近代化をしたく"ない"から鎖国する。
理想主義的なものや積極的な「理想」を拒否するという形の、理想。資本主義タイプの近代国家という理想を、更に超越する別の「理想」を掲げた社会主義・マルクス主義との、それが違いか。
"発展"しないミニスケールなら、それが可能であるという、そういう意味も含めて。

・・・・ま、例によって思いっ切り僕の意訳ですけどね。(笑)
要するにさ、ダりぃんだよ、近代化って。ヤボなんだよ。ほっといてくれよ。
粋なブータンっ子は、宵越しの近代国家は持たないのさ。


リービさん自体は、こんな風にまとめています。

文化は「遊び」である。文化が破壊されるとき、まず「遊び心」が抹殺されてしまう。
破壊された遊び心に代わって、陰鬱な近代ナショナリズムがはびこる。それと同時に、自発的に行われていたゲームが見せ物となって、見せるという意識のあまり、「ネイティブ」が「ネイティブ」以外のものに変貌してしまう。


どうしていきなり"ナショナリズム"という言葉まで飛び出すのかは、全文を読んでも実は不明なんですけどね。でも"陰鬱"というのは分かる。
あと言わんとしていることを"正しい"和製英語で表せば、「ネイティブ」のところは「ナチュラル」じゃないかと思います。(笑)

太字部分はなんでしょうね、"プロスポーツ"批判?(笑)
ちなみにアメリカ人です。アマチュア礼讃の、英国紳士ではありません。
まあ観客の為にプレーするなんてのは、下品というか邪道だとは、僕も思います。そういう話ではないのかな。(笑)
ゲームはゲームそのものの為にある。汝の敵(対戦相手)は愛せよ。でも観客なんてほっとけ。
それをまた外野が、自分の甲斐性で鑑賞するのも楽しむのも、それはまたそれぞれの勝手です。
近代以前の戦記ものとかを読むと、文字通りに観「戦」をする無関係の庶民とかがいたりして、面白いです。当然飛ばっちりを食って死ぬこともあるわけですが(笑)、それがいちいち"なんちゃらの悲劇"とか言って問題にされることは、勿論無い(笑)。自己責任で、よろしく。

プロスポーツっていったいなんなんだろうと、最近よく思いますね。実は相当、不思議なものなのではないかなと。


ちょっと唐突に聞こえるかも知れないですが、所謂スウェーデン/北欧的な"福祉国家"の「理想」というのも、むしろブータン方面に引きつけて考えた方が、本質が分かり易いのかもなとか。
「保守」(小さな政府)か「革新」(大きな政府)かみたいな、"近代"的な枠組みとは、少しずらしたところで。
"どちら"というよりも何よりも、"一抜けた"なのではないかと。資本主義的"発展"も、社会主義的"理想"も、勘弁してくれと。がつがつしたくないと。ちんまりと内輪で、上手く回して何とかするよという。

そういう言ってみれば"厭世"観というか、"憑き物落"ち感(笑)抜きで、例えば日本に持って来ようとしても、そうそう上手くは行く当てが無いだろうなという。
思想や国民性が先にあっての、社会体制というか。・・・・逆に"アメリカニズム"が、「国民性」的に少し厳しいだろうというのも、これは広く認められるところだと思いますけどね。

それこそ社会主義だって、"そういう"人が集まれば、意外とあっさり機能するのかも知れない。
実は僕は学生時代に男3人くらいで、社会人になってからもある仲の良い女の子と、「財産の共有」じみたことをしていたことがあります。
要は金の貸し借りなんですけどね。ただしかなり無頓着な。"現金"なんか、その時必要な奴が持ってればいいという感じで、特に使う当てが無ければほぼ無制限に貸し続けたり(まあ原資は限られてますが(笑))、あるいは僕も借りたりしていました。

ちゃんと関係を解消する時に、全額回収・整理はしましたけどね。
みんな無頓着だったので、額が合ってるのかどうか実は微妙な部分もあるんですが。(笑)


とにかくスウェーデン/北欧的なそれを、右が馬鹿にするのも左が理想化するのも、どっちもちょっと、違和感があります、僕は。
そういうことじゃ、ないと思うんだよなあ、なんか。
ベースとなっている経済観(感)・社会観(感)そのものが、最初から少し違うのではないかと。(逆に言えばその場合の右と左は、実は同じ構造内の住人)
システム的には、大文字の独創性までは持っていないんでしょうけど。

そういう微妙なものなので、ブータンが変容してもスウェーデンが困難に陥っても、それ自体はまあ仕方が無いなという感じですが。
束の間面白いものを見せてもらって、満足というか。
"諸行無常"というまとめでは、少し雑過ぎるかも知れませんが。(笑)
むしろ世代間の認識や感覚の継承の、絶望的に近い困難の方かな。気が付いた時には存在していたものの、意味や有難味の認識に、普通若者は失敗する。必ずというか。(笑)


ちょっと引用して紹介するつもりが、こんな話になったか。(笑)



(追記)

忘れてましたが本全体について。

うーん、お勧め!!というほどは、面白くないです。(笑)
変わったアイデンティティの人ならではの面白い部分は勿論ありますが、ありきたりな日本人論日本人文化論、あるいは頓珍漢なor古臭い(20年前の本ですからね)それに見える部分もまた少なからず。

基本的には各雑誌でバラバラに書いたものを集めただけの本ですが、改めて初出を見ると新しいもの、平成に入ってからのものの方が相対的に鋭く感じるというのは、健全ではありますか。
その"鋭い"部分と関連して表題の意味としては、「日本語」というもののユニークさ、及び教育力・感化力というのがメインのモチーフと言えばそうで、「日本文化(論)」とは「日本語(論)」であるというのが、基本認識なのかな。

で、ふーんと思ったのは日本における外国人・外国文化、更には来たる"移民"の問題について、それらとどう"共存"するかなんてのは、いかにも西洋的なつまらない考え方だと、そんなことをごちゃごちゃ言わなくても、要は「日本語」を学んで使えるようになれば、その偉大な感化力で勝手に「日本人」になるから、それだけ考えればいいんだと、それは俺たち日本語を喋る"変なガイジン"たちには自明なことだと(笑)、そういう話みたいですね。あんまりはっきりとは書いてませんが。

それがつまり、『日本語の勝利』

マイク・ハーフナーとか思い出すとそうかもなとは思いますが、一方で在日コリアンたちの問題はそんなに簡単ではないようにも思えるし、まあ僕もよくは分かりません。


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