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読書日記(’12.7.4) ~『批評あるいは仮死の祭典』
2012年07月04日 (水) | 編集 |
批評あるいは仮死の祭典 (1974年)批評あるいは仮死の祭典 (1974年)
(1974)
蓮実 重彦
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特に推してる本ということではないんですが、(蓮実重彦による)「フランス現代思想を代表する”4人”へのインタビュー集」という体裁が、まとめて一つのエントリーにし易いので今回はこれメインで。
最初に読んだのは・・・・まあ20年前ですかね。四泊五日のイギリス旅行のお供として、荷物を多くしたくないのでなるべくスイスイ読めなさそうなものという理由で(笑)、出がけの紀伊国屋で適当に目に付いたこれを買った記憶が。・・・・とにかく文章が読み難いんでね、蓮実重彦は。(笑)

買った時は全然知らなかったんですが、今回改めてWikiを見てみると、どうやらこれはかの高名な映画・文芸批評家蓮実重彦センセイの処女作(著書)だったようで、再版にあたってつけられた本人による序では、ぎゃー恥ずかしい読むな読むな、こんな本もう読む価値無いから的な悲鳴が、つづられています。(笑)
この前読んだ同じくニーチェの処女作(『悲劇の誕生』)につけられた同様の再版序でも、やっぱり似たような悲鳴がつづられてましたが、本人に書かせるとそうなっちゃうでしょう、どうしても。特にこういう、”カッコいい”タイプの人たちは。(笑)
まあそれはそれで、読む方は楽しいですけど。こちらが見出す”価値”は、また全然違うものだったりしますし。これは本に限らず、音楽でも映画でも何でも。デビュー作というのはしばしば独特。最も純粋に、しばしば良質に、作者の本質が表れていたりする。・・・・作者の”隠したい”本質が。(笑)

では以下。
収録順に従って、”ジル・ドゥルーズ”編”アラン・ロブ=グリエ”編”ミシェル・フーコー”編”ロラン・バルト”編


ドゥルーズ ~「問題」という問題

問題というものは、それがどのように提起されたか、いかなる条件のもとに問題として限定されるに至ったか、またどんな方法と用語で問題化しうるかといったものとの関係で、きまってそれにふさわしい解決がそなわっている」(p.74)

科学にあっても実践にあっても、問題解決法を指令的に操作し、それを越えるものだという考え方なのです。数学にあって重要なのは、問題と、問題暗に含む象徴的システムであって、定理でも証明でもありません。新たな解答が必要なら、問題と、領域と、問題の与件をまず変えなければならない。(p.84)

ある体系内である問題が解決されないとしたら、それはその体系に問題をしっかりと、厳密に提起する力がそなわっていないのです。だから体系の方をこわしてしまわねばならい。
マゾッホはかかる問題の概念をきわめて重視し、(中略)この点に関して、サドは遥かに「古典的」です。なぜなら彼は、ある論証という概念にとどまっており、問題の概念には至っていないからです。(p.85)

ジル・ドゥルーズというのは、所謂フランス現代思想のナンバー1というか最終形というか、そういう人。
これ以上の解説を手早くやる能力が僕には無いので、ともかくそういう位置づけだけでも、ぼんやり頭に置いて下さい。

言ってることは、ほぼ全面的に賛成・・・・ですが、逆に僕程度にすら自力でたどり着ける「問題」を、天下のドゥルーズがわざわざ、それも一般大衆というよりは同業者/プロの学者・思想家相手に大声で言わなくてはならなかったという、そういう状況に驚きましたが。
問題なのは「問題」なんですよ、たいていの場合。答えの選択そのものでも、それを見つける研究や論証の細目でもない。始まった時に、ほとんどの勝負はついてるというか。

僕自身のこういう”問題”意識が最も過去によく表れているのは、特に論争的な相手に対するコメント欄でのある種の対応だと思います。相手の名誉の為に、例示はしませんが。要は相手の問い自体が気に入らないので、それの修正やすり合わせにほとんどのスペースを使って、なかなか所謂”答え”に至らないので、しまいにはぐらかされていると相手が怒っちゃったりということもあったりしましたが。(笑)
でも実際にそれこそが「問題」であるし、逆に誤った問いに答えることは誤りをこじらすだけで不毛そのものなので、そこはどうしても、神経質にならざるを得ない。

・・・・論理的に直接の関係はありませんが、感覚的最終的には似た事態を表現している気がするものとして、例えばユングのこんな言い方があります。

私は早くから、一生の問題や複雑さに対して内部から何の答えもこない時には、結局それはほとんど意味をもたないのだという洞察に達していた。

『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)』 p.20)

有”意味”に設定された問題に対しては、なんらか即座の答えが自然に浮かぶはずだという、そういう考え、経験則。逆にぐちゃぐちゃ考えないと出て来ないような答えなんて、出す意味が無い、その時は無理して考えないでいい。
多分に”人生訓”的ではありますが、結構この一言には、青年時代(笑)のある時期救われました。それもあって、こういう問題にはこだわるのかも知れません。
ドゥルーズ的に言えば、「ふさわしい解決」が「そなわっている」問題のみに、問われる意味があるという。
まず問題を疑え、与えられた選択肢を素直に選ぶな、と、まとめてしまうと多少陳腐ですが。


アラン・ロブ=グリエ ~”革命”の不徹底をめぐる苛立ち

チェコ・スロバキアでもおそらくは日本でも「ヌーヴェル・バーグ」のシャプロールやトリュフォーの映画が、映画を変革したと思われ、彼らの影響が波及していく。
ところが彼らの新しさとは何かというと、せいぜい文学の世界でいうフランソワーズ・サガンに過ぎない。ある種の未知の快いトーンが姿をみせてはいても、しかし映画への本質的な洞察は一つとしてない。いかなる現代性もない、ゼロです。こうした誤解が映画的展望図をすっかり閉ざしてしまいました。
(中略)
もちろん、ゴダールは別ですよ。ゴダールという人だけは、シャプロールやトリュフォーとはまったく異質で、映画そのものの構造、そのステレオタイプ、映画の中で映画そのものについて語ること等の作業をおし進めた。つまり映画そのものと批判的に戯れることで映画を撮ってきたわけですが、その仲間といわれた作家たちが戯れていたものは、権力に奉仕する物語の、つまりは権力階級の言葉たちとの幻影的な遊戯にすぎなかった。(p.132)

僕も詳しいわけではないのでしかとは言いづらいですが、確かにトリュフォーを見た時は、ハ?と思いました。どこに新しさや過激さがあるんだ?ただの(フランス)映画じゃんという。好き嫌い別にして、ゴダールとこれが並べられる意味が分からん、この二人に某か本質的な関係性があるとはとても思えんと、それは素朴に思いました。
それに比べれば幾分かはマシだと思いますが、所謂ロンドンパンクにおけるクラッシュ(≒トリュフォー)とピストルズ(≒ゴダール)の関係も、似たような感じだと思います。正直ピストルズとそれ以外を、まともに比べる気には僕はなりません。
まあ一つの時代の一つのジャンルに、天才(ゴダール、ジョン・ライドン)がそう何人もいてたまるかと、そういう話ではあるかと思いますが。

”作られたブーム/ムーブメント”という問題とは別に、要は多数派の観客が求めるのは正にロブ=グリエが鼻で笑う「ある種の未知の快いトーン」そのもの、その程度のものであって、逆にそちら側の(低い方の)水準からすれば、それらを同じ枠で括ることにも結果的な妥当性はあるのだろうと、一応納得した振りはしてみますが、下らないものは下らない
それなりに腕のいい、映画監督でありロックバンドではあると思いますが、それ以上でもそれ以下でもない。
ま、”ムーブメント”と共に語られていなければ、あえて叩くような対象ではないんですけどね。
公平の為に言っておくと、クラッシュはトリュフォーよりはまだ”新しい”と思いますし、一方でピストルズはゴダールほど革命的でも意識的でもないとは思います。その分”マシ”だと、上はそういう意味です。(笑)

いわゆる文学の高級な読者で、ふだんは、よしてくれよ、もうジョイスというひとがいるんだから、いまさらサガンだのトロワイヤだのというのはやめてくれ、プルースト以後、こんな小説を書くのは許されないはずだと公言してはばからない連中が、ひとたび映画館に入ってゆくと、トリュフォーにすっかりやられて、これは現代的だなどとつぶやいてしまう。どうしてそんなことが起きるのか、まったく理解できない。(p.133)

ますます”例示”そのものには上手くついて行けませんが(笑)、”事態”としては、想像出来ます、心当たりはあります。
一言で言えば、ある人の”センス”の表れの、ジャンルによる不揃い、不徹底、それによる幻滅や”裏切り”感の問題。(笑)
あるでしょ?ある特定のジャンル、例えばサッカーにおいて尊敬すべき見識を感じさせた人が、他のジャンルに対して漏らした一言示した”見識”が、存外に陳腐だったり一貫性を感じなかったりして、なんだよ?と思った経験。(笑)
僕も気を付けてはいますけど、いずれ”やっちゃっ”てはいるんでしょうね、程度はともかく。
とりあえずは、自信が無いorコミットメントが浅いジャンルについては、少なくともそのことが分かるようには、書いているつもりですけど。

こうしたことが起きるのは、一つにはその人が純然たる”専門家”タイプだった場合というのが一つ、それから似てますが何らか個別的な構造・環境の問題で、その人の資質が高いレベルで発揮され得るジャンルが限定される場合、それから純粋な”不揃い”、つまりその人内部での「発達」のバラつきがある場合。いずれ追い付くかもしれないけど、あるいくつかのジャンルでは達成された発達・成熟が、他のいくつかのジャンルではまだ達成されなくて、その分既成の批評に乗っかる部分が多くてそれで”裏切り”的な陳腐さが出現してしまうという。

まあブロガー/ツイッタラー(笑)くらいならいいんですけどね、リアルでやられると結構きついんですよね。特に”恋人”的な、「期待」の比重が大きい関係だと。
あの人なら分かってくれるはずだ!・・・・くれねえし!みたいな”裏切られ”方。
この前言ったあれと今言ったこれと、一貫性が無いじゃないかと論理的に「追及」しても、余りいい事態にはならないですし、男女関係では。(笑)

まあいいです。(笑)
「どうしてそんなことが起きるのか、まったく理解できない」とロブ=グリエさんはアジってますが、ほんとは上で言った程度のことは”理解”しているはずです。ただでも苛つくと。悲しいと。友人たちの”裏切り”が。(笑)
最後になりましたが、アラン・ロブ=グリエというのは僕もよく知りませんが「ヌーボー・ロマン」という小説の世界での”革命”を主導した人で、同様のことを映画でもやっている人のよう。僕が見たことがあるのは、例のそのスジではそれなりに有名な『去年マリエンバートで』

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だけです。(脚本を担当)
まあ、よく分からなかったですけど(笑)。今回のを参考に、もう一回くらい、見てみますか。

フーコー ~『西欧』というシステム

世界が、資本主義に特有のこの西欧的な「権力」形態を越えねばならぬと思います。わたしにとって真実と思われるのは、いまや、非・資本主義的な文化は、西欧文化の圏外にしか生まれまいということです。西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈服させられてしまいます。われわれは、非・資本主義的な文明を創出するには、疲弊つくしています。

ミシェル・フーコーは、”病院”や”精神医療”等の「近代的」制度の特異な実証研究を通して、今日無意識なまでに常識となっている近代特有の「権力」「支配」システムの存在、それがいかにして生まれたかを明らかにした人。
上の箇所で僕がおやと思ったのは、”西欧の外でしか西欧の乗り越えは起きない”ということよりも、むしろそれが”起きる”ということについての思いの外強めの、「希望」の気配。

つまりこの前ツイッターで、こんなことを言ってたわけですが。

上では何と言うか、どちらかというと「ユダヤ国際金融資本の世界支配」みたいなストレートな意味での「権力」「支配」を念頭に置いていたんですが(笑)、さすがにそういうことではないのかな。もっとシステム的、行動様式的な意味での、「西洋」「支配」。
いずれにしても、そうした問題意識から、結論を言うとフーコーはホメイニを支持したor好意的だったと、中沢新一は言うわけですが。

当時も実はなんか短絡的な話だなあとは思っていたんですが、今回実際にフーコーの肉声(?)を聴いた印象としても、割りとこう、生真面目というか素朴というか、うっかりするとあさま山荘にこもりかねないという、そういう印象は多少受けました。・・・・あるいはうっかりすると、”東洋の叡智に答えがある”的な。
それこそ上で言う、”専門家”タイプなのかなという。優れた研究者だけど、哲学者ではないというか。
ま、近い内に確認してみるつもりですけど。ただの独り言ですいません。(笑)


ロラン・バルト ~話すこと語ること、書くこと

これは、いささか精神分析的なテーマになりますが、誰かと一緒に時を過ごした場合、かりにその人が何もいわず、ただこちらの言葉に耳を傾けてくれていただけであっても、そのときこちらが口にする「思想」にとっては、その人の存在が創造者の役割を果してくれるといった事態が存在します。(p.216)

人が人に”影響”を与えるということの面白さ、複雑さということ。
サイコセラピー的な”聴くこと”が、「職能」として成立するゆえんというか(笑)。聴き方一つで、本当に相手の反応や思考、言葉は変わる。
話戻してこれこれこういう「思想」を読んだから聞いたから、そういう風に”影響”を受けるということではないし、”賛成”だから受け入れるとか、”反対”だから受け入れないとか、そういう単純なことでもない。言葉は”言葉”としてだけ、機能しているわけではないというか。
・・・・面白いのはロラン・バルトという人が、書かれたもの/文学を、その”背景”や”意味”などではなく、飽くまで「書かれた」そのものとして、言うなれば”単なる”言葉として「科学的」に扱う分析法研究法で、一世を風靡した人だということ。
そういう人が、これを言うという。

書物を書くとは、ある意味それを抹殺するためだ、二度とそれには言及しないためだ(p.217)

これはそういう(?)自分の自己弁護みたいなところも、ある言葉。自分がそういう科学主義的と目される本を書いたのは、それらが自分にとっては”終わった”ことだからだという。
まあ勿論、そういう言い訳を目的として言っているわけではなくて(笑)、あくまで『書物を書く』という行為についての自分の一般的な見解・感慨を、述べているんですけどね。

こういう面は、実際あると思います。殺す”ために”書くかはともかくとして、書いた時点では既にその内容は”死んで”いる、あるいは死んだ内容だから書き言葉に移せる。
死んだというか終わったというか。あることを書いている時点で、書き手の関心・思考は必ず既にその”先”に進んでいるので、全てのテキストは思い出話であるというか、過大にか過少にか、必ず現在のその人に対して”嘘”であって、だから”書いて”ばかりいると、何かイーーーーーッとして来るというか。むしろ非創造的な時間を、過ごしている気がして来る。なんも新しいことが起きないぞ?
さりとてあんまり書き”ながら”考えているものは、えらく読み難いし。(笑)

まあもっと一般に、だから”作者”というものは常に、いかに”傑作”だろうと自分の過去作に対しては何かしら複雑な思いがあるものだと、そういうことではあるでしょう。
むしろ読者は作品の”中”でそれなりに豊かな人生は送れても、作者は難しいんじゃないのかなあという。作品というか、書くことの”中”に生きるのは。それはやはり、ある種偽りの人生。

・・・・ということを、特にバルトが言ってるということでもないようには、思うんですが。
非常に面白い人で楽しく読みましたけど(フーコーと違って(笑))、なかなかどうやってその面白さを伝えたらいいのか。
いずれにしても(つまり”科学主義”かどうかはともかく)思想「内容」の人ではないので、難しい。


ま、とりあえず今日はこんなところで。
楽勝だと思ったら、意外と苦労しました(笑)。長いし。
ぶっちゃけかつての「現代思想」の”スター”たちに対するミーハー心がいくぶんなりとも無い人(世代)にとっては、ちょっと退屈な話だったかも知れません。


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