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山中栄一『神の原因と影響』その2 ~神伝承と文字、「自然神」崇拝の起源
2013年01月20日 (日) | 編集 |
その1

面倒なのもあって(笑)なかなかなタイミングを掴めずに、かなり久しぶりの続き。
論自体がマイナーなので、ついつい肩を持って「説得」にかかりたくなりますが、それやってると切りが無い/論文になってしまうので極力抑えて、面白い論点を「紹介」することに、なるべく専念したいと思います。


神伝承と文字

少し本筋からずれますが、補助線的な内容。

現代が手にする古代詩歌の中からは、神の真相を記したものは見当たらない。それらが伝えているのは更に古い過去に存在した神についてであり、現前せざる神に対しての祈りである。
こうしたところからすると、神の存在は文字使用以前の過去であったと思われる。文字を使用する知的段階に神が出現したとすれば、その状況は文字について固定された筈であり、そうしたとき神の不明確性は生じなかったであろう。
(p.27上)

「古代詩歌」というのはこの人が挙げている直接の例としては、まずは何と言ってもインドの(リグ)ヴェーダ、それから少し時代下がってギリシャのホメロスのようなもののことですね。神々と人間の関わりを主題にした、文学化された古代の伝承群。リグ・ヴェーダは紀元前12世紀頃ホメロスの作品群は紀元前8世紀頃書かれたとされているようですが、その時点で既に、”遠い過去”の話として、その内容は語られている。
経緯的なことで言えばホメロスの方はよく分かりませんが、ヴェーダに関してはアーリア人が”移動”しながら長い年月をかけて蓄積して来た口承が、インドへの定住を機に改めて編纂・文字化されたと、そういうことです。

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辻 直四郎
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引用はしませんが一応読みました(笑)、コレも。今回に合わせて。

神的伝承は単なる伝説としてではなく、莫大なる量の文字によって伝えられ(中略)ているところからすると、これを認めないとするにしても相応の理由がなければならない。
初期の文字の殆どが神に関する記載であるのを、これを総て仮構のために用いられたとするには、文字の貴重性からして一層の困難が伴うのである。
(p.28上)

古代文明において(or歴史のある時点まで)「文字」を使うというのは、多くの場合特別な/特権的な技術・知識であり、それを用いて書かれる文章・文献もまた、特別な機会に特別な/明確な目的を持って作成されていた。
その「目的」である神々についての記述が、例え後世の目にどれだけ不可思議で荒唐無稽なものに見えたとしても、少なくとも作成時点でそれが意図した出鱈目や個人的空想であったとは、およそ考えられない、何らか書き留めるに値する特別な価値と”事実”感が共有されていたはずだという、そういう話。・・・・僕らのブログやらツイッターやらと、一緒に考えてはいかんという(笑)。”書く”という行為の、重みが違うんだよという。
まあ古代文明やその伝承の理解の仕方としては、ある意味常識的な態度かも知れません。

その一方で・・・・

文字の発達は、一方において、記憶を共通のものとして固定させるところから記憶の負担を軽減し、ここにおいて記憶の負担から解放された意識は自由を得て創作的志向を得ることになる。古代詩から古代哲学への移行発達はこうした状況に生じたものであり、
(p.37下)

なるほどなあと思いましたね。
膨大な伝承を記憶・口伝している状態では、忠実に憶えるだけで精一杯で、(偶発的誤伝はあるにしても)とても個人の「創意」などを入れている余裕は無い。
しかしその記録機能を石板なり木簡等なりに記された文字が肩代わりするようになると、それによって初めて、文字技術者に”クリエイト”の余裕や契機が生まれる。良くも悪くも
あるいは文字文献として固定されることによって、後代の”読者”が批評や解釈を働かせる余地も大きくなって、更に状況は複雑になる。

とにかくだから、なるべく古い”忠実”な文献・伝承の方が、資料的価値は高いし、知的には素朴でも「真相」に近いところにいる可能性は高い。(読み解く必要はありますが)
そして実際、こと”神”ということに関して古今東西の哲学は、ほとんどの場合事態をこじらせて(笑)人類を真相から遠ざける働きしかして来なかったと、自らも”哲学者”であることの人は言うんですが、それについてはまた次回の予定。特にアリストテレス、あんたの責任は大きい。

・・・・前回(最後)の論点”未開人は迷信を持たない”、つまり「未開人は未開人なりの素直な認識能力でもって、自然環境を至って現実的に捉えていたはずである」との関連でこの節をまとめてみると、つまり古代の神伝承/神話は決して出鱈目や空想ではない、貴重な文字の使用目的として専ら充てられるに相応しいだけの何らかの事実性を元にしている、ということですかね。
ただしその”事実”は神話文献作成者にとっても、直感的な真偽判断の覚束ない遠い過去の出来事であり、更にそれが後世の文字使用者の”創造性”によって様々に歪められて、現在に至っているという。
むしろ(”神”に関する)迷信は、人類の「進歩」の産物であるという。(笑)



「自然神」崇拝の起源

太陽神を筆頭とする、自然現象の働きに”神”を見る「自然神」崇拝と言えば、原初的で”素朴”な信仰の代名詞であり、迷信そのものであり、宗教的に言えばそれらを退けてより統一性や精神性を持つように洗練したものが、今日「神」と言ってまず連想されるだろう砂漠の一神教的な唯一絶対の創造神信仰であり、勿論当の自然現象の働きの実相を解き明かしたものが科学であると、概ねこれが、現代人の常識的理解だと思います。
それはある面その通りなんですが、どっこいそこまで単純な話ではない、色々と順序が転倒しているんだというのが、この人の第二の主張。

山中テーゼ(2)
”「自然」から「神」観念が生まれたのではなく、「神」観念から「自然神」崇拝が生まれたのだ”


どういうことか。

まず山中さんも、自然神崇拝が古代人にとってすらある種の誤解・誤謬であり、迷信であることは否定しません。
具体的にどのように、そうした”誤解”が生まれたかというと。

こうした超能力存在こそ神の存在を認める上での困難の理由をなすものであり、そのための回避として、神は自然現象の神格化されたものへと換置されたのであった。
(p.131上-下)

上で引いておいた補助線参照ですが、つまり古代神話の筆記者にとっても、先祖から伝えられる神々の、いわく黄金の馬車で天を駆け巡り、いわく手にした恐ろしい武器で一瞬で辺りを焼き払うような超人的超絶的能力の数々は”神秘”であり”謎”であり、もっと言えば困惑させられるものであり、それを何とか日常と接合しようとする半ば無意識の作業の結果として、それら伝承に近い”驚異”の担い手として、「自然」現象が選ばれたと。そこに神格が付与されたと。そういう話。

こういった願望対象の置きかえは、リグ・ヴェーダでも認めることができる。即ち彼らの祈願対象は、(インドラのような人格的)神に対するのと同様に、神格化された太陽に、そして水に、更には薬草にまで及ぶ。
(p.131下)

人格神と自然神が、混じった状態で祈願対象とされている。

で、面白いのは当の古代(インド)人たちが、言わば同時代的にその「混合」の難をはっきり意識していたらしいことで、

彼らは神々に向かって、古の聖仙が伝えたところの神々は互いに等しく輝けるものであるということだったから、あなたがいまも変わらず輝いていられるとすれば、我々からすると太陽とあなた方の区別はつかないと述べているのである。
(中略)
彼らが太陽神に向かって祈るところのものは(中略)神的能力を有する神々に対するように(中略)具体的な祈願を認めることはできないし、また、降臨されたらソーマ酒を捧げるなどという交易的な祈祷文も認めることができない。それは、太陽を神として認めつつも、東から昇り常に同じ軌道に輝く太陽が、伝承の神と相違することを知っていたからに他ならない。
(p.146上-下)

”具体的”というのはこれこれの能力を持つと伝えられる神に対して、これこれのことをしてくれという祈りですね。リグ・ヴェーダの内容の大部分は、実はそれです。そしてその交換条件・報酬として、神々の大好物と伝えられている(笑)”ソーマ酒”を捧げようという、これも無数に出て来る記述ですが、人格神たちには専らこのように、古代インド人たちは語りかけるわけです。
ところが一方の自然神には、ただただ太陽なら太陽であること、その働きや恵みを、そのまま称賛して感謝するだけで、特別”取引”を持ちかけることもない。そうした違いがある。自然は自然だと、実は分かっている。

やがては自らの「仮託」の結果として自然神が立てられたことも忘れ去られ、”伝説の超人”よりもより直感的に理解し易い自然神崇拝の方がメインになり、あるいは古来の”神々”との区別は全く付き難くなって行くわけですが、ここでは一種の”過渡”状態が、露わになっているわけですね。
更に。

尚彼らは太陽神に向かって問いかける。即ち、太陽とはどちらがより古くあるのか、また、太古から伝えられた神々はどこにいるのか、と。
(p.147上)

面白いですねえ。
自然現象と、”超人”としての神の関係に対する根本的な疑問、あるいは両者を同時にまたはまとめて「神」という一つの観念で括ることの難というのを、古代インド人も言わば我々と同様に、感じていたという話。

しかしその後、言わば苦心の”合理化”であった自然神崇拝は既成事実化し、時と共に本格的な”迷信”の度合いを深めて行きます。

こうした例は、神を超能力者とした結果、自然現象が神の属性となったためであり、すると雨も風も太陽の輝きさえも、神の意志によって操られているものとの想像へと発展する。こうした想像の飛躍は、神が不可思議な幻力を有しているとする伝承を基礎として発展したものである。
(p.143上)

讃歌は更に、神は天界のこと、海のこと、風雨に関すること、作物のこと、現在、過去、未来の総てを知悉していると讃える。(中略)こうした認識は明らかに、神の能動と自然現象とを混同するところから生じているといえるだろう。
(p.148上)

山中さんが特にそう書いているわけではありませんが、僕がここに見るのは、「創造主」の誕生です。宇宙の支配神というか。
・・・・つまり本来別々のものであった(超人としての)「神」伝承と「自然」現象(の驚異・偉大)が結び付いて既成事実化した結果、「神」の能力の想定が伝承の範囲を遥かに越えて拡張され、あらゆる自然現象の原因・根拠が(観念としての)神に帰され、ついには天地の創造者の地位にまで祭り上げられてしまった、言い換えれば「天地」に「創造者」がいるという観念そのものも生まれたと、そういうこと。
(小さな)「神」観念による「自然」の観念化というか。その結果としての、”自然の主”としての(大きな)「神」の誕生。「創造主としての神」という観念が、突然素朴な原始人の頭に沸いたわけではない。

・・・・ここらで今までの流れを、まとめて図式化してみますかね。

1.自然を自然として、必要十分に認識・利用していた原初の人類。(神なき時代)
2.突然降って沸いた、異常な能力を持った人格存在との遭遇。→”神”観念の発生
3.”神”伝承の累代の継承と、直接体験の風化・忘却。
4.3の影響下での、”神”伝承の合理化・常識化としての、自然神崇拝の発生。
5.自然神崇拝の定着・既成事実化
6.”自然神”を媒介とした、”神”観念の自然全体への投影・拡張。→「創造神」観念の発生
7.神=創造主という観念の定着
7’.「神による創造(物)」という観点から自然を見る習慣の定着

以上が僕が多少補足した、山中さんの考える(”神”をめぐる)人類史。勿論、「科学」以前のですが。
まあ肝心の”2”については、実はろくに説明してませんけどね。そう言えば(?)宇宙人も全然出て来てないし。(笑)
それらについては、勿論次回で。

・・・・正直ちょっと、導入で宇宙人の話をしてしまったことは、後悔しています(笑)。いい引きになるかと思ったんですけど、むしろ”引かれ”てしまったようだし。(笑)
僕が読みながら味わった驚きも、先にオチを言ってしまったことによって伝える機会を逸してしまったわけですし。
今のところは要するに、”神人”の話。それが宇宙人未来人か、はたまた異次元人かはともかくとして。(笑)

究極的には実は、宇宙人自体も、どうでもいいという人なんですけどね。あくまで哲学者ですし。
論理と想像力が導き出した、たまたまの結論ということで。
では次回。


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