東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
火野葦平(2) ~『小説 陸軍』、中空の桃源郷
2013年08月03日 (土) | 編集 |
(1)はこちら。(火野葦平Wiki)


『小説 陸軍』

小説 陸軍〈上〉 (中公文庫)小説 陸軍〈上〉 (中公文庫)
(2000/08)
火野 葦平
商品詳細を見る

小説 陸軍〈下〉 (中公文庫)小説 陸軍〈下〉 (中公文庫)
(2000/08)
火野 葦平
商品詳細を見る

というわけで((1))何の気なしに手に取った、『小説 陸軍』(または単に『陸軍』)でしたが。
予想外のハマり方を。

内容的には幕末の小倉藩に始まる、代々兵士士官を輩出したある家系の三代に渡る軍隊/日本陸軍との関わりを、明治維新(幕末動乱)、日清日露、第一次大戦、そして太平洋戦争に至るまで追った、一見すると”壮大な叙事詩”のようですが、実際には個人史、(戦争を含めた)”日常”の風景の積み重ねという感じの作品。
念の為に言っておくと、フィクションです。一部乃木大将などの実在の人物も登場しますが、”いかにもありそうな”でも架空の一家の話。

読む前の予想としては、体験者としての一部ミリタリーオタク的なディテールを備えつつ、軍隊生活の厳しい日常と戦場の”過酷な現実”が上下二巻に渡って繰り広げられる、少々気が重いけど勉強にはなる、そんな感じの作品かなというものでした。
その予想はその限りにおいては当たっていなくはなかった、そういう内容は当然大いに含まれてはいたんですが・・・・。でもね、なんかそういう本でもないんですよ。そんなありきたりのと言うか。

一言で言って、”幸せ”な本です。幸せな人たちを描いた、読んでて幸せな気持ちになる本。または今まで知らなかった”幸せ”の可能性を、幻視出来る本というか。
・・・・危険です(笑)、結構。とりあえず安倍首相には、教えないで下さい。(笑)


上で言ったように、この本には特に偉い人は出て来ません。中心人物もいません。
一族の中で出世して士官になった人は、なるほど士官らしいかっこいい言い方をしたりしますし、代々のお父さん(笑)は軍人一家らしく、子供たちにお国への献身の大事なことを説教したりはします。ただそれらはあくまでその人たちがそう言うというだけのことで、それらの言が作品を支配したりはしませんし、あるいは様々な立場の人たちの微妙に異なる意見が、特段集約されたり展開したり、そもそも鋭く論点を形成したりもしません。ほとんど放りっぱなしです。”ドキュメンタリー”よりもフラットというか、相対主義という”立場”ですらもないというか、本当にただの放りっぱなし。

にも関わらず、抗い難く僕を捉えて来る感慨は・・・・何かを”信じ”て生きる人たちの美しさ、生きることの幸せさ。あるいは何かに”献身”して生きることの高貴さや、充実感といった感情。
そう、だから、”そういう”感情です。そのテのというか。

具体的にここに出て来る人たちが、形はともあれほとんど例外なく信じて献身の対象としているのは、天皇陛下の尊貴であること」や、「(その時々の)日本が行っている戦争の大義といったこと。
なお、微妙な差ですが、神国日本」は特に出て来ません。見当たりません。一方で「三国干渉」(日清戦争の勝利で日本が得た権益の一部を、仏・独・露が共同で圧力をかけて手放させた)や、そして「リットン調査団」(による満州事変・国が違法であるとする結論)への国民こぞっての激烈な怒りは、当時の”庶民感情”として迫真的に表現されています。・・・・”海軍”の話になりますけど、列強との各種軍縮協定に対しても、結構みんな怒ってましたね。不当であると。

勿論僕は、戦後教育を受けた普通の(?)日本人ですし、あらゆる価値観を一応考慮の対象とはするとしても、こうしたあの時代の価値観や歴史認識をそのまま受け入れることは困難です。・・・・少なくとも通常は。
しかしこの本を読んでると・・・・読んでいる内に・・・・どうもそうしたものが自分の中に浸透して来るのを、妨げることが出来ないんですね。勿論”天皇陛下の尊貴”をそのまま信じることはさすがに難しいですし、それぞれの”戦争の大義”は、結局は歴史研究の個別の問題ということにはなります。しかし当時の人たちがそれらを信じていたこと、そのリアリティと、更に彼らが信じていたこと自体が価値あることであること、そのリアリティ、僕らがさんざん聞かされて来た、戦後の後知恵的”反省”では容易に否定し去ることの出来ない。


なぜ否定が難しいかと言えば、一つには彼らの「信じる」姿が美しいからです。繰り返しになりますが。具体的には、彼らは「信じ」てはいるんですが、そこに「狂信」の臭いがしない、あるいは「洗脳」「強制」の禍々しさが感じられないからです。・・・・”戦後”持たされて来たイメージに反して。
洗脳されたのは、いったいどっちなんだ、と、いかにもある種の人たちが喜びそうな疑問を、感想として持ってしまいますが。

信じて何が悪い。むしろ信じることは、生きる為のやはりなのではないか、特に真っ当に生きる為の。
・・・・と、いうことを、彼らの姿を見ていると、どうしても感じてしまいます。我が身を振り返りつつ。
僕には天皇や大日本帝国を信じることは出来ないけれど、それでも彼らを美しいと思う、彼らのように生きられたら、どんなにいいだろうと、”幸せ”だろうと、思ってしまう。あるいは結局のところ、ほとんどの人にとっての”幸せ”というのは、こういうことなのではないかこれでいいのではないかと、真面目に思ってしまいました。これ以外に、あり得るのかというか。

勿論僕らも、何らか”信じ”てはいると思います。
民主主義を筆頭とする、戦後的なあれこれを。なんだかんだ。そうでないと生きられないというか。
その意味においては、僕らと彼らの間に違いは無い、僕らの”信”が、彼らのそれに比べて価値が無い、偽物であるということはないだろうと。
ただ・・・・僕らが彼ら、戦前戦中の日本、あるいは”伝統”的な日本をここまで否定的に、何ならおぞましく感じるに至った、至らされたプロセスの方は、やはり”洗脳”と呼ばれることに妥当性のある、そういうプロセスなのではないか、そういう意味で、彼らの”信”には無い陰り歪みを、僕らの”信”は持っているだろうと。

真面目な話、”信”じる能力のある種の貧しさ、拙(つたな)さというのは、戦後の日本人の大きな弱点であろうと、僕は思います。心理学的な意味でも。特有の不安定さ、脆弱さの源。
上で「狂信」ということを言いましたが、「狂信」というのは信心深い人が陥るというよりは、むしろ「信」じることに慣れていない人が、たまたま馴染みの無い魅力的に見える何かの洗礼を受けた時に、歯止めやバランスを失って一気に行くところまで行ってしまう、そういう現象であると言った方が実態に近いのではないか。オウムに走った理系の秀才たちという例は、いささか類型的に過ぎるかも知れませんが。
懐疑虚無の日常から、一気の偶発的な狂信へと、両極端を行ったり来たりしているのが、戦後の日本人の姿なのではないかというか。(まあ日本人には限らないかも知れませんが)
そして裏切られてまた虚無へ帰る、あるいは逆サイドの狂信へと。

(作中の)戦前・戦中の人たちが、"皇国史観"ですらも場合によってはバランス良く、狂信に走らずに”信”じることが出来たとすれば、それはそもそも「信じる」ことを否定しない文化・時代精神の中で、生きていたからではないかという。
信じることの、プロ、ベテラン。我々と比べてね。


話戻して「軍隊」生活についても、『小説 陸軍』は、かなり”魅力的”なものとして、描写しています。
勿論軍隊の訓練や上下関係の厳格さ、実戦における戦闘や窮乏生活の過酷さなどはきちんと/たっぷりと描かれてはいるんですが、ただそれらを決して(ある種の定番ですが)"不条理"なもの、"間違った"ものとしては描いていない。
早起きは辛い。装備チェックは厳しい。上官に会う度にいちいち敬礼するのは大変だ、勿論苦手な上官や同僚はいるし、どうにも尊敬出来ないお偉いさんもいる。ただそれらは要するに個人レベルの、あるいは個人差の範疇であって、"人間"どうしならあり得ることで、「軍隊」が全体として何か特に歪んでいるとか誤っているとか、そういう描き方はされていない。言い換えれば初めて"社会"に出た新人たちの苦労ということではあっても、軍隊だからという部分は余り無い。

軍隊"だから"というのならむしろ逆に、お国の為という、一般企業のそれより遥かに巨大高尚な使命感が前提にある集団ゆえの(一人一人の、特に上官たちに感じる)精神性の高さ、清冽さ。あるいは日々命がけで文字通り体当たりで事に当たることを繰り返している中から生まれるリアリティ、互いに誤魔化しようの無い、「人間性」のぶつかり合い、その結果育まれる濃密で何よりも信頼のおける人間関係。
こうしたものが、かなりの説得力を持って描かれていると思います。

内容的に軍隊特有のものというよりも、一つの目的の為に組織された人間の集団が持ち得る精神性や美徳、それを"軍隊"という極限の条件がどのように最高度に実現出来(得)るかという、そういう感じですが。
更に言うならば、"お国の為"というような前提も、それ自体が正しいというよりも、その時確かにそれを信じていた("狂信"(↑)ではなく)人たちがいて、そのことがどのように人を上品にするかという、それくらいの距離感は隠されているとは思いますが。

ただとにかく結論として、ここに描かれている「軍隊」生活は、一言で言えばとても"幸福"なものであり、人間の集団の/人間関係のある種の"理想"であり、また人間の醜さよりも美しさの、より効率的に実現された姿であると、そのようには間違いなく読めます。
理想的な集団であるというのでもあるし、同時に当事者意識としても、(神聖な責務を遂行する集団である)ここにおいては理想的な何かが実現されるべきだ、一人一人がそう努めているはずだという前提があり、だからこそれぞれの行為や言動の意図を平均して好意的に解釈するので、それによってまた互いに"いい人"であり続ける可能性が高まるというか、そうあらんというバイアスがかかり続けて本当にそうなるというか、そういう循環が見えますが。
信じることで、救われるというか。


言うまでもなく、これらは仮に幻想でなくてもたまたまの"よい例"、"よい面"と言うべき性格のものであり、火野葦平自身も常にそうだとか、あるいはこれこそが「真実」の姿だと言い張るつもりは、無かったろうと思います。違う面もたっぷり描いた、他の作品を見れば明らかなように。
ただではこれが"御用作家"がでっちあげたただのプロパガンダなのか、ありもしない架空の理想的軍隊を個人の想像力で作り上げたものなのかと言えば、それも違うだろうと思います。
軍隊、より具体的には日本陸軍には、確かにこうした"面"があった、こういう本質を持っていると解釈が可能な性格や、更に言えば実態もあった、別な言い方をするとこうした「軍隊」像を、多少のノスタルジーに助けられつつも、一定数の人々に、当事者たちの胸に、共通して描き出すことが可能なそういう基盤は存在したと、そう言えるのではないかと思います。

・・・・恐らく最近めっきり評判の悪い「体育会」系の人間関係などについても、同じことは言えるんだろうなと、想像はしますが。僕はどちらも、深くは関わったことは無いですが。

話戻してこうした感慨に打たれながら僕の目に次に浮かんだのは、朝生などで太平洋戦争や歴史認識関連の議題の際に、ゲスト/証言者として呼ばれたおじいちゃん(笑)たち、元兵士等の戦争体験者たちの、"戦争の悲惨さ"を訴えるグループはいいとして、そうではなくて「お前たちは何にも分かっていない、我々は国の為大義の為に、誠心誠意戦ったんだ、みんな立派だったんだ」と訴えるタイプの人たちの姿。
たいていは会場を束の間シーンとさせて、その後で曖昧になだめるようにスルーされるというのが、定番の扱いですが。

もし彼らの頭の中に、多かれ少なかれ、"可能態"としての『小説 陸軍』のようなイメージが広がっていたとすれば(いたんだろうと思いますが)、それを全否定される、一面的に切り捨てられるのは、切り捨てられ続けた戦後の数十年間は、いかに納得の出来ないものだったか、悔しい思いをして来たか、そのことがこの本を読むことで非常に実感的に分かってしまって、僕も思わず、泣きそうになってしまいました。
全く話したことも無い人たちの気持ちを、遡行的にかつ完全に想像で、随分迂遠な話ですが。(笑)
悔しかったろう、おじいちゃんたち。分かるよ(ほんとか?)。ごめんね僕ら、無知で。何にも知らなくて。(これはほんとだ)

と同時に次に思ったのは、田原総一朗って何よ?ということ。(笑)
いったいどういう立場で、そこに座っているのよ。
野坂大島らがいた初期はともかく、ある時期からは何かと言えば「僕は古い人間だから」とかいう枕詞で、すっかり"古い世代の代表"的な立ち位置で話をすることが多いわけですが、言いたかないけどほとんど禁句だけど、あんた戦争行ったことすら無いんでしょ?
何の資格で、古い世代を"代表"しているのよという。なんちゅう中途半端な「古さ」よというか。お前にそれを言われたくはないわと、テレビの前で総つっこみしている本当に"古い"人たちが、大量にいるんだろうなというか。(笑)

実際もっと本当に古い人たちの声を聴きたいと思うことは、ある時期以降の朝生ではちょいちょいありましたね。せめて野坂さんの言うことを、もう少し真面目に聴いとけば良かったというか。(笑)
まあ田原総一朗が元々は大きく言えば左翼の、正に"戦後"的な文化人で、それが気が付いたら今のような位置に押し流されて収まることになったという経緯は、分からないわけではないんですけどね。
最近ではほんとに、個々の政治家に直接話を聞けるらしいコネくらいしか、見識として尊重すべき理由は見当たらない感じですが。
より意識的に"保守"な村田教授が出て来たあたりから、そのことは明らかになってしまった感はありますが。ところで田原さん、あなたの立場って何よという。

ま、それはいいです。(笑)
とにかくヤバい本でした。軍属民間人問わず、"皇国の大義"を信じて生きる人たちの、美しさ幸福感が、眩し過ぎて。


以上が本編を読んだ感想ですが、あとがきを読んで更にびっくりしてしまいました。
かいつまんで言うと、この小説は従軍記者としての中国戦線の任務から帰還した後の火野葦平が、尚も続く戦争を横目に見ながら、リアルタイムで書いていた新聞連載小説なんだそうで。(ちなみに朝日新聞)
新聞小説というと剣豪ものとか親父愛欲ものくらいしかイメージがありませんが(笑)、戦時中はこんな"時事"的なものが連載されていたのか、「新聞」らしいと言えばらしいけど、逆に奇妙というか落ち着かない感じがするなあというのが一つ。
それからこんな言わば"総括"的な内容を(だってこのタイトル)、戦争の真っただ中に書いている火野葦平の作家的心情は、どういうものなのよという不思議さが一つ。

いやあでもほんと、奇妙な風景に感じますよね。湾岸戦争の最中に、湾岸戦争小説とか書かないでしょう、普通(笑)。"暴露"ルポとかならともかく。今のスピード感でも。
読者は完全にフィクションだと分かって読んでるわけで、それを天下の朝日新聞が連載させるということは、つまり需要があったということでしょうし。
なかなかどういう生活感なのか。分かりかねる。
むしろ2ちゃんのリレー小説とかウォッチスレ的な、そういう時間感覚やリアリティの多層性を感じたりしますが。電車男ですかという。(例が古いか)

後者については「解説」に、"恐らくは自身敗戦の気配を濃厚に感じながら書き綴っていた"というようなことが書いてあって、なるほどなと。
だからこその「理想」化、それはいわゆる大本営発表的な"糊塗"というよりも、個人的な遺言、これから敗れるだろう愛すべき美しい人々への、作家として捧げられるせめてもの手向けというか、そういうものだったんだろうと想像しますが。
あるいは確かにくみ取られるべき何かが存在したということの、その先予想される"否定"に対する、先回りしての抵抗というか。"証拠"作りというか。
いずれにしても一種の"ファンタジー"であることは、意識されていたんだろうなとは思います。

読んでる方はどうだったんですかね。単純に気持ち良くなっていただけなのか。我らの素晴らしい兵隊たちよと。これからも勝ち続けると?
その割りには書かれている戦況としては、後半特に芳しくないものが多いですけど。
もし火野葦平自身と同様に、分かって"夢"を見ていたとすれば、凄い民度ですけどね。(笑)
まあ現時点では、それについて僕の方に判断材料はありません。


次、最後(3)後編に続きます。
『小説 陸軍』の更に背景・基盤をなす作品群について。


スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック