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『アニメが「ANIME」になるまで』
2013年08月31日 (土) | 編集 |
アニメが「ANIME」になるまで―『鉄腕アトム』、アメリカを行くアニメが「ANIME」になるまで―『鉄腕アトム』、アメリカを行く
(2010/03/16)
フレッド・ラッド

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この前レポした『宮崎駿の時代』の著者による、訳書。
ついでに借りて来ました。


まず最初に言っておくべきこと、&読んでいる最中に僕が自分に言い聞かせなくてはならなかった(笑)ことは、これはあくまで、"アメリカ人が、アメリカ人読者に向けて"書いたものだということです。それもどちらかというと、ライト/一般層へ向けて。
日本のアニメ("ANIME")について書いてはいても、決して日本人や日本のアニメ(ヘヴィ)ユーザーに向けて書かれたものではない。

そこらへんを理解しないと、例えば本のタイトルの受け止め方一つとっても、完全に間違えることになります。
つまりこのタイトルを日本人が普通に読めば、「(日本の)アニメがいかにしてアメリカでウケて、"ANIME"として認知されるに至ったか」という、かなりポジティヴな内容の本だと予想すると思います。
カラオケがKARAOKEになった、みたいな。(笑)

しかし実際には全然違って、これは「(アメリカ発の)アニメという表現が、日本という奇妙な国の文化を通過することで、いかにして"ANIME"という似て非なるものに変質して帰って来たか」という、そういう本です。
前提にあるのは、アニメーションというのはあくまでアメリカが元祖であり本家であり、そして王道であり正統である(今日でも)という強い意識で、しかもそれはあえて主張されているのではなくて言及する必要も無いくらいに当然のこととされているということです。そこに悪意は無く("意"自体が無い)、この人自体は知日家であり日本アニメの愛好家であり庇護者であるという立場で完全に書いているので、そのデフォルトの傲慢さイライラしない為に(笑)、冒頭の「アメリカ人がアメリカ人に」を言い聞かせる必要があったわけです。

"アニメ"と言えばアメリカ。日本のものは"ANIME"。そこお間違いなくという。
まあ悪気は無いし、日本アニメの良さも特徴も認めてはいるんですけど、その認め方が所詮上から/外から目線というか、日本アニメとの遭遇・考察が、アメリカアニメやあるいはアニメそのものの原理的考察に結びついたりとかは全くしないという。
それは一つには"アメリカ人"の限界であるし、もう一つは業界で長く生きて(アニメプロデューサー&吹き替え演出家?)はいても、「研究者」や「学者」でない人の限界でもあるかも知れません。"ジャーナリスト"ですら、ないですね。
ただ同時に要は"一般人"である著者のこうした態度は、日本アニメが(海外特に欧米で)普通に直面する態度でもあるわけで、そういう意味ではそうした"現実"を知らしめるという、この本自体のある意味での"意義"とも重なって来ると思います。・・・・最初に言ったようにあくまでアメリカ人向けの本であって、"知らしめる"意図は無いわけですけどね。(笑)

というわけで定期的に違和感を感じつつも、興味深くは読みました。
今からレポしますが、構成としてはまずフラットにこの本が与えてくれたアニメトリビア(?)をつまみ食いして、その後に"違和感"の中心である日本アニメの独自性、特に"暴力表現"について、本に拠りながら思うところを書いて行こうかと。


『鉄腕アトム』とアメリカ

1."リミテッド・アニメーション"

p.29

当初からの懸念は、虫プロから送られてくるフィルムは動きの作画枚数が極端に少なかったことだ。
(中略)
作画枚数を少なく抑えるやり方、すなわちリミテッド・アニメーションの技法が、『鉄腕アトム』やその後に続く日本製アニメーション番組の基本になった理由は、制作予算を日本の放送局がたくさんは払っていないからだった。(中略)リミテッド・アニメーションにせざるを得ない事情のなか、作り手たちは新たな表現技法もいろいろ編み出していった。

"リミテッド・アニメーション"
Wikiによると、考案そのものはアメリカだということですが。
まあ別に「五・七・五」みたいに枠が決まっているわけではないので(笑)、そういうものが"ある"と言えばあるし、"無い"と言えば無いんだろうと思いますが。セル画が「多い」「少ない」と言っても、相対的なものなわけでね。・・・・特に手塚/アトムの場合は、別に好き好んで少なくしていたわけではないので。
ただ基本的になるべく動きを豊かに、滑らかにという方向でひた走ったディズニー等、アメリカのアニメの主流に対して、当初から"省略""節約"を強く意識していた日本の(TV)アニメが、それこそ「五・七・五」的な"簡潔"の美学とも相まって、独特の表現世界を構築することとなったと、そういうことはあるようですね。

かなりのカットは動きの作画がないただの静止画で、動きがあってもそれはカメラ移動、つまりカメラが絵に寄ってアップになるとか、ぐるっと絵の上下左右が回転するぐらいしかない。

そこらへんに関連して面白かったのがこれ。
この"カメラ移動"による表現の多さというのを、この人は他の箇所でもやたら日本アニメの特徴として取り上げるんですが・・・・ただこれって、むしろ「実写」映画では普通の表現じゃないですかね?(笑)
"クローズアップの発明"なんて大昔まで遡らなくても、カメラワークによる"語り"、カメラとその背後にいる演出家の視線による"語り"というのは、むしろ映画表現の王道というか、本来あるべき形と主張するタイプの理論も多いはず。登場人物がせりふや動きで、いちいち説明するのではなくてね。
どうなんでしょうね、これは日本アニメの作画枚数の制限から来る苦肉の策というだけではなくて、後でも出て来ますがアニメを完全に"子供向け"の特殊表現と囲い込んでいるアメリカに対して、ある程度映画一般と地続きで考えている日本アニメとの意識の違いみたいなものがあるんじゃないかなと思うんですが。
実写映画を作る代わりに、作るようにアニメを作るというような感覚が、日本の作り手には最初からあるというか、特に禁じられていないというか。
ちなみにしばしばアニメの"原作"となる日本漫画でもこうした"カメラワーク"的表現は発達していて、それが洗練され過ぎて実は日本人でも漫画を"読めない"、(漫画の)"カメラの言葉"を理解出来ない人が増えているという話は、最近聞きますね。その隙をラノベが衝いているとか、いないとか。(笑)

私なりに言い換えれば、「子どもは動きの手間は気にしない」だ。物語が素晴らしければ子どもはついてくるのだ。

まあほとんど独断的表現なんですけど。
"リミテッド"なアトムが、アメリカ(の子供たちに)でウケたという、結果を踏まえて。
まあそうかも知れない。子供はとにかく「お話」を聞かせて欲しいのであって、細かいことはどのみち想像力でカバーしてしまうので、あんまり関係無いという。
僕の"リミテッド"好きというか、作画/動きのテクニックへの極端な関心の薄さの理由も、案外そこらへんにあるのかも知れない。(笑)
誰が子供じゃ。(笑)
前回の比喩(↑)も踏まえると、確かに子供の時は女の子を好きになるのに"スタイル"とかの細かいところを特に気にした覚えは無いので、作画のディテールばかり気になるのは汚れちまった大人の証拠、嫌な"具体性"の感覚の目覚めだと、そういう可能性はある。(笑)
今は尻の形一つとってもうるさいうるさい(笑)。くびれの角度がどうしたとかね。
実際僕は、"お話"が見たいんですよ。あくまでそれに付随する形での、映像技術というか。
"過不足ない"というのが、求めることで。ロックバンドの、"演奏力"というか。
上手いだけでダサいということも、ままある。


2."市場"としてのアメリカ

p.29

日本は詰まるところ市場規模が大きくはなくて視聴者の数もそれなりに留まってしまう。

そこまで言い切ってしまう、つまり日本のTVアニメが根本的に"内需"では立ち行かないかのように断じてしまうのは、どうかという部分はありますが。
いや、別に僕もデータを持っているということではないんですが、後に来る主に表現内容の問題で日本アニメがアメリカに売れなくなる時期を、「暗黒時代」と言い切ってしまうこの人の言語感覚からすると、日本だけでは商売にならないからアメリカに売りに来ていると、かなり単純にこの人は見なしている可能性が高いように思うので。
まあスポンサー頼みでおもちゃの売り上げ次第だったという話はよく聞きますが、この人がイメージしている(だろう)ように単純に、人口の問題だとは、言えないように思います。もうちょっと複雑。

p.88

これは手塚にとって大打撃だった。虫プロはすでにフジテレビと放映契約済みで、(中略)番組を最終話まで作るしかない。
そのうえこの新作はカラーでの制作、しかもNBC側が要求する水準を満たすように作りこまれているわけで、虫プロとしては赤字覚悟で作り続けるしかない。当てにしていた資金源が絶たれた虫プロにとっては制作予算不足に見舞われる大惨事だった。

ただ一方で偶然売れたアトムの成功以降、虫プロが常にアメリカに売ることを念頭に置いて/計算に入れて作品を作っていたというのは、今回指摘されてなるほどなというか、驚いたというか。
それが後述する理由で売れなくなったことが、どこまで虫プロ崩壊の主因であったのかは、僕には分かりませんが。

とにかく先駆者の虫プロがそうであったのなら後続他社も多かれ少なかれそういう関心を持っていたのは当然想像できるので(実際この本の中にもいくつか売り込みの話の描写があります)、日本のTVアニメの草創期における今までほとんど意識していなかった"アメリカ"の影を、今回初めて強く意識させられたと、そんな感じです。

ちなみに上は、売れなかった(笑)『悟空の大冒険』('67)についての話です。その後かの『リボンの騎士』も、性的あやふやさが忌避されて却下されたそうで、何ともはやというかそんなこともあったのかという。


その他面白かったところ

"手早く安く吹き替えするには"

p.32-33

だが私には今まで何年もかけて工夫してきた普通と違うやり方があった。素早く作業を済ませる技の一つは、役者たちに吹き替え台本を作らせる手だった。(中略)
番組の狙いと登場人物を深く理解してもらうのに大いに役に立った。それに各自スタジオ入りして自分が書いた台詞を直ちに演じられた

な、な、なるほど。それは良さそうだ。(笑)
勿論いきなり台本作れと言われても出来ないでしょうが、既に原語(日本語)の台本がある前提なら、それを自然な母国語に訳させるだけなら、演じる当人にやらせるというのは合理的かも知れませんね。
"吹き替え"ならではの、手法というか。やるな。(笑)
ただ逆にだからこそ演出家は作品をきっちり把握していないと、深いコミットメントで自信をつけている役者をコントロール出来ないでしょうけどね。興味深い。

そもそも"声優"というのは、声だけでただの(?)絵に命を吹き込まないといけない分、ある意味実写の俳優以上に演技力とそして自己演出力を発揮しないといけないところがあると思いますから、"吹き替え"ではないにしても日本の特にベテラン声優の場合、これに近いようなコミットメントの仕方をしてもらうことは、あるんじゃないかと想像したりしますが。
その"自己演出"の果てに、ちょっと演技のテンプレ化が進み過ぎるみたいなところも、あったり。それこそ洋画の"吹き替え"とか、ほとんど「その人」(声優)になっちゃってることが、ままありますよね。(笑)


幸福の科学『永遠の法』

p.227

二〇〇七年五月中頃にロサンゼルスで先行上映された『永遠の法』は、息をのむ美しいアニメーション映画だ。(中略)
これの製作は東京の東映アニメーションだが(訳注:グループ・タック)、通常の東映作品とは違って「幸福の科学」という仏教系宗教団体の制作ならぬ製作である。

以下延々、ストーリーの内容と映像の見事さについての記述が続きます。
個所としては現代の日本アニメの"代表的"な作品を駆け足でつらつらと紹介している場所ですが、まあ見事なものは見事だと言って構わないわけですが、ガンダムもエヴァも載ってないのにこれが載るかねと、選出基準の不思議さというか恐らくは多分に行き当たりばったりであることが伺える個所です。(笑)
それと、例えばバッジオ等の海外学会員などもそうなんでしょうが、日本人にとってはビビッドにいかがわしい新興宗教団体であっても、少し距離を取った海外の、あるいは元々「宗教」を身近に暮らしている人たちからすると、創価学会も幸福の科学も、"仏教系宗教団体"と言ってしまって済むところがあるのかも知れないなと、そんな感じです。

見てみる・・・・か?(笑)


後編、"暴力表現"を筆頭とする、日本アニメの作品世界の特徴・独自性について。


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コメント
この記事へのコメント
あ、続くわけね。ドキドキわくわく。
2013/09/02(Mon) 00:52 | URL  | KK #UXr/yv2Y[ 編集]
わくわく・・・はどうかな。(笑)
努めます。(笑)
まあ何でも評されるのは楽しいですよね。僕もそういうクチです。
2013/09/02(Mon) 10:55 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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