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『アニメが「ANIME」になるまで』(続) ~日本アニメの「暴力性」(その1)
2013年11月06日 (水) | 編集 |
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だいぶ間が開きましたが、引き続き。


アニメが「ANIME」になるまで―『鉄腕アトム』、アメリカを行くアニメが「ANIME」になるまで―『鉄腕アトム』、アメリカを行く
(2010/03/16)
フレッド・ラッド

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日本製アニメが欧米特に米国で"暴力的"だと言われる、批判される、その理由と実態、そして意味を、アメリカ人著者によるこの本を元に、少し整理してみたいなと。


まず単純に、"原因"論から。

1.文化差、慣習的な違い

p.47
たぶんあなたたち米国人の目に、日本のサムライが自分の主人をどこまでも庇う姿は狂っていて暴力的に映るんでしょうが、あなたのお国の西部劇でも見知らぬ相手を理由もなく撃ち殺してますよね。あれは暴力的で狂ってるんじゃないんですか」。
(中略)
このスタッフの指摘には虚を衝かれた。驚いた私はうまく返事ができなかった。

著者が初めて日本を訪れた時に、当時の虫プロの脚本家から受けた指摘。
"文化差"という、最も当たり障りのない説明ですが、当たり障りなさ過ぎて「日本アニメ」の"暴力性"問題の説明としては、やや迂遠に過ぎる視点。
ただし、"虚を衝かれた"というのは、面白いですね。衝かれるかねという(笑)。あからさまじゃないか、西部劇なんて。正当化しようが無いというか。それくらい"慣れ"の問題は大きくて、最終的にはかなり効いて来るということを、後でも書きます。
とりあえず重要なのは、片方(日本)が殊更暴力的な表現をしているつもりも増してその"限界"に挑戦していたりしているつもりも無くても、普通にストーリー説明上の表現のつもりのものがもう片方の「文化」では引っかかる、それによって"虚を衝かれ"る、そういう風景だということ。
"限界に挑戦"という問題なら、ある同一文化内でも、常に起こっていることですけどね。

1'.検閲・表現規制の問題

p.132
 日本製アニメの暴力描写問題は一九八〇年にロナルド・レーガン政権が誕生したことによって消散した。レーガンは「政府はあれこれ介入するな」を旗印にしていたので、大衆保護を活動指針とする機関を即座に廃止し、さらに各放送局にはFCCがもはや強い監視体制を敷くことはないと示唆した。

広義の"1"。
キリスト教国ということもあるのでしょう、アメリカは特に放送上の表現規制が、公的にかつはっきりしたものとして歴史的にあって、放送人としてはまずそれに従うのが当たり前なので、自然どうしても日本よりもそこらへんについて神経質にならざるを得ないという、不可避的な問題。
ただし読む限り、日本アニメの愛好者である著者も、そうした規制に嫌々仕方なく従っているというよりは、それらが主張する放送倫理観をかなり内面化していて、実際に日本アニメを暴力的だと感じて驚いているという面が大きいように感じますね。
それがどこまで単なる習慣によるものなのか、それとももっと深く文化的価値観的な違いによるのかは、よく分かりませんが。
それにしても、まさかレーガンに助けられていたとは(笑)。確かに自ら西部劇俳優でもあったわけですが。
"価値観""道徳観"としては、保守が厳格で革新が寛容と、そういうことは一般論としてはやはり言えるわけですが、一方で保守は放任・不干渉であって対して革新は干渉的保護的であるという"政治手法"の対照もあって、この場合は後者の方が決定的な影響力を持ったと、そういうわけですね。
ちなみに対極として、民主党といって僕がすぐ思い出すのはアル・ゴアの夫人、ティッパー・ゴアで、ヘヴィ・メタルファンだった僕はクリントン政権('93~)が登場する結構前からこの人の主導による主に音楽に対する表現規制運動(Wiki)を通じて名前を知っていたので、"副大統領夫人"として再会(?)した時は不思議な気持ちがしたものです。ええ?民主党ってリベラルで話の分かる側じゃないの?と。
思えば随分、素朴な認識でしたが。


2."子供番組"は"子供番組"

p.279
やがて(手塚は)理由に思いいたる。「つまるところ、子どもの番組であるがためらしい」

p.280
穴見 アメリカで子どもと親のチャンネル争いはありますか
ラッド 子どもにチャンネルをえらばせるというよりも、子どもむきのテレビを親たちがいっしょに見て教育につかいます。ですから「ざんこく」なものはよろこばれません

"ラッド"氏は言うまでも無く、この本の著者。"穴見"氏はラッド氏初来日時の虫プロ常務。

p.280
 手塚の自伝にも氏の指摘を意識してかこんな記述がみつかる。『日本の子供とちがって、欧米の家庭では、子供におとなの番組は見せない。子供は、自分たちの番組がすむとさっさとテレビを消してしまう。/これは単なる噂かと思って、ぼくがあちこちの家庭を訪問してみたところ、たしかにその通りであった。』

以上全て、訳者あとがきから。

子供番組は子供番組。そして"子供番組"としてのTVアニメ。
一見すると当たり前のことのようにも見えますが、手塚さんが"気付いた"ように、これはかなり決定的な違いであり、また日本製アニメの「暴力性」問題の中心的なポイント。
勿論日本でも子供と大人の区別はありますが、アメリカのそれは比べ物にならないくらい厳格であり、子供は"子供"として徹底的に保護・隔離され、逆に大人には徹底的に"大人"としての振る舞いが要求される。
"子供"はある日突然、"大人"になるというか。実際僕も、ホームステイで知り合ったアメリカ人の友達の不気味とも言える豹変に、かなり面食らった経験はあります。つい2年前は、みたいだったのになあ。(笑)
なんか"狩猟社会"的な感じはしますけど。今日からお前は、狩りの仲間だ。もしくは"戦士"社会。
あるいは"契約"社会。"法"人格としての、「子供」と「大人」というか。

また同時に、これは子供が見るものを大人が一方的に決めるということでもあります。
何が"子供らしい"かを、大人が決めるというか。自然保守的類型的、とにかく無難な方向に傾くのは、容易に想像出来るでしょう。そもそもが人工的な区分なわけで、だから言うなれば「大人」でないもの、「大人」文化の残りかすが、子供には与えられるとも言えるかも。
とにかく余りにこうした区分、観念が強固なので、その表現の内実であるとかあるいは実際にそれが子供にどのような影響与えるかとかは、後付け的にしか問題にされ得ないという。
勿論日本でも似たような問題が時に起きないわけではないですが、"入口"のチェックの厳しさ/形式性は、比べ物にならない。
逆に規制コードが厳格に形式化されているので、それに触れないように編集するのは、場合によっては簡単だったりするということが、著者が実際に携わった作業について書かれていたりします。

・・・・なんかちょっと、"アメリカが異常だ"という言い方になり過ぎた気がするのでフォローすると、要するに日本のテレビでの"性的"な場面、ベッドシーンとかヌードシーンがお茶の間に流れた際の、親/大人が子供に対して感じる気まずさ、"見せたく"なさ、あれがほとんどそのまま「暴力」「アクション」シーンについても当てはまると、そういう事態を想像すればいいんだと思います。
その場合、そのシーンの内実とか芸術的必然性とか(笑)、全く関係無いわけで。とにかく一切、子供の前でそういうシーンは映して欲しくないわけですよね。"映像"として。
だからこそことは至って「形式」的な問題で、例えば人が死んだり怪我するのはまあいいとしても、"血"が出てはいけないとか、銃を構えるのはいいんだけど、突き付けてはいけないとか、そういう感じの規制になるわけです。愛を交わすのはいいけど、それを映してはいけないという。


2'."アニメ"は"アニメ"(漫画は漫画)

p.181
けっして歳は取らない。(アメリカン)コミックスの登場人物は決して死ななかった
 MANGAことジャパニーズコミックスはそうではない。登場人物は生涯過程(ライフサイクル)をたどっていく。その最終過程に達するとやがて死んでいく。それが日本では普通に受け入れられている。死なないキャラクターなぞ不自然の極みというわけだ。MANGAでもANIMEでもそうである。

「子供番組」であることと重なる部分は大きいですが、イコールではないと思います。
もう一つ。

p.70
(A)主役である幼いレオが最終回で死ぬという構成は不可
(B)とにかく幼いレオが死んでしまう展開は不可
(C)レオが話の途中で段々と大きくなっていくのも、それからレオが成長していくイメージを視聴者に抱かせるのも不可(この子が父親になってしまっては、レオに感情移入している視聴者をおいてきぼりにしてしまう)。
(D)一話完結の脚本にして欲しい。複数回続く物語構成は却下(成長していくレオのイメージを視聴者に与えかねない)。

アトムでひと山当てた米NBCが、次に手塚が持ち込んだより"本気"の作品である『ジャングル大帝』(注・この時点で既に原作漫画は描かれている)のオリジナル構想に対して突き付けた、本気の(笑)NO
なんかもう、全否定的というか、アメリカン・アニメのフォーマットと余りに異質な手塚の構想に、ほとんど"恐慌"を来しているという感じの反応に見えますが。何やってくれてんの?この日本人。
死ぬのは勿論成長するのも駄目、とにかく通常の時間経過が作品に感じられるのは駄目、手塚が作品に持たせようとしたリアリティなんてものは、"作風"以前の問題で論外、全くお呼びでない。"アニメ"は"アニメ"で、描かれるべき内容従うべき文法は、完全に決まっているのだ、逆にそれがあるからアニメなのだ需要があるのだと、そう言わんばかり。
・・・・まあ『大帝』単体に関しては、実はアメリカ人の反応も分からないではないんですけどね。レオの場合、ヴィジュアルの変化が大き過ぎる。日本の子供にとっても、"たてがみ生えて来ちゃうレオ"というのは、付いて行くのに厳しいものはあったと思います(笑)。ただのライオンやんというか、親父と区別がつかんというか。
そういう意味では"よりによって"という作品ではあったかも知れませんが、だからこそ剥き出しにされたアメリカのTVアニメにまつわる"「成長」というタブー"の激甚さには、驚かされるというかなるほどなというか。
「成長」すら必要無いわけですから、「暴力」という人生の"リアル"も、全く表現される必要は無いわけですよね。勿論「性」も。
一方でアメリカの"実写"ドラマの方はどうかというと、もうクドいくらいに必ず「成長」が描かれるわけですよ。元のテーマには特に無くても。"変化"せずにはいられない。だからどういうタイプの作品として始まっても、シリーズが進むにつれて必ず酷く重くなるんですけどね。精神科医とかが登場しちゃって(笑)。逆にここでも、「子供用の」作品と「大人用の」作品ははっきり分けられていると、そうも言える。子供には完全無欠の幻想世界を、大人には強迫的な"成長""成功"要求に基づいたハードな"現実"世界を。

上のはアメリカの例ですが、例えばカンヌだの何だので、昨今ジャパニメーション映画が賞獲りレースによく参加しますが、それに対して批判的な現地論者の口から時に聞かれるのは、悪くない作品だけど、なぜこれをアニメでやらないといけないのだと。大人の鑑賞に堪えるような内容を表現するのなら、普通に実写でやればいいじゃないかという、そういうような疑問。・・・・まあ"批判"というよりも、"違和感""戸惑い"と言った方がいいようなニュアンスのことも多いように思いますが。
「日本では公衆の面前で大の大人がコミックを読んでいて驚く」的な例のアレも、要するに暗黙の前提としての漫画/アニメに関する"内容"制限についてのすれ違いがあるのは明らかですよね。僕も最初よく分からなかったですが、同じ"日本"の年配者の言うことを聞いていて、ああそういうことかと気付きました。勿論日本の漫画が次第に内容を高度化させて来たというのと、アメリカのアニメにはそもそも(主人公が成長するような)"時間経過"が存在しないというのとでは、少しギャップのスケールに差はありますが。
強いて言えば、"コメディ"(典型的には30分のシットコム)に近いんてしょうかね、"普通の"(シリアスな)ドラマに対する、ジャンル的な位置としては。コメディが最初からコメディであるように、アニメも最初からアニメである。描かれるべき内容には、自ずと制限がある。リアルである必要が、そもそも無い。


・・・・長くなって来ちゃったので、以上を"資料"編前提編として、一回切ります。
次が本論と言えば本論。


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コメント
この記事へのコメント
もう忘れられてしまったのかと思っていたので続きが読めて嬉しい。いい読みをされていますね。
2013/11/18(Mon) 22:18 | URL  | KK #UXr/yv2Y[ 編集]
どうもあんまり今回は思ったようにならなくて切れが足りないというか、内容が薄い気がするので、次ちゃんと締められたらご報告(告知?)に参上しようかと思ってました。(笑)
忘れてたってことはないんですけど、割りとちょいちょい、いいタイミングでもっと楽な更新ネタが飛び込んで来てたので、気が付くと後回しに(笑)。何とか今月中には次を、という感じです。
2013/11/19(Tue) 00:52 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
★暴力を排除しては名作
アニメは造れない。
バトルの無いドラゴンボ~ルやナルトが人気に
なれただろうか?
幼児向けのポケモンですら
バトルは必要不可欠。
バトルを排除してしまったら成り立たない。
暴力を悪と見なして排除した
中国やアメリカは幼稚なアニメしか造れない。
2014/06/16(Mon) 22:50 | URL  | さ #-[ 編集]
★アニメに限らず映画
もそうよ。人気作は
必ずバトルが組み込まれてる。闘わないブルース・リーやジャッキーチェンが伝説に成れただろうか?
2014/06/16(Mon) 22:52 | URL  | さ #-[ 編集]
ストーリー/内容の自然に要求する暴力性が、前提として余りに形式的に制限されてしまうのはマズいでしょうが、暴力そのものが必須というのはいくら何でも乱暴ではないでしょうか。『ドラゴンボール』『ナルト』論としてならともかく、アニメ論としては。
"幼稚"という意味でなら、むしろバトルさえあればとりあえず成立するという枠組みが、内容の詰めの甘さを許すという可能性の方が、公平に見て大きいと思います。これは"萌え"や"エロ"も同じですね。

それにここのテーマは暴力そのものよりもむしろその"描写"の問題で、アメリカ作品にも暴力やバトルは満ち溢れているけれど、そのコードが違う、言い換えると、どれくらい/どのように描写すると"暴力的"と実感として感じられるか、その違いという話だと思います。
アメリカの基準に(輸出以外の目的で)合わせる必要があるかどうかはともかく、アメリカ人に日本人の感じ方を強制するわけにはいかないでしょう。
2014/06/18(Wed) 11:48 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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