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読書日記(’13.12.4) ~理性・知性・感情・直感
2013年12月04日 (水) | 編集 |
天地明察天地明察
(2009/12/01)
冲方 丁
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読みました『天地明察』。
アニメの原作などでも知られるラノベ畑の人(Wiki)が、時代小説に挑んで広く一般的な評価を勝ち取った作品ですが。
うむ。納得。色々と。
なるほどこうなるか、というのと、これは確かに面白い!!というのと。
文体的には、やはり普通の時代小説とは少し違うというか、昨今とみに"ライト"化が進んでいる気がしていた時代小説群の中に入っても、なお目立つ"ライト"感というか。
・・・・ていうかこれ"マンガ"だよね。「絵の無い」マンガ。所謂"ライトノベル"が目指している「小説」としての読み易さ・ライト感ともまた違う種類の、読み易さ。スムーズ感。トントン進む感。それは多分、僕自身が"マンガ"を読み慣れていることとリンクした。
なぜこういう文体になっている、あるいは"した"のかとかは分かりませんが、個人的に"分かる"のは、ツイッターなどで僕が以前からよく言っていた、「時代小説がどんどん"少年漫画"に近づいている」という、その傾向の「意味」的な究極みたいな、そんな感じはあります。結果的なというか。
なぜ"近づく"のかと言えば、それはそれらが---たいていは武芸やスポーツなどの「一芸」を通した---個人の"情熱"を、狂的な希求を描くことを得意としているジャンルであるからで・・・・"あるからで"というか、その一点の目的を通して、親近性を持っているということですが。
"少年"の情熱を少年漫画は描き、おっさんが隠し持つ"少年性"の発露を、時代小説は描きという(笑)。読者の年齢層的にも、大まかそういう住み分けは、存在しているでしょうし。
後は絵があるか無いか、時代背景が現代や未来か、それとも過去かという、その違いがあるだけというか。
勿論この作品も、幕府お抱えの碁打ち二代目安井算哲が、"個人"渋川春海として狂的に希求した"算術"や"天文"への情熱が、どのように天下の暦の改定という大事業に結びついて行ったかという、そういうお話なわけです。

で、面白かったですね、最初は少し、やはり文体としての厚みがもう少し欲しいかな、むしろ迂遠に書くことで出て来る快楽というものもあるんだよなと、"時代小説"ファンとして不満を感じなくも無かったんですが、読み進めるにつれて次第に"ライトノベル"的(あるいは漫画的)な要素の活躍、「ストーリー」「仕込み」についての、一般小説より遥かに高く厳しく設定された基準の威力に、段々圧倒されて行ったというか。
それらは言ってみれば、"読者"の水準を低く設定することによって、伝統的に生まれて来た"厳しさ"だと思いますが。それがより"高く"設定された、言い換えれば読者やジャンルの了解事項や相場に甘える形で書かれることの多い、"大人の読み物"の世界に持ち込まれたことによる破壊力、天井破り。ここまでするか、という、「超展開」。(笑)
何と言うか「企画書」の段階で、既に"面白い"ということが確定している感じの作品でした。それだけの仕込みというか。そういう力強いストーリーを、時代小説的な"迂遠"さや"情緒"にあえて包んだ形で、あるいは時代小説というある種完成された形式に巧みにはめ込んだ形で表現することによる、二重三重の効果。どちらがすいかでどちらがなのかみたいな、話ではありますが。(笑)
実際どうなのか、普通の時代小説読者はどう感じるのか、ウチの親父にでも読ませてみたいものですが。
とにかく面白かったです。関孝和保科正之魅力的過ぎ。

では本題。(え?(笑))


直感と理知、独創と定石

道策の碁が、一手一手に才気を溢れさせ、刹那の閃きを棋譜に刻み付ける碁であるの一方、春海のそれは幾重にも理を積んで巧みに棋譜に織り込む碁であるとされた。
矛盾した戦法をあっさり両立させたりすることから、"二代目算哲に限っては水が油に混じる"と称された。
(p.56)

"天才"(本因坊)道策と"秀才"(渋川)春海の碁の対比。「積む」ものとしての"理"。
この"秀才"、"非天才"としての春海というのは、算術の世界でも"天才"関孝和との対比で繰り返されて、ある意味ではこの作品の重要なテーマの一つとなっている感があります。ただどうも最終的には、むしろそれら"天才"たちの閃きの眩しさ、崇高感の方が印象としては強烈な部分があって、それに対して"秀才""たる春海も凡人(?)なりに反撃して業績は残すんですが、そこらへんの関係はどうもはっきりしないまま終わった感じもします。
後半部分もちょっと分かり難いですね。春海が理の人であるなら、本当に「矛盾」してたら「両立」しないはずですから。恐らくは(閃きによる)「一点」突破では"矛盾"のまま放置されてしまうものが、コツコツと理を「積む」ことによって別ルートでの繋がりを見出して矛盾でなくなる、何がしかそういう事態を表現しているのでしょうが、これだけではなかなか分かりません。

春海はこの老中の意図を知ることをとっくに諦めている。酒井(雅楽頭忠清)は定石定石の間に、独自の発想を持つということを全然しない。より高度な定石を積み上げることに徹底して主眼を置く。つまり最適な状態に達し、時期が来るまで、何一つせず、何一つ明らかにしない。
(p.118-119)

春海の立ち位置が分かり難いのは、一つには春海自身も必ずしも"理"の権化ではなくて、この老中(のち大老)酒井雅楽頭という理の"怪物"が一方でいるからという、そういうこともあります。
あえて"判断"はしない。理を積んで積んで積んで積んで、それが自然に何かの形を取るのを待つ、あるいは積んだ理の重みが構造の歪みや限界を明らかにして、そこからこぼれ落ちたりあふれ出たりする必然の"帰結"を、黙々と掬い取って行く。
かっこいいですね(笑)。策謀しないオーベルシュタインというか。(いや、何でも(笑))
とにかく、こうした「積む」ものとしての理というイメージは、この作品で一つ心に残ったものです。
積極的に"掴みに"行くものとしての、直感的な「真理」とは、別なあり方。
「無私」のものとしての理というか。
まあ本来「理」とはそういうものであるはずで、今日でもそれこそ"科学"の良質な部分などはそのように日々運営されてはいるわけでしょうが、一方で少なくともインターネット上で(笑)目につく「理」を前面に出した論の多くが、たいていはむしろ過剰な「私」「我」とセットになっている、つまり「いかに俺(様)の"理"は正しくて、それに従わないお前らは馬鹿か」というトーンに支配されていてそれで不要な反発を買う、"炎上"する(笑)というのはよく見かけるところで。
「理」が「理」であるならば、それは誰のものでもないはずなので。それこそが"客"観的ということというか。
キミの1+1もボクの1+1も、同じ1+1。別に君が威張ることではない。酒井雅楽頭は威張らない。
直感的知が「私」的であるのは、そもそもそうなんだからいいわけですけどね。と自己弁護。(笑)
とにかく「理」と「私」「我」というのは本来もっと相性の悪いもののはずで、だから理の論者が我的に見えるとすれば、それは結局「理」を装いつつも必要な忍耐はそこそこに、積極的直感的に「正解」を掴みに行く欲望をその論者が断念整理出来ていないからだと、その隠された"我"が見苦しいと、そんな風に感じることが多いという、まあそういう雑談です。

春海はどうなんでしょうね、最終的には、「凡人」という位置づけなんですかね、作品的に。
凡人が凡人ゆえになした偉業というか。その割には才人でもあって、そこらへんは少し曖昧かと。
"ダメ主人公"の割にスペックが高いというのは、最近の少年漫画&ラノベの傾向ではありますが。(笑)


"第一印象"の正しさ

巡査の休日 (ハルキ文庫 さ 9-5)巡査の休日 (ハルキ文庫 さ 9-5)
(2011/05/15)
佐々木 譲
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先入観で見るのは危険だが、津久井は経験的に、印象というのは案外あとから考えても正しい場合が多いことを知っていた。
そうした印象はふつうすぐに情報によって修正されるものだが、べつの言い方をすれば、それは情報によって目が曇るということである。情報など何も持っていないうちに受けた印象は、おおむね当たっている。
(p.118-119)

今度は"直感"方面に振れた内容。
経験豊富な捜査官による、"第一印象の正しさ"についての概感。
内容に従うと、"無垢"な情報の稀少性とでも言うべきか。
僕も第一印象は意識して重視するタイプですが、その"経験"(笑)から更に言わせてもらうと、「第一印象」は信じるべき、しかし一方で「第二印象」「第三印象」・・・・は信じるべきではなく、それはむしろ第一印象が信じるべきである正にその同じ理由によって。一度"情報"によって汚されてしまった後は、今度はむしろ"情報"の分野での分析・思考に、きっちり切り替えるべきというか。
ただその根本には第一印象の"指針"があるのが望ましいし、最終的な判断も概ね直観によってなされることが多い。その"間"は、情報と論理が主役を張るとしても。
"修正"の問題について言うと、なぜ印象が"修正"されて"誤って"見えるのが常かと言えば、それは(第一)印象そのものの誤りではなくて、受けた印象を他ならぬ自分に対して"翻訳"する、その言語的プロセスに"誤り"が侵入する余地があるからですね。言語は間違うし、情報によって修正されるし、そしてその過程で磨かれて正確性を増して行った"言語"が、非言語的経験である"印象"の意味を明らかにして、その時改めて、第一印象が何を意味していたかどのように"正し"かったかが、最終的に確定する。
その段階まで"我慢"して印象を保持することが出来れば、第一印象というものの一般的な正しさも分かるし、活用法も分かるという。
結局上の(論)「理」同様、"忍耐力"の話にはなってしまいましたが(笑)。まあ不完全な知性を持つ我々人間としては、仕方のないところ。


"心"を信じるな

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(2012/07/04)
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タウブ「話しませんでした」
ハウス「君のは伝えたがったが、が止めたんだ。心より頭に従う方が難しい。(中略)心に従うから親は子供をダメにする。」
(Dr.HOUSE S8 #6)

また逆方向(笑)。状況の説明は、めんどくさいので省きますが。
心より頭に従う方が、正しい場合。
それは最初から「頭」が、つまり公的なあるいは社会的な「役割」が主体となっている領域。そこに「心」をやたらと持ち込むのは、お門違いを通り越してむしろ野暮というか。
典型的には、「親」の「子」に対する役割。
あれは"愛情"がどうとかいう以前にまず徹底的に「役割」であって「仕事」であって、そこに中途半端に"個人"を持ち込むのは"心がこもっている"ようでいて、むしろサポタージュに近い。
逆に「個人」として、あんな大変な仕事を特に心理的に引き受けるのは、不可能に近いというか。役割だと思うから、やってられる。言い換えると「親」は本来"人間"ではなくて、「友達親子」とかナンセンスという。
当然"恩"も無いですよ。「仕事」に対する"敬意"はあっても。似たものがあるとすれば、弱った親に対する子供側の"思いやり"であって、それは美しいことではあるけれど制度化するようなものではない。
・・・・と、ハウスが言ったということに、しておいて下さい。(笑)


"心"を殺すな

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柊 治郎
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警察官には、こういうタイプが少なくない。自分の感情を常に押し殺しているので、を飲んで抑制が外れると、自分で自分をコントロールできなくなるのだ。(中略)
警察官に酒の上での不祥事が多いのは、そのためだ。警察官の不祥事をなくす最善の方法は、人事制度を改めて、自由に物がいえる組織にすることなのだが、東郷にはそんな日が来るとは到底思えなかった。
(p.81)

最近なんか、警察ものをよく読むんですよ。(笑)
主に下世話な興味で。

警察の勤務評定の内容を見てみれば、それがいかに弊害の多いものかがよくわかる。評定の項目は「協調性がある・ない」「企画力がある・ない」「上司・同僚との融和性がある・ない」こんな項目が五十以上も並んでいる。
いかに真面目に勤務をし、いかに県民のために仕事をしたかを評定する項目は、ほとんどない。(中略)真面目に仕事をするより、上司にゴマを擦って気に入られた方がよほど有利になるのだ。
(p.149)

ヤな感じ。
"営利企業"ではない分、ハナから"客"(住民)の方は見ていない集団というか。
まああんまり本題とは、関係無かったですね。(笑)
理性にしろ感情にしろ、正しく(活躍できるように)置かなきゃ駄目という、そういう話ではありますが。


これでは締まらないので、最後にもう一つ。

歴史破壊小説 裏太平記歴史破壊小説 裏太平記
(2009/02/20)
半村 良
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「下剋上」
兼好が言った。静かな声だ。
「迎えてみれば、難儀な時世よ」
無名は兼好の意をすでに察しているらしく、苦笑を泛べて応じた。
「帝、朝廷、公卿らを芯にして、貴賤が定まっていた世がなつかしうなる」
(中略)
[兼好]「乱れのもとは銭じゃった。末世とは銭の世の始まりのことじゃった」(中略)
「銭は力となり、力は銭を呼ぶ。貴賤は問わず力ある者が上に立つ。それが下剋上じゃった。わしが望んだはそのことじゃったが、銭を多く得る者は狡猾であらねばならなかった。それを見落としておった」
無名は嘆くともなく言う。
「狡猾であることを恥じる世は去ってしもうた。狡猾であることは知恵あることとなってしもうたのじゃ」
(p.290-291)

兼好法師指導による一種の秘密結社が、「下剋上」の世をかなり意図的に招来したという、半村さん得意の(?)陰謀史観もの。もうかなりお年だったせいもあるのでしょう、どこまで本気なのか判然とし難い書き方になってますが。
面白かったのは「下剋上」を単なる中世・戦国のいち趨勢としてではなく、今日の「民主主義」にまで至る大きな秩序感覚の変革の、直接的なはしりとして捉えていることですね。その発想は無かったわ。
そして"今日に至る"と言えばこちらはより確実な貨幣経済、その行き着くところとしての金融中心の"詐欺師の楽園"経済、その過程で「知性」「知恵」というものの一般的な性格も、"狡猾""詐欺"の方に大きく変質したという、そういう話。

逆に言えば本来必ずしもそういうものではないというか、そうでない(「知性」の)あり方もあり得るというか、あり得たはずというか。
そういう感慨。兼好の。半村さんの。


以上。
なんか妙にネタの溜まりが良いので、とりあえず放出。


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