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BSプレミアム『小津安二郎・没後50年 隠された視線』感想
2013年12月14日 (土) | 編集 |
なかなか面白かったです。(番組) (小津安二郎 Wiki)
ちょっと前に、その小津さんの上司だった松竹のカリスマのこんな本

日本映画を創った男―城戸四郎伝日本映画を創った男―城戸四郎伝
(1999/01)
小林 久三
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も読んだりしましたし。

それも参考にしつつ、このドキュメンタリー中で提出されたいくつかのテーゼについて、僕の思うところを書き連ねて行きたいと思います。ちなみに重要度順とかではなくて、基本的に出て来た順です。


まずは「演出」技法編、「創作の秘密」編。

・普通あるはずの映像を"隠す"ところに一つの特徴がある。
(例・「家の外観」「人物たちが見て話題にしている景色」「戦地で亡くなった夫の幸せな頃の写真」)


これはまあ、そうだと思います。"話題"をいちいち映像で補強したり説明したりは、ほとんどしませんね。
そこらへんは独特です。

ただそれを承けて

・『見せることよりも隠すことが力。観客の想像力が主役』(吉田喜重)

というのは、どうなんでしょう。
・・・・吉田喜重さんというのは映画監督です、僕は見たことないと思いますが。(Wiki)

論理的には、それっぽいですし、恐らく普通の映画なりアニメなりだと、"隠す"ことはそういう効果を発揮する、あるいは観客にそういう要求をすることになることが多いだろうと思います。
ただ小津映画を見ていて脳がそのように反応することは、少なくとも僕は無いです。
どちらかというと、小津さんが見せていない映像についての関心がそのまま失われる、そしてそのことによって脳の負荷が取り除かれてリラックス出来る、映画により安心して入り込めるようになる、そういう感じです。

言い換えると、小津さんがある映像を見せないのは、別にそれで何かをほのめかすとか観客に想像させるとかではなくて、単純に見せる価値の無い、どうでもいい映像だからなんじゃないかと思います。
野暮ったいから、というか。(笑)
上の例で言えば、「家の外観」は家の外観でしかない、その階層のその職業の人の家という以上のものではないし、「人物たちが見て話題にしている景色」は、つまりそういう感想を引き起こすようなあるパターンの景色なんだろうし、「戦地で亡くなった夫の幸せな頃の写真」というのも、それこそ定型化された"思い出"写真でしかなくて、別に見せるほどのものではない、そういうものだと分かればいい、もう分かったろ?と、そんな感じではないかと。

そんなことより映画だ映画。
実際"分かっている"ことをわざわざ見せられる苦痛・停滞感というのは日々様々な"映像"作品を見ている中で感じさせられていて、それらをばっさばっさと切ってくれるから小津さんの映画は見易くて、快感で、言い換えるとほとんどの「普通の」映像は実は不要なもので、不要なものだということを堂々と表現してそれでいて別に"前衛"的になったりせずに直感的に自然な作品にして見せるところに、小津さんの一つ凄いというか、稀少なところがあると思います。


・自筆シナリオと人物ごとに色分けされた撮影台本

これは何かと言うと、小津さんはシナリオが脱稿されて既に印刷に回ってるのに、それをわざわざ自筆で筆写したものを必ず用意する。
それから撮影台本(印刷版の台本?)は人物(のせりふ)ごとに、自分で色分けして書き込みをしておく。
・・・・という話です。

つまりは「事前に完璧に具体的に内容を把握してから撮影に入る」ということで、確かに小津映画の特徴として、異様なまでに淡々とスムーズに"予定通りに"、場面が(撮影が)進んでいる感覚はあります。
むしろ「済んだ」ことを、「再確認」している感じというか。


・絵コンテ帳の「目線レンズ」の注意書き、"観客と対峙""役者の生身が観客に投げ出される"

自筆シナリオと撮影台本と共に、絵コンテ帳も用意されるわけですが、その要所要所に「目線レンズ」という注意書きがなされていて、つまりその場面では俳優はカメラに向けて演技することが要求されるわけですね。
実際小津映画でそういうシーンは多い印象で、登場人物二人の結構テンポの良い掛け合いでも、いちいちカットを割ってそれぞれの「正対」図を交互に繰り返して、"掛け合い"が成立しています。

それに関して、証言者の当時の撮影スタッフの一人やナレーションは、「観客と直接対峙させるという意図がある」「役者の生身が観客に投げ出される」と意味づけているわけですが・・・・。どうなんでしょう。
これも「論理的」には(笑)、ありそうな説明ではあるんですが。
僕の実際の視聴体験とは、どうも合わない
小津映画で俳優がこちら(カメラ)に向かって話しかけて来ても、それで自分に話しかけて来ているようだとか、迫力を感じるとか、そういうことは別に無い。通常のクローズアップとかに比べても、無い。
ではそれに他にどういう積極的効果があるのかというと・・・・うーん、特には思い付かないかな。(笑)
ただ"消極的"効果ならあって、それは時間的にカットを割って、更に言えば俳優たちを空間的に分断することによって、"丁々発止"のはずの掛け合いのライブ感をむしろ邪魔すること殺ぐこと、つまり上で言った"「済んだ」ことを「再確認」"しているような本来のトーンにとどめること、そういう効果はあるのではないか。
頭の悪いリアリズムやあるいはメロドラマ感の発生を、未然に防ぐというか。それが"積極的"効果である可能性は、あるかも。まあやや付け足し的な解釈ですが。

・・・・どうですかねえ、今思い付いたことですが、ライブ感ではなくて人物のその発言や行動の意味(主観的なものと客観的なもの双方)を、観客の注意を喚起してよりクリアにする、そういう人物であるそういう発言をする人物であるということをフィルムに刻み付ける、そういう効果は意図は、あるかなあという。
観客に投げ出すのではなくてむしろ客観化する、言い換えれば(元々強い)監督の支配力を増強する、上の証言者たちの説明とはむしろ逆の意味がある手法なのではないかと、そういう感じがしています。
"俯瞰"的な効果のある、"寄り"というか。


・場面もせりふも繰り返しが多い。同期からのずれで事態を表現。(吉田喜重)

これはなんか分かりますね。
似たようなやりとりの繰り返しで、ちょっとずつ違う。それがある時は、決定的な事態の変化を示していたりする。
何も変化しないことも多いですが。(笑)
単純に繰り返しの快感というのは、小津映画にはあります。音楽的なというか。リフ、あるいは主題の変奏。


・サイレント出身で、言葉よりも映像が先・主体。(吉田喜重)

どう、でしょうね。
後でも出て来るように、映像や画面に細かいこだわりがあるのは確かです。
また上で言ったように、劇の"説明"に映像を従属させないのも。
だから「撮影された劇」ではなくて「映像表現」であるという意味では、サイレントからの骨の髄というのは外れてはいないと思いますが、ただそれを「言葉」と比べた場合は・・・・。ううむ。
つまり上で言った「"話題"をいちいち映像で補強したり説明したりは、ほとんどし」ないというのは、言い換えれば「会話が会話として完結している」ことでもあるわけで。むしろ素直に見れば、"密室的な会話劇"でしょう?小津映画は。だからそう簡単に、映像>言葉とは、言えないんじゃないでしょうか。

吉田喜重監督が言わんとしていることを、僕なりに言い換えればこうです。
小津さんは何よりも、"リズム"の人である。
その"リズム"感は事実としてサイレント映画を作る中で培われた/表現されて来たものではあるが、トーキーによって使用可能となった言葉/会話でもそれは十全に発揮され、場合によっては(サイレント映画的)"映像"よりも相性が良かったものかもしれないと。

"繰り返し"も、より簡単に出来ますしね。(笑)

余談ですが、僕がサイレントまで行かなくても古い映画を見る時の楽しみは、一つにはその全般的な"リズム"感の良さにあります。小津以外の古い日本映画は余りよく知らないので、具体的には古いアメリカ映画を主に念頭に置いて言っていますが。
そうですね、概ねモノクロ時代からカラーが始まってしばらく、'30年代後半からぎりぎり'60年代初頭くらいまで、"アメリカン・ニュー・シネマ"で映画がスタジオを飛び出してストレートに"リアル"を追求し出す前までというか。
映画がまだ「演劇」の臭いを残していた期間と、言っていいのかも知れませんが。

余り(リズム感を)"良い""悪い"と言ってても仕方がないかも知れませんが、昔の映画の方がより"意図"が濃い、より音楽的、場面進行や会話が「音楽」としてどのように観客に響くかみたいなことに、より繊細だったように見えます。
剥き出しの"リアル"を要求されないから、出来たことでしょうけどね。映画がまさしく"夢"の体験だった時代というか。

一言で言えば、"粋"なんですけどね。"リアル"に"野暮"は付き物というか。


・映画史上最も繊細な映像作りと、それを可能にした「作家性」が最大限に尊重された時代への、現代の映画監督たちの羨望。("サイトアンドサウンド"誌トニー・レインズ)

"サイトアンドサウンド"とは、先頃世界の映画監督たちによる投票として、小津の『東京物語』を映画史上ナンバー1作品として挙げて話題になった当の雑誌。
トニー・レインズはそこのお付き評論家、なのかな?

上は『東京物語』の選出理由(の推測)を聞かれての説明。
小津の映像の凝りようはやはり独特であるというのと、あと多分、同じことのようですが酷く"個人的"であるということかなという。例えば"3D"映画やら超絶技術系アニメ映画なんかも、凝ってはいるんでしょうが、それは言わば飽くまで観客に向けての、商売の売りという面の大きいものなわけで、それとの比較として。

そして後半ですが、これは一つは映画特に日本映画の興行的黄金時代に活動した人であるということと、もう一つはこれは冒頭挙げた本に書いてあったことですが、城戸四郎率いる当時の松竹が、城戸のポリシーで極端な「監督主義」を標榜していて、それぞれの監督に無制限に近い自由が与えられていたこと。
更に言えば城戸の"ホームドラマ至上"主義にも、少なくとも表面上小津の作風がぴたりとはまって、はっきり言えば大して当たらなくても、変わらぬ優遇で作り続けられたというのが、あるようです。
「君の映画はなぜ客が入らんのかね」と、折に触れて言われてはいたそうですが。(笑)
のどかなことで。(笑)



続いて「俳優」編、「演技」編。
・先にセットや小物を完璧に決めて、その後俳優の位置を決める。

"映像"派としての、小津さんの一つの特徴というか、伝説的エピソードの一つというか。
作中では、更にシーンそのもの、言わば「一枚絵」としての完成度に一番こだわる(反面繋がりは時に無視)ということが紹介されています。

ただ僕がこのエピソードにより面白味を感じるのは、これは作品を見ていてちょいちょい感じることですが、小津さんにとって、「俳優」と「小物」って、感覚的に大差無い部分があるのではないかということ。(笑)
含めて一つの風景というか、"映像"というか。
これも後で出て来るように、小津さんなりに凄く俳優を丁寧には扱うんですが、ただそれは大切な美しい(小)物としてであって、自分の映像を美しくする、自分の作品を機能させるパーツとしての位置づけは、ある意味では並列的なところがあるという。

小津映画で各俳優は輝きますが、ただそれは"自由"な表現力の発露というようなものとは、全然違うように思います。それを意識するかしないかは別にして、あくまで小津監督の細部に到るまでの完璧なコントロール化にあるもの。編集のレベルまで含めると尚更ですけど。


・撮影前にどんなに迷っていても、照明が決まってカメラが決まると、そこに立っただけでそれらしく見える、その気になる。(司葉子)

小津さんの演技指導、狭義の"演出"について。
・・・・実際には、演技"誘導"という感じではないかと思いますが。

セットがあってその中で俳優がそれぞれ演技するというよりは、小津さんの異様にクリアな演出プラン、あらかじめ完成された"絵"に向けて、照明もカメラも完璧に調整されていて、それらの放つ一種の場の力に、そこに立った俳優は誘導されてどのように演技すればいいのか演技すべきか、自ずと分かるという。
完璧に作りものだけど、逆にそれ以上"作る"必要が無いので、やっている方としては自然な感じで出来る。
と、言うようなことでしょうね。僕は出演してなかったので(笑)、ほんとのところは分かりませんが。

これだけ、恐らくは無意識のレベルまで俳優を完璧にコントロールする小津さんが、俳優を観客に投げ出す(↑)ような雑な処理をするとは思えないんですよね。"生"さを求めるなんてことを。
ただ逆に絵コンテの段階でわざわざ「目線カメラ」と書き込む心境を想像すると、その時意図されているものがただ単に場面が生に過ぎるのを緩和・防止するというような消極的なこと(↑)だというのも、不自然な感じがする。・・・・だってそもそもそのシーンをシナリオとして書いたのは自分なわけですから(笑)、嫌ならシナリオの段階で処置すればいいわけですから。
というわけで何らか「強調」する意図があったろうというのは確かだと思います。ただその"強調"の意味が、ドキュメンタリー中の証言者たちが言うような見え透いた/ありふれたものだったとは、あんまり思えない。
まあ僕の"客観化"説というのも、必要に駆られてひねり出した仮説程度のものではあるんですけど。引き続き要研究。(笑)


・見せる演技は簡単、見られる演技は難しい。(岡田茉莉子)

駆け出しだった頃の岡田茉莉子が、どうして自分には三枚目的な演技しかさせないのかと小津に文句を言った時の、小津の説明。
自分から大きく動いて説明する演技なら下手な俳優にもやらせられるが、動かずに(あるいは無言で)観客にただ見られることで意味を伝える演技は難度が高くて、熟練した俳優(例えば原節子)にしかやらせられない。
という話。多分。(笑)
正直どうも、証言者の知性に疑問があるので(失礼)、ほんとにそんなこと言ったのかちゃんと(岡田茉莉子に)元々の小津の説明の意図が伝わっているのかには、心許ない部分もあるんですが。(笑)
まあ演技論としては、ありそうな話。
あと小津の演技"誘導"の細かさを、一つ想像させる例ではあるかも。

ていうかあのう、ぶっちゃけ、小津映画の俳優って、品よく綺麗には撮ってもらえるんですが、必ずしも「上手く」は見えないことがままあると思うんですよね。個々の"演技力"よりも、小津の演出のフォーマットの方が遥かに強力で。ある意味全部、同じ演技。
むしろ下手に積極的な、"人間"臭い演技をしようとしたりすると、間抜けに見える傾向があったり。
そういう意味で、笠智衆の受動性とは相性が良かったわけですが、たまに役柄によって笠智衆が"積極的"だったり気難しかったりするような役をすることもあって、意外とそれは変な迫力があって面白い(笑)。それが演出力によるのか、笠智衆の潜在的な演技力の表れなのかは、余りよく分からないんですけど。
原節子も上手い下手以前にやっぱり、その究極の二枚目(男で言えば)というか、"無色"の美女ぶりが、小津映画だからこそハマってるというところはあるでしょうね。"普通のお嬢さん"的な役柄自体は、本来は少しはみ出す可能性が高い豪華な美貌だと思うんですけど。小津さんだと、まあ納得するというか説得されるというか。こちらとしては、"演技"というよりも"演出"プランそのものを、見ているようなところはある。

ちなみに上の本によると、笠智衆は普段から、ああいう役柄で売れる遥か前の若い頃から、"ああいう"人だそうです。(笑)
小津さんに見出されなかったら、永久に地味な大部屋俳優のままだった可能性も高いだろうというか。


そろそろ締めです。

・小津映画に一見少し感じの悪い人(例えば『東京物語』の長男と長女)が出て来ても、それはその人たち個人が悪人だということではなくて、「人生は残酷だ」ということ、それが小津が言いたかったこと。(吉田喜重)

その通りだと思います。
のどかではあるけれど、ひんやりした映画ですよね、小津映画は。
人間ドラマが描かれるわけですが、葛藤や対立はそれなりに克服の努力はされるものの、たいていは曖昧に和解したり流されるだけで、決して"解決"されたり、必ずしも相互"理解"が本当に進んだりとか、そういう収まり方はしない。
それも"しない"ということを嘆いたり問題視したりするのではなくて、時に"してない"ことを見過ごしそうになるくらい、淡々と、見ようによっては投げやりに描写されて放っておかれる。
そういうものだと。そうでしかないという、そういう認識。人間観。

その通り、なんですけど、だからそういうドライな認識で映画を作っていた小津さんが、「観客の想像力」に期待するような緩い方法意識で見せる絵を決めたりするかなと、そういう疑問を同じ吉田喜重さんの上の解釈にぶつけたいところです。(笑)
あるいは「俳優」を完璧にコントロールしようとしたように、「観客」だって完璧にコントロールしようとするのではないかというのも。
観客の想像力に期待するとすれば、それは自分の見せたいものをきっちり見てもらう為の道具、誘導の対象として期待するのではないかというか。俳優の"演技力"同様。ちょっとしつこい?(笑)

とにかく「絵」にしろ「演技」にしろ、細かいという以上にきっちりさせるんですよね、小津さんは。
ある意味全て不自然で、全て作り物です。(でも売りは自然でのどか(笑))
そこらへんがまあ、実は小津映画は本質的にアニメーションなのではないかという、僕の以前からの主張(?)とも関連して来るんですが。(笑)

逆に例えばこの前テレビでやっていた高畑勲監督の『おもひでぼろぼろ』なんかは、アニメとしては出来損ないというか気合が足りないというか、"実写のまがい物"みたいな印象を僕は受けましたけど。ぬるい空間だなと。たまたまアニメを作れる環境の方が整っていたからアニメで作っただけで、本当は実写で作りたかったんじゃないの?というか。

ま、あくまで例えばです。


・何でもないことの反復の結果、人間は死に至る。それを描いている。(吉田喜重)

小津が「事件」を描かなかった理由の説明。
関連として、香川京子による「"人間"をしっかり描けば自ずとその背後に"社会"は見えて来る、だからあえて取り上げる必要は無いんだ」という証言も、加えておきますか。
それぞれもっともらしいですし、特に否定はしませんが。

ただどうも、理屈に落ちてる感じも少しします。ぴったりは来ない。
基本的には僕は、単に描きたくなかったんだと思いますけどね。興味が無かった(笑)。くだんの「見せない絵」と同じで。
具体的なこと個別的なことには興味が無い。派手派手しいようで、実はありきたりだから。
大変だ大変だ、そうか、大変か、で、何が?という。

では何に興味があったかという、「人間」・・・・てわあ、この繋げ方最低(笑)。間違いではないんですけど。
まあ一つの言い方として、ここでいう「人間」というのは、ヒューマニズム的なそれというよりもサイエンス的な意味合いで捉えた方がより正確であると、そう言っておきますか。"ドラマ"にも"感情"にも、それを丹念に描きつつどこかそれを一つの「現象」として感情移入レスに見ている、科学者的な視点が同時に存在していると。
そういう意味も含めて、"興味"はある。

あるいは上で、"リズム"の人だということを言いましたが。
それはだから、「映像」か「言葉」かという、具体末端レベルの区別を越えた、中枢側の、"こちら"側の一括的な把握、それが本質というか真の興味というか。
つまり「事件」や「社会」というのが、ここでいう具体末端で、「人間」というのが中枢側の一括的把握ですね。そういう意味での、「人間」への興味。それのみへの。だからそれしか描かない。
面倒だから(笑)。それが一番、効率がいいから。
"科学者"としての、実験条件の統制上?


僕が今言えるのは、これくらいですかね。
まとめてとにかく、シンブルクリアダイレクトなんですよ、小津映画は。僕の"中枢"に対して。(笑)
だから快感。だから見易い。余計なもの曖昧なものが一切無い。
普通の映画のように末梢から入って来る雑情報を選別する手間が無くて、直接脳をいじられている感じというか。(笑)
見ていると凄まじい解放感がある。安心感がある。"薬"に近い体験でしょうね。(笑)
あるいは音楽、勿論。

興味のあるものしか撮らない見せない小津さんの"わがまま"が、必要なものしか見たくない僕の"わがまま"と、上手く呼応するというか。
まあ褒め方は、人それぞれです。
小津さんの"意図"だって、常に二重三重ではあるんでしょうしね。それこそ矛盾に満ちた、「人間」として。

"ドキュメンタリー"としてはまあ、まずまずというか、意欲的ではあったしそれなりに知的でもあったし。
ただ余り貫く強いものは感じられなくて、あちこち掘り起こして色々と材料を提供してくれたと、そういう感じですが。
多分ベースにあるのは、作中でも紹介されていた吉田喜重監督の小津論

小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)小津安二郎の反映画 (岩波現代文庫)
(2011/06/17)
吉田 喜重
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なのかな?、読んでないですけど。

史上かなり特異な監督なのは、確かだと思います。語られ続けるだけの。
No.1かどうかは、ともかくとして。(笑)
比べると黒澤さんとかは、良くも悪くも普通ですよね。常識的というか。
"日本人としては"スケール感があるという面と、一方で欧米人に対するエキゾチズムと、やや矛盾する評価が混じり合ってる感じ。
小津さんの"位置"は、もっと何かあさっての方。国籍とかは関係ない。


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