東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
甲野善紀、前田英樹 『剣の思想』 第3回
2014年03月13日 (木) | 編集 |
第1回第2回

浦和騒動のさなかにアップするのもどうかという感じですが、週末だともっと読んでもらえないし。(笑)


剣の思想剣の思想
(2001/10)
甲野 善紀、前田 英樹 他
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再び前田英樹氏の回。

基本こっちの方が面白いかな。
"論"慣れしている人だというのもあるし。
「剣術」がなぜ生まれたか。


"第三章 術・法・流儀"より

・"法"と"術" ~"法"の成立

しかし、武術、剣術、という言い方が、江戸期になって世間に広まったものであることもまた明らかです。剣術に諸「流儀」が発生した戦国末期から江戸初期にかけては、剣術は兵法、刀法、または剣法などと呼ばれるのが一般でした。上泉伊勢守は、新陰流兵法を名乗っている。宮本武蔵の時代もまだ剣術は兵法でした。
(中略)
剣術、柔術の呼び名が一般化していった江戸期は、剣術であれ柔術であれ、「術」と呼ばれるに足る中身を根本からなくしていった時代でした。反対に、兵法の呼び名が一般であった時代には、数々の恐るべき術があり、我が術の成否に日々の命を託して生きるほかない人間が数限りなくいた。
(p.49-50)

「術」「法」そして後で出て来る「道」も含めて、それぞれの語のニュアンスには当然各時代感じ方の違いがあるからなと過去の読書体験では何となく今までスルーして来ましたが、ここでは「術」と言う語の"枝葉""個別"的なニュアンスと、「法」という語の"総合"的なニュアンスの違い、それらがなぜそれぞれの時代で優位だったかについて、突っ込んだ考察がされています。
言い換えれば、戦国時代の人も江戸時代の人も、そして現代の我々も、その(感じ方の)レベルにおいては大差無いという、前提。

兵法が生み出されたのは、このような「術」からです。言い換えれば、「法」は、「術」が「術」に克たんとする激しい願いから念じられていた。
誰もが、「法」を願わなければ心を保ち得ないほどの多種多様な「術」の相剋のなかで生き死にしていた。
(p.50)

ひょっとして混乱するかもしれないので補足すると、体系としては「法」(戦国)「術」(江戸)の順番ですが、理論化言語化されないだけで、実態としての「術」は当然先行してあったわけですよね。それに対してただの「術」じゃない「法」だという形で兵法等が出来て、ある意味その担保のもとで改めて(体系としての)諸"術"が出来たと、そういう流れでしょうか。
そこにおける「法」という発想は何か、"「法」を願わなければ・・・"とはどういうことかというと。以下。

身体運動の一般法則によって為される戦闘が、いかに一寸先も闇の偶然に委ねられているかを、少なくともこの時代の武士たちは見尽してきたに違いありません。それが彼らを圧する実感だったに違いありません。(中略)
それ故に、彼らが達しようと願ったところは、こうした一般性の外だったのではないでしょうか。
(p.57)

別に就職や弟子にかっこつける為に神業を気取りたいのではなくて(それはもっと後代の話)、とにかく目の前の日々の戦いを勝ち抜きたい、死にたくない、その為に願うものとしての「法」。更に言うと、それでも勝てないかも知れない、死ぬかもしれない、しかしせめてそれが何らかの"必然"と納得出来るものであって欲しい、偶然に埋もれて消えて行くのは哀し過ぎる虚し過ぎる、そうした思いが求めるものとしての「法」。
そういう意味では、「法」=「ダルマ」=「宇宙法則」というラインなんでしょうね、語源としては。まさしくというか。
もう一つ、前提として言っておくべきだろうこととしては、「法」以前にも彼らは日々の工夫と経験で、既に彼らなりに「術」は開発している尽している、互いの必死の「術」の激突を経験している蓄積している。それらがしかし結局拮抗膠着して、勝敗が偶然や運に委ねられてしまう行き詰まり、そうした地点から希求された、(超越的)「法」であるということですね。
彼らは「現実」的であるがゆえに、「現実」性の極みにいるがゆえに、逆に「超現実」を求めている。"願って"いる。願う必然を持っている。(あるいは同時に、時に"予感"していたのかも知れない)
そういうものとして、「法」を理解すべきという。

うっかり斬りをはずされた者、受けが間に合わなかった者、躊躇して動きが一瞬遅れた者、こういう者たちがたちまち不覚を取る。このようにして生じる勝敗は、スポーツなどでは立派な勝敗でしょうが、刀法では偶然に過ぎません。いや、偶然と考え、その偶然を根底から克服しようと願うことが、刀法の工夫に生きる意味だった。(中略)
戦国末期の茶の湯刀法とは、乱世に平常心を得て生きようとする2種類の徹底した工夫として成立していた。
(p.61)

解説者は言うわけですよ。
「勝負を分けるのはミスかセットプレーでしょう」
「ここからは、精神力の勝負です」
と。
そうなのかも知れないけど、でもそれは「術」的にはほとんど何も言ったことになってないわけですよね。
・・・・実際何も言うことが無いわけでしょうけど(笑)。まあ僕も無い。
同次元同発想で、あるいは日常動作の延長上でどう"頑張って"みても、互いに同じようなことをやっているわけでいずれ早々に拮抗・膠着状態は訪れて、後は根比べ・運比べの世界になる。(と、身体能力)
サッカーならそれでもいいのかも知れない。負けちゃったけど次頑張ろう、アウェーで1点差なら上々だと、それで済むのかも知れない(笑)。でも戦国の武士はそうはいかないわけですよね。負けたら死ぬわけですし、しょうがないでは済まない、あるいは仮に肉体的天分に恵まれなかったとしても、はいそうですかと簡単に殺されてあげるわけにもいかない。
だからこそ求める。「法」を。"偶然"をぎりぎりまで制御出来る、"技"を"術"を。
勿論サッカー界の人も別に諦めているわけではなくて、例えばグアルディオラ(バルサ)は徹底的に意図的な「技」で現代サッカーにおけるある種の均衡・膠着をかなりの部分打ち破って見せましたし、あるいは李国秀(笑)のような人は、そもそも"偶然"の入り込む余地を極力排除した「サッカー」(の世界)を構築して見せようとした。その他各々勿論努力はしているわけでしょうけどね。
・・・・ちなみにクライフはどうかと言うと、それがちょっと分かり難くて「ボールを失わなければ負けることは無い」というところまでは確かに"必然"を希求しているようなんですが、一方で"勝敗"については結局投げている/"偶然"に身を委ねているようなところがあって、「観客の喜び」をたてに華々しく散ることを是とするような発言も同じくらいしている。不徹底なのか(勝ち切れないことの)後付けの言い訳なのか、何言ってんのかなと思うことが、割りとこの方の場合は僕は多いです。(笑)
いずれにしても、戦国武士的にはアウトでしょう(笑)、上の文脈からは。
ミケルスはまた違いますけどね。勿論ペップも。

とにかく後世ある種神話化ファンタジー化して、実在性を疑問視されるようにもなった"剣術""武術"の超絶技巧の体系にも、少なくともそれが望まれる願われる、当時の武士たちにとっての切実な現実的基盤があった土壌があったという、そういう話。
そうした時代の空気の中に出現した"メシア"としての、新陰流の祖にしてある意味の"剣術"の「発明」者、上泉伊勢守信綱(秀綱)。茶の湯の千利休も同じ。(という視点)


・「術」と「道」、「武術」と「スポーツ」

明治になって、剣術が剣道、柔術が柔道になったのは、やはりこの時期に対面した西洋文明を意識してのことでしょう。我が国にも、こういう立派な独自の伝統的体育がある、ということが言いたかった。で、「道」の字をつけた。
ここでの「道」は、江戸期の公的な儒学が、武家の子弟に向かってさんざん定義し、教え込んできた形而上学の観念です。
(p.48)

「術の小乗を脱して、道の大乗に」という嘉納治五郎の発想は、きわめて旧幕的な教養を背景としたものにほかなりません。「柔道」の観念に近代スポーツの健康思想が無理なく接ぎ木されたのは、こうした教養の曖昧さのおかげだったかも知れない。
術を脱して道に行く、その「道」の中身が、朱子学の説く「天地自然の理」から近代オリンピックの博愛精神になりかわったところで、別にどうということはない。
(p.49)

今日ではむしろ、特に柔道の「道」性が、非"スポーツ"的なものとして葛藤を生んでいたりするわけですけど。"接ぎ木"がもげて来ちゃったというか(笑)。化けの皮が。
剣道・柔道の"スポーツ"性への前田氏の根本的な評価としてはだから、とにかくいかにも中途半端で、"スポーツ"としても二流三流、本物の西洋スポーツの持つ合理性・一貫性には遠く及ばないし、それに至ることも無いだろうというもの。激辛。
もし聞いたら、「カラー柔道着?大いに結構、とにかくまず行くところまで行ってみることだ」とか言いそうですが、まあ想像でしかありません。(笑)
一方で。

術を捨てて赴く「道」などは、詐欺同然のまやかしに過ぎません。こういうまやかしを、今のスポーツファンや格闘技ファンは割合あっさりと見破る
けれども、見破った時には、術も一緒に棄てている。術というものがあり得ることを、決して信じようとしない。
(p.50)

前半納得後半クエスチョン。
ある時期以降の日本における"格闘技"ブームが、ある種の肉体的実在性「技術」の実体性への興味や敬意を大きなモチベーションとしていることは、伴走する漫画や小説などのフィクションを見ても明らかだと思いますが(ちなみにその中で『バガボンド』時代錯誤性は際立っていると思う)、その作用範囲は結構広くて、内容さえきちんとしていれば、古武術の類も決して真剣な検討対象から排除はされないと思います。
"格闘技ブーム"を支える精神性そのものの中に、既に無意識の「反近代」主義という性格は含まれていると思いますし。

とはいえこれは格闘技にとどまらない、広く基本的には良心的な"合理主義的"検討の際に、必ずしも棄てる必要の無いもの、その判断は時期尚早なものまで"一緒に棄て"られてしまうという現象は、これもまた広く/頻繁に見られるのも確かで、そこらへんについての慣習的(笑)悲観から、こういう書き方になってるのかなあとか思いますが。
武術、伝統、古いもの、そしてあえて言えば宗教も。しばしばそうした短絡の、被害を受ける。
まあ「右」「左」の議論なんかも、互いにそういう傾向はありますが(笑)。そういう意味では「議論」や「分析」全般にまつわる、問題かも知れない。

とにかく(当面)正しい否定が必ずしも正しい肯定を導かない、正しい理解を保証しないと、そのことは頭に置いておくべき。
逆にだから、(正しい)"否定"はそれ単独で、価値を認められるべきだと思うんですけどね。すぐ対案がどうとか言わずに。その方が安全。それはまた別の知的作業というか。


段々乗って来て解説が長くなって来ましたね。(笑)
ではまた次で。


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