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甲野善紀、前田英樹 『剣の思想』 第4回
2014年03月29日 (土) | 編集 |
前回


"第四章 稽古を究める、第五章 上泉伊勢守の創造" より

ここらへんから、段々剣術の具体的な話が多くなって、逆に引用する部分、サッカーに引き付けて書ける部分が少なくなって来るので、ペースは上がります。
あと一回かな?

・・・と、その前に、参考。

魁偉(かいい)なり-広瀬武夫伝魁偉(かいい)なり-広瀬武夫伝
(2010/11/23)
東郷 隆
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---一つ思うのが、当時、武道は、ある種、前近代のものとして徹底的に否定されて、榊原鍵吉のやった撃剣大会を開くような・・・・・・。
 「ああいう見せ物になってしまうんですね」
---見せ物になって、さらにそれが禁止される。そういう状態の中で、嘉納治五郎という人は大変なインテリですから、新しい西洋のスポーツに伍する、スポーツではないですけれども、スポーツに伍するような日本人の新しい武道みたいな感じで、柔道をはじめた。
 「あれ、新武道なんですね」
(p.127)

前回批判的に取り上げられた柔"道"誕生の経緯について。
まあ周知&重複的なことではあると思いますが、せっかくなので他の文脈での説明も載せておこうかなと。
"禁止"までされてたんですね。それじゃあしょうがない。"看板"の架け替えも。

では改めて本題。


剣の思想剣の思想
(2001/10)
甲野 善紀、前田 英樹 他
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"第四章 稽古を究める"より (甲野→前田)

・打合い稽古(剣道)と型稽古(剣術)

防具をつけて打ち合っていれば、どんな者でも自然と反射機能も鍛えられ、数をこなせば、ある程度は間に合う動きが身についてきます。
(中略)
しかし、そうした日常の動きのレベルの反射機能を、ただ、模擬実戦形態の環境のなかでそのまま研ぎ上げてゆこうとする稽古ではやがて、壁に突きあたります。なぜかというと、
(中略)
とにかく、いま自分が持っている能力をなんとか、やりくりして間に合わせようということに必死になってしまい、動きの質を変えるという、根本的な課題へ目がいかなくなってしまうからです。
(p.66-67)

"実戦性"の罠というか。
僕も一応剣道経験者なので、言ってることは分かります。はっきり言って、ほとんど"教わった"記憶が無いですし、有段者の先輩方の試合などを見ていても、要は反射神経とパワーで、少し見慣れれば素人に毛が生えた程度の僕でも動きの限界や試合の趨勢が簡単に見えてしまって、興ざめすることは多かったです。
要は勘と癖でやってるだけだよねえ、自分も含めてという。
・・・・ただし、僕がこのくだりを読んで本当にどきっとしたのは、僕の文章の書き方にも、当てはまるところがあるなあと感じたからです(笑)。時に称賛される部分も含めて。
"間に合わせる"のは上手いんですよね、僕は。ただその分、準備はいい加減。たまにちゃんと準備して書くと、やっぱり我ながら厚みは違って来ますし。
あるいは書いたものがそれなりにサッカーの理解に貢献している部分があることにはそれなりの自負はあるんですが、では自分が成長しているかサッカーの理解のに例えば10年前と比べて大きな違いがあるかというと、はなはだ心もとない。結局自分の手癖の範囲で、狭い得意分野の範疇で、プレゼンテーションがいくらか巧みに/大胆になって来てるだけというか。
僕の不得意分野を得意とする人は(ネット上に)いくらでもいますから、読者様方的には問題無いだろうと思いますが(笑)、当の僕の手元に何が残るのかというと、時間かけた割にはどうもなというのは、なくはないです。何より飽きますしね、自分の書くものに。まあもうある程度プロフェッショナルな書き方になってるので、それで今すぐ深刻に悩むということでもないんですが。たまにやんなるという。(笑)

より一般的な観点で言えば、これは"マネージメント"(模擬実戦)型"戦術"(動きの質)型という、サッカーのチーム作りの違いに擬することが可能かと思います。「間に合わせ」「変革」
我が国のサッカー観戦文化の成熟の段階的には、むしろ"マネージメント""間に合わせ"の部分を強調するのが「玄人」的だという風潮に、どちらかというと現在はあるかと思いますが(笑)、とはいえ間に合わせは間に合わせでしかないし、特にそれで成果が出たとして後に何が残るのかという問題は、南アの岡田ジャパンあたりを象徴として、これはこれで理解されているところだと思います。
そうした現況の理由としては、「戦術」型を標榜する監督たちの"マネージメント"の拙さにイラつかされることが沢山サッカーを見れば見るほど多くなる(だから"玄人")というのと、後はまあ、「戦術」そのものの内容・探求不足、武道の世界で言えばその「型」ほんとに使えるのか?的な疑問から、いっそ最初から割り切って実戦型でいい、間に合わせでいいと、妥協しているというか諦めているというか、そういう面があると思います。・・・・特に日本人監督の場合?(笑)。また絵に描いた餅を食えってか?

・稽古と実戦

「無心というものにも二つあり、剣術を習うことによって得た無心と、敵と打合い、生死ぎりぎりのところに追い込まれて、無我夢中で、無心になるものとがあり、これは生の木と朽ちた木との如く違うものである」
(『願立剣術物語』より p.75)

剣"道"ならぬ剣"術"の世界でもこういう議論は昔からあって、男は度胸と思い切り、小賢しい術など実戦で役に立たぬわという極論と、いやいやそうは言ってもという対立が、しばしば繰り広げられているとのこと。上は剣"術"側からの、代表的な議論。
まあ最終的にマネージメントは必要で、最終的に度胸と思い切りの部分は小さくないわけでしょうが、それにしても準備の問題はある、用意された戦術によって発揮し得る最大パフォーマンスのポテンシャルに違いはある、ということと。
もう一つは、多分上の箇所が言ってるのは主にそれでしょうが、"再現可能性"の問題。その期待値というか。一回こっきりなら"無我夢中"や火事場の馬鹿力でも間に合うかもしれないし、場合によってはそっちの方が強いということもあり得るかも知れないですが、そういう(心理)状態はいつ訪れるか分からない。あるいはある特定の状況でしか、発動しない。
トータルでは、数戦う上では、必要な時に必ず無心や平常心を引き出して安定的な戦いをする為には、やはり理詰めの稽古の裏打ちがあった方がいいと、話としては当たり前になてしまいますが。(笑)
・・・・うーん、ちょっと足りないな。言い直しましょう。
つまり一方で、「何も考えない」ゆえの"無心"と言うものがあり、一方でケーススタディをやり尽したゆえの、あるいは合理的な動きを学習し尽したゆえの、今更「その場で考える」必要の無い、そういう"無心"があるという、そういう話か。オートマティズム?
ちょっと僕がモゴモゴ言ってるのは、この「生の木と朽ちた木」の比喩がよく分からないからですね(笑)。甲野さんは言い得て妙だと絶賛してるんですが、それ以上の説明が無くて。どういうことですかね、これ。

・術の「理」

肥田春充は、下腹丹田を正中心と呼びここを緊張充実させる体内操作により、横隔膜が押し下がって、恐怖の感情などは、人体生理の構造から起こしたくとも起こらないのだ、と述べております
(p.75)

この肥田某が何者かというのは、面倒なので気にしないで下さい(笑)。マイスターの一人です。
一般にある感情があってそれに伴う身体反応があるという風に理解・表現されることが多いわけですが、生理学や心理学の世界では、逆方向の議論も時にされます。古典的な言い方では、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という、かのダーウィンのものとかもありますが。・・・・ダーウィンはぶっちゃけ、進化論以外の部分の方が面白いというか、その天才性が痛感出来ると思うんですがそれはともかく。(笑)
ていうかダーウィンて、トータルで見るとあんまり進化論に情熱持ってるように見えないんですよね。自分の観察した特定の事実からの、一つの可能的な論理的帰結として、そういうこともあり得るとポンと投げ出しただけという印象。決して教条的な論者ではない。もっと虚心な人というか。マルクスなんかも割りとそう。フロイトは・・・やっぱり"教祖"かな。(笑)
とにかくここで示唆されているのは、稽古で恐怖の起こらないような生理的状態身体的準備を学習しておけば、実戦でも理の当然として起こらないというか、起こるのを防ぐことが出来るという、そういう可能性。
"丹田"がどうしたというのは一つの例ですが、こういう"理"詰めの発想を古武術が持っていたという、そういう可能性ですね。現代剣道/武道こそ、"術"を切り捨てた挙句として苦し紛れの精神論を乱発していると、これは甲野さんのよくする主張ですが。

・"実"の中身

実体験ほど確かなものはない、と言いますが、その実体験は、どのレベルの人が体験したかによって大きく異なると思います。
(p.76)

この"レベル"という発想ないしは想像力が近代合理主義または西欧的人間観(つまりは画一的"人間"主義)には欠けているので、日常の延長以上のものの存在の可能性を、簡単に切り捨ててしまいがちなわけですが。あるいは間に合わせの類型による、雑な議論。
まあ神秘化への警戒心というのは、分かるんですけどね。
この話は次の章に続きます。


"第五章 上泉伊勢守の創造"より (前田→甲野)

「我、三十を越えて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か、又は他流の兵法、不足なる所にや。」
(宮本武蔵『五輪書』より p.84)

武蔵の言葉によってはっきりすることは、こうした命がけの勝負の体験から学んだことは、まことにわずかであったと、彼が実感していることでしょう。
(p.84)

不敗の男、叩き上げの"野獣"派(というイメージ)武蔵にしての、この述懐。"実戦"主義の限界、虚しさ。
という話。
天分と偶然と幸運によって勝ち抜いて今日まで来たけれど、それで何が身に付いたわけでもない、という。
というわけで、むしろ勝ち抜いて功成り名を遂げた後(小次郎を倒した後?)が本格的な修行の始まりという、なんか地味な話にはなるわけですが。(笑)
そういう武蔵が(後年になって)"実戦"と"稽古"についてどう言ってるかというと、

「又世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にたつまじきとおもふ心あるべし。其儀におゐては、何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也」
(同上 p.85)

たつかたたないかじゃない、たつようにするんだよという、なんか身も蓋も無い答えですが。
ただ少なくとも、"実戦"主義に未練は無い、そこに帰ることは選択肢に無い、あるいは数多の経験を踏まえた上でも、"兵法"に希望と手応えを見出しているという、そういう感じは読み取れる気がします。
結果至らなくても、それは仕方がない。
多くの"戦術"派の監督も、案外こういう心情なのかも知れませんね。"実戦"派"現実"派(のライバル監督たち)による空論だという批判には、もう興味は無いというか単なる成功の見込み以上のモチベーションを、"戦術""スタイル"に見出しているというか。ベンゲルとか、李国秀とか。(笑)
ちょっと雑駁なまとめですが(笑)。正直。

・・・・この章には他にも色々と面白いことが書いてあるんですけど、余りに専門的というかディープなことが多いので、それらについては余裕があったら、最後に「特別編」「剣術編」とでもして、紹介したいなと思っています。


今はとにかく先へ。


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