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甲野善紀、前田英樹 『剣の思想』 第5回
2014年04月15日 (火) | 編集 |
前回。一応これが、最終回のはず。


剣の思想剣の思想
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第六章(甲野→前田) より

 人間は、動く物に対して、何らかの対応をしようとしている時、常に、いま見ているものから、次の動きの予測を立てているものです。つまり、今、見えていることそのものよりも、それが次にどう動くか、ということに、より深い関心を持ちます。そして、いままでの経験に照らし合わせ、現在見た動きの次にそれはどう動くかを予測するのです。
 そうした時、普通なら連なって、うねって動いてくる筈の身体各部が、あたかも何の関連もないように動いた場合、その動きの脈絡は消え、次に何が起こるかを予測するのは、困難になります。
(p.112)

ある種原点に返るような話ですが、そもそも"古武術"的な動きがどのように有効なのかなぜ必要なのか。
要は「うねり」と「反動」の"スポーツ"的な動きは、パワフルだけど予測し易いということ。
・・・・"デンプシーロールはカウンターのいい標的"みたいな話?(笑)
まあことは武術あるいは"勝負"の世界の話ですから、要は勝てないと、あるいはそれによって勝率が上がらないと意味が無いわけで。

余談ですがこの本を読む一方で現在絶賛放送中(?)の野球アニメ『ダイヤのA』

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なんぞを見ていると、そこで強調・推奨される(ピッチャーの)「壁を作る」フォームやそもそもの「遅れて来る腕の動き」という、"うねり""ため""反動"の最たるものの一つ一つが、妙に痛々しくてたまらなくなったりします。(笑)
ある意味野球というのは、固定的で力ずくな動きの殊更集まって出来ているという面があるとも言えて、そういう意味ではキング・オブ・"スポーツ"かもという。


第八章(甲野→前田) より

一般に基礎体力などと呼ばれている、単純な動きの早さや持久力なども、動きの質によって、それがまったく違った意味あいを持ってくるということです。そして、これは武術とスポーツの具体的な違いともいえるようです。なぜかというと、縁の出来たスポーツ関係の方々によく聞いてみますと、どうやらスポーツというのは、いわゆる運動神経の良さや基礎体力というものの上に、それぞれの競技に必要な技術を育てる、という考えはあっても、基盤となる動きの質そのものを転換し、向上させようという発想は、特に球技などではまったくといっていいほどないらしいからです。
(p.158-159)

まあスポーツ関係者だってそれぞれ出来る工夫はそれなりにやり尽しているはずですから、基本的には程度問題だろうとも思うわけですが、実際に両者の対話の中でそうした"差異"が浮き彫りになったのだとしたら、そうなんでしょうね。
"積み上げて発展させる"スポーツと、"掘り下げて変質させる"武術と。
余談ですがこの対比は、「娯楽小説」と「純文学」なんかの対比にも、使えないことはないかなと(笑)。あるいは「エンタメ」と「芸術」
更に付け加えるとすれば、スポーツの"発展""応用"本位の発想というのは、一つは西洋的な人間観そのもの、つまり「人間」の普遍性均質性という前提そのものに、一つは起因しているかなと。
つまり「人間」が「人間」であること自体は固定的で、後はそれをどう組み上げるか加算していくかという。「人間」そのものの内容に考察の目を向ける、(東洋)武術的発想とは方向性が違う。
ちなみにここで「球技」が特にやり玉(笑)に挙がっているのは、それらのほとんどが"チーム"スポーツであって、個々人にかかずらっているよりは"チーム""集団"レベルの機能性を高める方に、専ら注意が向けられる傾向がどうしてもあるからという、単純な理由が大きいと思います。その際"個人"や"人間"は、どうしても部品化単純化されることになる。規格化というか。目が行く暇が無い
個人ベースのチーム作りは、時間がかかるしたいていは掛け声倒れに終わるし。(笑)


第十章(甲野→前田)より

現代では広く行われている「基本をまずしっかりと身につける」、そしてその後はカリキュラムに従って学んでいくという教え方の問題点です。
(p.177-178)

ちょっと分かり難いかも知れませんが。「基本」がなぜいけないのか。
つまり基本単独、結果として基本として抽出される動きの存在は否定しないけれど、最初にある基本が存在して、そこから発展して特定のゴールに至るという、直接的な時系列的発展段階の存在を否定しているわけですね。(そしてそういう仮想を前提とした"カリキュラム"を)
このことは前(々)世紀西欧で興隆してそして今日では否定されているマルクス主義的「発展段階」や、あるいは西欧を頂点とする文化的"進化"論とそれに基づく非西欧文化への偏見などを思い起こせば、それほど突飛な発想ではないのが分かると思いますし、あるいは「基本」とそれに基づくカリキュラムの総体を専有していると称する人々/"先輩"たちが新規参入者に押し付ける権威主義の問題などを考えれば、その弊害の一端は理解出来ると思います。
言ってみればメジャーな世界では既に過去のものとなっている"進歩"史観が、スポーツ等の世界ではそのマイナー性ゆえに、未だしぶとくまたは素朴に生き残っていると、そういう話でもあるかもしれません。
・・・・というかね、誰かの"カリキュラム"に従っていれば確実にスタートからゴールまで導いてもらえるなんてのが幻想だというのは、数多のサッカー監督の仕事を見ていれば分かると思いますけどね(笑)。個々の監督がそれほど無能でも嘘つきでもなくても、結局その人の一貫性はその人個人の内部のものでしかないわけでね。あんたの場合はそうだったんだろうと、最終的にはそうとしか言えないと思います。
2000ページ(?)の教科書の残りは、いったいいつ教えてくれるんだ、トルシエよ。(笑)
だから何度も言ってるように、その時見えているのがその監督の教えられる全てだと、基本的にはそう考えるべきだと思います。包括的普遍的"カリキュラム"なんて、存在し得ない。

ですから、ウェイト・トレーニング等で何とかする、といった方法は、私はまったく不賛成なのです。ウェイト・トレーニング等のいわゆるスポーツ・トレーニングの一番の問題点は、それが正しいことだという先入観で始めなければ成立しないところにあります。
(p.191)

一方でカリキュラムは、存在し得るわけですよ。無理やりには。あるいは目的を限定化すれば。
鰯の頭も信心ではないですが(笑)、ともかくどんなに偏っていようとある方向をやり切れば、なんにも成果が無いということもまた余り無いわけでね。
問題は投入する努力の量と成果の見返りの問題と、それからその為に蒙る偏りや犠牲の問題。(後者もまた一面では"見返り"の問題ではありますが)
ある運動の方向を「正しい」と信じて、それに向けて肉体を改造・固定する(という偏りと犠牲)「ウェイト・トレーニング」の問題も、その一例。
失敗例も数多あるのは周知のことだと思いますが、仮に「成功」したとしても、それは"教育・成長"的見地で、その個人のたどり着き得る最高のゴールだったのかどうか。ベストの目標だったのかどうか。既に体は変わってしまって、最早確かめようがない、みたいな事態。
どのみちその時代の相場から逃れるのは難しいですし、職業人としてはそれが数年間の収入アップに繋がるなら当座OKではあるわけでしょうが(笑)。ただ教育の理想としては、なるべく"限定"を加えないやり方で、個々人に究極を目指させたいと考えるのは、普通というか真っ当な話ではあるでしょうね。
カズやヒデがウェトレにはまらなかったら、どんな選手になれていたか、どんな年の取り方が出来たか。
元々強い長友とかは、むしろ構わないと思うんですけどね。「方向性」通りなので。


第十一章(前田→甲野) より

最後に、しばらく剣術のマニアックな話ばっかりで出番の無かった(笑)前田さんのパート。

おっしゃるところのカリキュラム主義は、学校教育同様、上達の過程をで捉えた考え方でしょう。あれを知り、これを知り、知っていることがだんだん増えて、最後は卒業になるというようなものです。武術、学問、技芸、いずれの領域においても、このような意味での上達は実際には存在していません。無いことを有るかのように言うのは、あらゆる詐欺が採用する共通のやり口ですが、カリキュラム主義者は何も詐欺をはたらこうとしているわけではないでしょう。(中略)結果として、詐欺同然の教育課程とやらをでっち上げる。
(p.203)

まあ教える側からすると、増してそれで金を取ろうなんて側からすると、"カリキュラム"幻想は便利なわけですよね。また教わる側も、そういう幻想的期待を抱いて、「学校」に入ることが多い。
ただちょっとカリキュラムを"作る"側に回ってみれば、あるいは他人にある程度以上真剣に何かを教えようとしてみれば、自分が提示しようとしている"体系"が、いかに無根拠なものかはどうしようもなく分かると思いますけどね。
仮に自分が現に何かを身に付けていたとしても、それがどのようにどのような順番で身に付いたものかなんて、まず理解はしていないし分析も難しい。ぶっちゃけ「背中」で学んでもらう方が誠実な気はしないでもないわけですが、教わる側からするとそれはそれで不誠実に見えてしまうことが多いという。(笑)
まあそれでもそれなりに工夫された"カリキュラム"は、世の中に存在しているわけでしょうけどね。ただそれらを活かす為にも、むしろ無謬的首尾一貫的カリキュラムのイメージは、捨ててしまった方がいいと思います。「メニュー」くらいが、無難かなあという。"順番"はたいてい嘘。

この話はとりあえずこれで終わり。
で。

 はっきりしていることは、<流祖の時代>の刀法は、予測を許さない凶々しい敵手との百年の葛藤の末に生み出されたということです。そうした敵手を背腹に受け、脅しも、すかしも、厭がらせもしないものが、上泉伊勢守の刀法であった。彼の刀法がこの時代を制したことは、文化上のひとつの奇蹟にほかなりません。
(p.215)

ちょっと想像力を働かせてもらわないと難しいと思いますが。(笑)
僕はこの箇所を読んで、サッカーにおける"ポゼッション"、あるいは"自分たちのサッカー"の理想の、一つの究極的な感覚・情景を幻視したんですけどね。
敵は現に目の前にいる、それには対応しなくてはならない。ただそれはそれとして、その繰り返しに留まらない、必然性普遍性を持ったスタイル、"主導権"を堅持した立ち居振る舞い、当の相手をも呑み込む/包み込むような戦いの姿を現出させたい、そういう希望・幻想は、むしろ現実の戦いに放り込まれて揉まれている人たちほど、強く思うのではないか。
乱世の武士たちが、「剣術」を求めたように。
だからサッカーにおいても、実現の難しい包括的なポゼッションスタイルを標榜したがる監督たちが特殊に幻想的なのではなくて、むしろ"現実"的なリアクションスタイルで長期間を耐え続けられる監督たちの方が、"特殊"に鋼(はがね)の神経を持っていると言うべきなのではないかという。

まあ国によっても事情は違うように見えるので、何とも言えない部分はありますが。勿論単に流行でやっている人も少なからず。(笑)
ただ"勝つ為のスタイルの選択"という以上の理想性というか意味性を、「自分たちのサッカー」に求めてしまう監督たちを止めるのも責めるのも、逆に現実的でない部分はあるかも知れないなという。
"対応"によって勝ちを拾う繰り返しの虚しさは、見てる側より遥かに当事者は強いのかも知れないというか。戦国の武士たちがそうであったように。(?)

やっぱりちょっと、こじつけが過ぎるか。(笑)
どうも上手く締められないので、やっぱりまとめ&番外編を、もう一回やりたいと思います。
剣術のディテールのはなしを少しした方が、感覚はよりダイレクトに伝わりそうですし。


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