ヴェルディ、代表、アイドル、漫画、アニメ等
伊藤彩子『原作者インタビューズ』
2014年04月19日 (土) | 編集 |
最近まとめて漫画評論系の本を読みまして、まあ「読書日記」的な軽い感覚なんですが、量的にいっぺんにやるのが厳しいので。
まず第一弾。


まんが原作者インタビューズ―ヒットストーリーはこう創られる!まんが原作者インタビューズ―ヒットストーリーはこう創られる!
(1999/10)
伊藤 彩子
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田島隆(『カバチタレ』)編

----それじゃあ、どうして東風さんに?
田島 編集長と担当が呉までぼくに会いに来てくれたとき、メシ食いながら「ウチのいとこを使ってくれんか」と直談判やったんですよ。
(中略)
田島 キャラクターを決めるまでには、本当に時間がかかりました。東風もさんざん悩んで・・・・・・。(中略)結局『ナニ金』の亜流でいってしまえと。「『ナニ金』に似てて何が悪い、正統継承者たぞ」と(笑)。
----半端に似せるよりも、そのままでいいじゃんって感じですね(笑)。
(p.46-47)

単なるこぼれ話ですけど。(笑)
余りにも露骨に似てるので、てっきり青木雄二の"院政"か、『ナニ金』の後釜を作る為の編集主導の"プロジェクト"なのかと思ってたら、勿論原作・作画それぞれに青木雄二との縁はあったんですが、ああなったのは飽くまで結果的にだという、驚きの真相。(笑)
しかし思い切りいいにも程があるだろうという(笑)。語弊があるかもしれませんが、ボランティアでレイプされに行ってるような感じ、"表現者"としては。「原作者」発の企画だから、出来たことというか。漫画家には無理なんじゃないか、あそこまでのは。

これは、『モーニング』でも『S』でも言われたんですが、実社会でも、その情報だけで食っていけるくらいのレベルじゃないと、生半可なものでは、まず無理だと。
----専門家じゃなくても、取材して書くっていうやり方もありますよね。
調べた程度でやってるものだったら、一話、二話が完成度か高くても、その後続けるのが難しい。
(p.50)

この件については、後でまとめて。


さいとう・たかを(『ゴルゴ13』)編

原作者の登場は、おもに二つの理由に支えられていたようだ。
ひとつは、漫画を商業ベースで考えたとき、一人ですべてを仕上げるには、仕事の量的にも時間的にも無理がある。(中略)もう一つは、まんが家からは絶対に出てこないようなアイデアや情報を含んだストーリーを提供してもらい、まんがにバリエーションを持たせようというものだ。
こうした考え方は、週刊誌、とくに青年誌が急激に増えてきた六〇年代後半に顕著になってくる。
(伊藤p.64)

以上が漫画原作及び、漫画製作の"分業"体制の歴史の基本。
そしてその草分けの一人が、さいとう・たかを氏。

さいとう その頃は、ストーリー物の世界を"漫画物語"とか"ストーリー漫画"なんて呼んでいた。(中略)
(活動写真)が"映画"という名前が付いて呼ばれるようになったように、"ストーリー漫画"も、一つの名称を付けてやるべきじゃないかと。それで、『劇画』と呼ぶようになったんです
(p.67)

なるほどね、僕らは今日では単に「ギャグ漫画」等との区別で使ってるだけですが、当時的には「写真が活動する」「漫画がストーリーする」という具合で説明的に感じたんですね。
逆に再び今日では、むしろ『劇画』の方が、特殊な用語というか、"劇"の部分がわざとらしく説明的に感じてしまうわけですが。

コマ割りは、映画でいうなら絵コンテを描くようなもので、監督の仕事だ。分業体制を取ったのは、絵はダメでもコマ割りの仕方が上手い人もいて、そこに最適な絵を入れれば、作品としての完成度が高まることを狙ったからだという。
(p.67-68)

この件も、また後で出て来ます。


木内一雅(『代紋TAKE2』)編

いつもぼくは、「オレはプロデューサーと脚本家と、監督の半分までやる」ってい言うんです。「君ら("作画"担当)は残り半分の監督と、照明とカメラと俳優と美術と道具周りだ」と。
(p.96)

"半分の監督"の部分が無いと(あっても?)、言われた作画担当としてはあんまりいい気分ではないでしょうね(笑)。救いが無いというか。
まあ作家主義的な原作者というか、文芸主義者なんでしょうね。
僕もほとんど絵に興味が無い人なので、分からんではないですが。(笑)
とにかく、一つの「分業」例

講談社は、まんがの中で句読点使っちゃいけないっていう決まりなので、改行を句点、代わりに「!」を読点代わりに使うようにしています。
(p.97)

へええ。
そうだったっけか。

今のまんがの体制っていうのは、ものすごい歪みがあるんですよ。つまり、大友先生が登場してきて、絵のレベルが極端に上がった。そうなると、あそこまではいかないにしても、ソコソコのレベルの絵を描かないとダメっていう世界になっちゃったんです。当然、絵にかかる時間が長くなると、まんが家さんがしっかり話を作り込む時間がなくなってくる。
(p.103)

まあ1999年なので、「大友克洋」という焦点の当て方になりますが。
でも僕なんて、アニメでしか知らない。今やほとんどの人は、そうだと思いますが。
ただ言われている状況としては、今日でも通じないことはないのかなと。"週刊連載ペース"という問題ほど、大きな問題ではないとしても。
・・・・どっちかというと、「絵」に偏執的なある種の漫画家たちが、そこで引っかかって自滅しているというような感じも、しないではないですが。あるいは絵の「脳」に偏り過ぎて、話の「脳」が働いていないように見えるというか。止め絵と共に、話も止まる。

----ところで、最近の青年誌はジャンルまんがが多い関係で、専門知識をもった原作者の方が増えてきてますが・・・・・・。
木内 (中略)「どんなことでも書けます、調べれば」っていうくらいのほうが、いいような気がします。だって人殺しやらなきゃ人殺しのシーンを書けないのかっていったら、違うでしょ。それと同じですよ。
(p.104)

上の田島隆さんとは、反対の見解。
ただ一般論としては、明らかに田島隆さんの方が正しいように思えます。"書け"ればいいというのは書き手の視点であって、これだけ作品のある中で読み手がお得感を求めるという視点からは、やはりちょっと"調べた"以上のスペシャリティは、あるに越したことは無い。どうせなら、人を殺したことがある人の人殺しのシーンを読みたいというか。(笑)
まあそれは極端な例としても。
最終的には、勿論個別の問題であるし、その原作者の才能・センスの問題ですけどね。
つまり薄めのバックボーンでも説得力や専門家以上の洞察力を示せる人はいるだろうし、逆に専門知識を持ってれば誰もが"原作者"になれるわけではない。小説だったら、ゴーストライターに書かせるという手もありますが、漫画"原作者"は言わば自身が"ゴースト"の一種なわけでね。
この問題は、後で更にもう一回出て来ます。


城アラキ(『ソムリエ』)編

商業誌の場合、原作家ってバッティングピッチャーなんですよ。まんが家はバッター編集者は審判かな。(中略)
まず、まんが家さんが打ち返せない----理解できないとか、つまんないと思うような球は投げたらダメ。かといって、まんが家さんに合わせた球だけ投げてればいいかっていうと、そうじゃない。
(p.125)

なるほどね。"審判"というのは今いちよく分かんないですけど(笑)、(表に出る)漫画家中心に考えると、こういう例えはありかも。
ていうかこの人は、多分"バッティング・ピッチャーの快感"が分かっているんですよね(笑)。"合わせる"主体性というか。自分が合わせることによって、相手の中の何かが働き出すのを見る快感というか。
もっとフラットに、"コーチ"の快感と言ってもいいかも知れないですけど。

作品における三人の力関係って、原作家三〇、編集者三〇、まんが家四〇だと思っています。
(p.128)

ふむ。逆に「分業」という感覚じゃないですよね、この人は。
真に「共同作業」的というか、バンドのアンサンブルに近い感じ。漫画家がヴォーカル?リードギター?(笑)

たとえば、三人いると必ず誰かか疲れるわけ。(中略)
でも、三人のうち二人がヤル気があるときは大丈夫なんだよね。
(p.129)

まあ、そうかも。一般的にも。
多数決じゃないですけど。(笑)

水木杏子(『キャンディキャンディ』)編

原作を書いて二〇年以上たっての感想は・・・・・・、やっぱり少女まんがの原作者は育たなかったな、と。
多分、女性作家は自分の作品に感情移入し過ぎるのかもね。私がそうだから・・・・・・。まんが家だって同じでしょう。
(p.154)

そうなのか。
単に原作者を必要とするような、"ビッグ"ストーリーが少ないという印象もありますが。
職業ものを描いても、どうしてもまずは「女性」としていかにその"中"で頑張れるかという話になりがちですし。


寺島優(『テニスボーイ』)編

予告編って、角川映画が出てきた頃から、CM制作会社が作るようになったんですけど、当時は本編の助監督が自分の腕をアピールする場だったんですよ。
(p.202)

漫画とは関係ないですが。
そうだったのか。おのれ角川。(そういうことか?)
まあとにかく、見る気を失せさせる「予告編」の多いこと。
その結果本編を見ないので、"相応しい"のかと゜うかは分かりませんが。(笑)

編集者がいつも言ってるのは、「まんが界の純粋培養の人ばっかりになっちゃうとマズい」っていうことですね。そうなると、どんどん世界が狭くなってきちゃうから。
(p.217)

まあ定番であり、かつ実際に普遍的な問題意識の話。
アニメ界の"編集者"たちは、そこらへんどう思ってるのか。とか。
ただその純粋培養の打破の為に"原作者"というのは、ちょっとスケール感は足りない気がしますけどね。
いち専門知識でどうなるようなものでは。例えばロック界が、"パンク/ニューウェイブ"の時代に導入したレゲエを筆頭とする「専門知識」が、どれだけ閉塞を打破出来たのかというと・・・・。
単に"浅く広く"なったというか、閉塞の表現形式が多様になっただけというか。(笑)
まあロックにしろ日本漫画にしろ、ジャンル立ち上げ時の"それ以前に存在したいろんな物を一遍にぶち込む"ダイナミズムというのは、やはり一回限りのものだと考えるのが自然かと。
まあそもそも、相対/総体的に見て、漫画が特に閉塞してるとは思いませんけどね。逆に常に「革命」が必要なわけではないし。
ちょこちょこ風を通しつつ黙々と個々のクオリティを上げて行けば十分というか、それで実際に十分に回っている優秀なジャンルというか。・・・・おっとこれは余談が過ぎた。

原稿のいろんなところで、ズレが起きてくるでしょうね。それは、才能あるとかないとかじゃなくて、捉え方が違うから。(中略)
それで作品全体の雰囲気が変わってくるんです。そういると「何だこりゃ?!」って、書く気がなくなっちゃうんですよ。
(p.229)

「何だこりゃ」というのが、分かるなというか面白かったというか。(笑)
修正・妥協を繰り返して、あるポイントでぶち切れるというか、"自分の作品"と感じられなくなるというか。
結局人が頑張れる、集中して神経を使えるのは、"自分の"だからなのでね。
逆にじゃあ原作付きの作品で「作画」担当の人はどういう気持ちで描いてるのかと、少し不思議なところもあるんですが。絵描きは絵が描ければいいのか、あるいは"具体化"の手応えは、それだけやはり大きいのかというか。まあその作品の分業体制にもよるでしょうけど。


竹熊健太郎(『サルまん』)編

竹熊 現状では、(原作は)「必要悪」と言っていいと思います。(中略)
竹熊 本当はまんが家一人ですべての作業をこなすのがベストだと、みんな思っていて、いなくてもいいんだけど、いないと週刊連載をこなせない。そういう意味で、「必要悪」と言ってるんですけど。
(中略)
原作者で作家性を発揮できるのはごくわずかだと思いますよ
(p.239上)

『サルまん』というドライな作品を書いた人だから、てっきり割り切って分業を主張するのかと思ったら、やや意外なお言葉。
その「悪」呼ばわりの背景にあるのが、後段に見られる「作家」主義という前提ですね。"みんな"の。
これは別に理念的な話ではなくて、実際問題その"作家"主義、物理的に少なからぬ無理があろうと、漫画家が極力一人で/自分の手でやるという伝統が、実際に日本漫画の特殊なクオリティを作り上げて来たわけでね。"読みたい"のはそれなんだから、出来ればそれでやってもらいたいという、ある意味単純な話だと思います。
僕もまあ同感で、一般に「原作付き」の作品には、どうしてもある種の"遠さ"や白々しさわざとらしさみたいなものを、感じる傾向は否めません。読んでる最中にそんなに意識してるわけではないですけどね。本当に"作家"的なものを読んだ時の、ぐいぐい引っ張りこまれる感はなかなか出ないという。
さいとう・たかをさんを筆頭に、「映画に倣って」分業を主張する言説はしばしば聞かれますが、ただじゃあハリウッド映画と日本漫画と、どちらを平均的に僕が面白いと感じるかと言えば考えるまでも無く日本漫画なので、何で好き好んで"面白くない"方の真似をしなくてはいけないのかという、まあ子供の理屈ですが。(笑)
勿論「量産」「安定供給」の為には、現状必要なわけでしょう。ただまあとりあえず、業界の理想そのものが変質しているわけではないようなのは、少し安心というか慰められるというか。
まあどうなんですかね、いずれ「週刊漫画誌」という形態そのものが、維持出来なくなったりするんですかね。それよりはむしろ、出来上がった量産体制を維持する方に、経済の流れは行きそうですが。(そして「原作者」の需要がまた)

竹熊 だから、原作って呼び方がよくないと思うんです(中略)
原作の本来の意味は、作品として自立した物語が別の形式として存在していて、それをもとに新しい物語を作るっていうことですから。
(中略)
竹熊 原案者というより、専門知識の提供者です。編集サイドからすると、専門知識はブレーンからもらって、原作者にはストーリーを展開していくアイデアのベース、つまり原案を作ってもらいたいというのが本音じゃないかな。
(p.239下-p.241上)

「原作」という語が不適当というのはその通りだと思いますが、それと比較した「原案」のニュアンスが今いち分からなかったです。"専門知識"でもない"アイデアのベース"って、なんなんだろう。"設定"ってこと?あと人物表か。それだけ作るの?なんかそう。(笑)
作品立ち上げ時にだけ必要とされて、始まったら後は編集者と漫画家だけで十分みたいな風景も浮かびますが。・・・・ああ、だから「本音」なのか。
ここはむしろ、「ブレーン」「原作(原案)」を分けたところが、上の田島・木内論争の解決案としては、有益かもなという。

竹熊 まんががなぜその人の作品になるかといえば、やっぱりコマ割りをするからなんです。さいとう・たかをさんや白土三平さんは、ある時期以降、自分ではほとんど絵を描いていない。でもそれがなぜその人の作品になるかというと、コマ割りをしているからなんですよ。それくらい、まんがにとってコマ割りは重要なんです。
(p.246)

コマ割り論再び。
今一つコマ割りの重要性が、特に"絵"との比較で理解出来ないかも知れない人の為に補足すると、上のさいとう・たかを氏などは、コマ割りを「音楽で言うおたまじゃくしの置き方ですよ」などと言っています。(p.67)
つまりそのもの、ないしはその譜面ですね。そこからするとその後に描かれる「絵」は、せいぜい(?)演奏ないしは演出・アレンジレベルの比重に留まるということになります。
聴衆が聴いてるのは直接的には"演奏"ではあるんですけど、より本質的には、やはり「曲」なわけで。


伊藤彩子編(?)

竹熊氏と話していて、ひとつはっきりしたことがある。(中略)
編集者もまんが家も「ストーリーを作る」ということを、原作者の特殊な能力と考えていないのではないか。「もし、時間が許すなら、自分だってもっと面白い話を作ることができる」と思っているのではないか。(中略)まんが家の「代わり」に話を考える人、ネタを提供してくれる人、というとらえ方なのだ、おそらくは。
(p.252)

だからあえて育てようとは余りしない。
既に完成された特殊なネタ提供能力を持っている人を、"待って"いるだけという。


まとめると、現に原作者が必要とされている状況では、それをより合理的に機能させるシステムは必要なわけでしょうが、でも下手にシステム化されると本来望ましいはずの(と思われている)「作家」の存在する余地がますます狭められる可能性もあるという、痛し痒し。
まあ現に望まれているのは「大人の」原作者なわけですから、大人は大人らしくそれぞれが自力でチャンスを作って下さいと、そういう結論も可能ではあると思いますが。(笑)


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