東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
『剣の思想』 ~番外編
2014年07月13日 (日) | 編集 |
前回は・・・4月かよ!
そんなに経ったか。


剣の思想剣の思想
(2001/10)
甲野 善紀、前田 英樹 他
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本題(武術とスポーツ/サッカー)ではないんだけど、興味深かったこと。
書き写してはあったので、一応。
全て、前田英樹さんの方の、書簡から。その"独壇場"というか。(笑)


日本刀はなぜ両手で持つか

平安末期の刀、長寸で腰反り高く小切っ先、茎(なかご)まで深く反ったその太刀姿を見ていると、(中略)
柄は必ず片手で握り、腰と肩とを左か右に大きく開いた偏身(ひとえみ)を交互に繰り出しながら、襷がけのような角度で太刀を振り下ろし、撥ね上げ、旋回させていたものでしょう。
 こうした動きは「太刀打」(たちうち)と呼ばれていたようですが、
(p.58)

細かいことは、実地でやらないとなかなか分からないでしょうから、置いておくとして。

これらの時代を通じて、太刀や打刀はまずほとんどの場合、片手で使用されていたでしょう。拵(こしらえ)の柄の形状から見ても、それは疑いない。(中略)刀装史上、明らかに両手で使用する方が有利な柄なりが現れるのは、室町後期からと見てよい。
(中略)
はっきり言えることは、平安末期からあった太刀打の動作体系を引き継いだまま、両手太刀となることは、非常に難しいということです。両手を使って斬り込めば、体は何とはなしに、あやふやに前向きになり、上体は腕の振りに反撥して引ける。この時、刀は反りがないほど振りやすいでしょう。
(p.59-60)

とにかく日本における「刀」も、ある時期までは世界の大多数と同様に"片手"持ちがメインであったと。
そしてその片手持ちの状態でのメカニズム、技法というのが当然あって、それはそのまま"両手"持ちの技法にはなだれ込めないものであったと。

しかも、体を前向きにする分だけ我が身を多く相手に曝すという点で、危険度も増す。今残っている世界の剣技のほとんどすべてが片手持ちの体系なのは、むろんそのことに因ります。
(p.60)

非常に簡単な理屈というか、側面というか。
横向きヒット&アウェーの、"フェンシング"的合理性というか。
チョンチョンつっつく(笑)西洋フェンシングにしろ、ヒラヒラ振り回すカンフー剣(刀)法にしろ、世界中のほとんどの刀・剣の使い方というのは割りと軽やかというか軽薄(笑)なところがあって(または野蛮なぶった切り)、その中で日本のサムライ剣法のある種の重々しさ・荘重さというのは独特の様式美を形成していて、それについてのファンも多いわけですが。

片手で充分保持できる刀をわざわざ両手で持ち、あえて我が身を多く敵に曝すのは何のためだったか。
まず、これによって、身体と刀との相関関係を大きく変えうることは確かです。片手保持の「太刀打」では、太刀は振られる腕の延長としてあり、それ以上ではあり得ない。(中略)
 両手保持の刀法ではそうではない。ここでは、腕は刀ではなく、刀は腕ではない。刀は決して腕で振ってはならない体全体の軸移動のなかに斬り筋の一貫した体系が成立するのです。(中略)
このような結合の形式は、当然我と敵との間の関係の性質を変える。体全体の軸移動と斬り筋とが複合的に結合したこの運動が、これと同じもう一つの運動と一点で接触する瞬間、その瞬間に不可避的に生じる関係を勝敗と考える。勝敗のゆくえは、この二つの運動の接触の形式におのずと還元できるでしょう。
(p.62)

いや、なんかいっぺんに情報が。(笑)
まず一つ。日本刀は、普通に片手で扱える。勿論重くないことはないでしょうが、少なくとも他の古今東西の刀剣類と比べて、特に重いわけではない。言い換えれば、重い"から"両手で扱っていたわけではない。
それから・・・とトントン行きたいところですが、ここ少し看板に偽りありで、つまりここは"なぜ日本刀が両手持ちになったか"の理由(目的)の説明にも歴史的経緯の説明にも、直接的にはなってないんですよね。してないというか。(勿論他の箇所でも)
そうではなくて、両手持ちに"なった"時に、何が起きたかそれがどういう意味的性格的変化を、日本の刀での戦い&剣術にもたらしたかという、そういう話。まあこの人は歴史家ではなくて剣術そのものの愛好家、及び言語哲学者ですから、興味としてはそっちの方というか、歴史的研究は片手間にやってるだけみたいですから、仕方のないところか。

で、何を言ってるかというとまず身体運動と刀の関係が複雑化する。"振り回す腕の延長"以上の独特の道具性を、刀が獲得する。
・・・それで"強くなる"とは即ちでは言えないが、技術体系としては精緻化する(そうでないと両手では上手く使えない)。つまり、「剣術」が「剣術」として成立する自立する必然性が生まれる。片手剣なら腕力と運動神経(と度胸)があれば何とかなった部分が大きかったが、両手剣には"術"が必須で、ここに「剣術」と「剣豪」の絢爛たる世界が生まれたというか。
何か我田引水的な感じですが、そうしていったん自立した剣術が更に研究を重ねられて行けば、それ自体の力でやがて腕力剣法より一般的にも強くなるということは、実際にあったでしょう。やはりそれまでは無かったタイプの強さを得た人は、それなりにオーダーでいただろうという。
で、次に。そうして精緻化した技術体系を持っている、持たざるをある程度は得ないどうしが戦うと、互いの技術・運動の持つ自動的な秩序性がぶつかりあって、刀剣の戦いの"勝敗"に、かなりの形式性必然性が発生したと、そういう話。
・・・なんか言いくるめられてるような感じもしなくはない話ではありますが、そもそもの「剣術」への当時の人々の期待は、己のをかけたやり取りの結果を、運や偶然なんかに委ねたくないという切なる願いから来るものだったというのがこの人の主張(それ自体は理解出来る)なので、そういう意味では筋は通ってるわけですね。
僕もそんなに具体的には、分かってません。何らかそんなことはあるんだろうなというイメージ及び類推と、そうであったら魅力的だなという、"観戦"者、"愛読"者としての強い興味があるだけで。
とにかく「強い」「速い」「心理戦」(と、運命のいたずら)以外の、本当に「技術」的な領域について、ここまで根本から考えているものは見たことが無かったので、面白かったです。"遅"くても"弱"くてもすいすい敵を手玉に取る、サッカーのファンタジスタたちのプレーを、何となく思い返しながら。


根源的ということ。"聖人"ということ。

ガラッと変わって。

新陰流の太刀(かた)が持つこの真の<制度>性に私の眼を開いてくれたのは、徂徠の学問にほかならないのです。
 彼の学問とは、言うまでもなく古文辞学という一種の注釈学を指します。徂徠は儒学というものを「六経」(中国古代の七賢人、堯、舜、禹、湯、文王、武王、周公が制定した六篇「詩経、書経、礼、楽経、易経、春秋」で成る)の古文辞についてのあくことなき注釈に変えました。
(p.165)

徂徠。荻生徂徠。
 朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国
 の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立した。
 また、柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』
 には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の
 分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。

(Wikiより)

パッと見るとなんかガチガチの原理主義者原典主義者、後世の学はみんな解釈に過ぎないってそりゃそうだけどもと、そういう感じの人ですが。全ては既に書かれている。だから書かない!

古文辞によって制定されたこの法が「道」なのであって、それ以外に「道」などはない。後代の儒学者たちが各人各様に埒もなく議論してきた「天地自然の道」などは、形而上学の病根に冒された偽の問題にほかならない。徂徠はそう考えました。
(p.166)

ますます過激というか、"宗教"臭すら漂って来ますが、実際にはこれは一種の歴史哲学的思考であるよう。
つまり単に"古いから正しい""古ければ古いほど正しい"と言っているのではなくて、"その時""その古さ"の思想であることに意味があったのだという話。

 徂徠は、あらゆる「古言」、「古文辞」を等しく称揚したのではありません。彼の言う「古文辞」とは、およそ周から前漢時代に至るまでの書かれた言語のなかにある。「六経」に始まり、『論語』、『史記』、孟子、老子、荘子、孫子、呉子、荀子などの散文はみなそうであり、詩文では唐時代の杜甫、李白まで下ってよい。
(中略)
けれども、古代の七聖人によって立てられた「六経」だけはいささか違う。この文章の制定がなければ、後のあらゆる古文辞は生まれては来なかっただろう。いや、古文辞の問題だけではない。無限の差異の果てしない充満で成るこの世界が、常人の眼に秩序ある意味をもって、あるいは生における価値をもって現れてくることはなかっただろう。これが徂徠の学問の根底にあるヴィジョンでした。
(p.167-168)

単に古いとか偉いとか、あるいは"内容"が充実している(『論語』以下)というのとは別次元の、別格の歴史的意義が、「六経」にはある。
原理の原理、基礎の基礎、という意味が。

彼が述べる「聖人」の解釈は、私にはごく自然に新陰流開祖上泉伊勢守の機能を連想させるのです。なぜ七聖人は、後の世に二度と現れないのでしょう。(中略)
聖人は、歴史中の或る特異点で突如として出現したものである。(中略)この根源性は、一回限りのものであり、そこから善いことも悪いことも、何もかもが派生した。(中略)
 私が自分の剣術稽古の上で上泉伊勢守のような流祖に見ているのも、そうした意味での根源性にほかなりません。
(p.169-170)

つまりこの徂徠の思想がなぜ宗教ではないか教条主義ではないかというと、"聖人"や原典の偉大さを、「正しさ」には置いていないからですね。ただただ、「始めた」から、「創った」から、その否定しようのない影響力と根源性を、特別扱いしないわけには行かないから、"影響下"にあるどんな個人的個別的天才発明の類(例えば朱子学)とは、そもそも比べるような対象ではないという、単純と言えば実は単純な話。

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という本を読んだんですが、これは敬虔なカソリックを公言する著者が、しかし上下巻かけて丹念に(笑)赤裸々に、創設以来キリスト教会が延々と犯し続けて来た悪行の数々を(結果として)暴露・記述している本なんですが、にも関わらず最後に著者はそれでもキリスト教があった方が良かったか無かった方が良かったかと択一的に問えば断然あった方が良かったと思う、そしてキリスト教の最大の功績は、愛を説いたとかそういうことではなくて、今日に至る「キリスト教文明」を築く、その主導力になったということだという、何ともざっくりしたというか割り切りのいいまとめをしていて、ちょっと毒気を抜かれた(笑)んですけど。
キリスト教が猛威を振るって支配力を駆使したから出来たのがキリスト教文明で、その自分の創造物を自分自身の存在の正当化に使うとは、何とも臆面が無いと言えば臆面が無い(笑)わけですけど。ただ問題は「文明」が文明であること、我々の生の欠くことの出来ない拠り所であることで、どんなにその「内容」が気に入らなくてもそれを切り捨ててはそもそも全てが立ち行かなくなるので、現にキリスト教の影響下で出来上がった「文明」が現代生活の基礎にある以上、キリスト教自体も決して否定するわけには行かない対象であるという、そういう話。
そんな皮肉な言い方はしていませんが(笑)、徂徠にとっての「六経」「古文辞」のかけがえの無さも、正にそういうものであっただろうという。

もう一つ、今度は特に"聖人"性について分かり易いだろう例を挙げると、例えばビートルズ
ビートルズの音楽的能力はそりゃ少なからず高かったんだろうけれど、しかしビートルズが"ビートルズ"であるのは単に曲が良かったとか演奏のクオリティがどうということではなくて、ビートルズが"あの時""あの場所"にいたこと、それでもって「ロック」というジャンルを結果的に作り上げたところにあるわけで。
逆にビートルズの4人が今の時代に生まれてバンドをやったとして、それは多分、何かしらいい作品は作るだろうけど(存在として)「ビートルズ」になれるということは無いわけで。(なったらほんとに凄いけど(笑))
つまりビートルズが偉大である、別格である、音楽史上の一種の"聖人"であるのは、それはビートルズが史上最高のバンドであるから史上最高の音楽を作ったからではない(作ったのかも知れないけど(笑))という、そういう話。まあそんなに独創的な認識でもないですが。

「七聖人」、あるいは東西の古代の聖人や教祖たちや大思想が偉大なのは、その"無謬"性によるのではなく始原的創造性、そしてその創造の影響力(の根源性)によるのだということ。そしてそれゆえにそれは後の世のどんな「創造」によっても残念ながら代替不可能なもので、だから(例えば)朱子学なんか別に研究する必要は無い、ただただ根本教典の読解・注釈だけしていればいいんだという、多分に誤解を招きやすい主張に、荻生徂徠はたどり着いたわけですが。

・・・いや、僕も見ての通り(?)、権威と見れば引き摺り下ろし、正義と見れば疑いたがるタイプの人ではあるわけですけど(笑)、一方で宗派教派を問わず古代の各大思想に対する尊敬、尊重、はたまた憧れの念というのは、結構強く、抑え難く持っている人なんですよね。子供の時からそうでしたが、色々知った今でもさして変わらず
それらが文字通りに"正しい"とは思わないけれど、無視してどうにかなるものでは到底ないレベルの"何か"がそこにある/あったはずという感覚は、特に何を読んだからということでもなく、強い予感として常にある。(時にはそれが確かめられる)
そこらへんの"根源"への僕の気持ちのゆえん、あるいは気持ちそのものを、ここに書かれた荻生徂徠やそれについての前田さんの記述は、少なからず説明してくれているところがあるかなと。

唯一の例外は、柳生石舟斎でした。晩年にごく短期間だけ教えたこの門弟に、伊勢守はおそらくみずから作為したものの一切の根源性を託そうとしたのではないでしょうか。ここでも徂徠に倣って言うならば、七賢人に対する孔子の役割を、伊勢守は石舟斎に託そうとした。(中略)
「六経」が孔子によって編み直され、保存されたように、新陰流刀法は、柳生石舟斎によって伝書化され、保存されたのです。
(p.172)

こういう話好き。なんかワクワクする。(分かんないか(笑))
新陰流流祖上泉伊勢守が剣"聖"であったのは、単なる修辞や強さの喧伝ではなく"文字"通りの意味であって、後の全ての剣術流派の存立のもとになるような技術・思想、「剣術」そのものを創始した人、「聖人」であったからであると。
その生きた伝説としての剣聖/聖人の教えを、人間化して保存した人、「六経」を基に「儒教」を作った人が、"柳生新陰流"の柳生石舟斎であったという、そういう話。

実際に新陰流にそこまでの影響力や唯一性があったかについては、後代の他流派から異議は出るでしょう。
ただ思考の型としては、面白いし画期的だなと思います。
まあ「七聖人」が"七"人いたように、剣聖が七人いてもそれは別にいいわけでね(笑)。勿論継承者たる孔子にも、複数のライバルはいたわけですし。


長くなりました。(笑)


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テーマ:書評
ジャンル:本・雑誌
コメント
この記事へのコメント
途中で寝たんで改めて読みまッす
2014/07/13(Sun) 14:29 | URL  | ω #9BPdTliE[ 編集]
ど、どうもご丁寧に。(笑)
読み難くてすいません。

まあ前半と後半も特に繋がってないので、てきとうにどうぞ。
2014/07/13(Sun) 17:43 | URL  | アト #/HoiMy2E[ 編集]
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