東京緑、代表、アイドル、二次元、女子バレ
「自分たちのサッカー」をめぐる”二項”(集)
2014年07月15日 (火) | 編集 |
もやもや、もやもや。

「自分たちのサッカー」に対して、"状況に応じた""バリエーション"(的なもの)が対置されるというのが、今回の"反省"を踏まえての概ねマジョリティの論調のように見えるわけですが。
もうちょっと待ってくれという。そもそも「自分たち」の方がどうだったのか。その中身は。独立した"対項"として、そもそも熟した中身を持っていたのかという。
そんな、"反省"


1.定義

正 自分たちのサッカー
反 相手に合わせたサッカー

この時点では特に、"攻撃的""守備的"みたいなことは、少なくとも言葉としては、入ってないわけですが。
堅い守備からの切れ味鋭いカウンターを、"自分たち"のスタイルとしてむしろ誇っているチームは世界中にいくらでもあるわけですし、あるいは相手がピンポイントで戦略的に、時には退場者が出て極端に守備的に構えたりすれば、"相手に合わせて"普段の形を崩してでも「攻撃的」に行かざるを得ないなんてことも、あるわけですし。

2.本意

正 主導権を取ったサッカー
反 主導権を放棄したサッカー

"自分たち"の中身が多分実際には"主導権"なわけで、この時点でもまだ直接的には、精神レベルの話と、言えなくもないわけですけどね。
ただサッカーで"主導権"を握った状態とはどういう状態か、それは多分、「仕掛けどころ」「タイミング」を自分で決められる状態で、その為に必要なのが、それに先立つ「ボール支配」「ポゼッション」
ここで初めて、"自分たち"のサッカーであることに、「攻撃的」という意味合いが目に見える形で付与される。
あるいは"パスサッカー""ポゼッションサッカー"という「手段」に、「目的」的な地位が与えられる。
(本田たちの)「自分たちのサッカー」が「パスサッカー」であったのは、こういう脈絡においてであると、基本的にはこういう理解でいいのではないかと思います。


・・・そもそも「攻撃的」であることと「パスサッカー」であることに、それほど強い論理的繋がりはないはずですけど、そこはまあ、例え習慣的なものであってもかなり広くサッカー界の通念とはなっていることなので、まあいいとしましょう。
ただ殉ずるべき「自分たちのスタイル」「攻撃的」で「主導権を取った」スタイルであるというのは、これは何語に翻訳するのにしても(笑)、多分少なからぬ国のサッカー民から異議の出る、日本独自の事情だろうと思います(オンリーではないですが)。ワシら自慢のカウンター殺法に、ケチつけるんかワレと。

勿論そうではなくて、日本の場合は(DF陣の)「体格的劣勢」と「"守備の文化"の欠落」、加えて独力で攻撃を担える強烈なFWの生まれ難い土壌から、少なくともロングカウンターを主体としたスタイルを「自分たちのスタイル」とはし得ないという共通理解が、近年においては定着している。だから"日本代表"にしてはそれに近いスタイルで一応の成功を見せた南ア岡田ジャパンという前例はあっても、それを範として「自分たち」のものと感じるのは、難しいところがある。あくまで特例的な成功、"仮の姿"であると。

じゃあならばショート・カウンターでいいではないか、ひと足飛びにポゼッションまで行かなくてもという議論は当然あり得るわけですけど、ここらへんについてはぶっちゃけ精査された形跡は無いというか、多分に情緒的エゴ的なものが、決定的な役割を果てしているように思います。
南アでの「仮の姿」の屈辱から、あるいは直前の戦術変更による挫折感の反動からの、"次"の代表チームということ。あるいは未だ成功を知らない、「プロセス」を内部に抱えていない"成り上がり"根性が思い描く、ひと足飛びの"栄光"の姿。それらを満足させるには、ロングじゃなくてショートみたいな半端なものではなくて、一気に逆サイドに振れる必要があったと、そういうことかなと。現在サッカー界の通念的"最高"位である、スペイン的とは限らないですけどとにかくポゼッションスタイルに。
更に言うならば、イタリア人ザッケローニという、言わば"パスサッカー音痴"が監督に来たことで、軟着陸が出来ずに択一的な、夢想的なスタイル選択になってしまったというのも、あるかと思います。基本"子供"である現役選手たちの、少年の夢に任せた。

勿論一応の前提としては、海外も含むクラブレベルやアンダー代表レベル、フル代表でも少なくともアジアレベルまでなら、日本人選手の"バスサッカー"への適応性というのはひと通り証明されていないことはないので、究極的な問題としてポゼッションという選択がそこまで無謀でないということは言えると思いますが、ただ例えば直近北京・ロンドン両五輪(ザックジャパンメンバーの大部分の出身チーム)において日本代表がポゼッションスタイルを成功させて来たかというとそんなことは全然無いわけで、やはり成功の"見込み"よりは遥かに"願望"・夢想に基づいたスタイル選択であったのではないかと、そう言わざるを得ないところは大きいと思います。
・・・そうね、「北京」の屈辱というのも、遠因としてはあったかも知れない。本田・香川らには。あれは、酷かったから。どんなに山雅で成功しても、俺は覚えてるぞ反町さん。(笑)
あるいは逆に、古くは加茂ジャパンからロンドン五輪に至るまで、"ショート・カウンター"での成功はひと通り経験して来たから、次は・・・みたいな。いち南ア岡田ジャパンの問題だけではなく。ま、そこまでは考えてないか。(笑)

と、過去の話はこれくらいにして、未来及び原理的な話を、更に。
とりあえずここまでの話を"二項"としてまとめると、

3.理想 [素朴]

正 ポゼッション
反 ロングカウンター


4.理想 [限定]

正 ポゼッション
反 ショートカウンター

・・・という、感じですかね。
なお"ショートカウンター"と"ロングカウンター"については、ほぼ前者一択で対立させるまでも無いと思うので、割愛。


5.持続可能性

正 1チーム特化型
反 半永久通底型

これはどちらが"正"なのか、よく分からないですが。
"正しい"のはいかにも後者ですが(笑)、時の代表選手・監督が普通考えるのは、やはり直接的には前者の方でしょうから。
"自分たちのサッカー"にこだわる、"自分たちのスタイル"確立を目指すのは、まあいい。ただそれが余りにもその時々の特定のメンバー(選手・監督双方)の資質・能力に左右されるものであるのなら、結果的な勝ち負けはともかくとして、それは「自分たちのサッカー」と言えるのか、あえて声高に言い立てる価値のある資格のあるものなのかという。
1チームの問題としても、安定性を確保出来るものなのか、肝心の本番で頼りに出来るものになるのかという、そういう問題。
過去の例から言えば、例えばオシムが「日本化」として言挙げしたのは、明らかに後者、"半永久通底型"のイメージでしょう。実際に監督として作った(主に2タイプの)チームがどこまでその意に沿ったものだったのかは、何とも言えないところがありますし、また名監督ゆえに、何にせよ結局オシムがやらないと上手く行かないようなものになってしまった可能性も、小さくないと思いますが。
対して岡田監督の「接近・展開・連続」チームは、"日本人の資質をサッカーの枠すら越えて深く見つめる"という意味で「半永久通底」の精神は間違いなくたたえつつも、やはり特殊サッカーで一発かましてやろうという「1チーム特化」が、主たる目的だった、そうとしかならなかったろうということが言えると思います。岡田監督の個人的思い入れ抜きで、遂行可能なスタイルではないというか。
トルシエのフラット3は、由来的にはあからさまに"1チーム特化"(トルシエ専用)ですが、結果的に日本人のパスサッカー適性をほぼ初めて具体的な形で高い水準で成功に導きかけたという意味で、"半永久通底"的な功績も少なからずあったものだと思います。
こうやって具体例から消去法的に見て行くと、結局は加茂ジャパンからロンドン関塚ジャパンに至る無記名的(ハイプレスからの)"ショートカウンター"スタイルこそが、「半永久通底」していると言える可能性のある今のところ唯一のもの、やろうとすれば割りとすぐに、どんな監督の下どんなメンバーでも一通りは出来るものとして、特定出来るのかなと。

6."トップ"と"ボトム" (基準)

正 最高のオレタチ
反 とりあえずのオレタチ

"5"とある面似たような話なんですが。
また本田たちの"失敗"の、大きな要因でもあるかもという。この二つの区別がついていなかったというのは。

つまりこれは別に日本代表・代表チームに何ら限らない話ですが、メンバーの資質やコンディション、あるいはコンビネーションが、最高に上手くハマった状態を"基準"として「スタイル」を考えるのか、それとも"最低限これだけは/これくらいは出来る"、そういう状態を基準としてスタイルを定めるのかという問題。ポゼッション、カウンター、種類を問わず。
"トップ"基準か、"ボトム"(もしくはアベレージ)基準か。
本田たちは、ザック・ジャパンは、余りにも"トップ"に寄り過ぎだった。虫が良過ぎた。
岡田「接近・展開・連続」も、あれは覚悟の上という面もありましたが、そういう傾向があったかも。"トップ"なら、45分間オランダに何もさせないことも出来た(W杯じゃなくて、欧州遠征の時ね)。でもいったん落ちると残りの45分間は、こっちが何も出来なくなった。(笑)
トルシエフラット3なんかは、リスキーではありましたが、"トップ"を"アベレージ"化するのが、落とし込むのが、上手かったと思いますね。ていうかあれくらい出来て、初めて"スタイル"の名に値するのではないかと。本田たちのは、あれはただの"手癖"だ。
別な言い方をすると、"トップ"を「自分たち」と見るのか、"ボトム/アベレージ"を、「自分たち」と受け入れるのかという問題。上で言った"情緒・エゴ"の問題とも、関連して来ますが。
勿論僕は、"ボトム/アベレージ"を基準にすべきだと、言いたいわけです。その上で"トップ"の状態も、勿論考える、組み込む(序列を覆すには、やはり"トップ"の破壊力も必要だと思いますし)。「理想」と「現実」は対立するのではなくて、可能性の両端として連続させるべき。
もしくはトルシエがやったように、"アベレージに近付けたトップ"であるべき。
まあアジアだと、それに近いようなことが自然に出来たんでしょうけどね、本田たちも。でもそもそも意識的なものではないので、レベルが上がって"両端"が引っ張られたら、脆くも千切れてしまった。

"伝統国"の強みは、単に既成事実の積み重ねとしてでも、こうしたボトムからトップに至る二段構え三段構えが、ほとんど自然に出来ること。ブラジルW杯のオランダ代表なんかは、その強みを最大限に活かし切った、というかほとんどそれしか無かった(+ロッベン)けどそれで見事に最後まで戦い抜いた、そういうチームだったと思います。小規模にはアルゼンチンもそうか。実力優位のドイツ"トップ"の状態が目立ちましたが、仕込みとしては、全てのレベルがちゃんと戦い方としてトータルされたチームだったと思います。
同じことをすぐに日本は出来ないわけですけど、仮にも「自分たち」のスタイルの構築・貫徹にこだわるのなら(諸外国がそういうテーマで動いているようには必ずしも見えませんが)、これくらいの区別は予めしておくべきだと思います。そうして極限まで知恵を絞りつつ、しかしそれでもなかなか思うようには行かない部分もありつつ(笑)、既成事実を重ね、意識的な部分と不作為的な部分が練り込まれ、気が付くと「伝統」が生まれている・・・のかなという。(笑)
キャッチアップする側が(スタイルについての)意識性を高めるのは当然としても、それでより頭を使うのではなくて自意識過剰になって視野が狭くなるのでは、どうにもなるまいという。下手な考え・・・なんて意地悪なことは言いませんが。(笑)


"自分たちの"サッカー、スタイルという「観念」について、僕が今言いたいのはこれくらいですか。
では具体的にどうすべきなのかみたいな話は、あんまり書く気が無かったんですが今日書いている内にうっすらと書くべき"スタイル"が見えて来た気がする(笑)ので、多分今度書きます。
とりあえず書き終わるまで、出来れば待ってくれ、アギーレ。ゴネろ!(笑)


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テーマ:サッカー日本代表
ジャンル:スポーツ
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