2014年12月03日 (水) | 編集 |
![]() | タイニイ・バブルス (1998/04/22) サザンオールスターズ 商品詳細を見る |
その1より。
引き続き。(アルバムWiki)(サザンWiki)
再び"ロック"アルバムしての『タイニイ・バブルス』
なんか話が行きつ戻りつしているようですが(笑)、実はその"行きつ戻りつ"の部分こそ、『タイニイ・バブルス』の他には無い魅力かなとも思います。
"折り返し"方というか。先にも言いましたが。または"折り畳まれ"方。
何が折り畳まれているのかというと・・・
サザンオールスターズ/桑田佳祐には、だいたい以下のような方向性・モチベーションが、存在しているように思います。
1.R&B系諸音楽の、ポップシーンへの紹介
2.1の換骨奪胎、模倣からの脱出
3.日本における(日本語)ロックの確立
4.3の克服、"ポップ"への普遍化・解消
とりあえず4つ並列で並べてみましたが、見ての通り1と2、3と4は、対立的なモチベーションでもあるわけですね。
更に細かく言うと、
5."サウンド"志向
6.メロディ志向
7.スタイル志向
8.アンチスタイル志向
なんてのもあると言えばあるかなと。ここらへんはもう、"対立"することを前提とした、為にする分類ですけど。(笑)
ただこれらも重要はやはり重要で、実際にサザンオールスターズ/桑田佳祐のその時期その時期のスタイル決定というか振幅を定める役割は果たしていると思います。サウンド作りの優れたセンスを持つと同時に、メロディメイカーとしての強力な自負というか義務感・使命感を持つ桑田佳祐。特定スタイルの模倣にはとどまらない、オリジナルあるいはミクスチュアへの強い志向を持ちつつも、しかしそれら一つ一つの「輪郭」はきっちり立てずにはいられない、プロフェッショナリズムなのか心配性・見栄っぱりなのか、よく分からないですが(笑)とにかくそういう資質。
特に最後のものは、遠く今日までのサザンオールスターズをサザンオールスターズたらしめているものというか、『タイニイ・バブルス』が引き継がれなかった1つの大きな理由というか、そういうところはあると思います。次作の雑然と過渡的な『ステレオ太陽族』は置くとしても、次々作のこれはこれなりに代表作の一つ『ヌードマン』は、既にして『タイニイ・バブルス』とはかなり異質というか、意図的に輪郭をはっきりさせたある意味"不自然"なところのある作品で、恐らくは多分、こっちの方が、確率的には本来の資質と言っていいんだろうなと推測は出来ますが。
混沌、ないしは"秩序ある無秩序"を、そのままにはしておけない。大文字の「秩序」をどうしてもくっつけたくなる資質。やはり"心配性"という印象を、僕は受けますが。(笑)
とにかくこれら様々なかつ対立的でもある複数の方向性が、他に無いバランスでもって独特な均衡を見せていた、それによって非常に複雑に各要素が折り畳まれ折り重なって感じられるアルバムが、『タイニイ・バブルス』であると、そういうことです。
完全均衡、ではないですけどね。上で言う"輪郭"をはっきりさせる"スタイル"性は、このアルバムでは余り強くは出ていません。それゆえ特に一般的には、地味な作品と言わざるを得ないんでしょう。
それにしても、面白いバランスに感じます。
先に言ったように、これ見よがしにオーソドックスと思わせて(A2・A3)、実はすっきりオリジナルの拘束からは解き放たれて、しかしオリジナルの楽しさの紹介機能もきっちり果たす。あるいはサウンドの全体性に沈降して行くように見せて、しかしそれによってかえって「歌」を研ぎ澄まされた確実な形で届けるとか。
恐らくそこまでは、意図的ではなかったのではないかと思いますけどね。やはり偶然的なバランスというか、一回性の奇跡というか。やりたいことを、比較的自由に無心に、全部やってみた結果としての。
ただ聴いてる方としては、面白い。色々な要素が一遍に、あるいは代わる代わる寄せては返す波のようにやって来て、しかし全体として力は抜けてるので、その波に翻弄されるのが至って心地良い。
個人的にはやはり、"サウンド"に身を任せる中で不意打ち的に侵入して来る"歌"の威力に痺れるというか、泣かされます。さあどうだ"歌"だぞという、『いとしのエリー』では泣けなくても。(笑)
"コーラス"の強化と全面化
その"歌"性に貢献するというか、無作為性が強いこのアルバムの中でしかし恐らくかなり意図的に使われている強化されているものを挙げるとすれば、コーラスワークかなあと。、
それまでのサザンにコーラスが無かったわけでは勿論ないですが、使われ方としては景気づけのかけ声(『勝手に』)とかサウンドに厚みを加える為の純然たるバッキングヴォーカルとか、あるいはサビ(『気分しだいで』『思い過ごしも』)や導入(『エリー』)のような独立部分の代唱という、分かり易い使い方が主。
対してこのアルバムでは、『私はピアノ』の存在からも分かるように原坊(笑)の声を従来よりもフィーチャーして全体的にコーラスの比重を大きく高める中で、一方でそのコーラスの"機能"が複雑化して一概に名指しし難い、そういう傾向が強くなっていると思います。
大きくは分類出来てもその分類だけではそのコーラスが果たしている機能を説明し難かったり、そもそも主なのか従なのか分からない、コーラスでありながらメインのヴォーカル並みの雄弁さ・情報量を持っていたり。
前者の例として『タバコロード』の「Ohセクシー婆ちゃん Ohセクシー婆ちゃん」、『C調言葉』の「たまにゃ Makin' love そうでなきゃ Hand job」、後者の例として『マンスリーデイ』の「ちょっと聞いてユウコ」、『働けロックバンド』の「そりゃしんどいもんでんねん」「こりゃどうもしゃあないねん」を挙げておきましょうか。
ただ・・・今回改めて聴き返して思ったのは、どのコーラスがどうという以前に、桑田佳祐のリードヴォーカル自体が、そもそも"コーラス"的に響いてることが多いなあと、それで尚更「コーラス」の印象が強かったんだなあという、そういうこと。
A1(『二人だけの』)とB1(『To You』)とかが、好例かな。それぞれ各"面"の立ち上がりを飾る比較的ストレートなロックチューン、ポップチューンなんだけど、リードヴォーカルが最初からコーラスに寄ってるような歌い方をしているゆえに、いい意味で曖昧な印象になって悪目立ちしないという。
A3(『HeyRyudo』)やB5(『TypeB』)なんかだと、もう最初からノリノリで(笑)一体化してますけどね。
極論するとアルバム全体が"コーラス"化しているような印象さえあると思いますが、これはたまたま今回そういう"アレンジ"をしたというよりも、桑田/サザンの一つの自然体的帰結なんだと思います。それまでになく落ち着いたアルバム制作環境を整えて、腰を据えて"トータルアルバム""サウンド"志向を追求した時に、普通のロックバンドのようにインストゥルメンタル志向が強まるのではなくて、かえってヴォーカル、コーラスが前面に出て来たという。それがサザンなりの、"ロック"だったという。
僕は桑田佳祐という人はあくまで/どこまで行ってもロック・ミュージシャンであると思いますし、だからある時期以降のあからさまで確信犯的な大衆ポップ(バンド)化には不満を越えた失望・違和感、時に軽蔑(あくまで音楽的な意味のね)すら感じなくはない人ですが、ただこうして見ると広い意味でのヴォーカル/歌もの志向自体は、避け難いというか必然的な部分はあったんだなと、今回の検討・分析を通して気付いた次第。純・商業的な理由を別にしてもね。
そもそも本人自身がヴォーカルの人であるし、言っちゃ悪いけど"ワンマン"的な力関係のバンドでもあったわけだし。
更に言えば後の("本格ロック"実験たる)KUWATA BANDも、さほどクリエイティヴなものには僕にも聴こえなかったし(『ボディ・スペシャルⅡ』とかもネタとしては面白かったですけどそれだけ)。とすると、残された道は・・・という。
そういう意味では、このアルバムは"ギリギリ"のバランスで出来上がっていた、再現・継続困難なものだったんだろうなと。改めて。
とにかく、『タイニイ・バブルス』の"サウンド"志向とは、事実上"コーラスアルバム"化のことであり、僕が『タイニイ・バブルス』の「歌」にやけに感応してしまうのも、(コーラスに引っ張られて)"歌"が"サウンド"に見事に溶け込んで、言わば「サウンド」という"チャンネル"に乗っかる形で(抵抗なく)滑り込んで来るからでもあるんだろうなというのが、今回得た一つの結論。
更に言うと、こうした"コーラスバンド"としてのサザンオールスターズというのは、バンド/桑田佳祐にとっても一つの"発見"であり、そこで得られた認識・ノウハウを拡大延長する中で、後の"ポップバンド"としてのサザンオールスターズの確立もあったのではないかと、そんなことも思いましたが。
そして『タイニイ・バブルス』
結構書きながら考えている部分も今回多かったんですが、結局何にこだわっているのか、またはなぜ『タイニイ・バブルス』が特別なのか。
一言で言えば、サザンの中で特別に"多義性"が豊かに確保されているアルバムであり、メロディやメッセージの"伝達"の「経済」に、音楽が還元されていないアルバムであるから、でしょうね。細部の「神」が、殺されていない、活き活きと活動している。
それがつまり、ロックと純ポップス(歌謡曲や演歌等全て含む)との、あえて言えば違いなわけですが。
サザン自体について更に言うと、その後だけでなくそれ以前の、『勝手に』や『気分しだいで』の"荒々しい"(一見"ロック"的な)時代を含めても、そうかも知れない。それだけ特別なバランスであり、だからこそ1枚だけ選ばれた、のか。
僕の音楽友達のあらかたはサザンとかハナから相手にしないんですが、『タイニイ・バブルス』だけは、何とか聴かせたい(笑)。それだけロック聴き、バンドサウンド好きの耳にも耐えるアルバムだということですが。
その後のサザン/桑田佳祐が発表した数々の・・・うーん、やめましょう。概ね否定的な感情を持っていることは、ここまで書いた範囲でもバレバレだとは思いますが(笑)、ここはあくまで"『タイニイ・バブルス』のアルバム・レビュー"の場なので、このアルバムがどのように素晴らしいか、仮に比べるとしてもそれ以前の作品に比べてと、その範囲に収めるのが筋かと。
というわけで最後に書くこととしては、アルバム中でも特別に胸を打たれたこの二曲への賛辞とかが、いいのかなと。
B4 『C調言葉にご用心』 (歌詞)
セックス、だと思います、この曲は。"性的"なモチーフの多いことで知られるサザンのどの曲と比べても、"セックス"を感じさせるというか。セックスそのものを。
言い換えると、"ファック"ではない、ということです。"愛だ"と言ってしまうと、また意味が拡散するかも知れませんが。
サザン/桑田に限らず、ポップミュージックが性行為を取り上げる時は、ほぼ必ず"悪ふざけ"や"通念への挑戦"や、更には欲求不満に基づいた童貞妄想(笑)的なニュアンスがつきものなわけですけど、そしてそれを聴く方も楽しんでいてそれはそれでいいわけですけど。ただこの曲が喚起するものは、あくまで当事者のプライベートなものとしての、殊更他人に見せるものではないものとしての、他に表現しようのない"セックス"、ひょっとしたら名づける必要も無いかもしれない"それ"、そのものに、僕は感じます。
・・・余談ですけど『勝手にシンドバッド』『気分しだいで責めないで』『いとしのエリー』『思い過ごしも恋のうち』『C調言葉にご用心』と続くサザンの初期のヒット・シングルの中で、子供時代の僕が断トツで好きだったのは、当時から既にこの曲だったんですよね。他の曲も面白いとは思いましたけど、この曲への"感じ"方は、一つレベルが違った。何か"真実"が歌われていると、子供心に感じていた。
その後数十年(笑)の人生経験&性体験(笑)を経て、その思いは更に強くなっているというか確認されたというか。偉いぞ、子供の頃の俺。(笑)
とにかく、"優しい"曲です。Softというか。むしろ英語のね。
実際どちらかというと、黒人R&B、そして"ソウル"系の音楽などで、よく見かけるような感触の曲だと思います。"スタイル"としてそこまでストレートにハマっているわけではない(そもそもそういう意図でも書かれていない)と思いますが。だからこそ逆に、エッセンスが翻訳・移植されている感動が強いというか、桑田佳祐の直観力に痺れるというか。
そしてそれがこのような静謐で内向きな形で提示・完成し得たのは、やはりサザン史上最もニュートラルで無心に音楽を作っていたこの時期、このアルバムだったからだろうなと、そのようにも思います。
そういう意味で、これも奇跡の一曲の類ですね。類稀な才能が、二度と巡っては来ない時と場に恵まれて生み出した。
なんかもう、この曲を聴く度に、「ああもう、これでいいんだな」という、そういう感想が涌きます。これを生み出す為にサザンオールスターズは誕生したのであるし、これを生み出したことでもう、基本的な使命は果たしたと。世界の音楽史(笑)に対する。その後の日本ローカルの話は、まあ置いておくとして。
ありがとう、桑田佳祐。後は好きにして。(笑)
B6 働けロックバンド (Workin' for T.V.) (歌詞)
"ロック"の"バラード"。"ロッカバラード"じゃないよ?(笑)
今回の記事でも『いとしのエリー』の悪口を複数回口にしましたが(笑)、僕はどうにもロック・バンドが作るある種の持って回った、アルバムや他の曲から遊離したタイプのバラードが嫌いで。その曲自体の好き嫌い出来不出来というよりも、"存在"が嫌いなんですけどね。"位置"がというか。
たいていはシングル用とか(特にアメリカのメタルバンドに多い?)、あるいは『エリー』の場合もそうでしょうが、「こういう曲も作れるんだぞ」と世間に見直させる為に作られるわけですが、仮にそれで見直させたとしても、それはかえって自分の価値を下げている感じがする。
"バラード"が低価値だと言ってるのでは勿論ないですよ?そうではなくて、そういうあからさまな特定の、そのバンドの他の曲との連絡性の薄いスタイルの曲に"情緒"や"情感"の表現を代表して担わせてしまうのは、他の曲やそのバンドの普段の音楽が持っているはずの全体性や包括性を侮辱する、あるいはより端的にはその他の曲には情感なんてありませんと世間の"偏見"を是認しまうような、そういう形になるということです。・・・まあほんとにそうならそれでもいいんですけどね(笑)。自分でそう思ってるなら。でもそうではないはず。普通は。何らか自分たちの音楽の包括性を、正当性を信じるから誇りに思うから、世間に問うているわけで。
つまりまあ、要は"連絡性"が確保されているなら、その曲がその曲なりに、そのバンドのスタイルの"中"から出て来たと感じられる、たまたま"バラード"と呼ばれるようなスタイルになっているけど、それはそのバンドの曲作りの振幅の、連続的な"一端"を表現しているのだとそう感じられるバラードなら、それでいいわけです。
そういう意味で、(前アルバムの)『いとしのエリー』は限度を越えていると僕には感じられたということです。この大好きな『タイニイ・バブルス』の中の1曲ではありますが、A5『涙のアベニュー』も、実はやや違和感を僕は感じます。そこでガクッとアルバムの緊張感が落ちる感じがして、『エリー』ほどの頻度(笑)ではないけとれど、「早送り」の刑にもしばしばさらされます。(笑)
しかしWorkin' for T.V.は違う。他のロックチューンやアップ・ミドルテンポの曲との分かち難い連続性の中で、その"バラード"性を堪能することが出来る。"ロック"は"ロック"のままで、"バラード"になれるんだ・・・というか、ロックにはロックなりの情感の表現というものがあるんだということを、しみじみと感じさせてくれます。そして誇り高く。
そういう清潔さが確保されていてこそ、初めて警戒心の強い僕らロックファンの情感の扉も、開かれるというか。(笑)
題材的にも、何か凄くハマった感じはありますね。TV界・芸能界の不潔で不条理な混沌に翻弄されながら、何とか自分たちの信じるものをそこで表現しようとして来た"ロックバンド"サザンオールスターズの苦闘と疲労感、そこから来る"ブルース"。それを表現するバラード。
むしろロックファンだからこそ、泣ける曲というか。
最高のアルバムラストです。これで終えられることに、逆に何か幸福感を感じられるというか。
良かった"いとしのエリー"じゃなくて。(笑)
とりあえず以上です。
聴いたことの無い人は、機会があれば、どうぞ。
サザン嫌いな人こそというか。逆に後年のサザンしか知らない、あるいはそれこそが好きな人は、特に聴く必要は無いと思いますが。別に挑発してるわけじゃなくてね。(笑)
スポンサーサイト
| ホーム |