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読書日記特別版 : 7年前の”snoozer”に見る世相
2015年01月07日 (水) | 編集 |
snoozer (スヌーザー) 2007年 12月号 [雑誌]snoozer (スヌーザー) 2007年 12月号 [雑誌]
(2007/10/18)
不明

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今見ても、というより今見るからこそ興味深い考察がいくつか載っていて、なるほど"7年前"にこのことに気付けなかった止められなかったから、"2014年"があったのかなと割りと納得してしまいました。


"失われた10年"というウソ ~三田格

コラム『90年代に萌芽した「変革への欲望」に導かれた、今』 より(p.103)

95年までは日本経済は回復の見込みがあるとされていて、だからこそ住専のような問題が再び持ち上がったのだ。
閉塞感という言葉を初めて使った時のこともよく覚えている。誰もそんな言葉は使っていなかったので、おそるおそる石野卓球に確認してみたのだ。「閉塞感を感じる?」と。その時に同意を得られたから僕は確信出来たのだ。97年のことである。
「失われた10年」というキーワードのウソはそこにある。
91年に総量規制が行われてバブルが崩壊し、(中略)97年に不況という言葉が深刻に受け止められるようになった6年間は別に失われた期間でもなんでもなかったのである。
どちらかというと、それは好景気に追い立てられるでもなく、ましてや不況に突き落とされるでもなく、なんとも長閑な時期だったとさえ言える。
(中略)
そのような長閑さに耐えられなかった人種がいる。最初は音楽だった。
小室哲哉が作り、安室奈美恵によって加速されたフラストレーションは「失われた10年」という観念を鵜呑みにした人達によって変革への欲望となり、小泉改革を可能にするところまで持続したのである。♪夢なんて見るモンじゃない、叶えるものだから、と。
「改革」というキーワードは政治家の都合のいい内容に差し替えられ、安倍に至っては10回もの強行採決を繰り返し、そこでようやくストップがかかった。気が付いた時には国民はたくさんのものを失っていた。愛国心を持たなければいけないということが法律として定められるなんて、「失われた10年」よりもヒドい。
(中略)
サッチャー政権はセックス・ピストルズが呼び寄せたという分析がある。同じことを経験するとは思わなかった。

僕はバブルにも小室哲哉にも、特に積極的関心を持ったことが無いので、細かい当時的前後関係とか実際に小室哲哉にどの程度"罪"があるのかとかは、よく分かりませんが。
挙げられている安室奈美恵の『CHASE THE CHANCE』は勿論覚えていますが('95.12月発売)、その歌詞にどれくらいアジテート力があったのかは、ちょっと疑問ですし。どちらかというとそういう直截的な歌詞を歌う安室奈美恵の、むしろ抑制的である意味静かな存在感の方が、印象に残っているというか。
ただ安室奈美恵個人はともかくとして、小室哲哉の作り出す音楽世界や歌詞にとてつもない上滑り感を感じていたのは確かで、それが余りにとてつもなさ過ぎて全く関心も危機感も抱かないでいたわけですが、あれをまともに受け取る層が実在したのなら、筆者が危惧告発するような因果・相関関係も、あったのかも知れない。・・・小室哲哉の"音"ではなくて"歌詞"か。考えたことも無かった。
ま、"例示"は例示でしかないので、同じく文章を書く者として、論文でもない限りそこらへんは余り厳しく、僕は追求しません(笑)。直観にが無ければ、示唆力があるのなら、それでいいとして先に進みます。
小室哲哉に対する民事訴訟とか人民裁判だとかいうなら、それはそうも行かないでしょうけど。(笑)

ここで問題とされているのは、一つは「長閑さに耐えられなかった人種」という問題。
より一般化するならば、耐えられな"い"人種の存在という、問題というか。
人は平和と安定を求めるけれど、実際にそれに耐えられる、それがもたらす余白を自力で満たすことの出来る人は、さほど割合として多くはない。増えては来ているかも知れないけど、まだ足りないらしい。"成熟社会"はまだ来ない。
出来ない人はどうするかというと、ことを起こす。起こしたがる。起きることを熱望する。その必然性を確信しようとする、確信させてくれるものを探し回る。
あらゆる「改革」や「ムーブメント」は、それぞれそれなりの根拠や必要性や有効性を主張・所有しているものなわけでしょうが、そもそも"ことを起こす"熱情という動因が無ければ、起きることは無いわけですよね。逆にそれさえあれば、"口実"や"手段"は、どうにでもいずれ見つけ出される
まあ他ならぬsnoozerもその一端を担っている"音楽雑誌"業界なども、そうして意識的無意識的に"ムーブメント"を濫造しながら、商売を続けているわけですが(笑)。音楽に飽きるというよりも「改革」に飽きて/信じられなくなって、人は音楽ジャーナリズムから離れて行くのではないか。それはともかく。(笑)

そうした"口実"探しに多くの場合貢献するのが、「作られた観念」による単純化と、それを「鵜呑みにする」後発世代の需要供給関係というか、癒着関係というか。単純な観念に基づいた、単純な行動。
そもそも観念は"作られる"時点で何か意図・バイアスがあって、それが論理必然的に孕む方向性が含まれているわけですが。そしてたいていは、そのように人は行動するというか、後発世代の行動は誘発されるというか。炎上商法は常に有効というか。(笑)
まあそこまで"仕組まれている"ケース"は、そんなに多くないように見えますが。時間差という問題もあるますし。でも結構悪意の"時限爆弾"は、きっちり爆発するものだなと。最近特に。
ここでもう一度、一般化した形で問題を立て直すと、「史観」みたいな問題があるかなと。
つまり言うところの「自虐史観」、戦前戦中の日本のありように対する全否定的な見方に対する、反発・異議というものを一つの大きな軸として、近年の日本人の一つの大きな傾向・思潮が形作られているというのはまあ、周知の事実でしょう。その主張や個別の事実認識については、僕も時に興味・賛同を示すことが無いわけではないです。ある時代の全てが間違っている・狂っている、なんてことはあり得ないし、ある見方が完全にタブー視無視されるのも、それはいいことではない是正されるべきである。ではある。
が、その後そうした立場が密やかに、広く浅く受け入れられた結果実際に起きていることは、今度は別の「自虐史観」、つまり"戦後民主主義"ないし"戦後の日本"に対する、過度の、人によっては全面的な否定、"自虐"、そうしたものではないかと思います。歴史を一方的に断じる態度からの決別、ではなく。ただの別ヴァージョン。
そしてどうもこれは、ただの偶発的な"歴史の皮肉"ではなく、一つの固定的なパターン、人間の、少なくとも日本人の"歴史"認識における、そのように見えてしまうんですが。人は特に直近の"歴史"については、そのようにしか反応出来ないらしいというか。
別な言い方をすると、歴史を歴史そのものとしての認識・興味対象とは出来ずに、自分の態度・行動の理由付けとして"利用"するという形でしか。まあ無理は無いと言えば無理は無いんですけどね。現状に大きな不満がある時に、その"原因"を過去に見出したくなる、見出して納得・安心したくなるというのは。実際原因が全く"無い"ということも、また無いわけでしょうし。
だから心情としては理解出来るけれど、粗雑で安易な態度であるのは確かなので、余り積極的にすべき行動ではないと、簡単に言ってしまうとそういうことになりますが。特に一国の政治や舵取りなどという、重要な問題においては。

で、この筆者の考えでは、小室哲哉はそうした(直近の)過去の否定・改変と、そこからの反転の主張を、"商売"という形でこれ以上は無いほど「積極的」に行ったと。その流れに、小泉と(第一次)安倍も乗ったと。そういう罪があると。
まあ繰り返しますが、"小室哲哉が悪い"のかどうかは、僕にはよく分かりません(笑)。そこまでの影響力があるのかということも含めて。
ただ何らか、そこらへんのモヤモヤグチャグチャした、余り品のよろしくない無意識の動きがあったのは、僕も感じるというか、この筆者の論を読んでなるほどそういう見方もあるか、あの当時の風景をそういう切り取り方も出来るかと、そう感じたというかある種の感銘を受けたと、そういう話です。
まあこの人もね、そこまで単純なことを言っているわけではないはずですが。あくまで一つの"象徴"として小室哲哉を使いつつ、こんな時代(2007)になってしまった悲しみと、時代認識を巡ってリアルタイムで感じていた苛立ちを、小室哲哉の音楽に対するこれはこれである意味独立した個人的嫌悪感(笑)をここぞとばかりにぶつける形で、文章にしてみたと、そういうことでしょう。音楽雑誌でなければ、そもそも書かれなかった文章ではあるでしょうし。


次はその"夢"は、「叶えるもの」ではなくて「見るものだ」という、主張。
順番間違ってません。(笑)


"右傾化"の根幹 ~七尾旅人

新作
911FANTASIA911FANTASIA
(2007/09/11)
七尾旅人
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発表時インタビューより(p.137)

9.11でファンタジー含有量がガーンと減った瞬間、日本で既に90年代半ばから明確な形で進行していた右傾化も、激しさを増した。
その中には勿論誠実な人間もいっぱい含んでいる。右傾化している連中のうち9割は素晴らしく頭がよくて誠実で、自分のこと以外にも気を配ろうとしている人間ね。1割は外国人差別をしたりして憂さを晴らすしょーもねえ感じで。
で、それにしても、根幹にはファンタジーの慢性的な枯渇っていうことがあると思う。まあ、無理矢理感もあるけど、自分はファンタジーの一言でこの作品を説明できるし、これからの世界への俺の懸念とか興味の鉾先っていうのは、そこに集中している。

"90年代半ば"というのは、奇しくも(?)上の三田コラムの"CHASE THE CHANCE"の'95年と一致してますが。そこらへんが相場なのか。僕は余り年代を意識したことが無かったので、何とも言えないですけど。
ちなみに凄く今更ですけど、所謂"9.11"2001年です。念の為(笑)。でもそろそろ忘れそうでしょ?(笑)
ここで言われている"右傾化"の問題、一見すると分かり難いかも知れませんが、実は凄く大事というか、鋭いことを言っていると思います。9割の良心的な人と1割の馬鹿
先に"1割"について言うと、"ネトウヨ"とはいうものの、そもそもどこまで"ウヨ"であることに比重がかかっているのか。僕がその類の人たちの具体的な活動(在特会等に至る)について知ったのは別に"右傾化"への関心の絡みではなくて、"フリーメイソン"やら"古代宇宙飛行士説"やらを中心とする様々な現代の「陰謀論」を機会あって色々見て行く中で、その一つとして「在日」「朝鮮人」の陰謀というものがあって、その陰謀を"信じる"人たちによる排斥的活動が、結果的に右翼・民族主義の文脈にも上手く重なったと、そういう印象なんですが。
だから彼らの本来のモチベーションは別に愛国心ではなくて、"陰謀"の犠牲者になりたくない、陰で陰謀を進めている奴らの思うがままになりたくない、馬鹿を見たくないという、あえて言えばごく一般的な、"陰謀論"者の心理。・・・と、同時に勿論、確かに日本人ではある彼らが見るからに上手く行かなくなりつつある自分の国を見て、その"原因""元凶"を発見したと思い、その除去に救国の希望を見出したのも嘘ではない訳でしょうから、そういう意味での事後的な「愛国」はあるんでしょうけどね。
とにかく基本的には陰謀思考なのであって、右か左かというよりも表か裏か明か陰かというあらかじめ定められた立ち位置の問題で、所詮陰謀思考であるからにはどこまで行ってもマイナー/非常識という限界はあって、それで"1割"にとどまるという。

問題はだからむしろ、"9割"の方で。七尾旅人というこの尖鋭的なシンガーソングライターも、「誠実」という言葉を使いながら実はそちらをこそ嘆いているというか、"懸念"を抱いているというか。・・・つまり「9割」だからこそ「良心的」だからこそ、ある意味スムーズに、右傾化が"激しさを増し"たわけで。
地獄への道は善意で敷き詰められている?いや、どちらかというと、一見微小・温和・穏健な"差異"の蓄積が、気が付くと大きな変化を生んでいるという、そういう事例か。それを"手法"として行う「陰謀」というものもありますけど、この場合は何というか、一種の社会的自然現象。それだけに、止めるのが難しい。
根本にあるのは、一つは勿論、"反動"でしょうね。リベラルなり戦後民主主義なり、あるいはポストモダン/価値相対主義的なもの、それらがつきものとして孕むある種の退廃や(一見しての)知的精神的怠惰への。それが例えば、七尾氏言うところの「自分のこと以外にも気を配ろう」という、一見すると"まとも"な、アンチ個人主義的な動きというわけ。ともかくかつての(リベラルという)"伝統への反抗"が、更に"反抗"を受けるという、こういう行ったり来たりは概ね常にあるものなので、それ自体は驚くに値しないと言えばそう。
そこに今日的"今回"的要因を見出すと言えば、「相互監視社会」的なものがあるかなと。情報化グローバル化、及び"ネット"化による。
何を言ってるかというと、例えば僕が初めて"2ちゃんねる"を見た時の感想は、何て保守的建前的、相互監視的空間なんだ、というものでした。"無法地帯""非道徳的"というような、世間的イメージとは裏腹に。
確かに"情報漏えい"的な意味ではそういう面はあるし、個別に"匿名をいいことに"無茶苦茶言う人はいないではない。しかし一方でそうした各種"吐露"があっというまに共有されてチェックされ、ある種の「相場」「市場」が形成されて整頓収納される、その範囲内での発言しかし難くなる、元々「自由(意思)」という前提があるだけに、その枠組みから逃れるのは相当に難しくなる。"自主"規制ゆえの規制の強さみたいな、よくある話でもありますが。
ちなみに「1割」の方の"暴論"は、そういう息苦しさを打破するという面があって、その瞬間には確かに快感はあります(笑)。朝鮮人が悪いんだと、言ってしまう快感というか(笑)。そういう意味でも、本来的には右でも左でもないと思うんですけど、ああいう人たちは。駄々をこねられればいいんで、その相手が共同体主義だろうと個人主義だろうと、それはどっちでもいい、単なる状況次第。別な言い方をすると、どういう社会を目指しているわけでもない。現状をひっくり返せれば何でもいい。
とにかく2ちゃんねるは一例ですが、情報共有の速度と確度が高くなると、どうしてもそういう思考の陳腐化というものは起きる。ある意味では"社会"は常にそれを目指すのかも知れないですけど。「学校教育」などというシステムを筆頭に。

"ネット化"ということに絡んでもう一つ言うと、特に"ブログ"以降、モバイル含めたネット上への"意見開陳"が加速度的に簡便化して行って、"デビュー"のハードルも年齢も低くなって行ったことで、「特別」な自己や個性や自意識が醸成されているわけでもない人がどんどん衆目にされされることが日常化して行くと、その為の振る舞いの"指針"としても、相互監視と陳腐化という現象は"効いて"来るわけで。
まあみなさん随分立派なことをおっしゃる。自分がその年齢の時を考えると、ほへーっという感じですが。「本当に思ってるの?それ」と思うことは、ままあります。ありますね(笑)。それ何が面白いの?というか。
中には本当に若くして成熟している人も、本当に頭の切れる人も、あるいはいい意味で「相互監視」に磨かれて、洗練した見解を持つに至った人もいるでしょう。まあいますしね、実際。「二十年前何々君が言っていたことが、最近ようやく分かった」的なことはままあります。そしてその「何々君」的な(若い)人の見解を、今はリアルタイムで読めて理解出来るというようなことが(笑)。勉強させてもらいます。
ただまあ、大部分は、単に陳腐なだけです。悪いけど。比べるとむしろ「芸能人のアホッター」的なものは、可愛く見えるくらいで。思ってることを言っているだけのものはね。ロンブー淳みたいに変に"何か"を言おうとしているものは、不快ですけど。無防備なだけの人が叩かれてるのは、可哀想ですね。
・・・で、何が言いたかったんだっけかな?どうも僕も結局、「相互監視」の網にからめ取られて、気が付くと動けなくなっていることはままありますね。それで本心を見失うというか。まままま。
総体的には、"洗練"されてないのが持ち味の人だと、一応自負はしているわけですけど。(笑)

とりあえず、七尾旅人氏の言い分に戻ると。

ファンタジーの供給が制度化され簡便になった分、今は何がファンタジーで何が幻覚で何が幻想か、限りなく不透明になった。
でも、それは時代の流れでしょうがない部分もある。
だって、今、大いなるファンタジーを語る者が現れたら、そいつは危険人物である可能性が非常に高い。多分、80パーセントぐらいの確率で危険人物ですよね。それは政治家かもしれないし、宗教家かもしれない。ちなみに、そいつらの供給する夢が、現状のポップ・カルチャーよりも甘く素敵だった場合、世界は終末へのカウントダウンですよ。だからこそ、今、ミュージシャンは頑張りどころ。

"大いなるファンタジー"を語る者が危険、という言い方も出来ますし。
またもう一つの視点としては、"ファンタジー"を(「政治」や「宗教」という)"現実"を使って、現実という舞台で実現しようとする動きが危険という、言い方も出来ると思います。
「画家になれなかったから政治家になったヒトラー」などという、古典的な例もありますが。
その"危険"性は、元がファンタジー的である分、妙な感情喚起力を持つことがままあるという危険が一つ。それから「現実」のダイナミズムに惑乱されて、本来の"ファンタジー"の土俵ならより厳しく問われて却下される程度のクオリティの「作品」でも、割りとあっさり通ってしまうことがこれまたままあるという危険もまた一つ。関連して言えば、"ファンタジー"耐性の低い、普段は無関心で免疫の無い人が慣れない刺激にわっと反応してしまう、しかも人数的にはより広範囲にという、そういう構造的危険も。
逆にファンタジー慣れしている人は、僕もそうかも知れませんが、まさかその程度のクオリティやセンスのものに人を動かす力があるとは思わずに、馬鹿にしている内に事態はどんどん進行するみたいな、そういう傾向も。前例というか。
とにかくファンタジーと現実の垣根が壊れること、あるいは本来ファンタジーが吸収すべきだった欲望や感情が吸収されずに、現実にあふれ出るような事態が危険であると、夢は見るものであって叶えるものではないと(笑)、それがまあ、七尾旅人氏の言うところ。
"叶える"というとあれですけど、「夢」を夢のまま行動化したら、それは俗称夢遊病という、立派な病気ですからね。そういう意味での、「垣根」。


どうもやっぱり、このスペースで語り切るには無理のある題材だったようですが、とにかく"ロック"という、気が付けば特殊なようでかなり堅固な(あえて言いますが)"リベラル"の橋頭保たるジャンルの人たちが、約7年前に考えていたこと、感じていた危機感(の一例)を、ここに記録してみましたと、そういう話でした。僕自身はもう、この時点ではこうしたものを読むのはやめていましたけど。リアルタイムで読んだら、何を感じたのか、感じなかったのか。
まあまた別の素材で、こういう話はしたいと思います。
民主主義や人権や価値観的寛容性というと、今のところは人類史的"不自然"を、どのように位置づけるのか、どのような可能性があるのか。人によっては、必要性が。(笑)
ロックが"改革"してしまった「ポップ」は、もう二度とロック"以前"には戻れないでしょうけど(だから"ロック"じゃなくて"ポップ"という言い方に、余り意味があるとは思わない)、リベラリズムの方はどうなのか。最も素朴な意味での。思想以前の感性として、どの程度定着しているのか定着可能なのか。(少なくともロックと同程度に。)


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テーマ:読書メモ
ジャンル:本・雑誌
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