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「理性」と「本能」パートⅡ : アニメ『ベイビーステップ2』第3話
2015年04月21日 (火) | 編集 |
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(2014/11/17)
勝木 光

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前回に引き続き。
またまた面白くて、書かずにいられない。(笑)


前回最後、"ガット直し"のまじない効果(?)により、米留学後の初勝利を収めた直後、祝福に来たマイク栄一郎との会話。

「ポイントの前にガットを直して深呼吸。あそこから良くなったねえ」
「はい。特に根拠は無いんですけど」
「君は転んだ時、本能的にガットを直すことに気付いたよね。これは几帳面な君が、積極的に出来る作業だったんだ。しかも、それを理性的にルーティンにして繰り返した。
積極的に出来る作業をルーティンにすれば、当然効果だって大きい。本能の絶妙な選択を、理性がいい方向に導いた結果だよ。
本能は勝つ為に最善の選択をしたんだ。自分を信じていいって、思えただろ?」
「はい!(ただ、必死だっただけなんだけど苦笑)」

短い会話ですが、物凄い情報量です。順番に、解説します。(笑)


1.「積極的」と「ルーティン」

まず「積極的」と「ルーティン」ですが、これは流れ的には一見すると、「積極的」が"本能"ターム、「ルーティン」が"理性"タームのように読めそうですが、実際にはどちらも"理性"タームの話ですね。
「積極的」というのは特に"価値"的概念で言っているのではなくて、要は「意識的」ということです。"目に見える""形がある"、そういう意味での、「積極的」。"なすがまま"でも"待ち"でもなくて、ということでもあるか。やろうとして出来る。
"本能"であるならばそれ自体はコントロール出来なくて、結果"待ち"にならざるを得ないので、つまりは"理性"タームたど、そういうわけですね。

前回の解説で「"理性と本能"は"意識と無意識"と言った方が汎用性が高い」と言ったのは、例えばこういうケースです。「理性」「積極」性も、要するに「意識」性の(有無の)問題と、まとめることが出来ると思います。
"几帳面"という言い方が微妙にノイズで、別に几帳面でなくても何らか"積極的"に出来る作業と関連付けられなければ、そもそもまじないとして使うことは出来ない("唱え"られない)わけですから、特段栄一郎の性格とは、ここは関係の無い話だと思います。強いて言えば"いちいちガットを直す"という、わずらわしいというかわざとらしいというか(笑)、それを気にしない"几帳面"さが、行為として相性が良かったと、そういうことは言えるかも知れませんが。

次に「ルーティン」、"理性的にルーティンにする"ですが、これはまじないのまじない性、"無根拠"性(↑会話)、あるいはわざとらしさ(笑)を承知しつつも、その効果に着目してあえて繰り返すと意志する、決める、その様子を「理性的」と言っているわけですね。"意識"性の駄目押しというか。
「ルーティン」自体は習慣ですから、本来どちらかというと「本能」的な事柄。ただ"何"を習慣化するかはこの場合「理性」(意識)が決めている。本能がたまたま見つけ出した行為を行為として対象化して(理性化して)、狙いを持って習慣化する、ルーティン化する。言ってみれば「本能」サイドに送り返したような形。だから上では"理性ターム"と言いましたが、理性による"本能"タームの開始でもあるわけか。・・・"ターン"と言った方が、状況的には合うかも知れませんが。


2.「本能を理性が導く」

この混合性・協働性は、そのまま次の行の「本能の絶妙な選択を、理性がいい方向に導いた」という言い方に繋がります。
・・・と、その前に、この人の言う「本能」の内容、あるいは「本能」という言い方で何を言っているのかについて少し検討したいんですが、前回における"本能"

君の本能は負け続ける内に、自信を失って行ったんだ。
そして、君の理性はそろそろ勝ちたくなり、勝ちを意識するようになったけれど、本能は自信を失ったまま回復しない。

は、要するに"感情"と言い換えて、特に支障の無いものだったと思います。その意味では分かり易い。
ところが今回の「本能」は、そのように受け身に"感じる"ことを越えて、"気付く"わけですね、「ガットを直すこと」に、なんならその"有効性"にまで。これは到底、単なる"感情"の領域を越えている。知性とまで言わなくても、少なくとも判断・認識の領域には踏み込んでいる。
ここらへんもまあ、"無意識的"という精神分析的概念を持ち込めば概ね解決することはするんですが、それでは余りに力ずくなので(笑)やめて。
作者はとにかく、理性"外"のこと(で人間の中に起きたこと)をまとめて「本能」と言っているわけですね。それが"感じ"だったり"気付き"だったりという形なのは、要するに結果的なもの。特に定義しているわけではない。根本には強固なないしは"常識"としての「理性」主義があるわけでしょうが。それも特段ポリシーというわけではない。あくまで常識・素朴。"アメリカ"的常識である可能性は、あるかも知れませんが。
とにかく「理性」-「本能」という"図式"が最初からあったわけではない。そういう意味で、用語法も結構無作為、無造作。日常語の延長。
まず理性、目に見えるもの操作出来るもので考える、素朴に。その後そこからこぼれるものそれで掬い切れないものを一つ一つ拾い上げて行って、その都度「理性」との関係性を/から、観察・考察して行く。それでも相変わらず"定義"しているわけではないんですが、しかしある程度まとまったものとしてその性格を考える、理性との関係性を一般化して行くモチベーション・圧は、やはり"コーチング"の必要性からでしょうか。圧をかけつつしかしあくまでコーチングのプラグマティズムの範囲に理論化は留まるというのが、この作品の風景の特徴か。(後(のち)には知りませんが)

話戻してそのように本能は("ガットを直すこと"に)"気付いて"、更にその"気付き"はその後に「選択」と言い直される。これはかなり、積極的な言い方ですよね。それこそ。(笑)
一応言っておくと、本能がやった(とされている)ことは、あくまで"気付き"です。それが「選択」であるというのは、理性、それも観察者解説者であるマックの理性が後付けで意味づけたことなので、この"積極的"な言い方がそのまま、「本能」が人格や主体的意志や知性を持っていると(作者が)言っていると、そういうことを意味しているわけではありません。"定義"しているわけでは。
もう一つ補助的な解説としては、ここで"絶妙"(な選択)と言われているのは、特定すれば例の「几帳面」という話のことだと思います。つまり"乱れているガットを綺麗に直す"という作業の「几帳面」性が、栄一郎自身の几帳面な性格とマッチしているという意味で。原理的には何でも良かったきっかけやまじないの、具体的な「選択」として絶妙だったと。
まあ最初からそういう意味で「几帳面」は使われていたと思いますが、文脈上、「積極的」というキーワードの説明・理解の経済の上では、"ノイズ"になってると、そう僕は言ったわけです。ただそれ自体としては、意味の無い言葉では無かったと。ここを読む(見る)と分かります。
なお実際には、"絶妙"だからこそ、"選択"されたんだと思いますけどね。その本能の持ち主(笑)である栄一郎の気質にあった行為だからこそ、"思わず"やった、出現した。不自然な作業なら無意識には出ないですから。そういう意味では、「絶妙な選択」なのは当たり前と言えば当たり前なんだと思います。ただその後の落ち着き効果を鑑みた時に、よくぞあの場面でその行為を出現させたという、"テニス"的な功績(笑)を讃えて、「絶妙な選択」とも言いたくなるという。

と、ここまでは前置き(笑)なんですが。「本能」問題そのものについては、最後、次項でもう一度。
ここの本題は、確認しますが「本能の選択を理性が導く」ということ。そういう捉え方。
前回、作中この場面で語られるアメリカ由来らしきコーチング理論が、「理性」と「本能」を実に虚心に緩く並置している、そのことのメリットが大きい、"勝てる"思考だということを書きました。
今回はそこから更に踏み込んで、その並置された理性と本能をより積極的かつ一般論的に、関係を整理しようとしている、そこがこの箇所だとそう言えると思います。
・・・ただしそう意義付けることは可能だとしても、そこまで"段階"的に描かれている感じはしないんですけどね。あくまでその局面その局面の理性と本能が語られているだけで、それが結果的に基礎と発展的にも見えるという。ここらへん(の"意図"の在不在について)は多分、もうちょっと話を追って行くと、分かるのかも知れません。
とにかく言っていることは、「本能」が先、「理性」はその後、ということですね。思いっ切り簡単に言うと。上下ということよりも、何よりも時間的に。
更に言うとこれは、理論的あるいは原理的にそうだ、というよりも、"対処"として"戦略"として、実用的にそうする、そうした方がいいという、「構え」の話でもあると思います。
ミニマムには、本能がたまたま見つけた(しっくり来る)習慣や癖を、理性が有効に固定化して活用するということ。
ただ言ってもコーチング理論の話、あるいは専門のコーチがわざわざ語っている場面なわけですから、それ以上の含みがあって、それは"本能には常にこのように対応すべき"あるいは"本能と理性の関係は常にこのようであるべき"と、そう言っていると理解して、大きな間違いは無いだろうと。
そういう"サイクル"を積極的に構築して行くこと、"生産者"(本能)と"消費者"(理性ないし自分)の関係を確立することが、競技者としての安定的加速的成長の為の秘訣の一つであると。

本能は"発"する。それは止められない。予測も出来ない。
理性はそれと闘ったり増して否定したりするのではなく、その生産物を効率化したり整理したりする、理性が得意とすることを粛々とやるべきであると。一般社会的にはともかく(笑)、競技選手としてはその方がパワフルだよと、まあそういう話ではあるでしょう。
前回の"負け癖"の例で見たように、理性だけが独走しても、本能が伴ってないとどうにもならないわけで。そして本能は予測も支配も出来ない以上、本能の"発する"のに合わせて理性を行使した方が、受け身なようで結局は効率的という。ないしはそのように2つが協働した時に、最高の教育・成長効果は出るというか。


3."自分"を信じる

最後、さらっとまた面白いことを言っているように思いますが。繰り返すと

本能は勝つ為に最善の選択をしたんだ。自分を信じていいって、思えただろ?

の箇所。
自分を信じる理由は、本能が最善の選択をした(する)ことにあると?

まずこの場合の"自分"は、明らかに「理性」ではないですね。「自分の理性」では。
じゃあ「本能」なのかというと、多分そこまで単純ではない。本能"寄り"ではあるとしても。
あえて言えば「"本能"という不確定要素も含めた、全体としての自分の結果的問題解決能力、正解・解答到達能力」、それを信じるという、そういう話か。そのシステムを、"自分"と言うというか。

その"信じる"ということについては前回

どういう形であれまじないであれ何であれ、結果として「自信」を持つこと、myselfをbelieve inすること

と、読解をしました。
その理解からすると、上の「能力」という把握の仕方だとまだ「理性」的過ぎるかも知れなくて、むしろ、"運命""星"あるいは"器"とでも言ってしまった方が、ニュアンス的には正しいかも。
そのレベルで"信じる"ことが出来ないと、いずれまたごちゃごちゃと無益な不信に囚われることになるというか。

まあ人一倍理性的な栄一郎には、厳しい要求かも知れませんが、だからこそ面白いとも言える。
アドバイスそのものは常に丸呑みに近く素直に受け取る栄一郎の、消化の苦闘の過程が、"信じる"こと(や"本能")の意味をより明確に照らし出すというか。


まあ面白いですね。
今後も目が離せないというか、僕の理解も逐次修正・調整の必要が出て来るかも知れないというか。
見守りたいと思います。
やはり"本能"は結構人格化されて語られている気はするんですが、しかしそれがさほど意図的なものにも見えないという。明快だけど非体系的というか。

そこらへん含めて、作者勝木光さんがどうしてこのような描き方をする、このようなことを語るのかについても、思うところがあったんですが、それはまた後日ないし追い追い。過去作も読んでみようかなあとも、考えてますし。


(その後の話)


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