2015年05月08日 (金) | 編集 |
パートI、パートⅡ。
もう単行本買った方が早いような気がしてきましたが(笑)、この話題が続く限り、追って行こうかなと。
(NHK公式)、(ベイビーステップWiki)
第4話より
第3話ではどちらかというと理性を主人公として、いかに理性を利かせるか、"本能を理性が導く"かといった、言わば「作為」が中心の話でしたが、ただそれはあくまで理性の言い分というか自作自演というか、そういう話に過ぎなくて、本能は本能で、あえて理性が"作為"しなくても常に物事を(良い方向に)進めようと機能・学習をし続けているわけですね。言われんでも分かっとるわいというか。(笑)
それこそ理性は、少なくとも眠っている間はお休み(笑)しているわけですが、本能はその間も黙々と、24時間365日、働き続けているわけです。・・・起きている間すら、理性はしばしば、生存とは関係無いことやむしろ害になるようなことにすら、ちょいちょい気を取られてフラフラしているわけで。(笑)
たまに頑張ったからって、威張るんじゃねえぞ。そりゃ確かにこちとら地味で変わり映えしないし、一方そちらは時々とんでもない近道・抜け道を見つけては来るけれど。
まあぶっちゃけ本能だけで生きることはとりあえず可能でしょうが、理性だけということはあり得ないのでね。そこらへんは自明。
別に敵対しているわけではないですけどね。
要は本能は理性の作為があるならあるなりに、無いなら無いなりに、いつもの作動原理を効かせているだけということ。
そういう意味では"自分"ではあるけれどある種独立した存在ではあって、"頼む"対象であるというか。
自分の中のもう一人の自分。自分が飼っているあるいは仲良くしている、しかしそうそう思うようにはなってくれない自分の中の動物。
あるいは大まかな設定や入力は可能だけど、"操作"までは不可能なマシン。
ちなみにその"操作"を、極限まで"可能"に近付けようというのが、古今東西「神秘主義」などと総称されている、各種学習システムの共通目標であるように見えますね。だから現代でもスポーツや格闘技を追求する人は、しばしば意識してorしないで、そういう体系に近付いて行くというか。
あるいは噛み合わせるのが、上手な人と下手な人がいる。
それでも言えるのは第一歩はまず、本能の独立機能性を、認識・許容することだと思いますが。
否認や喧嘩をしている内は、ぐるぐる同じところを回るだけ。
制御の努力自体は必須不可避だとは思いますが、"天才"的な人というのは制御の痕跡が視認出来ないくらいに、恐ろしくスムーズに理性を本能に沿わせることの出来る人かなと。それは所謂"本能"的"感覚"的に見える天才パターンのみならず、本能が完璧にフィットして存在が透明化するので、逆に100%知的に見えたりする場合も。
第5話より
"打"って覚えるのは、言わば本能に直接的に学習させるルート。ただその時間が無いので("本能"は地道なので(笑))"書"くという理性を介在させるルートを活用することで、スピードを速める"近道"を狙うという、そういう場面ですね。
ただしこれはこの回では解答は示されずに、次回への課題として持ち越しされます。
この時点で僕なりに解釈すると、あるいは何か言うとすれば、"気付"くこと、意識化すること理性化すること、更に言えば言語化することというのは、それ自体既に"過剰"であり"不自然"であり、"歪み"や無理を内包しているものだということかな?
・・・つまり生きるだけだったら、本能だけでいいわけで。
ただそれはより良く(必ずしも別に道徳的な意味ではない)生きようとする人間にとっては、ほとんど不可避な"過剰"であり"不自然"であり"歪み"であるわけで、そういう意味では人間自体がそういう存在であると、大きく言えばそういう話になるかも。(笑)
ここではとりあえず、ある学習段階での、"過剰"という話でしょうが。この後コーチは、せっかくサーブのコツを掴み始めて強いサーブを打てるようになった主人公の試合を、あえて中断させます。体を壊すという理由で。
恐らくは次回、"気付き"についてはもう少し解説があることだろうと予想しますが。(笑)
ではまた来週以降。
もう単行本買った方が早いような気がしてきましたが(笑)、この話題が続く限り、追って行こうかなと。
(NHK公式)、(ベイビーステップWiki)
第4話より
理性と本能の、更なる動的関係。よーし、段々分かって来たぞ。
ポイント間でひたすら理性的に考えていることを、本能はちゃんと聴いてくれているんだ。
プレー中、体を動かす時の為に。
頼むぞ、本能!
第3話ではどちらかというと理性を主人公として、いかに理性を利かせるか、"本能を理性が導く"かといった、言わば「作為」が中心の話でしたが、ただそれはあくまで理性の言い分というか自作自演というか、そういう話に過ぎなくて、本能は本能で、あえて理性が"作為"しなくても常に物事を(良い方向に)進めようと機能・学習をし続けているわけですね。言われんでも分かっとるわいというか。(笑)
それこそ理性は、少なくとも眠っている間はお休み(笑)しているわけですが、本能はその間も黙々と、24時間365日、働き続けているわけです。・・・起きている間すら、理性はしばしば、生存とは関係無いことやむしろ害になるようなことにすら、ちょいちょい気を取られてフラフラしているわけで。(笑)
たまに頑張ったからって、威張るんじゃねえぞ。そりゃ確かにこちとら地味で変わり映えしないし、一方そちらは時々とんでもない近道・抜け道を見つけては来るけれど。
まあぶっちゃけ本能だけで生きることはとりあえず可能でしょうが、理性だけということはあり得ないのでね。そこらへんは自明。
別に敵対しているわけではないですけどね。
要は本能は理性の作為があるならあるなりに、無いなら無いなりに、いつもの作動原理を効かせているだけということ。
そういう意味では"自分"ではあるけれどある種独立した存在ではあって、"頼む"対象であるというか。
自分の中のもう一人の自分。自分が飼っているあるいは仲良くしている、しかしそうそう思うようにはなってくれない自分の中の動物。
あるいは大まかな設定や入力は可能だけど、"操作"までは不可能なマシン。
ちなみにその"操作"を、極限まで"可能"に近付けようというのが、古今東西「神秘主義」などと総称されている、各種学習システムの共通目標であるように見えますね。だから現代でもスポーツや格闘技を追求する人は、しばしば意識してorしないで、そういう体系に近付いて行くというか。
そういう関係であるだけに、噛み合ったり噛み合わなかったり、上手く行ったり行かなかったりはするわけですね。(笑)驚くほど上手く、理性と本能が噛み合った。
あんな状態にもう一度なれと言われても、難しいくらいに。
あるいは噛み合わせるのが、上手な人と下手な人がいる。
それでも言えるのは第一歩はまず、本能の独立機能性を、認識・許容することだと思いますが。
否認や喧嘩をしている内は、ぐるぐる同じところを回るだけ。
制御の努力自体は必須不可避だとは思いますが、"天才"的な人というのは制御の痕跡が視認出来ないくらいに、恐ろしくスムーズに理性を本能に沿わせることの出来る人かなと。それは所謂"本能"的"感覚"的に見える天才パターンのみならず、本能が完璧にフィットして存在が透明化するので、逆に100%知的に見えたりする場合も。
第5話より
これはビッグサーバーとの試合中に、テニスで強くなる組み立ての上で、自分なりにでも強いサーブが不可欠性であることに気付いて、試合中に練習を始めたあるゲームとゲーム間のインターバルにおける、主人公の独白。ちょっとずつだけど、良くなってる。
もっと打ちたかったけど仕方ない。
その分今のをしっかりノートに書いて、理性に覚え込ませる。
少しでも早く本能で動けるように。
"打"って覚えるのは、言わば本能に直接的に学習させるルート。ただその時間が無いので("本能"は地道なので(笑))"書"くという理性を介在させるルートを活用することで、スピードを速める"近道"を狙うという、そういう場面ですね。
上の場面より前にあった、主人公についている二人のコーチの会話ですが。「おいおい、サーブ練習でこのゲームを捨てるつもりか?」
「勝てる可能性を考えたら、こうするしかないってことだろうな」
「確かにそこに気付いて欲しかったが、気付き過ぎ、も、また困るんだよな」
ただしこれはこの回では解答は示されずに、次回への課題として持ち越しされます。
この時点で僕なりに解釈すると、あるいは何か言うとすれば、"気付"くこと、意識化すること理性化すること、更に言えば言語化することというのは、それ自体既に"過剰"であり"不自然"であり、"歪み"や無理を内包しているものだということかな?
・・・つまり生きるだけだったら、本能だけでいいわけで。
ただそれはより良く(必ずしも別に道徳的な意味ではない)生きようとする人間にとっては、ほとんど不可避な"過剰"であり"不自然"であり"歪み"であるわけで、そういう意味では人間自体がそういう存在であると、大きく言えばそういう話になるかも。(笑)
ここではとりあえず、ある学習段階での、"過剰"という話でしょうが。この後コーチは、せっかくサーブのコツを掴み始めて強いサーブを打てるようになった主人公の試合を、あえて中断させます。体を壊すという理由で。
恐らくは次回、"気付き"についてはもう少し解説があることだろうと予想しますが。(笑)
ではまた来週以降。
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