まあ実際、あんまり本も読んでなかった気がしますし。
お嘆きはもっとも(笑)ではありますが。こうした企業の節税ないし租税回避のスキームを考案するために、極めて優秀な頭脳を誇る弁護士や会計士ほかの専門家が驚くほどの多人数で従事している。(中略)
とびきりの頭脳がこのような非生産的活動に使われ、結果として、世の中はむしろ悪い方向に進んでいる。嘆かわしきことである。
(p.150)
ただいつの世もだいたい、頭のいい人というのは自分の頭の良さがより効率的に発揮出来るジャンルを、正にその"頭の良さ"で探り出して集中して行くものなわけでね。それが現代では、金融・財務等のジャンルであることが多いという、それだけと言えばそれだけの話かなという。
言ってみれば運動能力の高い人が、各種スポーツというそれこそ「非生産的」の極み(笑)なジャンルでその才能を発揮するのと、基本的には同じことというか。頭脳スポーツ。
僕みたいにちょっと"鈍い"ところがあると(笑)、あえて勝算や効率を無視して、興味優先で変なジャンルにも突っ込んで行き易いんですけどね。
・・・逆に頭の良さに自信が無いから、駄目で元々で成功の見込みのあやふやなジャンルに向かうのではないかと、そう自分を疑う時もあります(笑)。どのみち「確実に成功」出来そうなところが無いから、駄目ついでに遊んでみようという。
まあ結果楽しいからいいんですけど。(笑)
かの孫子(孫武)の講義風景についての描写。講義は、平明でありながら難解、難解でありながら平明でした。両者のあいだにあるのは、自身しか産みだしえない発想、あるいは独特の応用力なのではありますまいか。
(p.56)
「平明でありながら難解」「難解でありながら平明」という事態が、どういう時に起きるか。
一言で言えば、直観的な思考というか、直観のレベルまできちんと引き下ろした思考・理論・説明ということかなと。
"引き下ろし"てあるので、端的であり直接的であり"平明"なんですが、一方で独創的で定型的な説明の文脈に沿わないので、"難解"でもあるという。
ちょっと分かり難いですかね。孫先生は、兵は詭道である、とくりかえしおっしゃっています。詭とは、いつわることであり、だますことです。(中略)
国と国とが戦うかぎり、死者はでるのです。(中略)先生は戦いに到るまでを重視なさっています。そこにすでに虚と実があるとすれば、兵事以前の日常に虚と実があることになり、誠実さに満ちた生きかたはないのであり、もしもそうみせる者がいれば、その者にはかならず虚妄があるとおもわれます」
(p.61)
"兵は詭道"というのは"孫子の兵法"の決まり文句なわけですが、なんか身も蓋も無いというのと、中国の大思想らしく全体的には「道徳」的臭いを濃厚に漂わせているのに、こんな結論でいいのかなと、前々から少し違和感は感じていたんですよね。
この解説によると、要は戦場以外の"日常"や世界そのものが「虚実」で構成されているのであって、"詭道"としての兵法というのはその忠実な、偽善欺瞞抜きの反映である、そういう思想的な文脈だと、そういうことのよう。
むしろ"真っ当"なアプローチであるというか、天理の展開であるというか。
"哲学"や"道徳"の排除としての「マキャベリズム」とは、一見似てるようで違うというか。やってることは騙しでも、その根底には孫子なりの道徳的態度があると、少なくともそういう主張。
・・・やっぱり分かり難いか。(笑)
アニメですが。そもそも、自分で処理し切れなくなった感情は、自分で処理しようとしないことだ。
お前は自分一人なら感情に流されない。その感情は相手によって生まれてるんだから、相手を利用すべきだろう。
(24話)
かつてメンタルコントロールに苦しんでいた国内ジュニア最強の難波江優に対して、そのコーチがかけた言葉。
面白いですね。"感情"というものの扱いに関する、非常に面白い見方というか。
どちらかというと他人にいちいちぶつけない、自分なりに処理するのが良しとされることの多い"感情"ですが、"自分"でないものは"自分"でやらなくていいんだ、他人由来のものは他人でいいんだ、カエサルの物はカエサルに!という。(少し違う)
ある程度"器"としての自分の範囲を見切った見方というか。入らないものは入らない。
この場合の前提としては、「自分由来のものなら自分で処理出来る」(流されない)という、難波江のそれまでの努力・達成があるわけではあるんですが。やたら垂れ流してるわけではないという。
・・・女の子でたまにいますよね、絶妙にかんしゃくを起こして目の前の相手に感情をぶつけて、すっきりと処理してしまうコ。
ぶつけられた方も割りと納得して、むしろ"可愛い"と感じてしまうような。(笑)
"耐え"て"抱え込んだ"からと言って、けなげだと高評価を得られるわけでは必ずしもない。関係性の問題はちゃんと関係性の中で、処理すべきというか。
ファイ「同じだけど同じじゃないかなあ。シャオラン(小狼)君の国にいた二人とは、まったく別の人生をここで歩んでるんだから」
ファイ「でも言うなれば、『根元』は同じ、かな」
黒鋼「根元?」
ファイ「命のおおもと。性質とか、心とか」
黒鋼「『魂』ってことか」
NHKでやっていた『ツバサ・クロニクル』のアニメ・・・を見ていいと思ってでもよく分からない部分も多かったので読んでみた原作漫画の一節。次元の魔女「その子はあなたにとって、なに?」
シャオラン「幼なじみで・・・・今いる国のお姫様で・・・・。俺の・・・・俺の大切な人です」
次元の魔女「・・・・そう。けれどモコナを受け取るなら、その関係はなくなるわ。その子の記憶をすべて取り戻せたとしても、その子の中にあなたに関する過去の記憶だけは、決して戻らない。それがあなたの対価」
次元の魔女「それでも?」
だいぶ前のメモで、ちょっと巻数とかページとかは分かりません。
(ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-のメインキャラクター)(NHKアニメワールド公式)
状況としては、"サクラ"という女の子("その子")の失われた記憶のかけら("ツバサ")の回収の為に各パラレルワールドを旅するシャオラン・ファイ・黒鋼たち主人公一行が、その行く先々で同じ人物の様々に変化(へんげ)した姿に出会って戸惑っているという、そういう光景、設定です。
一応説明はしますが、見た人じゃないと実際のニュアンスはよく分からないかな。(笑)
テーマは「記憶」と「人格」と「魂」。
「記憶」が違っても、それは同じ人なのか。(後段)
違う「人格」として表れているその人たちは、違う人なのかそれともやっぱり同じ人(「魂」)なのか。(前段)
この作品が活写しようとしたのは、同じ人でも状況や人生・記憶が違えば違う人(たち)のように現れ得るということと、同時に"違う"からこそ逆に、それらに共通する"根"(元)、性質のようなものが、よりピンポイントで浮き彫りになり得るという、そういう情景だったと思います。・・・"たまたま"ある状況で人生を歩んだ、"一人"の"ある人"を見る/付き合うよりも。僕らの実際の人生がそうであるように。
別な言い方をすると、目の前に現れているある一つの全体としてのその人の中で、"根"の部分と"枝葉"の部分、「必然」の部分と「偶然」の部分があるということ。
シャオランが次元の魔女に験されているのは、君はサクラの必然を愛したのか偶然を愛したのか、自分(シャオラン)についての記憶という特定の断片、重大ではあるが本質的には一部でしかない"偶然"が欠落することになるのが分かっていても、彼女は"大切"な人であり続けるのかその為の旅を君は続けられるのかということ。
・・・ここではパラレルワールドの旅という、いかにも突飛な状況の話にはなっているわけですが、現実にもこういう葛藤は、そうそう滅多には無いですが可能性としてはあり得るんですよね。
つまり親しい人の「記憶喪失」や「痴呆」、あるいは「多重人格」の発症というような状況では。
・自分についての記憶を失っているその人は、自分の知っている同じ人なのか、自分はその人に
変わらず感情移入が出来るのか。
・(記憶が違うことによって)違う人格として表れて、違う反応を示すその人を、自分は同じ人だと
見られるのか感じられるのか。
僕なりに結論を言うと、それは"変化"前のその人との、関係性次第だと思います。
つまりいかに「必然」のレベルで関係性を構築していたか、その人の「根」に近い部分に感情移入出来ていたか。
雑多な「偶然」頼みの浅い関係であったなら、"変化"の影響をまともに喰らって、関係の継続や再構築は難しくなるでしょう。(「痴呆」の場合は、社会的責務として継続せざるを得ない場合が多いでしょうが)
仮に「必然」的な、"魂"への好感によって結ばれていた関係ではあっても、人格の全体的構成の変化によって様々な「偶然」、その人の知らなかった面や見慣れない現れを次々と見せられるのは、かなりきついことではあると思います。
その"嵐"を乗り越えれば、変化以前よりも格段に絞り込まれた形でその人の「必然」を見出すことが出来て、同時に自分のその人への好意自体の「必然」性も検証・確定出来るかもしれないけですけど。
やっぱ好っきゃねん?(笑)
今回は以上です。